雪の振る下校風景
Brand-New Flower
#1
ブランニュー・フラワー



「元気出せよう、伸」
 いつも明るい友達の秀は、教室から校門へ向かう道程の間に、もう五回はそう声を掛けてくれた。
「…そんなに落ち込んでるように、見えるかい?」
「バレバレだぜ」
「…うん…」
 三月に入って初めて降った雪は、未だ止む気配がなかった。今朝学校に来た時は殆ど無かった積雪も、この夕方には足首まで埋まる程度になっていた。普段の僕ならば、音もなく舞い降りて来る結晶のような雪を見て、幻想的な美しさに心踊らせたに違いない。
 辺りはしんしんと冷え込んでいる。同じくこの心も今は冷え込んでいる。学校指定のレインコート兼用の外套では、家に辿り着くまでに凍えてしまいそうだった。既に傘を持つ手は無感覚になり始めていた。この凍り付きそうな己の原因は、否、結局は自分が悪いのだけれど。
「な、早く忘れちまった方がいい!」
「うん…」
 けれど、反対に今最も幸せそうな秀に言われても、より気分は落ち込むばかりだった。
 そもそも彼が切っ掛けで思い立った事なのだ。秀は高校に入学してすぐに打ち解けられた、今は一番仲の良いクラスメートだ。その当初、一昨年の四月の時点では、僕らはこれと言って変わらない条件を持った、普通に肩を並べられる相手だった。詳細に言えばそれぞれ得意不得意はあるが、片方が突出している感覚はなく、むしろ配剤の平等さを感じる友達でもあった。
 彼に出会えたことは素直に良かったと思う。今後何があろうと友人関係が変わることはないだろう。そして僕らの高校生活はずっとそんな風に、隣に並んだまま続くと僕は思っていた。今、ずっと変わらないと思っていた友達が、自分より一歩先に進んでしまったような現実。
 途端に気が焦り始めていた。
 そう、そんなだから駄目だった。秀と僕とは違うと、落ち着いて構えていられれば良かったのだ。もっと情報が必要だった。これまで遠くから見ていただけの僕が、思い付きで行動すべきではなかったのに。
「色々あるけど、伸はいつも割とすぐ立ち直るだろ?」
「…そうでもないよ」
 何もせず見ていた時間が長かった分、溜め込まれた想いの嵩は大きかった。一方的に理想像を作り上げていた分、それが否定されたショックも大きかった。
『いい加減な気持じゃなかったのに…』
 僕は地味な存在だから、いつも華やかで明るいものに惹かれてる。
 でも、明るい場所から暗い部分は見え難いように、
 集団の中に居ると何となく、明るい世界の人には僕は印象が薄いみたいだった。
 僕が憧れている場所では誰も、本当の僕を見付け出してはくれない。
『…ごめん、俺、好きな人がいるんだ』
 生徒会選挙の手伝いをした時に知った、隣のクラスの現生徒会長。同時にサッカー部の部長。校内でも学校単位でも知られた存在の、真田君は普段のような張りのある声でなく、呟くような、僕には耳慣れない調子でそう言った。そう、今を以っても君については、知らないことばかりの僕だった。
 結果は判っていたようなものだった。
 だから君を責めるつもりはないけど、何だかとても淋しかった…。

「おーい、秀ー」
 すっかり雪景色と化した校門の前に、ふたりの姿が現れると同時に声がした。
「あ、当麻が来た」
 声の主の姿を確認して秀が言う。こんな天候にも関わらず、ある時から一日たりと「お迎え」を欠かさない、このとっぽい大学生は目下の秀の彼氏だった。丸顔でコンパクトな体型の秀に対して、かなり背の高い大人顔の人物。否大学生なのだから、少なくともふたりよりは大人の筈だが、受ける印象が掛け離れている彼等が、どのように縁を持ったのかは定かでない。
「そんじゃ伸…、ほんとに元気出せよなっ」
「ん…」
 その大学生個人が、別段悪い印象だった訳でもない。だが今の伸にはただただ憎らしい存在だった。何故なら自分の平和な学校生活を破壊した、張本人だと言っても良かった。自分をこんな惨めな気持にさせる、そしていつも一緒に帰る筈の友達を奪って行った。誰も悪くはないと解っていても、残念ながら、伸は素直に友達の幸福を喜べる状態ではなかった。
