暮れる新宿の征士
Alpha=Omega
#4
The Begining & The End 1989



「…なーんか心配だなぁ、あいつ」
 駅構内を歩きながら呟いた秀に、遼はこう答えていた。
「仕方がない。今はまだ戦いが終わったばかりなんだ。伸には心の整理がつかないことがあるのさ。…考えてみりゃ、俺達伸には色んな所で頼ってたんだぜ。戦力なら分担できても、その他のことは伸が一手に引き受けてたようなもんじゃないか。…多分、伸にはもっと時間が必要なんだろう」
 彼の言葉には一同が納得せざるを得なかった。後は伸の選択する道が、誰にも辛いものにならないよう祈るしかないのだろう。

 新幹線乗り場の前で、在来線ホームに向かうふたりと別れた。それから切符売場へ行く前に征士は、既に指定券を買っていた当麻を東海道新幹線の改札から見送った。
 征士は今、以前話していた通り券売機の前に居る。
 けれどその前に着きはしたものの、体が動かないのだ。無表情で立ち止まったまま、機械の表示をただじっと見詰めるばかりだった。
 遼の言う通りだ、と沸き上がる疑心暗鬼を打ち消そうとしても、あの偽物の笑顔が頭から消えない。彼の心はまるで見えなかった。耳に聞こえた空虚な笑い声は、その優しさの永遠の死を予告するように征士には届いた。何故そう感じられたのか。
 何故なら、伸は征士にだけは確かな別れの言葉を告げていたではないか。
『ありがとう』
 と。



 他の仲間達に比べ、征士には大した荷物は無く身軽だった。
 今から追い掛ければ間に合うかも知れない、と思うより先に、彼の足は石材の床を勢い良く蹴り出していた。目的を決めさえすれば征士の行動は早い。恐らく先程の伸の様子では、彼はすぐに空港には向かわないだろうと、何故だか征士には確信できた。
 先程五人が集まっていた八重洲の改札へと戻る。無論今は仲間の誰の姿も無かった。そこから征士は勘だけを頼りに、この広い東京の街を歩き回らなくてはならなかった。本来征士はあまり勘取ることを得意としていない。鎧があれば間違いないところだが、それに頼ることも勿論できない。
 けれど必ず伸を見付け出さなくては、と思った。伸が自身の行動や感情を処理できないまま、縁遠く離れてしまうことを危惧する仲間達の為でもある。が、今征士の意識としてはただ自分の為にだ。
 ある時から、大切すぎて失うことばかりを恐れ、彼には何一つ本音を話せないでいた。傷付き易い彼の心の為に、己が害を為す者であってはならなかった。常に身近に居られる環境なら、やんわりと関わっているだけでも構わなかった。しかしこの先は判らない。
 この場に至って、恐れていては本当に失ってしまうかも知れない。常に死と隣り合わせに存在した日々と、その中で共に育ち、蓄積されて来た共通の記憶と感情。己の人生の中で恐らく最大の、人類の存亡を賭けたイベントを通過して来た少年期。その大切な時期を、後にも先にも共有できるのはほんの僅かの者、他の誰もその代わりには成り得ないだろう。だから一人として失えない。
 又それ以上に、征士には失えないのだ。
 新たな可能性に救われることを望みたくはなかった。
 既に知っているものを追い掛けることを、誰にも咎めさせはしない。と。

 この世は全て、均衡を保つことで成り立っている。動力には反動力、重力には反重力、この美しい調和の法則を『自然』と知るなら、誰もが自然に還りたがるに違いないのだから。

