夕暮れの征士
OUR SWEET ASYLUM
#2
アワ・スウィート・アサイラム



 長閑な昼下がり、靖国通りに乾いた風が吹き抜ける度、粉塵と人々の雑多な思考とが合わさり舞い上がる、あまり爽やかとは言えない都会の秋を感じていた。こんな時ほど郷里の、澄み切った高い空の記憶をひどく懐かしく感じる。
 遮るものの無い空は何処までも広く、取り巻く景色は黄金色に姿を変えて行く秋。柔らかい光、軽やかな大気、温かい土の色、季節の行事に賑わう人々の笑い声…。

 そして、決まって悲しい気分になる。
 懐かしい青空。けれど戻りたくはない十月。

「…久し振りに面白い映画に当ったよ」
 雑居ビルの一角に組み込まれた、比較的こぢんまりとした映画館を後にして、伸は歩道を歩きながらそんな感想を漏らした。日曜日であるその日、息苦しく感じる程の人で溢れる新宿の歩道は、自由に進路を取れない混雑に見舞われる。ただ人の流れに合わせて進むしかない道で、ふたりは付かず離れずといった距離を保って歩いていた。
 映画を観に行こうと誘ったのは勿論伸だ。彼が考えた「英語教育」の一環である。そして伸が選んだのは娯楽的SFアクション映画だったが、単に自分が観たいタイトルを選んだに過ぎない。この際内容は特に関係がないので、「自分が楽しめるものを」という訳だ。
「そうだなぁ…しかし…」
 征士は相槌を打ちながらも、語尾に否定の言葉を加える。
「あの主人公は解せない」
「えっ?、そうかな…?」
 それは意表を突く意見、と伸は驚きを隠せなかった。自分は特に疑問も感じず、すんなり入り込んで観られた映画だったので。
 内容は大体こんな感じのストーリーだった。
 一人の地球の青年が平和に学校を卒業して、仲の良い男友達と、憧れていた女友達と三人揃って、地球外生命との戦争中の軍隊に志願した。ところが、平和の中での正義しか知らなかった彼は、そこで目の当たりにした軍隊の現状にうんざりして、一度は軍を辞めようと決意する。が、平和だった筈の地球の町が攻撃を受け事態は急変、その攻撃で家族を亡くした彼は、軍に留まり急速に戦士としての成長を遂げて行く。
 そして最後には、それぞれの夢を持って軍隊に入った三人が再会する。皆学生の頃とはかけ離れた存在になって、当時の輝かしい夢など忘れてしまった彼等が、けれど軍人としては賞賛される立場になっていた。…という、目的の為に奔走する内に常人から離れて行く事が、戦争に於ける栄光の道だったという話を、コミカルなタッチで明るく演出している作品だ。
 その主人公の青年は、何処かに煮え切らない感情を持っているものの、正義漢で清潔な印象のする、万人に好感を与えるキャラクターだった筈だ。と伸には思えるので、征士が何に不満を感じているのかは、聞いてみなければ解らなかった。
「僕は好きだけどなぁ。役者の人も上手かったと思うよ」
 と伸が返すと、
「いや、好きか嫌いかと言うなら嫌いではないが」
 そう弁解しながら征士は続ける。
「何故『あの女』にこだわり続けるのかわからん。私なら『クラスメート』の方を選ぶ」
「あー…、そうか、そういう見方もできるね…」
 伸には納得できないストーリーではなかったが、主観の違いによって、不可解だと感じる部分もあるのだろう。
 そう、この映画にはもうひとつの側面があり、主人公が憧れていた『あの女』である女性は、学校のクイーン的美人で成績もエリートだった。そして宇宙で働く事に、素晴らしい夢や理想を持っていた。それとは別に、主人公をずっと思い続けている『クラスメート』の女性が居り、目立つ美人ではないが、気持の良い性格で色気のある人物だった。仲間や友達との繋がりを大事にする、元気で明るい女性だ。
 前者の女性はエリート街道をひた走るようになるが、後者の彼女は何処までも主人公に付いて行った。危険な戦場へも同じ立場の一兵士として勇敢に戦った。その彼女の気持がやっと彼に通じた所で、戦いの中で命を落としてしまうのだけれど。最終的には、始めから終わりまで続いた憧れや理想が、否応無しに主人公を成長させた話だと思える。
「うーん、周りに高い志を持った友達がいたから、彼は英雄になれたんじゃないのかな?。憧れ続けた事が大事なんだよ」
 伸がそう説明すると、
「ならば、私は英雄になどなりたくはない」
 征士はあっさり切り返して来た。随分褪めた物言いではないか。しばしば彼が中学生である事を忘れさせる程に。
「何だよ、夢がないなぁ、君は〜」
 呆れる様に笑って見せた伸に、僅かばかり表情を崩して征士は応えた。
「夢は夢だ、現実は現実」
 その意味が何を指していたのかは、まだ伸の知り及ぶ事ではなかったけれど。
「じゃあ君の夢って何さ」
 と改めて伸が尋ねると、征士は暫く考えて一言こう言った。
「人間を超える事だ」
 …何だって?
 まるで今観ていた映画のような話じゃないか。
 何処か変わった奴だと思ってはいたが、そこまで浮世離れしているとは思わなかった伸だ。途端に征士が、映画の主人公に重なって見えて来る。「英雄になどなりたくない」としながら、限りなくそれに近いものを理想に描いている事を思う。
 人間性と非人間性の葛藤を起こす程、彼が高いステージを望んでいるという事だろうか?。良心的に考えて伸は、話題を茶化す事はやめておいたが、
「それは…、大変だ」
 どうでもいい返事しかできなかった。その理由は、冗談のように聞こえる彼の表現の所為ばかりではない。自分には大志などと呼べるものがないからだとも、伸は素直に情けなく感じていた。
 今ここにこうして並んで歩いている、年は違う、出会い方も妙だが、少なくとも同じ時間を共に過ごしている人が居て、その時間の一点に辿り着くそれぞれの経過が、こんなにも違う二人を作り上げたという事実だ。その違いを悔しく感じると同時に惹かれている。『高い志を持った者』に心が傾くのは、当たり前の事のように伸には思えた。
 正に映画の主人公の様に。
 そして自分は、変わる事ができるのかも知れないと。

