朝の部屋の伸
Alpha=Omega
#3
The Begining & The End 1989



 違う、悪いのは僕だ。
 『信』の文字を与えられながら、自分が一番信じられなかったのだから。

 戦いの時が終わる。いつかは終わるだろうと思いながら、否、必ず終わることを願って、これまで不平も言わず戦い続けて来た筈だった。けれどこの心の何処かに、終わることへの不安も感じていた。この世界の為に、人々の為に特別に必要だった鎧と、その力の為に必要だった僕らと言う器。用済みになれば捨てられて行くのだろうか、僕らは流れる時の中に捨てられて行くのだろうか。
 費やされた長い時間、犠牲にして来た個人的な様々な事柄、何もかも僕らは取り戻せないままで、そしてその中で培われた絆さえ失ってしまうのだろうか。
 僕らの受けた苦悩は、僕らには何も残してはくれないのか。ただ見知らぬ誰かの為を思うばかりで、僕らと言う存在の為には何も与えてはくれないのか。僕らに確と与えられる未来はないのか。
 僕らとは何だったのか。

 その時伸が見たのは宴だった。
 迦雄須により与えられた轡(くつわ)が外され、個々の鎧達が本来の姿を取り戻し歓喜する。唱い舞う。漆黒の空に繰り広げられた音の無い賑わいは、天高く遠くまで響き渡る神楽の列を思わせた。神聖にしろ、邪悪にしろ、その力を崇められた存在は全て神と成り得る。そしていずれは人の手に届かないものになるだろう。
 終焉の為のカーニバル、落日は何よりも増して眩しく輝くように、特別な存在もいつかは消えると告げている。最早鎧は正義でも邪悪でもない、言うなれば『無』となるのだ。無に還元されるとは、つまり母親の胎内に戻ることを意味する。全てのものは無から生まれ、また無へと還って行く、星の自転のような美しいサイクルの中に在る。それを乱すことは、例え神と呼ばれたものにもできはしない。
 無から生まれた鎧はやがて、繰り返される戦乱の内に戦う為の武具となって、禍々しい争いの記憶ばかりが刻み込まれた後に、新たに心を持つ鎧へと姿を変えられて来た。無であった筈のものに、あらゆる装飾を施して来た人の歴史の末路。
 しかしその不安な均衡状態も、もうすぐ終わろうとしている。今ここに存在する力の偏りを修正してしまえば、相殺の為に必要だった特別な力は対象を失い、同じ偏りのひとつと成り果てるだろう。だから終わるのだ。
 鎧達は再び無となって、誰の意思も届かないものとなって、この世を道連れにすることはない。
 白と黒のふたつの輝煌帝、烈火、金剛、光輪、天空、が次々と宴の嵐の中に舞い上がって行った。それらを授けられた仲間達の、もうこの辺りで鎧を手放そうとする意思が見える。そして伸の体からも水滸が浮き上がり始めた。
 呼ばれている、何処かへ戻って行こうとしている。本来の仲間の許へと戻って、一度は主であった少年達から離れて行こうとしている。それが彼等の辿り着いた答、この世の正しい在り方だと示すように。
 けれど、伸は突然水滸の持つ二条槍を取り上げた。
 そして目の前に佇んでいる、これまでは一心同体であった筈の、水滸の首を一撃で落としてしまった。
 彼の足元に、今は力無く転がっている頭と体。落ち着いて眺めれば、それはがらんどうの鉄屑でしかない。が、無論誰よりも近しく感じられる己の抜殻だった。伸がその兜の上にそっと手を乗せると、彼の額には忽ち『信』の文字が現れ、兜も又共鳴するように淡い光を放ち始める。
 水滸と伸はまだ一体で居られる証拠だった。
『僕はまだ、手放せない…』
 黒の中空を彷徨っている、心を離れた他の鎧達は恐らく、もうどうすることもできないだろう。最終章は目の前まで来ている。
『まだ、この舞台の幕を引かないでくれ』