「また明日なっ!。明日まだそんなカオしてたら、ぶっ飛ばすかんな!」
 秀はいつも変わらず明るい。例え失敗に落ち込んでいても、彼の心の調子は、不思議といつも変わらないことを伸は知っている。
「あはは…」
 そしてもし自分もそうであったなら、今頃こんな思いはしていなかったと、伸は溜息混じりに笑っていた。天の配剤は平等なのだから、秀にはそんな美点があって、自分には他の何かがあると思わなければならない。例えそれが己の望まない才能であっても。人より苦しみを伴うものであったとしても。
 ぼんやりと伸が見送る視界からは、徐々に小さくなって行く後ろ姿の秀と、公道の向こう側で待っている青年の姿が、降る雪の白さに紛れて消えてしまいそうに、遠ざかって行った。歩けば二十歩程で渡れる道路だったが、もうずっと遠い世界のように映った、暖かそうな対岸の灯火。
『いいな…』
 ただふたり居ると言うだけで、場の見え方が違っていた。
『大学生の彼氏なんか捕まえちゃってさ…』
 何故ならひとり寒空の下、空っぽになった心と頭を持て余してここに居る。何を考えたら良いのかも判らないので、胸に上り来る不満の声と共に、伸はじっと彼等の様子を目で追っていた。複雑な心境でいるようで、既に単純な答が弾き出されていた。ただ羨ましかった。こんな時ばかりは、大差がない筈の友達と自分の間に、明らかな違いが存在しているのを実感するからだ。
『きっと同じ雪でも、こんなに冷たく感じないんだろうな。…ちぇっ』
 全て他人事だと片付けられる程、個人主義を貫ける性格でもなかった。気にしないでいる方が楽になれる筈なのに、伸はいつも見えなくなるまでふたりの姿を見送ってしまう。
『冷たい…』
 ふと耳に掛かった雪を振り払うと、そのついでに伸は漸く一歩だけ足を動かした。すると、雪は大して積もっていないように見えて、意外にも足を取られるような重みを感じさせた。大平洋側の雪は水分を多く含んで重いと言うが、それよりも、既に誰かに踏まれた跡だからだと伸には思えた。校門の周囲は当然の如く、学生達の足跡で埋め尽されていた。
 白く透き通る雪も、地上に降りれば忽ち汚されてしまうものだ。勿論そんな事を高校二年にもなって、不思議に思う伸ではなかったが、その時は、濁った雪の状態が何故だかとても癪に触った。そして思い立ったように辺りを見回すと、学校を囲むレンガ塀に沿って、植えられた樹木の下にだけこんもりと、真新しい雪が積もっているのを見付けていた。
 伸はそして秀達が歩き出したと同じ方向へ、学校の塀伝いに少しばかり移動して、考えもなく無垢に残された雪を手を取る。何をしようと言うつもりもなかった。手に乗せた雪は彼が思ったように冷たかった。見詰めていた、誰にも触れられない、まだ何も描かれない氷のキャンバス。けれど溶ければどんな風に積もっていたかすら、思い出せない儚い存在だった。
 ふと「自分もそんなものか」などと考えが過った。
 途端伸はその手を握り締める。
「えいっ!」
 しかし握り方が甘かったようだ。手から離れた直後に崩れて周囲に散ってしまった。目指した空には全く届かなかった。
「面白くないなぁっ!、ホントにもうっ!」
 何をしても思うように行かない。腹立たしく息を上げながら伸は、もう一度、今度は確と両手で雪玉をきつく握って、もう絶対に届かないだろう、己を苛立たせる存在に向かってそれを投じるのだ。伸の視界にはまだ、小指の先程になったふたりの姿が捉えられていた。そして、
『ああもう、みんな忘れたいよ!』
 内にそう叫びながら伸は手を降り下ろした。彼の切なる気持を乗せた雪玉はきっと、無為自然の美しい放物線を描きながら、本能的な遣り場のない怒りを慰めてくれるのだろう。万物はなるようにしかならないとしても、決して不幸ではないと示しながら…。
 とその時、
「てっ!」
