真夜中の風景
OUR SWEET ASYLUM
#3
アワ・スウィート・アサイラム



 だるい…。

 ふとした拍子に溜め息が出る。今日は一日こんな調子だった。
 何をしていても冴えない気持。特別疲れているという訳でもない。昨日何があったとか、その後どうだったとか、直接的な原因ではなくて、まだ新しい体に心が慣れないような不調和だ。SF映画などにはそんな題材を見かける事もあるが、何となくその状況を想像できる気分だった。
 確かに僕は何かが変わった、かも知れない。けれどそれを受け入れ切れていないようだった。

『雨の日と月曜日は気が沈む』、なんて歌もあったけれど。

「おーい、伸ー」
 歩く背後から近付いて来る声がした。昼下がりのキャンパス。学生達はのんびりとした雰囲気の中にも、学園祭の準備等で浮き足立つ心情を、色付く落葉の影に隠し持っている秋。
「お前っ、今日、どうすんの?」
 その長閑な空気を掻き乱す様に、慌ただしくも全速力で駆けて来た彼はシュウと呼ばれている。大学内では唯一の友人らしい友人だった。常に大らかな態度で、人一倍エネルギッシュに動く楽し気な人物。伸とはかなり違った性質に思えるが、何故か彼等は波調の合う所があった。ぼんやりしている伸の前に立ち止まると、彼は激しく息を切らせながらそう告げた。
「…どうすんのって、何が?」
 けれど要領を得ないという顔をする伸。シュウは呆れ顔で返すしかなくなった。
「そんな事だろうと思った…。今日サークルの合コンがあるって、こないだ話したけどよ、よく聞いてなかったみてーだからな」
 言われてみれば、と伸はそんな話を聞いたような気がした。今更思い出しても仕方ない事だが。
 彼等は同じ大学内の、「文化人類学研究サークル」に属しているメンバーだ。しかし名目だけは立派なこのサークル、何をしているかと言えば、雑談に始まり雑談に終わるのが通例である。まあ大学生の全てが、就職に有利か不利かで行動する訳でもない。その意味ではストレスを与える競争もなく、只管呑気に平和を貪るサークルというところだ。
 ところでコンパと言えば、大学生という立場からは、切っても切れない程ポピュラーで楽しいイベント、という印象ではあるが、
「…悪いんだけど…、今日は何だか調子が悪くて、バカっ騒ぎする気になれない…」
 伸が乗り気でない理由はご察しの通り。そしてそれは友人である彼にも窺い知れる事だった。
「だろうな…。さっきっから呼んでんのに、全然気付いてくれねーんだもんな。確かに最近伸はちょっとおかしいぜ?、講議に出て来たと思えばすぐ帰っちまって、サークルにも顔出さねーし、何か付き合い悪ィじゃん…。あ、」
 理解できない事例を、少々落ち着きのない素振りで捲し立てた後、彼はふとした思い付きで、
「もしかして、新しい彼女ができたかな〜?」
 と派手にニヤけて見せた。
 彼は伸が少し前に振られた事を知っていた。そんな事を衒い無く話せる間柄の二人だった。そしてまた伸が、早いサイクルで新しい人を見つける事も、彼は経験上で知っていた。その可能性は十分あり得ると踏んで、「図星なら狼狽える」と鎌を掛けた訳だ。
 けれど、冗談混じりの明るい態度を見せる彼には、別段それを責めるつもりはないらしい。ただ真面目な性格の伸にしてはと、からかう材料にしているに過ぎない。
 伸にはこの場合、どんな態度を取られても愚問だったけれど。
「ハハ…そういう訳じゃないよ。ちょっと前からバイトしてるんだ」
 笑い方は些か無気力な響きだった。もうどうでも、どうなってくれてもいいといった風に。揺るぎない筈の牙城を崩された後に残るのは、いつの時も空虚に浮かぶ塵を撫でる風ばかり。
 そんな伸の心中まで察する事は、如何に友人とて困難な事に違い無い。
「そっか、そりゃしょーがねーな。…あーあっ!、伸が居てくれた方が助かるんだけどなー」
 しかし友人とは有り難きもの也。
 彼は伸の「やや秘密主義」な傾向に対して、さして重要でない事柄には、勘繰りをしないようにいつも気遣ってくれた。気の優しい伸には、恐らくそっとしておいてほしい領域があるだろう、と彼は理解していた。そして彼がそんな分別を見せてくれるからこそ、伸は友人として彼を受け入れられた。そう、何故人の繋がりとは、それだけでは済まないのだろうと考えていた。
 乱暴な発想をするなら、この唯一の友人が女性なら良かったのだ。大学に通い始めてからこの三年程の間、ふたりの間に諍いらしきものは何もなかった事を思うと。
『…でも、どうかな』
 けれど実際にそうであったら、やはりうまく行くとは想像し難いものだ。
 友達には望まない事を望んだ時、自分の行動や言動にはいつも、何かがちぐはぐに働いてしまうのを知っている。只管に想う自分と、それに離反しようとする自分、双方を確と捕らえられない限りは誰も、この心の真実を、信用する気にはなれないだろうと自分にも解る。
 何事も、大切なのは信用だ。
 曖昧な人との繋がり、そして流れ過ぎるばかりの恋愛の上に、ただそれだけを求めていると言っても過言ではなかった。
 僕は誰かを信じたい。誰かに信じていてほしい。

