当麻と秀1
BLUE COLOUR WORKER
#1
ブルーカラー・ワーカー



 2128年10月10日。
「あーあ、もうこんな時間か、いい加減帰らないと…」
 その日羽柴当麻は二十才の誕生日を迎えた。
 彼の通う国際総合科学研究所・日本支部の白亜のビルは、その日も何の変わりもなく、広がる海原の真ん中に聳え立っていた。
「一日なんてあっと言う間だな」

 今から十一年前に完成したこの研究所は、現在名実とも世界の最先端科学を担う研究施設である。無論日本では最高峰の施設であり、その設備には充分な維持費と研究費を注ぎ込む、国際的な支援機関が後ろ盾となっている。二十二年前にアメリカで発案された『地球の頭脳計画』。それは計画通りの軌道に乗り、一国では財源的にも人員的にも難しかった各種研究が、今や飛躍的スピードで進んでいた。
 現在、発案国アメリカに三ケ所、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアなど欧州の国に一ケ所ずつ、アフリカ大陸とオーストラリアにはまだ一ケ所ずつしかないが、この日本には早い段階で、アジア最初の国際研究所が設立された。現在は中国にも二ケ所存在する。
 そこは科学の粋を集めた研究者の城。
 嘗ては黒船が来航し、無知蒙昧な人々を沸かせた横浜の海上に、ぽかりと浮かぶ浮き島のような施設群が存在している。そして力学、工学、薬学、医学、自然科学などあらゆる分野を研究する、優れた研究者達が日々しのぎを削っている。
 さて羽柴当麻と言う人が、若年ながら天才物理学者として学会に承認され、今の地位を得たのは三年ほど前のことだ。
 私立の高等学校から国立の大学へ、十四才で飛び級入学ののち、十七才でこの研究所のメンバーに招かれた。父も科学者であった彼に取って、この職種は当たり前過ぎる天職かも知れない。無論、世界二十二カ国の共同運営による、国際的な研究所に引き抜かれる程の才能は、父親の方には発現しないものだったが。
 そして御想像の通り、ここに所属する者は皆別格の待遇を受けて暮らしている。一国家でなく、地球世界全体の為となる頭脳集団の一員には、それなりの待遇と報酬が与えられて然りだ。本来ならまだ学舎に通う年令の彼が、家政婦付きの一軒家を持ち、ガードマンと運転手付きの車で通勤しているのも、彼の頭脳が世界の宝であるからに他ならない。
 そんな、羨望の的にも成り得る立場の彼だったが、見ようによっては十七才と言う年から、只管己の選んだ研究に打ち込み、生活を楽しむ時間などごく僅か、とあらば多少不憫な境遇に感じなくない。しかしながら、彼は学ぶことも思惟することも趣味と言える程、勉学には関心が深かった為、今のところは特殊な生活に不満を感じていないようだ。
 飛び級のせいで、学生時代は友達と呼べる存在も無かったが、研究所に来てからは年の近い友人もできた。年若く夢多き今は、彼の想像し得る人生の最高の時かも知れなかった。

「おめでとう…と言って良いのか?」
 まだ秋と言うには妙に暖かい、十月十日の、日の暮れた暗い窓辺に立っていた当麻に、背後から声を掛けたのが唯一の友人である男だ。
「うーん…。何がお目出たいのかわからんが」
 当麻が言いながら振り返ると、そこには予想通り仏頂面の彼の顔が在った。
「ククク、そう斜に構えることもなかろう」
 本日二十才になった当麻とは同じ年で、通常の学年で言えばひとつ上、ここへの入所は二年後輩に当たる彼は伊達征士と言う。量子力学が専門の研究員だ。つまり彼は十六才で大学に進み、十九才で研究所に入ったと言う経歴を持つ。入所ルートも似ているが、ふたりはお互い似た気質を持っていると、会った時から何処となく理解できたようだった。
 また当麻は素粒子物理を中心に活動しており、分野が少々被る為、同じ学校の仲間のように付き合える人物だった。征士の専門である量子力学は、主に電子や光子の運動メカニズムを扱う分野であり、当麻の専門の素粒子物理は、陽子、電子、ニュートリノ等と、最近発見された重力子を組み合わせ、広域な時空間で起こり得る物理を扱う分野である。
 その重力子、英名グラビトンの発見について、二十世紀末にはホーキンスが存在を予言しながら、そのものは十一年前に漸く確認されたばかりだ。そしてその微細な物質の発見こそが、羽柴当麻と言う一学生を天才たらしめることとなる。
