浅草の征伸
悪徳なんかこわくない
#1
I don't afraid of immorality



 罪深き者は永らえよ。この世の悪は死することもない。



 夏の朝。
 夏に限らず朝は慌ただしいものだが、その日秀麗黄の朝は普段に増して慌ただしかった。
 日がな観光客で賑わう横浜中華街では、まだ関東以西は夏休み中のこともあり、秀家の者は皆、忙しい店の開店準備に朝四時から走り回っていた。先の戦いの為に暫く家を空けていた彼にも、容赦なく幾らかの分担が渡され、未だ残っている宿題に取り掛かるのも、最も混雑する昼時以降になりそうだった。
 昨日小田原から家に戻って来たばかりで、戦いのこと、仲間達のこと、様々な余韻に浸っていたい時でもあったが、彼に限ってそれは許されなかった。
 そんな中漸く朝八時頃に朝食を終え、小一時間程の休憩が与えられると、彼はすぐさま店の四階の自宅に駆け上がり、コードレス電話の受話器を取って、そのまま玄関にどっかと腰を下ろしていた。
 押した番号は県外、いちいち調べるまでもなく憶えている仲間の家。そう、昨日別れてから伸はどうしただろうと、早速秀は様子を窺うことにしたのだ。
 昨日のその時点からまだ二十四時間経っていないが、心配なものは心配だと、秀の意識は今も常に仲間へと向けられているようだ。
 電話口に女性の声がした。聞き慣れた伸の母親の声だと判った。
「おはようございますっ、秀麗黄です!、どーも」
 ところが、電話の主が彼だと判った瞬間から、受話器の向こうで母親の様子が微妙に変化していた。何かあったようだ、と秀の喋りは言葉尻を濁して行く。
「伸は、帰ってますよね…?」
『それが戻っていないの。昨日帰るって連絡があったのに、どうしたのかしら…』
 やっぱり…。
 そうなったか。と、秀はこの時間に連絡して正解だったことに、取り敢えず胸を撫で下ろすような気分だった。
 伸のその後の動向については、予想できないことではなかっただけに、何事も早ければ早い程、手後れになる率は少なくなると思う。何しろまだ休み中で動ける人間が殆どなのだ、いざとなったら全員総出で探しに出ても良い。
 いざとなったら。それが仲間ってもんだ!。と、秀の意気込みは何とも頼もしかった。
『…昨日の午前中以来連絡もなくて。秀君は、その後どうしたのか御存知かしら?』
「えーっと、俺が知ってるのは…」
 そして、伸は飛行機のチケットを持っていたこと、柳生邸を出る直前に家に電話をしていたこと、その後東京駅で食事をして解散するまで、五人がずっと一緒に居たこと、伸はタクシーで空港に向かうと言っていたこと、などを秀は話して聞かせた。自分で話していても、大した手掛かりにはならなそうだと思う。伸が何処へ行きそうかも予想は全く付かない。
 東京の街は広くて、伸が関心が向けそうな物も色々あるだろう。もし誘拐だの、事件に巻き込まれたと言うなら、見当も付かない所に居てもおかしくはない。
『そう…。もう少し連絡を待ってみるつもりだけど、明日になっても戻らなければ、警察に届けることを考えた方がいいかしらね』
 けれど自分などより余程不安気な母親の声を聞いて、秀は励ますように力強く返していた。
「いや、あっ、俺も他の仲間に聞いてみますっ!。何か分かったらすぐ連絡しますんで!」
『ありがとう…』
 無論、何かの確証があって力強く答えた訳でもなく、秀はその通話を切ると、続け様に別の所へ電話をかける他になかった。

