キャンパス内の伸
OUR SWEET ASYLUM
#1
アワ・スウィート・アサイラム



 午後六時頃、電車は新宿のホームを発車した。

 夕暮れの車窓から眺める街はいつも不愉快だ。
 朱色に淀んだ雲間に溶け出す、ビルの無数の窓の反射はまるで、日々の疲労や苦悩を吐き出しているように見える。疲れた僕の中のありとあらゆるものが、体の外へと流れ出しそうになるからだ。決して美しい景色に例えられる事じゃない。
 吐き出しながら、寄り添うビル群は活気ある仮の姿を捨てて、ただの容れ物の本質へと傾いて行く。無人の城を呑み込む闇が訪れ、辺りに瞬くイルミネーションの、流れ者の無数の星の住処となり果てる。さながら銀河に座礁した難破船の如く。否、その方がまだ慰められる情景だと僕には思えた。



 突然のさよなら。よくある話だ。
 殊に彼に取っては、もう慣れっこの日常的な瑣末事かも知れない。人生は飽きる程長いとか、振られる方が良い人間だとか、世の中には有り難い文句が数々あるが、同じ事を何度も繰り返してしまう情けなさの内に、それらの言葉の価値も心に残る程の重さを失う。結局自分を救えるのは自分だと、投げ遺りな孤独感に浸るばかりの帰り道。それもまたよくある話だ。
『そんな歌があったっけ』
 身を預ける様に吊り革に掴まったまま、彼はぼんやりと、どうでも良い様な事に思考を流していた。恋する事は人生の華、常に何かに恋して生きる事が、心を豊かにするという例えだ。心惹かれる物事のひとつやふたつ、心をときめかせる人物のひとりやふたり、誰にでも存在するように、彼の周囲にも沢山の恋が存在しているのだが。
 車窓に暮れて行く初秋の景色は、灰色の建物の壁面を尚くすんで見せていた。鞄の中の教科書やノートの類いが、普段は忘れている重量を肩に辛く感じさせている。規則的で退屈な電車の振動に、最早眠気を誘われる事もなく、凍てついた冬枯れの林の様に、頭の何処かが閑散として冴えている。
 何もかも、白々とした空間に捕らえられている。人生を薔薇色だと感じた事もないけれど、せめてもう少し明るい配色の中に生きていたい、と彼は常に感じていた。
 …溜め息。溜め息で埋め尽くされた迷宮の中。
 たかが失恋か、されど失恋か。彼には正によくある話だけれど、そして世界中を見渡せば、掃いて捨てる程ありふれたエピソードだけれど、そのひとつひとつは違った顔のシナリオでもある。そしてそれを証明するのは簡単な事だった。彼は失恋の度に傷付くナイーヴな青年であったが、失恋という事実そのものに傷付いていた訳ではない。
 この期に及んで、哀しむべき材料が何ら見つからないのだ。
 恋の延長上に愛は存在すると言うが、愛と言う価値観を他人に見出す事ができない。恐れている、裏切られる事を必要以上に恐れ続けている。
 彼は己の情緒欠陥に自分で傷付き続けている。
『僕は人を愛せないのかも知れない』
 気付いた時には、ずっとそんな悩みと隣り合わせだったように思えた。

 山口から上京して来たのは一昨年の春の事だった。
 父の仕事の関係で東京には来慣れていたし、大学は第一志望の学校に合格していた。だから不安など殆ど感じる事もなく、洋々と未来を描き出せるように感じていた春だった。契約したアパートも全く申し分なく、最寄りの駅から徒歩五分、その間には明るい印象の新しい商店街があって、駅から大学までは乗り換え無しで六つ目という立地だった。
 駅の周囲は不思議と緑が多く目に入る。古い寺社などの一角を守る様に囲んでいて、至極都心に近い住宅街とは思えない静けさだ。そして比較的新しいアパートの前からは、新宿の高層ビル群を眺める事ができた。いかにも都会の町らしい景観とそうでない落ち着き、それがこの場所を気に入った理由だ。新しい生活を始めるという時に、納得のいかない事を残さずにいられたのは幸運だった。
 新しい生活。新しい環境で始める新しい自分。僕はそれに賭けていた。
 切っ掛けさえあれば、人は何度でも生まれ変われると言うからだ。この恵まれ過ぎとも思える状況に、僕が一重に希望を託していたとしても、別段おかしな話じゃないだろう。少なくとも僕は何かを変えたいと望んでいた。心の中に聳え続ける、見えない壁を乗り越えたいと思っていた。
 友達はすぐにも作れる。恋人と呼べる特定の相手にしても、付き合いを始めるのは簡単な事だった。けれど、本当の意味では誰も信じ合えはしないと、僕はいつから諦めてしまったんだろう。

