遼の意外な態度
Alpha=Omega
#2
The Begining & The End 1989



 翌日。帰国後のパーティが開かれる予定の日。
 午前中は賑やかだった柳生邸の昼下がり、買い出しに向かったナスティと、それに同行した遼と伸の姿がなかった。
 居間には退屈そうに雑誌を捲る征士と、黙々と読書する当麻、ソファに横たわって気持良く寝ている秀の三人が居た。昨晩遅くまで将棋に興じていた秀は、睡眠不足を昼寝で解消しているようだが、その対戦相手だった当麻はすっかり昼まで寝ていた。さてどちらが良いとは一概に言えないところだ。
 その部屋はとても静かだった。家の外は相も変わらず真夏の庭、蝉の声が耳障りな騒音と化している状況だが、閉め切った窓の内側まではそう響いて来なかった。
 又秀は深い眠りに落ちているのか、唸り声のひとつも上げずに規則的な呼吸を続けている。その静穏な様子を見て、突然当麻は奇妙な言葉を呟き始めた。無論征士に聞こえるように、だ。
「…磁力には極がある、同じひとつの磁力にふたつの面が存在して、引き寄せ合いもすれば、反発し合いもする。磁力と言う存在を発見したのはイギリスのギルバートだが、当時は単に化学的な反応と捉えられていた。だが、磁力とは本来全てのものが発している。大なり小なり、有機物の全てが発していると今は言われている…」
「…それが何だ」
 そして当麻が何かを話したがっている様子に、気付かない征士ではなかったが、その内容にどう返せば良いのか困っていた。征士は理科の分野が得意ではない。夏休みの宿題ももう終えてしまって、今更アイディアを頼ろうとする意識も持たない。
 拠って殆ど関心のある話題ではなかったが、当麻はお構いなしに続ける。
「有機物は全て、特に生物は強い磁力を発して生きている。磁力とは即ちエネルギーだ、何も無い所に方向性と言う力を生むものだ。そしてそれは生物の場合、細胞の中のミトコンドリアが呼吸をすることで為されている。その原理は恐らくコイルなのだ。遺伝子も二重螺旋の形をしている、ミトコンドリアの中にも遺伝子が存在する…」
「だから何だと言うんだ、言いたいことはさっさと言え」
「生み出されるエネルギーは何に消費されると思う。無論体を機能させる為だが、その活動を命と言うなら、体から生じる心は副産物と考えられる。つまり、心とは方向性に他ならない訳だ。体の置かれた状況に拠って心が変化するのは、つまりそんな機能通りのことだ」
 そして当麻は漸く仮説の結論に辿り着く。
「…歪んだ磁力が出ているよ、征士。意と体を反するものにしてはいかん」
 これだけ蘊蓄を並べておいて、伝えたかったのは最後の一節だったらしい。
「随分…、回りくど過ぎて殆ど忘れてしまったぞ?」
 征士は疲れた素振りを交えながらも、冗談のように陽気に返していた。
 呆れているようで内心、当麻の言葉が又も状況を言い当てていることに、尚追い込まれる思いがしている。解っていても変えられないことを、言葉ではどうとでも言えるものだ。否、むしろ解り切ったことを指摘されれば辛いばかりだ。気に掛けてくれるのは有り難いが、当麻の言葉は辛辣そのものだった。
 そして更に彼は言う。
「俺にはどうも不自然に感じる」
「…それは私のことか?。それとも、」
 征士の返事を遮る程に、当麻には知りたいことがあったからだ。
「なあ、おまえは伸に何を思っているんだ」
 聞かれても、
 と、瞬時に受け流す言葉が浮かんだ征士。ところが、当麻の問い掛けに真っ先に反応したのは、良く眠っていると思われていた秀だった。彼はソファから跳ね上がるように半身を起こすと、噛み付きそうな勢いで当麻に言った。
「もうそんな話はよせよ!!。俺もあん時ゃ怒ってたけどよ!、ちゃんと戻って来たんだからいいじゃねーか。それ以上何だってんだよっ!」
 この場面に於いては勿論、かなり論点のずれた発言だったが、秀の思い方がよく判る内容でもあっただろう。五人の仲間の中で最も親しい友達のこと、彼は眠りながら伸の名前が聞こえる程、これについて神経を遣っているに違いない。