 さてこの時間では恐らく、当麻はまだ起きていないだろうと、これまでの付き合いから秀にも容易に想像できる。今他に頼りになりそうな者は…、と考える間もなく秀の指は小田原を選んでいた。もしかすれば、伸が居る可能性が最も高いと思える場所だった。何かの事情で、或いは理由などなくても、そこに戻っていてくれたら安心なのだが…。
「何ですって?、伸が帰ってないの?」
 秀の話を聞くなり、ナスティは困惑した声色で問い返すばかりだった。柳生邸に戻ったとする仮説は儚く消えた。
「こっちにも全然連絡はないわよ、困ったわね…、伸には色々あったから、私も心配してなかった訳じゃないのに…」
『そーなんだよなー、まったく…』
 だからと言って、柳生邸に繋いでおく訳にもいかない。誰かが家まで送って行くのも妙だと思う。結局昨日のようなことになった訳だけれど。
「他のみんなには連絡した?」
『いやまだ伸の家に電話したばっかなんだ。当麻はまだ起きてねぇと思って、先にこっちにかけた』
 秀が事の経過をそう説明すると、途端、ナスティは秀にも劣らない様子で答えていた。
「じゃあ後のふたりには手分けして連絡してみましょ!。それでも事情が掴めなかったら、悪いけど当麻には早々に起きてもらうわ!」
 秀に輪を掛けて頼もしいナスティのお言葉。確かにそれが最も早い方法だと、納得した秀はすぐに賛同して続ける。
『だなっ!。じゃあ俺、今から十五分くらいの間遼に電話すっから、ナスティは十五分より後にうちに電話してくれ』
「分かったわ!」
 今更とも言えるかも知れないが、彼等の結束とチームワークは健在のようだ。

 ところで秀から電話を受けたナスティは、まさかこんなに早く電話が鳴るとは予想していなかった。彼等が巣立ちのようにここを出て行った後は、もうこれまでのように頻繁に連絡を取り合ったり、休みの度に顔を合わすことはないだろうと、淋しくも感じながら一夜を過ごした。
 そして起きてみればこれである。昨夜のたまらない静寂は何だったのかと思ってしまう。
 無論嬉しい知らせなどではないが、それでもまだ自分が彼等の一部であると知って、ナスティは俄然やる気になったようだった。電話台の引き出しから、メモを兼ねた電話帳を素早く探り当てると、早速仙台に電話をかけていた。
 しかしコール音を聞きながら、ナスティはふとあることに気付く。
 もう学校に行っちゃってるかしら…?。
 そう、昨日を解散日と決めた理由は、征士の通う高校が昨日既に始業式だった所為である。仙台の夏は意外と暑いと聞いているが、結局冬も長く厳しいので、夏期休暇は早く終わらざるを得ないようだ。なるべく皆に合わせたいと言う本人の希望で、征士は始業式を欠席して昨日までここに居たのだが。
『はいっ、伊達でございます…』
 電話に出たのはまたも母親らしき女性の声。ナスティはこれまで偶然に、征士以外の家族の声を聞いたことがなかった。しかし今度は、初めてその声を聞いたナスティの耳にも、確と判る程の激しい動揺が声色に現れていた。
「あ、初めまして、私、柳生ナスティと申しますが…」
『ああ!、柳生様でいらっしゃいますか?』
 どうしたのだろう?、自分の名前を聞いて妙に明るい声に変わった。と、ナスティは些か奇妙な感じを受け取ったが、すぐに続けられた言葉に仰天することになる。
『ああ良かった、ご連絡戴けて助かりました。それで、家の息子は今どちらに居りましょうか?』
「は、はい…??」
 ナスティには当然思い付きもしないことだが、こっちも行方不明だと言う意味だろう。
「あの…、もしかして、お宅に戻っていらっしゃらないのでしょうか?」
 となると、全てが言い出し難い話になってしまうが、情報を得る為には事情を明かすより仕方がない。ナスティの耳元には途端に意気銷沈した様子が、電話越しにありありと伝わって来ていた。
『ええ…、そうなんです、昨日から全く音沙汰無しで…。何か用があって帰れないにしても、必ず連絡を入れる子ですのに、もう今日から学校も始まっていますから、連絡がないのがとても心配で…。昨日そちらから出る時に、変わった様子がありましたでしょうか?、何かお判りの事情がございましたら、是非お知らせ願いたいのですが…』
 次々に言葉を列ねる母親の心境は、ナスティには充分判り切ったことだった。なので有りの侭の状況を説明し始める。
「はい、それが、私も今連絡を受けたばかりで、確かなことは判らないのですが、実は先にもうひとり、山口に住んでいる毛利くんと言う子が、やっぱり家に戻っていないそうなんです。それを尋ねたくてお電話したのですが」
『…ああ毛利、伸さんね』
 すると何故だか母親は、やや落ち着きを取り戻したようにこう言った。
『じゃあ…、何処かに一緒に居るんでしょうね。しばしば毛利さんからは連絡がありますから、何か約束していたのかも知れないわ。…どうして連絡して来ないのかは問題ですけど、それならこちらから毛利様に連絡を取ってみましょう』
 何故それで納得したのかは解らない。しかし実の親が確証を得ていそうな内容に、疑いを挟むのも申し訳なかった。ナスティは、
「そうですか…、分かりました。それじゃあ、こちらでも今連絡を取り合っていますから、何か判りましたらまたお知らせします」
 そう返すに留めて、とにかくこの怪情報を秀に伝えなければ、と意思を新たにするのだった。
『ええ、ええ、息子のことで度々御迷惑をお掛けして済みませんが、どうか宜しくお願いします…』
 征士の母は酷く恐縮した態度で話を終えた。
 だが、そう度々迷惑があっただろうかと、ナスティは今ひとつ腑に落ちない思いでいる。他の数人に比べれば、征士はむしろ大した世話の要らない存在だった。それが日本人の日本人的言い回しだと、外国育ちのナスティにはまだ理解が及ばないらしい。征士の家は殊に日本的伝統を重んじて暮らしている、その現れだと捉えられれば良かった訳だ。
 それより更に腑に落ちないのは、何故征士が一緒に失踪しているのか。彼の母親の言う通り伸が一緒に居るとしても、征士の方は連絡を入れて構わない筈だろう。双方が連絡できない状況だとしたら、それは危険に近いと言えるのではないか?。