「助かるって?、酔っ払いの世話係をアテにされちゃ困るよっ」
 伸が故意にスネたように聞かせると、
「エヘヘ〜」
 と裏の無い様子でシュウは笑い返した。全ての物事がこんな風に単純明解であれば、裏切られる事をこうも恐れはしなかっただろうに。伸は遣り切れない笑みを零す。
 目下の問題は、もっと難解で厄介なものだ。
 ふたつの自分を知った少年には、果たしてどんな信用が得られたのだろう。
 それから僕は何を信じたらいいのだろう。



『考えてみれば妙だ』
 駅からアパートへと向かう道中、変わらない静かな住宅街の道を歩きながら、伸は征士に出会った当初の事を思い出していた。
 目に映る、本格的な冬を前にした淋し気な景色は、街全体が朽ち葉の趣に馴染んでいく様を思わせる。気のせいか夏場に比べて、街路は人通りも少なく感じる静けさだ。個建ての家の庭先には、都会らしく痩せた印象の秋桜がやたらに目に入る。しかし数は多くともどこか印象の薄い秋の花。通り過ぎて行く場面をただ彩るばかりの、エキストラの一群といった存在を思わせた。
 花に例えるならそんなものではないだろう。
 見るからに、群集の中でも一際目立ちそうな、否、人の注意を引かずに居られない容貌をしながら、毅然と落ち着いて振舞う奇妙な少年。恐らく彼の日常は、雑多な好奇の視線の中にこそ在ると想像できる。あらゆる場面に於いて、否応無しに注目される存在ではなかろうか。それはつまり、相手に困る事はないという答に結び付かないだろうか。
 それなのに、
『何で僕にちょっかいを出すんだろう』
 自分に近い捻れた感覚を心に持つ者。と言うだけなら、他にも大勢居そうに思えるからだ。このストレスだらけの現代社会には、普通の振りをして普通でない者が多く紛れている。本人でさえそれに気付かずに、普通と思い込んで日々を送っていたりもする。自分はまだ、素直に「普通でない人」の一人と認められるが、それだから他人の異常性にも、気付き易いのかも知れなかった。決して喜ばしい事ではないが。
 とにかく、
『征士には何かある』
 この感覚だけは始めから変わらなかった。毎日顔を合わせながらなかなか尻尾を出さない彼に、自分が先に折れてしまったような格好だった。
 予定外の成り行きだが、このままフェアじゃない状態を続けたくはない。曝け出すものが同等でないなら、何を以って執着しろと言えるだろうか。君が望む答を僕は出せるか?、僕が望む事を君は理解できるだろうか?。
 自ら近寄る勇気を。
 どうせもう失うものは無いのだから。
 伸は密かに意を決した様に、俯き加減の頭を起こして前を見据えた。思考しながら歩いて来た道程もそろそろ終点だと、その視界には普段通りのアパートの外観が映っていた。

