当麻と征士
BLUE COLOUR WORKER
#3
ブルーカラー・ワーカー



「あら?、今日はひとり?」
 翌日、休日明けの研究所には、朝から征士の姿が見えなかった。いつもの食堂にて、柳生女史が当麻を見付け声を掛けると、
「ん、ああ。今日は何処かに出てるみたいだな」
 先週末と同じようにうどんを啜っていた当麻は、持ち上げた手を止めそう話した。
 当たり前の話だが、研究者達は一年中施設内に篭り切りな訳ではない。余所の研究施設に出向くこともあれば、学会等に出席することもある。フィールドワークが必要不可欠な分野もある。予め申請しておけば、勿論欠勤と看做されることもない。因みに征士は本日、量子サーキットで行われる実験の見学に出ていた。
 偶然入っていた月曜日の外出。今日の当麻はそれを、多少安堵する気持で受け止めていた。別段顔を合わせ難いこともなかったが、昨日初めて出会った出来事、昨日覚えた何らかの感情に、彼はまだ整理を付けられずにいたからだ。単純に事実を聞かされたことが、何故己の足元を揺るがしているのか。科学者に取って事実、真実と言える物は何より、理論を安定させる要素なのに、だ。
 頭では判っているが、その矛盾がどうしても呑み込めない。
 そして、もしまた昨夜の話題を聞かされることがあれば、研究所に居ながら仕事以外のことに悩む、最悪の状況になり兼ねないと当麻は危惧していた。
 否、本来は心配事のひとつも持たず、関心事だけに意識を注ぎ続ける生活など、何処のどの人間にも不可能な筈だ。家庭があれば家族を気に掛けるのは当然であるし、いつ首を切られるか恐々としながら仕事をする者もいるだろう。寧ろ自身が特殊で異常な生活をして来たことを、当麻はまだあまり認識していないようだ。
 運良く素晴しい研究機関に配属され、健康や経済上の悩みも持たず、まだ大人としての責任も求められなかった。これまでは確かに、若過ぎるほど若い研究員だった為それで善しとされて来た。しかし人間には誰しも転機が訪れる。大人は皆面倒な事、煩わしい事を分担し合い、ひとつの社会を形成していると、そろそろ気付くべき時なのかも知れない。
 征士の話した事実とはそんな、安心な隠れ家の存続を脅かすものともなっているようだ。
 ところでナスティの方は、当麻とは全く反対の意志を持って返した。
「そう…、じゃあ今日はもうここには来ないかしら、残〜念!」
「何が?」
「今日は他の予定が入ってないから、例の屋台に連れてってもらおうと思ってたのよ」
「ああ…」
 そして当麻の向かい側の席に着くと、本日のランチ、スズキの黒オリーブソテーに早速ナイフを入れようとした。と、その時、
「あ!、そう言えば羽柴君も知ってるんじゃない?、場所だけでいいから教えて?」
 ナスティは思い付いてそう言った。そもそも屋台の話題は、当麻の誕生日が切っ掛けで出て来たものだ。その時の状況から言えばうろ覚えの可能性もあるが、ラーメン好きな彼のこと、何かしら憶えている筈だと彼女は踏んでいる。
 勿論当麻はその後、土曜、日曜と日を空けず通ったくらいで、場所の説明など雑作もないことだった。
 ところが、
「・・・・・・・・」
「えっ、何その態度!?」
 ナスティには思いもよらぬだんまりが返って来た。
 彼女の知る羽柴当麻と言う人間は、少なくとも妙な意地を張ったり、物事に頑強な抵抗を見せる人物ではなかった。新たな情報を耳にすれば、すぐに取り込み理論を転化できる才能があるからこそ、若くして研究者の一員に認められたことを想像していた。当然普段の彼も、何かに酷くこだわることもなく、人には常に落ち着いた態度を示していたのだが。
「そう…、頑に教えたくないほど美味しいってことね、それは」
 ナスティが多少憎々し気な調子で続けると、当麻はそれとなく同意するように笑って見せる。実際はそれもあるが、できる限りあの場の自然な状態を壊されたくない、そんな思いからのだんまりだった。
 どうやら彼は、あの屋台を自身の「社会勉強の場」として選んだようだ。出会う機会のない人種に会える場所、と言うだけなら他にも存在するだろうが、そこには彼の好物があり、並の飲食店では出せない優れた味が存在する。そんな、彼に取ってお誂え向きの研修所を、みすみす人に教えたくない気持は解らないでもない。