「…フーン、そんなことになってたか」
『おい!、呑気に言ってる場合じゃないみたいだぞ、当麻!』
 午前九時過ぎ、ナスティからの情報も合わせて論議した結果を、まず遼から当麻に伝えることになった。事の主導者である秀は店の手伝いに駆り出されて、午後一時までは連絡が取れない状態になっていた。
『ナスティの話だと、連絡しないんじゃなくて、できないんじゃないかって言ってたんだぞ!。ふたり共名前のある家の子供だからって!』
 遼はナスティに伝えられた通り、その危機感も同様に当麻に伝えようとした。しかし起き抜けだから、と言う訳でもなく当麻は独自の思考で考えていた。
 彼にはそれだけの材料が無くはなかった。確かに金銭目当ての誘拐も有り得ないとは言わない。あの後の経過として、伸が何処かに行こうとするのを征士が止めたか何かで、後に事件に巻き込まれることはあるだろう。
 けれど、元々ふたりは東京に住んでいる者でもなく、簡単にその素性が知れるとは思えない。又仮にもつい先日まで、鎧戦士として苦難に立ち向かっていた面子だ。ふたり居ればそう簡単に誘拐なぞされるものか、とも思えた。
 そして更に言えば、あのふたりにはその他の事情もある。
 うまくいっちゃっただけなんじゃないのか?。と。
 考えつつ、勿論そんなことは遼には話さなかった。
「そうだな。あいつらは別に名前が知れてる訳じゃないし、事件に巻き込まれたとは考え難いが、連絡がないのは確かに妙だ」
 そう、その点だけは誰にも引っ掛かる話だった。伸は元よりマメに連絡を取る奴だし、征士は学校が始まっているのを差し引いても、無断で帰らないことがある奴とは思えない。と言うのが仲間達の共通の見解だった。
『だろう?、何かあったに違いないぜ!。伸の家では今日中に変化がなかったら、明日警察に連絡するって言ってるんだ。なぁ、俺達も心当りのある所を探した方がいいんじゃないのか?』
「うーん…」
 不確かな情報に対して随分面倒なことだ、と言う気持も当麻にはあった。しかし遼の真剣な訴えを無下にすることは、今も昔もなるべくしたくはない。当麻は暫し考えた挙げ句、
「ならばこっちも明日の朝まで待って、それから動くことにするんだな」
 と返事をする。まあ、今日中に何の手掛かりも出なければ、確かに心配な状況にもなろうと。
『ああ、分かった。じゃあナスティにそう伝えておく。後で秀からも電話があるかも知れないが、俺はいつでも出られるようにしとくからな!』
 遼は確と自分の意思を伝えて電話を終えた。そして当麻は、通話が切れた受話器を手に持ったまま、引き続き考え続けていた。
 これが事件だとすれば、心中か殺し合いしかないだろうな…。
 しかし、当麻並の知識が全てに行き渡っていたとしても、全員が納得できたかどうかは判らない。何故ならふたりに限って、自分の真の意思をあまり人には表さないからだ。
 極めて近しく、言葉以外を読める者にしか。

