ホテル部屋の征伸
悪徳なんかこわくない
#2
I don't afraid of immorality



 部屋の窓ガラスには、暖色の混じり合う夕空が映っている。夜ともなればここから、新宿の夜景が一望に見下ろせるそうだ。夏は夜、と枕草子の下りにも、夏の夜の安らかさを語る一文があるが、春夏秋冬を問わず、暁の頃と黄昏時は別格の風情があるものだ。
 伸の右側が淡いオレンジ色に染まっている。窓に掛かったレースのカーテンが、ある程度の直射を遮ってはいるのだけれど。
「どうしたんだ?」
 先にすっかり髪を乾かしてしまった征士が問い掛けた。伸は電話の置かれたローボードの横で、膝を抱えるように座り込んでいるのだ。電話の後にそれなりの時間が経過して、タオルを被ったままの伸の髪も、水が滴る程ではなくなっていた。
「…どうしもしないよ」
 そして仮死から体を起こし、一言返すと同時に、再びスイッチが入ったように伸は動き出す。
「家から電話があったのだろう」
「あったよ」
 何事もないように返事をしながら、髪を拭いている彼の様子は、確かにそう不自然な感じは受け取れなかった。けれど征士は一応、
「何か言われたか?」
 と尋ねてみた。あくまで「一応」なので、心底その何かを思い測っていた訳ではない。そして伸もその口調の感じを読み取って、半ばふざけるように答えた。
「ククク、小学生じゃないんだよ僕は。別に何も言われてないよ、いつもそうだけど、母さんに怒られたことはないんだ」
 彼が笑って言えることなら構わないけれど。
「フーン、それは良いな」
 征士は単純に、しかし自分には最も縁遠いと思われる、伸を取り巻く環境について感想を述べた。
 家族のことを思う時、何故自分はこうも、己に対する圧力ばかりを感じるのだろう。それは保護と言う名に於ける拘束であり、価値観の洗脳であり、自分に取っての家は安らぎの場ではなかった。と、征士が思い始めた切っ掛けが、家から離れて過ごすようになった、正に鎧戦士としての始まりだった。他の生活、他の人々の在り方を知らなければ、それで当たり前だと思い込んだままだっただろう。
 そして他の世界を知ってしまえば、もう前に戻ることはできない。例え改めて家を守る価値や、己の責任を思い直すことがあろうと、他の生き方に焦がれ、求める気持が消えてなくなる訳ではない。
 いつの時も、征士は帰りたくなかったのかも知れない。
 その為の理由を探していただけで。
「…じゃない。家に連絡した方がいいよ。君ん家はうちみたいにはいかないだろ?。連絡するように言ってくれって、母さんに頼まれたんだ」
「しなくて良い」
 そして初めてその意思を言葉にした。
「何でさ?、何に意地を張ってるんだろ。どうかしたの?」
 伸はそう言いながら、責めていないと言う態度を示すように、ソファに座っていた征士の顔を何やら、可笑しそうな表情で覗き込む。
「では何と理由を付けるつもりだ?」
「…そうだな…、難しいけど…」
 穏やかに切り返した征士に、考えるつもりがあるのかないのか、絶えず笑みが零れ出す伸は、征士同様に全く帰る予定はないようだ。否、笑っているのは恐らく、この期に及んでふたりの意思が変わる訳がない、と信じられたからだろう。
「どうせ何を言おうと、向こうは帰れと言うに決まっている」
 もう余り、従えられたくはないと征士は言った。
「僕のせいだと言ってもいいよ?」
 それで許してくれるなら、己の立場が悪くなろうと構わないと伸は返す。
「私はただ帰りたくない、と分かってほしいだけだ」
「うん…」
 結論はそれだけのことだった。
 彼等は今同じものを見ている、常識的な行動を否定して、その他の同じ価値観を見ることができていた。長くこんな状況が訪れるよう願って、今を待ち焦がれていたのではなかったか。人に責められようと、取り巻くその他の物事は全て置いて、あなたとわたしであるだけのものが対話できたら、吊り合わないなどとは思わなかっただろうから。
 今が在ることが、とても嬉しかった。
「君が我侭を言うのは珍しいね」
 だから伸は極自然に笑っている。嬉しいと思うことを素直に表せない程、心が歪み切ってしまった訳ではない。殊に大切な人には。
「そうでもない」
「そうかな?」
 そして征士も、それは買い被りだと笑う。
「伸が知らないだけだ」
 もう己を己以上のものに見てほしいとも思わない、それが誤解を生むくらいなら、笑われている方がずっと良かった。そう、伸が笑っていられれば良いと、過去に征士は思っていたけれど、それは誰にも、どんな場合にも当て嵌まる幸福の条件だ。
 頭で考えなくとも、自然にそうなっていることだった。
「ハッハッ…、僕が知らない?」
 伸は陽気に笑い飛ばしながら、やおら征士の座る横に腰掛ける。
「僕が知らないことがあると思うのか?」
 芝居がかったような態度で、嗜めるように顔を近付けて尋ねた。何か面白いことを見付けたような顔をして、彼らしいと言えば彼らしい遊びだ。そうして征士がどう答えるかを楽しみに待っている。
 けれど、何処までが遊びで何処から遊びでないか、その境界は曖昧だった。
「…あるだろう、例えば、今、」
 すると征士は一言ずつ区切るように返して、酷くゆっくりとした動作で、但し迷いなくその手に伸の顔を捉える。彼の掌には微動だにしない頬の輪郭、空調に冷やされた皮膚の表面的な冷たさが、止まっている彼の様子によく似合っていた。
 伸は触れられていても何も言わず、何もしなかった。
「私は何を思っていると思う?」
 征士は問うが、止まっている伸に考え付くこととも思わなかった。ところが、
「…解るよ」
「・・・・・・・・」
 感受性の強い彼が、相手を察した上で、その押し付けがましい意思に動じないとは思わなかった。彼は微動だにせずに答えた。征士は己が最も我侭だと感じることを、強く訴えたつもりだったのだが。
 そして伸は酷く心を乱すことなく言った。
「何でだか知らない。いや、鎧のせいかも知れないけど、同じ夢を見たことがあっただろう、前に…」
 降りて行く、心の階層に、落ちて行った、心の深淵に。
 ひとりではなかった。何処までも降りて行った水の上には花が浮いていた。蓮の花が。それは永遠と刹那を繰り返し夢見る、人の願望なのだと。名を亡くし、正体を亡くしたとしても、他の誰かに繋がっていたいと言う願い。
「だから解る」
 最早憶えがないとは言はなかった。それは誰にでも、又己の中にも存在する欲求だと伸は解る。だから恥ずべきことではないと解る。
「…解っていて伸はここに居るのか?」
 そして、恐いと言われた眼を真直ぐに向けても、伸は逃がれようとはせずに受け取った。受け取って、そしてまた見詰め返す。互いの目に映るものはたったひとりだから、今は何を言っても気になりはしなかった。
「そうだよ」
 伸の返答は短く征士の唇に途切れた。