 そして昨日は一時、一方的な見方で不愉快を感じた店の主人にも、今は寧ろ学ぶことがあるのではないかと、清々しく意識を入れ替えられていた。他愛無い世間話の行き違い、よくある話だ。ほんの些細な事が切っ掛けで、二十年の慣例を覆す大した進歩だった。
 そんな大切な場所だから、当麻としては可能な限り秘密にしておきたいところだ。すると、
「フフッ。でも珍しい、衣食住に関心のなさそうな羽柴君が、そんな風にこだわりを見せることもあるんだ。ちょっとした革命ね?」
 ナスティの方は、言葉通り珍しい態度を示す当麻にそんなことを言った。
「革命…」
「そう!、きっとその屋台には革命的なラーメンがあると見たわ」
「そうかも知れない…」
 そこで当麻が頷いたのは、ラーメンの味の話ではなかったけれど、
「認めたわね?」
「いや、って言うか…」
 そんなことを厳密に否定しても仕方ないと、それもまた普段の彼らしくない判断でこう返した。
「俺はあんまり出歩かないし、知らないことが多いもんで、正確な比較はできないから」
「え…?。まあまあ、本当に珍しいこと」
 例えそれが本心だとしても、知らないことを簡単に知らないとは、決して言わない当麻だっただけに。今日の彼のひとつ悟りを得た様子には、重ね重ね驚かされているナスティ。
 土曜日までの当麻には何ら変わった所は見られなかった。日曜日、昨日一日で彼に何が起こったのか知らない。けれど彼女はそれを、あくまで明るく捉えこんな話を続けた。
「ん、でもいい傾向だわ。これを期に色んな世界を見てみることよ。幸いあなたは伊達君みたいに、困ったお荷物を抱えてる訳じゃないんだから」
 当麻には意外な話題が飛び出した。誰からも隠している絶対的な秘密かと思えば、実はそうでもなかったようだ。
「お荷物って…。知っているのか?」
「知ってるも何も、そのせいで彼はあまり長居できないのよ、何処のお店にも。家で食事しないと不機嫌になるんですって」
 けれど「困ったお荷物」と呼びながらも、ナスティはその人物の美点も既に知っているようだった。
「でも、何だか凄い人らしくて、身の回りの事は何でも完璧にこなすし、作る料理はみんなプロはだしだそうよ?。単なる家政婦さんだとしたら羨ましい話なのよ」
「あー…確かに」
 と、当麻は昨夜テーブルに並んでいた、手の込んだ料理の数々を思い出す。作ることが趣味だとしても、あれだけ用意するには大変なエネルギーと、何らかの情熱が必要に感じた。そしてそれが感じられるから、征士も無碍にできないんだろう、と今は想像できた。
 否、想像はできたが、それで納得している征士の思考はまだよく解らなかった。なので当麻の口から思わず、
「しかし何で征士は、言うことを聞いてやってるんだろうか」
 そんな疑問が零れる。
「さあ?」
「さあ??」
 同様に、さあ、の一言で納得しているらしきナスティも、よく解らなかった。
「まあちょっと、いえ大分変わった人みたいだけど、伊達君が許せる範囲の人ならそれでいいんじゃない?」
「それでいいのか?」
 すると、先程から何か新しいことを考えようとしている、少し人間的進歩の見られる当麻に、ナスティは曇りのない笑顔を向けて言った。
「面白くないより面白い方がいいわよ、研究も生活もね?」
 それはアバウトな意見以外の何でもない。
 だが不思議とこんな時には、妙に納得させられる言葉だった。感覚的な「面白さ」と言う要素を、理詰めで考えるのは愚の骨頂だ。また誰が何をどう楽しむかは、予め決まった答が存在しないことだ。それを知っていて、巧みに話し掛けてくれる先輩の研究者は、やはり自分より大人なんだなと感じさせた。
 そして征士の考えることも、当麻にはぼんやりと解ったような気がした。多少嫌な思いをさせられようと、他に代え難い価値があるならそれを取る。自分もまたそう決めたばかりだと。
「…そうだな」
「そう、何でも楽しめた人間が勝ちよ、人生は」