 彼の研究テーマは学生の頃よりずっと、「重力子の運動と不確定性定理」と言うもの。発見された重力子が質量間を行き来することにより、アインシュタインによる一般相対性理論の、特異点を宇宙に存在する十次元の内に探せるか…、難解だが大体そんな内容である。不確定性定理とは重力崩壊時の現象のことだが、詳しい説明はここでは割愛する。
 ところでそんな、非人間的な話題が飛び交う研究所だが、無論研究者達にも普通の生活と言うものはある。誰だとしても、友達が訪ねて来れば嬉しいし、祝いの席に呼ばれれば華やいだ気分になる。大概の者はその通りなのだが、
「あのなぁ、いくら何でも、誕生日が嬉しいって年じゃないだろう」
「それはそうだが、何かしら嬉しいこともあるのでは?」
 いつも素直な返事をしない当麻に対し、征士はそう返しながら続けた。
「例えば酒が飲めるとか、煙草が吸えるとか、ああ、折角だからこれから酒盛にでも出掛けるか?」
 午後七時半を過ぎて、所内の殆どの者は帰宅の途に着く時間だった。徹底して所員の健康管理まで考えるこの場所では、例外的な事情がない限り、定時に作業を止めて帰宅することを義務付けている。退社後何処かに寄るのは自由だが、毎日七時間の睡眠を摂るのも義務のひとつ、あまり夜更かしはできない。
「おまえの奢りならな」
 ままあって当麻はそう返事したが、本当はどうでも良いことの筈だった。ここでは誰も皆、充分過ぎる程の報酬を受け取っている。特に金の掛かる趣味を持たない、家庭も持たない彼が、金銭のやり取りにこだわる背景は全くなかった。なのに、どうしてもそんな捻くれた言い回しをしてしまう、彼の欠点らしい欠点と言えばそれだ。
 頭の回転が早く、状況理解力にも長け、それでいて人並みに家族を慕う子供だった幼少期。彼はそんな子供の頃に、あまり手を掛けてくれなかった両親に対し、無意識に「不満はない」との演技をし続けて来た経緯がある。後に離婚した夫婦に対し、双方が自分のことで負い目を持たないように、との配慮だった。世の中には仕方のないこともあると、子供なりに達観していた彼の行動。
 そんな過程から、羽柴当麻と言う人は率直にものを言えない、素直でない一面が形成されることとなる。恐らく自分は始めから大人として生まれ、始めから独立して生きていると感じていただろう。当時彼はまだ小学校にも入学していなかったが、そんな考えを持って育てば、自ずと他人から遠ざかって行く結果にもなった。彼に友人らしい友人ができたのは、実に十三年振りのことだった。
 そして、
「いいとも。誕生日とは本人より周りが目出たい日だ」
 その辺りを征士は割合良く心得ていた。まあ、頭脳が人並以上に発達した者は、何処かしら変わった人間が多いのも確かだ。研究所内のそんな人付き合いにも慣れた。穿くられたくないプライバシーは誰にもあることなので、相手の気に触りそうな話題には踏み込まず、征士は上手く彼と折り合うことができていた。
「よし、じゃあどっか紹介してくれ。お前はもう随分飲み歩いていると聞いたぞ?」
「ハハハ。誰かな、そんなことを吹聴するのは」
 こうして、特に何の予定も無かった一研究員の夜は、突然成人祝いの酒宴へと変わった。



 港町の夜は、何処でも土地毎の風情があるものだが、その晩の横浜の町並みは、少し酔っ払った当麻には格別なものに見えたことだろう。良い見晴しかどうかはともかく、これまで見て来た景色とは何かしら違って見えた筈だ。初めて仕事帰りに、友人と連れ立って酒を飲みに出た。初めて酩酊状態の心地良さを味わっている。人に誕生日を祝われるのもそう悪くないと、俄に思い直したのではないか。
 大人には大人だけが持ち得る世界がある。日中の生活だけでは知り得ない、まして研究所と家との行き来だけでは、覗けない夜の社会があるものだ。
 今夜はほんの少しその片鱗に触れ、すっかり上機嫌に変わっている当麻。
「ラーメンが食いたい」
 時計の針が午後十時に差し掛かる頃、征士の馴染みの赤ちょうちんから出て来るなり、とろんとした目をしながら当麻が呟いた。
「あまりお勧めしないが、まあ良い」
 征士がそんな返事をしたのは、無論健康上良い組合せではないからだ。酒を飲んだ後に、何故だかラーメンを食べたくなるのは、日本人に多く見られる不思議な習性だと思う。それを研究する者は今のところ居ないが、今日初めてまともに酒を飲んだ彼にも、その法則が当て嵌まるのは大したことだ。