『そうだとも』
 湿った髪に分け入る、首の根元に絡み付く、君の指は何と繊細なのだろうと思う。剣を握る時とは明らかに違う意が、伸には刻々と感じられている。
 決して征士は、競い争う為だけに生まれて来た訳ではない。与えられる使役と責務の為に存在する訳でも、その為に個の力が与えられたのでもないと、切なくも思う。彼が発する信号を多くの者が取り違えている。だから征士は苦しんでいるのだと解る。
 君は本当はとても優しい。
 例え何処かに、荒れ狂うような激しい感情を秘めていても、それを暴力的な衝動には決して結び付けずに、君は常に安定を図って居られる。君が羨ましい。君は大した奴だ。
 だから僕は、大体のことは何でも許していた。
「…っ」
 深く塞ぎ合った長い接吻の後に、伸は息を吐きながら言った。
「でもさ…」
 続けられる言葉を一度、征士は視線を彼の目に戻して待つ。
「世が世なら、張り付けの上火炙りだよ、僕ら」
 言ってみれば、既に多くの罪を抱えながら、まだその上に積み重ねるつもりかと。
「…ハハハ、結構だ」
 征士の答はそれだけだった。それもまた許されるのだろう。
 そうなってしまったものをもう、どうにもできはしないと知っているから、伸にもそんな戯れ事が言えた。悪であり罪であるものは、常に人間の傍に在り続けている。むしろそれが無ければ生きられないのかも知れない、とも思う。
「そう、だね」
 何かの合図のように瞳を閉じた伸を、不要な理屈の無い、測れもしない空白のしとねを埋める為に、征士はそこから運び出して行った。
 