 駅の前から、取り敢えず神田方面に向かって歩き出した。と言っても土地勘のない征士には、それが神田の方角かどうかはまるで判らない。
 買い物客や観光客、或いはビジネスマンの行き交う昼間の東京駅で、人波を縫うように抜けながら、彼は呉服橋の交差点に辿り着いた。過去も現在も、そこは常に多くの人が行き交う場所だが、現在は殊に車両の交通量が多い。赤信号の点灯の長さには苛立ちを感じて仕方がないが、それが青に変わればまた、飛び出すように征士は歩き出していた。
 道なりに永代通りを渡ると、目の前には名前の由来である呉服橋そのものと、日本銀行、首都高速の呉服橋ICなどが見えて来る。
 そして幸運にも殆ど時間の経過しない内に、征士は見付けることができたのだ。
 日本橋川に掛かる呉服橋の途中に、通行する人の中にじっと佇んでいる薄茶色の頭を捉えた。こちらに気付かれぬように少し近付くと、伸はその橋の上から、下を流れる川を眺めている様子が窺えた。
 日本橋川は神田川の支流で、しかし川と言っても無論涼やかなせせらぎなどではない。河口に近いとは言え、その水の色は常に暗く淀んでいる。それを眺める彼の心情を現しているようにも思えた。
 征士はそこで声を掛けることはしなかった。場合に拠っては、これから帰るつもりでそこに居て、余る時間を潰しているだけかも知れない。微妙な状況変化にも揺れ動く、伸の気分を損ねるような鉢合わせは避けたいものだ。彼が立ち止まった場所をかなり離れた所で、窺い見るだけに征士は留めていた。

 暫くの間、橋の上の伸と、その程近くに立つ征士はそうしていたのだが、二十分も経過すると伸はふとその場を離れ、どうやら行く当てなどない風に、趣くまま、興味を惹かれるままに街中を歩き始める。まあ、東京駅の周辺は若者の街とは言えず、馴染みのない面白い風景もあるにはある。
 しかし長く歩き続ける内、まだ充分な夏の日射しの暑さと、熱風に煽られる髪や衣服がひどく煩く感じられて来た。
 征士が涼しい顔をしていたのは元々の顔立ちの所為で、暑さが辛くない訳では決してない。ところが前を行く伸は、何故だか暑そうな仕種を全く見せない。彼に取ってこの現実の世界が、その通りに伝わっていないような奇妙な様子だった。
 日本銀行の前を通過し、その先にある小さな小学校の前で右に曲がる。そこで暫く立ち止まって、また歩き出す。そしてまた道を曲がると、その先では日本橋三越の周囲の賑わいが目に入る。買い物の予定があるとも思えないが、吸い寄せられるようにそのビルの中に入って、またこれと言った目的もなく歩いている。伸が何をしているのかを考えても、あまり意味はなさそうだった。
 目に見える行動ではなく、彼の心が活動している大事な時間なのだろう。だからわざわざ親しい仲間を離れて、誰も知る人の居ない所でひとり過ごしている、と想像するに易い状況だった。心の安定を図る為には、関わる全てのものから一度離れてみる。そんな手法は割合ポピュラーなものだ。
 しかし付き合わさせる方には難儀なことだ。一時間を猶に経過してビルの外に出ると、昼間の太陽は俄に傾き始めていた。日本橋を渡るふたりの顔には強い西日が差して、後を歩く征士の方が早足になってしまう。適当な距離を保って歩くことの困難を思いながら、伸が東急百貨店の角を曲がるまで、征士は何とか堪えて歩くしかない。
 そして伸は再び、呉服橋の交差点へと戻って来た。その辺りに来てから、漸く彼はひとつの目的地を思い付いたようだ。
 人混みの中をのろのろ歩いていた彼の姿が、徐々に階段の下に隠れて見えなくなった。地下鉄大井町駅の入口だった。伸が完全に階段から姿を消すのを待って、征士は後から急いでそこを駆け降りる。駅の構内を歩く伸は、東西線の改札を横目に、奥の連絡通路の方へと歩いて行く。
 地下鉄駅の、殺風景な一本道を気付かれないように歩くのは、誰にしても骨の折れる作業となるだろう。しかし、伸が辿り着いた改札で切符を買う様子を見れば、心労に疲れ果てていた征士も、その労力が報われる思いだった。何故なら伸の行先が何となく想像できる。彼は改札を抜け、東京駅方向の丸の内線ホームへと向かっていた。