 と、征士は内心に思いながら、まず一般的な酒飲みコースを案内するのも一興と、車の運転手に頼み、そこから程近い駅前の屋台へと運んでもらうことにした。因みにそこもまた征士には馴染みの場所であり、あまり知られない隠れた穴場でもあった。プレゼント代わりに、そのひとつを当麻に紹介してやろうと言う訳だ。
 勿論、当麻が昼食にしょっ中ラーメンを選ぶのを征士は知っている。好きだからか面倒だからかは不明だが、研究所内の食堂とは比較にならない、優れた味と言うものを知って損はないだろう。そう考える征士はかなりの美食家だったが、何故そうなったのか今はまだ誰も知らない。

 横浜を東西に巡る地下鉄の某駅前に、その屋台はひっそりと店を開いていた。飲み屋帰りの出来上がった客が寄り付く時間には、まだ少々余裕があったのか、屋台の前に腰を下ろす者は誰も見えなかった。
 ところで屋台と言っても、昔ながらのリヤカーや軽トラックを想像してはいけない。近代的な流線形のワゴンに、キャンピングカー以上の設備を揃えた『ショップランナー』は、世界中のあらゆる地域で重宝されるヒット車なのだ。特に貧困地域では必需品だが、豊かな国ではイベント等のケータリングに使われることが多い。動力も太陽電池とメタンエンジンの混合で、燃費はほぼゼロ、環境にも優しい車だそうだ。
 しかし屋台にはラーメン屋らしく、昔ながらの赤い暖簾が下げられている。店の名前は『金剛』と言った。
「よう、久し振りだな!。…大丈夫かそいつ?」
 夜空の暗がりに白い湯気が立ち昇っている。暖簾の向こうから身を乗り出して、その小さな店の小柄な主人は声を掛けた。すると、
「…大丈夫だとも…」
 のっそりとした動作で、屋台の上に被さるように伏せてしまった当麻は、具合が悪そうではないが、頗る眠そうな態度を隠さずにいる。その様子を見ながら、
「今日は彼の成人祝いなんだ」
 と征士が説明すると、
「ヘヘぇ、『フロッグ』ってーとこだな」
 短い言葉ながら意思の疎通はできたらしく、当麻以外のふたりは調子を合わせて笑った。
「フロッグって何だ…」
 こんな場所での会話には全く慣れない当麻のこと、意味を尋ねるのも、今日と言う日なら恥はないだろう。眠そうでいながらも、耳慣れない言葉には確とチェックが入っている、彼の向学心は半端ではない。
「下戸って意味だぜ、お客さん」
「ああ…、ゲコね…」
 聞いてみれば「子供のなぞなぞじゃあるまいし」と言うものだったが。そしてそのやり取りをしている間に、征士は適当に考えて注文を告げていた。
「こいつにはラーメン、私は冷やを貰おう」
「まいど!」
 途端、主人の威勢の良い声が辺りに響いた。
 この屋台の料理人兼主人である彼は、名前を秀麗黄と言う。征士と彼はちょっとした事件が切っ掛けで知り合ったが、以来しばしばこの屋台にて、世間話を交わす馴染み客となっていた。しかし、
「って、そう言やあんたの年は?。聞いたことなかったな」
 日が経つに連れ、お互いそこまで離れていないと知り、細かなプロフィールを話したことはなかった。今日は連れのお陰で丁度年令の話題が出た。この機に聞いてみるかと秀は思ったようだ。
「彼と同じだ」
 征士が隣を示しながら答えると、
「へぇ?、俺も同じ年だぜ?、ギャハハ!」
 何故だか秀は、さも可笑しそうに笑い出していた。
「あんたもっと年いってんのかと思った!、はい冷や一丁」
 なみなみと注がれたコップ酒を前に、征士は苦笑いするしかなかった。
 実は最初に征士と会った時、秀は自分よりかなり年上だと思ったのだ。服装や体格、妙に落ち着いた(ように見える)態度などから、そんな印象を受け取ったようだ。しかしその後、こうして屋台を挟んで会話する内、そうでもなさそうな雰囲気に気付いた。見た目に比較すると、精神的には十は若いような思考がしばしば見られたので。
 だから、実は同じ年と聞いて尚可笑しかったのだ。
「よく言われる。…それなら秀はもっと若く見えて、そうでもないと知っていた」
「えぇ?、何でだ?」
「大酒を飲むからさ」
 そして征士も、初見の印象とは違う秀の一面を見て、大体のことは予想が付いていたようだ。注文が途切れる度、秀は屋台の端に椅子を出して座り、どんな飲兵衛な客にも合わせて酒を飲む。それでは商売上がったりだろう、と思われるが、この屋台の目的は金銭的利益ではない為、彼の好きなようにやっているようだ。