 当麻と征士は、突然起き出した秀には驚いていたが、まず冷静に彼の怒声を受け止めていられた。そして予定外な展開を修正しようと、当麻は起き上がった秀の頭の上に手を置いて、子供をあやすような穏やかな口調で言った。
「分かってるよ、お前の気持はよーく分かってるから、今は黙っててくれ」
 秀が懸念するべき事情ではない、と彼は伝えたかったようだ。それから代償行為ではないが、当麻は黙っている征士に一瞥をして続ける。
「最近、解らなくなったんだ。おまえが何を考えているのか」
「…私にも解らん」
 できる限り秀に覚られないように話し続けるしかないが、征士にはどうやら通じているらしかった。
「解らんって、おまえなぁ」
「解らんから考えている」
 しかし埒の開かない返答を繰り返す征士には、溜息が零れるばかりだ。強ちそれは偽りではない。征士は疑問に突き当たる度に考える。答を与えられないまま迷路を進めば、また他の疑問に突き当たる。そして考える。そうした堂々巡りを繰り返している状態なのだ。
 いつも、伸について思うことは。
「何の話だよー」
 秀は不審気な面持ちで当麻を睨み続けている。けれど当麻も、その視線が気にならない程に、考え込みながら言葉を絞り出していた。
「いや、違うな。…おまえはそう複雑にものを考える奴じゃない。だが敵は複雑怪奇な人間だ。元々相反した極性なんだ。…だからおまえは、今の状況をどうして良いか困ってるんだろう?。否俺達も困っているが…。うーん…もう少し、判断材料があるといいんだが」
「おまえが判断してどうするのだ」
「俺は自分のしたことに責任を持ちたいだけだ」
 依然として進まない議論。その理由は始めから知れているけれど。
 誰も、心に思うことを開けっ広げにはできない。誰も皆付き合いに支障が出ない程度の、何らかの隠し事があって然りだ。個人の尊厳を奪う程の心の秘密を、探り出そうとまでは当麻も考えていない。
 ただ、征士が大事に隠しているものをせめて、その輪郭くらいは捉えられなければ、何の解決にも結び付かないのでは、と思ってのことだ。魂に因り結束した仲間のひとりとして、友人として何もできないのは余りにも悔しい。
 そしてこのまま煮え切らないお喋りを続けても、意味はないと知って当麻は話した。
「いや、正直に言おう。俺は俺なりにこれまで、変わって行く状況を見て考えて来たんだ。だが最初におまえに会った時の感じからすれば、今は酷く不自然だと思わざるを得ない。
 俺は征士のことはよく知っている筈だ。それでも変化の理由が見えて来ない。だがそれを話せと言うんじゃない。ただ、おまえが大事に抱えているものが、同時に己を苦しめているんじゃないか、と俺は思っている。それに因って本来の征士らしいところが失われるのを、俺は心配しているんだ」
 滅多に語りたくはない本音を当麻は話していた。そのいつになく真面目な様子と、急にシリアスな空気が流れ出したことで、ふたりの間に居る秀は肩を縮こまらせている。
「おいって…。どうしたんだ?、おまえら」
 当麻はつまり、自分を案じているのだと無論征士には理解できた。単なる出歯亀と思ったことも今は済まなく感じている。しかし理由が解らないと言いつつも、それ程に、行き詰まっている自分が彼には見えているのだと、征士は更に理解する他にない。
 そう、彼等はよく似ているからだ。故に最初から友人のように付き合って来た。征士の見る世界と、当麻の見る世界はそこまで食い違うことがない。だとしたら、疎通の難しい相手を庇おうとする、征士の行動が自虐的なものに見えたとしても、当麻に限っては不思議ではなかった。
 彼の推測は確かに筋が通っている。征士が何かを隠しているのは、己の為ではない、偏に伸のプライドを思ってのことだ。
 双方から守り合っている秘密が存在する。
 だから誰にも話せない。誰にも征士の苦悩の訳は解らないままだ。否、伸には解っているのかも知れないが、彼はまるで気に掛けない様子で過ごしていて、周りが調子を狂わせている今。
「…ご忠告痛み入るよ。だが心配には及ばん。当麻が思う程私は苦しんではいない」
 しかし確かに、穏やかに笑って見せた征士からは、それが嘘ではないことが感じ取れた。
