ひそひそ話
Alpha=Omega
#1
The Begining & The End 1989



 千年の自我と反自我、五百万年の流れの辿り着く場所。
 白い顔と黒い顔を持つ道化師、神であり悪魔である孤独を君は知っているか。



 タンザニアは人類発祥の地と言われる。
 アフリカの多くの地域は今現在、砂漠化の一途を辿る大陸に危倶しているが、タンザニアに広がる草原と渓谷は、日本のそれにも似た温度と湿度、草の緑、大地の土の色、正に命の住まう場所だと五人は感じた。カラカラに乾いた不毛の地ではないと。
 けれど何故だが、彼等の心には薄ら寒いような、乾いた風が吹き続けていた。個々の青春の貴重な時間を、過酷な戦いの為に費やして来た日々。そしてその日々は、鎧の消滅と共に終わりを告げたのだ。
 与えられた使命を果たし、使役の戦士の立場から解放されること、元の平和な日常の状態に戻れることを皆、心から望んでいた筈だった。しかし終幕を迎えた今になって、やんわりと傷に触れるような、鬱陶しい風が吹いている。
 待ちわびた時の到来を前に、生死を共にした仲間達とはこの先、疎遠になって行く未来を憂えている。それはまるで卒業式の桜の下。離別と出発の合わさる複雑な思いが入り混じる、嬉しいとも悲しいとも決められない歯痒さに似ている。また逢おうと交わされる約束は、果たされないことの方が遥かに多い。
 けれど今は夏。
 渇きを感じた。飛行機内での症状として、特に珍しいことではないが、水分を補っても潤えない何かが、体の中に硬く焦げ付いているような渇水感。確かな成果を得たアフリカからの帰路に於いて、こんな気分を味わうとは、誰もがまるで予想しなかったけれど。
 征士はふと左肩に重みを感じた。その方に顔を向けると、眠ってしまっている遼が肩に寄り掛かっていた。エコノミー席は多少窮屈なものだが、飛行機は眠りに心地良いゆらぎを与えてくれるらしい。そして更に向こうの席から、緑の瞳がそれを覗き込んでクスと笑った。
「疲れてるのかな…」
 誰に聞かせるともなく伸は呟くと、改めて、
「君は大丈夫?」
 征士にはそう言葉を掛けた。特に普段と変わらない、穏やかな様子の伸だったが、征士は明らかに気を遣った返事をする。
「別に何でもない。遼ほど傷め付けられた訳ではないからな」
 実際は『何でもない』とは言えない状態だったが。
 怪我ならば伸以外の誰もが、少なくとも打撲程度のものを負っていたが、それを有りの侭には現せないと、既に暗黙の了解を得ていた面々。無理に隠す訳ではないが、悪い結果を印象付ける事実には、多少フィルターが必要だと思えてならないのだ。
 伸だけがそこに居なかったと言う事実。恐らく本人が最も苦悩する事実だからだ。
 良い結果を得る為に、犠牲にされるものに耐えられなくなった彼の心。後になって可能性を説いても意味はないが、仲間達に同行していたとしても、それなりの結果は出せたかも知れない。と思えば、『そこに居なかった事実』は彼に重くのし掛かって来る。何か、決定的な過ちを犯してしまったように、感じられているに違いなかった。例え過ちではなかったにせよ。
 そしてどんなに言葉を探し繕おうとも、本人以外に慰めることはできない悩みだろう。孤独な苦悩、皆がそう理解できるのも、これまでの道程で培われて来た何かがあるからだ。誰も自己の弱点を完全に打ち消すことはできない。そしてその弱点を成長させるのは、ただ己自身でしかないのだと。
 消すのではなくて、誤魔化すのではなくて、どう認めて行けるかの問題だ。
「…これでもう終わったんだね」
 伸はまたポツリと呟いた。聞こえていたのかいないのか、征士は黙ったまま機内の壁の一点を見据えていた。それきり会話は続かなかった。機体の発する微弱な唸り声と、遼の寝息だけが辛うじて、確かだと感じるもののように思えた。
 誰もが、これまで疑いを挟むことのなかった、強固に絡み合ったそれぞれの運命の絆を今、こんなにも希薄で弱々しいものに感じている。上辺はそれ程の事件が起きたようには見えないが、確かに、心の底の方で何かが揺らぎ始めていた。このまま全て呆気無く千切れてしまいそうに、乾いた風に揺られている様を想像できるのだ。
 ただひとつ言えるのは、お互いの信頼が失われた訳ではないこと。信頼の象徴的な存在が不安定なまま、集団の中に加わっているからだ。