 勿論、東京駅に戻るつもりではないだろう。伸の乗った丸の内線の同じ車両の端に、人影に隠れるようにして征士は立っていた。
 乗車ドアの上に取り付けられた、丸の内線の全路線図がふと目に入る。その連なる駅名を確かめれば、自分の察したものが間違いではなかったと、征士は知ることができた。車両はそのまま銀座を通り過ぎ、霞ヶ関を過ぎ、陽の当たる四ッ谷の駅を通過して行く。
『だろうな』
 と征士はひとりごちた。伸が向かおうとしているのは紛れもない、彼等が最初に降り立った高層ビルの並ぶ場所。即ち全てが始まったあの街だ。
 そして征士はもう一言呟いていた。、
『同じなのだな』
 征士の中にも、そこへ戻って行こうとする意思の流れがあるように、伸の中でも、そこに立ち戻ろうとする何かがあるのかも知れない。終わりを意識すると、その始まりを思い出して懐かしむことがある。それだけなら普通の感情だと思えるが、ただそれだけではないような複雑な心境が、地下鉄の振動に揺られながら進んで行った。

 そして到着した新宿駅。その駅は相変わらずの人混みだった。
 下車した人の流れが整然と出口に向かう様は、不思議と胸の空くような光景でもあった。集まる者の行き先はそれぞれが違う。しかしここは多くの人の欲求を満たせる、引き出しの多い大都市だ。それだけに雑多で、見た目の印象は余りよろしくない。それでも人には魅力的に映るとすれば、生物は本能的に、雑多であることを魅力と選択するのだろうか。
 そんな新宿の街を憶える際に、それらの雑多な看板やネオンは有効な目印だが、地下の駅からは外の様子が判らない為、征士はどの方向に向いて進んでいるのか、どうにも掴めないままで歩いていた。けれど伸が慣れた足取りでスイスイ歩くので、彼が見える内は特に不安に感じることはない。
 それより今は、彼の目的が明確なものに変わって来たと思えている。
 地下鉄のホームから新宿の地下街へと出ると、伸はある方向へ真直ぐに向かっていた。地下通路の途中で、降りて行った小さな下り階段の下から、ひと言ふた言伸の声が聞こえて来る。階段の正面に回ればそこには、『荷物預り所 コインロッカー』と書いてあった。
 何の為に手荷物を減らすのかは知らない。ただ征士の腕時計の針は、午後四時半にもなろうと示していた。伸は恐らく、今日の内に家に帰る気がないのだと、明白に物語っているような状況だった。
 ならば今、彼の肩に手を掛けても良いだろう。時間合わせだと思える内は、何もせず見守ることにしていたけれど。
 ただ伸がこの街にやって来て、新たに何をしようとしているのか、征士はもう少しそれを見ていたくなった。この街で起こることは、彼等に取って全てが重要なものに思えるからだ。そんな意識から征士はそうしたのかも知れない。
 両手を空けた伸が元の通路に戻ると、再び所在なげな足取りに戻った彼の後を、征士は先程よりはゆったりとした気分で歩き出した。
 地下から外への出口を臨めば、夕暮れ前の黄味がかった街の景色が見える。東京駅で解散してから三時間半ほど経過して、最も遠距離に移動した当麻さえ、もう新大阪には着いていることだろう。
 それでも彼等の流浪はまだ終わる気配がない。