 似たような経緯で、若年から研究所務めを始めた柳生女史は、当麻に取っては親類のお姉さん的な存在だった。背景的にも思考レベルにも、似通ったものを感じ取れるから安心して付き合える先輩だった。しかし彼女には彼女の独自の意識が存在する。その体現する明るさや逞しさは何処から来るのか、当麻は長く知ろうともせずに来たけれど。
 今は思う。それはこれと言った学を持たず、日々懸命に生きる人々の意識と似ている。彼女の外の世界への憧れが、雑多な社会を広く理解することに繋がり、現在の柳生ナスティの個性を獲得したのではないか。と、当麻は気付くこともできた。
 思うことを素直に話せば、人はより多くのことを話してくれる。これまで見えなかったものが見えて来る。ならば己の為に己を解放するべきだ。何故今までそうできなかったのか、疑問と後悔とが当麻の胸に残された。



 夕暮れの横浜、平日のこの時刻の風景はいつも通りに、会社帰りのサラリーマン、学生、雑多な労働者達の行き交う流れで埋め尽くされていた。
 特に何事もない一日を終えようとする町の様子。都市を通過して行くだけの人々は最早、町中のひとつひとつの景色を細かく、具に見て歩くことはしない。刻々と変化する風物が存在する訳でもなく、常に均一な地面を踏み締めながら、暮れて行く安息感を心に見詰めているだけだ。
 だから今日も脇目も振らずここにやって来て、昨日までと違う意識を感じながら歩く当麻が、感慨深い顔をして人々を眺めていたことなど、誰も知りようがなかった。
 外の世界は何ら変わらず混沌としている。だが彼はその混沌からひとつ、何かを見付けられたような喜びを感じている。塵の中のダイヤモンド、とは言い過ぎかも知れないが、自身に取って価値ある物と言う意味では、強ち外れていない表現だった。
 何故この数日で、そこまでの気持に至れたのか、当麻は自分でも愉快に思っているけれど、面白くないより面白い方が良いと言われれば、確かにそうだと頷くしかなかった。学術上にはあらゆる数式を駆使しても、解明できない定理や現象が存在する。人の内面にさえそんな領域は存在するが、何もかも、ひとつの単純な動作で大きく結果を変えることができる。人の場合は思うことだ。
 ただどう思考するかだけの違いで、白を黒だと言えるのだから人間は面白い。
「よお!、昨日は空振りだったんだって?、ハハハッ…」
 明るい物思いの内に、当麻が例の屋台に近付くと、思わぬことに最初に振り返って声を掛けたのは、先に到着していた遼だった。
「あ…」
「今日は昨日の分も食ってけよ!、トウマ。はいラーメン一丁」
 続けて秀の声も聞こえた。まあ、悪気なく笑っている彼の様子から、常連仲間には昨日の出来事を話したのだろう。しかし征士の話題といい、秀にはやや口の軽いところがあるのは否めない。万人に美点と欠点双方があることは仕方ないので、それを許せるか許せないかの問題だ。
 そして当麻は気に留めないでおくことにした。そもそも昨日、「日曜に来るバカヤロウ」だと言われた時点で、妙に納得してしまった彼だ。自分にも明らかな欠点が存在する、と思い返せば尚更秀を責められないと思った。
「はは、定休日を聞いてなかったし、昨日は暇だったからな…」
 やり込められたような顔を露にしながら、当麻は適当な言い訳をする。だがそれに対し遼は、
「まあ俺も日曜は困るんだ、何処で飯を食おうか考えちまう」
 と、もう笑える失敗談を引っ張ることなく、当麻の心情に同意してくれた。
 パチン、と気持の良い音を立て、割り箸を割った遼は勢い良く麺を啜り始めた。言葉からも判ることだが、食べる様子からも彼が、この屋台のラーメンを酷く気に入っていることが窺える。真に美味しい物を食べている間は、「旨い」とも何とも言葉が出なくなるものだ。遼は本当に無心の様子で食べ続けている。
 それはまた、密かな喜びとなって当麻に届いた。味覚だけの話でも、同じだと判る感覚を持つ人間が、外の世界にも居ることを確認したからだろう。お陰で彼は気分良く、軽い足取りでカウンターの席に着くこともできた。昨日の今日で、どんな態度を取るべきか迷ってもいたのだが。