 伸の耳に聞いたことのない声が届いた。反射的に顔を上げて前方を見ると、あろう事か、いつの間にかそこには通行人が現れていた。全く何をしても結果の悪い日だった。
「!!」
 伸の投げた雪玉は見事その人の頭に命中していた。
 特に怪我はしていない様子だったが、鬱陶しそうに髪に撥ね付いた雪を払っている、その沈黙の動作が伸には些か恐かった。こんな場合、騒ぎ立てて怒って見せる者も居るだろうが、黙して佇まれる方がより無気味に感じる。そして「何を言われるだろう」と僅かな想像をする内、梳かれた前髪の間から、向けられた目は伸の想像以上に恐ろしかった。
「おい気を付けろよ高校生、公道だぞ」
「すっ、いません!、ごめんなさいっ、人が居ると思ってなくて…」
 聞こえる声は荒振る様子もなく、実際そこまでの怒りは込められていなかったが、伸は始めに一瞥された時から、もう相手の様子を窺うことができなくなっていた。その鋭い目付きにすっかり威嚇されてしまい、彼は只管頭を下げて謝るのみとなった。まあ自身の不注意には違いなかったので、謝って済むなら謝り倒そうと言う気持で。
 そうしてほんの僅かの間、彼等はそこに向かい合っていたのだが、
「征士!、おーい!」
 呼ばれたその人が、己の背中の方向を振り返った。その呼び声は伸にも聞いたことがあった。と、前に立って居た人の足が動き出す。地面を見ている伸の視界から離れて、雪道を踏みながら歩く音と入れ替わって行く。また遠方からやや足早に、こちらに近付いて来る足音も聞こえて来た。
 全ての音がやや遠くなったと思えたところで、伸がゆっくりと体を起こすと、薄白い夕陽の差す道路の先から、秀の彼氏である人が再び近くまで戻って来ていた。そして、
「悪りぃ!、もしかして俺のレポート持って来てくれたのか?」
 まだ多少距離はあったが、伸が雪をぶつけてしまった人と会話を始めていた。どうやらその人は、秀の彼氏を追い掛けてここにやって来たようだ。
「忘れたことに気付いていたか?」
 と彼は返した。先程伸に向けられた言葉の時と、さほど変わらない話し口調だった。
「いやぁ、おまえを見て思い出した」
「呆れた奴だ。私はおまえのお守り役ではないのだぞ」
 そして話す様子を窺っていると、かなり親しい間柄らしきことも伸には分かった。
「サンキュー」
 征士、と呼ばれた彼が、腕に抱えていた封筒を当麻に差し出すと、当麻は些か軽々しい態度でそれを受取った。その態度を思ってのことか、征士は釘を差すようにこう返す。
「今後はあの子に面倒見てもらうのだな」
 今はもう、どんな顔だかも判別できない場所に立っているが、視力が良いのか、征士は秀が立ち止まっている方を示して言った。そして少なくとも征士と言う人は、当麻の相手がこの高校に通っていて、この時間に迎えに来ていることを知っている、と伸は難無く理解するに至った。
 と言うことはつまり、場合に拠っては自分の起こした過失が、秀に迷惑を掛けることになるかも知れないと。親しい周囲の人の心象を悪くするのはまずい。自分が現状を歓迎していないのは確かとしても、秀に不幸があれば良いとまでは思わない。まして秀には関係のない所で、自分が彼の立場を悪くするのはたまらなかった。
 伸は改めて気まずい状況を感じていた。今はそうでもなくなっていたが、当麻が声を掛ける前までの征士は、かなり御立腹の様子に見えた。ここは和やかな雰囲気の内に逃げる準備だ、と、伸は町中へと曲がる道の方へそろそろ歩み出る。
「へぇへぇ、それじゃあな!」
 しかし伸の思惑とは別に、あまり真面目に聞く気もない風の当麻の返事。そして言ったかと思うと、彼はそれ以上油を売ることなくUターンしてしまった。伸としてはもう少し話し込んでくれた方が、立ち位置移動の為に有り難かったのだが。まあ、待たせている相手の元に早く戻りたい気持は解る。けれど友人に対しては随分と素っ気ない印象だ。
 伸は思う、自分と秀のような友達じゃないのかも知れないと。そしてその直後には、
「しーんっ!!」