「アッハハ、だろだろ?、未成年が酒を喰らってるって、こないだ注意されたばっかりなんだよなー。困っちまうぜ、ホント」
 そんな会話をしながらも、彼の手は見事な早さで作業を続けていた。今正に茹で上がった麺の水気を落とし、薫り立つスープの中に流し込んだところだ。出汁と醤油の香りがふわっと鼻先に届く。このスープの味を損ねない為に、乗せる具はシンプルに葱とチャーシュー一枚、ナルト一枚とメンマのみ。
 けれど、
「はいよ、ラーメンお待ち!。誕生日だっつーから、チャーシュー一枚おまけだぜ?」
 秀がそう言いながら丼を差し出すと、完全に寝入っているかと思われた当麻が、今目覚めたように伸びをして言った。
「…ふおぉぉぉ、いい臭いだー…」
「たりめーだろ!、俺は一杯のラーメンに日々研究を重ねてんだ。手抜きは絶対しねーからな!」
 堂々と自身あり気な秀の台詞は、その時の当麻には全く聞こえていなかったが、彼の目が魅力的に煙を上げる食品に集中していては、「まあ講釈は必要ないか」と許してやるしかない。
「研究…、そうか、研究成果が出たか…」
 ただその単語だけは聞き取れたようだ。彼の日常に多く登場する言葉のひとつである。
「酔っているな」
「『研究成果』って?。何だかなぁ?」
 そして要領を得ない秀のどんぐり眼に、征士はやはり初めてする自己紹介を加えた。
「私達はそこの、海上にある研究所に勤めているんだ」
「おっ?、マジ?。すげぇエリートじゃんか」
 だがそんな風に煽てられても、誇らしく感じられないのが征士の常だった。何故なら研究所員はある意味で隔離されている。人によっては、他人には絶対素性を明かさない者も居る。金銭目当てか、頭脳が目的か、誘拐等の事件に巻き込まれない為だ。
 だがそうして一般社会から逃げ続けることが、リスクを避けて安穏と暮らすことが、社会人として胸を張れる行動だろうか?。見方に拠っては子供のように守られ、お城の中で大事にされていると言う立場が、征士には後ろめたく思えるところがあった。
 だから彼は自主的に夜の町へと出て来る。
「さあ、エリートかどうかは知らん。ただ専門分野に長けていると言うだけだ」
 酒の所為ではないが、何故だか遣る瀬ない笑いも込み上げて来た。この屋台に集う、顔馴染みの一般労働者の顔が次々浮かんで来る。彼等と自分の違いは何か?、何故人は誰もが同じ条件で同様に幸せになれないのか?、と、征士は何気ない会話の中から、いつもいつも考えていた。
「それに、ラーメンを極めると言うのも立派な専門分野だ。私達のやっている事と大差ない…」
 もうこれ以上詰まらない話は止めよう。そう思い征士が言いかけた時、
「うっめ〜〜〜♪」
 一際呑気な感嘆の声が上がった。当麻は脇目も振らず無心で麺を啜っている。
「そーだろ?、他のラーメンなんか食えなくなるぜ?」
 確かに酔っ払ってはいるが、当麻の嬉々とした仕種からは、本当に『旨い』と言う言葉が聞こえて来るようだ。そしてそんな客の様子を見られるのが、今の秀には一番の利益だった。
「私は、秀の方がよほど凄い事をやっていると思う」
 苦笑しつつ前からの話を纏めた征士に、秀は屈託のない笑顔で答える。
「まぁ修行だからな、苦労しなきゃあな!」
 不思議と、全く違う立場の人の気持が解ることもある。世界の違う者は見る夢も違うだろうが、叶う喜びは皆同じかも知れない。苦悩が無ければ幸福も存在しない。ここに来てそんな発見もできたので、征士はホッと表情を緩めた。すると、
「修行…?、ラーメンの?」
 一気に三分の二ほどを食べ終え、汁を飲もうと丼を持ち上げた当麻が、突然まともそうな言葉を発していた。さて何に関心が向いたのやら、一般には専門が何であれ、一流の調理師に修行行動は当たり前と思われる。
「ん、俺ン家はでけぇ中華屋なんだけどな。高級食材を使った宮廷料理もいいんだが、俺は庶民的な味覚も大事だと思う訳よ?。だから自主的に研究してんのさ」
 成程、と思わせる彼の弁に共感し、答えたのは征士の方だったが。
「仕事熱心だな」
「俺ぁほとんど日本人だからな、親父達に比べっと、もっと日本的な好みも判るしな!」
 そして聞いていたのかいないのか、当麻は丼の位置を戻す前に、
「うん…、何事も研究が大事だ…」
 などと呟いてから、僅かな残りを食べる行動に没頭していた。