 と、その時。遼とは反対側の隅に隠れていた客が、やや乗り出すようにして言った。
「羽柴当麻さん…?、こんばんは」
 隅に居たので気付かなかったが、その人物は、凡そ屋台の客とは思えぬ身なりでそこに鎮座していた。即ちどこぞのブランド物らしきジャガードの細身のコート、ワニ皮のブーツに、スエードのお洒落なハンチングを被り、モード系ファッション誌から出て来たようなその出で立ち。だが、向けられた優し気な顔立ちや、場違いに上品な物腰には確かに見覚えがあった。
 否、正確には昨日会ったばかりだ。
「おまえ、何してんだ?」
 多少当惑しながらも尋ねると、伸は昨夜の様子通り楽し気に返した。
「ラーメンを食べに来たに決まってるじゃないか」
 決まってる、と言われてもどうにも違和感を覚える。裕福な家のお坊っちゃまだと聞いたが、それがひとりで、こんな屋台のラーメンを食べに来るものか?、と当麻は考え込んでしまう。それ以前に、彼は征士の家で夕飯を作って待っているのではなかったか?。それとも既に支度を終えて出て来たのか?。それともここで待ち合わせをしているとか…。
 当麻が悩む横で、そんな他人の見方などまるで気にしない伸は、もうほぼ食べ終わった丼を指し、再び当麻に話し掛ける。
「ねぇねぇ、ここのラーメンって美味しいと思わない?」
 唐突な質問だったが、嫌味を感じない伸の不思議な物言いには、思わず正直に答えてしまう当麻。
「…思う」
「そうだよね?、僕は高級中華店はかなり知ってるけど、こんなの食べたことないよ」
 それはもしかしたら、日本のラーメンと中国のラーメンの違いかも知れないが、ともかく味に煩さそうな彼にも、この屋台の方が美味しいと感じるのは確かなようだった。世の中にはそんなこともある、高級店の料理が必ず自分の口に合う訳ではない。そして高級店にはない極上の味と言うのも存在するのだ。会話からそんなことを想像した当麻の耳に、伸は更に研究家らしい言葉を続けていた。
「僕はねぇ、これとおんなじスープを作りたいんだよ!。でも教えてくれないって言うから、今日は勉強の為に食べに来たんだ」
 すると、
「そりゃ教えないだろうな、この屋台の自慢だし」
 机の反対側から遼が一言、続けて秀も笑いながら言った。
「何度も聞かれるから困ってるんだぜ、このお坊ちゃんには」
 だが、困っていると言いながら、このおかしな客を認めているような彼の態度。当麻にはふと昨日の征士と被って見えた。例え迷惑な面のある人間だとしても、その他の美点を見て許すことができる。秀が彼の何を見てそんな気になったのか、疑問に思う所だったが、話題を切り出す間もなく再び伸が話し始めた。
「じゃあ科学者の君に聞くよ、これどんな材料の配合になってると思う?」
 流石にそんな質問を振られても、当麻には答えられなかった。
「俺は専門外だから判らない」
 と、普通ならそれで文句は言われない筈だったが、まさかと言う返事が返って来た。
「えぇ〜、天才だって聞いたのに、全然役に立たないんだね」
「・・・・・・・・」
「ハッハハハ…!」
 悪気のなさそうな伸の口調が、秀と遼には尚可笑しさを感じさせていた。
「あのな!、天才ったって全てが判る訳じゃないんだっ」
「そうなの…?」
 当麻としては、笑われたことはともかく、まずこんな場所で天才だとか、無用な話をされたのが恥ずかしくて仕方なかった。社会人としての経験で言えば、自分はこの屋台に於いては全くの若輩だと、今は認めているから尚更だった。何と言う迷惑人間に出会ったものだ。
 ただ、ひとつ救いがあるとすれば、まだ納得し兼ねている様子の伸に、少なくとも征士が伝えたらしき当麻像は、悪いものではないと判ることだった。聞いた話をどう解釈するか、このお坊っちゃまはその点がおかしいだけだ。ひとつの単語から過大なイメージをしている。それはある意味子供のような思考だと当麻は感じた。何も知らないからこそ、めいっぱい想像力を働かせているような。
 そう、子供が素直に感じるようなことを、彼は普通に口にするから妙なのだろう。そして何処となく憎めないのだ。それがお坊ちゃまと言う存在なのかも知れないが。
「今日は御馳走様!。また食べに来るね」