 それで結局、何処へ行ってしまったんだろう?。



 経済と娯楽の首都、東京。果たしてここで最も面白い場所は何処だろうか?。
 立ち並ぶ高級店を覗いて歩くことか?、最先端の流行を生み出す界隈を歩くことか?。それとも江戸の粋を感じに古い町並みを見に行くか、多く芸能人が出没すると言う大人の街に出てみるか、それとも地方では滅多に見られない舞台を観に?。ドームになった球場でスポーツの試合を観に?、或いは基本に戻って東京タワーの展望台にでも行ってみるか?。
 と、色々に迷ってはいたが、
「行ったことないから花やしき!」
 そう決めたのはやはり伸だった。
 尚、浅草花やしきについては、東京に住んでいる者にしても物珍しい場所なので、別段伸の趣味がおかしいと言うことはない。レトロな風情を残した小さな遊園地は、浅草と言う場所柄からも、充分楽しめる場所ではないかと思う。
「時間的にも丁度良いか」
 伸の提案に征士はそう答えていた。その時間とは、予約した宿泊所のチェックイン時間のことだった。
 彼等は昨日の夜からずっと街中で過ごしていたが、雨に濡れた衣服もほぼ乾いたところで、朝から営業する店を探してまず朝食を摂った。それで何とか規則的な生活ができたようなものだが、流石にずっとこのままでは居られないと考える。今日も昨日と同様に残暑が厳しいだろう、伸はとにかく風呂に入りたいと思っていた。
 拠って彼等は今晩泊まる所を決めて来たが、まだ昼前であり、暫く時間を潰さなければ部屋には入れなかったのだ。
「…でも、本当にいいの?」
 思い出すように言ったが、伸の疑問は尤もだ。何故なら今日から征士の学校は、早々に二学期が開始されると聞いている。その為に昨日で区切りを付けた筈だった。そして更に無断で不登校とは、凡そ彼らしくない行為だと思える。環境に対する配慮以前に、自己の名誉に傷が付くだろうと。
「私が良いと言ったら良いんだ」
 しかし征士には解っていた。もし何の条件もなく、自由にどちらかを選択できるとしたら、自分が帰るのと帰らないのと、伸はどちらを選んだだろう?。考えなくとも答は決まっているではないか。だから征士は、気を遣われる前にそう言い出したのだ。
「これまで休んだことはないから、日数が足りないこともない。特に重要な行事がある訳でもないし、そう考え過ぎることもないだろう」
 彼には最早そんなことより、ここに居られる事実の方が余程重要だった。学校など家に戻ればいつでも行けるが、昨日生まれたばかりの新しい状況には、又その場に居る彼等には、もっと多くの時間が必要だと思えた。もっと、確かな何かへと変わって行くまで。
 昨日、否、つい先程と言っても良い。彼等の間に長く横たわっていた見えない壁が、漸く存在を朧にさせて来たようなのだ。
 互いの感情と感情が奇妙に折り重なり、壁は互いを守る為に堅固に存在し続けて来たけれど、ある意味では歪んだ愛情の山積だとも言えたけれど、今はもうそれが感じられなくなって、何処となく無防備に、手持ち無沙汰に互いを晒しているような状態だった。
 だから今の落ち着かない心境のままで、伸の傍を離れたくないと征士は思った。
「じゃあ行こっか。ここからだと地下鉄がいいかな」
 そして伸も強く断り過ぎることなく、彼の意向を受け入れていた。

 ところでふたりが予約入れているのは、新宿の高層ビル群に程近いセンチュリーハイアットである。
 アーバンリゾートホテルとして人気のある場所だが、無論料金は他のホテルよりかなり高額だ。普通のツインルームで三万円台からとなっていて、更に今は繁忙期でもある。そこに事もあろうか、彼等はデラックスツインで三泊予約を取っていた。ほぼ夏休みを消化してしまう気なのだ。
 部屋の選択については、それしか空きが無かったと言うだけだが、それなら他のホテルにすれば良かったのでは?、と思われるだろう。新宿にはビジネスマン向けのものから、多くの宿泊施設が存在する筈だが、ここの最上階にある「スカイプール」の噂を聞いて、伸にはここでなければ意味がなかった。
『空に手が届きそうな、地上百二十メートルのリゾート』との唱い文句だった。
 しかし彼等にそんな手持ちがあるかと言えば、無い。征士などは帰りの切符を買うと、殆ど残金が残らなくなってしまう。勿論銀行に寄って引き出すことはできたが、その前に伸には、非常に便利な持ち合わせがあった。
 コインロッカーに預けた荷物を取りに出掛けると、元々持っていた鞄にしまってあったのは、滅多に使うことのないクレジットカードだ。但しファミリー会員用のもので、使える金額には一定の制限がある。まあ伸はまだ高校生の分際なので、それで充分と言えば充分だった。
 宿泊費と食事代、多少の行楽費用くらいは出る筈だろう。そして征士は今回については借り、としておくしかなさそうだった。
 そんな経過を経て、ふたりは夕方頃までにホテルに戻って来るよう、近場に遊びに出掛けたのだった。
 学生である限りは、遊びも必要不可欠な要素だと思う。だからそれ以上にやましい気持は持たない。何より『楽しい』と感じることが好きだった。それが彼等の良い面だとも言えるだろう。



