十六才
悪夢の実験室
#2
The rough times



 四十才の当麻は、征士の問い掛けに答えぬまま柵の外へ出て行こうとしていた。
 表情も冴えないが、その足音にも何処か味気ない軽さを感じる。実験は成功したのに、これでノーベル賞だと喜んでいた筈なのに、今の彼は逆に失望したようでもあった。二十年結果を待つ間に、何か不測の事態でも起こったのだろうか?。どうにも気になる征士は、離れて行くその背中に向けてもう一度言った。
「済まないとは何なのだ?」
 すると、当麻は振り返りながら、
「まあ、コーヒーでも飲んで行けよ」
 征士には思わぬ言葉を掛けてくれた。雑誌を受け取って戻るだけだと聞けば、タイムマシンから降りることなく、元の時間にとんぼ返りするものだと征士は想像していた。五分後に戻ると言う短い実験なので、各行動も速やかに行われると思っていた。
 だがよく考えてみれば、未来の時間に居る間は急ぐ必要はないのだ。何故ならタイムマシンがある限り、いつでも出発した時間の五分後に戻れるからだ。それに気付くと征士は、当麻が自分に何かしら話してくれそうな雰囲気を察し、恐る恐る席を立ち上がった。足に力を入れる感覚、床を踏み締める感覚、それらがまともであることを確認すると、征士は椅子の置かれたサークルの外へ出て行った。
 当麻はこの最奥の実験室の、入口近くに置かれたカウンターに立ち止まっている。実験装置以外に特に何も無い、閑散とした空間に今は彼と征士しか居ない。実験を手伝っていた真田君や秀は、今はどうしているのだろうなどと考えながら、征士がカウンターに近付いて行くと、その壁に掛かったカレンダーの文字を見て、確かに今が二十年後だと知ることになる。まるで何かに化かされているようだ、と思った。
 次に視線を当麻の手元に移すと、そこには見たことのない奇妙な物体があった。その銀色のパイプから、香り高いコーヒーが注がれているのを見ると、これはコーヒーサーバーなんだな、と征士にも察しはついたが、二十年経つと家電も進化するものだと、変に感心してしまった。何やらとても面白いデザインだったので。
 そして、少しこの時間に好奇心も湧いて来た。
「あまり変わらない部屋だな」
 当麻のすぐ傍まで来ると、征士は取り敢えずそんな感想を口にした。するとその理由を、
「そうだろう?、今日この日まではできる限り変えないように、実験室の建て替えも拒否したほどだ」
 当麻はそう話した。建て替えの話が出ていたとするなら、内部の見た目からは判らないが、この実験室もある程度老朽化しているのだろう。だがそれを変えさせなかった彼は、その程度の発言権を持つくらいの地位には、なっていることが窺えた。二十年後もこの大学に居座る、と言った彼の言が嘘ではなかったことが、征士は途端に可笑しくなって笑う。けれどそんな征士の様子を見ても、当麻はまるで和めない様子だった。
 増々難しい顔をして、思い悩むように、コーヒーで満たされたカップを渡す彼は、見た目だけでなく明らかに昔の当麻とは違う。彼の二十年間に、何か言語に尽くし難い程の事件があったのだろうか、と、征士は相手の態度が些か心配にもなった。そして彼からは何も言い出さないので、
「でも、外の世界は変わっているのだろう?」
 と、征士は世間話的に続けた。尋ねられれば落ち着いた口調で当麻は答えた。
「大学の構内は大した変化はないさ」
 まあそれはそうかも知れない。引越しなどをしない限り、伝統ある大学は古い校舎をなるべく残そうとするものだ。内部は改装しても、外観の変化は二十年程度ではあまり見られないだろう。それについては征士も充分納得した。だが、今話してほしいのは大学の外の世界のことだった。
 はぐらかされた気がすると同時に、知ってほしくない事があるようだと征士は思った。無論過去の人間である自分が、本来知り得ぬ未来を知ってしまうのは良くない。ただ、それが今の当麻を苦しめているとしたら、その片鱗だけでも聞いてやりたいと、征士は親切心から思った。とにかくこれ程落ち込んでいる彼を、征士は見たことがなかったからだ。
 明るい希望であった筈が、タイムマシンとは魔の発明だったのか?。
 と、思ったその時、征士はふと閃きのまま口走った。
「私は…、私はこの二十年どうなっていたんだ?」
「・・・・・・・・」
 当麻は答えない。そして答えない様子を見て、そこに核心があるのではないかと征士は詰め寄った。
「何故黙っている」
 すると、まだ暫く黙ったままだったが、その後予想通りの言葉を当麻は聞かせる。