 不思議な事だ。何故僕らは出会ったのだろう。それに何か意味があるのだろうか。
 
 何故彼等は今「ふたり」なのか。



 新宿の騒々しい街中を抜けると、古びたアパートや小さな商店が広がる大久保の町に出る。そこから更に歩くと徐々に景色は住宅街らしくなり、木々の緑も臨める伸の住む町が在る。その道程は徒歩で二十五分程かかるが、穏やかな気候の中、彼等は話をしながら歩いて帰って来た。どの道、駅に回って人混みをのろのろしているなら、歩いて帰っても大差はないかもしれない。
 ちなみにこの町で、下宿学生が車を所有するのは至難の技だ。駐車場代が家賃と並ぶ物価事情なのだから。伸の実家は豊かな家ではあるが、彼は自ら必要以上に贅沢な援助を断っていた。けれど理由は彼自身にもよく解らない。心に引っ掛かかる何かがそうさせるのだ。自分の親に希望している事があるとすれば、それは金などで精算できる事ではないと。

 まだ日が暮れるまでには間のある午後二時頃、伸が部屋のドアを開けると、南西向きの窓から差し込む陽光が眩しい程に、部屋は明るく暖かかった。
  先に部屋の中に入った伸に続いて、その玄関先に立った征士はその時、ふとある物に気付いて一言声をかけた。
「…何故開けない?」
 玄関の靴箱の上に置かれたままになっている、一通の封書を取り上げて見せた。それは一昨日、征士が郵便受けから運んで来て以来、ずっとそこに放置されているのだ。疑問に思わない筈はない、その差出人が誰であるかも既に聞いていたからだ。
「うん…」
 すると、やや口籠りながら伸は答える。
「読まなくても大体、何が書いてあるか想像できるからさ。親からの手紙なんて、段々読むのも億劫になるもんだよ」
 そしてその様子を確と見届けた上で、征士は特に否定しない返事を聞かせた。
「フム、分からなくはない…」
 一度手に取った手紙を、彼はまた元の場所に丁寧に置き直した。
「・・・・・・・・」
 伸には、やや拍子抜けな出来事に終わったようだ。「いい加減だ」などと、何かを批難されると思えたのだが。
『どうしてこの感情がわかる?』
 否、正確に何かを知っている訳ではない。何故なら自分の言葉は上辺の事に過ぎず、本当の所は話していないからだ。だが恐らく、征士は自分が適当な理由で誤魔化した事に気付いている。彼の性格から考えれば、「嘘を付くな」と即座に返されるパターンだ。相手が何であれ、うやむやにする態度を容赦なく攻撃するのが征士、と伸はこれまでに学習していた。
 けれど彼は攻撃しなかった。それは、自分の言動を見て何かしら感覚の合うものを、彼が見つけたという事かも知れない。
『でも、わかる?』
 伸には喜べる事ではないのだ。現状から脱却したいと願う伸には、今の自分に照準を合わせられても不本意と感じる以外にない。どうせなら「理解できない」と言ってくれた方が、これからの自分をどうしたら良いか、考える材料にも成り得るだろうに。
「どっちかって言うと、納得してほしくないんだけどね」
 伸は最後にそんな事を言って、この話題を切り上げようと、キッチンセットの方へと向きを変えてしまった。征士に与えられた疑問も、伸が感じる疑問もそのままに、ワンルームの部屋のテーブルにお茶が運ばれるまで、全ては持ち越しとなった。
 テーブルの上には水色の砂時計。紅茶を注ぐタイミングを測る為の目安。伸はいつもそれが、下の管へと落ち切ってしまうまでじっと眺めていた。ガラス管に閉じ込められた小さな世界の、僅かな時間の繰り返しの中に何かを見ている。他の誰にも見えない世界。

 ティーカップの湯気の向こうに揺れている、微笑する様な面差しの、彼の人の視線はもう手許の横文字雑誌に落とされていた。
 征士が訪れる度、学校の宿題等がない場合は大抵、海外の最新の話題を取り上げてディスカッションをする。伸はこれまでの三週間ほどの間、そんな形で横文字に慣れ親しむ事を薦めて来た。エンターティメント的な話題から社会問題まで、伸に取っても、自分と違った意見を聞けるのは面白い事だった。