 一頻り屋台が笑いに包まれた後、伸は礼儀正しく手を合わせて秀に言った。
「ありがとな、はいお勘定」
「あ、そうだ。お金を払うんだった」
 すると、如何にも代金の支払いを気にしていなかった風で、彼は慌ててコートのポケットを探り出す。そして目当ての物を取り出すと、笑顔で秀の手の上に差し出した。
 しかし秀は苦笑い。
「悪ィ、屋台でカードは使えねぇんだ、坊ちゃん」
「えっ…!」
 途端に「どうしよう」と顔になって、伸はオロオロし始めた。
 そのやり取りを見ていた当麻も、『いくら俺でもそこまで物を知らない訳じゃない』と、溜息が出てしまう状況だ。確かにこの御時世、クレジットカードか電子マネーで、殆どの支払いが可能にはなっている。だがほんの僅かに、端末を使わない自由商売が存在する限り、現金を使う機会も残っている。それを知っていた、当麻はほんの少し優越感を感じながら、
「銀行で下ろして来るんだな」
 と、一応助言していた。それを耳にするや否や、伸は真剣に慌てながら席を立つ。
「今っ、行って来るから!」
 何もそこまで、と思うほど蒼白な顔をしていた。家柄の良い者は対面に気を使うものだが、物事に真面目な性格なのは確かなようだった。
 ところが更に一転、
「銀行なんてもうとっくに閉まってるぞ?」
 と、遼の口から無情な一言。伸だけでなく当麻も凍り付いていた。
「あっ…」
「そんな…、そんな…!」
 思い詰めた顔で青くなる伸の横で、当麻もまた隠れたそうに頭を抱える。実は研究所員のメインバンクは国際経営の為、彼等は二十四時間銀行を利用できるのだ。一般の銀行には終業時間があることを、当麻はすっかり忘れていた。浮世離れした生活をしているのは、寧ろ自分の方だと更に恥ずかしい思いをしている。
『こんな馬鹿と世間知らずを競ってるのか、俺は』
 しかし当麻の落胆する様子以上に、伸の尋常じゃない事態を心配した秀は、
「おいおい…」
 と、車から外に出て宥めに掛かっていた。もう一歩も身動きを取れない、目に涙を溜めて立っている伸は、全く本当に、思う通り行動できない子供のようで、誰の目にも些か不憫に映った。無論そうなったのも、彼自身のせいではないのだろう。彼が過ごして来た特殊な環境の中で、大事に守られ過ぎたことが徒となっただけのこと。
 一見何の悩みもなさそうなお坊っちゃまだが、それでも不自由な己を藻掻きながら、懸命に生きているのかも知れない。社会の一部に馴染もうと努力しているのかも知れない。と、当麻は異様な光景を横目に見ながら思った。
 そしてよく似たケースだ、とも思った。
「ここにいたのか!、出掛ける時は携帯を持って行けとあれほど…」
 その時、伸に取っての助けの神がやって来て、妙な事態は漸く終息に向かった。

「ほい、ラーメン一丁!」
「ああ…、ありがとう」
 当麻の前に、湯気の立ち昇る丼が差し出された頃、征士は屋台の机に小銭を並べながら言った。
「なにも泣くことはないだろう。ツケにしておけば後で私が払ったのだ」
 しかし伸はひとり悲嘆に暮れるばかりで、征士の穏やかな助言も耳に届かない風だった。
「でも今日はひとりで来たから!、自分でちゃんとしたかったんだ!。みんな僕は、ひとりじゃ何もできないと思ってるけど、僕は何でもひとりでできるんだ…!」
「わかったわかった…」
 結局口を開いた途端、臆面もなくわあわあ泣き出した伸を、征士は宥めるしかなくなっていた。まあそれほど本人は悲しかったのだろう。
 普通の社会では何処へ行っても、一人前と認めてもらえない立場を打開しようと、努力したつもりが今日は失敗に終わった。伸に取っては、真剣な思いだからこそ痛恨の出来事だった。だが、形は違えど誰もがそんな経験をしながら、少しずつ独立の道を歩んで行くものだ。今日は駄目でもいつか、何事も平常心であしらえるようになるのではないか。
 殊に征士のように、長い目で見てくれる誰かが居るなら心配には及ばない。如何に常識外れな人間でも、居場所さえあれば何となく生きていけるものだから。
 そして当麻はラーメンを啜りながら、異常であれどそれなりに纏まっている、ふたりの様子を見て思った。この社会の中に、自分の居られる場所もきっとある筈だと…。
