当麻と秀2
BLUE COLOUR WORKER
#2
ブルーカラー・ワーカー



 本人のテンションは低かったが、当麻が二十才の特別な誕生日を迎えた、その翌々日の夕暮れ時だった。
「…れっ?」
 その日も彼は、判で押したように屋台のラーメン屋『金剛』へ足を運んでいた。親しい人間なら誰もが知るところだが、自身の抱える研究以外にものぐさな彼は、これと思ったものには一日と空けず通い詰め、又飽きずにそれを継続できる特技(?)がある。だから彼はこうしてまた、屋台が広げられる時間にそこへやって来た。
 そう、友人のひとりが「常連候補」と最初に紹介したのも、単なるお愛想ではなかったようだ。しかし、これはどうしたことだろう。
『早かったのか…?』
 いつも横浜市内の某駅前に停められる筈の、ショップランナーの姿が何処にも見当たらない。当麻はそこに暫く立ち止まり、周辺の様子をキョロキョロと見回していた。建物の壁面に掲げられた、電光掲示の時計は午後六時を表示している。空は藍色の緞帳が既に覆い始めている。そろそろ店鋪を飾るイルミネーションや、焼き鳥屋の提灯に明かりが灯る頃だと思うが…。
 その時、ぼんやり立ち尽くす彼の背中に誰かの声が聞こえた。そして当麻もすぐに自分が呼ばれていると気付く。その声はもう、ほんの二日にして聞き慣れたものになっていた。
「おいおいっ、日曜は定休日だぞ?、羽柴当麻」
 軽快な調子で駆け寄って来た秀は、走りながら息も乱さずにそう告げた。彼のからかうような笑顔は、いつもそんな顔をしていると言えるものだが、こんな時には酷くこそばゆく感じた。
「えっ、…何だ、知らなかったな」
 途端、「言われてみれば」と当麻は頭を掻く。主に会社から飲み屋帰りの労働者を集める屋台に、日曜日も営業するメリットはあまりないだろう。
 実際ふたりが立つ駅前の様子も、平日の帰宅ラッシュ時に比べのんびりとしており、疲れた顔の勤め人より家族連れが目立っている。明らかにいつもと違う雰囲気の駅前の様子から、答に気付かなかったのは恐らく当麻の出無精のせいだ。普通の人々の行動パターンがまるで読めていない。
「日曜まできっちり来るバカヤロウだと知ってりゃ、先に教えといたんだけどな?」
「ハハ…。それもそうだ」
 ここはバカヤロウと言われても仕方がない、と、当麻は自ら納得して笑った。最高峰の研究機関に勤める研究員などは、多少浮世離れした生活を送っていると言えるが、誰も彼もが一般の感覚からずれている訳ではない。彼は所内でも「彼ほどのボケは真似できない」と言われる程、外の世界に関心を持たずに来たのだ。今はその弊害が露になっていると、ひとまず素直に考えられた当麻。
 優れたもの、美味しいものの為に、生活領域を広げる試練も必要と覚ったのか。
 ところで、その日は定休日にも関わらず、秀の様子は遊びに出て来た風ではなかった。屋台の中に居る時と変わらない、如何にも作業着らしいシンプルな服装、片手には大きな買い物袋を持っている。
「休みでも仕事があるのか?」
 当麻はついでにそんな質問を向けてみた。すると、
「まあな、さっきまでは親父の店の手伝いをしてたんだが、これから屋台の方の仕込みさ」
 秀は至って当たり前のように、忙しい一日の内容を説明してくれた。
 これまでに聞いた話だが、彼の実家は中華街に大きな店鋪を構える高級店とのことだ。名の通った店なら休日は混雑して然り、家族の一員としてその手伝いをした後、自身の目標の為にまだ働くと言う。その明るさと元気な様子の土台には、彼が置かれている立場に充分満足していることが窺えた。
 否、好きな分野の研究が仕事になっているなら、疲れていてもそう辛くはないと当麻も知っている。それは只管趣味に熱中するのと同じ、目標の為に繰り返される地味な試行錯誤の日々が、いずれ最高の喜びに繋がることが判るからだ。その点には当麻も大いに共感を覚えたけれど。