 おかしい、風変わりだとは言っても、それは同年代の学生に比べた場合の話。征士という少年は、この年の学生にしては明確な、独自の理論を確立している風なのだ。特にこれと言ったポリシーを持たない伸には、彼の考え方に触れる事を知的な娯楽にも感じられる。だからこれまで、教える立場の苦悩など感じはしなかったけれど。
 けれどその日、
「…どれがいいだろう、遺伝子操作作物の話と、家庭内犯罪の話…」
 と、雑誌の見出しの中から選んだ話題の、いくつかを提案した伸に迷わず、
「ドメスティックバイオレンス」
 と征士は答えた。
「おや?、英語を知ってるじゃないか」
「ニュースでよく聞く言葉だからな」
 しかしそれを言うなら、他にもよく使われる英語があるだろう。憶えている言葉にはそれなりの、個人的な関心があるに違いないのだ。それがこの…
「妙な事に関心があるんだね」
「…私はずっと考えているのだ、何を犯罪として、何が犯罪ではないのかを」
 恐ろし気な話題。
 征士の表情も微妙に強張って見え始めた。止めた方がいいかな、と思うも、行動を起こすには既に遅かった。
「法律としては語られないが、子供は親の所有物だろうか?。子供には社会的な権利はないのか?。私は一般的な事実を知りたい。伸はどう思う?、どこまでが親の権利だと?」
 これまで、穏やかに伸に合わせていた、滅多に主張を出さなかった征士が捲し立てている。尋常な事ではないと、付き合いの短い伸にも流石に解る光景だった。彼は確かに普通ではない。出会った時からそう思えたけれど、最初に感じた大人びた雰囲気とは別に、何かに対して、異常な程のわだかまりを持っている事に今気付いた。
 常に心を苛む、一筋の罅割れの様な不安な記憶。伸に取っての『十月』と同じではないにしても、ただ、征士の心の中に在る歪みが思いの外、自分からそう遠いものではないと伸は感じた。外側は明らかに違う自分達に、奇妙な共通点がある事を思う。
 それこそあまり、納得したくはないけれど。
 そして答えなくてはならないだろう、大人としての礼儀だと伸は律儀に構えた。
「…難しいね、自我もない内は『所有物』でも仕方がない。でも、正しさを訴える権利がないとは、僕も思いたくはないよ。親だってまだ成長途中の人間だから、間違える事だってある筈だ。家での常識が、一般の常識じゃない事もある。そういう時に、誰も弁護をしてくれない立場は辛い…と思う」
 静かにそう語り終えた伸に、
「そう思う」
 と、短い言葉で征士は返した。自分が納得いく意見を示してくれた事に、一応の同意を見せてはいたが、まだ何処かに不満の色が見えている。けれどどうしようもない。
「…間違った愛情を、何でも犯罪にしたら可哀想だよ。仮にも自分をこの世に生み出してくれた、血の繋がった家族なのに。だからこの問題は難しいんだろう?」
 伸は更にそう付け加えて、それきり黙ってしまった。自分の中にも冷静でいられない部分がある以上、これについて意見を重ねられる自信がなかった。
 家族の事を思い出す度に、ただ懐かしんでいたいだけの気持をざわつかせる、余計な思い出が必ず付いて来るからだ。それが今の自分の原点、全ての始まり。大した出来事ではなかったと思う。幼少の頃にはよくある話だと今は思える。けれどこの心が、ずっとその痛みを忘れてくれない。愛すべき対象を真直ぐに捕らえられなくなった、その苦しみを未だ解放する事ができない。
 記憶に無視を決め込んで過ごす事ができれば、否、人間はそんなに器用な生き物でもない。ただ自分が自分らしく在る為に、妥協するのか、より良い結果で乗り越えなければと思って来た。
『僕は人を愛せない訳じゃない』
『淡白でもない』
『人を淋しくさせるつもりもない』
 けれど無力だ。
 己の意志を遮蔽する壁に阻まれている内は、僕の真実は何も無い。

