待っている伸
Brand-New Flower
#3
ブランニュー・フラワー



 翌日の朝はまた、雨が心配される天気だと予報された通り、どんよりとした雲が空一面を被っていた。伸にはまるで己の状態をそのまま映したような、灰色に塞がれた景色はたまらなく不快だった。
 纏まらない考えに行き詰まる不快。
『結局何も解らなかった、僕は充分子供だから』
 不快な世界、不快な自分を窓の外に見ている授業中。とてもじゃないが、思想家の誰がどうしたなんて倫理の講議は、まともに受ける気にはならなかった。
『知りたがって解らないんじゃ、どうしょうもない…』
 中世以前はともかく、人はそれぞれに違った存在なのだから、違う考え方を理解する努力は確かに必要だと思う。誰が何を考えても良い、必ずしも模範的な思想でなくとも、認め合う人間が多く集ればひとつの、意味のある勢力になって行くだろう。それが自由な国の法則である。勝てば官軍、赤信号みんなで渡れば何とやら、と言うように。
 けれど伸の持つ疑問について、今のところ誰も答えてはくれなかった。多数が正しいのではない、正しいから多数になるとは言えても、そもそも誰がその正しさを判断するのか。宗教のある国なら神や仏に委ねられるが、つまり最初から、善悪は微妙な判断でしかないと思うからだ。
 人はそれぞれ違うのだから、人に拠って正しさも違う筈なのだ。もしこの世に『孤独な正しさ』と言うものが存在したら、倫理なんて授業は全くナンセンスだろう。必ずこうとは決まっていない思想を、正しさの名目で束ねても、それが本当の正しさにはなる訳ではないだろう。真実は常にその人の中だけに存在し続ける。人間の社会にはそんな、不公平さが常にあるのではないか。
『私は悪くないって、言った』
 だけれども。人はひとりでは生きられないことも知っているから。
「おいっ!」
 取り留めない考え事をしている内に、伸は幾度か呼ばれていたらしい。いつの間にか退屈な授業は終わり、机のすぐ横には秀が立っていた。よくある日常的な光景、のようで彼の表情は何処か妙な様子だ。
「ああ…、秀…」
 朝から調子の悪そうな伸を見れば、彼は当然声を掛けるだろうけれど、
「知らなかったぞっ!、伸はあいつと付き合ってたのか!?」
 そう言えば、その辺りの経緯はまだ話していなかった。敢えて話す程の進展もない内に、妙な場面に出会してしまったので。
「ううん…。ちょっと話したことがあるだけ」
 伸が素直にそう返すと、隠し事をしていた訳ではないと知って、秀も正直な助言を語り始めた。
「フー、そんならいいんだけどよ。なあ、昨日の事だったら、気にしなくっていいと思うぜ?。伸の言ったことが正しいと思うし、もしそれであいつが怒ってたって、伸が泣いたり、悩んだりすることなんかねーんだ!」
「うん…」
 正しかったんだろうか?、と、先程の続きのように考えてしまう伸。友人の励ましはいつも嬉しい、いつも有り難いけれど、今は何処か腑に落ちないでいる。
「あの後当麻から聞いたんだけどよ、あいつったら今まで最高十股くらい掛けてたんだって。それでしょっ中トラブってんのに、前から全然変わんねぇんだと。当麻も理解できねぇって呆れてっぞ」
 続けて秀はそう話した。
『そりゃあーゆう人だから、周りが放っとかないんだと思うけど』
 と、伸は心の中でそう答えていた。秀がこんな風に、征士を悪し様に言うのは理解できる。当麻の見解をほぼ全面的に受けているだけで、本当の征士を知っている訳ではないのだから。
 少々乱暴なところはあっても、秀は情の厚い人間だ。本人の良い所を知っているなら、こんな言い方はしないと伸は知っている。だから秀には反論しないでいる。まだ秀にも、自分にも未知の人の話だった。
