涙
悪夢の実験室
#4
The rough times



 思惑を大きく逸脱し、訳の判らない当麻に順序通り征士は話して行った。
「私はまず二十年後に行った」
 すると、その最初の言葉にもう当麻は目を見張っていた。
「何だ??、装置は計算通り作動したんじゃないか。じゃあ何で十三年後に…」
 彼はてっきり、装置の時間計算が不正確なせいで、征士が十三年後に到着したと思っていたようだ。だが事実は予定通り二十年後に到着している。実験が成功したことを征士の口から聞けたのは、何より喜ばしいことだったが。
 ただ、彼の難しい表情から察するに、その先の話はあまり良い内容ではなさそうだと、当麻も感じざるを得なかった。彼は慎重に言葉を選ぶような仕種を見せている。それだけ話し難い何かがあるのだろうと、想像に難くない現場の様子。そして、征士は真直ぐに当麻を見上げると言った。
「四十才の当麻は、とても苦悩し傷付いていた」
「えっ?、何でだよ?」
 その内容にすぐ反応したのはまたも秀だったが、まあ誰にしても、声に出さないだけで同じことを思っただろう。未曾有の発明が正に成功したと知って、二十年後の当麻は喜ばなかったのだろうか?、と言う疑問が、当麻にも秀にも、モニタールームからやって来た遼にも、酷く謎めいて広がって行く。その答を征士は、彼等の為に包み隠さず伝えた。
「私を二十年後に送ったことが、私の家の二十年の苦しみを見ることになったからだ」
「…!」
 途端に当麻の顔色が曇る。他のふたりはまだピンと来ない様子だったが、当麻だけは何らかの可能性に気付いているようだった。なので征士はこう続けた。
「そう、理論的に判っていた筈だ、当麻。私が二十年間行方不明になれば、必ず悲しむ人が出ることを。ただこのタイムマシンの成功に、半信半疑だったからこんなことになった」
 そして「征士の言う通りだ」と、当麻は認めるように息を飲んだ。
 何故ならこれまで、思い付くまま様々な装置や薬品を作っては、幾つかの成功と多くの失敗を重ねて来た。失敗は発明の元と言うように、多くの失敗を繰り返さなければ成功には到れない。故に実験のひとつひとつにそれ程深い思い入れはなかった。今度のことも、もし成功すればラッキーと言う程度の考えだった。
 だから実験台となる人間の、跳躍中の変化等には特に配慮をしていなかった。否、寧ろそこには目を瞑り、実験を優先したのが真実だった。人間を二十年先に飛ばせば、その間その人は消えてしまうことになる。それを判っていたからこそ五分で戻るよう設定し、同じ実験室だけで事が済むようにしたつもりだったが…
 まさか征士だけでなく、自分にその酬いがあるとは思わなかった。未来の自分はこれをあくまで実験だと、割り切って考えるだろうと当麻は思っていた。だが実際その時間を過ごした自分には、今の自分とは違う気持があることを彼は知った。だから雑誌を持たせてくれなかったのかも知れない、とも思った。
 そんな風に、少しずつ状況への理解を深めて行く当麻に、征士は続けて大事な伝言を伝える。
「ここでは五分間でも、未来の世界の人々は二十年生き続けている。二十年もの長い間には何が起こるかわからない。安易な実験は止めるように伝えてくれ、と言われたよ」
 十年、二十年と軽々しく決めるものではない。それは己の身に跳ね返って来るとの警告。
「未来の当麻に言われたのか?」
 と、秀が尋ねると征士は無言で頷いた。その物静かな態度を見ると、これが紛れもない実験結果だと、当麻は確信が持てるようだった。恐らく征士は未来の自分の気持を代弁していると、彼にも解ったからだ。
 考えてみれば征士は、友人と呼べる数少ない存在のひとりだ。彼が二十年消えている世界は、自分に取っても損失の大きいものになるだろう。この先自分の身の回りに、そんな大した事は起こらないと思っていたが、自ら征士を消しておいて、のうのうと二十年を過ごせる筈はなかった。例えそれが仮の世界でも、そこに居た自分の心境は理解できなくない、と、今は当麻にも未来の悲しみが見えて来る。
 確かに、安易な判断で二十年飛ばせたのは失敗だったと、今は彼にも実感できていた。場合に拠って心理的苦痛を伴う事実は、これから考えなければならない課題だと思った。ただ、こうして失敗を失敗と伝えてくれただけ、実験の意味はあったと言えるだろう。気分は沈んだが、結果は前向きに考えることもできた。
 あともうひとつの問題を解決できさえすれば。
 ある程度頭の中が整理されて来た当麻は、けれど変わらず浮かない様子で言った。
「それは解った。だがこの伸?、はどう言う訳なんだ」
