帰って来た征士
悪夢の実験室
#5
The rough times



 堪えられない程の光が体を包む。閉じている瞼の皮膚を通して、強烈な光が眼球に入り込んで来るのが判る。同様に体の全てが透かされるように、光は形ある物を分解して何処かへ運んで行く。
 何処か、それは未来だ。十三年後の三月十四日だ。

 多少の変化はあるが、見慣れた町並みの中を征士は歩いていた。賑やかな商店街を抜け、住宅地の細い路地へと入ると、道路の脇には所々固められた雪の山が残っている。この夜はそれ程寒くはなかったが、少し前まで雪が降っていたことを征士は知る。
 そう、三月はまだそんな季節だ。
 あの伸に出会ったのは夏の朝だった。青々とした木々の葉を映したような、緑の瞳が瑞々しく輝いていた。あの時の彼はもう、あの日に帰って消えてしまっただろうか。違う時間軸に居る人間には、結局何をしてあげることもできないと、淋しい気持も心の隅に残ったが、これからもう一度あの夏に向けて歩き出すのだと、征士は己に言い聞かせながら家路を辿った。
 また会おう。四ヶ月先の君との約束を忘れない。ここに居る十六才を迎えたばかりの伸も、きっと自分のことを待っているだろうから。
 征士は家の前に着くと、普段通り何気なく門の木戸を開けた。既に暗くなった庭先に、暖かそうな部屋の明かりが照らしていた。昨日まではこうして家に帰ると、何処かから小さな伸が走り出て来て迎えてくれたが、さて今日はどうなっているだろう。
 そして、まるでいつもと変わらぬ調子で征士は引き戸を開けた。
「ただいま」
 奥の部屋からは、誰かの帰宅に気付いた家族がざわめくのが聞こえる。今日は父親も既に家に居るらしい。伸の誕生日だから早く帰ったのだろう。つまりもう誰も帰って来ない筈の家に、もうひとり誰かが戻ったと知れば、騒然となるのは当たり前だった。
 すると、玄関から続く廊下に最初に姿を現したのは、真新しい水色のセーターを着た伸だった。彼は玄関に当然のように立つ人物を見ると、俄には信じられない様子で目を見開いた。
 彼もまたすぐ、それが誰であるか判ったようだ。
「え…、…征士…だよね?」
 その様子はまるで、七月九日の再現のようだと征士は思った。
 だから私達はまたここから始められるだろうと、降りて来た確かな啓示が彼に安堵を齎す。出会い頭があまりにも鮮やかで、印象的だったからこそ忘れられなくなった。最初に見詰め合った時からお互いの目に、惹かれ合う何かを感じていた。そして今もまた同じ何かが、キリリと冷えた空気を伝って感じられた。ずっといつまでも君の傍に居たいと。
「あ…あ…!、あなた今まで何処に行っていたの!!」
 後から現れた母親は、変わらず威勢の良い調子でそう叫んでいた。想像通りこの時間では、まだ家族はそれなりの平和を保って暮らしている、と知ると、ここからはひとつ芝居を打たねばならない征士だった。
「…わからない」
「な、何を言ってるんですか!、自分が今まで何処に居たかわからないの!?」
「はい…」
 十三年前から時間を越えて来たことは、当麻とその仲間達との間で固く秘密にされている。まだ実験段階のタイムマシンについて、情報が漏れると色々厄介なことになるからだ。故に征士は、何も知らない振りを決め込むしかない。この先各方面から事情を聞かれることになろうが、知らぬ存ぜぬで通すしかなかった。まあそれは仕方ないと彼は承諾している。
 だが母親の方は、その一見惚けてしまったような征士を見て、相当にショックを受けたのだろう。今にも怒り出しそうにわなわなと顎を震わせると、
「何ですって…」
 言いながら後ろに倒れそうになっていた。慌てて伸と、後ろに居た姉が支えたので事無きを得たが、まあ、何より突然征士が帰って来たことに驚いた、と言うのが真実のようだった。言いたいことは積もる程あるだろうが、それはこれからの時間が解決してくれるだろう。家族の誰もがそう思っているからこそ、その後の空気は穏やかに流れて行った。
 取り敢えず部屋に下がった両親も姉も、それ以上は騒ぐことなく、皆一様にホッとした様子で征士を迎えてくれた。
「早く中に入りなさい」
 と、父親の呼ぶ声が聞こえた。すると、それまで奥に立っていた伸が傍までやって来て、素直に嬉しそうな顔を見せると言った。
「でも、僕の誕生日に帰って来てくれたんだね?」
 廊下の電灯の明かりが、彼の瞳に希望の星を輝かせている。その温かい未来の輝きを確と見詰めると、征士もまた嬉しそうに伸の髪に触れた。そして彼は言った。
「今日は特別な日だからな」
「特別な日…?」
 一瞬不思議そうな表情を見せた伸だが、征士が彼の背中に手を回し、軽く抱き締めるとすぐにはにかむ笑顔に変わった。また以前見せたように、すぐに頬や耳を赤らめていた。
 まだ何も知らない、幸福にときめくばかりのこの伸に、いつこの奇妙な思い出を話せるだろうと征士は思う。いつ「特別な日」の意味を話せるだろうと思う。それは私達が望んだことなのだと、いつか必ず伝えたい。身勝手な望みが叶う偶然が存在したことに、どれ程感謝しているか伝えたかった。
 彼は今、取り巻く愛の世界の中に戻って来た。そこで今一度自分の気持を確認すると、漸く安心して長く離れていた家に帰ることができた。否、彼に取っては普通に朝大学に行って、夜に戻っただけだったが…