 水の底に沈めた水滸を掠め取られてしまわないように、伸は片時もその傍を離れず見守っていた。他の誰よりも戦うこと、傷付くことから離れたがっていた自分が、最もそれに執着していた事実を知る。
 己の脆弱で不安定な精神を支え、強大な力と揺るぎない信念を与えてくれた、この鎧が在り続ける限り、腹立たしい己を恥じずに生きられたのだ。失ってしまえば、これまでの自分をも失ってしまうのではないかと思う。
 それは恐ろしいことだった。何故なら仲間達に出会った最初の時から、彼はただの毛利伸ではなく、水滸の鎧を持つ一人の戦士だったからだ。否誰もがそうだったけれど。
 己の存在の為に、頼みにしていたのは無論鎧ばかりではない。けれどもし全てが鎧に繋がる何かだとすれば、未来を信じられない時点で既に、掛け替えのないものを捨ててしまったと同じ。
 そう、彼は捨ててしまったのだ。鎧達のように、喜んで戻れる未来を。

 ただの人間である僕に大した価値は無い。

 光。小さな光。僕だけを照らしていた小さな月の光。自分は何もできない、役に立たないと悩み続けた日々を暖めてくれた光。信じて、傷付いて、恨みがましく、忘れた振りをして、皮肉に流れ、屈折して、強かになって、ずる賢く逃れ、それでも信じるしかないと悟った時の希望の光。
 揺れている、常に絶望に揺れている心。他の何かを救えても、決して己を救えない無力な心。悲しみから生まれるものは悲しみに還る。やがて全てが暗闇に覆い尽くされ、無限の不安を抱えたまま、陰なる道を生きよと追い詰める生への絶望。
 この哀れな魂は、自ら捨てている事実に自らを縛り付ける。『信』の戦士が信じることを疑うなら、背徳者の烙印を押されても仕方がないではないか。