 恐らく悩みの重さで比較すれば、遥かに伸の方が苦しいだろうと示唆する態度で。事実今に於いては、誰もが最も彼の動向を心配しているように。
「それならまぁ…しょうがないか」
 反論しようもなくなった。当麻が呟くように言うと、蚊屋の外から秀もボヤき始めていた。
「しょーがないじゃねぇっての。さっきっから何だよ?、喧嘩でもあったのか?。穏やかじゃない状態も俺達みんなが共有するんだ、ちゃんと説明してくんなきゃ困るぜ!」
 正に秀の言う通り、全体の為にもこのままにしておけない問題だと、征士にも解っている。そして今後の伸の行動ひとつで、全てが決まってしまうだろうと言うことも知っている。今、彼に取って何が最も重要なのか、本人以外の者が決定する権利はないのだ。
 ただ悲しい選択をしないでくれるように、他の者は祈ることしかできないでいる。

 その時庭先から、ナスティの車のエンジン音が聞こえたので、結局この会話は相互理解に至ることもなく、何の解決策も見出せないまま終わってしまった。



 如何ともし難い自己。
 今の己の在り方を決定しているのは、恐らく去年の夏の出来事なのだろう。ひとつの成果を得た後の、大きな痛恨事が起こってからのことだ。その時から己は変容せざるを得なくなった。何もかも己が引き起こした惨事、鎧戦士の活動の中でも最悪の、己の失敗を忘れる訳もない。
 しかし己はまだ選ばれた戦士達の中に居て、そのひとりとして認められている。それは何故か。一度は戦いから逃げようとまで考えていた、己を引き戻した存在がここに居るからだ。
 己に取って重要な何かがあることを認め、常にそれを気に掛けるようになったのは、鎧戦士としての活動が始まった、正にその最初の日からだった。今も己がここに存在できているのは、最初に出会った、己の対極に居る人を見ていたからだと思う。彼を忘れなかったからだと思う。
 私は日々何かを学んでいた。それを強く認識した日のことも憶えている。

 それは、あとひとりの戦士を救出する為の作戦を話し合った、天橋立の星空がとても美しい夜だった。
「喧嘩は良くないよ」
 と伸は、水辺に映る己の姿を覗き込みながら呟いた。呟いたと言っても、意見を違えた遼と秀の姿はそこには無い。伸の横に、岩壁に背を預けて立つ征士に話したと言って良かった。
 否、本来ならナスティの説得通りに、全員がその意識で纏まらなければならない筈だ。けれど伸にはまだ、その重要さを全員に伝える術が判らないでいた。目先のことに気を逸らせる者達を制止する、説得力のある答弁の才を自分は持たないと、伸は客観的に自分を知っていた。
 だから偶然、この場に於いて最良と思う意見を出した、征士に同意する形になった訳だが。
「あんな言い方をしたら、ふたりは意固地になって反論するに決まってる。頭に血が昇るのを煽ってるのと同じだよ」
 征士の態度についても、伸は納得できていなかったようだ。不信とするまでの感情ではないが、何かが間違っている気がしてならない。暗い水面に映る、何処か悲し気な自分に問答をするように、伸は『戦う為の仲間』という存在意義を探していた。
 けれど征士は当然のように説明する。
「そんなつもりはない。だが底の浅い考えを行動に移しても、また同じ失敗をするだろうと言っているのだ。何故それがあのふたりには解らない。吊るされた餌に飛び付いて、敵の罠に嵌まったばかりではないか。一度言えば解るならきつく言い聞かせることもないが、諄いくらいに説得しなければ、すぐに前の経験を忘れる連中では仕方がない」
 征士の言い分は尤もだった。尤もだと感じられるけれど、消化できない何かが含まれているのも確かだった。
「うん…。でも、みんな仲間なんだからさ」
 言葉足らずの伸の返事。無論それでは、真に意図することは伝わらないだろう。
「分かっている。目的まで違えていないのは救いだ。後は方法の問題だけだ」
 整然と答える征士に、伸は取り付く島もなくなってしまった。言いたいことがうまく言葉にならないのは、今も昔もあまり変わらないけれど。
 けれど伸はそこで、ふと可笑しさが込み上げて来て笑った。
「…何だ?」
 表情ひとつ変えることなく、征士は横目で彼の様子を伺う。すると、