 同時に相違点をも見い出していた。仕事に対し似たような姿勢を持ちながら、自分と彼とは何かが掛け離れていると感じた。頭脳労働と肉体労働の差だろうか?、それとも扱う分野の違いだろうか?。学のある者の悪い癖だが、彼の思考は別化性能が強過ぎるようだ。物を区別しないと居られない、分別が働き過ぎている。そんな傾向は普段の生活では押さえるべきものだろうが。
 まあ、そのせいもあって、休日と言えど特にする事もなく、参加しなければならないコミュニティも持たない状態が、当麻の現実だった。
「大変なんだな」
 彼は一応のやり取りとして、そんな労いの言葉を掛けてみたものの、
「そうだなぁ、でも、若い内は苦労しろって言われるしな。俺は体力なら自信があるから、忙しいくらいの方が楽しいってもんだ」
 案の定、秀が仕事の忙しさを愚痴ることはなかった。悪く言えば典型的体力バカかも知れない、もっと効率良くやれば、日曜まで仕事続きにはならないのではないかと思う。だが彼は働くことを怠けたがる性格でもない。そんなことが当麻にも判った。
「確かに。この年で人生を退屈したくはないけどな」
「そうだぜっ」
 そして力強く答えながら、自身の作業場へと踵を返した秀を見て、当麻も暫くそこから歩き出すこととなった。もう少し秀の話を聞いてみたくなった。もう少し、彼を通して己を見詰めたかったのかも知れない。人は己に無いものを欲しがると言うからだ。

 駅前の賑やかな通りを歩く内にも、空は刻々と色合いを変えながら閉じて行く。繁華街はもうすっかり電灯に賑わい、鼻誘う魅惑的な臭いが辺りを漂っている。窓越しの、レストランの席に着いた家族や恋人達は、ペンダントライトの白熱灯の明かりに柔らかく包まれ、穏やかな休日の様子によく似合って見えた。そんな豊かで平和な景色が次々と目先に連なる。
 平日ならこの時間こんな風に、道を歩きながら話すことはない筈のふたり。秀が客に対しての他人行儀でなく、友人と接するように気取らず話してくれるのが、当麻には妙に気分良く感じられていた。特別面白い話題は出ないにしても、彼はそんな普通のことにホッとされられていたようだ。誰かが言っていたように、一般の中に紛れている楽しさは確かにあると。
 但し、ある話題を境に様子は変わって行った。
「…でもおまえさ、こんな天気のいい休みの日に、他にどっか出掛けたりしねぇのか?。彼女とかいねぇの?」
 秀は何気なく、よくある疑問を当麻に投げ掛けていた。
 折角の休日を暇そうに過ごす理由とは、遊び友達も恋人も居ない淋しい状態、至極閉鎖的な生き方をしているなど本人の問題か、或いは過労気味で疲れている、金銭的に困窮しているなど状況の問題か、二方向の答が思い当たるだろう。けれど当麻に対し、後者が当て嵌まらないことくらいは、秀にもまず感じられることだった。
 それについて当麻はこう返す。
「うーん…。関心がないと言い切りはしないが、結局下手な付き合いは煩わしくてね」
 それだけの返事では、正確な所は解り兼ねるものだったけれど、
「おーっと、勿体ねぇ話だなぁ!」
 秀は単純にそんな感想を漏らしていた。
「何が?」
「何がってよ、科学研究所の研究員と聞きゃ、並の会社員より稼ぎも良さそうだしな。女の子に人気ありそうじゃんか?。おまえタッパもあるしなぁ、世の中つくづく不公平だぜ」
 秀の口から語られた当麻への印象は、特別おかしな見方ではない。そう親しくない相手に対し、その肩書や見た目から判断するのはよくあることだ。ただそれが本人の関心事でないことが、楽しく議論しようとする意志の擦れ違いを生んだ。当麻に取っては収入だの容姿だの、人に好かれるかどうかもどうでもよかった。ただこの方向の話題は好きじゃないと、一気に興醒めする気分に至っていた。
「特別もてているとは感じないが…。征士ならともかく」
 拠って、何処か色褪せた口調に変わり彼は続ける。あくまで主観的な回答だが、不特定多数の者に関心が向かないなら、事実がどうあれ同じことだった。