 その日の午後になって、まず行動を起こしたのは秀だった。
 一時には解放されると思っていたが、店への客足が緩やかになるまで無心で手伝いを続ければ、時計の針はもう二時半を指していた。既に仲間全員に連絡は行き渡っている筈だろう。秀は早速当麻の意見を聞いてみようと、店の調理場から持ち出した胡麻団子の皿を横に、受話器を取って大阪へと電話をかけた。
「おう、俺だ。あれから何かあったか?」
 名前も何も言わず突然話し始めた秀だが、彼等の間ではいつものことだった。だから当麻も平然と答えるまでだった。
『いや、大した情報は出ていない。ナスティのところに征士の家から電話があったようだが、前もって約束があった訳じゃないとか、まあ、俺達には分かり切ったようなことを言ってたな』
 無論それについて秀はこう返すだろう。
「当ったり前じゃんか、元々俺と伸が約束して出掛けたんだぜ、伊豆の海へよぅ。そっから戦闘になっちまったんだぜ」
 ところが秀ははっきりそう言いながらも、やや口籠るように付け加えた。
「…でも分かんねぇか。その後の予定なんて聞いてねぇしな」
 おや、と思う。
 何故そこでトーンダウンするのかと、秀の理由を当麻はまだ察することができないでいる。
『ま、あいつらだけで話すこともあるだろ』
 何気ない一言を当麻が言うと、秀は何かに引っ掛かりを覚えるように話し始めた。
「うーん、そうって言うか、それなんだがなぁ…。伸と征士って、昔はそんなに話とかしなかったよなぁ?。最近だって、いつもあんま一緒に居る感じじゃなかったが、それがそうでもないらしいんだよな…」
『そうでもないって何だよ?』
 秀は何かに気付いているらしい、と当麻は一瞬眉を顰めたが、それは自分を考えても解る話だとすぐに覚った。自分は長く征士と同室で過ごしたが、秀はただ同室である以上に、伸とは仲が良かったのを知っている。彼に何か異変があったとして、秀が真っ先に気付いても何らおかしくはない。
「伸は何も言わねぇが、俺いつだったか電話かけたら伸が居なくて、お袋さんの話をたまたま聞いたらさ、最近よく電話があるから征士かと思った、って言われたんだよな。あれー、みんなで居る時はあんま話さないけど、普段は違うんだって初めて思ったぜ」
 そして秀の疑問は充分に、当麻には納得できる状況だと思えた。
「でも何か変なんだよなぁ?。いや、別に隠してるつもりじゃねぇのかも知れんが、居る場所によって話すことや態度が違うってことなのか?、うーんわかんねー」
 その理由は恐らく、それぞれに思うことはあっても、押さえているのが苦痛に感じる程の衝動があっても、与えられた義務を果たすことが第一に在る限りは、表立って何もできなかったからだ。殊に征士の様子を見て来てそう理解している当麻。
 或いは五人の結束こそ重要視される戦場で、余計と思えるものを無意識に避けて通るように。己に取ってどんなに相手が必要か、などと言うことは。
 けれどまあ、当麻にはそれを真面目に説明する義理もない。
『…恥ずかしいからだろう』
 と当麻は軽く一笑してみせた。
「ああ?、何がだよ?」
『人前で言えないってことは、何処かに後ろめたい気持があるってことさ』
 彼の言い分が正しいかどうかは、本人に聞かなければ判らないことだが、無論征士も伸もうんとは言わないだろう。何故ならそれは恋でもなく、憎悪でもなくて、何とも言いようのない未分化な感情と、戦う上での純粋な信頼でしかなかったのだ。長い間。
「おまえ何か知ってんのか?」
『まぁな』
「どーゆーことだよっ!?」
 ところでつい先だっても、秀の知らない所で、一部の者が知らない行動をしていた、と言う話があったばかりだ。またかよ、との思いに彼はムキになって、今度はどうあっても引かない態度を見せていた。が、
『んー、征士くんは余程伸くんが好きなんだろう』
「馬鹿かおめぇは」
 正直に答えたら、返って秀には聞く耳を持たれなかった。
『俺は嘘なんか言っていない!。だったら征士に聞いてみろ!』
 更に何となく呆れられているような、今何を言っても信用してもらえないような、気まずい雰囲気を当麻は既に覚っている。事実を打ち明けるには何よりタイミングが重要だと、改めて思うがもう遅い。
「フーン。俺は少なくともおまえより伸の方が好きだしぃー、」
『何ィーーー!』
「大事な友達だから、困ってる時は助けてやりたいと思ってんのによっ!。アホなこと言うな!!」
 そして、秀が不愉快そうに電話を切ってしまった後で、当麻には漸く彼の心情が理解できたようだ。
 つまり最も仲の良い自分にではなく、征士だけに話していたことがあると言う、その現状がまだ理解できないでいるのだろう。ただ友達であり、ただ戦士としての仲間と言うだけなら、そんな不公平な状態に悩むことはない。不明瞭な事柄について知りたければ、その場で何でも問い質せば良いからだ。
 ただ誰にもそれができないような、内面的な交流をし続けていたふたりのことだ。
 これ以後は変わるかも知れない。秀も自然と理解するだろうと当麻は思う。時間は様々な大事小事を包含して流れて行く。過去は点在していたそれぞれの要素が、ある時ひとつに繋がることもあると知るだろう。時間の経過とはそう言うものだ。起こる物事には必ず伏線があるものだと。
 しかしそれより何が辛いかと言えば、厭味のように「伸の方が好きだ」と言われた上に、その伸と征士を探しに、わざわざ東京に戻ることになるかも知れない。
『畜生ー、死んじまえ!』
 当麻の心中は全く穏やかではなかった。