 予期せず己の名前を呼ぶ声が聞こえ、忍び足で歩く足先も思わず止まった。
「またなーっ!」
「あー…うん、バイバイ…」
 自分の姿を見付けて、遠くからわざわざ改めて声を掛けてくれる、秀の気遣いを嬉しいとは思ったけれど。遠目では恐らく、手を振る伸の不自然な表情までは、彼には判らなかっただろう。
『タイミング悪…』
 必要な用事を済ませて戻って来る征士が、他にどうしようもなさそうに引き攣った笑顔をして、手を振り返す伸の様子を確と見ていたのは、紛れもない事実だった。そして彼は言った。
「何だ、友達だったのか」
「そ、そうなんです」
 伸は素直にそう答えはしたが、できることなら、そうした認識はないままであってほしかった。自分はともかく、秀に対して悪い先入観を持たれては、大事な友達に対して申し訳なかった。けれど頭の中で様々に考えを巡らせ、場の成り行きに恐れ戦いている伸とは逆に、征士は可笑しさすら感じる口調で、淀み無く思い付いた言葉を並べる。
「どうりで不愉快そうな顔をしている訳だ」
 それは無論、この場の状況から考えられない事ではなかったけれど。何故伸がひとりで、特に対象物の無い方へ雪玉を投げたかと言う理由も。しかしそれ以上に伸が気にしたのは、端から見ても不愉快そうに見えるのか?、と言う自身の態度の方だった。伸は今になってそれを省みながら、征士には苦し紛れの言葉で返す。
「どう言う意味ですかっ」
「言葉通りの意味だが」
 そして、征士が用意していたように落ち着いて話すのを、伸はその時初めてまともに見たのだった。それまでなるべく視線を合わせないように、俯き加減に顔を上げないでいたので。
 思わぬ挑発的な言葉に乗せられてしまった、否、伸は自ら乗ってしまった。だがその行動に因って伸は救われることになる。これまでただ恐いと感じていたその人の印象は、最初とはかなり違ったものに今は見えていた。即ちその人間離れした容姿について。
『この人は…』
 普通に日本語を話しているのが不思議に思えた。否、普通の人の中に紛れて、彫像が生きて歩いているようなものだと伸は思う。明るい髪の色、大柄な体格、非の打ち所のない外見をして、こんな風に有りの侭の態度で存在している。恐らく彼は何処へ行っても目立つ筈だった。だから当麻も、遠くからでも彼をすぐ認識できたのだろう。
 伸から言えば、正に己の対極に居るような人間だった。その人は続けてこうも言った。
「そんな顔をしていると、寄って来るものも来なくなると思うが?」
「はあ…」
 そして彼がそう言うのだから、事実そうかも知れないと伸には思えて来る。いきなり説得されている自分を、しかし軽率だとは感じていなかった。浮ついているとも思わなかった。何故なら。
『僕は地味な存在だから、いつも華やかで明るいものに惹かれてる』
 そんな立場に甘んじているのではない。伸は己を変える切っ掛けを欲しがっていたのだから。
「フフ、では」
「・・・・・・・・」
 内なる革命が始まっていた。惚(ほう)けて立っている伸について、征士がどんな理解をしたのかは解らない。ただ伸がこれ以上大した話をしなさそうだと見て、征士は簡単に挨拶をすると、名残り惜しむ様子もなく歩き出していた。
 そして起こった事故の事などもう忘れたような、敢えて蒸し返さないでくれた潔い様子。恐らく伸が秀の友達だと知ったからだった。少しばかり伸には哀れみを感じたのかも知れない。遣り場のない感情と八つ当たり的な挙動は、誰にでもしばしば起こり得ると考えて。或いはただ親切なのかも知れない。大人しそうな学生を強く脅しても意味がないと。
 否、真実が何だったとしても結局は構わなかった。とにかく伸はそんな人物を見て、背中を向けられると途端に引き止めたくなっていた。
「ご、御忠告どうも。でも立ち直るのも早いんです、僕」
 何とかそんなことを言った。言葉は秀の受売りだったが、伸の割り切り様は伝わったのではないかと思う。征士は特に振り返りもしなかったが、
「クックックッ…」