 今も鮮やかに思い出せる、彼等の始まりは正にバラバラだった。殆ど共通点を持たない散り散りの個性を束ね、互いに信用を得て来た過程には、必ず先導者の成功を信じ、背景を支える目立たぬ功労者が居たことを知っている。だから不可能は可能へと変わって行った。
 人より前に出ることなく、最大限に力を発揮することは難しいものだ。他の誰にも出来ない特徴を持ち、彼は目立たなかったからこそ、揺るぎない信用と言う土台を作り上げて来た。と今は誰にも考えられる。
 そうして地道に培われて来た、特別に重要な土台が今、俄に揺らぎ始めている。彼等に取ってどんな損失になるか測り知れない、過去へも未来へも影響する基盤を失うことは、これまで命を懸けて来た全ての行いの、価値そのものが失われると想像できた。
 この先の未来をただ明るい印象に捉えられはしない。また元の個人に戻るだけと割り切れる者も、ここにはひとりも居なかった。
『個人行動は得意な筈だったが』
 と、征士も自嘲気味に構えていたけれど、己を、全体を支えて来てくれたものに対し、何もできないでいるのを恨めしく思うばかりだった。単純な若さからの成長を歓迎する反面、己が変わってしまった、己の無力さを知ってしまったその日を、征士はまだ鮮明に憶えていた。
 血を流す者を救えても、血を流す心を救う才能は、自分には与えられていないのだ。と。

 夏も終わりに近付いた日本に、彼等を乗せた飛行機が到着したのは夕刻だった。辺りの全てを焦がして沈んで行く夕陽の様に、何もかもを焼き尽くして終わってしまう幻想が、ふとそれぞれの頭を掠めて行った。
 それもひとつの『浄化』と言う形かも知れない。野焼きの後に、健康な植物の新しく芽吹くが如く、再びこの時から歴史を繋げて行ければ良いとも思う。
 二週間程の旅の後に、彼等は多くのことを考えている。

 そして彼等は柳生邸に集まっていた。
 事ある毎にここに集う習慣も含め、この場所を酷く懐かしく感じる心が、誰の内にも存在していた。それはホームシック的な懐かしさではない。いつにしてももう戻れないかも知れないと、彼等は覚悟して戦いへと臨んで来た。そしてその度ここに戻って来た。誰も欠けずにまた戻って来ることができた。今の戦いも、前の戦いも、その繰り返しこそが心の拠り所だったからだ。
 懐かしんでいるのは、最初の戦いから始まった彼等の記録だ。この屋根の下で過ごして来た時間、その間に起こった様々な出来事、そしてここまで辿り着いた経過がどれ程、彼等に取って掛け替えのないものであったか。その大切さを改めて認識した瞬間でもあった。
 鎧によって呼び寄せられた、世界の秩序を守る為の駒であった彼等だが、全てが鎧の意のままに、或いは与えられた使命のままに、成長し、行動を決めて来た訳ではない。その前に、明らかに未熟な少年達でもあった。幾度も悩まされて来た、戦いに於ける葛藤の経過が存在して来た。つまりそれは、鎧と共に全てを放棄する必要はない、と言う答に繋がっている筈だ。
 と、誰もが頭では理解できていた。揃ってここに戻って来た結果を決して、間違いではないと認めることはできた。無論鎧が失くなったとして、邪悪に立ち向かうことの全てが終わったとは、誰も確信を持って答えられない。ひとつの区切りが付いた、と言うだけの小さな事象かも知れなかった。
 小さな事象、小さな変化ならこれまでにも幾つもあった。まだほんの十四才の少年達が、日を追う毎にその姿形も、持って生まれた性質さえ変化させて来たことは、別段特異な話とは思わないだろう。その過程、節目節目の時をいつも見守って来たこの家で、これからは戦士としてでなく、ただひとりの人間として生きることを考え始める。それだけのことかも知れなかった。
 ひとつの目的に団結すべき時が過ぎて、それぞれの向かう先が異なって行くであろう未来。
 今はまだ解放とも離散とも考えられる、不明瞭な状態に置かれている彼等だった。どちらの道を選択するか、何を自己への解答として受け入れるかは自由だ。しかし、例え自由を少し制約されたとしても、確実に守りたいものは在ると気付いていた。誰もがそれに気付いているのだ。
 けれど不安だった。
 帰国した当日はまだ、環境の変化から来る浮遊感の中で一夜を過ごしたが、その翌日には同行していた純を自宅へと見送る。
「残ってる宿題を急いでやらなくちゃ」