 そこから先は、完全に彼のプランには含まれていない事だ。当麻に理由が解らないのは当然だった。そして征士にも非常に話し難い事だったが、打ち明けなければ話が先に進まない。彼は意を決してその訳を話した。
「伸は、十六で死ぬことになっていた」
 すると予想通り、否、それ以上に激昂して当麻は怒鳴った。
「ばっ、馬鹿野郎!、それで十三年後に行って助けたのかよ!?。おまえは何様のつもりだ!?、勝手に歴史を変えていいと思ってんのか!!」
 だが、そう怒られても征士の心は最早動じない。十三年後と同じことを言われれば、また同じことを返すだけだった。
「だから言っただろう!!、安易な実験の結果だと!。私の歴史は既に変わってしまった、伸が死ぬと判れば助けに行かない訳がない!。一度知ってしまったことは元には戻せないんだ!」
 その本気で憤る征士の様に、秀と遼はびくりと身を引いていた。それ程征士が未来の世界の中で、深く傷付いたことをふたりは知る。或いはタイムマシンの不条理に悩んだことを知る。また当麻も、実験に拠って受けた被害が大きかったからこそ、征士が救済に動いたことは想像ができた。そう、彼は好き好んで未来に行ったのではない、彼の行動を責めることはできないと当麻は思い知る。
 しかしそれでも、
「何てことを…!」
 彼はそう呟くしかなかった。お話の世界でしばしば見られる時間犯罪。個人の都合の良いように過去や未来を変えてしまうことは、常識的に考えてタブーの領域だ。けれど人間の意識に絶対はない。常識的な思考を失うような出来事に出会えば、誰でも征士のように行動するかも知れない。そして自分がその犯罪の片棒を担いだのだと、当麻は痛恨の思いを抱いた。
 単に未来の情報を得て、未来の問題に先手を打てるようになればいいと思っていた。タイムマシンを製作したのは、ただそれだけの平和的発想からだった。それがこんな取り返しのつかない事件になるとは、本当に、つい十分程前の自分の軽率さが悔やまれてならない。数々の失敗を経験して来た彼にも、今度の事は笑って済ませられる事態ではないと、もう返す言葉も無くなくってしまった。
 結局自分が撒いた種だと、当麻は考えれば考える程深みに嵌まって行った。最終的には自分が悪だと考える他になくなったからだ。
 その時ふと、助手であり後輩の真田君がこんな疑問を口にする。
「伊達君は、何で彼が死んでしまうと知ったんだ?」
 その点については確かにまだ触れていない。ただ征士には、それもまた同じ話の繰り返しになると判っていた。繰り返すことで事の重要さが、彼等に充分伝われば良いのだが、どうかそうであるようにと願いながら征士は答えた。
「二十年後の当麻の悩み様が、尋常ではなかったからだ。彼が私に未来の事情を告解してくれたのは、自分への戒めのつもりだったのだろう。その当麻の気持が無ければ、私は何も知らないままだった」
 征士は話しながら思い出す、二十年後に着いた途端に彼は「済まない」と言ったことを。それが彼の、何より先に伝えたいことだったのだと、今は征士にも痛い程解る。それから後は、
「彼が教えてくれたことが事実かどうか、私は家に確かめに行った。そこで伸のことを知り、その時から七年前に送ってもらったんだ」
 と、征士は流れ通りに話した。すると改めて何もかも、自分が発端になっていると知った当麻が、
「何故…、俺はそんなことを許したんだ…!」
 苦しい息を吐き出すように言った。時間的につい先程まで明るく楽し気だった彼が、今や頭を抱え苦悩することとなった。二十年後の当麻も、そしてここに居る当麻も、今はほぼ変わらぬ様子で事態に悩んでいる。こんな結果になるのもタイムマシンの妙だと、征士は苦い思いで納得する。
 そして、不憫な当麻には優しい口調で返した。
「それだけお前の悲しみが深かったからだろう」
 それを聞いて当麻も思う、心を動かす程の悲しみに出会ったのは、運命の悪戯でもあると。当初の予定通り秀を未来に送っていたなら、こんな事にはならなかったかも知れない。偶然彼が怪我をしていて、偶然征士を実験台に選び、偶然征士の未来には不幸があったのだ。こんな成り行きは、当然計画して進めたことではなかった。
 だがそれも含めて己の運命だと、今は当麻も教訓的に受け入れ始めている。今は平和に暮らしているひとりひとりの人間が、明日どうなるかは誰にも判らない。どれ程慎重に人選しようと、予めその人の未来を知ることができない限り、同じ失敗を繰り返すかも知れない。タイムマシンとは、そんな予測不可能な装置であると理解する為の、今回の実験だったと当麻は噛み締めていた。