 その後ろ姿からは声が聞こえた。不愉快が愉快に変わったと。
「えっへっへ…」
 そして伸もまた聞こえるように笑いながら、徐々に己の気持が上向いて行くのを感じていた。一度落ち込んでしまえば、後は上に昇るしかないのだから。そんな時に偶然出会った、その人は正に光の世界の使者のように思えた。伸の心は有無もなく靡いている。新しい世界の扉が開かれる夢を見ている。
『結果は判っているようなものだ』
 けれど俄かに心の向きを変えられる訳もなく、思うより早く彼の体は動き始めていた。

 学校のレンガ塀の途切れる所、比較的賑やかな町中に出る道路は片側一車線で、歩道も無く狭い公道だった。なのでそこには誰にも踏まれない雪が、伸の想像していた以上に残されていた。その道をそれ程苦労する様子もなく、征士は戻りながら歩いていた。伸はこれから彼が何処へ行くのか、暫く後を追ってみようと考えていた。まるでタレントか何かの追っ掛け気分だ。
 その時ふと伸は思った。否、今頃気付くのもおかしいが、雪の振る中彼は傘を持っていないのだ。だから雪玉が頭に当たるようなことになる。着ているオリーブ色のウェザープルーフのブルゾンが、恐らく雪除けになっているのだろうが、もしかしたら、意外と学校の近くから出て来たのかも知れない。だから彼は傘を持っていないのではないか。
 伸はそう解釈をすると、今度は尾行する探偵のような心境になって、静かに、注意深い足取りでその後を辿って行った。校舎を巡る高いレンガ塀が、運動場のネットに切り替わる所には左折道がある。征士は今そこを曲がったところだった。
 左折する道へと入る角には、学校の校章バッジも扱う文房具店がある。使い慣れた店先の自動販売機に隠れて、伸は慎重に道の先を窺ってみる。征士は変わりないペースで歩いていた。その行き着く先はT字路で、左折すると校門の前の道に戻る、右折すれば町の大通りへ出る。当然右折するだろうと見当は着いていた。そして伸が息を殺して見詰める中、征士はその通りに曲がっていた。
 続いて、やや足早になって伸は追い掛ける。この道は曲り角までの距離が長かった。また大通りには巡回バスが走っている、当然タクシーも通る、夕方と言う時間帯を考えれば、買い物客の人混みも想像される。歩道に屋根を付けただけの細いアーケードでは、しばしば数人先の人が見えないこともあるのだ。見失い易い場所だと想像できた。
 ここだけは急がなくては、と伸は足許に気を配りながらも、可能な限り早足で頑張って進んだ。いつの間にか凍り付きそうだった手の先に、うっすら汗を感じるようになっていた。寒いなどと言う感覚は今、すっかり後回しになっているようだ。伸はそれだけ集中していた、ひとつ前の過去を忘れたいが為に。現れた新しい目標を手を伸ばそうとして。
 そして漸くT字路に辿り着いたのだが、
「あ、あれっ?、何処行った?」
 追っていた人の姿は既に消えていた。意外にも、この角を曲がるともう大通りは目の前だった。行き交う車の騒音と、商店街の雑多な音が伸の耳に確と届いている。これはまずい、どちらに曲がったのかも確認できていない。
 と、一度茫然としながらも、伸はすぐさま商店街の方へと向かって行った。これまで歩いて来たと同様の早さで、切りなく上がる白い息を些か煩そうにしながら、必死で視界の開ける場所に到着してみれば、その日の大通りはそれ程人通りが多くなく、割合遠くまでを見通すことができた。右を見る、左を見る、そしてもう一度…。
 しかし、
『見失っちゃった…みたい…』
 バスやタクシーの姿も無かったが、伸から見えない間に行ってしまった可能性はある。そうだとしたらまたもやタイミングの悪いこと。やはり今日は只管ツキのない日だと思うしかなかった。それまでの意気込みは何処へやら、伸はすっかり肩を落としてしまう。