『こんな理由を親に話せる訳がない』
 羽織っていたバスローブの襟を少しずつずらして、鎖骨から肩へ、肩から躯の側面へと、這い回る手が指が意識を混濁させて行く。抗おうとする意識を愛しみへと浸食して行く。防御を失いつつあるこの身の、ひとつひとつを確かめるように触れられる、鳥肌の立つような甘美な恐怖が口許を震わせ、次第にそれは止まらなくなって行った。
 その震えさえ奪い取るように幾度も唇を重ね、喉の奥に戸惑う喘ぎをも探り出すように、口腔に蠢く舌が侵し行く動線を感じている。何もかも、ひとつも取り残しはしないと、聞こえる音と息使いは無言の征士の言葉だと思えた。僕はそれに答えたい。
『誰も僕を悪いと言わない』
 尊く戴いた心と体を、こんな風に明け渡してもいいのだと思う。
『僕はそんなに立派な人間じゃない。ただ人より逃げ道や誤魔化し方を知っているだけの、狡い人間だ』
 胸の上に、高鳴る心臓を撫でるように彷徨う、器用な利き手の動きに欲望を煽られ続けている。切なく熱を帯び主張する蕾を慰める、上辺を掠めるような優し過ぎる戯れに、自ら求めることと、遣る瀬ないもどかしさを募らせている。口唇が、喉元が、躯が、四肢が、内から来る震えを押さえられなくなる。
 征士は一時顔を上げて、行為に迷い漂う僕の顔を見た。
『君が僕を見ている、君が見ていてくれる内は、』
『僕はこんなに駄目な人間だって、苦しまないで居られるんだ…』
 再び彼の唇は肩口から渡り、耳から首筋へと張られた骨の形をなぞっていた。
 滑り降りて行く、また這い登って行く、その度にちらつく金色の髪が視界をぼやけさせていく。肋骨を数えるように下り、痙攣を始めた脇腹を辿り、静寂の動作を極めた征士の手が、既に滴る下肢の一部に隠しようのない高まりを見付けた。
 そしてそっと掬い上げるように触れられた途端に、意とは何の関連もなく、それは彼の掌に強く脈打ってみせた。背筋を登り来る欲求は、泣きたくなるような強力な支配で僕を縛り付ける。
「う…、あ…」
 支配されて行く、動物的な根源的なカルマに。
 何も考えられなくなって行った。
 真っ白な海に放り出される意識が、砕けて行く金の砂粒ばかりを見ていた。