 するとそれを聞いて、秀は更に思わぬことを話し始めた。
「あー!、そう言やあいつは、一緒に住んでる奴が居るんだったよな?」
「・・・・・・・・」
 あいつとは、無論征士を指しているのだろう。しかし聞き覚えのない事実に俄に顔を顰め、当麻は思わず黙り込んでしまった。
 否、親しい友人だからと言って、洗い浚い全てを話す義務はない。彼は別段、友人としての扱いに腹を立てた訳でも、個人的な感情から不満に思った訳でもない。当麻が秀の話に引っ掛かりを覚えたのは、少なくとも自分より親しくない筈の秀が知ることを、研究所内では誰も知らない点にあった。
 つまりもし、征士が誰かと同棲しているとしたら、研究所ではそれなりの話題になるだろう。何処に居ても存在の目立つ彼について、周囲の多くの者は理想が高いのか、或いは特定の相手を決めずに遊んでいるような、そんな印象で彼を捉えている筈だった。当麻にしても、征士は人付き合いにはとてもクレバーで、友好的だが誰にも熱を上げたりはしない、それが彼の良さだと思っていた節がある。
 それが違うとしたら、これまでの見方を根底から変えなければならなかった。そうして身近な者を欺いていたとは、あまり考えたくはないのだが。
 伊達征士とは何者なのか?。
「ありゃ、言っちゃまずかったのか?」
 当麻の妙な様子を察し、秀はやや慌てるようにそう言ったが、
「さあ、君に話したなら大した隠し事でもないんだろう。俺が知らなかっただけで」
 内輪の問題をここで掘り下げて説明しても、と、当麻は適当に話を切り上げることにした。
「はぁ、ならいいんだけどよ」
 店鋪の窓の明かりが照らす、秀の小さな溜息には多分に安堵が感じられる。客商売は信用が命、個人的な情報をぺらぺら話してしまうようでは、と、秀は己を戒める気分になっているようだ。そしてできればこれが切っ掛けで、大きな問題が起こることがないよう願うだろう。けれど横を歩く当麻の心中は、最早穏やかでは居られなかった。
『何故隠してるんだ』
 研究所内で最初に会った時から、何処となく気質が似ている者同志と知り、これまで最も親しい友人と考えて来た征士には、実は他に見せない一面があるらしいこと。事実かどうかは確かめてみなければ判らないが、頭脳だけでなく、人間的にもエリートであると律して生きる集団の中で、征士は理想的な人間を演じているだけ、と言うなら問題だと当麻は思った。
 選ばれた者しか踏み入れることは許されない、最高機関に属する者は、それなりの優れた人間性をも他に示す必要がある。この時の当麻は真面目にそう考えたからだ。
 さて彼はどうするか…?。



 その後当麻は、夜七時半頃には征士の住む社宅に到着していた。
 本来彼は人をしつこく詮索するタイプでもなければ、思い立ったら今すぐと言うせっかちな性格でもない。けれど秀と別れたそのままの足でここに向かった。まだこの時間なら迷惑ではないだろうし、研究所では話し難い事情があるのかも知れないと。
 所員に貸し与えられる広い社宅の玄関灯が、煌々と明かりを放って在宅を知らせていた。門からは離れた奥の部屋の窓にも、淡い光が外壁に帯を作っているのが見えた。話し声は全く聞こえない、他の来客中でなければ幸いだ。様子を確かめると当麻は呼び鈴のボタンを押した。
 すると、程なくしてスピーカーからは、
『はい、どちら様でしょうか?』
 と、正に聞き覚えのない声がした。否、普通なら家政婦が出て来た、で済まされる状況なのだが。
「羽柴と言いますが。研究所の同僚の」
 取り敢えず初対面と思える者に対し、当麻は簡単な続柄を交えて答える。
『ああ研究所の。何かご用ですか?』
「用と言う程ではないんですが、ちょっと話したいことがあったので…」
 対話している相手の口調からは、割合柔和な態度が感じ取れていた。恐らく門前払いはないだろう、無駄足に終わらず済むと、好感触に当麻は早くも胸を撫で下ろす。そして確かに断られはしなかった。