「毛利君が嫌いになった訳じゃないけど、ごめんね」
 と彼女は言った。

 思い返せばいつもいつもそう言われている気がする。そして僕はまた、いつもいつも悲しみや悔しさを感じられない。詰まらない出来事とは思っても、逃げ出そうとする時間のひとコマを無理に引き戻そうとする、そんな感情は何処にも生まれて来ない。繰り返し上映される恋愛映画の古びたリールが、常に自分の前だけで回っているような空々しさ。
 誰かは僕を『淡白』だと言った。
 誰かは僕に『淋しい』と言った。
 そしてそんな言葉で自分を評される度に、誰も自分を見ていない事を思うばかりだった。否、自分を見えなくしているものに、僕はまだ負け続けていると認めるしかなかった。僕は単に「いい人」じゃない。そう思われているのも恐ろし気な事に感じる。
 結局、年令だけは大人になった今でも、自己の革命は果たされないままだった。

 車窓に映る自分の顔を眺めている、彼は繰り返される日常に幾分疲れた表情をしていた。窓の外の、昼間には鄙びた印象の歓楽街も、この時間からはかりそめの夢の如き色彩に包まれる。都会の町は常にふたつの顔を持っている。そして四六時中、引っ切りなしに新しいニュースが飛び交っている。何もかも、のんびり踏み留まっている事はできない。
『何で僕は変われないんだ』
 こんなに忙しなく息づく場所に来てまで、こんな思いを続ける筈ではなかったと、彼は虚ろな瞳を泳がせながら唇を噛み締める。この二年半程の歩みが、思う方向に展開していない事をただ悔しむ。もう何処に向かって良いのかさえ分からない。
 他人の不幸は密の味、とも言うが、端から彼を見ている人間には、彼の苦悩の度合いなど測れたものではない。現に同じ車両に乗り合わせた女子高生の集団が、やや離れた場所から、ひそひそ話と共に彼の一挙一動を窺っていた。普段は誰に対しても朗らかな彼だが、どちらかと言えば憂いを帯びた表情の方が、人には魅力的に映るタイプらしい。本人には恐らく迷惑な話だろう。
 そしてその集団の反対側にも、窓に映る彼の様子をじっと見詰めている者が居た。
 しかし勿論、本人は周囲の様子など目にも耳にも入らない状況。例えそれらの中に切っ掛けになる存在が含まれていたとしても、それに気付く事すら今の彼には不可能だった。二十年分の渇望と閉塞感の積み重なる、自分にぼんやりと漂っていた。意識が全て内側へと向かっていたからだ。

 そうしている内に、電車は彼のアパートのある駅へと到着した。



 都会の真ん中に居るよりは、庶民的な雰囲気の感じられるここに降りてから、窮屈な心境が少しばかり和むようだった。
 彼の大学は無機質なビル街に囲まれ、通学ルートも只管都心部の景色ばかりが連なっている。通勤通学ラッシュこそないものの、電車に乗る度に戦場へ向かうような、肩肘を張るような思いで彼は過ごしている。都会と言う別の世界が、彼に取っての勝負を決する場所だからだろう。よって、素の自分に近付けるのはやはりアパートの周囲だった。ここは有りの侭の人の生活が見られる場所。