 翌日から征士の身辺は酷く騒がしいものになった。
 この十三年の記憶も無く、年も取っていない彼は、UFOに攫われたんじゃないかとニュースになった。特殊な状況だったせいか、取り敢えず大学への復学も許された。周囲の学生は皆興味津々で彼を取り巻き、しかし可哀想な立場を気遣って親切にしてくれた。十三年の間に国の法律は所々変わっている。勉強し直さなければならない事態を、助けてくれようとする人々の気持は有難かった。
 そして大学と言えば、当麻はノーベル賞を貰えそうだろうか?。
 否、三十二才の彼は、征士が到着した翌日にタイムマシンを壊してしまった。
 少し話は戻るが、三月十四日の夕方、新たなメモに残された時間通りに征士は現れた。それを待ち構えていた当麻は、無論驚くこともなく、寧ろ悩みが解消されたようにすっきりした表情をしていた。何故なら、既にパラレルワールドの問題を解決していたからだ。
 征士が頼んでおいた課題を、彼は約束通り解決していた。そのからくりはこうだった。
 簡単に言えばパラレルワールドとは、一直線である元の時間の流れから、他の時間が斜めに伸びてしまうことだ。ある一地点に根を張る樹木が、少しずつ違う可能性へと枝を伸ばすことだ。タイムマシンと言う装置が無ければ、本来そんなことは起こりはしない。だが、征士の実験に五分の間を置いたことが、決定的な失策となっていた。
 前途の通り新たに生まれた枝は、根付く地面が無ければ存在できない。つまり元の時間で一秒たりとも経過しなければ、理論上パラレルワールドは生まれないのだ。二十才の当麻が何故五分の間を空けたのかは、単に実験の見た目を判り易くする為だった。ならばその五分を消滅させても何ら問題はない。それさえできれば解決するとある時当麻は結論した。
 五分間の時間差を無くす。しかし言うのは簡単だが容易なことではなかった。装置に組み込んだ時計はかなり精度の高いものだが、この場合一秒以下の誤差も完全に無くさなくてはならない。しかも征士の実験の直前にできる事でなくてはならない。何故ならタイムマシンが完成したのは、実験の日の前日だったからだ。
 タイムマシンが成立した時から約一日。その間にできることを当麻はずっと考えていた。そして十一年目に漸く纏まったアイディアを文書にしたため、彼は実験の前日の夜にそれを送った。どうかその指示に従ってくれるようにと、当時三十才の彼は祈る気持だった。五分が永遠の苦しみに変わるとなれば、昔の自分も注意深く時間差を作らぬようにしてくれる筈、と自分を信じるしかなかった。
 その結果、世界初のタイムマシン実験は、光の中征士がただ椅子に座っていると、設定した時間に急に伸が現れる形になった。まあそれでも成功したことは判るだろう。
 そうして過去が変わった。
 過去が変わったことに拠り、今の当麻の心境は随分と穏やかになった。痛い失敗に二十年苦しむ己と、同じく苦しむ友人の家族が生き続ける世界は無くなった。交通事故に遭う前に救出された、十六才の伸の世界も、彼の感じた不条理な悲しみと共に消え去った。タイムマシンが作り出した余計な未来に、切ない思いを向ける必要はなくなった。
 ただ、過去に連絡することが可能なら、最初から征士を実験台に使うな、と指示する方が効率的だった筈だ。征士がその点について問うと当麻は言った。
「おまえが経験した悲喜交々を、言葉ひとつで簡単に消してしまうのは、友人として失礼だろう?」
 征士はその返事に、当麻の人格的な信用を感じたようだが、実際は征士でない人間を使っても、今回以上の問題が起こる可能性が残るからだった。例えば今も健在である、高校の体育教師をしている秀を使えと指示しても、最初の実験が予定通り成功すれば、次には、その次には、別の人間を実験に使う機会が必ず出て来る。結局いつか必ず事件が起こることになると、当麻は自身の性格から危惧したようだった。
 ひとりひとりの人生を全て見通すことはできない。誰を使っても避けられない問題が、タイムマシンには存在すると知って、征士については敢えてそのままにしておくことにした。
 何より征士が望んだ、伸の命が失われない為にも。

 そして今、この世からタイムマシンと言うものは消えた。
 七年後に征士が到着することはなくなり、七月九日に征士が現れて仰天することもなくなった。もう二度とタイムマシンなど作るものか。これからは全ての人を幸福にする研究をしよう、と、三月十五日の当麻は心から思った。
 こんな悪夢はもう沢山だ。
 
 けれど征士は繰り返すだろう。七月九日は学校に行かないようにと。今は存在しない人々の様々な悪夢が、彼ひとりの中にまだ生き続けている。
 それがいつか、ただの夢と化す時まで、当麻は大事な友人を見守り続けるしかなかった。









コメント)あ〜、期限内に書き切れて本当に良かった。そんなに長くない話なのに、色々あってなかなか進まない時があって辛かった…
そうなった理由は、コメディベースなのにめっちゃ重い話になったことと、話の構造的に、同じ事を何度も書かなきゃならなかったことです。毎日同じ苦悩の世界を、何度も繰り返し考えなきゃならなくて、精神衛生上に悪い作品でした。まあそれがつまり、タイムマシンの問題そのものなんだろうけど。
しかし今となっては、何でこれをギャグタッチで書けると思ったのか、当初の自分の考えがよくわからないです(^ ^;。コメディと言ってもブラックコメディですね、これは。
ただ、征伸であり、征士と当麻の友情の話でもある、いや、どちらかと言うと征士と当麻の話である、と言うプロット通りには書けたと思うので、まあ頑張ってやり切れて良かったです。
次こそは明るいものを書こう…



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