 一直線の長い階段を昇るコツは、テンポを守って一気に昇ってしまう事だ。
 伸は特に気にする事なく二階へ昇って行った。今日の天候は暑くも寒くもなく、季節の移り変わりを楽しみながら歩く余裕もあった。又大荷物を抱えている訳でもない、急いで部屋に駆け込む理由は何もなかった。そんなゆったりした様子で伸は二階の通路に出た。
 が、
 自室のドアの方向に目を向けたその時、ドアの前に佇んで居たらしき、見慣れぬ人物を捉えた途端に状況は一変した。否、何事も無く済むとは考え難かった。一度立ち竦んだ伸の背中には、俄に心地の悪い悪寒が走る。それもその筈、「見るからに人目を引きそうな人物」とは、一人だけ存在するものではないのだ。
「こちらにお住まいの方でしょうか…?」
 着慣れた様子の和服姿、一筋の乱れもなくきっちりと結われた金髪、眉の釣り上がったきりりとした顔立ち。その四、五十代の女性にこれ以上の説明は要らなかった。
「私、伊達征士の母です」
「…はい…、あ、初めまして…」
 この状況を想像してみた事はなかった。

 否、本来ならよくある事なのかも知れない。親が子供の行動を心配するのは当たり前の事だ。更にそれが分不相応なものだとしたら、親は何としても阻止しようと出て来るものだろう。親と言う立場からの心理は何となく解る。
 けれど、征士の話ではまるで「放任主義」の様子が窺えた彼の家族。説明には信じ難い部分もあったけれど、征士は誤魔化すことをを好まない性質、自分にはいつも、有りの侭の状況を話して聞かせた。と伸には思える。
 嘘をついてはいないと信じられた。
 だから修羅場を想定する事はなかったのだが…。

 普段は征士が座っている場所に、今は彼の母親を名乗る女性が居る。とても妙だ。
 大体、学生が好むタイプのワンルームのアパートに、いかにも学生好みのする雑貨や電化製品に囲まれて、優雅な染めと配色の、外出向けの着物を着た孔雀の様な婦人が居る、という構図からしておかしなものだ。そのひどくそぐわない様子には、笑いを誘う程に申し訳なくも思えた。
 しかし、母親が何を知っているのかは知らないが、適当な言い訳なら幾らでもできる筈だった。そうビクつく事はない、と伸は自分に言い聞かせながら、部屋のテーブルへとお茶を乗せた盆を運んだ。席に着いて、場のセッティングができた所で、さてどんな場面が展開されるのだろう。今は穏やかな様子で、物珍しそうに壁面の棚を眺めている彼女だが。
「…お気遣いは結構ですのよ、突然押し掛けてしまって、」
「あ、いえ、何も無いんですが」
 伸がお茶と一緒に出した、菓子皿の上のトリュフやプチフール。おおよそ一介の、大学生の青年が好んで食べるものとは想像し難い。それを見て彼女はそう言ったのだろうが、流石に伸も「好きなんです」とは言わなかった。初対面から「妙な印象」を持たれることは、極力避けて通りたい。
 そして今目の前に居る人は、確かに征士に近しい人だと判る。顔立ち等単純な見てくれではない、背景に存在する全てが主張している。身に付けている物ひとつ取っても、清潔で神経の行き届いた、折り目の正しさを思わせるばかりだ。征士と彼女の雰囲気はひどく似通っていた。そして何処か、息が詰まるような圧迫感を感じさせる空気。存在が作り出す空気。
 その言い表せない緊張感の中で、彼女は先に話を切り出した。
「…家の息子がお世話になっているようで、大変御迷惑をおかけしております…」
 その声には、怒りや困惑は感じられなかった。けれど出だしは社交辞令という事もあるだろう。伸は注意深く言葉を選んで返した。
「いえそんな、迷惑と言う程の事は…」
「でも。この所毎日のように、こちらに伺っている様子ですし」
 それは確かにそうだけれども。「でも」と切り返した母親の不安気な様子は、伸には今一つ汲み取り難かった。何故なら言った通り、迷惑と感じた事は不思議となかった。否不思議でもない、征士は異常と思える程礼儀を弁えた少年だ。当然それを知らない筈もない、彼女が何に心を痛めているのか伸には解らなかった。
 母親は続けた。
「…私共が『先方に迷惑では』と尋ねましても、まるで暖簾に腕押しなものですから…。あの子が毎日何をしているのか、私共には全く分からないのです。なので失礼を承知でこのように、突然伺わせて戴くことになりましたが…、それで、あの子は何と言ってこちらに来ているのでしょうか…」
 無論それはまともには答えられなかった。けれど「勉強を見てもらう」という理由は伝えていた筈だった。それ以上に何かを気に掛けている、という事なのだろうか。
「あの、家を離れているのは確かに御心配なことでしょう。その間ただ勉強を見ているだけですが、僕も『ご両親は何も言わないのか』と何度か聞いたんです。でもその度大丈夫だと返されるもんで…」
 繕いながら伸が答えると、
「そうでしょうね」
 思いも寄らず同意の言葉を返される。
「そういう子なのです、何でも一人で決めてしまって、親である私達に何も話してくれないのです。相談も、文句の一言も言わないのです」
 彼女はやや強い調子に直してそう綴った。微妙に表情も固くなっていった。しかし諦めの色も感じられる遣る瀬ない様子だ。まるで状況が解らない。
 解らない伸は、素直に疑問に感じた事を尋ねてみることにした。
「文句も言わないんですか…。そういう話は聞いた事がないから、どう考えていいのか分かりません。征士は少し変わった子ではあるけど、僕は単に内弁慶なんだと思ってました。…でも、じゃあ、彼は普段からあの調子なんですか…」
「ええ…、」
 母親は一言返事をしたが、それについて、まだ何かを語りたそうにしていた。なので伸は黙って次の言葉を待っている。至極真面目な態度を表せば、自ずと話してくれるだろうと思えた。
 そして恐らくそれが、伸の欲しがっている『物差し』なのだ。
「私共のせいでもあるのですが…」
 明かされた謎はこんな話だ。