 だから、予測できない人物が未来からやって来た。ここに居てはいけない人間が来てしまった。後はこの事態の収拾をどう着けるか、出来る限り冷静に、理論的に動かなければならない。それが彼への代償だと思いながら、当麻はそこで初めてまじまじと伸を見た。
 征士とは似ても似つかぬ印象の、優し気な顔立ちが際立つ少年。当麻は昨年までに何度か、征士の子供だと言う赤ん坊を見ているが、こんな顔だっただろうか、或いはこんな風に成長するかと不思議な気持になる。未来を先取りして見てしまうと、こんな感覚を覚えるものかと彼は知った。実験はある意味失敗だったが、この対面は感動的なものだった。
 そうして伸を見ている当麻に気付くと、征士は自らその理由を話し始めた。
「伸が着いて来てしまったのは…、何と言うか事故だが」
 それについては秀が、酷く関心を寄せるように近付いて来て尋ねる。
「事故って?」
「いや…。私ひとりで戻るつもりが、装置に飛び込んで来てしまったのだ」
 秀はそう聞くと、その光景を想像し始めた。征士は二十年後から十三年後に移り、そこからは大人しくここに戻るつもりだった。伸と言う少年の命は助けたのだから、別段ここに連れて来る必要はなかった。つまり少年の方に動機があるのだと、特に頭の良くない彼にも結論できた。そして、
「そんなに征士と別れたくなかったのか?」
 と、彼らしい明るい調子で伸に話し掛ける。秀の態度は相手を懐柔するに相応しい、裏の無い人懐こさが感じられた。彼は下に兄弟が多いと聞くので、年の若い人物の扱いには慣れているのだろう。その対応が良かったのか、伸の固まった表情は少しばかり変化した。変化して、次には大粒の涙が頬を伝っていた。
「・・・・・・・・」
 声も無く泣いている彼を見ると、こちらまで悲しくなるようだった。
「何があったんだよ?、おい?」
 秀は改めて征士の方に向き直す。だが征士は、例え親切心から尋ねたのだとしても、この件については口を噤むしかなかった。今は誰にも話せない。何故ならこの時間の人間は、伸が本当は自分の子供ではないことを知らないからだ。その事実に拠って家族の情とは別に、独立した恋が生まれてしまった。この実験に於いて何が一番取り返しがつかないかと言えば、自分に取ってはその点だと征士は知っている。
 一度知ってしまったことは元に戻せない。一度知ってしまった感情は無に還せない。この先小さな伸をどう見て生きて行けば良いのか、征士の心は全く不安だらけだった。
 タイムマシンの安全性についてはあまり聞かなかったが、ともすれば頭だけが未来に送られてしまったり、足だけ残ってしまったりすることがあるかも知れない。そんな恐怖の惨劇にならずに済んだのは良かったが、目には見えない部分でこうして、治し難い怪我を負ってしまうこともある。その事実も本当は伝えなければならないが、話せない背景の存在に今は悩むしかない。
 伸が遺伝子の検査を受けるのは十二才の時だと聞いた。あと九年の時間を、自分はこの秘密とただならぬ思いを抱えて生きるのか、と思うと気が遠くなる。己の中だけに収めておかねばならない、未来の記憶を持ち続けるのは足枷でしかない。征士はタイムマシンが作り出した不遇の現状に、新たに憎しみが湧いて来るのを感じていた。
 何故私はこんなに心を掻き乱されなければならない。この五分の実験の為に、何故私はこんなに変えられなければならない、と。
 けれど征士の内なる思いなど知らず、見える状況に落ち着いて来た当麻は、徐々に元の元気を取り戻しつつあった。彼は未だサークルの中に居るふたりの周囲を回り、注意深く観察すると、共に身体的な異常は見られないことを確認した。勝手にやって来た伸の方はともかく、頼み込んで協力してもらった征士に何かあっては一大事だ、との意識は当麻にも流石にあったようだ。そして彼は、
「仕方がない…。もう終わった事は仕方がない。変えてしまった未来がどうなるか判らないが、とにかくおまえが戻って来て良かった」
 征士に向けてそう話した。自らの軽卒さと過失を認め、今は吹っ切れた穏やかさを見せている当麻。だが、続けて伸に対しては厳しい口調で言った。
「おまえは元の時間に帰るんだ」
 そう、それはどうあっても実行しなければならない事だ。未来ばかりでなく現在まで混乱させる訳にいかない。そんな事の為にタイムマシンを作ったのではない、と当麻も必死だった。けれどそんな一言で戻ってくれるなら、誰も頭を悩ますことはなかっただろう。予想通り伸は、改めて征士にしがみ着くと言った。
「嫌だ…!」
「嫌じゃない、同じ時間に同じ人間がふたり居ることはできないんだ!」
 理論的に説得しようとする当麻だったが、その後の伸の叫びに思わずはっとさせられる。