 気が付くと急激な運動の所為で、足には笑うような気だるさが感じられていた。ただ徒労に終った追跡劇に、残された報酬はこれかと、伸は溜息を吐きながら体を折り曲げる。立ち止まったついでに考えた、思えば今日は疲れる一日だったと。否、今日と呼べる時はまだ七時間以上あるのだから、全て振り返るには早過ぎるかも知れない。が、伸にはもういい加減終わりにしたい一日だった。浮いたり沈んだりするばかりで、何も進展してはいないのだから。
 何をしているのだろう?、僕は。
「何をしている?」
 すると、思いがけずすぐ傍から声がした。
「!、あっ!、いやあの」
 振り返ればやって来た道の路肩に、停められた車の中にその人は居たのだった。
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
 そしてもしかしたら、伸の行動を不審に思ったかも知れない。呼び掛けられて慌ててしまったのも、恐らく妙な態度に見えた筈だと伸は思っている。だから何も言えなかった。
 何も言わない伸に征士はこう話した。
「雪の降る中を必死で追い掛けて来て、訳を言わないのか?」
「えっ、えーと、それはその…」
 実は例のT字路に設置されているミラーを見て、征士は伸の様子に気付いていたのだ。まあそれでも正確な事情は判らないので、暫くは車中から辺りを観察していた訳。
 ただ征士にしても、悪気があってそう話したのではなかった。追い掛けて来た少年が何かを言いたそうにしながら、何も言わずに困っているからだ。日頃行動的な性質の征士には、伸の沈黙は酷く長い時間に感じられていた。そしてこのまま粘っても埒が開かないと思い、
「取り敢えず乗ったらどうだ、外は寒いだろう」
 伸にはそう声を掛けて、征士はさっさと助手席のドアロックを開けていた。
 そう、商店街に近い道端など、凡そ話をするには向かない場所だろう。殊に息を乱したままの相手には、まともな思考力を阻害される環境だと思う。まず何処か落ち着ける場所に移動した方が良い、話はそれからだと征士はすぐに思い付いていた。と言うのも、征士の方にも伸に聞きたい事があったのだ。
「…はい…」
 暫しの間を置いて、伸は逆らわずにそう答えていた。



「すみません、ありがとうございます…」
 テーブルからウェイターが下がると、まず伸はそうお礼を言った。しかし席に落ち着いたところで、彼が最初に思ったことはこうだった。
『場違いだなぁ、こんな制服じゃ』
 学校周辺からそれ程移動した訳ではなかった。けれど駅ふたつ程離れたターミナル駅の周辺は、庶民的な住宅街、学生街の趣とはかなり違っている。その中でも特に大人の需要の高そうな、高級感のある落ち着いた喫茶店を選んで、征士は伸を連れてやって来た。嘗て知人がアルバイトに入っていた店で、駐車場等の事情を知っているので、征士には都合が良い場所だったようだ。
 しかし伸はまず周囲を見回して、学生服らしき姿が全く見えない、ほぼ全員が会社員風の人間ばかり、と言う環境にかなり畏縮させられていた。伸の通う高校の制服は、学ラン程には目立たないにしても、やはり大人が着るスーツ等とは異質のものだ。洒落た丸テーブルのそれぞれに置かれている、メニューのスウェード張りひとつを取っても、今の出で立ちにはまるでそぐわないと感じられた。
 否それ以前に、同席している人との吊り合いが取れていない。周囲に何気なく座っている他の客や、店の従業員から見ても、恐らく妙な印象を与えているに違いない、と伸には気掛かりでならなかった。ただでさえ自分は童顔の部類だと知っているのに。
 けれど征士の方は、伸のそんな心情などまるで介さず話し始めていた。
「礼を言われる程の事ではないが」
 連れて来たのは征士なので、ここでの支払いは当然自分が、と言う話についてのことだったが、征士に取ってはちょっとした情報料のようなものだった。
「それより、君は当麻の子の友達だって」
「ああ、はい、そうです」
「私は知らなかったのだが、いつからなんだ、あれは」
 そう、征士が関心を寄せている話題とは、当麻と秀についてのことだった。伸は聞かれるままに、記憶されている過去を振り返る。