 決して快活とは言えなかったが、彼は特に普段と変わらない様子で家路を辿っていた。商店街の、よく寄る書店の主人が『おかえり』と声を掛けると、彼は自然に厭味のない笑顔で頭を下げた。顔馴染みの店主は、町に不馴れな学生にはとても親切だった。だから多少不機嫌な時でも、演技を繕って挨拶する事はできる。しかし彼が求めているのはそれとは違う。
 その二軒先にある花屋の、洒落た店先には黒いエプロンの娘の姿が見えた。聞いた話では「ミスなんたら」に選ばれたと言う、確かに美人と言って遜色ない女性だった。但し更に聞いた話では、いつも違う男を連れているとの事だ。商品価値のある美形と思えるものは、遠くから眺める方が良いという例かも知れない。無論彼が特別に関心を抱く事もなかった。
 大通りに出ると大型のスーパーマーケットがあり、取り敢えず今日の夕食に足りない材料を仕入れる事にした。元より家の家事を積極的にして来た彼は、そういった面では全く困る事もない。自分の部屋をいつも清潔に整えて、自分の衣装を適切に洗濯して、きちんと一人前の量を計算して食事を作っている。しかし、それだけの生活をする為にここに居る訳ではないのだ。
『空しい』
 あまりにもまともで無駄がなく、下宿学生の鑑の様に思われている現状。その実、切望する事態にはまるで縁も無くて、周囲を欺く様な心苦しささえ感じていると、何処の誰が想像できただろう。目の前でレジの読み取り機を操る、冴えない中年のおばちゃんにも家庭がある事を知っている。誰もが何事も無く飛び越えて行くハードルを、越えられない自分は余りにも異質に感じた。
 空しい。空転するばかりの日々。淋しい。誰とも繋がれない心。
 手に下げたポリプロピレンの買い物袋が、誰も見当たらない路地では、妙に耳に付く音を立ててガサガサと鳴っていた。それが歩く足を掠める度に、中に詰まった缶類の角が当って痛かった。それ程大量に買う物はなかった筈だが、精神状態が不安定な時に限って、必要のない物まで買い込んでしまう事がままある。結果予想外に重い荷物になってしまったが、それはまあ些細な事だろう。
 それより面白くない事を考えて料理をすると、自ずと出来た食事も不味くなる。と彼は、一時だけでも気持を切り替えようとしていた。彼のアパートはもう目と鼻の先に見えていた。

 当然だが二階建てのアパートには、例え新しい物件でもエレベーターは存在しない。しかし彼の借りている部屋は二階と言っても、実際は三階に近い高さだった。各部屋には充分なスペースのロフトがあるからだ。なのでアパートの外を伝う階段は、一直線だがかなり長い距離があった。
 些か邪魔な買い物袋を腕に抱え直して、伸はその階段を上ろうと、その一段目に足を掛けた。丁度その時だった。
「もしもし、少し話を聞いてもらえないだろうか」
 彼の背後から聞き慣れない声がした。
 辺りには他に人気が無かったので、自分を呼んでいるのは間違いないと思えた。恐る恐る振り返ると、アパートの入口である私道の脇に、詰め襟の学生服を着た少年が立っていた。
「…僕に何か用かな?」
 初めて見た顔だった。が、伸は一応砕けた口調で返事をしてみせた。何故なら、長い前髪の下から覗く眼光は鋭いものの、明瞭に幼さが残る顔立ちや身なり、身長も大体自分と並ぶくらいで、いかにも成長途中の未完成さを呈していた。恐らく中学生だと思われた。自分の荷物に負けず劣らず大きな袋を下げて、更に長物袋を肩に預けている、剣道部員なんだろうとも察しが付いた。
 伸には中学生の知り合いなど勿論居ない。家庭教師のアルバイトなら幾度かしたが、対象は高校生だった。さて声を掛けられた理由はまるで思い当たらない。
 僅かの時間の中で、可能性のありそうな事柄を頭に巡らせていたが、次に彼が聞いた言葉は全く予想しないものだった。
「一目惚れしました、私と付き合ってください」
「・・・・・・・・」
 言わずもがな、絶句。
 元々今日は、午後のある時から思考が止まっていたようなものだった。暫くはまったりと深みに沈んで過ごそうと、伸はいつも通りの消極的発想で考えていた。突然降って涌いた様な、しかもかなり突飛な内容をすぐに噛み砕ける訳がない。恐れもなく真直ぐにこちらを見ている、その少年の態度にも些か驚かされていた。
 更に相手はどう見ても子供の部類だった。否それ以前に男である。そういう趣向を持った人間に出会った経験はあるが、同調する程の好意を持てた訳でもない。それが例え、妙に整った顔立ちの少年だとしても、とてもじゃないが興味の対象にはなり得ない。伸はそう思いながらも、何とか会話を繋ごうと必死に言葉を絞り出した。動じていない様子を装う事が最善だと思われた。
「それって…一体、いつの話?」
 少年は曇りの無い調子で、有り難くも明解に説明してくれた。
「つい先刻、電車に乗っていた時だ。私は隣の隣に立っていた。それで、悪いがずっと後を着いて来たのだ。…誤解のないように付け加えるが、秘密裏に何かを調べたり、脅しをかけようというつもりはない。町中では話し難かっただけだ」
「…そ、そう…」
 事情は確かに。しかし伸は当惑せざるを得ない。どう見ても十代半ばの学生が、あまりに大人びた言葉遣いで理路整然とものを語るので。この場合、性別がどうだと議論するのは無意味と思えた。若年ながらこれだけはっきりしている者には、そんな事は始めから承知の筈だ。
 困った。一体何を以って拒否すれば良いのだろう。嗜好の違いを主張したところで、心には確固としたものが無い事を伸は知っている。でなければ、嘗て自分から離れて行った者達の、心変わりについて何の理解を得る事もできない。
 人は変わって行く、どうしようもなく心が変わってしまう事もある。誰の所為でもない。そして、変われない自分こそが不自然で惨めな存在なのだと。
「でも、さあ、…君は中学生じゃないの?」
 困りながらも伸がそう言うと、少年はやや不思議そうな様子で、
「そんなに変わらないと思うが」
 と返して来た。
「僕は大学生だよ」
 少年は『え?』という顔をする。それは確かに、少々誤算だったという風情に見えた。
 悲しいかな、伸は高校生に間違われる事がしばしばある。私服の高校も特に珍しくはないが、線の細い体格と険しさの無い顔立ちが、同じ二十歳位の学生に比べるときれい過ぎる様な、或いはひとり浮き立って見える様な所があった。深夜の町中で補導されそうになった事も、幾度かあるくらいだ。
 だからそれについては、特に失礼だとは思わなかった。むしろ真実を知って引き下がってくれるなら幸いだと、伸は思い目論みを図る。本来なら怒りを露に蹴散らしても良いところだが、決め手があるなら、わざわざ他人を傷つける行為に出る事もあるまい。伸はそんな風に、生来の優しさから答を導き出していた。中学生の世迷い言に感情的になるのはどうかしていると。
 黙っている少年に、伸は更に念を押す様に言った。
「こう見えてももう三回生なんだよ。年は二十歳。…実家が東京から遠いもんだから、ここで自炊して暮らしてるって訳さ」
 大人しくその話を聞いて、少年はさも納得した風に小さく頷いて見せた。内心「よしよし」というつもりで、伸はにっこり笑顔を返したのだが。
 少年は言った。
「…それで、答は?」