「僕は同じ人間じゃない!!」
 言い得て妙とはこのこと。生物学的には同じ人間でも、確かに主観的には全く違う人間とも言えるからだ。三才と十六才では思考の複雑さが遥かに違う。無論征士に対する思考も違って来るだろう。まして十三年会わなかった家族に対し、伸が幼い頃と変わらぬ感情で居る筈もない。彼の主張はある意味で正しいと、当麻には漸く事態の切なさが見えて来る。
「同じ人間じゃない…」
 と繰り返した伸が、幾ら望んでも手に入れられないものがある。それはこの二十才の征士と居ることなのだと、当麻は禁断の出会いを悲しんだ。タイムマシンがそれを作り出してしまったことを、悲しんだ。
 伸が何故そこまで、この征士に執着するのかは解らない。否、家族は十三年征士を探していただろうから、彼を見付けた時の気持は一入だっただろう。それがまたすぐ別れることになると知れば、引き止めたい気持が生じるのは理解できなくなかった。だが伸は、これがタイムマシン実験だと知った筈だ。征士が元の時間に戻れば、征士の居ない歴史は存在しなくなると、彼は解らないのだろうか?。
 或いは他に理由があるのだろうか?、或いは疑っているのだろうか?、と、当麻は俄に頭を悩めることとなる。しかしそんな、雲行きの怪しい実験室の様子を見て、
「少し、時間をくれないか」
 と征士が言った。彼は伸の為に、あわよくば己の為にも良い道筋はないものかと、先程からずっと考え続けている。全て思い通りにすることは無理でも、最低限に妥協できる答が見付かれば良いと思った。そうすれば伸も、無駄に意地を張り続けることはないだろう。
 その為にふたりだけで話したい。思わぬ事態を好転させたい、と言う征士の強い意思を感じ取ると、当麻は静かに頷いてその場を離れて行った。彼としては征士の説得に期待するしかなかった。
「この実験室から離れるなよ」
 と、少しばかり猶予を貰ったふたりは、実験室を囲む林にでも移動しようと、漸くサークルの外に出ることができた。

 当麻と遼、秀の三人はモニタールームに集まり、タイムマシンの動作の正常さを確認したり、数値的な実験結果を精査するなどしていた。誰の表情にも、実験前のような気楽な明るさは見られない。その気楽さが徒になったと、今は誰もが痛感する空気が流れていた。そしてその中で、
「苦い結果になっちゃいましたね、羽柴先輩」
 遼がモニターに映る数字を見詰めながら言った。丁度その横を通り掛かった征士は、伸が着いて来たことを話しているのだと思った。ところが、遼の口からは意外な言葉が続けられる。
「先輩が二十年苦しむ未来も残るかも知れませんよ」
 それはここに居る誰に取っても、最も遣る瀬ない未来予測だった。例え現在の自分が辿り着かない時間軸でも、不幸に陥った自分もまた生き続けると知れば、気分的に心地良いものではない。タイムマシンの成功に天国を味わう自分も居れば、地獄を味わう自分も居ると言う状況を、辛くとも、当麻は誠実に受け入れるしかなかった。何故なら自分が作り出した未来だから。
「どうしようもない…」
 と彼は呟くように答える。既に当麻は多くの事を諦めたようだった。いつの時代も新たな試みには、犠牲が付き物だと納得したのだろう。しかしそこに、けたたましい足音と共に征士が現れ怒鳴った。
「どう言うことだ!!」
 彼が納得できないのは当然だった。誰からもそんな話は聞かなかったからだ。
「当麻は!、いや四十才の当麻と三十二才の当麻は、この世界は消えて無くなると言ってたぞ!?。違うのか!?」
 険しい顔をして訴える征士の気持は、最早誰にも充分に解る。見たくない未来を消して安心したからこそ、彼は落ち着いた様子で戻って来たのだ。それが根底から覆されればどうか。実験に因って少なからず傷付いた彼には、隠し事をすべきでないと遼が口を開いた。
「それは願望に近いことだよ。そうなるかどうかは誰も正確には判らないんだ」
「そんな…!」
 途端、征士の心には絶望が戻って来る。苦悩に沈む四十才の当麻の姿、異常に老け込んだ母親の泣く姿、そして仏壇に置かれた伸の写真の、儚い笑顔が次々と浮かんで来て止められなくなる。そんな征士はもう、何も耳に入らなくなっていただろうが、遼はもう少し話を続けていた。
「少なくとも俺達が居る世界とは、関係なくなることは間違いない。だがタイムマシンが生み出したパラレルワールドは、残り続ける可能性もあるんだ」
 するとその最後に当麻が、
「この五分間が存在する限り、な」
 と、溜息混じりに付け加える。その場の思い付きで決めた、たったの五分間が魔の五分間へと変わった。征士はその悲しみを爆発させるように叫んでいた。