「ヘヘ?、おまえまともなのか酔ってんのかはっきりしろい」
「クックッ…」

 何はともあれ、今年の当麻の誕生日は特別だった。友人の奢りで飲めない酒を飲み、過去最高と思える味のラーメンに出会った。そしてそんなささやかな出来事が、彼の今後の人生を変えて行くとは誰も思うまい…。



 翌朝当麻は、普段よりも更に深く眠った感覚の後、普段より激しい調子で起こされた。
 そして何処となく気だるい様子で研究所に足を運んでいた。彼の家には家政婦がほぼ毎日、朝から夕方までのシフトでやって来る。誰かが起こしてくれなければ、終日眠り込んでしまうところだったが、そんな時程家政婦の存在は有り難いものだった。
 天才と呼ばれる人物にしても、目に余る生活態度が露見すれば、解雇される可能性がない訳ではなかった。まあ、遅刻が多い程度ならそこまでのことはないが、欠勤は大いに問題だった。
 今の時代、ホワイトカラーの職種でフレックスタイム制は当然だが、研究所では更に寛容なシステムを設けている。定時は一応午前九時から午後六時だが、午前中に研究所の何処かに出勤していれば、それですぐ帰ってしまっても構わないのだ。とにかく毎日研究所に足を運んでいれば良い。代わりに彼等は自らが提案したノルマを、期限内に必ず終了して発表しなければならない。一日何時間労働する、といった決まりはここで役に立たないからだ。
 しかし巨額な研究費が投入される以上、所属する者達が真面目にやっているかどうか、何らかの方法で測る必要もある。その結果がこんなシステムになったらしい。そして、犬にさえ可能な出勤ルールを守れないとあれば、問題視されても仕方がなかった。
 拠って当麻は、最も危惧される「欠勤続き」を回避する策として、家政婦には朝七時には来てもらい、八時に起こしてもらうことにしていた。尚本人が出勤したかどうかは、今日日のハイテクではまず誤魔化しはできなかった。

『どうも冴えないな、今日は』
 そうして今朝は十時には出勤できていたが、彼は研究所の自室の机に就いたまま、結局何もしない内に十二時のチャイムを聞いていた。
 部屋の外の廊下からは俄に、人の足音や雑談する話し声が聞こえ始める。特に空腹は感じていなかったが、こんな時は気分転換に出掛けるのも良いだろうと立ち上がり、部屋を出て、当麻は食堂へ向かう人々に紛れることにした。
 まだ新しい建物の、清潔で小綺麗な内装は廊下から何処までも続く。しかし研究所などと言う場所は大概、一見すると病院のようで味気なくもある。思索に没頭すれば、気の散る要素が視界に入るだけで迷惑だが、そうでもなく過ごしている時には、些か簡素過ぎて目に淋しい現代の城。
 けれど考えてみれば、研究室に篭り切りだった父親と共に居て、こんな場所でばかり過ごしたのだから、これが自分の原風景でもあると当麻は思う。表面の美しさや楽しさは必要ない。目に見えない所にこそ真の面白さが隠されていると、教えられた通りの科学界なのだから。
 見た目味気なくて結構じゃないか…。
「うーん…」
 研究所には幾つかの食堂があるが、当麻がよく利用する北棟の食堂の前には、時間になると必ずランチセットの見本が並べて置いてある。本日のランチのメインは、オストリッチの網焼きソテーかグリーンランドコッドのフリッター。どちらも美味しそうではあったが、きっちり昼食を摂る気のない当麻は、いつものように麺類のカウンターに足を運んだ。
 ところが、
「…うーん…、…」
 流石の彼も、ラーメンを注文する気にはなれなかった。朧げな昨夜の記憶が蘇って来る、『他のラーメンなんか食えなくなるぜ』と誰かに言われた。そして言葉は朧げでも、その味ははっきりと憶えていた。
 その時、気付かぬ内に横に立っていた、地質分析学の柳生女史が声を掛ける。
「羽柴君?、ラーメンじゃないの?」
 そう言って彼女は顔を向け、迷う当麻の様子を不思議そうに眺めた。彼女もまた相当な若年からこの研究所に居り、比較的年も近かった為に、当麻には仲の良い研究者のひとりだった。それ故彼の注文するメニューが、ほぼ決まっていることを知っているようだ。
 しかし今日の彼は勝手が違う。
「いや…、あ、おっさん、うどんくれ」
 カウンターの奥に向かって、そう声を発した当麻に、
「ハハハ、やっぱりな」
 そのカウンターから程近い席で、ランチを食べていた征士が聞こえるように笑っていた。