 動じないだろう事を予想しなかった筈はない。
 そして伸はあっさり切り札を使い果たしてしまった。実に間抜けなやり取りだと傍目には見えるが、結果は始めから決まっていたようなものだった。
 見た目の印象からして、意志の強そうな少年だと伸には感じられていた。また話し出すと、一筋縄ではいかない様な機知の有る人物だという事も。正直な所毛利伸という学生は、理論立てて思考する事も、突き詰めてものを考える事も苦手だった。よって在籍しているのも英文科である。通訳やガイドといった仕事に就くのが彼の希望だった。
 信頼関係を否定し続けながら、彼は人の間に存在する事を好んでいた。否それが本来の自分の在り方だと疑い無く信じていた。信じていたからこそ、悪循環の生活から逃れたいと望んでいた。つまり、彼に闇雲な疑心や悪意は存在しない。その場その場の感情を最も大事にする彼には、何手も先を読んで画策する事など、元々できはしないのだ。
 そしてそれができる者に対しては、感情的になる以外に対抗手段がない。多少なりとも年長である自負が働けば、こうなることは火を見るより明らかだった。
『どうにもできない』
 と事態を悟った所で、伸には妥協案を提示する道しか残っていないと思えた。恐らく何を言っても状況は変わらないだろう。それから、
「う〜ん…、悪いんだけど、今すぐ答えろって言われてもね…。実は今日、大学で色々あってね、頭がまともに回ってないんだ」
 加えて話した内容も嘘ではなかった。普段なら取り合わない筈の出来事を、ここまで引っ張ってしまった事自体「まとも」ではなかった。とにかく断るにしても、当たり障りなく躱すにしても、もう少し時間を空けてからにしてほしいと伸は思った。
「だから、少し待ってくれないかい。…その間はここに遊びに来てもいいから。ああ、勉強を見てあげようか?、休みの間は家庭教師のバイトもやってるからね」
 結局何処まで行っても、彼の口からは情け深い言葉が出るもの。信じる事への葛藤を抱えながらも、孤独に堪えられない、他人の存在を否定できない、許容する他にない自我の弱さを露呈していた。
 それが命取りだという事も、彼は気付かないでいる。けれど彼の良心的な言動を見て、故意に裏切ろうとする者も滅多に居なかった。世の中とは良くできている。無論、冴えた中学生がそれを理解するのも容易だった。
 少年は暫く思案した後に、
「分かった。そういう事なら、生物と社会を教えてもらいたい」
 と伸の意向に沿う様に返事をした。気持良く物わかりの早い少年に対して、伸も好意的に受け取らざるを得ない。
「あ、うん。僕は英語を勉強してるけど、中学のレベルなら何でも大丈夫だよ」
 そう返して、意図なく微笑んでいた。