 まず伸は東口の、マイシティとアルタが囲むロータリーへと出て行った。新宿と言えばこの場所、と全国的に誰でも知っている風景。二年前の、事件以前の様子と何ら変わらないそこに、暫しぼんやり立ち止まっている彼を見る。
『そこから始めるのは正しい』
 と征士は心の内で相槌を打っていた。
 伸はその中央の広場に移動すると、夕陽に焼かれ始めたアルタビルと、そのやや見辛い液晶ビジョンを見るともなく見ていた。嘗てここで何があったか知らないだろう、平和に惚けたようなタレントの無意味なトークが、征士には耳障りに思えて仕方がなかった。
 けれど慣れた装いで行き交う人は、そんな騒音には悩まされていないものだ。無関心で通り過ぎることが礼儀とされているかのように。そして街の人々の動きは、幾つかの集団に分かれてはまた群れることを繰り返している。巨大な鰯の水槽を眺めるような趣きでもあった。
 大群は大群として大きな流れを作っている。そこに在る小さな石の存在など気にはしない。ここに居るふたりが、明らかに集団とは違う景色を見ていることなど、彼等にはどうでも良いことだった。破壊されたこの街を救った事実すら、彼等の記憶には全く登場しない出来事と化している。鎧戦士の戦いは常に理不尽なものだった。
 伸はそれから、混雑する新宿通りの方へと足を向けた。昼間の間は歩行者に解放される通りも、この時間は車両優先の状態に戻っていた。街からの帰り客で舗道は酷く混み合っている。しかし流れに逆らいながら歩く分には、前を行く人を見失うことはなさそうだった。多くの者には、逆行する異分子は迷惑な存在かも知れないが。
 飲食店やファッションビルが軒を列ねるこの通りも、今でこそモダンな店構えや、目を引く装飾に賑わっているが、あの時に見た、廃虚と化した街の無気味な印象が忘れられない。そして戦闘の度に砕け散ったガラス窓や壁材、倒壊した信号機、亀裂の走るアスファルトの残骸、そんなものばかりが思い出される。
 無論それも大切な思い出のひとつ。
 伸は通りの先の伊勢丹の角までやって来ると、横切る明治通りを通じて甲州街道に入って行った。息苦しい程の雑踏を一度抜け、暫くは小規模なオフィスビルの閑静な街並が続いていたが、甲州街道に出ればまた、今度は目紛しく行き交う車の騒音に包まれ、彼等は歩いているだけで忙しない変化を味わっていた。
 伸はそのまま南口の、派手なネオンを掲げる駅ビルの方へと歩く。
 新宿駅のすぐ手前まで戻って来ると、陸橋の上へと上がる階段を昇った。そこからは突然視界が開けるような、広々とした南口の景色が見渡せる通りになる。
 しかし今正に沈んで行く夕陽が、向かおうとする正面から照り付けていた。直視できない夕陽の輝き、視界に入るものは何もかもが黄色に暮れ、人混みと気温とに相まって何とも暑苦しい。しかしそれを意識の外へと追い遣るように、ふたりは黙って太陽の方に歩き続けていた。

 新宿西口の駅ビル、ルミネの角から横断歩道を渡って進むと、伸は西口電気街のざわめきを避けるように、真直ぐ甲州街道を歩いて行った。この辺りは一大ビジネス地区に差しかかる地点、家路を急ぐ会社員の流れが、彼等とは反対に駅へと急いでいた。
 そう、もう既にありありと視界に入り切らなくなっている、新宿の超高層ビル群は目と鼻の先に在った。人によっては高層ビルなど、殺伐とした印象にしか捉えないかも知れないが、この周辺に暮らす者に取っては、これが正に故郷のシンボルと言えるものだ。
 そしてふたりにも、例えそれが面白味のない塔の一群であったとしても、ここは鎧戦士達が帰る場所の象徴であると思えた。
 その天辺に見えない何かを臨むように、伸はふと空を見上げる。茜色に変わり行く都会の夕暮れに、最南端に建つKDDビルの、すっきりと味気ない立ち姿が映えていた。形容は難しいが、それはそれで感慨深い風景だった。
 ビル群の周辺は、何処も広々としたアプローチと緑地に囲まれて、一見長閑な公園のようにも感じる不思議な地帯。伸は遅い散歩でもするような心境になったのか、手前の道を右折して、妙に緩やかな歩調に変えて歩いていた。特に関心の向かないビルを少しずつ過ぎて行けば、NSビルのガラスの反射が徐々に視界に広がって来た。
『ここは中間地点だな』
 と、征士も当時の様子を思い出している。彼等の戦闘の順序とは異なるが、今日までの流れから言えば中間と言えるかも知れない。そしてこのビルには、残念ながら征士は足を踏み入れた記憶がない。なのに最も苦しい記憶に繋がっている、因縁の場所とも言えるだろう。
 ひとつの目標を達成した後の、暫くの期間は平和な時が続いていた。今思えば何処かで油断していたのかも知れない、ひとつの結果に過剰な自信を抱き、己に隙無しと思い込んだ驕りが、明るい祝いの席から彼を遠ざけてしまったように感じる。と、変わりなく上下するガラス張りのエレベーターの運動が、征士にだけは空しく映っていた。
 誰にも皆同様に、戦士としての誇りがあった。架せられた課題を乗り越えることができた、喜びと希望に溢れていた時があった。異例の共同生活から、お互いのことを殆ど知らなかった仲間達が、固い結束を得るまでの経過は全ての基礎となった。それが基礎となっているからこそ、誰もが未来を信じていられた。
 望みは必ず叶う。
 誰も脱落も、逃避もしない筈だと。
 けれど、ただ只管に武人としての道を歩み、敵を圧倒する力を求め続けたことが、己の失墜に繋がるなどとは思いもしなかった。そう征士は思うと同時に、前を歩き続ける伸にしても、事態の異変に早く気付いたばかりに、思い掛けない落とし穴に嵌まった、遣り切れない様子を窺い知ることができた。
 信じられていたあの頃を思う。
 伸は横目に聳え立つビル群の窓に、明かりが点灯し始める様を眺めながら、後ろ髪を引かれるようにゆっくり通り過ぎて行った。誰でも優しい思い出に浸りたい時がある、と弁解でもするように。