「じゃあ私がした事は何なのだ!?。私が行方不明で伸も死亡する未来が残るなら、何の意味もないじゃないか!!」
 後は、タイムマシンが作り出した不要な未来が、消えてくれる可能性を祈るだけだった。征士も伸も居ない未来と、伸だけは存在する未来、そして現在、それぞれがこの五分間を元に、分かれて進むそれぞれの現実となって、現在の我々を常に不安にさせるのは、誰に取っても堪え難いことだった。
 タイムマシンとはそんな装置だったのかと、見方が百八十度変わってしまう。もう既に実験を行うのが怖いと、恐れる気持さえ三人には生じていた。



 時は積み石のパズルのように、ひとつひとつの事象、ひとりひとりの小さな出来事が緻密に組まれ、永遠のピラミッドを形成しているものだ。その中のひとつの石が外れたからと言って、全体に大きな影響を及ぼしはしないだろう。征士ひとりが動いたからと言って、彼自身とその周囲に変化があるだけで、世界は何事も無かったように進み続けるだろう。
 私達に起こった悲劇は、長い時間の中ではほんの一瞬の瞬きでしかない。もし時の全貌を見る者が居るとしたら、拾い上げられることもない塵に等しい。しかしそれが私達の重要な分岐点であり、死ぬまで抱え続ける悲しみとなるかどうかの瀬戸際だ。愛する者と共に居たいと言う当たり前の願いが、既定の時の流れの中でどう解決できるか、まだ何も名案は浮かんでいなかったけれど。
 征士にはただ己の心だけは見えていた。こんな思いをするなら、未来の伸に出会わなければ良かったとは、全く思っていないことを。異常事態であろうが、偶然の産物だろうが、今の自分が彼に会う機会を与えられたのは、無上の贈り物だとも感じている。若い体に宿る柔軟で活発な感情が、君に出会えた感動を鮮やかにできて良かったと思う。だから、
「何の意味もなくはないか」
 と、征士は前に叫んだ言葉を訂正した。自分の消えている別の世界が、悲しみのまま続いてしまう可能性は別として、こうして十六才の伸と並んで存在できる時間が、僅かでも許されたのは意味があると思った。
 ふたりは実験室の外に出ると、その壁に寄り掛かって座った。彼等を隠すように伸びる木々の枝から、切りなく枯葉が落ちて行く様が見えた。木立を抜けて来る風は冷たく、夏用の半袖シャツを着た伸は寒そうに体を縮こめる。征士はそれを包むように、肩から手を回して抱きすくめた。
 落葉のカサコソと鳴る音、大学構内の様々な雑音、大学の外の車の音などが、控え目に響いて来るのをふたりは暫く聞いていた。密着している体から伝わる互いの体温で、確かに傍に存在していると判るのが嬉しかった。伝わる心臓の拍動で、確かに意識し合っていると判るのが切なかった。この恋はどうすれば成仏してくれるだろう。ふたりの心の中で様々な思いが錯綜する。
 その内伸は、
「僕、もっと早く生まれたかった。この世界で征士に会いたかった」
 と、今感じている正直な気持を語った。何故自分は征士の子供と言うことになって、伊達家に引き取られることになったのだろう。何故自分は征士を家族として見なきゃいけないんだろう。その始まりに対する不満も募るが、けれどもし伊達家に来ることがなかったら、一生会える機会も無かったかも知れないと言う、ジレンマにも伸は泣かされている。
 それはきっと、タイムマシンを駆使してもどうにもできないことだ。人が生まれ出る時期まで、タイムマシンで変更できる訳ではない。長く憧れていた征士に会えたのは良かった、どうにかして一緒に居られればいいと、必死の思いで着いて来てしまったが、結局タイムマシンは幸福を生み出す装置じゃない、と、伸は現状に失望してしまったようだ。
 結局自分の望みは叶わない。今の征士と一緒に居ることは叶わない。
「もう、僕は消えちゃってもいいよ」
 伸が淋し気に呟くことを、征士は堪え難い哀しみの中で聞いていた。
「そんなことを言うな…」
「だって、元の時間に戻っても征士は居ない。三才の僕には何も分からないから、征士は僕を小さい弟としか見てくれないだろ」
 折角命を取り留めても、この先伸の心が幸福で居られないなら、何の為に十三年後に行ったのかと征士は思う。無論会えないまま死んでしまうよりは、ほんの少しだけ幸せな時間を過ごせたと思う。だがその短い時間が自縛的な恋情を生んだ。私達は離れたくない。この気持は変えることができない。変えられないと判っているから、私達の未来には希望が見えないのだと思う。
 確かに言われた通り、このまま小さな伸を育てれば、伸はただ大きいお兄さんとしか思わなくなるだろう。
「僕は何処に行けばいいの…」