 少年は荷物を持ち直すと、立ち去ろうという様子を見せながら言った。
「では、明日この位の時間に、教科書を持参して来ることにする。私の名前は伊達征士、今中学三年だ。家は阿佐ヶ谷にあるので、ここから歩こうと思えば歩ける距離だ。ここは定期の区間内でもある、だから交通に関する心配は無用。…以上、それではまた明日」
 呆れる程簡潔な言葉の中に、必要な事はそつなく並べ立てていた。彼の性質や背景が伸にはよく感じられるものだった。そして、現れた時はもう少し固い表情をしていたが、今は自然な成り行きに委ねている様子を見て取れる。恐らくこの妥協案で納得してくれたものと思う。
 そう、厳しく強硬に見えた態度とは裏腹に、意外と常識的で、配慮のできる少年だった。
 それは多少ならずとも伸の心を動かす。
 恋だの愛だの、出会い方がどうだったかではなくて、あまりに潔い少年に対して、自分が正しく人を信用できるようにと願った。
 見た目の格好を気にする必要もない相手なら、気負いも無く楽に日々を重ねられるだろう。糸口となるものを見つけられたらいい。一重に伸はそう祈り続けている。
 アパートの階段に、力が抜けた様に腰を下ろすと、小さくなって行く学生服の後ろ姿を見送る。
『何て日だろう、今日は…』
 伸はそう呟きながらも、残された小さな希望を抱き締めながら、暫し秋風に佇んでいた。



 約束通り、翌日の六時過ぎに征士はやって来た。
 伸は早めに切り上げて帰宅していたが、彼を待つ間に、ひとつ確認しなければならない問題に気付いた。普通六時から七時と言えば、夕飯の時間帯ではないだろうか。部活が終わるのがこの時間だとしたら、常に空腹を感じる年頃の学生には、そのまま勉強させるのは能率的にも良くないと思えた。
 その上、家には何と言って来るつもりだろう。正式に雇われた訳でもない、赤の他人である自分が食事の面倒まで見て、未成年を家に引き止めているというのは、世間的に形が悪いだろう。
 まず彼に話した方が良い。そう考えながら、取り敢えず今日の食事は用意していた。