 京王プラザビルの前をも通過すると、伸は歩道の階段を降りて、そこからは雑然とした町並みが続く、西口の界隈へと向かって行った。彼はそこでは特に店先を眺めることもなく、俯きがちにただ真直ぐ駅へと歩いていた。
 その前に征士は、一度は姿を消した三井ビルの黒光りする姿を見て、如何に己が子供じみた思考をしていたか、を懐かしく思い出していた。特に始めの内は、ひとりで真っ当にやれていたようで、実際は迷惑をかけることが多かったかも知れない。仲間達に限らず、ナスティも純も、よくこの身勝手な正義を信用してくれたものだと、今の征士には自然に笑えていた。
 数々の失敗の殆どは、ただ恥ずかしいばかりの思い出と化して行く。そうでない思い出のようには痛まなかった。
 そして伸は、閑散とした西口のロータリーにぶつかっていた。ここで左折して、エルタワー前の横断歩道を渡るつもりのようだ。この地下では、三井ビルが倒れた後の戦いがあったが、西口の地下はとにかく汚いことで知られている。その時は全く感じなかったことだ。浮浪者の溜まり場などと言う事実は、後になって初めて知ったことだった。それだけ余裕が無かったのだと、征士は歩きながら笑えていた。
 横断歩道を渡った先はもう、新宿駅の西口通路だ。駅ビルから聞こえる楽し気なアナウンスに、しかし伸は最早耳を貸すこともなかった。
 小田急ハルクからパレットビルが連なる西口の通りを、彼は人波に合わせるように進んで行く。このまま進んだ先は青梅街道の終点である、新宿の大ガードに到達するだろう。そこを東口方面に潜れば西武新宿駅だ。あの新宿ペペの前の広場に出る。
 こうして彼等は新宿駅の周囲を一周して来たのだから、そこがまずゴール地点になるだろう。阿羅醐との戦いが終わりを告げた後、天上へと戻って行く迦遊羅と魔将達を見送った。事もあろうかその後、鎧珠でキャッチボールをしたあの場所だ。
 征士が思い出しているように、伸もそれを思い出しただろうか。広場の小さな噴水の前に、彼は暫し立ち止まって、橙から墨色に暮れて行く空を見上げている。ひとつの大きな山場を越えたことに歓喜していた、これ以上のことがあるかと思える程、救うことができた街並は輝いて見えた。誰の目にもそう映っていたと信じられた。その時は。
 そして今はどうだろうか。