『そうですか…、征士は今近所に出掛けておりますが、すぐ戻りますのでお上がり下さい』
 但し外出中とは些か拍子抜けな状態。その上彼が戻るまで、何処の誰とも知れない者と共に待つとは、煩わしい付き合いを嫌う当麻には苦痛かも知れない。特に意味のない世間話やおべっか等は、彼の最も苦手とする行為だった。しかし今日は、
「はあ…、じゃあ、そうします」
 気の抜けたような返事をしながらも、その程度で諦めるのは勿体無いと、当麻は鍵の開いた門を潜り玄関へと進んだ。
 これまでに一度だけここを訪れたことはあったが、その時は征士の他に誰も居なかったので、常にそうだと思い込んでいたのは迂闊だった。考えてみれば独身の研究所員の大半は、生活面をサポートする者を家に置いている筈なのだ。客人を飽きさせまいと、無理に話題を振って来る家政婦でなければいいのだが、と、当麻は祈るような気持でドアを開ける。
 ところがそこには、まるで予想外の人物が畏まってこちらを見ていた。
「こんばんは、初めまして。羽柴さんってお友達の当麻さんでしょうか?」
「ああ…そうだけど…」
 挨拶をしながら頭を下げたのは、自分より少し若いくらいの青年だった。丁寧で穏やかな言葉遣いと、きちんとしたお辞儀ができる様子から、それなりの品位を感じさせる人物である。しかし家政婦としては不釣り合いな印象だった。エプロンを身に着けてはいるが、何処か少女めいた笑顔を向けている様は、社会人とも単なる友人の仕種とも考え難い。親族にしては殆ど似た所はないようだ。
「話はよく伺っております、僕は伸と申します。じきに戻って来ますからどうぞ、お茶でも」
 彼は続けてそんな挨拶をすると、端々に気の行き届いた弁えのある態度で、当麻には家に上がって待つよう促している。例え違和感を覚えたとしても、ここは大人しく従うしかないところだった。
「はあ…」
 それにしても、妙なキャラクターが現れたものだ。研究所に通い詰めている間は、比較的まともな家政婦と粒揃いのエリートにしか、顔を合わさず過ごすことが多い当麻。ラーメン屋台に集う一般の人々でさえも、彼にはなかなか理解が及ばない存在だが、出迎えてくれたこの青年は、それより更に難解な雰囲気を周囲に放っている。
『男のハウスキーパーもいないではないが、名前を呼び捨てにはしないだろうに』
 これが秘密の恋人だとも、あまりイメージができない謎の存在…。

 それから二十分も経った頃だろうか、漸く当麻の待ち人は帰宅した。
「あっ、お帰りなさいませ。当麻さんがみえてますよ?」
 彼を迎えようと玄関へ出て行った伸が、接客同様の丁寧な調子でそう話すと、
「…え?、馬鹿な、何があったのだ!?」
 途端に征士の声のトーンが変化した。まず滅多に人の家を訪ねることのない人物が、突然やって来たことにも驚いた。が、それよりやはり、知られたくないことを知られたような焦りが、家中の空気に確と伝わっていた。当麻の口からはフッと笑いが漏れる。
 続いてバタバタと近付いて来る足音が聞こえる。
「・・・・・・・・」
 そして驚愕の形相で現れた征士を見て、
「いやあ、手厚いおもてなしを…」
 当麻はすっかり場に馴染んだ態度で、皮肉めいた言葉さえ飛ばしていた。
 彼が迎えられた奥のリビングルームの、ガラスのセンターテーブルには所狭しと小皿が並べられ、酒の肴と思しき見目鮮やかな料理が賑わっていた。今時珍しい天然マグロのカルパッチョ、今も高級品のカラスミの和え物、鮑と帆立のサラダ、車海老のテリーヌなど、全て惜し気もなく高級食材を使い、手抜きもなくきれいに盛り付けられていた。
 それらを次々運んで来られた当麻は、伸が何故こんな接待をするのか皆目判らなかったが、本人が至って楽しそうに料理や酒を勧めていると知ると、特に嫌な印象でもなくなっていた。そう、計略あって意図的にもてなされるのとは違う、感じとしてはどうも、子供のままごとに付き合わされているようなのだ。丁度良いお客様が来てくれたとでも思っているような。