 光…。

 朝の光が瞼の上に感じられた。まだ暑苦しくはない明るい朝の部屋、伸は穏やかな気持で一通り見回してから、やや緩慢な動作で体を起こした。
 隣のベッドにはもう征士の姿は無い。日課である朝の素振りに出掛けてしまった後なのだろう。こんな状況に身を置けるのも、もう今日と明日しかないかも知れない。差し迫った状況だと思えるのに、朝の様子は普段と何ら変わりなく在るものだ。
 何気なく繰り返されて来た、同じ日常が今もここには存在しているような錯覚。寝巻きから洋服へ着替えながら、伸も特に変わらない行動をしようと思考している。階下に降りたらまず顔を洗って、歯磨きをして、どちらが先に炊飯器のスイッチを入れるか、キッチンに到着する時間をナスティと競って…。
 その、一見普段と変わらない時間の中で、けれど自分ひとりが異質な感情を隠していることの、遣る瀬ない心情を伸は東の窓に見詰めていた。
 変えられるものなら変えたい、と言う意思が無い訳ではないのだが。
 と、その時部屋のドアノブが回る音を立てた。朝六時半を少し回った、中途半端に思える時だった。
「あれ…?、もう終わり?」
 部屋に入って来た征士を見て伸は言った。彼なら大概六時過ぎから七時になる直前まで、裏庭で素振りをしているのを知っている。ここで過ごす間、ほぼ毎日続けられた彼の日課は、その時間さえ殆ど移動した試しがなかった。
 伸は食事の支度を手伝う為に、毎朝キッチンの窓からそれを見ていた。だから普段通りにしてはやや早い御帰還だと思う。
「ああ、少し早く目が覚めた」
 言いながら征士は、部屋に持ち込んだ竹刀を袋に戻していた。
 恐らく明日の朝、皆がここを出発する時には、征士はそれをこれまでと同様に、玄関の長物入れに置いて家に帰るのだろう。またここに来た時に使えるように。今は特に決まった予定が無くとも、いずれまたここに集うことがあると疑わないでいるだろう。否、例え叶わなかったとしても、道具を残しておくことが重要なのかも知れない。
 征士のそんな様子を伸は、少なからず羨ましく感じていた。
 最初から何かに付け、征士にはそんな感情ばかり向けて来た伸だ。そして彼等は今日までの成長をして、それぞれが違う変化をして来たけれど、案外、出会った当初から変わらない状況もあると、ここに至って伸は切なくも感じた。
 始まりはもう遠い昔だった。できることなら君のように迷い無く行動したい、君のように、いつも前だけを向いていたいと思った。全く実現できはしなかったけれど。
 そうして一度過去を振り返っていた伸は、ふと自分が言ったある言葉を思い出して呟く。
「…無理しないでいいんだよ」
 すると、まともに聞いていたとは思わなかった、征士は竹刀を納めた袋に紐を巻き終えて、含み笑いをするように返した。
「前にもそう言われたな」
 大した出来事ではなかった筈だ。しかし過去の小さな一場面を征士は、確と記憶に留めている様子が伺える。そして彼はもう一度伸に結論を示す、
「無理も続けていると習慣になると言うことだ」
 と。
 微妙に違う言葉だった。あの頃とは何かが違う、単に年齢的な成長と思えるなら気に留めはしなかった。そして伸はその訳を知っている。あの頃の、傍若無人なまでの自信に輝いていた征士ではないからだ。
 今の彼は状況を受け入れることを覚えてしまった。いつも気に掛けて見ていたからこそ判る、何故ならその原因は自分にあるかも知れないと、伸にはずっと後悔を引き摺る事情があった。
 それが彼等の間だけの秘密。
 最悪の結果となってしまった、過去の浅はかな夢だった。
 まあそれでも、征士が過去の小事を憶えていたことには、伸は素直に嬉しいと感じられた。だから自然に笑い返すこともできた。日々を必死に戦いながら暮らしていた頃は、相手にどんな顔をするかなど、いちいち考えはしなかったけれど。
「でもさ、君は何でも自分だけで片付けようとするんだよ、そういう所は変えた方がいいよ」
 伸はドアの方へと向かいながら、擦れ違い様にそんな言葉を掛けた。そろそろ階下へ降りて行かないと、ナスティに声を掛けられる頃だった。
「それはそのままお返ししよう」
 征士はすると即座にそう答える。まるで条件反射のように。
「僕がいつ…?」
 そのの淀みない声に、心外だと言う顔をして伸は問い返すが、
「僕はいつだってみんなに相談してるじゃないか」
「どうでも良いことはな」
 返って図星を差された。
 否、そもそも何故即座に返されたのかを思えば、『心外だ』とする演技は無意味だった。本人も気付いている、征士にも既に知れている事実。だから尚更質が悪いと言うのだろうか。
 確かに自分は隠し事の少ない人間ではないと思う。伸はそれについても、己を高く評価できない要素だと考えている。何故隠すのか、それは曝け出す勇気がないからだ。他人の下す評価に傷付くのが恐いからだ。人間として恥ずべきことのように思えてならない。
「それが悪いか?」
 けれど自ら振った話題に引っ込みが付かなくなると、伸は苛立つように声高になっていた。
「言いたくないことまで言わなきゃいけないか?」
「…そう言う意味ではない」
 征士はそれでも落ち着いて答えていた。多少伸の出方に驚いた様子を見せたものの、喧嘩腰の態度を示されたとしても、彼は同様に答えるまでだった。
 この慌ただしい朝のひと時の内では、どの道正直な意見を聞けるとは、征士は全く考えていなかった。伸の言う通り、嫌な言葉を勢いで口にする程、彼は間抜けな人間ではないだろう。ただ伸に聞いてほしかっただけだ。似たような行動を批難し合うのは滑稽だと。
 自分に言えないことがあるように、相手にも言えないことがある。
 黙って勝手な行動をする者も居れば、多くのことを隠して人に合わせている者も居る。
 似たような行動をしながら、目の前に居るたったひとりの気持を汲むことさえ、今は侭ならない。
「気に障ったら謝る」
 そして酷く単調に続けていた征士に対して、伸もひとりでいきり立っては居られなかった。
「…いや…いいよ」
 埒が開かない。と、どちらもが思った。
 彼等を取り巻く状況は確かに変わってしまった。少なくとも少し前までは、アフリカへと渡るほんの少し前までは、まだ意思の疎通ができていたと思えた。こんな風に腹の探り合いをする必要は無かった。まるで共通部分を持たない最初の位置からは、少しずつ確かに歩み寄っていた筈だった。それが何故、突然。
 突然変わってしまった。何も信じられなくなったからだ。
 だから悪いのは僕だ。