 記憶を辿る旅は、確かにこれで終わったようだ。
 何故なら伸はまた行く当てを失ったように、通り過ぎる人の流れを目で追っては、ふと素に戻るような仕種を繰り返すばかりになった。
 街が斑なネオンに色付いて行く時間。
 大ガードの上を行き交う電車も、窓からの明かりを引きながら通り過ぎて行く。街道を受け入れる西口側に比べ、東口の街は常に明るく賑やかで混み合っている。その広大な商業地区を彩る明かりの列は、ずっと遠くまで続いているようにも見えた。光に集まる羽虫の様に、心がそこへと靡いていくのを伸は感じていた。
 再び歩を進めた。
 何処へ行くとも知らず、伸は西武新宿前の横断歩道を渡っていた。向こう岸に続くのは靖国通りの街並、途中を曲がれば名高い歌舞伎町の入口がある。怪し気な店が犇めき合う、その浅はかで品のない電飾はしかし、嫌でも気分を高揚させるものかも知れない。それに心を惹き付けられる者達の、理由のない理由が解る時もある。
 誰もがその明るさを見せかけだと知っているのだ。黄金に輝く張り子の中身は、金と欲望で繋がる貧弱な骨組みの、空っぽな夢の掃き溜めなのだ。それでも人は、時にはそんな空虚な彩りに魅せられ、又癒されたりもする不思議な生き物だ。
 伸が何を求めているのか知らないが、そんな場所に救いを求める程、彼の心が弱っている意味だろうか。元より明るく楽し気な雰囲気を好む彼ではあるけれど。
 それにしても、伸はあれから五時間以上こうして過ごしている。飲食も忘れ、殆ど人と会話することもなく、歩いたり立ち止まったりしながら、その行動の先には何があるのかも、全く明かそうとしないまま。
 訳もなくふらつく、と言う言葉もあるが、実際本当に訳もなく行動することはない。そこには何かしらの法則か、欲求か、心理的衝動が必ずある。伸は確かに何かに向かっているのだろうが、そこはユートピアかも知れないし、奈落の底かも知れない。それは無意識の彼が選択するものだった。
 俯いて歩道を歩く彼の足元にも、一際騒がしい歌舞伎町の明かりが差して来た。ゲーム機の音響や流行歌、客引きのアナウンスなどが壮絶な様子で混じり合う、混沌とした音が神経を鈍らせて行くようだった。そこへ雪崩れ込もうとする人々に、伸はそのまま合わせて歩いていた。
 しかし、そのすぐ手前で彼はふと立ち止まる。自分の行く手に影が覆っていた。暫く足元ばかり見ていた頭を伸は、のろのろと持ち上げて前を向いた。
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
「…何で君、ここに居るの…?」
 西武新宿の駅から、征士が苦心して先回りしたことにも、彼は全く気付ずに歩いていたようだ。



 征士は己の持つ洞察眼だけは、今も信じられるものだと思っている。
 そもそも伸と言う人間はこれと言った主義主張もなく、理屈も持たず、広大な優しさの土台と鋭利な感覚だけで生きている。と征士が理解するまでに一年かかった。そして更に今は、その広大無辺と思える哀れみの大地の下に、絶望と言う名の暗い川が流れていることを知っていた。そこから生まれる哀切が、彼の瞳の色を際立たせていることも。
 誰も皆完全には成れないばかりに、幾度となく彼の心を傷付けて来ただろう。
 諦めながら信じると言う行為は、優しさが生み出す絶望なのだと解る。
 彼の哀切はとても綺麗だった。
 だから征士はその目に映る、己の姿を見詰め続けていたのだ。伸が集め続ける緑色の刹那によって、過ちを予感させる者の為の部屋は存在する。そして度々間違いを起こす己がそこに居る限り、そこに映って居られる限りは、彼に必要な哀切を供給し続けることだろう、と、征士は皮肉にも理解していた。
 己が苦悩を与えている。己が情けないから彼が居る。
 だから大切すぎて失えないのだと。
「…東京駅で別れた時、伸の様子はおかしかった。まだ切符を買う前だったから、気になってその後をずっと追い掛けていたのだ」
 征士の返答を耳にすると、伸は口許だけでフッと笑う。
「僕、おかしかったかい?」
「皆気付いていたと思う。伸はこう言う時に、空々しく笑う奴ではないと。…本当は何か別のことを言いたそうで、押さえているように見えた」
 征士はそう続けて、変わらず行き先の知れない伸に問い掛けた。
「違うか?」