「…もう御存知かと思いますが、当家は代々剣術の町道場を営んで来ました手前、子供達は皆幼い頃から、とても厳しく躾けられる習慣があるのです。特に征士は兄弟の中で唯一の男子ですから、当然次代を担う者として、お稽古にしても、普段の生活態度にしても、四六時中誰かが目を光らせて、規律を身に付けるようにと育てられました。
 元々名誉ばかりの武家の家柄ですから、家風に背く者を出す事があっては、たちまち名を落としてしまい兼ねないと言う、古くからの危機感が伝統になっているが故に、子供達は、それは窮屈な思いをしたことでしょう。私も元は他所から嫁いだ者ですから、勿論可哀想だとは思っていたのです。
 けれど、本人はそういった環境に屈する事はありませんでした。周囲の者が期待する事を一心に受け止めようと、無理をするくらいに頑張り屋さんでした。頭の回転も良かったのでしょう、私共の決して甘えを許さない態度を見て、いつしか不平を胸に収める事も覚えておりました。子供らしくないと言えばそれまでですが、それが家の習わしに於ける理想の姿なのです。私の目から見ても、征士は大層良くやっておりました。
 …けれどそれはまだ小さい頃の話です、
 外の世界を知らない内は、子供は親だけを見て育つ様なところもございます。いつまでもそれが全てである筈もありませんが、私と夫は、ただ理想的に家が続くようにとばかり考え過ぎて、他に気を払う事を忘れていたのかも知れません。成長するに連れ、本人には本人だけの世界が出来上がって行くことは、理解していたつもりだったのですが…。
 征士の様子が変わったのは、今の中学に入ってからのことでした。始めは度々帰宅が遅くなる程度だったものが、その内幾日も続けて外泊するなど、思惟の及ばぬ行動を続けるようになりました。
 けれど申しました通り、何も話してはくれないのです。一方的に連絡だけは入れるものの、何の目的で何をしているとは決して、おくびにも出そうとしないのです。きっと、自分の場所を奪われるとでも思っているのでしょう。
 そうして私共も気付かされました。あの子は家から離れたがっているのだと。いいえ、正しくは私達から。お稽古だけはきちんと続けていますものね、剣術を磨くことは好きでしている様子ですが…、それだけの為に家に戻って来るのだとしたら、そうなってしまったのは私共が原因だと思え、どうして良いのかわからなくなっているのです…」