 と、無邪気に笑った彼を見れば、もうすぐ夏休みも終わりだと実感する外はない。残された時間は少ない。それぞれが一般的なサイクルの生活に入る前に、この存在に対する不安を取り除いてしまいたかった。そんな重要な宿題を残したままでは、彼等の夏も終わらない。

 徐々に力を失い、感覚が弱り、消え入る様に死に絶えてしまう前に、この、二度と作れはしない強い結びつきに、揺るぎない魂の力を蘇らせたい。



 純が自宅に戻ったその日の晩だった。
 久し振りに口にする日本食のテーブルに、誰もが改めて無事帰国した事実を噛み締めていた。今日のところはまだ、仕出しの惣菜などが中心の食事だったが、明日の夜には恒例のパーティを開くことになった。又そうと聞けば、足早に自宅に戻ろうとする者も居なかった。
 否、誰もが残された時間を大切に過ごしたかっただろう。全員揃っての行事を欠席するような真似は、誰にしても考えられないことだった。気に掛かる予定をずらしてでも、居られるだけここに居たいと思って当たり前の心情。
 まだ旅の疲れや、怪我の回復状況は完全ではなかったが、誰もがほぼいつもの様子と変わらない、賑やかな晩餐の席に居られた。このままこれまでと同じように、元の集団の様子に戻れれば良いと、希望的な憶測さえ感じられた夕べ。
 何が変わってしまったのかが見えない。見えないけれど変化した何かを確かめて、それから帰路に就くのが理想的な形だろう。ただ賑やかに、ぼんやり休んでは居られななかった。誰もがそんな振りをしているだけで。

 夜が更けた頃、征士が風呂場から二階に戻って行くと、踊り場の間近のドアから現れた当麻が、その姿に気付いて手招きをした。彼は暫し聞耳を立てるように、辺りに人が居ないことを確認すると、その踊り場の壁に寄り添って、ふたりは小声で立ち話を始めた。
「ところでどうかな?、新しい部屋の住み心地は」
「…何だ?、どう言う意味だ?」
 わざわざ呼び出す形で話すにしては、まるで要領を得ない内容に征士は問い返す。普通ひそひそ話なら、他人に言えない事もすっぱり言うものだろう。それとも、当麻本人が言い辛いという意味だろうか。
 部屋と言えば、昨晩は少しイレギュラーなことがあった。
 帰国し立てで疲れていた為に、遼、秀、当麻、純の四人が、ここに到着するなり眠ってしまったことに起因する。ナスティと共に暫く空けていた家を見回り、風呂に入ってから寝室に向かった伸は、普段自分が使っているベッドに当麻が眠っているのを見て、仕方なく当麻のベッドに寝ることにした。
「秀と何か話してる内に寝ちゃったみたいなんだ。あいつ布団も掛けてなかったし」
 と伸は征士に話していた。
 ところが、
「いい配慮だっただろう?」
 当麻の言いたいことはつまり、部屋ではなくルームメイトの方だったらしい。遠回しに話して相手の反応を見るのは、智将である彼の常套手段である。
「意図してそうしたのか」
 しかし征士は今一つ呑み込めないでいた。
 最初にここにやって来た十四の頃から、特に決まりがあった訳ではないが、現行の部屋割りを変えたことはなかった。部屋替えの必要を感じるようになったのは、つい最近になってからのことだ。
 何故なら彼等は成長すると共に、個々の行動パターンや生活サイクルを変え、それぞれの個性をくっきりと開花させて来た。出会った当初はただ、気の合う者同士のグループ化だったものが、最近に至って、相手に合わせることを窮屈に感じ始めていた。即ち思考は似ていても、朝型の生活をする征士と、夜型の生活をする当麻が同じ部屋で寝起きするのは、最早限界に近かったのだ。
 そんな理由があったことは事実だが、何故それを遠巻きに話す必要があるのか。
「これでおまえとの約束を果たせた。ま、後は好きなように」
 歯切れの良い調子で話す当麻に対し、征士は増々不可解だと言う顔をしている。
「約束とは何だ?」
 征士は忘れてしまっていた。無論重要でないから忘れたのだ。
「クク、そんなことだろうと思ったがな。…一連の戦いが終わり、俺達に平和な状況が訪れたら、一計を案じてやろうと言ったんだ。聞いてもいないのに、意中の彼女を紹介してくれたもんでね」
「…あー…」
 すると当麻の言葉に弾かれたように、征士の目の前には、鮮やかに当時の記憶が蘇って来る。そう、それは彼等がまだ出会ったばかりの新宿の街中で、辺りの見回りを終え、他の者達が集まる場所に戻ろうという時だった。その時当麻は、現代人としてかなり珍しい人物に会って、様々な質問をしながら歩いていた。その中での会話だったと征士は思い出す。