 彼等は歌舞伎町の中の、比較的広い通りを選ぶように歩き始めた。
 歌舞伎町と一口に言っても、如何にも怪しい雰囲気の界隈と、娯楽施設や飲食店が中心の地域がある。幾度か通ってみれば容易に判ることだが、ふたりは同様に遠方に住んでいて、この辺りに詳しいとは決して言えなかった。しかし実は、征士はこの周辺に幾度も訪れたことがあった。
 その多くは当麻と一緒だった。彼等に共通していたのは、常に新しい情報を得ようとする知識欲と、大人っぽい商売や物事に関心があったことだ。偵察と称してしばしば遊びに来ていたなど、それこそ秀などには話せやしない。但し彼等の名誉の為に付け加えれば、あくまで昼間の歌舞伎町でのことだ。
 まあ、集られ易い「おのぼり」風情に見られない程度に、その好奇心は役立ったようだ。
 そして何でもなく歩いている様子を見せて、自らは何も語ろうとしない伸に、征士は見抜いていたひとつの答を告げた。
「もう私達の前に、姿を現さないつもりだったのだろう」
 目を見れば判ると言った、その人の瞳には最早誰の姿も映っていない。対して真実だけを映し出す征士の目には、既に伸の、自己の中で決定された意思が見えていた。それは逃れることだ、長い苦しみから逃れることだ。
 しかし、
「そんなに、私達は信用ならないか?」
 と征士は続けた。無論伸一人の為に戦っていた訳でもなく、彼が背負って来たものを、皆が充分に考えていたとは思えない。むしろ疎かになっていたかも知れない。伸は大丈夫だろう、といつも安心していた部分は確かにあった。全く配慮がなかった訳ではないのだが。
 拠って今を迎えて、誰もが始めて気付いたのだ。何があろうと変わらず微笑んでいてくれるような、都合の良い存在など有り得ないと。誰もが考えの及ばなかったことを、少なからず済まなく思っているだろう。
 けれど伸の意識は違っている。
「…みんなは悪くない、悪いのは僕なんだ」
 漸くそこで、伸は自分の考えを口にし始めていた。己が仲間達を苦しめるなら、全て己が被った方が良い。そんな彼特有の心理が働き始めている。自虐的な意識に支配され始めている。
「何故いつもそう、自分ばかりを追い詰めるのだ…!」
 そしてそれは征士が最も嫌うことだった。何故なら何の為に鎧戦士は複数で存在するのか。その意味を取り違えていることに憤るしかなかった。
「伸がひとりで苦しんで、ひとりで逃げ出すことがあれば、更に苦しむのは私達だぞ!。そんなに自分を抹殺したい程に、自分の失敗しか見えないのか…!」
 伸はそんなに孤独だったのか?、と思えば余りにも悲しかった。
 今からでは、それを明確に思い出すことはできないだろう。ただ友達として、家族的な仲間として居る時は感じないが、与えられた使命について思うことは、ただひとり逆の方向を向いていたのかも知れない。本人が言った通り、戦いたくはなかったのだと。
 けれど、伸の有り様は未だ判らないとしても、征士の訴えは確と彼に届いていたようだ。自分以外の誰かが傷付くのは、今に至っても、伸に取って最も辛いことであるのは変わらなかった。
 苦々しく言葉を綴った征士の怒りが、伸の、己を保護しようとする壁を切り裂く。失敗を苦にして更に失敗を重ねるような、そんなどうしようもない結末は認めないと。
 辛いことばかり。
 突き付けられた現実の辛辣さが、伸の喉に詰まっていた感情を遂に押し出させた。
「…もうみんな、おしまいにしようと思った。でも、帰りたくなかったんだ…」
 辛いことばかりが続くから、何も無かったことにすれば良いと思った。
「今日が終わると、本当に全てが終わってしまいそうで…、僕は…」
 けれどそれでも、過去への愛しさは消えないだろう。
「僕はみんなを裏切ってしまった…。これまで何があっても、僕は必ずみんなを信じるって、そう言い続けて来たけど…。でもこれが僕の真実なんだ。本当はいつもどっち着かずで、何が正しいかなんて全然判らないんだ。いつまた信じるとも、裏切るとも判らない。…僕は駄目な人間だ、その場その場でどっちに傾くか、まるで判らないんだよ…!」
 こんな自分で居なければならないのが辛い。
 伸の声から伝わる不安定な波長は、それが正に彼だと言う証しでもあるのだけれど。
 賑々しい道の途中で、時間の流れを止めたように立ち止まったふたり。待ち構えていたように突然降り始めた夕立ちが、周囲の人の動きを逆に忙しなくさせていた。覆い被さる雨雲はまだ暫く晴れる気配がない。その重苦しい空から舞い降りる、不安の雨粒を撥ね除ける圧力にも似た、征士の言葉は更に強い口調で続けられた。
「おまえがそんなことを言うなら、私はどうなるのだ!」
 伸の体が一瞬ビクッと震える。
「単なる失敗なら誰にもあったが、私が、己の手を他人の血に染めたあの時も、」
 言葉に弾かれるように、伸の脳裏に鮮やかな過去が蘇って来る。それは言ってはならないことだと。その為に、君の世界は百八十度変わってしまったのだ。
「誰かが信じてくれなければ、私は既に存在しない身だ!。今ここに、ただ突っ立っていることすらできないのだ…!」
 伸が何も言い返せない内に、いつの間にか苦悩の表情は、伸から征士のものへと移っていた。
 そう、征士の苦悩が生まれた日、自己への不信感を拭い去ることができなくなったあの日から、彼自身も、それを見守る仲間達も行動に悩み、考えるようになった経過を思い出せる。鎧戦士としての行動が全て正義と言えるのか、それが本当に人の為になっているのか、万人の、万物の為の正義が存在するのかどうか、誰もが疑いを持ち始めたのだ。
 そして戦いの日々が終わりを遂げても、その事実は残り続ける。鎧戦士と言う肩書は失われても、己が殺人者である事実は変えられない。征士はその苦しみから生まれた唯一の答を出した。
「…伸が嫌だと言っても、私はここに居るしかない」
 己の恥を曝け出しても、存在を許される場所が在れば良かった。
 だから非のある己の存在を示して、彼の瞳を見詰めているしかなかった。
 しかし誰しも、己の犯した罪を人に負わせたくはないだろう。征士が苦悩から解放されることを望めば、伸はそれを肩代わりして、自分が苦しむことを選択するからだ。もうそんなことには堪えられない。
「だが、私の苦悩は私のものだ。伸は見ていてくれれば良い」
 そう言い切った征士は、見開いたままの伸の目を真直ぐに見詰め返していた。