 謎が謎でなくなる時、某か感動めいた心境になるものだが、彼の人格を形成した背景と要素について、伸は充分な説明を受けたような気がした。
「…怒らないんですか?」
 一言だけ伸が質問を返すと、
「怒ったところで聞きませぬ…、私の非を認める所もあって、頭ごなしに物を言う事もできなくなりました。ただ、征士の主張する通り、家の為になろう事はきちんと続けていますし、男の子ですから、即危険な目に遭うと考えなくて良いのも分かります。ですから今暫くは、この状態を続けるしかないと思っています。出て行けと言えば、それきりになる事も容易に想像できますし」
 母親はそう答えて、ひとつ深い溜め息を吐いて見せた。容認している訳ではない、納得はできないけれど、この状態を動かす事もできない。ただ良い方へ転ぶ事を願って、触れないでいる他はない。恐らく、そういう事なのだろうと伸は理解した。
 理解できた。
 征士もまた、納得してはいないがどうにもできないのだと。義務教育を受けている立場では、家に対して何の力を行使する事もできはしない。だから仕方なく中途半端な今を続けているのだろうと。そしてその裏には、己から自由を奪った敵である両親に対して、それでも心から憎む事はできないとする、皮肉めいた心情の表れを感じる。
 君が解る。僕と君は別物だが類似している。
「…そうですね。でも」
 別段、彼女を喜ばそうとした訳ではない。けれど伸の口からは、こんな言葉が流れ出ていた。
「言われるように、そんなに心配されなくてもいいんじゃないですか。彼は僕から見ても、気構えは既に大人と変わらない。それはそうなるように育てられたから、というお話でしたよね。征士はその通りの子だと思います。…多少の事があっても、本当に御両親を裏切るつもりはないんです、利口な奴だから、何とか折り合いを付けようとして、こういう選択をしたんだと僕には思えます…」
 すると、彼女の方からも、伸には思い掛けない返事が戻って来た。
「…そう言って下さるようなら、安心致します。あなたはとても良い方の様です」
「えっ…いや…」
 純粋に誉められれば、返って落ち込んでしまう。
 何故なら自分は欠陥のある人間だと知っている。征士に対しても何ら良い影響を与えているとは思えない。むしろ今は特に、悪い種になる可能性を危ぶんでいる時なのに。
 『良い方』だなんて形容は重荷になるだけだ。
 ただ『いい人』だなんて、誰にも思われたくはなかった。
 悪い所は悪いと言って、悪いなりに認めてくれればよかった。
 それが理想的な在り方だと思う。
「僕はこんな調子で、あまり厳しい所のない人間だから、彼を見て教わるような事もある位ですよ」
 苦し紛れの弁解にしては、かなり上手く締め括れたのではないか。
 否、それは本当の事だ。
「フフッ、…あの子、『恋人の家に行く』といつも言って行きますのよ。何故そんな、疑われる嘘を付くのでしょうね…」
 それも征士に取っては本当の事だ。
 愉快そうに笑う母親を前に、些か耳が痛かった。
 極めて常識的に考えて、誰もが嘘だと疑う気持は解り過ぎるほど解る。自分ですら、ここに至ってまだ状況を呑み込めないで居るけれど、そもそも決まった形のない人の心に、通り一遍の形を求める方が間違っているかも知れない。特に呼び名も持たない僕等。
「説明するのが面倒なんじゃないですか」
 本当に説明できそうもない、普通でない事が重なり合って生まれた事実の事。そしてそう答えた時点で、自分は共犯者として片棒を担いでしまった事も。
 どうしようもない事は沢山あるものだ、と伸は髪を掻き上げた。