 まだ何も動いたと言う連絡は無い。けれど明日の朝、すぐに家を出られるように用意しておこう。何事も無く済んでくれれば良いのだが…。
 との思いを馳せながら、遼は陽が傾く前に自分の部屋に戻って来た。相も変わらず父親が不在の為、空家になっていた家の掃除を朝から始め、ナスティに持たされた食品で昼食を済ませ、その後買い出しに出て、今さっき戻って来たところだった。
 昨日ここに帰って一度解いた荷物を、こんなことならそのままにしておけば良かったと考えていた。帰りの時点で、伸の様子が気になっていたのは皆同じだった。
「何故俺は何もできなかったんだ!」
 と、いつものように自問自答を繰り返している。遼を余りひとりにしておかない方が良い、とこんな時には感じられなくもない。
 それにしても、一体何が起こっているんだ。
 あくまで彼は真面目に事態を受け止めていた。もういい加減お判りだろうが、一時的な行方知れずのお陰で、周囲の者だけが悲愴な騒ぎを続けているのだ。そんなこととは露にも思わない遼以下数名。このまま無駄足をすることになるのだろうか、と思われた午後四時頃だった。
 階下の部屋の電話が鳴った。
 誰かから連絡が入った、と遼は弾かれるように部屋を飛び出して、居間に置かれた電話の受話器を取るなり、怒鳴るように言葉を発していた。
「何か分かったのかっ!?」
 すると、
『あ、あの…、真田様のお宅でしょうか』
 それは親しい仲間ではなく女性の声だった。何処かで聞いたことがあるような。
「あっ!、すっ、すいません、勘違いですっ」
『フフフッ、あなたが遼君でしょうか?』
「え、そうですが…?」
 そしてそれは、遼が電話を待っていた相手ではなかったが、正に求めていた答を伝えてくれるものだった。
『私、伸の母です。以前一度お会いしましたね?』
「えっ、ああ、そうか。いや、その時はどうもありがとうございました」
 言われて遼は当時のことを思い出していた。仲間達が伸の家に集まったことがあったと。何しろ全員が泊まってもまだ余裕のある広い家の他に、普段家族が住んでいる新しい家は別に在る。団体で押し掛けるのに気兼ねない条件があるので、また来ような、と言ってそのままになっていたけれど。
『…今電話帳を調べて、伸のお友達の名前の頭から電話をかけているの。今さっき、伸はまだ東京に居るらしいことが分かったものだから』
 伸の母親は、遼が思っていたより穏やかな口調でそう話した。
「東京に!…ですか」
『ええ、新宿のホテルに泊まろうとしているらしいの。さっきクレジット会社から連絡があって、カードを使ったのが未就労者だから、お宅の息子さんかどうか確認してほしい、と言う内容だったのよ。まだ本人とは連絡が取れないんだけど、ホテルのフロントの方が話した特徴から多分伸だと思うのよ』
 そこまでを聞いて、幾ら遼が世間知らずとは言え、伸の気持が少しだけ解るような気がした。
 彼は雲隠れしたい訳ではないのだと。それなら居場所が知れてしまうカードなど使う筈がない。何か理由があって連絡をして来ないのだろう。
「そうかー!、見付かって良かった…!。あ、でもまだ確認できてないんですか…?」
 一時安堵の息を漏らした遼だったが、事件に巻き込まれたとする仮説は、それだけではまだ是とも否とも言えなかった。もし誰かに脅されてそうしたのだったら?。
『そうね、暫くしたらまたホテルの方に電話してみるつもりだから。何だか、予約を取った時はまだ部屋に入れない時間で、何処かに出掛けたようだってお話なのよ。まだ戻っていないのね。それから、征士君も一緒に居るらしいわ』
「ああ、そうなんですか!」
『ええ、フロントの方のお話ですけどね、彼は特徴のある子だから、よく憶えていらしたわ。だから間違いないと私も思ったのよ』
 成程、と思わず頷いてしまうようだった。
「確かに征士なら一度見たら忘れないかも…」
『フフフフ』
 目立ち過ぎると言う点では、人には嫌味な印象を与えることもままあるが、こんな場面では安心だと知ったようなものだ。結果的にこの捜索劇の役に立ったのだから、征士がそこに残っていて良かったのだと、遼は素直に事実を喜んでいる。
「そうか…、理由は聞かなきゃ分からないが、取り敢えず安心しました、俺も」
 全く何の飾り気も、曇りも無く遼はそう答えられていた。
「あ、それじゃあ俺みんなに伝えますから!。わざわざありがとうございました」
『いいえ、こちらこそどうもありがとう…』