「いや、ごめん。悪い意味じゃないんだけど、君は面白い奴だなって」
「面白い?」
 伸の言葉に、征士はピンと来ない様子で返した。否、彼のことを面白いと思う者は珍しくない。凡そ現代的な風俗には縁遠い生い立ち、ひとり浮き立っていることさえ平然と躱す様、普通でないものを面白いと評する表現は、征士にも解らない訳ではない。だが今この場面で、何か面白いことがあっただろうかと思う。
 伸の指摘はこうだった。
「それは癖なの?、いつも腕組みをして立ってるから。それとも意識してやってんの?」
 そして、多少意表を突かれた様子の征士は、
「…強いて言えば癖だ。それが面白いのか?」
 と答える。実際は癖なのか何なのか考えたこともなかった。
「だって最初に会った時もそうだったよ。その後も、気が付くと君は腕を組んでるんだよ。わざとそう言うポーズを作ってるのかと思った」
「故意にやっている訳では…、大体何の為に」
 けれどそう返事をしながら、征士は徐々に思い当たる節を蘇らせていた。腕を組んでいるのは、今は確かに癖のようになっている。しかしその最初の動機は、至極幼い頃に覚えた思いからだった。そして伸はそれを言い当てていた。
「ん、そうだね。もの凄く落ち着いてるように見えるしね、威圧的にも感じるよ」
 事実はそう落ち着いた人間でもないと、征士は己を理解していた。それは子供の頃から、彼に剣道を教えてくれた祖父が、口酸っぱく話して聞かせたことなのだ。
 小事にいちいち反応すれば相手に見下される、何の動揺も見せなければ相手が怯む、おまえは落ち着きが足りない。と、そう聞かされて来た幼い征士は、矍鑠として、常に余裕のある祖父の身振りを真似るようになった。それが腕組みの始まり。
 勝負の世界では、己を実力以上のものに見せることも大事だと言う、ひとつの手法かも知れない。但しそれは武術の中で、敵に相対する場合に限ったことだ。普段の生活にまで板に付いて良いとは言わない。
「フフ、彼等はさ、君と喋ってると怒られてるみたいだね」
「・・・・・・・・」
 決して良い態度ではないと、解っていながら無意識に行動を選択している。征士はそんな自分の在り方に薄々気付いてはいても、これまでに築き上げて来た自己を否定したくないと言う、自尊心の方が勝ってしまっていた。だが仕方がないかも知れない。己の限界を悟るにはまだ若すぎた。
 そして誰が悪いと言う訳ではないと、伸は解っているのだ。
「あ、別に、それを直せって意味じゃないんだけど…」
 俄に黙ってしまった征士を見て、伸は慌ててフォローをするが、
「ではどんな意味だ」
 不服そうな低い声色が返って来る。
「悪い意味じゃないって言っただろ?、怒るなよ」
 その時も、征士は以前に聞いた言葉を思い出した。
 新宿のビルの屋上で最初に出会った時、伸は場にそぐわない様子で笑っていた。何故こんな時に愉快そうに笑うのか、それを見て征士は逆に腹を立てたのだ。ところが伸は穏やかに、
『怒りっぽいんだね』
 と一瞥してみせた。表情が少ないと人には言われ、感情を読み取られないことには自信があった筈なのだ。けれど何故か伸には、怒りの感情を気取られてしまった。落ち着いて安定しているように見せているが、感情の起伏が少ない性格ではない。
 最初の時点で、伸にはそれを知られてしまったようだ。恐らく今も同様の状況だった。
「…怒っていない」
 征士はそう言って、自らの昂りを押さえるしかなくなっている。伸もまた、最初の出会いを思い出していたのか、嫌味でない笑い声を零していた。
「クククク」
『目を見れば判るよ』
 伸はそうとも言った。だから征士は、笑っている伸の気持を汲み取ることもできた。
 伸はいつも、何も決定しようとはしないのだ。苛立つ程の曖昧さの中で、この世に存在する善悪全てを含めて未来を見ている。誰の所為でもないと、いつも彼は笑う。
「…いや…、確かに私の言い方は厳しかったかも知れん」
「ん、きっと君は、自分にも他人にも厳しいんだろうね」
 確かに伸は、「悪い」とは一言も言わなかった。
「君はそれでいいんだと思う」