「見た目はともかく、中身は最低な野郎だな」
『見方によって違うんじゃないかな…』
 彼の人に出会って一週間と少し。現時点では、意見は平行線を辿るばかりのようだ。
 ところがそこで、
「それでよ、伸。あれから面白かったんだぜ!」
 それまで腹立たしい様子で話していた秀が、突然ニカッと笑い出した。
「ん?、何が」
「中庭のとこにどっかの先生が来てよ、『何騒いでんだ!』って怒鳴り込んで来たんだ。そしたら喧嘩してた元カノ達がタッグ組んで、あーだこーだって先生にタレ込んでよー!。後で伊達征士、みんなの前ですげー説教されてんの!」
『…そんなこと…』
 無論、野次馬達には最高の場面だったかも知れないが、
「そんで見せしめだか何だか、『一週間ひとりで道場掃除しろ』って言われてた!。ギャハハ、自業自得だよな」
 反論できなかったとすれば、孤立無援の彼は可哀想ではないか?。
 様々な良い条件を備え、一見あらゆる得をしているような人物に見えても、華やかな世界に生きる人にはそれなりの、利益も不利益もある筈だから。
 伸は改めて思う。やはり、何も知らずにあんな事を言うべきではなかったと。ただいきなり強烈な修羅場を目にして、驚いていただけなのだ。己の人生経験が少なかったから傷付いた。涙が出たのは、未熟な自分についての悲しみだったと今は思う。
 最初に会った時から、大勢に非難されるような人ではないと、知っていたのに悪いことをしてしまった。考えが至らない内に出てしまったと、後から言葉を訂正する事はできないけれど。
 せめて、逃げてしまってごめんなさいと、一言だけでも伝えたい。
 そのくらいの事しかできないとしても、そう、自分から動かなくては、彼も己も救われないと伸は思った。そんな考えに至った時、伸はふと秀の話の一部を思い出して尋ねていた。
「…道場って、何のこと?」
「ああ、剣道部員なんだってよ。イメージじゃねぇなぁ」
「・・・・・・・・」
 聞かなければ判らないものだ。確かに秀の言う通り、伸にもイメージできるものではなかった。あの日本人とも思えない外見からは…。



 夜九時を回っていた。大学の部活動もそろそろ全てが解散になる頃、征士はひとり、誰も居ない格技棟の道場に残って雑巾掛けを始めていた。節約の為エアコンのスイッチは既に切られていた。あまりのんびりしていると、風邪を引く寒さに冷え込みそうな板張りの空間。せめて彼を取り巻く状況が明るかったなら、そこまで苦痛には感じなかっただろうが。
 征士は今、非常に珍しく落ち込んでいた。元より何でも良い方に考える性格は、ポジティブとも楽天的とも評されるものだった。が、確かに現状は悲惨極まりない。罰を与えられたことよりも、己の周囲から人が居なくなったのが何より厳しかった。昨日まで味方だったふたりには裏切られ、気の優しそうな少年には泣かれる始末だ。どうして良いか判らなくなっていた。
 加えて以前、「愛情とは嗜好から生まれるものだ」と当麻が言って、征士は酷く反発したことがあった。それがこうなる切っ掛けとは言えないが、征士は何事も狭量は良くないと示す為に、少々意地になって己のやり方を貫こうとした節もあった。「無節操」だと当麻は表現したが、その結末がこれでは、彼には増々呆れられると想像が付く。もう反論できないと思えば惨めだった。
 同じ学部に同じ年で、偶然似たような目立つ個性の人間に出会った。意見を交わした上で、彼も完璧ではないことを知り、己の思想も間違っていないと今も信じている。信じてはいるが、良心が理論に負けた現実は悔し過ぎた。
 当麻がその場面を見ていたことを思えば尚更だった。
 そう、彼の唱える理屈を覆したかった。