 それは一度妖邪を打倒した後、柳生邸に初めてやって来た頃のことだった。
 纏め役を買って出たとは言え、一人で五人の育ち盛りの少年達と、他に純や白炎の世話までしていたナスティを見兼ねて、伸は自らその手伝いに参加することにした。
 まだひとりひとりの性格すら確と把握できなかったこの頃、それぞれが持つ生活習慣、行動のパターンなどが予測できずに、酷くバタバタした毎日を送っていた。
 食事に好き嫌いのある者、共同生活のルールからはみ出しがちな者、予想も付かない騒ぎを次々起こす者など、バラバラな個性が作り出す様々な場面は、今だからこそ楽しい思い出と言えるものだ。その当時は、幾らナスティが寛大な人物であったとしても、伸にはいたたまれなく感じることがしばしばあった。
 そんな中に一人だけ、全く手の掛からない者も居た。
 ある日の朝ナスティに頼まれて、裏庭に植えてあるサヤエンドウを採りに出た伸は、そこで朝の素振りをしていた征士に、初めて、戦闘時以外の普通の会話をした。
「それ、毎日やってるの?」
 六人の生活に於いては、とかく貴重な食料をうっかり踏まないように、小さな菜園の縁を注意して歩きながら伸は尋ねた。その声は俯きがちの姿勢もあり、あまり遠くへは響かなかっただろう。けれど征士はその手を止めて答えた。
「ああ、朝と夕方。毎日やらないと腕が鈍るからな」
 簡潔にそれだけ言って、また素振りを再開した征士に、
「熱心なんだなぁ」
 と、伸も一言だけ返した。すぐにも一心不乱といった状態に戻っている、征士にそれ以上話し掛けることはできなかった。
 彼はその日も、その前の日も、自分より早く起きて素振りをしていたのを伸は知っている。征士の日々の生活はとても規則正しい。そして生活に対するあらゆることに於いて、折り目正しさを印象付けて歩くような人だった。
 戦いの時には鋭く、言動は容赦無く非を唱える程の気概に溢れ、伸の目には鮮やかな印象ばかりを残していた人物。思うままに落下する雷電の様を思わせる、彼が光の戦士としてここに存在することは、疑いようがないと感じられていた。
 即ち自分からはとても遠い存在だと。
 けれどそれにしては、この家に来てからの彼の態度は妙だった。寡黙と言う程でもない筈が、黙って人に合わせていることが多い。個人的な主張は多くある筈なのに、彼が文句や不平を言うことは滅多になかった。
 それはつまり、他所の家に居ると言う状況を理解して、特に行儀良く、躾けられた通りにしている征士の生き方なのだ。伸は自分もそうした教育を受けて来た身であり、だからこそ、その掟に縛られた様子が見て取れたのだった。
 躾を美徳とするも結構、けれどその様式美に頭を押さえられた征士には、いつも必要以上の緊張感が取り巻いている気がした。窮屈な狭い空間に閉じ込められて、いつも己を殺すことを余儀無くされている。それが送り出された家から、彼に期待される物事に拠る重圧だったと、知ったのは阿羅醐を倒した後だったけれど。
 それだから、彼は鎧を身に着けている時の方が、生き生きとして見えたのだと今は解る。
 事あらば破裂してしまいそうな、ピリピリとした緊張の中で生きていた征士。そんな様を伸は暫く観察して来て、徐々に臨界への不安を抱くようになっていた。
 それで、
「無理しないでいいんだよ」
 と、ある時声を掛けた。一度は打倒した筈が、再び現れた新たな妖邪に因って、皆充分な体力を維持できない時でもあった。けれど征士は、
「無理ではない、習慣だ」
 と、竹刀を持つ手を止めることはなかった。