「伸は自分の事を何も話してくれない」
 誰かが言った。そして今も言われている。
「私が聞かない限り、進んで話す事は何もないという態度だ」
 征士もまた、自分を批難していた。また同じ事の繰り返しだと思えた。
 けれどひとつだけ彼は違っていた。流れの内に何となく褪めて離れて行く事を、征士は決して許さない。この声は届かないと諦める前に、必ずその訳を突き止めようと追って来る。逃げ場がなくなるまで追い詰められる。伸は彼について、そんな事を既に知った後だ。
「だから私は言う」
 語調を強めてそう言った征士は、テーブルの一点を見据えていた伸のすぐ横に、体を乗り出す様にして威圧を与える。被さる影にふと視線を動かした伸の、不意の瞳を征士は逃さず捉えた。
「そのよそよそしさは気に入らない。何でもやんわりと、儀礼的に済めば良いと考えているのか?。或いは、私に気を遣う必要はない、伸の意志は何処にあるのだ?」
 初めて言われた、『気に入らない』と。
 今まで誰も、面と向かって伸を傷付けようとする者は居なかった。それが表す意味は、彼は普通にしているつもりでも、世間から見れば危うい、壊れ物の様に扱われていたのかも知れない。どんなに隠そうとしても、異常性とはいずれ気付かれてしまうもの。気付かないとすればそれは本人ばかりだ。
「そう、だね。…僕も自分が『気に入らない』」
 だから、動揺していた。
「…いいって言われたことはないし、いいと思ってほしくない。僕が話す事には価値がない…」
 伸の口頭には予期せず、妙な言葉ばかりが昇って来る。
「価値がないとは、どういう意味なんだ?」
 そして征士は追随する様に繰り返し、伸は虚ろに答えた。
「僕はずっと、本当の自分を生きてないからだよ。…このままじゃいけない、…でもまだ何も変わらない。だからよそよそしい。だから何となく振られる」
 徐々に伸の中にも、その曲がりくねった形が露になり始めた。悲しみに歪んでしまった心の、如何ともし難い圧倒的な支配。過去の記憶は目に見える程鮮やかに蘇る。秘密は暴かれる。誰かが気付いてしまう。
 誰かが。
「…私には分かる、伸が常に一歩離れているのは、何かを隠しているせいだ。そしてその隠し事は、伸の家族に関する事なのだ。…当っている筈だ、だから私は家族の話を聞こうとした」
 元々の落ち着いた口調に戻ってそう話した、征士が伸に向けている眼差しは、意外にも優しいものだった。それは恐らく、似た様な形を持つ者だからできる事。似た様な苦痛を知る者だから解るのだ。