「それが申し訳ないところなんだ」
 彼は深い溜息と共に目を閉じた。それは余程こたえる出来事だったのだろうと、征士にもその心痛が伝わる仕種だった。出会い頭に「ありがとう」ではなく「済まない」と言った、四十才の当麻の理由を征士は、どうしても聞かねばならないと思った。実験に協力したことで、何かリスクを背負うことになったなら、話を聞く権利は当然ある筈だった。当麻は「取れる責任は取る」と言ったのだから。
 そんな思いで真摯に見詰める、若い征士の視線を感じながら、当麻はまずこんな話から始めた。
「二十年前の俺は、その場の勢いで二十年もの長い跳躍を選んでしまった。それがおまえに、そして自分にも厳しい影響が出るとまでは、全く考えが及ばなかった。まあ、実験が本当に成功するとも信じられなかったしな。若気の到りとは恐ろしい」
 要は実験中の二十年が、自分と当麻に何らかの打撃を与えたのだと、征士は芳しくない成り行きを思いながらまた尋ねる。
「どんな影響があったと言うのだ?」
 しかし当麻はなかなかそれを口にできない様子で、尋ねられたこととは違う方向に話を続けた。
「おまえが元の時間に戻れば、恐らくこの時間軸は消えて無くなる。今の俺の思考も、俺が見て来た二十年も、全く違う流れに変わるだろう。だが俺達はゲームの駒じゃない。これまでに感じた痛みや苦しみが、ボタンひとつでリセットされる状態は、とても喜べることじゃない」
 つまり彼の言いたいことは、過去の時点では五分の間のことでも、この世界に生きる人間は確実に二十年を過ごしている、と言うことだ。征士の居ない二十年は、彼がタイムマシンで戻った瞬間に別の可能性へと変貌するが、それではこの二十年間に味わった、人生の苦楽は何処へ行ってしまうのだろう?。そんな甲斐のない時間を過ごして来た自分に、当麻は失望しているようだった。
 ただ、征士ひとりが消えていただけで、彼がそこまで苦悩したのは何故だろう?。考えている征士に、当麻はその答を少しずつ話し出した。
「この世界は、俺には現実なのに虚構と変わるんだ。タイムマシンとはそう言う影響をするものだ。そして、例え仮の二十年だったとしても、人に余計な辛い思いをさせてしまったことを、俺は今深く後悔している」
 当麻は彼自身の空しさの他にも、痛恨の思いでいる事情を抱えている。それを知って征士は、
「辛い思いとは…」
 と問うと、漸く当麻の口からその事情が語られた。
「おまえはこの二十年間行方不明だった。そうなることは勿論予想できた。おまえが消えたことは、大学でも世間的にも騒ぎになったが、何より、おまえの家族が苦しんだのが辛かった」
「!」
 そうだ、確かにそうなるだろう。征士は瞬時に当麻の話を理解する。例えそれ程仲の良い家族ではなかったとしても、自分は伊達家の跡取りであり、まだ小さい伸の父親でもある。それが突然居なくなったとしたら、家族は血眼になって探そうとするだろう。ある意味死ぬより始末が悪い。諦めのつかぬまま二十年を過ごしていた、父や母はどんな思いでいただろうと恐ろしくなる。そして当麻も、
「俺はそれを二十年間見ていた。だがどうすることもできなかった。ただおまえがここに現れるのを待つしかなかった。今はもう、この悪夢がきれいに消えてくれることを望むだけだ」
 友人である征士への思わぬ仕打ちに、自ら打ちのめされているようだった。
 無論不幸を望んでいた訳ではない。物質が実験室から実験室に移動するだけで、その外の世界のことは考えていなかっただけだ。そう、単なる物質が移動するだけなら、誰も心を痛めずに済んだだろう。結果を急いで最初から人間を使った所に、当麻はこの上ない後悔をしているのだ。
 悔やんでも悔やみ切れない過ち。だが、この二十年の苦悩ももうすぐ消える時が来る。
「戻ったら、俺が二度と安易な判断をしないように、伝えてくれ」
 と、当麻は話を結んだ。成程その伝言を過去に持ち帰り、今ここで見聞きした状況も伝えれば、二十才の当麻もタイムマシンの危険を納得する。飛ばされた人間は勿論のこと、己にもその不条理が降り掛かって来ると知れば、以後は必ず慎重に行動するようになるだろう。そしてこんな憂鬱な世界は存在しなくなる。誰も無駄に苦しむことはなくなる。けれども。
 けれども征士は、戻る前にどうしても確かめたくなった。自分の居ない間に家はどうなったのかを。
「待て!、外に出るな!」
 当麻が慌てて声を発した時には、征士はもうタイムマシンの部屋を出ようとしていた。その素早い行動は、運動不足の四十才にはとてもついて行けない。あれよあれよと言う間に、征士は次々ドアを潜り、実験室の外へと出て行ってしまった。