 征士は無意識に奥歯を噛み締めていた。今更だが、失敗したのはやり方の問題だったのかも知れない、と思う。意思を表現する手段は他にもあった筈だが、その時既に、周囲に取り巻く人間が多数居て、安易にそれを対象にしたのが間違いだったようだ。但しそう話しても、今の当麻には言い訳にしか聞こえないだろう。彼の考えが変わることはないだろう。口惜しいが後の祭り。
 何故こだわっていたかと言えば、彼は唯一友達と呼べる存在だった故…。
 その時、征士の極低い視界の中に、床を拭く手の先に突然誰かの足が現れた。近付く足音は耳にしなかった筈だが、考え事をしていた最中では、正確にそうだとも言えなかった。いつからそこに居るのか、顔を上げてその人物を確かめると、昨日、兎のように逃げて行った少年が立っていた。今日はもう、特に怯えたような様子ではなかったけれど。
 そして、
「これは何の胴衣だ?」
 征士はその袴の裾を持って、挨拶代わりに他愛無い言葉を掛けた。確かに征士のよく知る胴衣とは、多少造りの違うもののようだった。伸は『道場』と言う場所に、平服で立ち入るのは良くないと考え、わざわざ持参してここに来たのだった。
「…槍の胴衣だけど」
 と、伸は一言だけ答えたが、
「そうか。礼儀正しいのは結構」
 諄く説明されなくとも征士には、その身なりの理由が汲み取れたらしい。それは少なくとも彼等が、武道に対して真面目であることを示していた。そして伸に取っては、征士と言う人の基礎をひとつ理解できたような、今はとても大切な時間と感じられた。
「・・・・・・・・」
「それで、何か言いたいことがあるんじゃないのか?」
 しかし、伸が新しい展開に感動しているのに対して、征士は恐々とした心情で尋ねていた。以前の約束については、色好い返事はまず期待しないとしても、更に落ち込むような話をされてはたまらなかった。黙って考えている、或いは様子を見ているような伸の沈黙は、今の征士には酷く重い空気を感じさせていた。
 未だ汚れの少ない魂に、悪しき刻印を押したような後ろめたさがある。極短い時間を切り取って見ただけの者には、まず悪印象と取られて然りだった。
 ところが、
「…おにぎり」
 伸が『言いたいこと』として選んだのはそれだった。彼は背中に隠していた、家から携えて来た小さな紙袋を持ち上げて、征士の目の前に下げて見せた。恐らくその理由はお解りだろう、秀の毎日の行動を見て思い付いた、恋愛に関する行動と思われることなのだ。まあ、そこまで深読みはしてもらえなかったけれど。
「哀れんでくれるのか?」
 と征士は些か驚きながら返した。
「多分、あなた誤解されてると思ったから」
 そして驚きは、安堵の溜息に変わっていた。誰もが見たままを理解する訳ではない、大学生に比べれば幼い思考で生きている伸にさえ、自分なりの真実を探そうとする意思があると知って、途端に肩の力が抜けた征士だった。
 否、純粋であるからこそ解るのかも知れない。自由に生きる生命には、それぞれの自由な真実があるのだと。でなければ、何処へ行っても目立ってしまう人間など、やっていられなかった。
「…意外と、君はよく見ているのだな」
 征士はだから、理解を示してくれた伸を誉めようと、彼の手を取ったのだが。
 何故か伸は身動きひとつせずに黙っていた。嬉しいとも不服だとも感じられない、不思議な表情でただ征士を見ている伸。またそうして黙って居られると、征士は最初に会った日のように、自ら何かを言わなくては、と言う気分になって行った。
「・・・・・・・・」
 正にそれが目的だったとは、今の段階では解りようもなかった。伸はただ、征士にもっと多くのことを話して欲しがっている。そんな意思表示だったのだ。
『僕は何もしてないけど、何も言わないで待っていると、自分から教えてくれるからだ。あなたは人が言う程悪くないって…』