 例え良いとは思えなくても責めない。例え誰かが誤った行動を起こしても、彼は黙って見守っているのだろう。そして己は、誤りを起こす当事者になり得ると、暗に己の未熟さを認識していた。戦士としての完成度を盾にしながら、未完成な人間性を必死で律し続けていた。
 だから忘れなかった。
 常に彼が見ていてくれることを忘れなかった。

 今は、その緑の瞳には誰も映らない。彼が迷うことを止めた証かも知れなかった。



「じゃあ、伸は玉葱を炒めてちょうだい。秀はそこにある野菜の皮を全部剥いてね?」
 ナスティは覇気のある調子でてきぱきと指示を出す。
「はぁい」
 と、それに合わせて返事をしたふたりも、快く夕食の準備を引き受けていた。
 無事に使命を果たしたお祝い。この様な趣向のパーティは、過去に何度も催されて来たのだから、誰も皆慣れたものだった。けれど、日々ここで何度も繰り返されて来た、単なる賑やかな食事の風景すら、今後は数える程になってしまうかも知れない。そう思うと、自ずと意欲的に作業ができるから不思議だ。
「何だか張り切ってんな、ナスティは」
 秀が誰にともなくそう言うと、オーブンの温度を確かめていたナスティは振り返り、
「そりゃあね!、これまでの中で一番大きなお祝いだもの」
 と屈託なく笑って返した。すると伸も、
「そうそう、これは殆ど秀の為と言っても過言じゃないよ?。大半は君の胃袋に収まる予定なんだ、何しろ一番のお祝いだからね」
 そう付け加えて、ナスティと顔を見合わせて笑う。この家の中ではありふれた、普段通りの日常の光景。それもまた何やら感慨深く感じられた。
「よっしゃ、気合を入れて手伝うとすっか!」
 それで俄然やる気を出したのか、一喝する声と共に、秀の見事な包丁裁きが炸裂し始める。中華料理は手早さが調理の命、と常々教えられている秀は、とにかく早さに於いては天下逸品の技術を持っているのだ。柳生邸の台所は一見すると、只管に賑やかで楽し気な場と化していた。無論思うことはそれぞれに違っていたけれど。
 ナスティの心境もまた、五人とは相違ないものがあった。同居していた仲の良い祖父を亡くして、入れ替わるように彼等との生活が始まり、まだ幼かった五人が少しずつ成長して行く様を、親代りとも思える気持でずっと見守って来た。
 そしてその長い時間は、それぞれに取って何より大切な繋がりを作っただろう。そう、ナスティにしても、鎧とそれにまつわる全ての事象、鎧との出会いが繋いだ『家族』という意識を、いつも心の支えにしてやって来たのだから。
 その現在が、共に居られる安心から、離れて行く淋しさに流れて行くこの時を、平穏な日常通りに過ごせるかと言えば、有り得ない。
 この世に平和と安息を。そして何故私達は失わなければならない、と。

 長い夏の陽が少しずつ短くなって行くのを感じている。テーブルの上に全ての料理の皿が揃う頃には、もう鮮やかな夕暮れも半ば煙り出す空の色。そして仲間達との賑やかな晩餐の時も、日暮れの早さと共に駆け足で過ぎて行くようだった。
 用意された色とりどりの、絵に描いたような料理はあっと言う間に姿を消し、支度にかかった時間を思えば、思わず溜息も出そうにもなる。けれど、
「いっつもこの調子ねー」
 と、ナスティの口から出た言葉に、誰もが奇妙な幸福感を感じていた。同じ顔がいつもここに居る、同じようなことを何気なく繰り返して生活する、ただ傍に居て、共に生きている者達が居る、それが幸せの基本なのだと知るように。
 そうして大宴会も終わりに近付いた頃、一度落ち着きを取り戻した食卓で、突然遼がこんなことを言った。
「なあ、みんなはこれから、どうするつもりなんだ?」
 彼の表情は特に思い詰めた風でも、逆にふざけた様子でもなく、それがどんな意図で問いかけられたものか測れない。拠って誰もが、即座にその返事をすることができなかった。今は浮世を忘れる楽しいパーティの場、昨日の悲しみも明日の不安も忘れて、何も考えずに過ごしていた者が殆どだ。
 誰もが今だけは、先のことを考えたくないと思っていた。むしろそれを口にするのは禁忌と感じるように、誰の心にも影を落としていたのだけれど。
 遼が切り出した問い掛けを無視することはできない。