 だから僕らは出会った。

 悠久の時は気に留められる事もなく過ぎて行くが、その中には瞬きを惜しむ程の時間もある。征士の朝霞の瞳には今、子供の様に、否、子供に返って泣いている小さな伸が居た。



「十月の空は広くて高い。
 聳える山も無い開放的な土地に、彩りを変えて行く野山とは対照的に、際立つ地球の色をした空の下で、子供達はのびのびと育つ。嘗ては僕もその中の一人だった。まだ何に不安を感じる事もなかった。豊かな家に生まれ、家族は皆優しかった。不満に思った事も殆ど記憶に無い。
 その時僕は、近所にあった私立の幼稚園に通っていた。十月の大きな行事と言えば運動会だ。毎年隣の小学校の校庭を借りて、幼稚園の中では比較的規模の大きな運動会を開催していた。僕はいわゆる体育競技も、ダンスなども苦手なものはなかったから、毎年配られるお弁当や競技の商品を、ただ楽しみに待っていたようなものだった。
 そんな風に、取り沙汰する程の事は何もなく過ごしていた僕が、最初に出会った事件だった。幼稚園の最後の年、年長組の時の運動会の事だ。
 その時僕にはとても好きな女の子がいたんだ。クルクルした癖っ毛を頭の上でふたつに結んで、いつも毛糸のリボンを付けていた、小さくてかわいい子だったよ。幼稚園でも人気の女の子で、みんな彼女の気を引こうとしていたんだ。…まあ子供の考える事だから、それが変な悪戯だったり、わざと暴力を振るったり、稚拙な行為だけど。
 僕と彼女は家が同じ方向にあって、親同士が知り合いになった事から、それより二年前には仲良しだったんだ。通園もいつも一緒だったし、先生方や僕ら双方の家族にも「仲がいいね」って、いつも誉められていた。だから僕も得意になってたよ。他の子供に対して、自分が『所有者』だと主張して回ったくらいに。今思うと、それが原因だったのかも知れない。何も起こらなければ、それなりに過ぎた事だったんだ。
 運動会の前日に、ある男の子が僕に決闘を申し込んで来たんだ、その女の子をめぐってさ。その子は僕に比べて体格のいい子供だったけど、どちらかと言えば肥満気味で鈍そうだった。負ける気なんか全くしなかった。例え辛くも負けたとしても、一生懸命やれば彼女は自分の味方をしてくれると、僕は疑いようもなく信じていたよ。
 当日の天気は快晴だった。まだ夏の暑さを感じさせるような、照り返しの厳しいグラウンドを囲んで、観覧に集まった父兄の列には、日傘が目立っていたのを憶えている。
 決着を着ける競技は、午前中最後の障害物競争だった。僕とその、体格のいい男の子は、同じレースの隣のトラックでスタートした。その日は特に調子が悪い事もない、予想通りうまくいくだろうと思っていた。でもそれは甘かったんだよ。
 僕の家は旧家筋の家だから、何て言うのか…、物事を何でも上品に受け取る傾向があって、僕はそういう環境の中で、大層『いい子』に育っていたもんでね。だから幼稚園の運動会という舞台で、汚い真似をする子供がいるとは想像しなかったんだ。
 スタートしてほんの僅かの所で、僕はバッタリ倒れた。後ろから足を引っ掛けられたんだ。すぐに立ち上がろうとしたけど、残念ながら捻挫していてね。結局後はレースにならなかった。走り去って行く他の子供達、周囲の観衆の声、あらゆるものから取り残されたような気分だった。
 まあ決闘に負けた事自体は、そんなに悔しい事でもなかったんだ。実力で負けた訳でもないし。それより、その後自分のクラスの席に戻ったら、勝者であるその男の子と、彼女が一緒になって僕を笑っていた。負け犬には用がないって、もう全然他人みたいにさ。
 …まさかね、そんなにあっさり裏切られるとは思わなかったから、ショックだったよ。更にみんなが同調して、可笑しそうにケラケラ笑うもんだから、僕はその場に居るのも辛くなって、家族席の方に飛んで行ってしまった。