 伸の求めている征士は、彼の世界には存在しない。征士の求めている伸も、ここから続く未来には存在しない。今の彼等が平和に過ごせる場所は何処にも無い。伸はその事実を見詰めながら、それでも足掻きたい気持を胸に秘めている。何もできない無力な己を解っていても、この運命に抵抗したいと思っているようだ。征士はそんな、彼の言葉に乗せられた意思を受け取ると、背中に回していた手を強く引き寄せた。
 抱き締めて、唇を重ねた。
 そして思った。あり得ない私達の心が引き寄せ合ったように、既に世界の一部は変化している。ならば私達と共に、もう少し世界が変化すればいいのではないかと。
 タイムマシンにはまだ、その可能性は残されている。後は決断するかしないかの問題だ。
 征士の顔を離れた伸は、目を開くと途端に頬を赤くして顔を伏せた。熱を帯びた唇が恥ずかしそうに震えている。その純粋で初な様子を見ると、彼の中に在る柔らかな気持を守りたいと征士は思った。十三年離れていることで生まれた、自然に恋する気持を守りたいと思った。
 そして征士は、考え得る最善の未来を見据えながら言った。
「もう一度、未来で会おう、伸」
「…え…?」
 まるで考えもしなかった発言に、伸はやや遅れて顔を上げる。まだその意味もよく解らない。俄に戸惑いながら征士の顔を見ると、彼は穏やかに笑って伸を見ていた。
「そうだな、今度は伸の誕生日にしよう。十六才の誕生日は特別な日になるだろう」
 征士がそう続けると、伸ははっとするように地下鉄での会話を思い出す。それは征士が助けに来てくれた日、時間を越えて会いに来てくれた日のことだと。ただ、
「特別な日…」
 そう繰り返した伸には、征士の目論んでいることは見えて来ないようだった。否、知らなくていい。伸には自分と出会った喜びと悲しみ以外のことは、知らせなくていいと征士は思っている。だから今は伸の為だけの言葉に、全ての気持を込めて話した。
「そうだ。もう一度特別な日をやり直すんだ」
 何をどうしても、この十六才の伸は未来のあの時点に戻さなければならない。当麻の言う通り同じ人間が、同じ世界に存在することはできない。それでもまた君に会いたい、今度は出来る限り幸福な形で会いたいと思うなら、答はひとつしかなかった。
「またタイムマシンで会いに来てくれるの?」
 と、些か不安げに正解を返す伸は、今のところタイムマシンと言う装置に、何の光明も見出せずにいたが、征士は「それだけではない」と安心させるように言った。
「今度はその先も、ずっと一緒に居られるように当麻に頼もう」
 沈んでいた伸の表情が明らかに変わった。そう、今回のことは実験であり、必ず戻らなくてはならない義務があった。征士が戻らなければ実験結果が判らないからだ。故に彼はこの時代に戻るしかなかった。けれど、自らの意思で未来へ行くなら話は別だ。征士自身がそれで納得するなら、十三年を飛ばすリスクを受け入れるなら、もうここに戻る必要はない。
 それを征士は決断した。自分の為に決断してくれたのだと伸は知ると、
「…待ってるよ。本当にそうなるなら、僕はもう一度ずっと待ってるから!」
 彼は征士のシャツの袖を強く握り締めて言った。その瞳にはひとつだけ見付けられた、小さな希望の光が灯っていた。ただの我侭かも知れないと思っていたことを、征士が受け入れてくれた。それだけで伸の胸は張り裂けそうに踊っていた。
「もう一度十三年待ってるから」
 伸に取っても決して短い時間ではない筈だが、彼の嬉しそうな声を征士は確と受け止めた。
「ああ…」
 もう一度未来で、こうして君を抱き締めたいと思う。
 その為に敢えて十三年間を跳ぼうと思う。今度もまた失うものは出て来てしまう。あの小さな可愛い伸にはもう会えなくなることだ。今朝食卓で見た、お気に入りのカップで牛乳を飲む何気ない日常。口の周りを白くして無邪気に笑う伸の映像。それが最後かと思うと、そこにはどうしても未練が残るが、時間的順序を考えれば諦めるしかなかった。私を恋しがる伸の個性は、私が傍に居ては育たない。征士はそれを伸の口から聞いてしまったのだから。
 未来に着いたら、アルバムでも見て心を慰めるしかない。その間両親や他の家族にも堪えてもらうしかない。
 後ろ髪を引かれる思いはあるが、さらば現代と言おう。当麻の趣味的な実験に付き合うことで、こんな結果になるとは思いもしなかったが、征士は特に不幸だった訳ではない現在をかなぐり捨て、未来へ足を踏み出そうとしていた。

 実験室の中に戻って来たふたりに、
「話は着いたか?」