 しかし、
「そう言えばそんなこともあったが、あれはただの冗談だ。否、その場で担がれたと判っただろう?、当麻。今頃何を言い出すのだ」
 彼の主観的な意見としては、事実そうだったのだ。当麻が色々質問をして来るので、ひとつからかってやろうとしたまでのこと。
 だから征士は特に慌てる態度も、取り乱す様子も見せない。けれど当麻の返事はこうだった。
「別に冗談でもいいんだ。昔のことさ。大事なのは今だからな」
「…何が言いたいのか解らん」
 核心を切り出し難かったのは、なるべくなら征士の自尊心を損なわないように、と思っていたからだ。だが意外にも鈍感と言おうか、頑固に防御を崩さないでいる彼には、やはり自ら警告するしかないようだ、と当麻は思う。それだけ征士には、他人に明かしたくないことかも知れないと。
「自分では気付かないこともある。気付いても言えないこともあるだろう。昔は冗談だったことが、今はそうじゃないかも知れない。時間が経つ内に変わって来たかも知れない。勿論、はっきり言葉で言えるような感情じゃあないのかも知れない。違うと思いたい気持も解る。だが…俺は外したことを言っているか?」
 そして征士は答えられなかった。
 死の街と化した新宿の、薄暗い街路を巡りながら思っていたこと。最初に感じた恐怖も絶望も、何故だか消えて失くなっていた。酷く前向きな気分で戦いに臨める気がしていた。その時は既に見付けていたからだ。恐らく己の行く末に取って重要な存在、その何かを持った人に出会った。
 彼はきっと、全てを見ていてくれるだろうと思った。全てそこから始まったことなのだ。
「だから冗談でもいいんだ」
 何も言わない征士に、当麻は明るい口調で続けていた。それがせめてもの救いだった。
「今の状況を解決するのはおまえだ。俺はおまえに任せた」
「…任せられてもな」
 けれど征士は安堵もしていた。全てを見抜いたような態度をして、当麻にも知り得ない事情があると。
 自分は何もできはしないと、征士が歯痒く思っていることまでは、当麻にも誰にも気付かれていない。それは征士の為に伸が隠している、征士が不利になることを人に話さなかった証拠だった。
 当然だが、敵に弱味を握られてしまえば、一戦士の命運も尽きると考えられる。伸の善意に因って己が生かされている現状を、征士はどうすることもできないでいる。
 本当に、これを境に全ての戦いの記憶から、綺麗に切り離されたい気持が在る。しかしそれに因って失われるものが、余りにも大きく、断ち切ろうとする剣を持つ手を迷わせている。征士は結局何も決断できないでいる。
 否、それは誰にしても同じだけれど。
「そんな訳で、差し詰め俺はキューピッドってとこだ。弓矢もあるしな」
 当麻にしても、そんな冗談を交えつつも、結局現状を案じているのは明白だった。
「クックッ…、いや、なかなか似合うかも知れん」
 立場の違いこそあれ、誰もが今は同じことを考えているに違いなかった。何もかもをひとりで解決しろ、と言われた訳ではない分、征士はもう少し楽に構えても良い筈だった。
 けれど、ふたりが丁度そんな考えに辿り着いた時だ。
「さっきから何話してんの?、そこで」
 突然足元から投げ掛けられた言葉に、彼等は思わず跳び上がりそうになった。階段の手摺の向こうに、頭だけを覗かせて伸が立っていた。その階段の途中で、どれ程の会話の内容を聞かれてしまったのか。小さく含み笑いをしている表情が、言葉の出ないふたりを竦ませていた。そして伸は、
「今、意中の人が何とかって話してなかった?。何なら僕が仲介してあげてもいいよ、そう言うの得意なんだよ」
 と、如何にも得意気に言うのだ。無論ふたりには返す言葉が見付からない。妙な状態になったまま、僅かなしじまの時が流れて行く。
「伸〜?、来てー!」
「今行くよ」
 階下から響いたナスティの声に助けられた。何かを手伝っていた最中だったらしく、伸は足早に声のする方へと行ってしまった。ほんの数十秒の事だった筈だが、十分も経ったように長く感じた一瞬の魔。彼が立ち去った後も、ふたりは狐に摘まれたような顔を元に戻せなかった。
「…得意なんだってよ、頼んでみようか?」
「馬鹿な」
 征士は当麻の胸の辺りを、軽く拳で叩いた。



「羽柴当麻だ、太閤関白家の流れを組む者だ」
「伊達征士、伊達政宗が一族」