「今日はどうする?」
 屋台の中から秀が征士に声を掛ける。しかしこの状況では流石に面倒だと、
「ああ、今日は帰るよ」
 征士はそう返事した。すると、遼と秀が口々に言う。
「またな!」
「お疲れさん!」
 既に顔馴染みの者同士は、ちょっとした家族のように通じ合っている。途端、口に物が入っていた為に、何も言えなかった当麻が、ふたりの声に続けるように手を振った。それを見て征士はどう思ったことだろう。親しくもない他人に合せるなど、彼には珍しい行動だったので。
 当麻に取って何らかの良い変化が、判る。

 それから、騒動が収まり落ち着きを取り戻した屋台にて、ふと煮え立つ鍋を見上げた当麻に、
「何か聞きてぇことがあるって顔だな?」
 と秀の声が聞こえた。そんなに所在なげな顔をしていたか、或いは不満そうに見えたのか、自分で判らない心の一部を見透かされたようで、当麻は一瞬怯んだ。ただ健康で頑丈そうなだけで、これと言った教養も持たない人物が、こんな風に人の心の機微を感じ取ることもあるのだと。
 否、言葉を持たない動物にすら、コミュニケーションは取れることを忘れているだけだ。寧ろ頭で考えない人間の方が、人の感情を敏感に捉えていたりするものだ。
 それはともかく、秀は正に当麻が聞きたがっていることを言い当てていた。
「前にな、中華街で迷子になってたのを、俺が助けてやったことがあるんだ。いかにも慣れてねぇ感じだったし、何しに来たのかと思えば、ある店で売ってる花山椒を一個だけ買いに来たんだ。一個だけだぜ?。それも同居人の為に、本物の辣白菜(ラーパイツァイ)を作ってやりたかったんだと!」
 無論それは伸と出会った経緯だ。普通に想像すれば征士が連れて来た、と考えるのが自然だったが、どうやらそうではないらしい。先に伸に会い、その保護者として現れたのが征士だった。まあ、お陰でこの屋台の存在を知ったのだから、結果的にはラッキーな事件だったかも知れない。思わぬ事が遠い世界の人間を結ぶ切っ掛けとなった。
 そして秀曰く、
「まー、庶民の感覚はあんま分かんねぇみたいだし、色々変わったお坊っちゃんだが、見てると何でも一生懸命なんだなって感じで、憎めない奴なんだぜ?」
 伸の人物像はそんなもののようだ。
「…ふ〜ん」
 当麻は黙って聞いていたが、やはり秀も、征士と同様のことを言うんだなと思い、自分のことでもないのにホッとさせられていた。
 もうずっと昔から、自分は大人でなくては生きられないと思っていた。何の助けもなく人並み以上のことができている、そんなプライドだけが己の拠り所だったと今は思う。物分かりの良い子供だったことで、仕方なくそうなってしまった。けれど心の何処かで、子供染みた戯れ事も受け止めてくれる誰かを、ずっと欲しがっていたのかも知れないと思う。
 そしてそれはエリート達の城の中には、存在しない優しさだったのだと、気付いただけでも嬉しい兆しだった。学問とは即ち区別であり分別だ。しかし社会の中で分別を働かせ過ぎると、繋がれる人間が少なくなって行く。知性の使い所を間違えてはいけなかった。
 今こうして、エリートらしく在ろうとする意識が揺らぎ始めると、心は却って安息を見い出している。罪人の心は安らかだと言うように、当麻はもう、無理に己を作って生きようとは考えない。その方が遥かに楽で幸福だと、考えられる年令になったことでもあるだろう。
 すると、
「一生懸命、社会を勉強してるって意味ではお宅と同じだな?」
「!…、ゴホゴホッ…」
 思わぬ秀の話の結びに、当麻は思わずスープを咳き込んでしまった。
「ハハハッ!」
「誰からそんなことを…」
「別に誰からも聞いちゃいねぇよ?。二十才のお祝いから屋台に来出したからさ!」
 秀は意外と勘も良い。否、多くの人間を観察して言えることなのだろう。暫し遣り取りを聞いていた遼も、
「へぇ?、そうだったのか」
 と、秀の指摘が当たっているらしきことに感心していた。そして彼もまた、当麻には殊に優しい言葉を贈ってくれた。
「ま、身分は違えどみんな何かに苦労するよな」