 何故無理をせず、自然体で応えられることだけではいけないのだろう。
 とその時の伸は思った。周囲の圧力に平素に折れて来た自分とは違い、人の期待以上に自ら輝こうと、自ら現状を打破しようとしている征士が、それではまるで人間でないものに成ろうとしているように見えた。
 例え周囲の期待から生まれた意思だとしても、完全さを求めることは、ある意味では傲慢なのだと思う。けれどそれが人を惹き付ける輝きでもあると、実際それに憧憬を抱く伸に解らないことではなかった。
 誰にしても、生まれた時から決まったレールの上だけに、存在したいとは思わないからだ。
 キッチンの窓から彼を見る度に思った。
『そんなに頑張らなくても、君には良い所が沢山あるのに』
 そしてもしそれを言えていたなら、伸は己をそこまで恨みはしなかった。
 悪夢のニューヨーク。
 征士はいつも己の為に戦っていた。のし掛かる重圧を振り払う為に、自らの道を切り開く為に。そしてその為に手にした筈の力は、結果的に彼を解放することになったけれど、代償として払われたものは余りにも大きかった。
 最早光輪はこれまでのようには輝けない。ズタズタに傷付いた彼を見て、伸がそれ以上に傷付かなかった訳もない。何故なら征士は、伸の理想に限りなく近い所に居た筈。
 彼はいつも、伸にはできないことを容易にやってのけて来たからだ。似たような環境に育ちながら、自分と征士はまるで違う存在だと思えていた。伸はいつからか、自分の見る夢を彼が歩んでいると信じるようになっていた。己を絡め取ろうとする柵を断ち切って、何にも屈しない自由な魂になりたいと、彼はそう成れるのではないかと夢を見ていた。
 そんな希望的観測に寄り付いた心が、離れられなかったのだ。鎧珠の偏光に気付きながら、流されるばかりの自分に辟易する伸の気持が、結局彼の背中を押してしまった。
 結局自ら全てを壊してしまった。
 伸はただ自分の夢を守りたかったのだ。その甘い考え方が全ての元凶だと、彼は思っている。
 だから自分が悪いと伸は言う。



 その日の一日は、明朝それぞれが帰路に就く事実など、まるでお構いなしの有りの侭の様子だった。昨晩のお祭り騒ぎの余韻を残したまま、柳生邸のそこかしこで明るい声が谺していた。治り切らない傷の痛みなど、誰もがすっかり忘れているかのようだ。
「そう言や、おまえさー」
 夕刻、当麻が階下へ降りて来たのを見て、買い出しから戻った秀はふと思い出した様子で、アイスキャンディを片手に声を掛けた。
「…何だ?」
 当麻は一言そう返しながら階段を降り切った。彼の目は何とはなしに、秀の手にある食品の辺りを泳いでいた。
 秀は何処かしらにやけたような、妙な表情で彼を待っている。すぐ傍までやって来なければ、自ら話を始めないつもりのようだ。部屋には秀と共に買い物に出掛けていた伸が、買い物袋の中身をテーブルの上に広げていた。
 そして漸くダイニングテーブルの、秀の向かいの席に当麻が就くと、
「今更聞くようだが、戦ってる最中に彼女の話なんかしてたってホントかよ?」
 改まって何を言うかと思えば。
「誰がそんなこと言ってんだ」
「さっき伸から聞いたんだよ、昨日だか一昨日だか、おまえがそんな話してたってよ」
「あー…」
 立ち聞きされた例の話か、と当麻が思い出すのに時間はかからなかった。そして秀にそれを話した意味は、伸が少なからず関心を持って聞いていたと言う意味だろう。あんな場所で立ち話はまずかった、と後悔しても後の祭りだった。
 しかし幸いなのは、誰の話をしていたか、までは知れていないらしきことだ。今問われている話題ならば、別段秘密にしておく必要もないだろう。
 が、どうも場の雰囲気が悪いと感じる。当麻がチラと横目に伸を窺うと、
「僕らには聞き慣れない話題だったからさー。いやぁ、僕も是非聞いてみたいもんだね」
 伸はやや無責任な調子でそう返した。こんな場面での彼はいつも、些か意地の悪い態度を故意に表す。勿論殆どの場合、心底厭味な態度を当てつけている訳ではない。
 だがそれでは、彼がこの話題を不愉快に感じたかどうかは測れない。内緒話が不愉快なのかも知れないが、責任があると言った手前、同じ話題で悪印象を残す弁明だけはできなかった。その所為か当麻の口調は曇り気味だ。
「…戦闘中は話なんかしない」
 だからどうも言い訳のように聞こえる。確かに嘘は吐いていないけれど。
「んなの当たりめーだろっ、誰が『お喋りしながら戦う』って言ったよ。そうじゃなくって、一時待機してるような時だ」
「『この戦いが終わったら』って言ってたじゃないか。いつ話してたんだろうー」
 秀に合わるように伸もまた説明を付けて来る。この形は当麻にはやり難かった。秀だけなら適当な他の話に切り替えられたものを。
 あまりまともに受け合いたくないと感じて、当麻は秀の追求姿勢に水を差そうとするが、
「何でそんなことが聞きたいんだ」
「あっ、否定しねぇつもりだな?」
 意外にも当麻の会話パターンは読まれてしまっていた。それも共に過ごす内に勝ち得たひとつの成長、と言えるかも知れない。秀は話題を逸らさないよう更に続けるのだった。
「まったくよー、過ぎたことだからいいようなもんだが、俺らはいつだって真剣に戦うことに取り組んでたんだぜ?。そうかと思えば、片方じゃ全然関係ねぇ話してたなんてよっ。みんなが揃って真剣にやってたんだと思ったら、真面目に考えた方が馬鹿を見るじゃねーか」
 物事に対する姿勢は人それぞれ、だと思われるが、秀にもそれが解らない訳ではない。ただ彼は公然のものであってほしかったのだ。場にそぐわない世間話も雑談も、だから悪いと言う訳ではない。一部で内緒にされていたのが気に入らなかったようだ。
 個々の意識のばらつきがチームワークに支障を来したことが、どれだけあったかを秀はよく憶えている。無論自分が問題だったことを忘れないからだ。まあ当麻ならば、一度に多くのことを考えられても当然、ひと括りに批難されては身も蓋も無い。
「その場その場は真剣だったさ、それとも何かい、戦う以外のことを考えるなとでも言うのか」
「そうだよ!、その時だけはそれで充分じゃんか」
 秀はまず正論で通したが、当麻にはまるで理解を得られないようだ。
『そうかな?』
 そして伸も無言のまま考えている。
「おまえにそんなことが言えるか、いつも晩飯のメニューが頭にチラついていたくせに」
「そう言う話じゃねぇだろっ」
「同じだね。大体ひとつのことに、長時間集中するのは不可能だ。医学的に証明されている」
 当麻の意図する通りとは言えないが、話の流れは微妙に変わって来たようだ。