 玄関のチャイムが鳴る。
「…ねえ、良く分かったねぇ、この部屋だって。名前も聞かなかっただろ、昨日」
 ドアを開けると、妙な顔をして出て来た伸に、
「昨日、外の郵便受けを改めていたのを見た」
 と征士は答えながら、ポストに入っていたらしき宅配メールを差し出した。抜け目のない事だ。
「だが名前は知らなかった。苗字しか出ていなかったので」
 そして今日はメール便の宛名から、名前も判明したと言うのだろう。
「そ。僕は『しん』だよ。そう呼んでくれていい。言っとくけど敬語を使う必要もないよ、僕は正式な『先生』じゃないし」
 なので伸は先手を打って自らそう申し出る。征士は黙ってそれを受け入れていた。否、彼からすれば親し気になる事こそ本望だ。征士は指示される通りに、昨日持っていたのと同じ荷物を玄関先に置いて、
「まずはごはんだ」
 と伸が促す通りに、箸の並べられたテーブルに就いた。因にロフトの他はワンルームなので、そこは居間兼ダイニング兼勉強部屋である。ロフトの存在で天井が高く、床面積に対して広々とした空間だった。
 割に大型のテレビとビデオのある壁面の棚には、ビデオテープ、コンポステレオ、CD、MD、MDウォークマン、各種リモコン、プレステ2、ノートPCとプリンタ、LANターミナル、各種ソフト、書籍と書類、文房具、薬品、日用品、UFOキャッチャーのぬいぐるみなど、ありとあらゆる物が並んでいる。しかしどれも小奇麗に片付いていて、掃除が行き届いている事を物語る様に、テレビ画面のガラスには埃のひとつも見えない。
 物の多さには圧倒された征士だが、それらひとつひとつが清潔に保たれている事には、ちょっとした感動を憶えた。中学生には実感として解らない事だが、時折耳にする話として、『男の一人暮らし』にはあまり良い印象はないものだ。それだけの事だが、征士にはこの場所がとても居心地良く感じられていた。
 そしてそこへ運ばれて来たのは、簡単なメニューとは言い難い天津丼と雲呑スープ。否、これは昨日の「ヤケ買い」から成立したメニューという訳だ。感心している征士の様子を見ていると、痛い思いをしながら、特売だったカニ缶を買って来た甲斐があったというもの。伸はそれで充分満足だった。
 そこで先の問題に戻る。
 食事をしながら、それとなく伸は尋ねた。
「ところでさあ、君がうちでごはんを食べてる事、家の人は知ってるの?。ちゃんと連絡しないといけないよ」
 通常の大人なら当たり前の配慮だった。けれど征士は普通の中学生ではない。そう来るだろう事は既に予想済みで、波風が立たぬ様に手を打った後だった。
 征士は声を出さずに笑っている。伸は彼が明から様に笑うのを初めて見た気がする。そして、口の中のものをすっかり呑み込んでしまってから、征士は少し困った様子で話し始めた。
「親には、昨日も今朝も話した」
「何て?」
 如何なる理由で親を納得させたのか、伸は大いに興味を持った。この少年はただ者ではないと感じさせる点が、昨日から端々に現れていたからに過ぎない。すると、その内容はこうだった。
「まあ、正直に『大学生の恋人が、明日から勉強を見てくれるというので、夕飯はいらない』と言ったのだ」
 …何だそれは。
「ちょっと待てよ、僕は…」
 伸が言い掛けると、
「分かっている、そう言わねば納得して貰えないから、今は便宜上の理由だ。…事実になってくれれば一番良いが?」
 悪びれた様子もなくそう返した。少年の行動としては全く解せない事だが、人間としては肝の座った奴だと認める伸。だが、
「…それで良しとする親がいるとは思えないけど。だって中学生だろ?」
 しかし征士には自信があった。
「良いとは思わないだろう。実際今朝は刺々しい雰囲気だった。だが、何処で何をしているか分かれば、取り敢えず文句は言われない」
「どういうんだろ…」
 実のところ征士は、これまでに幾度か似たような事件を起こして来た経緯がある。けれどいつの時も、彼の両親は直接は何もしないのだ。正確に言えば「しない」のではなく「できない」のだが。
 考えてみれば世の中は不思議だ、妙だ、変わっている、と思える事に溢れ返っている。そして自分もそのひとつかも知れないと伸は思う。今目の前で、お行儀良く食事をしている少年にしても、意味は違えど「異質」である事は変わりがない。しかし彼を知れば知る程、他の人とは違う事が何より、彼の武器であり魅力的な個性であると感じるのだ。
 だから、別に普通でなくてもいいんだ。
 征士に出会って、まずそんな事を理解できた伸は、またもう少し気持が楽になった気がした。

 食事を終えた後。
 初日である今日は、今後どういった方向で進めて行くかを、教科書を見ながら考えなければならないと思った。伸はテーブルの上に並んだ、理科と社会科の教科書を眺めながら、
「そう言えば、生物と社会を教えてほしいって言ったね。何が分からないのかな…?」
 と質問した。伸が思うに、この手の科目は中学レベルでは丸暗記で良い筈だ。これを苦手とする理由はどうもピンと来ない。
「分からないと言えば、分からない事だらけだ」
「…んー?」
 その発言の方が尚分からない。伸は一度征士の顔を見遣ると、教科書の下に敷かれていた、彼の社会科のノートを広げてみた。記述の内容によっては、何が理解できていないのか分かりそうなものだ。
 ところが、それは意外にも整然とまとめられていた。書き文字さえも、体裁が乱れる事なくきちんとしている。
「…これで何が苦手なのかわかんないなー」
 伸は思ったままの事を口走った。大体ノートの取り方を見た感じで、勉強ができないタイプではなさそうなのだ。すると伸の頭の上で、
「別に苦手だとは言っていない」
 との声がした。
「は?」
「どちらかというと得意だ」
 理解不能。
 征士の行動はいちいち風変わりだった。恐らくその思考パターンに慣れれば、どうという事はなくなるのだろうが。今の伸には、些かの訝しみを以って返す事しかできない。
「じゃあ何で社会を教えてほしい訳?」
 すると、そう聞いてくれた事を嬉しそうに征士は言った。
「学校の勉強ではない、私が知りたいのは『伸の社会と生物』だ」
『こ、こいつ』
 してやられた、という感じだ。
「…最初からそういうつもりだった訳…?」
「そうだな、勉強なら誰でも教えてくれるが、伸の事は伸に聞くしかないだろう」
 そして勿論怒りも感じる。仮にも伸は、至極真面目に学習計画を立てようと、昨日からぼちぼち考えをまとめていた経過がある。これを怒らずして何とする。
 伸の顔色が微妙に変化して行った。しかし征士もからかって遊んでいた訳ではなかった。伸の様子を察して、彼は故意に顔を近付けると、囁く様な静かな口調で話し始めた。
「私は確かに中学生だが、今最も関心があり、最も知りたいと思っているのは伸の事だ。…そういうところを伸が誤解しないように、念の為言っておきたかっただけだ。本当に苦手なのは英語だ。だから英語の教科書も持って来た」
 がくり。
 と伸は自分の中で音を聞いた気がした。つまりここまでは皆「演出」だったという事か?、と釈然としない思いで満ちていた。随分と、愉快な真似をしてくれるものだと。考えようによっては、何かしら人に印象付ける才なのかも知れないが。
 ただ、そのトリックを面白い様に信じ込んでしまうのは、大人として恥ずかしいと思われた。
 そうだ、全てが信じられない訳じゃない。