 そんな自己紹介から始まり、征士と当麻が、相手に対して張り合う気持を持ったのは、今更言うまでもないだろう。まだ顔を合わせて間もないこの時、当麻は、
「独眼流と言う訳だな?」
 との後に、幾つかの話題で話し掛けていた。何しろ征士は、誰の目から見ても特異な印象だった。当麻にしても、これまでに会ったことのないタイプの人物だ。真面目な質問から他愛のない話まで、どんなことでも聞き出す価値があると考えたようだ。
 破壊の場と成り果てた新宿の、灰色の廃虚を見回りながら歩いていたふたり。
「貴様は日本人なのか?」
「勿論だ。この外見は親譲りだ」
 この状況下で話す内容とも思えないが、素朴な疑問がまず当麻の口に登っていた。全く普通の会話していられると、先に己の余裕を見せることが、相手に対する牽制になると計ってのことだ。しかし征士も動じないところを見ると、敵もさるものと思わざるを得ない。
「フーン。婦女子に人気がありそうだな」
 当麻がそう返すと、征士は笑い出しそうになりながら答えた。
「さあな。勝手にファンクラブを作るとか、ちやほやする輩は大勢居るかもな」
 自慢か?、と当麻は一瞬思ったが、ふと見ると征士の表情は何故か曇っている。質問の答としては予想通りだっただけに、その後の様子はどうにも腑に落ちない。当麻はもう一押し質問を続けてみる。
「…にしては景気が悪そうだな」
「さて、関心の向かない取り巻きなど、幾ら居ても同じだろう」
 けれど、冷静にそう吐き捨てた征士は、続けて決めポーズを作りながら言うのだ。
「本当に大事なひとりには適わない」
「ほーぉ?」
 思わず当麻は感嘆の句を漏らした。そしてその足取りは歓喜に弾み出していた。そもそも当麻と言う者は、人より一段高い場所から物事を見聞したがるところがある。今隣を歩いている、これから競い合って行かねばならない相手に対し、それは挙げ足を取れる材料らしい話題だった。
 恋愛経験が豊富、とは全く言えたものではないが、当麻が情報として得て来たことは、実際大人にも通用する理論である。これを餌に釣ってみようと、当麻は即座に考え、征士にはこんな言葉を振ってみた。
「伊達殿にはそんなお相手が?」
 そして征士の顔を覗き込むと、彼は暫く考えてから、
「…だが、少々望み薄かな」
 と答えて、当麻に合わせるようにニヤッと笑った。
 望み薄、で考えられることは、例えば友達の恋人であるとか、遥かに年上の人であるとか、或いは不倫の相手であるとか、テレビドラマによくあるような人間模様あれこれ。けれど征士の様子からは、むしろそれを楽しんでいるような節も受け取れる。
 確と状況は掴めないが、今のところそれが唯一の、征士に付け入ることのできる情報だった。ここでひとつ恩を売っておくことにしよう、と当麻は考えて、次のように征士に提案したのだ。
「よし、それならな、この戦いが終わり、我々に平和が戻った暁には、俺が何か良い知恵を貸すと約束しよう。この智将天空、戦略に於いては誰にも引けを取らないつもりだ」
 それを聞いた征士はと言えば。
 何を言い出すのかと、殆ど真面目に受け取りはしなかったが、ただその愉快な軍師の講釈が小気味良く耳に響いたので、場の雰囲気を壊さぬように、適当に話に乗っておくことにしたようだ。
「それは面白そうだな、折角だから頼んでみるとしようか」
 征士にはその程度の意識だったので、きれいに忘れてしまうのも仕方がない。しかし当麻にしてみれば、忘れ得ぬ痛い思い出となった出来事。何故ならその後、
「では紹介しておこう」
 と言って、不可解にも征士は当麻を先導して歩き始めたのだ。この死の街と化した新宿の何処に、紹介される人物が居るものか。訳の解らないまま征士の後を着いて行くと、彼は集合場所のほぼ真上と思われる、大きな通風口の桟の上に立ち止まっていた。
 下を覗けば他の三人の同志と、同行することになった女性、小学生と思える少年、が談笑している様が見えた。
 そして征士がその集団の中から、指し示した水色の戦士を見て、当麻は理解できない嗜好を感じながら、再び征士の方を振り返ることになる。ところが征士は「してやったり」な表情を浮かべて、
「楽しみにしているぞ、羽柴当麻」
 と笑うのだった。