 僕は家族に、必死になって真実を訴えた。

『残念だったわねぇ、転んじゃって…』
『違うんだよお母さん、あいつが転ばせたんだ!、同じクラスのあの…』
『そんな大声で…、滅多な事を言うものじゃありません。そんな子がいる訳ないでしょう』
『本当なんだよ!!、足を引っ掛けられたんだよ!!』
『でも、先生方だって見てらしたでしょう?』
『見てたけど、怒らなかったんだ!』
『それはおかしいわ、悪い事をすれば必ず叱られるでしょう』
『でも…!、本当なんだよ』
『…お母さんは先生を信じますよ、偶然足が引っ掛かったんでしょう。悔しい気持はわかるけれど、人のせいにするのはおよしなさい、良くない事ですよ』

 そして結局、誰も僕の言う事を信じてくれなかった。

 みんな優しく受け止めてはくれるのに、誰も事実を認めてくれないなんて、僕ばどうしていいか分からなくて、ただ泣いていたよ。仲が良かった姉さんまで、『わざとじゃなかったんじゃない』と言って、取り合ってくれなかった。
 僕はこの日、ふたつの事を知ったんだ。どんなに信じていても裏切られる事があると。どんなに優しくされても、本当に必要な時に味方になってくれない、家族とはそういうものなんだって事も。
 …人を信用する事が、ひどく恐くなってしまった。フフ…、本当に大した出来事じゃないだろう?、なのに何故かいつまでも消えてくれないんだよ。また裏切られるかも知れない、また理不尽に傷つけられるかも知れないって、いつまでも頭に残ってる。考える度に苦しくなる。この思い出をどうにかしないと、僕はずっと変われないと、思う」

 征士は至って真面目な顔をして話を聞いていたが、伸はその様子を窺う事はしなかった。何故なら少なからず恐れていた。いい大人がメソメソ泣いている様を見て、「みっともない」「情けない」と一喝されても、返す言葉も無いからだ。伸は自分でそう思っている。
 けれど征士は、伸が予想しない事を話し始めた。
「それは、トラウマと言うものではないのか」
 trauma。精神的外傷。それで適切な表現だと思えた。思わぬ穏やかな口調の征士の話に、伸は大人しく耳を傾けた。
「…おかしいとは思っていたのだ。伸は人と一緒に居るのを好む様子だが、何故か逆に人との間に壁を作ろうとする。何故だろうとずっと考えていた」
 そして、征士が自分をよく観察していた事にも気付いた。自分は普通にしているつもりでも、熱心に見ている誰かには知られてしまう事。それだけでなく、『おかしい』と思える行動に疑問を持ちながらも、それを問い質す機会を冷静に待っていられた事。それは一時の感情に左右されるような、浮ついた精神の為せる事とも思えない。
 単純に生きた年数では量れない個性。安定した思考と計画的な行動。待つ事ができる余裕、あらゆる意味で、伸の目に映る征士像は既に「人間を超えている」とさえ感じられる。
 征士は更に、
「伸が『こうしたい』と願う事に、思い出が邪魔をする訳か…」
 と現状を延べて許諾する言葉を向け、尚伸を泣かせるのだった。

 誰も信じてくれない状況を作らぬように、誰に対しても柔らかく平素に接していた。信じた人に裏切られる事を恐れて、誰とも距離を置くようになった。寛容にして拒絶。
 この矛盾を抱えてしまった時から、ある意味で、自分の親を恨んでいた事。
 禁忌であるかのように、避けて考えまいとして来た言葉。
 自ら明らかにした。もう罪人の安楽に身を委ねてもいいと思えた。自分の正常でない心の活動を、ただ「解った」と認めてくれる人が居るだけで、これまで長く背負って来た某かの荷物を下ろして、残った小さな幸福を温めて生きて行ける。と思った。