「どうすると言われても…、まずこれまでの生活に戻るだけだが」
 隣の席に座っていた征士は、顔を向けられたついでにそんなことを話した。するとその向かいに居た当麻も、
「俺も特にこれと言って考えてることはないな」
 と追随する。それを見て、遼はあっさり納得したような様子で、
「うん…、そうだな」
 と答えるが、しかしフッと不可解な笑みを浮かべた。
 何処か淋し気な雰囲気、諦めのような印象の笑い方。遼がそんな表情を見せることは珍しかった。彼の気になる様子を黙って見ていられない面々は、途端にそれぞれ、宥めの言葉を掛け始める。
「何か心配なことでもあるのかい?」
 と伸が言うと、
「言いたいことがあるなら今言った方がいいぜ?、遼。御馳走を食った後だからな!、何でも力になれるってもんだ!」
 と、秀も乗り出すようにアピールする。そしてナスティが、
「そうよ遼、ひとりで考え込んでも仕方ないわ。もしかしたら、みんな同じことを思ってるかも知れないじゃない?」
 如何にも心配顔で遼を覗き込むと、彼はギョっとした様子でそれに返した。
「なっ、ナスティまでそんなことを言うのか!?」
 意外にも落ち着いた態度の遼を前に、ナスティも他の四人も、思わずキョトンとして彼を見詰めてしまう。動きの止まった彼等の静寂を見て、遼は些か呆れたように、
「あー、もう、違うんだって!」
 そう吐き捨てると、改めて笑顔を作り直すようにして言った。
「深刻になりすぎだぜ、みんな。そう言いたかっただけなんだ」
 彼はどうやら、仲間の内でやんわり避けている話題があるのを、不自然だと指摘したかったようなのだ。そしてこんな時にこそ、彼のリーダーたる風格が窺えるというもの。遼を囲む仲間達はハッとするように、互いの顔を見合わせるしかなかった。
 心に引っ掛かる何かを気にしながら、敢えてそれを口にできなかったのは誰しも同じ。自ら決定的な終わりを告げてしまうのが、恐かったのだ。
「俺だって、そりゃ淋しいと思う。自分の命も心も預けて来た鎧だからな。それから鎧に出会ったことでみんなにも会えた、いつも一緒に生きて戦って来た、もうこんな仲間に出会えることはないと思う。
 でも俺は俺だ。鎧じゃなくて、真田遼って名前の人間なんだぜ?。俺の中に、長い時間をかけて出来上がったものが、そう簡単に消えちまう訳がない。それに、俺達は鎧にも勝ったんだ。人間は、人の心は鎧よりも更に強いものだと俺は信じる」
 遼が語る言葉のひとつひとつを、皆黙って心地良く受け止めていた。
 始めの頃はいつも周囲に支えられて来た彼が、今は何故だかとても大人に見える。やはり烈火は正に大将の器なのだと、こんな時に至っても納得させられる可笑しさに、皆はにかむような微笑を零した。
「…そうだな、遼の言う通り考え過ぎだったかもな」
 当麻は淡々として続けた。
「これまでの俺達は、何でも鎧を中心に考えなければならなかった。何をするにもまず戦う使命の為に、結束を最優先せさなければならなかった。言わば義務だったんだ。まあ、そんな風に考える癖が付いちまったらしい」
 すると征士も同意をしながら言った。
「確かに。だが付け加えれば、これで何も起こらなくなったと言う保障もない」
「そうだぜ!、これまでさんざん苦労して戦って来たってのに、鎧がなくなったら『ハイおしまい』ってことあるかよ。また何かあったりしたら、取り敢えずできることはやってかなくっちゃよ、義の戦士としては堪え難い無責任だぜ!」
 そう続けた秀の力説には、皆が賛同するように明るい顔を見せる。そして遼も頼もしく返していた。
「うん、俺もそう思う!」
 その場の雰囲気は途端に和やかになった。
 遼の意思は、或いは遼が示す答は、いつからか常に誰の心にも力強く響く。それは彼等の中心に確と、仁の心が存在する証拠なのだろう。彼等は最初のバラバラな状態から、確かに迦雄須の願った理想の形を作り上げて来た。
 そしてナスティは明るい調子で秀を称えた。
「いい事を言うわね、秀」
「たまにはな」
 すると間を置かずに当麻が口を挟む。得意そうな顔を作ろうとした矢先、途端に余計な茶々を入れられて、
「悪かったな、たまにで!」