 こんな人間離れした容姿を持つ人物が、正に意表を突く冗談を仕掛けて来るとは、まだ誰も知らなかったのだ。そして勝ち誇ったように喜々としている彼の様子から、からかわれている事実がありありと窺えた。拠って当麻はそれ以来、絶対に征士には隙を見せないと心に誓った。これが最初で最後の屈辱だ、と思った通りになったかは誰にも判らない。



 踊り場での立ち話を終えて、征士が部屋に向かってから随分経った頃、伸は漸く仕事を終えて部屋に現れた。時計は十二時を回っていた。普段ならそれで普通の状況だが、前途の通り、誰もがまだ本調子ではない今、午後十一時には明かりを消す部屋が多かった。
「あれ、まだ起きてたの」
 部屋に入るなり伸が言うと、征士は特に変わった様子もなく答えた。
「ああ…、いやもう寝るところだ」
 実のところ、伸が戻って来るのを待っていたのだが、待って何をするつもりでもなく、待つこと自体に余りメリットも感じていなかった。
 しかし先に眠ってはいけないような、脅迫的な意思が己の中に在るのを感じている。自分は何を期待しているのだろう、と征士は思う。始まりのダイナミズム、終わりのカタルシス、流れを変える膨大なエネルギーを待ち望むかのようだ。
 すると普段通りの静かな歩みで、伸はベッドの方へと歩きながら、
「君は聞いた?、当麻がさ、向こうの部屋の方が都合がいいんだって。どういうことさ」
 征士に問うように話した。それに対する答は、明確なものを提供できる征士だ。
「聞いている。当麻は最近、夜中遅くまで起きていることが多いからだ。私がそれで度々目を覚ますのを気にしていた。恐らく秀は、誰かが横で何をしていても、気にせず眠れるのだろう」
「あー、成程ね」
 伸も至極簡潔に納得したようだ。
「確かに秀は、一度眠ったら朝まで起きないからね。ベッドから落ちてもそのまま寝てるんだから」
 ただ、何も知らない伸を騙しているようで、征士は些か心が痛む思いだった。当麻が今頃になって、余計な気を回しさえしなければ、この後ろめたさを持て余すことはなかっただろう。けれど、その方が良かったかと己に問う度、正直な方へと流れる意識を見付けてしまう。
 蛇行を繰り返しながら、この河は変わらず海を目指して流れて行く。水の上に漂う笹舟の身では、雫の波紋程のささやかな抵抗に終わるしかないが、いつから、彼の前では小さく無力な自分を、強く意識するようになったのだろうか。
「…こんな時間まで何をしていたのだ。ナスティが何か言っていたようだが」
 寝巻きに着替えている伸を、視界の端に入れながら征士は問い掛けた。伸は薄笑いをするような口調でその旨を説明する。征士が何故か不満そうに話すのが可笑しかった。
「ん、遼はずっとここに居たみたいだけど、僕らは暫く来てなかったじゃないか。僕らが使ってた食器とか道具とか、棚の奥の方にしまってあってさ。フフ、何だか判らない物まで沢山出て来ちゃったから、分別したり洗ったりしてたんだ。ナスティひとりじゃ大変だろう」
 伸は笑っているが、やはり征士には面白い話には感じられなかった。
 長い付き合いの中でナスティは、誰にどんな頼み事をするのが良いか心得ている。例えば買い物に同行させるのは、食べ物を前にすると不平を言わない秀が適任だ。その習慣で伸に回って来るのは、誰もやりたがらない雑用か家事と相場が決まっていた。そして伸は、本心からでないにせよ、嫌な顔ひとつせずにそれを行うからだ。
「しかし…、無理に今日中にやらなくても良いではないか。明日にすれば良いのだ」
 別段ナスティが悪い訳ではないと解っている。彼女には彼女の考えあってのことだろう、と想像するのも容易いことだが、征士はついそんな、恨み言めいた文句を口にしてしまった。すると、
「いいんだよ、別に」
 布団に潜りながら、いつもの宥めるような調子で伸は言った。
「僕はそんなに草臥れてる訳じゃないからさ。…君達に比べたら、何か際立った特技も無いし、何でもやらなきゃしょうがないだろ。おさんどんでも何でもさ。一応年長だしね」
 そんな言葉は聞きたくない。
 と征士の中に谺した己の声。伸がしばしば自己卑下に流れる様子を、征士は最近になって酷く嫌がっていた。その理由は明白、どうしようもないと思える自分を認めてくれながら、伸は自分自身を否定するからだ。それでは自分は何なのだ、と征士は己の価値観をも信じられなくなるからだ。
 ただ心が音を立てて軋むような、切なさばかりを征士には与えていた。自ら「自分だけは疲れていない」と話したことにしても。
「そう言えばさあ…」