『僕は信じられる』
 片膝を抱えたまま、声にならない静寂の涙を落とし続ける伸の、両肩に手を掛けて征士は言った。
「I must hold you」
 伸は思う、確かに今泣いている自分は、征士より十も若いかも知れないと。
「クックックッ…」
 本当に、不思議な事だ。
「これで笑えるなら大丈夫そうだ」
「…だってさ、全然進歩ない」
 無論発音を指摘しての話だが、彼の意志が当初から変わらない事も、伸には明るい話題として受け入れられていた。そう、心が不変のものならば、誰も何も疑わずに居られるのだろう、人間は。
 不変であれば良いというものでもないけれど。
「だが、冗談のつもりはない。私はいつも真剣に訴えている」
 途端、肩に乗せられた征士の手に力が加わり、伸は不意を突かれた様に、床のラグマットの上に押し付けられていた。
 変わらなかったのは、征士が内側に抱えていた欲求も同じだ。
「・・・・・・・・」
 こんな風に、人に被い被さられた事はない。穏やかに見下ろされれば、返って得体の知れない緊張感が高まる。未完成にしても良く発達した腕の強さを、身を以って思い知る事の脅威と密かな安堵感。衣服を通して伝わる体温。頬に触れる髪の房のこそばゆさ。抱き締めるのではない、抱き締められるとこんな風に感じるものか、と伸はまだ状況を把握できる境地に居たけれど、
「私は裏切らない」
 そう告げた唇が、伸のそれを静かに塞いだ。何が起こっているのか気付けない程に。
 ただ目先の景色に、至近距離で視界に入り切らない征士が居る。焦点の合わなくなった、白い天井の模様は遠く霞んで、最早何が描かれているのか判別できなくなる。当たり前の景色が遠くなる。日常的な空間が俄に遠く退いて、別の何処かへと摺り替わって行くような感覚。与えられる居心地の良い場所に納まろうとしたがる、自分の心。
 伸は目を閉じた。繰り返される啄むような接吻。凍り付いた記憶を温める、ただ優しい接触に微睡んでいたかった。
 が、
「…ま、待て待てっ」
 それとは明らかに違う意図が、腹部の皮膚の上に鮮やかに走った。
「何をする気だ…」
 まあ、言葉に出す程の事もなく想像できた筈だが。ぼんやり意識を漂っている間に、伸のシャツの釦は全て外されていた。しかし…
「分からないとは言わせない、大人には大人の礼儀があるだろう」
 征士はそう言って、作ったような薄笑いを見せた。
 そして理詰めで迫られれば太刀打ちできないと、伸は何処かで諦めたのかも知れない。仮にも行為の一部を受け入れてしまった後で、下手に抵抗するのは確かに、幼稚な行動と考えられなくはない。だが素直に承諾できることでも勿論ない。
「それを言うなら君は子供だろーが!」
 仕方なく、伸は精一杯の厭味を言ったつもりだ。何を言っても無駄、と諭す様に、征士の掌は既に自由に這い回っていたけれど。
「否、安心してくれて良い。大人の方が『扱い易い』ものだ」
「どっ…、どういうイミっ…?」
 答は無かった。何故ならそれは、この身を悩ませ始めた甘やかな戯れの続きに、充分に理解できる事なのだろう。そして征士がこれまで何をして来たのか、酷く疑わしくなるに違いない。
 彼は徒者じゃない、思っていた以上に、と。