 だから軽い皮肉も口を突いて出て来た。家で何をやっているのかと。
 そして問題の伸が、
「当麻さんは一番仲のいいお友達と聞いていますから、色々気を配ったつもりです」
 あくまでお客様の前を意識した口調で話した後、
「ああ…。…程々でいいんだ、彼の場合は」
「え?、そうなの…。何だぁ、勿体なかったな」
 征士の意見に急に口調を変えたのを見て、当麻は思わず吹き出していた。やはり予想通り、これは「ごっこ遊び」のようなものだったのかと。
「やれやれ…」
 溜息を吐いた征士の表情は、今は驚きからやや呆れの色に変わっていた。けれど怒るでもない、ニコリともしない。異常な成り行きとは気付きながらも、有りの侭に流しているようだった。この状況には特別な理由があるに違いない、と当麻が気付くのに時間は要らなかった。今目の前に居るふたりは、予想したどんな間柄とも違うような気がした。

 その時丁度、伸は夕食の支度をしていたようだ。予定外に人数が増えてしまったが、先程のオードブル類を合わせると、ダイニングテーブルの上は普段の倍も賑やかになった。当麻もその席に交ざり、彼には珍しい高級料理の数々を御馳走になっていた。メニューも珍しければ、こうして余所の家で会食するのも滅多にないことだ。
 またその間も、当麻は不思議な同居人の言動を観察していたが、手慣れた配膳の様子、酷く行儀の良い食事のし方、先程までではないにしろ、話題や言葉遣いも品の良い印象ばかりが目に付く。そして裕福に育った者特有のおおらかさも感じられた。既に家政婦の線はないと思ったが、ただ、征士の対応の仕方を見る分に、徒に勘繰るべき関係にも思えなかった。
 ならば何故それを隠さなければならないのだろう?。
 傍で観察する程に、当麻は増々解らなくなって行くばかりだ。
「日曜に出歩くとは珍しい、休みと言うと一日寝ている当麻が」
「ん?、ああ…」
 食後、伸がキッチンに下がり片付けを始めると、再びリビングへ移動したふたりには漸く、然るべき話のできる場が与えられた。否、疑問を抱いてやって来たのは当麻の方だが、この期に及んで何も言わずには居られまいと、征士も腹を括っていたようだ。
 そして当麻は、突然の訪問に至った経緯を簡潔に話す。
「今日、ラーメン屋の秀に聞いたんだよ。おまえが誰かと一緒に住んでるって。俺は何も聞いてなかったから、ちょっと不思議に思っただけだ」
 話が人伝に知れてしまうことは、ある程度仕方がないと納得できた征士だが、この類の話を不服そうに語る当麻の態度には、やや疑問を感じて返した。
「…それは嫉妬か?」
「阿呆か…」
 厳密に言えば、そうした感情も含まれるのかも知れないが、無論そんなつもりはない。そしてゴシップ的話題に関心を持つ当麻でもなかった。例え友人の話であっても、人の色恋沙汰など彼にはどうでもいい筈だと、征士も的確に推測できていた。つまり彼の不満はその他の場所に存在している。
「まあでも、百聞は一見に如かずと言うやつだ。秀の勘繰りはハズレだな」
 当麻は更にそう続けたが、彼がこの家の現状を理解できないように、征士にも彼の言いたいことが理解できなかった。
「どういう意味だ」
 と問い掛けると、当麻は途端に冷めた様子を見せながらこう答えた。
「まるで隠し妻でも居るような口振りだったからさ、冗談だったのかも知れないが。あーあ、何でそんな余計な想像をするんだろうな?。大衆は曖昧な話を大きく騒ぎ立てるのが好きだ、真実より出鱈目な作り話の方が面白いらしい。その思考回路は俺にはさっぱり分からん」
 それはつまり、大衆に失望したと言う意味だろうか?。
 征士に受け取れた今の当麻の感情は、退屈で下らないものに対する卑下の意識に満ちていた。