 秋の日の赤く染まる夕暮れ。
 その焼け付くような鮮やかさが薄闇に沈んでしまうと、征士は毎日、殆ど同じ時刻にこの部屋の呼び鈴を鳴らした。そして今日も、何ら変わる事のない様子でここにやって来た。手にした夕刊や広告の束を伸に手渡すと、少しばかり戒めを解く様に、学生服の詰め襟のホックを煩そうに外した。もう既に伸の日常と化している光景。
 けれど、何も変わらなかった訳ではない。
 少なくとも伸の中では変化が生まれていた。昨日は昨日、事故とも思える出来事から一夜明けた。体を開け渡したからと言って、何もかも全てを許したつもりはなかった。けれど今に至って、自分を取り巻くその他大勢の人間の、誰よりも征士は自分の近くに存在していると思えた。きっかけを、無理矢理だったとか、不可抗力だったとか、理由を付けて反発する気にはなれなくなっていた。
 それは何故か。
「…これは何だ、伸…」
 訝し気な声色で尋ねた征士に、何の事かとキッチンから離れて部屋を覗く。伸の方に向けて、征士は一本の長い髪の毛を掲げて見せていた。どちらの物でもない、細く真直ぐな白金の一筋。この場合、ドラマ等にありがちな展開だとしたら、浮気を疑っていると解釈するのだろう。けれど征士の表情は、大方予想が付いている様子だった。
「お客さんが来てたんだよ、三時頃には帰ったけど。色々話を聞かせてもらったよ」
 伸はさらっと答えてみせた。意図するところは、誰も傷付かず、何も責められずに済んだ事を伝えたかった。無論真実を見せた訳ではないが、取り敢えずはこの平和が守られた事を。
 すると征士は面白くなさそうな顔をしたまま、
「…よくよく嗅ぎ付けて来るものだ」
 と吐き捨てる。
「ほー?、度々こんな目に遭ってるようじゃないか」
 けれど笑いながらそう返した伸の、態度が妙に優しいと征士には感じられた。
 ここで何を話されたのか彼は知らない。親が自分について語る事と言えば、気分を悪くさせるこれまでの『奇行』話に決まっていると、征士は易くそれを思い浮かべられた。この数年に繰り返されて来た事、檻からの脱出と自己の開放、そして必ず頓挫する結末。常に出口の見付からぬまま終わる逃亡劇。けれど、伸は笑っていてくれる。
 征士はだから躊躇うことなく話した。
「まあ、な。正確には『度々』ではない。毎度の事だ。…どんなに隠していても、何故か必ず突き止められてしまうのだ。参るよ、それで余計な事を吹き込んで帰るから、大概その後はうまくいかなくなる。口止め料を払えと強請られた事もある位だ」
 そう言って、至って平素な征士に対して、伸は決して穏やかではなかったけれど。
「…さて、伸の結論はどうだろうか」
 諦めた様に笑い出した彼が、切なかった。
 誰も皆、綿々と過去から続くものの中に生きている。決まった枠の中に捕われながら生きている。それに気付かずに居られれば幸いだ、その人は過去にも未来にも、無限の可能性を見る事ができるのだろう。小さくこだわりたいのではない。元の場所に引き戻そうとする過去の亡霊が、いつも暖かい腕を広げてそこに在るからだ。だから逆らえない。僕らは迷わされている。
 選ぶ事ができない。自分をこの世に送り出した人を選ぶ事はできない。
 閉じられている。
 夢も見られない。
 愛情の価値を幻にしてしまった、過去を帳消しにすることはできそうもない。

 けれど伸はひとつだけ、許されると思える方向を見付けた。
「…『同病相哀れむ』と言うから」
 逃げる訳ではない、誰も裏切らないから、今は雑音を聞かせないでほしかった。不条理に悩む心が癒されるまで、僕らには時間が必要だと思えた。
 血の繋がりから生まれるものを、素直に受け入れられるまでの時間。