 続けて秀も言った。
「そうそ、屋台を始めてから色んな奴を見て来たが、どんな奴も夢を語るのと一緒に、身の上のグチを吐いてくもんだ。だからここでは、どんな情けねぇことも、下らねぇことも言っていいんだぜ?。どうせみんな空の何処かに飛んでっちまうからな!」
「・・・・・・・・」
 彼等の有り難い講釈が身に滲みる。儘ならないことが幾つかあってこそ、人は生きる希望を失わずに居られる。与えられた環境と、思考するレベルやスキルの違いはあれど、確かに誰もが同じ意識で動いているのかも知れない、と実感を与えてくれる。自分と外の世界には、共通点が全くない訳ではないのだと。
 そう、遠い空の更に向こう、地球人には見慣れた太陽の光も、六千万光年離れた乙女座星雲の古の輝きも、どちらにしても絶えなくここに届くように、全ての存在が何らかの形で関わり合っての宇宙、そしてその中の社会だ。誰もがその調和の中に居ることを、信じようとすればこそ、自ずと繋がり合えるものかも知れない。
 一杯の、こだわりのあるラーメンに出会って見えた摂理。
「因みに俺の夢は、中華街で一番デカい店を持つことだ!。だが、一番の悩みはその元手がねぇことだな」
 と、その時初めて秀が、自らの展望について当麻に語った。ブルーカラーの労働者にはいつも明るい夢がある。何故なら思考レベルの高い者ほど、楽観的な視野を失って行くからだ。だからこそ、世界の主導者は何でもない民衆でなければならない。
「親父さんに頼めばいいんじゃないのか?」
「う〜ん、俺ン家はそーゆーとこ厳しくてな。独立するなら何でも自分でやれ!って方針なのさ」
「そりゃ厳しいな」
 多少事情を知っていた遼も、秀の前途にはなかなか困難な道程が待っていることを、容易に想像できていた。
 けれど、彼のバイタリティならきっと大丈夫だろう。
 当麻はすっかり空になった丼を置くと、至って満足そうな顔をして言った。
「うん。その時は俺が出資しよう」
「おっ?、マジ…!?」
 表面上笑ってはいたが、当麻なりに真面目に考え、今はそれが一番有意義なお金の使い道だと思ったようだ。できることならずっと、彼等と同じ夢を見られるといい。金で買える物に大した価値はないと言うが、形の無いものへの投資は将来の礎となるだろう。
「その為に、日々研究に励んでくれ。俺も毎日研究ばっかりしてるけど」
 と当麻が続けると、まだ冗談とも本気とも取れなかったが、秀は満面の笑みで答えた。
「よーし!、今の言葉忘れんなよ?」
 すると、続けてすぐ遼も、
「じゃあ俺は第一号の客になるとしよう!」
 と言って、ここから始まりそうな未来を歓迎していた。

 今日この時までどう生きて来たか、その経緯は変えられないとしても。記憶に残された悲しみは消えないとしても。今、広い世界の片隅に立ち、偶然交差したそれぞれの人生の煌めきを見ている。名も無き人々の懐の深さを感じている。その頼もしい腕の上で、この先変化して行く過程を楽しみに待っていられる、余裕こそ全ての幸福の鍵だ、と当麻は思った。



 それにしても、考えてみれば征士はよくよく苦労人だった。似たような問題児をふたりも身近に抱え、彼等には格別の配慮をし続けている。世の中には、同タイプの人間を集めてしまう人が居ると言うが、それは確かなようだった。









コメント)と言う訳で、本来書きたかった形を何とか復元して、再お目見えとなったお話ですが、楽しんでいただけたかしら…(^ ^;。この本の発行当時は、時間がなくて尻切れトンボだった話なので、完結させただけでも個人的には満足です。
この最後のページだけ、文章の形が違っちゃってるかも知れない点が、不満と言えば不満ですが。若い当麻の凝り固まった世界をイメージしてなのか、妙に言い切りが多い文章で、後から合せて書くのが大変でした。最近そういう書き方はほとんどしないので…。
それと、最後に書くのはものすごく卑怯ですが、これ当秀じゃなくて秀当だ(笑)。どう読んでも。



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