 電話を終えて、遼は酷く晴れ晴れとした気分になっていた。
 起こるひとつの懸案を結局は、仲間の内できちんと解決している様を知ったのだ。改めて仲間達の素晴しさを信じられたようだ。無論彼には、征士と伸には特別な事情があることも、当麻が酷い目に遭ったことも知りようがないが、物事を常に真直ぐに、真面目に捉えられる人間はそれだけ果報者だと言う、生きた証拠なのかも知れない。
 その後、遼は秀と当麻に連絡を取り、秀からナスティへと話は伝わったようだ。
 一時は誰もが、明日の朝一にまず連絡を取り合って、都内の何処かへ集合することまで考えていた。もしそうなっても、それはそれで楽しい余興だったかも知れないが、まあ、誰もが心配する最悪の事態にならなければ、それで満足だった。後は要らぬ心配をさせたふたりに、後で文句を言ってやればいいことだ。
 こうしてほんの数時間の内の、悲喜こもごもな事態は終息に向かった。



「あー…、生き返ったよ」
 立ち昇る湯気と共にバスルームから出て来た伸は、やっと念願が叶って御満悦の表情だった。
 今日も日中は厳しい残暑だった。暑いだけならまだしも、このきれいとは言えない東京の空から、あらゆる塵と共に落ちて来た雨に濡れたままで居た、先程までの状態は心象的に気持の悪いものだった。もし今後東京に長く住むようなら、そんな感覚は忘れてしまうだろうが。
「…ドライヤーあったか?」
「あった。君が入ってる間に僕が使う…」
 と、部屋の備品について話しているところへ、不意に電話が鳴って、伸は不審に思いながらもその方へと歩み寄る。レストランの予約を入れた憶えはない、何処かに忘れ物でもしただろうかと。
 そして受話器を取ってみると、伸はあっと言う声を上げた。
「…お母さん、よく…ここにいるって分かったね」
『フフフ、あなたがカードを使ったからですよ。家に連絡がありました。…それで、どうしたの?』
 受話器から聞こえる母親の声が、怒る風でも、責めるつもりもない様子だったのは、伸には心苦しかった。確かにこれまで急な事情の時に、家に連絡をしなかったことはなかった。けれど何故か手が動かなかった。否、無理にそれを忘れようとさえしていた。
「うーん…」
 そして明確な理由も出て来ない。伸にはまだ自分が何を思って例外の行動をしたのか、確かな言葉では思い付かないのだ。けれどどうにか語彙を探して連ねてみる。
「何、って言っていいか分からない。けど、まだ帰りたくないなーと思って、うん」
 もしその言葉を受けたのが征士なら、それでは解らないと文句を言われることだろう。しかしそこは伸の母である。彼の未消化な状態に当たることは慣れているようだ。
『…そう…。まだお休み中だから、伸の自由にしていても怒りはしないけれど、心配するから、ちゃんと連絡はして頂戴』
「はい…ごめんなさい」
 反射的に謝っていたが、それが本心からそうしたのかどうかも、伸は自分で怪しいと思えていた。親に逆らいたい訳ではないが、己の中には今別の感情がある。これまで押さえられていた何かが表に現れて、自分を変えようと働きかけている。
 しかしひとつだけ、確かに悪いと認められる問題もあった。