 硬かったそれぞれの心情が、いつもの掛け合い漫才の様子に砕けて行った。
 ただひとりを除いて。
 誰も今は無理に触れることができない、何を考えているのかも解らない、何も言い出さない伸にだけは気を遣ったままで。
『もう戦いたくないんだ』
 と言った彼が、この集まり自体を戦いに結び付けているとしたら、何を言い募っても慰めにはならないだろう。互いの意思を確認することで、内なる不安を取り除ける者はまだ良い。例えその意思が伸に伝わっていたとしても、彼の抱えている孤独の痛みが消える訳ではない。
 彼だけが居なかった事実は消えない。
「っとにもー、すぐ挙げ足を取る奴がいるしよ!。何とか言ってくれよ!」
 秀はそう言って、空いた皿を片付けようと立ち上がった伸を促す。
「ん?、そうだね、気持の問題だって言いたいんだろ?」
 しかし淀みなく返した彼には、やはり今はそれ以上追及できそうもない、鉄壁の防御だけが感じられる状態だ。秀は腹を立てる代わりに、勢い良く伸の背中を叩いた。
「そっ!、『心をひとつに』だぜっ!」
「痛いなぁ…」
 秀の小さな計らい、コミカルな馴れ合いを見て笑って居られた。上辺の明るさに包み隠したのは、他ならぬ伸の曖昧な言葉だ。
 気持の問題と言うなら、伸に取って何が選択された気持なのだろう。苦悩を味わい続けても仲間を取るのか、苦悩から逃れる為に仲間を離れるのか、或いはその他の道があるのだろうか。誰も彼の発言には納得していなかった。しかしどうしようもない。
 せめて、秀の取りなしが無駄にならないようにと思われた。
「…と言う訳だから、心配するな、遼」
 当麻は何故か話題を遼に振った。まるでそれは、ひとりで鬱々と悩んでいた遼を励ます、過去の戦いの日々を再現するような態度だった。
「えっ!?、何だよ?、俺は心配してないって言ったんだぞ!」
 わざとだ、と気付いた遼は気恥ずかしい様子で反論するが、
「ま、考えられるところで、進学相談なら俺が乗ってやるからな」
 痛い所を突かれて顔色を変えた遼に、当麻はニッコリ笑って返すのだった。
 習慣が守られることはまず安心の材料となる。この場に於いて、やり込められる役は遼ともうひとり、でなくてはならないと当麻は考えている。
「そ、そうだな。当てにさせてもらうよ…」
 苦笑いの遼が返すと、
「どうせもうひとり首の皮一枚の奴が居るしなぁ。来年はまた合宿でもするか」
 伸に頼まれてデザートを運んでいた、秀の背中がびくっと反応するのを、当麻は満足そうに眺めていた。

 もう、誰の胸にも異様な緊張感は存在しない。
 こんな時は腹を割って話すことだと、遼は理屈より前に素直に体現していた。彼の成長著しい様を羨ましくも、有り難くも感じられた夕べ。皆同じスタートラインに立っていたのだから、それぞれが何かしら、良いと思える変化を遂げて来た筈だった。
 そして彼等の相乗効果で得られたものは数え切れない。それは貴重な財産、おいそれと手放せるものでは決してないだろう。誰もがそのように同じ価値観を持っている筈だろう。
 否、持ち続けられると信じたい。



「征士はもう切符は買ってあるの?」
 鞄の中身を床に広げながら、部屋に戻った伸は荷造りを始めていた。
 比較的小振りなスポーツタイプのショルダーに、バスタオルだの防水カメラだの、海で使った品々が大きく幅を利かせている。考えてみれば彼は、ここに泊まることなどまるで想定していなかった。海へ遊びに行ったその足で、遠くアフリカへと渡ってまた帰国したのだ。
 秀と出掛けた海岸の町で、購入したボードやウェアなどの大物は運送業者に頼んだが、箱に入り切らなかった小物が名残惜しさを思わせるように、伸の作業の手を煩わせている。
「いや。今の時期なら予約なしでも、券売機で買えば充分だ」
 そう答えた征士はベッドの上で胡座を掻いて、忙しない伸の様子をぼんやり見ていた。因みに彼は宿泊用品を何も持ち合わせなかった為、帰国後にわざわざ家から送ってもらっていた。ほんの数日の滞在の為に。