 恐らく、その討議の答は出ないだろう。ひとりひとりが違った人間である限りは、どちらが正しいとも言えない問題だった。そしてそれこそ『どうでも良いこと』かも知れない。公に議論できる題材は、集団に取って重要なものではあるが、個人には重要でないのかも知れなかった。
『どうでも良いことしか話していない』
 最早伸は否定しない。そして秀はこの場では味方だと思っている、彼が意見を違えていることを知りようがなかった。
『思うことが沢山あって、何を話していいのか判らなくなる』
 戦うことしか考えないなど不可能だった。
 始めから争いには否定的な意識を持っていた伸が、何故このメンバーの中に参加していたのか。勿論彼等の活動の目的は戦闘そのものではない。目的の為に必要な要素として集められた者である以上、彼の存在価値を疑う意味は全くなかった。但しそれは公の話だ。
 個人の意識はあくまで個人の内にある。彼がこの一連の活動に於いて、自身をそれなりに評価することができなければ、公の理屈など何の慰めにもならなかった。誰もが多かれ少なかれ自己評価に迷う時、絶対的な評価は知りようがないが、仲間の内で相対的に比べることはできただろう。しかし目に見え難い部分を担う彼には、他の誰より迷うものがあったに違いない。
 何が良い行動で、何が完成した形なのか、伸には目標となるものが何も与えられなかった。確固とした己の位置が判らない。己をどうして良いのか判らないまま、その場その場に在り続けたようなものだ。
 そんな難しいポジションを与えられた彼が、個人的な意欲を支える何か、別の価値を戦いに見い出していたとしても、何ら不思議なことではなかっただろう。
 伸には他の目的がなければ始まらなかった。
「あーっ、もーっ、あったま来んなー!」
 結局どこまでも持論を曲げない当麻に、秀は口を尖らせてそう言ったが、少し時間が経てば彼の機嫌は直っていることだろう。深く考え込まないこともひとつの強さだと、誰もが秀を見て思うことだ。
 強さを求めていたこともある。その他の理想を求めていたこともある。
「ははは」
 そして空々しく笑いながら、伸もそれ以上思考するのを止めていた。
 考えなくて良い、もう戦うことを考えなくて良くなったばかりだ。明日ここを離れたら、もう何にも悩まされなくて良い筈だ、と。