「やっぱりってどういうことよ?」
 征士の向かいにナスティが、その隣に当麻が座り、彼等はほぼいつもの面子で昼食となった。事情を知っていそうな征士に、ナスティは早速「当麻の理由」を尋ねてみる。
「いや昨日、あるラーメンの屋台に当麻を連れて行ったところなんだ」
「『あるラーメンの屋台』って、まあ何?、そんなに美味しいところなの?」
 すると征士の話し口調から、ナスティはそんなところを確と読み取っていた。単なる社員食堂並みのラーメンでは、物足りなく感じる程それは美味しいのだと。
「私が知る限りでは」
 と征士が答えると、ナスティの方は、彼が町に存在する「美味しいもの」をよく知っている、非常に舌の肥えた人であるとも知っていて、酷く関心を寄せ始めた。否、重ね重ね言うようだが、征士は好きでそうなった訳ではない。だが人付き合いには役立つ知識であることこの上ない。
「じゃあ今度、忘年会の後にでも連れてってよ?」
 そう返した彼女、地質分析の研究員である柳生女史は、仕事帰りに飲み歩くのがひとつの趣味、と言える程の『豪気を持つお嬢様』として、研究所内でもよく知られる存在だった。先輩後輩共に顔が広く、面倒見の良い彼女には付き合える仲間も多く居る。征士も既に、彼女の飲み友達の内になっているようだ。
 そんな背景から言えば、例の屋台を紹介したいのは山々だったが、
「人数が少ない時でないと難しい」
 大勢でがやがや騒げる場所ではない、と征士が言い掛けたところで、
「無理だ」
 大人しくうどんを啜っていた当麻が突然口を挟んだ。
「恐らく忘年会の時期は混むだろう」
 彼に判ることと言えば、その屋台にはせいぜい六、七人座れば一杯だと言うこと。五人も居れば連れて行くには多過ぎる。
 しかし征士は、
「そういう時はそういう時の楽しさもあるがな」
 と、当麻の意見を肯定しなかった。
「・・・・・・・・」
「主人も気さくで明るい人間だが、そこに集まって来る近場の労働者も、気持の良い連中ばかりなんだ。そんな中に紛れているのは実に面白い」
 征士がそう続けると、
「あっ、わかるわー!。肉体労働者って何故かしら?、すごく自然な人々って感じがするのよね」
 ナスティが返した内容の、何処が答になっているかも判別できず、当麻は黙ったままでいるしかなかった。取り敢えず地質の研究者らしい、古来からの人間の在り方を現代人に重ね見ているような、彼女の発言はそれなりに面白いと思いながら。
 太古の昔、日々食料を得る為の労働に明け暮れ、寄り道のできないサイクルで人は生きていた。頭脳労働を充分にする為には、基本的な衣食住の為に費やす時間以上に、余暇が必要なのは確かなことだ。つまり「退屈の産物として学問がある」とも言えた。
 そこで、頭の良い者達にはひとつのジレンマが生まれる。
 学問など言ってみれば暇潰しだと。
 そんな言い換えが成り立ってしまうからこそ、学者や研究者は、単純労働者の生き様に憧れを持ったりするようだ。日々数値や文字ばかりを追っている自分より、彼等の方が余程大切な活動をしている、自分は彼等に比べ、決して重要な立場の人間ではないと覚ってしまう。科学の発展が真の意味で、人を幸福にしたかどうかは今を以っても測れないからだ。
 少なくともこの場に於いて、ナスティと征士にはそんな感覚があるらしい。
 けれど、
「うーん、俺には想像が付かない…」
 ただひとり、当麻にだけはその理解が及ばないでいた。この場合は頭の出来とはまた違う問題だ。彼に取っての普通の人間とは、普通とは言えない両親がモデルにされている。彼の心の根差す地面が、他のふたりとは違うことを示している。
 またそのせいか、当麻は警戒心を露にして続けた。
「ただ、そんな風に違う世界の人種と関わっていいのか?。危険回避の為に、なるべく行動を慎むように言われてるじゃないか」
 前途の通り、それはこの研究所内の教則のようなものだったが、
「まぁぁ、羽柴君って意外とお堅いんだわ!」
「堅い…?」
 大人ならば、どう身を守るかは個人の選択の自由だ。つまり「頭が固い」と言われた訳だが、滅多に耳にすることのない言葉で、同レベルの研究者に指摘されては、当麻にも下手な反論はできなかった。若くして年長者に劣らない研究員となった彼も、そんな面ではまだ子供の部類なのかも知れない。勿論本人にも、世の中に知らないことは多くあると自覚があったけれど。