 部屋の照明から下がる紐に手を伸ばそうとして、伸が不意に声を発する。
「さっき当麻と何話してたの?」
 聞けばまた征士は言葉を詰まらせてしまった。折角忘れていたと言うのに。
「いや…。まあ、期待される程面白い話ではないのだ」
「何だよそれ?」
 伸は控え目ながら無邪気な笑い声を上げる。けれどその笑顔には、何処かぎこちない心の動きが見隠れしている。それを注意深く見ている征士の、その視線に気付いていたかどうかは判らないが、伸は更に話を続けた。
「全然知らなかったけど、君達はそう言う話をよくするの?。僕はここに居る時に、恋愛の話なんかしたことないなぁ」
「よくとは言えない、ある程度だ。他に大事なことがある場合が多いだろう」
 そしてそう答えた征士には、何の感慨も持ち得ない話題でもあった。最初に自らが話したように、一過性の華やぎなど記憶に残るものではない。征士が求めているのはそんな薄っぺらなものではない。しかし伸には、心を惹き付けるに充分な話題だったようだ。
「何かいいなぁ」
 と伸は呟いた。征士は思わぬ発言に目を丸くしていた。
「何が良いのだ?」
 伸の答えはこうだった。
「だってさぁ、戦いながら生活してるだけでも大変なのに、その他のことにも気が回ってるってことだろ?。余裕だねって意味」
「…そう言う訳でもないが…」
 誤解されているような、気持の悪い状態を征士は言い募ろうとしたが、
「羨ましいね、僕はいつも手一杯だったから」
 と先に一言伸が付け加えた。それに続ける会話はすぐに出ては来なかった。
 場合に拠っては厭味な発言かも知れない。全ての行いに神経を尖らせて、全霊を注いでここに暮らしていた者も居る中、何をやっていたのかと咎めるような言葉でもある。しかし伸の色の無い表情からは、そのような意図は殆ど受け取れなかった。
 そしてだから、征士は彼が何を話したがっているのか、少しだけ理解することができた。征士はこう続けた。
「もう戦うことばかり考えないで良いのだろう?」
「…うん、そうだね」
 案の定、伸の声は明るいトーンを取り戻して来た。
「もう考えなくていいんだ、鎧のことも、みんなが生きてるかどうかなんてことも。…これからはもっと楽しいことを考えよう」
 少々投げ槍にも聞こえたが、前向きな意思と受け取って構わなかった。
 だが、征士は素直に喜べない。誰も心から喜べないことは確かだった。それが彼等五人に共通する戸惑いなのだ。
 戦いと結束とが同一線上にあること。新しく始まる生活の為に、鎧に因って強く結び付いて来た仲間と切り離される、そんな想像をしたくはないが、結果的にそうなるかも知れないこと。もし誰かがそれをあっさり受け入れてしまったら、淋しい可能性を視野に入れない訳にもいかない。
 噛み合わないのだ。
 伸の不安を助けることと、全員の不安を取り除くことが相反していた。どうしたらそれを協調させられるのか判らない。
「今度ここで会う時には、恋人の話でもするよ」
 伸はそう言いながら目を閉じた。あまり続けたくもない会話だったが征士は問い掛けた。
「フーン、そんな人がいるとは初耳だ」
「いないよ、今は。それどころじゃなかったんだって、今話したじゃないか…」
 眠りに就く。
 本当に聞きたいことは何も聞けないまま。本当に話したいことは何も話せないまま。
 こんな情けなさを征士は感じたことがなかった。この停滞とも閉塞とも感じる、淀んだ流れの中に今は漂っているしかないのだ。己をいつも支えてくれた人を無闇に傷付けたくないと思う、そんな甘やかな感情を持ち始めたことで、返って身動きが取れなくなっている。
 当麻の指摘は外れていない。



 それは正に鎧だった。
 鎧が存在する以上は、私達には絶対的に課せられる使命がある。それを果たす為に集められた仲間、それを全うすることがまず第一でなければならなかった。
 当麻の言葉で言う「平和が戻った暁」に誰もが焦がれ、そこへ辿り着く事を願って止まなかったのは、誰もが重くのし掛かる責務から、解放されることを望んでいたからだった。その時こそ恐らく、戦士でなく人間として生きることができる、自由と希望の入口のように思えたからなのだ。
 しかし急ぐべきではなかった。