「どれ…、それで?。何が苦手だって言うの?」
 改めて鞄から出された英語の教科書を見て、伸はやや疲れた様に尋ねた。
「全体的に」
 それもまた抽象的で分かりにくい返答。
「どういう意味?」
「馴染みがないからだろう。家では誰も話さない」
 それを言ったら、どの家も大差はないと思われるが。
「理由になってないよ、『家では英語を話す』って人の方が珍しいだろ」
「そうだろうか?」
 何だ?と伸の疑問はまた膨らみ始めた。確かに征士は変わった少年だが、そこまで世間知らずな人間がいるだろうか。否、この場合は勘違いと言うべきなのか。
「そうだよ!、みんなが英語を話してるなら、英会話学校なんて流行らないじゃないか。言うとしたらせいぜい物の名前くらいだよ」
 伸は一応そんな説明を付けてみた。すると、征士は呆れがちにこう答えたのだった。
「それなのだ。とにかく私の家では、物の名称さえ滅多に横文字がない」
「…君の家は相当変わってるみたいだよ…」
 これだけ国際化が叫ばれている中で、今時横文字が滅多に無い家が存在するとすれば、別の意味ではとても貴重な事だと思う。それは昔ながらの伝統を大事にするという、もうひとつ今の日本には必要な方向性だ。日本の伝統文化…と考えた所で、伸の頭にはある閃きがあった。
「あ、もしかして、君の家は剣道場?」
 征士はおやという顔をしながらも、至って嬉しそうに答えた。
「何故わかった?」
「いや何となく」
 何となく、武道の家なら納得がいく気がした。伸は自分の家も、半分くらいは旧家の伝統を残しているので、その雰囲気には思い当たるものがあったからだ。厳しく、過去の名誉を汚す行為は許されない。常に過去を中心に生活する重苦しさなどを。
「私の家は、昔の生活をわざわざやっているような家なのだ。皆着物を着ているし、朝は早く起きて雑巾がけをする。洗濯機や冷蔵庫などは流石にあるが、家は昔のままの日本建築で、台所は土間にあったりするのだ。そして何事も親父が中心と来ている。…まあ、そういう環境が嫌という訳ではないが、世の中の風潮に逆行している感じは否めない」
 征士は自分を取り巻く状況をそう説明した。気付いてみれば、ここに来てからの彼の態度は、大変行儀が良く上品なものだった事を思う。
 発せられる言葉の内容と、親の承諾状況だけは腑に落ちないままだが、伸は素直に、
「そうかも知れないね」
 と返す。征士は最後に一言だけ付け加えた。
「それでも幼い頃は、不自由を感じることはなかったのだが」
 子供の頃は誰しも、家族と親類、近所の住人、通う学校の周囲ほどの、極限られた世界しか知らないからだ。他にもっと良いと思われる場所がある事、他の生き方を選択する権利がある事など知らない。否、知らない方が幸せだと言う事もできる。だから「子供の頃は幸せだった」と、大人は後に懐古できるのではないだろうか。
 子供の頃は、幸せだったのか?。