 そして征士は話していた。誘導尋問をされている意識など、本人にはまるでないだろうけれど。
「誰も自ら遠ざけたくはないのだ。身の周りに集まる、多くの要求にできる限り応えているつもりだが、非難されては割に合わないな」
「…うん…」
 そんな愚痴を零す征士は非常に珍しかった。だが、成程引く手数多の彼らしい悩みかも知れない。伸はそんな征士の淀みない心境を聞くと、やはり自分の考え通りだと知ることができた。大勢が支持する正しさも在れば、そうでない正しさも存在する。どちらも間違ってはいないのだと。そして自分は…。
 勇気を持って来てここに良かったと、今朝の出来事に感謝するだけだった。
 だから結論として、すんなり昨日の態度を謝る事もできた。
「昨日はごめんなさい。僕も、一週間来るから」
「寛容なことだ」
 征士は伸の意外なお利口さに、俄に感じた幸福な笑いを以ってそう返したが、伸はそう言う征士こそが、異常な程寛容であることを既に知っていた。

 嫌な事も多く耳にした筈が、新しい事を知れば知る程、多くを許せるようにもなっていく。
『少し大人になったような気がする…』
 手を抜かずに掃除を続ける征士を待つ傍、伸はそんなことを思って、ほんの僅かの微笑みの内に隠してしまった。それを評価するのは他の誰でもなく、目立たない自分を見付けてくれた、この人であると良いと思った。
 一日経つ毎に、種は芽吹き、葉は育ち、蕾が開花する様を観察するように。



「あー、そう言や…」
 それからふた月が経つ頃にはもう、いつぞやの中庭の騒ぎもすっかり、学生達の記憶からは薄れていた。慌ただしい春先は過ぎたが、新しい学年に移っての新しい授業、初々しい新入生の顔触れなど、大学にはまだまだ新鮮さが感じられている五月。
「最近伊達君の話を聞かないな?」
 螺呪羅は後輩の顔を見て、ふと思い出してそんな話題を振った。が、
「言うな」
 悪奴卑守はと言うと、以前より不機嫌な答で返すしかなかった。勿論その理由を知らない螺呪羅ではない。それはちょっとした意地悪だったらしい。ところが運悪く、彼等が座っていた構内のベンチの前を、丁度知り合いの三回生、那唖挫が通り掛かって、御丁寧にその理由を説明してくれた。
「何かうまく収まったらしいな、工学部の二変人は」
「そう言う言い方よせっての!」
 どうやら、那唖挫も悪奴卑守をからかいに来ただけのようだった。なので螺呪羅もまた、彼に調子を合わせるように返すのだった。
「あの変わり者コンビがまともになったもんだね」
「まともって!」
 弄られて遊ばれている悪奴弥守も、いい加減面白い奴だったが、少なくとも多数に惑わされないひとりだった。しかしそれにしても、工学部のアイドル達とは、実はそう言う意味でも好敵手だったらしいのだ。









コメント)フハー。最後の方に入って体調が悪くなったり、厳しかったですが…。
そんな訳で、かなりピュアな感じの伸と、いつも通り変な人の征士(と当麻)でした(笑)。たまにはこんな趣向の話も書こう!と、頑張って書いてみて、でもやっぱり普段書き慣れない描写は難しいな〜!と思いました(^ ^;。女の子同士の喧嘩とか、まあ、滅多に書けるシチュエーションでもないので、楽しい経験ではありましたが。
ところで私は常々思うのですが、伸さんって現実に居たら注目されておかしくないけど、キャラクターとしては埋没系ですよねぇ。勿論主人公に対して、その脇を固めるキャラだから仕方がないけど、そう思うとキャラの存在意味の上でも征士はヘン(笑)。う〜ん、やっぱり目立ち過ぎる征士は、埋没する伸の横に居てほしいものです。バランスが取れるから。



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