 明日で全て終わりにするのだから。



 この世に生を受けてから、これまでのこと。最初の戦いからこれまでのこと。それらは全く別物のようで、結局は同じだったような気もする。僕はいつも何も言えないでいた。
 誰かの為に口を噤んでいる時もある。何を言っていいのか解らない時もある。家には家の事情がある。家族には家族の言い分がある。仲間には仲間の理由がある。戦いには戦いの意味がある。家に居ても、学校に居ても、戦場に居ても、ここに居ても、考えることが次々に現れて、それらに囲まれ、圧倒されてしまう毎日を送って来た。
 だから結果的には日々を、ただ送っていただけなのかも知れない。大したことはしていないし、大したことを言った憶えもない。多くのことを心に思っても、表現できなければ何も思わないのと同じだ。
 僕の中では、あらゆることがいつも高波の様に押し寄せては引いている。広い海の中から、たったひとつの砂粒を選りすぐるのは難しい。余りに数が多過ぎてひとつひとつを把握できない。僕はいつもそんな風なのだ。最も大事なことは何なのか、自分の意見が纏まらないまま、黙っている。
 だから自分の決定が正しいとは言わない。ただそうした方が良いと言う気持だけだ。そう思い付いた理由もあまり正確ではないけれど。
 それから、終わりにする前に、君には何かを言いたいのだけれど…。

「悪かったよ」
 と伸は唐突に言った。
「…何が?」
 まだ何も話していない起き抜けに言われても、そう答えるしかないだろう。
「昨日『自分だけで片付けるな』って言ったけどね、よく考えてみたら、自分で片付けなきゃしょうがないこともあると思ってさ」
「謝ることではないと思うが」
 その朝、早く目が覚めたのは征士だけではなかった。窓に映る夏の終わりの朝焼け、相変わらず雨の降りそうな気配のない空模様だった。
 それにしても伸はこんな早朝から、色々に物事を考えているものだ。否、昨日の夜からずっと続いているのかも知れない。
 今日が特別な朝だから。
 伸はもう、すぐにでもここを出て行ってしまいそうな勢いで、起き上がると、ベッドの端に用意していた服を手早く身に付けていた。きびきびとした行動のひとつひとつが、何処となく吹っ切れたような軽やかな音に聞こえる。別段彼の通常の動作から遠いと言う程でもなかったが。
 昨日までに帰りの支度も全て終えていた。後は今脱ぎ落とした寝巻きを鞄に詰めるだけだった。何も残しはしない、飛ぶ鳥跡を濁さずと言うが、己の関わった全ての場所から、己の痕跡をきれいに消し去って行こうとするかのようだ。
 少なくとも征士にはそう見えた。何の為に?。もう戻っては来ないつもりで?。
 けれど、
「それから、今まで僕を見ていてくれてありがとう」
 初めてどうでも良くはないことを言った、と伸は思った。
 何故それを言いたかったのか、本人にもよく解らなかったけれど。
 解らなかったけれど、普段通りの穏やかな顔をしていられた。昨日の話の続きで、本心を語れない訳ではないと、最後に証明したかったのかも知れない。見誤られたままでは気分が悪いから、と伸は思うに留める。
 彼とは逆に、穏やかでない様子に転じた征士は言った。
「…知っていたのか」
「そりゃあね。君は突き刺すような目で見るからね」
 けれどやはり嘘も吐いた。
「僕は年長者としてどうだっただろうか?、君の評価が恐いところだ」
 そんな作り話をするつもりはなかった。
 と、伸が言った傍から思うことは、もう征士にも伝わっていただろう。彼の目は何も訴えようとしていないと、判らない征士ではない。
 努めて平静を装っている。問い質された訳でもなく、口から出る言葉が偽りばかりになってしまう時、それは相手に悪いと思っているのだと思う。しかし、済まなく思われる理由を知らない征士は、ただ混乱するばかりだった。