『それに母さんだけじゃないのよ、お友達も心配して電話をくれたわ。あなたがここに居るようだと分かったら、本当に安心した様子で喜んでくれたのよ。あなたを心配してくれるお友達に、いい加減な態度は決して許しませんよ?』
 伸には予想しない事態だった。考えられたのは、昨日から今日の間に誰かが連絡をくれた可能性。
 そう言えば征士は、『皆伸の様子がおかしいと気付いていたようだ』と言っていただろう。誰か気の早い者が早速世話を焼いてくれたに違いない。そんな者を伸はひとりしか知らないが、ならばもっと注意を払うべきだったのかも知れない。
 今ばかりは、伸は一部に限ったことしか考えられないようだ。今更気付いても仕方がないけれど。
「ああ、うん…。みんなには後でよく謝っておくから。それと、学校が始まるまでには戻るよ」
 伸は結局殆どのことを語らずに、しかし言い訳もせずに、簡単に話を纏めて終わらせてしまうつもりのようだった。この場で現状を上手く説明できない上に、自分に対する仲間の気持を知れば、新たに自己嫌悪にも至っていた。
 暫くそっとしておいてほしいと、いつもの内省的な彼に戻っている。けれど母親にはまだもうひとつ、伝えねばならないことがあった。
『分かりました。…あと、一緒に征士君が居るんじゃないかしら』
「…居るけど」
 その名前を出されると、伸は一瞬ひやりとしてその場を振り返った。彼の姿が見えない代わりに、部屋中に篭った水音が低く聞こえている。伸の焦りが何の為なのかは、やはり今はまだ掴めないものだった。ただ征士のことを言われたくなかった。彼を咎めさせてはいけないと。
『向こうの御家族が、やっぱり連絡がないまま帰らないと言われて、とても心配されているのよ。あなたから電話をするように伝えてあげてね』
 それは勿論予想していたのだが。
「うん、伝えるよ」
 但し伝えたとして、実際連絡を取るかどうかが問題なのだ。それについては伸にも理由が解らない、ただ不思議に思い続けていることだ。伸ですら自分が何処か、何かが変わったと思えているように、征士も今まで通りの彼ではないような、不確定なことが多過ぎる現在。
 その成行きは測れない。ただ彼等の意が何処に向いているかだけだ。
『じゃあ。言いたかったのはそれだけだから。特に何でもないと言うないらいいわ、高校生だから、充分分別のある年だと母さんは思っています。…気を付けて帰ってらっしゃい』
「はい。それじゃ…」

 親の心労度合いとは比例しないだろう、至極簡潔で短い電話の遣り取り。
 無論母親に対して、普段通りまともに会話できなかったことも、伸は悪いと思っている。人を悲しませる発言をしたかった訳ではない。今度ばかりは悪いと言われることを覚悟したのに、拍子抜けだったのも確かだ。いつも家族は悪いとは言わない。いつも自分は誰にも悪いと言われない。
 それが尚自分を悪くしているのではないか、と思えた。伸はそんなことを考えていた。
 唯一、征士は悪いと言ってくれた。



つづく





コメント)あーあ。序盤の殆どギャグのようなシーンの為に、やっぱり1pに収まらなくなってしまった…。取り敢えず続きに進んで下さい…。



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