「えーと、冬休み中に会ったみたいだけど、そういう事になったのはついこないだだと思う。バイト先で知り合ったって聞いてるから」
 伸の話す内容に誤りはなかった。秀は高校に上がってから自動二輪の免許を取り、それ以来バイク好きが高じて、バイクに関連する店のアルバイトばかりしていた。但し長期の休みの間だけで、普段は働きに出ないのが家の約束だと言っていた。前の冬休みは確か、車とバイクの中古販売店に通っていた筈だが、当麻の方がどんな理由でそこに来たのかは、本人に聞かければ判らないだろう。
 しかしアルバイトの理由については、征士にはどうでも良いことだったようだ。
「成程、どうりで知らない訳だ」
『知らないと何かまずいのかな』
 と伸はごく単純に思った。知らない内に、と言えば自分も知らなかった者の内なのだ。例えどんなに親しい友達だとしても、この手の事だけは、あまりべらべら話せるものではないと思う。伸はそう理解するので、始めから秀を咎めることもなかった。
 だが、一般にはそうではないのかも知れない。何もかも打ち明けることを「親しさ」だと、もし聞く側が思っていたなら怒るかも知れない。そう、もしかしたら話してくれなかったことに、腹を立てているのかも知れない、この人は。
 伸はそんな思考を以って、初めて自ら話し掛けてみた。
「羽柴さんと友達なんですか?」
 ところが、伸の予想がやや外れたことを表すように、征士は薄笑いを浮かべて言った。
「友達と言うか、同じ専攻の学友と言うところかな。彼について知っている事は色々あるが、常に顔を合わせている訳では。…はは、君は羽柴のことをどう思う?」
 どうも、それ程親しい訳ではないようだった。そればかりか伸には答え難い質問で返されていた。
「え?、…一度話したくらいでよく知らないんですけど」
「印象で良い」
 またそれを聞いてどうするつもりなのか、今の伸にはまるで解らなかった。
「そう…、秀に聞いた話だと、すごく頭の良い人なんでしょ?。そんな感じはするけど、あんまり鼻に掛けた人でもなくて、優しい人なのかな、いつも帰りに迎えに来るし…」
 そして、
「ハハハハ…!」
「えっ??」
 さも可笑しそうに笑い出した征士を見て、自分がそんなに筋違いな発言をしていたかと、伸は目を丸くするばかりだった。
「優しい!、そんな形容詞は初めて耳にするな」
 そう言うものだろうか。取り敢えず「優しい」と形容される人は、世の中の大半を占めるのではないだろうか。何故なら優しさの全くない人間は居ないと思う、好きな人には尚更優しい面が出るものだろう。伸にはそう考えられるからだ。少なくとも伸が見た当麻の、秀への気遣いは「優しい」と言って、そこまでおかしいものではない筈だった。
 けれど普段の当麻を知らない伸には、無碍な反論もできなかった。現に征士は笑い飛ばしているのだから、何かしらそれに当て嵌まらない所があるのだろう。征士は続けて、
「君等から見ると大人に見えるのかも知れないが、講座内では専らマザコンと言われているぞ?」
 とも話した。
「ぇぇっ???」
 耳にした内容もさることながら。何故、征士は友人の悪態を吐いて笑うのだろうか。それも伸には疑問だった。一体彼等はどんな間柄なのだろうと。
「だから意外に思っている訳だ。年上ならまだしも高校生だと言うから」
「…意外…ですね、ホント」
 そして征士が当麻の意外性を見ていると同時に、他人の事など構わなそうに見える征士が、意外にも何かにこだわっている様を伸は思った。
 明るい世界に住んでいる、自ら輝ける人には自ずと着いて来る者が現れる。自から行動しなくとも、相応しい人は自然に現れて来るのだろう。征士のようなタイプの人物なら、そうそう人付き合いに困ることはないと思う。拠って他人の行動が気になることもない、友達の幸福に嫉妬するようなことはない、僕とは違う、と伸は己の中に思いを巡らせている。
『秀は結構面倒見のいい奴だから、丁度良かったのかも…』