 既に述べた通り、当麻がこれまでの二十年を過ごして来た環境は、本人同様の科学者の父と、エリートキャリアと呼べる母親に守られた、経済的苦労のない自由な家庭だった。常に国内トップレベルの学校に通い、周りを囲む人間は皆、知的向学心の強い優等生ばかりだった。研究所に身を置くようになってからも、その条件はあまり変わっていない。
 そんな彼の周囲に飛び交う話題と言えば、新技術や新素材の情報、世界情勢と経済の動向、ごく高尚なレベルの趣味の蘊蓄など。確かにそれらは、ハイレベルな人間に取って愉しい話題の内だ。けれどなにも、それだけが愉しいと言う訳ではない。全ての者が当麻と同じ感覚で居る筈もなく、寧ろ彼にはそれだけしかない、と言い換えることもできた。
 征士なら年も近く、性質が似ていることで普通に当麻と付き合えているが、他の多くの研究者はそうでもないのだ。決して己のフィールドからはみ出ようとしない彼には、世俗的な与太話を向けても、恐らく変な顔をされるに決まっている。と、誰もが暗に認識している研究所内の現実。悪い意味でなく、彼は心底学問を愛していて、学問以外に関心がないと思われているせいだ。
 否それは憶測でもなく、実際当麻は自身の研究と学問以外に、あまり関心を示さないところがある。そしてそれは、最も人間らしい活動を失っている状態だと、征士を始め幾らかの人間は考えていた。愚かで浅はかだらかこそ人間は、格別に神に愛される存在だとも言う。向学心も結構、但し己が何者かを忘れてしまえば、研究の意味も失われると彼は気付いていない。
 けれど、彼本人が悪いことでもない。頭脳と名声と金銭的余裕、生存する親の愛情と健康な体、一見全てを揃えて生まれながら、彼には足りないものがあると言うだけだ。勿論全てを完璧に揃えることは不可能だけれども。
「…それはどうかと思う」
 当麻の気掛かりな発言に対し、秀の立場をも思い、征士はやんわりと否定する意志を伝える。
「私が何も話さなかったのは、そう言うところが心配だったからだ」
「はぁ?」
 そして神妙な顔をする征士に一言、間の抜けた返事しか返せない当麻に、思わぬ方向へと話は続けられて行った。
「当麻は特に賢い奴だと認めている。だが自分と人を区別し過ぎるのは感心しない。おまえの基準に合わない人間の方が、この世界には圧倒的に多い筈だ」
「…それで?」
 征士は多少回り諄く話を切り出したが、それは無論友人である当麻に、誤解なく伝えられるよう計ってのことだ。そして自分の事情をも充分理解してくれるように。当麻には打ち明け難かった理由が、彼自身に存在することを知ってほしかった。
「私達は大多数の中のほんの一部でしかない。そしてこの世界は間違いなく、特に賢くもない多数派に拠って支えられている。彼等を否定して遠ざけるのは不条理だ。誰が何の為に、莫大な研究費を出してくれていると思う?、研究成果は全て万人に還元されるべきものだ」
「それは解るが…、さっきの話と何の関係がある?」
「誰かの役に立つと言う名目あっての研究だ、その『誰か』と言う存在を、当麻はイメージできていないと私は思う。何故なら『誰か』である大衆を理解できない。それはおまえの罪ではないが、おまえが生まれながらに負った箍なのだ」
 そこまでの話を当麻はどう受け止めただろうか?。恐らく過去にも現在にも、特に不満や不足を感じずに来た彼に、突然身の不幸を認識しろと言っても難しい。勿論まだ、外の世界に触れた経験も浅い彼だ。何が人間の最も幸福な状態かを考えるまでには、至っていないことも容易に想像できた。なので征士は、慎重に言葉を選びながら話したつもりだ。
 そして最後に、自身の理由を補足して一連の話を終えた。
「知性とは必ずしも必要なものではない。それを自ら認め、万人の声に抵抗なく耳を傾けられないと、まあ、伸みたいなのは、ほとんど理解できまいと思ったのだ」
「・・・・・・・・」
 最後は黙っていたけれど、征士がこれまで話してくれなかった理由の、輪郭だけは何となく理解できた当麻。彼を言い含めるように語られた内容が、強ち外れていないことを認めた証拠だった。