 私はある時まで、伸という人物を殆ど理解できていなかった。彼の優しさ、彼の行動原理、どれひとつ取っても己とはまるで異質な、符合しない人間像に感じられて仕方がなかった。それだから、己が何故伸に関心を持っているのか、その理由も判然とはしなかった。気に入らないのか、その逆なのか、杳として知れないまま時は過ぎて行った。理由なく見詰めている他、己にできることは何もなかった。
 結局、それは懸想でも嫌悪でもなかったのだ。己の中に在り続けた欲求の正体を知ることになって、初めて正しく己の姿を見ることができた時、漸くその答を得られた。私は解らなかったのではない、過っていたのだと。そして答を得ると同時に奈落へと、這い出せない深みへと落ちて行った。
 あの時から、私は変わってしまったのだ。
 初めて足を踏み入れた異国の空の下、最早一心同体と化した光輪は暴発した。その出来事は、ただ鎧の力を利用しようとした者の所為だと、言い切れないことも理解せざるを得なかった。
 何故ならあのからくりによって現れたのは、己の保身の為に戦う、己の為に力を奮う、己の為の正義、己の為の礼節、全てを自己に集約させようとするエゴイズムの亡者のような、己の一面だったからだ。全くの演出でなかったからこそ、私はそこに捕らえられてしまったに過ぎない。
 過去、己を高めようと努力して来た過程の中で、何が間違っていたのか知らない。子供の頃はただ純粋に力を、強さを求めていたと思う。迦雄須に出会ってからは、猛る気持を押さえることも覚えた。己の進むべき道を正しく歩いていると信じられていた。
 何よりもまず己を信じられた。どんな困難に直面しようと、必ず己は何かしらの結果を出せると疑わなかった。その驕りが、頑なな保身に繋がっているとも気付かなかった。そこで再び成長を止めてしまったことに、気付かなかったのだ。
 他者に価値を持たない魂は、操られるままに人を殺められる。こんなにも簡単に、鎧の邪悪な面に己が重なってしまうことに、今ですら辟易しながら日々を過ごしている。けれど、返り血に染まった光輪を目の当たりにさせて、己の禍々しい魂を露見させて、鎧戦士の正義をも打ち崩した私を、伸はそれまでと変わらずに見ていてくれた。
 醜態を晒すばかりで、己に立ち向かうことにも臆病になり、この場から逃げ出そうとした時でさえ、彼はずっと私を見ていてくれた。遠く離れて住んでいた筈ながら、何故か、何処にか、大切な時には彼の存在が感じられていた。
 そんな経過によって、知れたこともある。
 信の心とは、単純な信頼でも容認でもなく、言葉にするなら恐らく「諦め」なのだと。
 次々と巻き起こる戦いの場面に、誰が倒れようと、誰が破れようと、最も傷付くのは伸だった。何故なら彼は他人の為にしか戦わない、他人の為にしか戦いの意味を見出さないのだ。そしてその深い思い遣りは決して、彼自身に向けられることがない。いつも何も言わず、その時々に現れる結果ばかりを、結果としての哀切ばかりを見詰めていた。そうして全て胸の中に収めてしまって、信じ続けることで、裏切られる切なさを乗り越えて来たのだ。
 伸とはそうして存在しているのだと知った。その緑の瞳は常に哀切を拾い集める。そして誰もが傷付かないようにと、封じている。

 知ってしまったからには、彼にこれ以上の加重を負わせる真似はできなかった。
 持たざるものを求める意思とは裏腹に、己の欲求が解放されるのを恐れる気持も、常に脳裏に付き纏っている。己の内に在る傲慢で容赦のない魂が、どんな方向に手を下そうとするか解らない。自己に不信感を持ったままでは、何も思うようには立ち行かないだろう。ならば、ただ己の無力さを抱き締めているくらいで、見守ってくれる存在を失うよりずっとましだと思う。
 だから私は何もできないのだ。



つづく





コメント)原作基準シリーズでは初めて続き物の作品ですね。って、前後二回で終わると計算してたら、どうも四回になっちゃうみたい…(涙)。後の予定を考えると、今年一杯かかって輝煌帝シリーズを書くようです、トホホ。
でもそれだけ分厚い話、と思っていただければ〜。「輝煌帝伝説」に関する話は、過去から現在まで沢山バージョンがあって、それを総括した文章になってるので、きっと何かしら見所はあると思います〜。うーん、それにしても、前の「真夏の死」が明るい終わり方だったのに、急に乗りが暗ーくなってますね。すいません。でもそれが輝煌帝伝説だ(笑)。




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