 そう、明後日には今回の集合も解散となる。日本の各地に散らばった彼等の中では、微妙にタイムラグが生じてしまう事情があった。多くの学校はまだ一週間ほどの余裕があるが、征士の住む地域の学校では、明後日には大概が始業式を行う。自分ひとりの所為で全体の解散が早くなることを、征士は己が最も辛いと考えていた。
 これまでに育まれた仲間としての感情、戦士としての信用、そのいずれにしても、長い時間を経た上で今に至っている。誰かが受けた傷が癒される為にも、同様に充分な期間が必要だと判る。嘗て自分がどん底から這い上がるのに、どれだけの時間を要したかを征士は知っている。
 そして又、その時とは決定的に違うことがある。嫌が応にも強靱に絡め取られるような、鎧と言う存在が今はもう無いのだ。
 時間が足りない。何でもない日々を繰り返すことから、家族的な意識は強まっていくと、誰もが経験的に理解する事実がある。しかしその為には、他愛無い日常的な時間がもっと必要だった。征士が感じている焦燥感は、そんな方法しか思い付けない心許なさから生じている。
 このまま帰りたくないと。
「新幹線一本だと便利でいいよね、僕は何を使っても乗り継ぎになるから」
 伸の手許には航空会社の封筒が置かれていた。確かに遠い。事在る毎にこうして集まる習慣があったけれど、戻る家はそれぞれ遠く離れていた。その距離をこれまで殆ど感じなかったのが、今頃になって不思議に思えるほどだ。恐らくそれだけ、心は近くに寄り添い合っていたのだろう。それとも与えられた使命に、誰もが忠実だったからだろうか。
 但し今は距離を感じていた。同じ部屋の中で、手を伸ばせばすぐに触れられる場所に居ながら、目に見えない隔たりが存在する今を、征士は意識せずには居られない。
「できればずっとここに住んで居たい」
 征士が言うと、
「…珍しいことを言うね、君にしては」
 伸にはそれが、ホームシックのような感傷に聞こえたらしく、征士には不似合いな言動だと笑った。勿論そんな意味は含まれていなかったが、伸は続けて思わぬ言葉を零す。
「君は変わったよ、そんなことを考える奴じゃなかったのに」
 思い掛けない指摘。征士本人がそれを認めている分、伸の口からそれを告げられるのは辛かった。
 自分はある意味で弱くなっているのだと。
 自信過剰なまでの揺るぎない信念で突き進んでいた、純粋なだけの自分ではないことを征士は認めている。そして現在の煮え切らない人間性は、誰の影響なのかも明らかだった。見ている内に自然に身に付いてしまうこともある。己に取ってあまり良い変化でないとしても。
 すると、伸の表情も不可解な色に沈んでいた。怒っているような、悔やんでいるような、見覚えのない顔をしていた。征士にはそれが、己に対する評価のように感じられる。
「…悪いか?」
「え?、いや。良いか悪いかなんて僕に判る訳ないだろ。征士が良ければいいんだと思うよ」
 さり気なく突き放される感覚も覚えた。
「変わらないものは何もないんだから、変化することが悪い訳ない…」
 綴られる言葉から遂に、彼が意図するものさえ見えなくなっていた。

 何かが頑に扉を閉ざした。
 それも変化の内と考えるなら、伸は自分を弁護したのかも知れなかった。
 他人の過ちは許せても、己の失策には寛容さを持たない、そんな自我に追われる身の、彼の心を救えるのは何だろうと、征士はずっと考えて続けていた。



つづく





コメント)さて、これで一応前半終了でございますー。征伸だと言うのに、前半はトルーパー全体の話(というか輝煌帝伝説の話)が多いので、まだ何やらさっぱり見えて来ない感じですね(笑)。でもちゃんと伏線をはって書いてるので、後半に期待してやって下さいっ。ちなみに前半は主に征士の語りで進んでますが、後半はこれが伸に変わりますので。
この後後半部分を書くまでに、ちょっと時間が空いてしまうんです、すみません。なので3番がアップされた日には、できればもう一度ここまでを読んで下さいね。ほとんど忘れた状態で読むと、全く別の小説みたいな印象がしちゃうかも知れないので。それくらい3番以降はドトウです(笑)。ではでは、暫し待たれよ。



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