 そう、理解が及ばないのは、所謂「庶民」との関わりが少なかったせいだ。彼等と自分との間に通じ合う言葉を持たないからだ。彼等が世界の主導者であると言うことも、知識として知っているだけで実感はない。そんな身の上で、民衆の在り方を理解しようとする意識が生まれないのは、己が未熟であることを示しているのかも知れない、と当麻は考え始める。
 思い返せば秀には何の罪もない。嫌な中傷を聞かされた訳でもないのに、自分が勝手に苛立ちを覚えただけだ。初対面の人間に仕事の愚痴を漏らす、一労働者の彼にも何の悪意も感じなかった。それを異質なものとして嫌ったのは、正に自分の許容範囲が狭いことを露呈している、と今になって気付く場面もある。
 ただ、それらについては反省に似た気持を持ち得たものの、
「『みたいなの』とは?」
 と、当麻はもうひとりの人物についてだけ、改めて質問せざるを得なかった。
 頭の中が大分整理されて来たところで、征士の語り口からすれば、今先刻食事を共にした青年も、自分とは離れた場所に住む人間なんだろうと考える。しかしそれにしては、秀や遼と比べ格段に行儀の良い人物に見える。彼の何が問題なのか想像できない程に。
 すると、酷く話し難そうな様子を見せながら、征士はこう答えた。
「まず…、秀の話し振りは無責任な勘繰りではないのだ。色々あって、伸が迷子になった時に助けてくれたのが彼で、その時にこっちの事情を話さざるを得なかった」
 成程、秀は話だけでなく、この奇妙な状態そのものを知っていたのかと、当麻は一度彼を侮蔑したことを申し訳なく思った。ただそれだけではまだ疑問が残る回答に、今度は率直に言葉を返してみる。
「事情と言っても、大した事情があるようには見えないが。変わった同居人が居るってだけで、何故口外し難いのか判らん」
「んー…」
 当たり前のように伸はここに居る。まるでこの家の管理を全て任されたプロのようで、半分は遊びのようだと言うのもおかしい話だった。だが人として印象の悪い人物でもない。当然の当麻の質問に、暫し考えていた征士は漸く話し始める。
「実は、彼はとある資産家の御子息で、それなりに良い教育を受けて来たらしいが、何と言うか…、温室で純粋培養された世間知らずなのだ。悪く言えばバカ息子だが、家では大変な寵愛を受けている。一人暮らしが許される年になって、この近くのコンドミニアムに引越して来たのだが、」
「それが何でおまえの所に?」
 勿論それに対する答はあったが、当麻が容認してくれるかどうかをいつまでも、征士は気に掛けているようだった。何故なら、
「まあ、元々親同士が知り合いだった関係で、随分前から知っていたのだ。だが…、彼は最初に会った時から何か勘違いをしていて…。自分では婚約者か何かのつもりらしい」
 事実は小説より奇なりと言うが、あまりに飛躍した話だったからだ。
「そんな阿呆な」
「と思うだろう。本人は信じ切っているぞ?。良くも悪くも一途な性格なのだ」
 それで押し掛け女房か居直り強盗のように、我が物顔でここに居座っていると?。
「迷惑なら追い出せばいいじゃないか。大体お人好しな人間でもないくせに、何故その間違いを訂正してやらない?」
 けれど、当麻は恐らくそう言うだろうと、征士には予想した展開になっていた。
「だから、」
 と語調を強め、征士はもう一度繰り返すように当麻に言った。
「一見社会の逸れものに思える者も、軽んじてはいけないと言うんだ。彼には彼なりに良い所があると知っている。だから私は無理に追い出さない。これでむしろ助かることもあるのだ」
 無論言葉だけでは伝わらない面もあるだろうが、これから考えてほしいと征士は思っているのだろう。