「そうか…」
 そして伸の出した答に、征士もまた救われた様に息を吐いた。
 一時の緊張感が、徐々に部屋から退散していくのを伸は感じている。それから、やはり征士はあの母親に似ているのだと、意に変化する空気の色から理解できた。恐らくその様子は、他人から見た自分も同じなのだろうと伸は思う。
 生に於ける、長きに渡る苦しみを植え付けられたとしても、結局自分と良く似た人を否定する事はできないのだと知った。それは自分を否定する事になるからだ。そして君を否定する事になるからだ。『あなた』がいなければ『わたし』は存在しない、『わたし』が好きな『あなた』を作り出した人を、『わたし』は否定できないだろう。
 この優しい気持を、これまでは、誰にも伝えられなかったけれど。

 元通りの部屋。そう、ここは常に変わらず、弛緩できる場所でなくてはならない。既に征士も肩の力を脱いて、再び話し始めていた。
「私はずっと、人並み以上である事を求められているのだ。だから人間を越えなければならない、そうならなければ家族は喜ばないのだ。家ではそれでも構わない。…だが、私は家の中だけで生きている訳ではない。私は今ここに居る、ここに居るのが好きだ」
 征士の『家族とは何だ』という問いかけを伸は、思い出しながら密かに、はにかむ様に笑っていた。何故なら今は自分の方が、家族みたいなものだと思えた。
「私は伸が好きだ」
「…Me too」
 当たり前の挨拶の様に言えたから。



 そんな曲もあった。
 Christ lag in Todesbanden
 最大の幸福の為に最大の苦悩があるという事。



「でもさ…、君、何処でこんな事を憶えて来たの…」
 身近に同胞を得たのは良い。だが伸には今一つ納得のいかない事もあった。
「色々あって」
 征士は先程からじっと動かない。壁に背を預け、腕には確と伸の裸の体を抱えたまま何かを見ていた。朝は煩い程の電車の騒音も聞こえない夜半、しばしば外を通る車の音だけがリアリティだと感じた。部屋の明かりも無い。窓から差し込む街路灯の光だけが、辛うじて窓際にある物を照らしていた。
 目を開きたくないのは、まだこの現実を直視できる心境に至れないからだ、と伸は思う。けれど指先を動かすのも気だるいと感じながら、伸は漸く頭を持ち上げて、彼が見ている窓枠の明かりを捉えようとした。生物は傍に在る物の影響を受けると言うが、いつも同じ景色を見ていたかった。
 すると、そこに姿を現した物を見て伸は一言、
「あんな所に置いたんだっけ」
 と。
 今日は思わぬ来訪者と、いつもの居候がやって来たが、その度に探していた物がそこに置いてあった。掃除の為に一時テーブルから退かせたのだろう。
 水色の砂時計。
 今は止まった時を眺めていられる。小さなガラスの中に閉じ込められた、良くも悪くも同じ事を繰り返す世界。今はそれでも、ふたり静かな夜の平穏に包まれていた。
 離れられないものが増える程に、閉じ込められていく事にはまだ、気付かないでいよう。










コメント/ああ…何となく終わってしまった(笑)。いやあの、書こうとしたした事は書けているし、主題を外してはいないんですが、ただ、これのどこが学生ものなのか!?という辺りがねえ…(笑)。もっと、学校でのエピソードなどを入れるべきだったんですが、調子の悪い時期に書いた作品は、こうなってしまうもんですね、トホ。機会があったら後々手直ししたいです。
そう、主題(テーマ)なんですが、作風が軽い割に「やなテーマ」だったですね(笑)。昔からのルーパーファンは子供がいる世代になってますし、辛いなぁと感じた読者もいるかも知れません。でも!、だから大事というか、古来から儒学によって抑止されて来た概念の中に、ボーダーライン的人間の理由があるかな、とゆだみは思っています。古い考え方が全て悪い訳じゃないけれど、それに虐げられるのもどうかと…。特に女性の立場からは考えさせられてしまいます。
そんな訳で、ちょっとこ難しい話になっちゃいましたが、「年齢差年下攻」というのは結構スキだったりします(笑)。聞いた話ですけど、本当のホモの人でも、「自分より年上の人が悶えているのは萌える」とか何とか。うーん、わからないでもない(笑)。



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