 規則ではない理念、大人であるが故に選択できる自由、その自由を行使しない人間が居るとすれば、自ら世界を放棄していることに他ならない。まあナスティはそこまでのことは言っていないが、
「色んな奴がいるものさ、当麻」
 征士は全ての意味を込めて、彼には親切に答えたつもりだった。
 天才と言えども神ではない、誰も全てを知りはしないのだから、慣れ親しんだエリート達の住処を少し離れ、違う世界を見聞することは人として必要だ。会話レベルや言葉の面で、時には意識の隔たりを感じることもあるが、思っているほど通じ合えない人間ばかりではない。寧ろ無学である彼等が、医者などより安らぎを与えてくれる時もある。
 できることなら、当麻には友人のひとりとして解ってほしい。征士には切にそれを願う事情があった。



「わはははは!、来たなトウマ」
 その日の夜、当麻が単身屋台のラーメン屋に足を運ぶと、予想通りと言った、勝ち誇ったような笑顔で秀は迎えてくれた。
「…何で名前を知ってるんだ」
「昨日連れに聞いたじゃねぇか、忘れたのか?」
 そう、忘れているのは当麻の方だった。彼は昨晩ここでの食事を終えると、自ら「また来る」と言ったのだ。その際征士が、
『こいつは多分常連になると思う、当麻と言うんだ、憶えてやってくれ』
 とご丁寧にも、お世話になると挨拶をして帰った。まあ、その後の当麻は危険な千鳥足だったので、征士が彼の運転手を呼びに行ったのを思えば、忘れていても不思議はないかも知れない。
 ただ本人が釈然としない様子で居ると、
「見ない顔だな」
 と、横から声を掛ける者が居た。その時『金剛』の屋台には既にひとりの客が座っていた。ありふれたグレーの作業服に身を包み、日焼けして精悍な印象のする男は、既にひとつ丼を空けて、秀から冷や酒を手渡されているところだった。彼の一言から察するに、この屋台の馴染み客のひとりらしい。すると秀は耳打ちするでもなく、
「新しい常連候補だぜ?、昨日こーゆー髪の、こーゆー奴が連れて来たんだ」
 身振りで特徴的な髪型を表し、指で両目の端を吊り上げて見せた。
 秀は征士の名前を聞いてはいるが、客である男が彼の名を知っているとは限らない。だからそんな伝達方法になったようだが、
「ああ、あいつの知り合いか」
 確と相手に伝わっているのは、偏に征士の外見は判り易いと言うことだろう。しかし当麻にはこの作業服姿の、如何にも飾り気のない一労働者が、征士を「あいつ」呼ばわりしている現実が、どうにも違和感に感じられている。
「知ってるのか?」
 気に触らない程度に一言尋ねてみると、
「ああ、何度かここで話したことがあるが、見かけによらず面白い奴だよな、あいつは」
 確かに的を射ているような、疑いようのない返事が返って来る。
「へえ…」
「俺はこの近所の倉庫で働いてるんだ、荷物の積み降ろし業ってやつ。疲れる仕事だぜ?、だが給料はまあまあいいから続いてるよ。家族はいねーし、ここにはしょっ中入り浸ってるから、以後よろしくトウマ君。あ、名前は真田遼って言うんだ」
 そして彼は挨拶ついでに、自分のプロフィールをすっかり話してしまっていた。
「あ、ああ、宜しく…」
 その背景的な説明も何だが、初対面の人間にまるで警戒せず、開けっ広げな態度の彼には些か驚かされていた。既に酔っているのかも知れないが、これまでに会ったことのないタイプだと当麻は感じる。これが上流社会なら不躾と取られそうだが、一般のレベルではどうなのかも判断が付かない。合わせて「宜しく」と返したものの、何を続けて良いか困りながら立ち尽くしていた。
「おい、ラーメンでいいのか?」
 そこで秀が声を掛けてくれなければ、そんな様子を妙に思われたことだろう。まだ場に慣れない客に対しても、秀は商売人として、必要な気遣いと言うものを心得ているようだ。
「ああ、頼む」
 だから漸く当麻は落ち着いて椅子に掛けることができた。再びここに来た目的は、当たり前だがまずラーメンを食べることだ。それがまともにできないようでは話にならない。珍しく当麻は己を情けなく感じ始めていた。と、そんな時、
「あっ、そうだ、おまえ『危険物取扱い資格』ってわかんねーかなぁ?」
 鍋の上で麺を解きながら、秀は急に顔を上げて当麻に言った。