 規律正しい生活をし、剣道に勤しむ模範的一学生、とは世を忍ぶ仮の姿とでも言うのか…。



『僕は、信じられない…』
 どの位の時が経ったのだろう。そう長い時間ではなかった筈だが、一挙に千年も飛び越した様な気がする。顔に西日が差しているのを、瞼の下に感じられている。もうすぐ寒色から暖色へと、空の色が塗り替えられる頃だと推測できた。
 恐る恐る目を開く。現実に戻りたくはなかった。戻ってしまえばきっとそこには、『中学生に犯された』という動かぬ証拠が待っている。散乱する衣服、しどけなさの残る空気の流れ、事の後の恥ずかしい部屋の様子。けれどそれらを目にする前に、伸の瞳には何ら変わらない征士の顔が映った。彼の膝を枕にして、伸は体を半ば折り曲げながら横たわっていた。
 目を開いた伸を黙って見ている、その顔を憎たらしいとは思わなかった。伸はそれなりに、自分と彼の在り方について考えていた。自分が越えられなかった壁を、征士は突き破って入り込んで来た。そういう事もなければ、実際何も変わらないのかも知れないと、今は思えた。
 だから怒りは感じない。ただ立つ瀬が無い。
「写真はないのか」
 唐突に、征士はそんな事を言い出した。
「あ…?」
「伸の、家族の写真だ」
 何を思い立ってそんな事を言うのか、伸にはまるで解らない。先程までは征士を知っているつもりでいたけれど、実はまだまだ謎だらけだと、伸は自分の考えを改めている。
 言い方は可笑しいかも知れないが、征士は自分よりも、大人として過ごしている時間が長いように思えるのだ。そうでなければ、ただ雰囲気と小手先で簡単に従えられて、気持良く高みに昇らせられるような失態を晒した、理由も何も思い付かない。あまり考えたくはないけれど、彼はひどく慣れている。
 一体、どういう生活を送って来たんだ、君は?。
「そこに入ってるよ、アルバム」
 気だるそうに腕を持ち上げながら、伸が指差した先、テレビの乗った棚の最下段には、比較的サイズの大きな書籍が集められていた。それを征士は確認して、
「では見せてもらうとしよう」
 そう続けながらその場を立ち上がろうとした。伸の頭が急に床に落ちないようにゆっくりと。しかしその伸に止められる。征士の腕を咄嗟に掴んで、
「服を着てからにしてよ」
 と一言呟いた。まだ寒いと感じる時間帯ではないが、伸に取ってはそれ以前の問題だ。家の中を裸で歩き回るというのは、伸の家の常識ではなかった。否何処の家でも普通はそうだろう。すると征士は、妙な含みのある顔を近付けて言った。
「…淋しい事を言う…」
 つまりそんな事、微塵も頭に無かったという返答を耳に、果たして恥知らずなのか、図太いのか、何処かでそれを身に付けてしまったのか、と伸は迷っている。一般的な家庭よりも厳しそうな家に育ちながら、全く不可解な事だと伸には思えた。ただひとつだけ解っているのは、彼も自分と似た何かを持っている事だけ。否、それがきっと全てに繋がるだろうと予想はできた。

 自分の様に。

 見た目は元の通りに片付けられた伸の部屋。
 その真ん中に座って、征士は広げたアルバムの一頁にじっと見入っていた。まだ若い両親、日焼けした穏やかそうな父親、優し気で弱々しい印象の母親、伸に良く似た少女と手を繋いだ、小さな伸が楽しそうに笑っていた。
「…家族とは、何なのだろうな」
 征士が捕われている疑問。その奇妙な感覚から生まれる言葉を、普段より早くキッチンに立った伸は、聞こえない振りをして包丁を握っていた。
 例え一度境界線を越えた相手だとしても、隠された人の秘密を知るのは恐いと思う。それが征士の様な、追求型の性格では尚の事だった。広げられた心の深淵から、何かとんでもない物が現れ、次々と自分を掻き回していくような恐怖と憎悪。そんな事を安易に想像できなくない、黄昏時だった。



つづく





コメント/前回のコメントで、何か大きな事を語ってしまいましたね(笑)。はっきり言って今の集中力では、そんな大したものは出来ないと思います(苦笑)。引き続きどうも具合が悪いです、季節の変わり目ってダメですね。
でも話がやっと「やおい」の所まで進んだので、正直ホッとしてます。ここを通過しないと終わりが見えて来ないよ〜、と苦しんでいたもんで。
あ、あえてそのシーンをすっ飛ばした話ですみません(笑)。でも、こんな征士の描写なんてヤダなぁって…、ククク。



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