 人は皆同等の英知を受けて生まれて来るもの。その気高さも同じならば、罪深さも同じだと表すように、ふたりは今同じ時間、同じ場所、同じに思う気持を共有できていた。人間としてどちらがより理想的かなど、全く誰にも知り得ないことだ。選ばれた戦士としても同じことだと、征士は言っているのだろう。
 誰もが同様に己の苦悩を抱えているから、同じ気持を持つことができる。
 少なくともこの現実なら、伸は躊躇いなく救いに思えた筈だ。
 そして真っ向から、臆面も無く対峙する征士の姿勢が、今も変わらないで居るのは喜べることだった。
 いつも真直ぐに前を見ている、人の一歩先を見ている征士の眼差しは、否応にも己の気持を惹き付けられるものだった。いつも伸は逆らえなくなり、言えずにいたことを吐き出さなければならなくなる。けれどそれは大方、誰かに聞いてほしい泣き言なのだ。
「…みんなが優しい顔をするから、言えなかった」
 言葉と共に伸の頬を伝ったのは、涙だったのか雨だったのか判らない。
「僕は自分からみんなを見捨てておきながら、淋しくて、みんなの見方が変わるのが恐くて、謝ることができなかったんだ…」
 ただ上擦った声が必死に綴られる様子が、切なかった。
「ごめんなさい…」
 賑やかな街中に動きを止めて、気にせず降りしきる雨に濡れているふたりを、通り掛かる人は皆顰め面で一瞥して、また通り過ぎて行った。群集に取っては、彼等が何だろうとどうでも良いことだが、彼等に取っても、背景と霞む通行人の表情などどうでも良かった。
「そんなことは、もうその場で許していた。皆、伸にこれ以上、辛い思いをさせたくなかったのだ」
 元々征士よりひと回り小さかった伸だが、今はもっと小さな存在と化して、彼の前に立ち竦んでいた。征士がそう言って伸の肩に触れると、崩れ落ちるように伸は倒れ込んで来たので、そのまま彼の肩を抱いて、雨の中を暫くそうして立っていた。
 夏だと言うのに何故だか伸の体温は低く、征士の腕には冴え冴えとした涼感ばかりが感じられる。伸の前髪の先から次々に雫が落ちている。足元の水溜まりから、何処かで聞いたような懐かしい音がする。それは重なる波紋となって、波となって、再び彼等の元に帰って来るのだろう。



つづく





コメント)やっぱり、やっちゃいました…。もう後ちょっとだったのに、最後まで入り切りませんでした。なのでとっとと先に進んで下さい〜。


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