 ふとそう考えて、もしかしたらそんな理由かも知れないと伸は思い付いた。大学の中で問題のある人物と目されていた、当麻が自身に丁度良いと思われる人を見付けた、それが大変なニュースだったのかも知れない。つまりワイドショー時なネタなのかも知れないと。
 勝手に問題児にしてしまって当麻には悪いけれど。
「私が君と付き合うより意外なことだと思うね」
「ん…、んっ!?」
 するとそこで突然話題の向きが変わっていた。
 否、征士には予定通りの進行だったのかも知れない、何故なら彼の態度は終始一貫していて、話の流れを自分で作っていた節がある。そしてそれまでは、大した関心を寄せていない風だった征士の目が、今は伸の方だけを向いていた。ある程度の時間が経過するのを待って、尚ストレートな入り方は止めておこうと、相手を推し量ってそうした様子でもあった。
 人を追い掛けるには何らかの理由があるだろう。征士は伸の追跡に気付いた時から、大体その後の展開を考えていたようだ。こうした場面に遭遇することに慣れている所為もある。だが伸の方には、相手の意向など気付ける状況ではなかった。年相応の感覚をいっぱいいっぱいにして、何とかこの場でのやり取りを繕っているだけだ。
『何考えてるんだろ?、僕の反応を見てるのか?』
 残念ながら伸には、暗黙の掛け引きなど理解できていなかった。
「・・・・・・・・」
「私に何か言いたい事があるのでは?」
「あの、えと、…どう言ったらいいのか、な…」
 事実何を言って良いのか判らなかった。まだ事が起こってから一時間少々を経過しただけで、今の己の気持を表す言葉が見付からなかった。又伸の経験上では、こんな風に話を振られることもなかった。何を言いたいか?、何を聞きたいか?、何をしてほしいか等、要求を出せと言われるのはむしろ苦手だった。
 そして真面目なのか冗談なのかも判断できない。これまで単なる高校生をやって来た身では、お洒落な返句のひとつも言えなくて仕方のないこと。だけれども、
「私はそこまで頭の良い人間ではないのだ。言われないと分らない事もある、今度会ったらはっきり答えてほしいものだな」
 征士の方もその辺りを加味して返してくれた。何と余裕のあることか。
「え、えーと…?」
『答えてほしいって、やっぱそーゆー意味で言ったのかなぁ…?』
 対して、伸には何しろ突然の展開だったので、頭が舞い上がってしまって、考えがなかなか纏まらないでいた。今日は疲れる一日だった、落ち込んだり浮上したりの繰り返しで、確実なものは未だ何も得られない。見付けたと思ったら見失う、諦めたら現れる、全く不吊り合いに感じる場所に今は来ている。
 己の状態がまず掴めなかった。
 もう少し落ち着いて考えたい、もう少し落ち着いて状況を見たい。
 堰を切るような血流に昂る、逸るばかりの気持も確かに感じているけれど、このまま、また同じ失敗を繰り返すかも知れない。繰り返してはいけない、と伸は何とか思うに至った。
 つい今朝方の事だったのだ。苦い経験を後の何かに繋げなければ、きっと真田君にも失礼だろう…。
「…今度会ったらって、いつのことですか?」
「そうだな、君の好きな時に」
 急かす様子ではない征士を見て、伸は少しばかり安心した。



つづく





コメント)わははははは…って笑ってる場合じゃないけど、説明書きで断った通り、この話の舞台では男女差を気にしてはなりません!。そういう世界だと思って下さい(笑)。でもまあそんな事より、たまには学生っぽいスイートなお話を書きたかったので、私は楽しんでおります。普段書いてるものよりかなりピュアな感じでしょ?。むちゃくちゃベタな展開してるけど、でも後半は結構シュラバよ…。
ところですごく気になるのは「遼が好きな人って誰?」。いや、私も考えてないんですけど(^ ^;。そう言えば前にも伸が振られる所から始まる話を書いたけど、伸ってこういう役が似合う…のかな。




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