 伸は何も変わらない様子で部屋を出て行った。その場には、混乱を止められなくなった征士が残された。もう滅多に会うことはないかも知れないと、征士は様々な状況を危惧しながらこの朝を迎えたが、よりによって土壇場と思えるこんな時に、一人で解けそうもない問題を残して行かれるのは…。
『突き刺すようだと言った。不快なら不快だと言えば良かったのだ』
『見ていることを認めておいて、何故評価を気にしなければならない』
『何故伸はありがとうなどと言ったのだ』
 嘗て。
 言葉にならない、或いは敢えて言葉にしない思いがあったが為に、知らず知らずの内に、失えないものを目で追うようになっていた。否、失えないものとなったから、それが己の為に必要な行動となったのだ。ただそれは一方的な要求に過ぎない。己の視野の中に常に在るものであってほしいなどと。彼の側からは当然、不愉快に思われるだろうと覚悟をしていたのだが。
 このままで良いのだろうか?。判らないままにしておいて良いのだろうか?。
 けれどもう時間が無い。



 五人は昼過ぎには、新幹線の玄関口である東京駅に着いていた。
 柳生邸からの帰宅ルートなら、それぞれ違った最短の道程があった筈だが、折角の区切りの時だからと、遼の提案でここに全員揃って解散すると決めていた。一度駅の外に揃って昼食に出て、今はまた駅へと戻って来たところだった。
 東京駅から、征士と当麻はそれぞれの方向へ行く新幹線に乗る。秀は東海道線の普通電車で帰れる。遼はまず新宿駅に出て、中央本線の特急に乗り換える。伸は羽田に行く為に浜松町のモノレール駅へ行く、と聞いていた気がしたが…。
「何してんだ?」
 予め切符の用意がなかった秀が、他のメンバーに遅れて改札を抜けたところで、その外に立ち止まっている伸に声を掛けた。
「面倒だから、やっぱりタクシーで行くことにするよ」
「何だよぉー、おぼっちゃまなんだからもー!」
 不満ついでの秀の軽口には、伸は笑って答えられていた。そんな遣り取りなら全く気にならない程、友達より友達らしく、家族より家族のように結び付いた仲間だ。他に何も言わなくとも、相手を推し量れることは幾らでもあった。
 だからこの場面での伸の笑顔が、少なからず不安材料だと誰もが見通している。
 伸は屈託なく笑っているようだが、こう言う時にこんな表情をする奴じゃないと皆知っている。突然行先を変えたのも何かあるのだろうと思う。
 だからと言って、妙な言葉を掛けるのも気が進まない面々は、示し合わせるように、気付かぬ振りで通すことにしたようだ。もう義務的に縛られた集団ではないのだから、彼のことは彼が決めれば良いとするしかない。
「それじゃあ、元気でな伸。また近い内に会おう」
「来年が楽しみだな。おまえが一足先に東京に来ていれば、俺達は足場ができて助かるしな」
「当麻には住所を教えない方が良い…」
「おう、また俺ん家にも泊まりに来いよな!、伸」
 口々にそんなことを言いながら、皆心の内では、なるべく早く連絡を入れてやろうと考えていた。彼等の思い遣りが伸に通じていたかどうかは、今を過ぎてみなければ判らないことだ。
「うん、じゃあ、みんなも元気で」
 何処か違うと思わせる様子のまま、伸は短くそう告げると、駅舎の奥に消えて行く四人を朗らかに見送る。終始形通りに手を振る彼の仕種は、余りにも虚ろな印象に感じられていた。

 この最後の戦いに於いて、確かに伸は一人遅れてやって来たけれど、そうでなければ尚悪い結果になっていただろう。伸にも解っている筈、そこまで気を咎める理由はない筈だと、誰もが考えられたことだった。



つづく





コメント)やっと続きがアップできました。でもここでコメントなんか読まないでいいです(笑)。シーンがまだ続いてるので、次へ。


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