 と、早速当麻が声を掛ける。まだふたりが如何なる結論に達したか、知る由もない彼は、とにかく早く伸を戻そうと準備万端に整えていた。彼のタイムマシンはこの時点では、一度使う毎に充電が必要なようだったが、それももう既に完了し、後はサークルの中に入る人間を待つだけだった。
 しかし、当麻の問い掛けにふたりは答えなかった。征士は伸の手を取ると、無言のまま最奥の実験室へと進んで行った。その様子を、辛い別れを迫られたせいで怒っているのか、渋々別れを受け入れて落胆しているのかと、当麻は彼なりに想像したが、ふたりがどんな心境であろうと取り敢えず、困った状況が動きそうなことに喜ぶと、彼はふたりの後をいそいそと着いて行った。
 自ら作り出したタイムマシンが、これ以上悪事を働いてほしくない。これ以上時間的混乱を作り出してほしくない。居る筈のない人間を元の時間に戻し、それで一応の平和を取り戻したい。当麻の思いもそれなりに切実だった。
 けれどそんな彼の見る前で、予想とは違う光景が展開されて行く。ふたりはサークルの前に立ち止まると、一度見詰め合い何らかのコンタクトを取った。すると互いに満足そうな表情を浮かべ、握られていたそれぞれの手が離れる。そして、征士がひとり椅子に座った。
 当麻は何が起きているか判らず、狼狽しながらただ目を見張るばかりだ。言葉を失っている彼に、征士は酷く落ち着いた口調で言った。
「当麻、私を十三年後の三月十四日に送ってくれ」
 その信じ難い、衝撃的な申し出に当麻が反論しない筈もなかった。
「何のつもりだ…」
 実験の段階で既に問題を起こし、その顛末に自ら苦渋を舐めている征士が、まだタイムマシンに関わろうとするとは思わなかった。再び時間を跳ぼうとするとは思わなかった。それは恐らく、そこまで彼が追い詰められていると言う証拠だと、当麻は薄々気付き始めてもいる。
 続けて征士は、何故十三年後に行かなければならないのかを、至極簡潔に彼に伝えた。
「もうこれ切りだ」
「まさか…、戻って来ないつもりなのか!?」
「それが最善策だと思うからだ」
 まさか、とは言ったが、まさかあの征士がそんな考えを持つとは、今目の前にしても信じられない当麻だった。彼は実験の前に何と言っていた?。自分には大事な家族が居る、自分は人の親になったのだと、一刻も早く家に帰りたそうにしていたではないか、と。
 それが何故急にそこまで変わった。否、変えてしまったのは自分だと当麻は判っている。けれど征士の一部では変わらず、ひとりの人間を思い続けているからだと、この痛ましい状況を理解せざるを得なかった。
 そして征士はその通りのことを当麻に話す。
「そうしたら伸も戻ると言っている」
 交換条件なのか?、と一瞬面喰らった当麻だが、そんな意識は征士には無さそうだとすぐ思い直した。征士はただ伸の希望する未来の為に、己の十三年を棒に振ろうとしているだけだ。何故なら彼の態度は穏やかながら、敢えて今を諦めようとする憂いも見えていた。既に決断したとは言え、自然に成り立っていた環境を突然歪めることは、無論彼に大きな打撃を与えるだろう。何らかの多大な損を被ることとなるだろう。
 それでも、例え己に不利益が出ると判っていても、彼は十六才の伸と居る未来を選択したのだ、と思うと、当麻はただ一回だけのタイムマシン実験が、どれ程深刻な事件を引き起こしてしまったか、改めて身の縮まる思いに泣いた。
 彼は心の中で泣いていた。
「駄目だ…。そんな無茶なこと言わないでくれ!」
 しかしそこで征士は無情な一言を告げる。これを言うのは三回目だった。
「責任を取ると言ったよな」
 確かに言った、たった一時間ほど前の言動を忘れる訳がない。だが責任を取るとはこう言うことなのか?、こんな事をしなければならないのか?、と、納得したくない当麻は食い下がる。
「十三年跳んだら、それだけおまえの家族が悲しむんじゃないのか!?」
 そう、悲しむだろう。警察にも依頼して探そうとするだろう。毎日食卓に写真を立てて祈り続けるだろう。その過程を見て当麻も心苦しく思うだろう。けれど征士は、
「それでもだ」
 と今は迷いなく言った。何故なら既にその世界を知っている。十三年後ならまだ救いがあると判っているから、自分はそこへ行くのだと続けた。
「少なくとも伸が生きていれば、おまえも私の家族も、そこまでの絶望感には襲われずにいられるんだ。だからまだ手を打てる時間に行って、もう一度そこに居る当麻と話したいと思う」
 そして征士は、改めて真直ぐに当麻に向き合うと言った。
「タイムマシンが本当に望み通りの物だったのかを」
「・・・・・・・・」