 そう、大衆の中のひとりひとりは取るに足らない存在かも知れない、その中でも伸は規格外の人間だ。だがやること為すこと常識外れで、しばしば困った事態を招くことがあるとしても、他人の良心を疑わず、何でも真面目に努力すると言った美点がある限り、彼を認めてくれる場所は必ずあると征士は思っている。根から人を信用できるのは、恐らく良好な家庭環境ありきのことだ。その意味では伸は恵まれた子供だったのだろう。
 そして、特殊な環境しか知らない意味では、伸も当麻も大差ないが、その違いが如実に感じられる征士には、当麻の方がより心配に見えているのだ。だから非合理的と思われようと、彼に納得してもらわなくてはならなかった。
 人の価値はスペックでは測れないと。
「それから、伸を見ているとほっとするよ」
 続けてそう言った征士に、当麻はその理由を是非聞きたいと思った。
「ほっとするとは、どんな意味だ?」
「知的活動は人の表情が見え難いからな。原子だの量子だの、そんなものばかり追い掛けていると、感情表現の豊かなものを見たくなるよ」
 そう自嘲気味に笑いながら、穏やかな顔を向ける征士を当麻は見ている。成り行きの状況に諦めながらも、その利点の方を見て彼は許している。そんな関係もこの世には存在するのだ。否、誰も彼もがそんな寛容な態度を示すなら、世間知らずも苦労はないけれど。

「おまえの罪ではない」と征士は言った。
 子供心に残る家庭の風景。父親も母親も人並み以上の知識人で、それぞれに正当な論理でものを語るふたりだった。それ故彼等が離婚した際には、どちらを責めることもできず、大人同士の間にはそんなこともあるのだと、素直に受け入れていた過去が存在する。ただ物分かりの良い態度を示すのが、好きな両親の為になると思っていたからだ。
 けれどそれは間違いだったのかも知れない。子供が親の我侭を気遣う状況とは、今思えばあまり自然なことではないと感じる。自然でない環境に育てば、それだけ歪んだものが子供の意識に残されるだろう。なまじ早くから頭が働いたばかりに、得られる筈の何かを失ってしまったようにも思う。
 そして征士にすら、自分のそうした過去の軌跡が見えているようだった。長く己の悲しみを理性で覆い、知らない振りをして来ただけだと。もっと正直に生きていればそれなりに、受け止めてくれる人が現れたのかも知れない。他に誰をも必要としない、完全無比を装おう必要はなかったのかも知れなかった…。
 征士の家からの帰り道、傍目からは表情の変化すら見られなかったが、当麻は大いに動揺した気持を抱え歩いていた。
 足元のアスファルトを踏み締める感覚、夜の町にポツポツと灯る電灯の瞬き、秋の空を彩るペガスス座やみなみのうお座のフォーマルハウト、それらは何も変わっていないのに、今は何故だかとても淋しく映った。ペガスス座の下半身は、化け鯨に食べられたとか、あまりに早く飛び過ぎて上半身に着いて来れなくなったとか、星座上で語られる逸話が幾つかあるが、体半分を失った天馬の嘆きが、今日は身に染みて解るような気がした。
 何か、心の拠り所となっていたものが突き崩された。友人にまつわる真実を知っただけで、自分の否を責められた訳でもなく、何故こんなに心が騒ぐのか解らない当麻だった。



つづく





コメント)ここまで話の流れは元の本のままです。文章自体はかなり変わった所もありますが。
そして今思うと、この話の当麻は「天空伝」以前のイメージで書いてますね。老賢人的当麻も好きではありますが、永遠の問題児な当麻の一面も捨て難い。それでこんな話を書きたくなった、ような気がします。対比として秀が相当人格者になってます(笑)。
その上、他の作品には書いたことのない、珍しい「バカ息子伸ちゃん」の登場です!。とりあえず当麻と秀(と征士)がメインの話だから、伸の設定は完全なお遊びでした(^ ^;。でも書いてて確かに、憎めないキャラだな〜とは思ったので、たまにはお決まりの形を離れるのも、面白い発見があっていいです♪



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