 けれど僕は満足だった。



 悪とは対比的な名称であって、善を良い、悪を悪いとするのは子供の理屈でしかない。
 誰もそれを教えてはくれなかったけれど。



 それまで、己に必要でないものは何か、を征士は考えないようにして来た。それを考え始めると、生まれながらに与えられた、何もかもが要らないもののように思えて来るからだ。
 否、それが無ければ、己が鎧と言う特殊な力を与えられ、同様の仲間達に出会うこともなかったのだから、考える順序が矛盾しているかも知れない。
 けれど時間は常に進んでいる。
 過去には重要な条件であったものが、今は己を制限する足枷へと変わったように思う。庭の木々を見よ、種子に必要な養分と、枝葉を伸ばした樹木に必要な養分が違うように、時と共に需要が変化することは、自然の中にさえ存在する理なのだろう。仕方のないことだ、と征士は諦めの表情で心に呟いていた。
 畳の上に相対する静かな戦慄。
「一体どう言う事だったのですか、話しなさい」
 血の気を引き、困惑に引き攣れる母親の顔があった。
「…話すことはありません。母上の好きなように処分を」
「そんな言い方はありません!、それでは何故連絡をしなかったのですか!。どれ程暇を費やして、方々に所在を聞いて回ったことか、私達がどれだけ心配していたか分かりませんか!」
 親が子供を思う気持は解らなくない。それが強制的なものでありさえしなければ、己は酷く恵まれて、幸福に生きる者のひとりだっただろう。
「他所様にも迷惑をかけて、学校にも嘘を吐かねばならない…、こんな恥をかいたのは初めてです」
 慎み深い伝統を守る意味も解らなくない。過去が無ければ現在も未来も無いと思えば、過去を伝えて行く義務が人にはあると、疑いなく言い換えられるだろう。
「まず正直に仰い!、それから考えます」
 母は強かった。それらのことの為に強くなったのかも知れない。その強靱な肱に守られ、曲がらない意思によって叩き込まれ、他の何を窺うことも殆ど許されずに、この家の後継者となる物体として、己は作り上げられて来たのだろうが。
「私にも言いたくないことはあるのです!」
「・・・・・・・・」
 征士が頑なに歯向かうのを誰も、この家では見たことがなかった。
 頑なにもなろう、征士には今家に対してよりも、誠実でありたい他の存在があるからだ。もう使命だの、正義だのと言う繋がりからも離れて、それは漸くひとりの人間として選択できたことだ。そして彼の世界が変われば、その価値観も変わってしまうだろう。それは仕方のないことだ。
 長くずっと、我慢を強いられても大人しく耐えて来た幼年時代。しかし彼にも今頃になって、遅い反抗期がやって来たようだった。

 言葉も無く斜向かいに座った親子を囲む、シンと静まり返った和室の砂壁は白々として、壊れてしまった、見えないものの破片を吸い集めているようだった。
 ふとその向こうに足音が聞えた。些か日焼けした襖を短く滑らせて、緑茶の茶碗を盆に乗せた彼の姉君が顔を出した。彼女はふと、母親の足元に無造作に置かれた紙片を見付け、手に取ってその内容を具に確かめる。
「あっ!、何なのよこれ、四十七万ですってよ。ちょっとぉ、何処を豪遊して来た訳〜?」
 征士の姉は過去から男勝りに気が強く、態度もがさつで横柄だと評判だったが、この場にまるでそぐわない俗な物言いには、
「お黙りなさい!」
 と母の一喝が飛んだ。この家では誰もが母には逆らえない、と言うところを表すように、彼女は途端に大人しく口を噤んでしまう。けれど征士は穏やかに一言、
「出世払いですよ」
 と双方に答えた。すると耳打ちするような小声になって、彼の姉はこう返した。
「ねえねえ、あんたの友達ってもしかしてお金持ちじゃないのー?。私に紹介してよ」
『…死んでも嫌だな』

 死んだ後に何かを決定することはできないから、後悔する生き方だけはしてはならない。
 しかし後悔しない為に罪を犯しても良いのだろうか?。

 征士の問いは、今は離れている彼の人へと只管に向かって、遠く流れて行った。









コメント)前半は妙に明るいペースでしたが、後半はそうでもなかったか。
半分は征伸と言うか、その周りがバタバタする様を書きたかったんですが、だから「人騒がせなやつら」襲名と言う話です(笑)。周りで騒ぎが起きてても、何ら気にならないマイペース…というのは征士の十八番だけど(苦笑)、それを説明するのにこんなに文章量が必要とは思わなんだ。頭で考えた時点ではコメディだし、もっと簡潔にまとまると思ってたんだけど。
それから後半についてはまあ、ここで言いたいことはないです。ただふたりの意識が通じたからこれで終わり、じゃなくて、これからまた色々に展開して行くので、今後も読んでくれると嬉しいです〜。
それにしても、「中学生日記」のシリーズでも、いつも最後まで救われないのは当麻って気がしますねぇ…。当秀は征伸に比べると、進みが非常にゆっくりなので、まだこの時点では一方的な当麻の片思いなのかも知れないなあ…。




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