 危険物取扱い資格とは主にガソリン、ガスなどの燃料を扱う者に必要な知識だ。近頃はめっきり「危険物」で動く乗り物は見なくなったが、工場機械などの動力には、まだ多くそれを使用するものもある。関わる為には勿論資格が必要。つまりその資格を所有していれば、多少専門的な仕事ができるのだろう。
 ただ「多少」と言うのは、そこまで難しい資格ではない為、資格所有者が非常に多い意味である。資格があれば必ず職に就ける類のものではない。
 そして当麻には残念ながらその知識はなかった。
「危険物…、うーん、専門外みたいだな…?」
 自分が科学者であることは、恐らく昨夜征士が話したんだろうと予想が付いた。だから何らかのアドバイスを期待し、自分に話が振られたとも当麻は気付いていた。しかし科学と一口に言っても、当麻は物理学、征士は力学、柳生女史は地質学と、仲間内でもそれぞれに分野が違うように、数え切れない程の科学技術が存在している。
 また、危険物はむしろ筆記違いの「化学」の分野だ。内容はともかく、当麻がその資格について知らないことは、何らおかしくはなかった。
 ただおかしくないのに、何故だか、答えられないことを当麻は酷く済まなく感じている。期待されることに答を出すのが研究者の役目、或いは存在価値だとでも考えているようだ。そう、一般の市民との関わりを持たない彼は、こんな場面で変に肩肘を張り、何かをしてやらなくてはと考えてしまうのだろう。職業を聞いたからと言って、誰も過度な期待はしないのが普通とも知らずに。
 ともすれば彼は、「違う世界」と自分の世界との信頼関係を、そんな形に置き換えているのかも知れない。何も当麻がひとりが、大衆に支えられた立場と言う訳ではないのだが…。
 そして、彼の困った様子を暫し観察していた秀は、
「駄ー目だこりゃ!、ハハッ」
 そう言いながら特にがっかりした風でもなく笑っていた。笑っている秀を見れば、当麻の方も考え込むことなく、取り敢えず気を落ち着かせることができただろう。すると、
「あーあ、もー!」
 次いで横に座る遼が、屋台の板に顎を乗せてそんな声を上げた。どうやら危険物の知識は秀に必要なのではなく、遼に必要なものだったようだ。
「それが…どうかしたか?」
 今は些か感情的になっている、オーバーアクションで遣り切れなさを現す遼に対し、当麻が一応聞こうと言う態度を示すと、
「こいつ、その資格を受験して落ちちまったんだとさ!」
「畜生ー、一発で受からなきゃ受験料を損するじゃねーかよ!」
 成程、だから彼は夜八時と言う時間にして、既に出来上がっている風情なんだな、と、当麻にも漸くこの状態が納得できた。彼がいきなり必要以上の自己紹介をしたのも、とにかく何かを喋って発散したい心情の現れだったのかも知れないと。
 しかし、そんな心理作用が理解できたとしても、当麻は彼に同調することができないでいる。
「勉強しねぇのが悪いんだっ♪」
 ちょっとした意地悪を言ってのける秀に、遼はやや声高になって、
「疲れて帰って来て勉強すんのは大変なんだぜ!、なぁ?」
 と、反論しながら当麻に同意を求めて来た。
「えっ…?、ああ、そうだな、うん」
 かなりぎこちない応答ではあったけれど、幸い遼には気にならなかったらしい。時と場合により、何でも良いから「うん」と言ってほしい時がある。理由もなく頷いてほしい時がある。それが例え、何の接点もない赤の他人だったとしてもだ。
 まだ当麻には、そんな気分は解らない領域だったけれど。



つづく





コメント)03年から04年に掛けて書いたパラレルですが、ずーーーっと読み返さなかったので、主に設定の面で「こんな話だっけ??」と言う感じです(^ ^;。悩める科学者達と、生き生きした労働者達の対比的なイメージしか憶えてなかったわ。
ことに当秀だと思っていたら、ほとんど未熟な当麻について書いてるし、当麻と征士の話と言っていいような内容だったんですね(苦笑)。当時本を買ってくれた皆様すいませんでした(って予告済の内容だったのかも知れないけど)。
ところで、ここまでは上巻分の内容通りですが、下巻分は大幅に加筆して2ページになります。元の本が小説とマンガで完結していた為、マンガの内容を入れた文に書き換えなきゃならなくなりました。こんな面倒なことをするなら、最初からちゃんと書いとけ!、と今は思います…。



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