「じゃあ、これから少しずつ、学校で習った事をおさらいしていこう」
 大体の事情を聞いた上で、まあ総括的にする以外なかったのだ。どの道手を焼く程レベルの低い生徒ではないし、課題もそう多くはないと見込みが立つ。そして伸は、
「三年生って事は、来年高校受験だよね?。それまでに終わるようにしよう」
 と続けたのだが、
「いや、それはあまり考えなくていい」
 と征士は言った。しかし流石の伸ももう、何か裏があると勘ぐる事ができた。
「…その理由を答えてもらおうか?」
 余裕があると思えば、伸の顔にはたちまち笑みが戻って来る。感情の起伏が激しい分、現金な性格であるとも言えるようだ。征士は伸の、そんな様子を楽しそうに眺めながら言った。
「もう推薦をもらっているのだ」
 案の定。ではあったが、
「だったら勉強しに来ても意味ないじゃないか!」
 言わずにいられなかった。勿論それが目的ではない事くらい解っている。ただ自分にこれといった立場がなくなれば、好き勝手にされ兼ねないと伸は案じている。しかし、
「そんな事はない、人に教えるとよく憶えられると言うから、きっと伸の役に立つことだろう」
『キッ、キサマ』
 それが年長者に言う事か、と伸はもう一言言いたかったが、言わなかった。何故ならそうこじつけてまで、ここに来たいという彼の意志が見える。わざわざ必要のない教科書を持参して、必要のない勉強をする為に足を運ぶ、それでもいいと言う人を悪し様に言う事はできなかった。
 何と言う真直ぐな心。
 やれやれ、と伸は息を吐きながら、敷かれたラグマットの上に足を伸ばして呟いた。
「困った子だなぁ、何をしたらいいんだか…」
 すると征士は、
「I am not a child」
 と返して来た。
「Because I can hold you」
 しかしそれを聞いて、思わず伸は笑い出した。
「それは日本語英語だよ〜、アクセントがめちゃめちゃだ」
「だから苦手だと言っただろう、私は発音が不得手なのだ」
 成程確かに、成績には直接響かないにしても、彼の環境から考えて、不得手になるのは仕方がないと伸は思った。発音を覚えるにはとにかく、話し言葉を聞く事から始まる。映画を観たり、音楽を聞いたり、そんな所から入ればいいのだろうと、伸は機嫌を戻しながら考えた。
 こうして、今後の方針は決定された。
「わかったよ、話す事を重点にやっていこう。それでいいね」
 一応征士に確認を求めると、
「That's all right,and we must have a good understanding,for each loves」
 彼は辿々しくもこんな事を語った。
「意外と…難しい事を言えるもんだ」
 本当に、発音以外はよく勉強ができている様子だった。



 それから数日が経過した。
 まさかとは思っていたが、征士は毎日毎日やって来るようになっていた。彼は自分の家に居るより、ここに居た方が落ち着くと言って、学校で出された宿題やレポートも、みんな伸の部屋に持ち込んで来るようになった。だから結果として、英語以外の教科も見る事になった。
 征士が来る事自体は、それ程迷惑ではなくなっていた。伸には男の兄弟がなかったので、居れば居たで楽しく感じる部分も確かにあった。いつの時も辛い、傷付くばかりの失恋の痛みを忘れていられるのも、伸には有り難い巡り合わせだったと言えよう。
 ただそんな風に家族的に付き合えるなら、伸ももっと素直な気持を出して行ける。けれど判らなかった。先行きがどうなるかなんて、誰にも判りはしない。
 伸はまだ、メビウスの帯の上を歩いている。実感として。

 ある日の夜更けに、征士が来る度にいつも、郵便受けの中身として渡される郵便やチラシに紛れて、征士から伸宛の封書があるのに気付いた。何だろう?と首を傾げながら封を切れば、
『…学生である伸に食事をさせてもらっているのは、負担になると思うので、ひと月分の食事代を送ります。私が自分で払うつもりが、今回は母に無理矢理押し付けられました。悔しいので今後は覚られないようにします…』
 という文面の手紙と共に、一万円札が入っていた。
『大した奴だ』
 今の所、そんな事を思うばかりの伸だった。



つづく





コメント/こういうタイプの話はネットでは初めてなので、何かちょっとテレた(笑)。冒頭の方。
学生の話、学園ものはネタは沢山あって、作りやすいパラレルではあるんだけど、それだけにありがちだったり、特にこれといった主題が見えない作品になりやすいんですね〜。だからこのネタを選択したからには、何かしら見どころのあるものに仕上げよう!という挑戦もしてます。
トロイメライが征士中心で語っていたので、今回は伸の目線で書こうと考えていましたが、どうもここまでだと「伸征」みたいに読めますね(笑)。いや、間違っても逆は書かないです(笑)。



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