 彼が何を言いたいのかは、最早当麻にも十二分に伝わっていた。単純に未来の情報を覗き見てみたい、と言うだけの発想が根本的な誤りだったのだと。タイムマシンと言う装置は、未来や過去に行けると言うだけではない。時間に附随する様々な問題が生じ易い、不安定な発明品であることに気付かなかった。偶然成功してしまったことで、漸くそれを知ることになるとは酷い現実だ、と思う。
 結局未来で起こった事件はどうとも繕えない。パラレルワールドで苦しむ人々にも、何の救済もできない。自分は神の力の一部を作り出しただけで神ではない。より自在に時を操れる理論が無ければ、手を出してはいけない分野だったのだと当麻は、今はただ深い後悔を噛み締めていた。
 だが後悔するばかりでは、このまたと無い機会を未来に生かすこともできないだろう。それでは残念過ぎると、征士は押し黙っている当麻にこう言った。
「私が到着するまでに、どうしたら仮の世界に居る人々を救えるか、考えておいてほしい」
 征士が到着する十三年後。その時自分は何を考え、何をしているだろうと当麻は思う。もう一度征士が未来へ跳べば、彼が会って来たと言う三十二才の自分も別人になる。今度は征士が自らやって来たと判っているからだ。その上で、自分は征士の希望に応えられるだろうか。タイムマシンに因って生まれた悲痛な未来を、消し去ることができるだろうか。当麻の頭はまだ不安に支配されたままだったが、
「本当にそれでいいのか…?」
 と尋ねると、征士はそんな彼を宥めるように笑って返した。
「私の歴史は既に変わってしまったのだ。もう元の自分と同じようには生きられない」
 つまり、どの道ここには居られないと彼は言うのだろう。そうさせてしまったのは自分だが、その征士のささやかな気遣いに当麻の目頭が熱くなる。何故なら自分も、この優しい友人を十三年失うことになるからだ。こんなことになるなら、もっとよく彼の忠告を聞いておけば良かったと、当麻は高校時代からの様々な場面を思い出していた。征士はいつも「程々にしておけよ」と言っていたのに。
 けれど、だからこそ征士の意思を尊重しなくてはならない。彼が自分を信用してくれるからこそ、信用で返さなければならなかった。
 もうなるようにしかならないと、事態を把握した当麻は言った。
「十三年後も、友達で居てくれるか?」
 それに征士は明るい声で答えた。
「ああ。待っていてくれ」
 ふたりの間の変わらぬ友情が確認されたことで、この別れが価値あるものとなって良かった。時間を越えようと越えまいと、人には幾多の出会いと別れがあるものだが、これ程思い出に残る別れも無いだろうと、当麻は思わず自嘲する。そして征士は最後に、彼への感謝の言葉も忘れなかった。
「おまえは伸を救ってくれた恩人だからな」
 言われてみれば、タイムマシンはその為に完成したのかも知れないと思った。それ以外に大した成果は残していないのだから、全く不思議な巡り合わせだと当麻はひとつ息を吐く。良い事が何も無かった訳じゃない、何もかも全て駄目だった訳じゃないと、甘んじて思うことにして、後は望まれるままの始末を着けようと、彼は漸く頭を切り替え動き出した。
 既にモニタールームでは遼が、次の跳躍の準備を整えて待っていた。今は秀もその横で大人しく、事態の成り行きを見守っていた。当麻は金属の柵のようなものを並べ直し、全体をチェックして合図を出すと、
「準備完了。全ての動作に異常なし。座標確認、十三年後の三月十四日同時刻」
 との連絡が入った。些か震える手で、ポケットに収めていたサングラスを掛けると、当麻は恐る恐るスイッチを手に取った。流石に以前のような高揚感は見られないな、と、征士はその様子を少し淋しく思う。当麻もまた以前の当麻ではなくなってしまったことが、如実に伝わって来た。
 これまでに積み重ねられて来た、身の回りの明るく微笑ましい記憶の数々。だがもう過去を懐かしむのは終りにしよう、と征士は視線を切り替える。柵の外には、十三年前に見た時と同じ位置に立つ伸が居る。ただ自分だけを追い掛けてここまでやって来た伸が、最後に残された希望を胸に待っている。その希望は自分のものでもあるのだと、今は心を共有できる幸福さえ見えて来た。私達は決して離れないと。
「また会おう、伸」
 征士が深い思いを込めて言うと、
「うん…!」
 伸は何とか作り笑いをして返した。何も不安が無いと言えば嘘になる。ただ後は、全ての人の良心を信じて未来に祈るだけだった。どうか誰の心も平穏で居られる未来があるように、と。



つづく





コメント)あともうちょっとなんだけど入り切らなかったので、とりあえず次にお進み下さい〜


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