 うっかりしていた。この苦い現状を聞かせれば、事実を確認しようと出て行く可能性はあった。タイムマシンを降りた後は、注意して征士を見ていなければならなかった。またしても自分は失敗してしまったと、当麻は戦慄を憶えながら追い掛ける。
「…まずいことにならなければいいが…」
 観音開きのドアに辿り着いた彼の、視線の先に既に征士の姿は無かった。周囲に生い茂る木々の向こうに、走り去る足音だけが聞こえていた。後はどうか、これ以上の苦痛が増えないことを祈るばかりだった。

 征士は大学構内を出ると、その近くにある地下鉄の駅を目指して走った。そこから九つ先が自宅のある駅だった。当然定期券の期限は切れているが、通貨は変わっていなかった為、彼は無事地下鉄に乗ることができた。その車内で一息吐くと、思うことなく沸き上がる思いが征士の胸に去来する。二十年と言う歳月は確かに長い、その間誰がどんな風に変化しているだろうかと。
 最も心配に思う、あの小さな伸は二十三才になっている筈だ。二十三と言えば今の自分より年上である。あまり考えられないが、もう立派な社会人として働いている頃だった。彼は消えた自分の代わりに、家族を支えてくれていただろうか?。大したことはしてやれなかった自分が、そんな期待をするのは間違っているかも知れないが、どうかあのまま、素直な良い人間に成長していてほしいと征士は思う。
 そして自分のこと以外では、幸福に暮らしていてほしいと切に願った。
 父や母はどれ程老けているだろうか。姉と妹は何処かに嫁に行っただろうか。隣の九十を越えた婆さんは、流石にもう生きてはいないだろう。そうして次々人の顔が思い浮かんで来るのだが、征士の気持は只管小さな子供の姿を追っていた。ただ君が幸せであることを知りたい。そんな彼の思いを乗せた電車は、遅れることなく自宅を目指して走っていた。

 多少変化はあるが間違いのない同じ景色。古ぼけ色褪せてはいるが同じ街角。
 征士は自宅のすぐ近くまで走って来ると、周囲を見回しながら塀の陰に立ち止まった。不用意に知った顔の人物に会うと騒がれる。これは隠密行動でなければならないと、当麻に言われた訳ではないが彼は理解していた。自分は本来居てはいけない人間なのだと。
 だから取り敢えず、家の状況を知る誰かに会えさえすればいい。話を聞いたら速やかに大学に戻ろう。と、征士の意識には充分な心構えがあった。
 するとその時、自宅の門からひとりの弱々しい老女が姿を現した。
「…!」
 それは、酷く老いさらばえた彼の母親だった。その尋常でない様子に思わず征士が飛び出すと、その姿を見付けた母は、目を見開き、手にしていた買物鞄を地面に落とした。
「征士…、あなた、今まで何処に行っていたの!!」
 母の驚く顔と、半ば叫ぶような声の悲痛さに胸が痛む。征士が悪い訳ではないが、取り乱した様子で近付いて来る母親を見ると、この世界の悲しみが一挙に押し寄せて来るようだった。確かに、もうすぐこの悲しみは消えると判っていても、身に詰まされる思いがするのは変わらない。当麻があれ程傷付き落胆していた理由を征士は、今身を持って知ったところだった。
「どれ程心配して探したと思っているの!?、一度も連絡も寄越さず、何処で何をしていたの…!」
 母親は征士の服を掴むと、涙をポロポロと流しながら言った。征士はそんな母親の姿を見たのは初めてだった。母は常に厳しく強い女性だった。人に厳しい代わりに、己に対しても厳しく律して生きている人だった。公衆の場で泣きわめくなど絶対にあり得なかった。それがこんな風に変わってしまうとは、人ひとりの存在は想像以上に大きいと、心底理解せざるを得ない。
 相手が少し落ち着くのを待って、征士は殊に優しい口調で語り掛ける。
「済みませんでした。とても信じてもらえないことが起こって」
 そう一言謝って、彼は一時でも周囲の人々を安心させたかった。この二十年後の世界で、目的のひとつを果たせたことは満足だった。ただ、その言葉の意味を母親はまともに考えられそうもない。そもそも征士が年を取っていないことに、疑問を抱く様子も見られない。今はまだ全く興奮状態の最中のようだった。
 そして母親は、征士の腕を掴むと引き寄せながら言った。
「とにかく、とにかく家にお入りなさい」
 幸い、人に見られるとまずいと思っていたところで、征士は促されるまま家に入ることにした。
 午後四時過ぎ、家には他に誰も居ないようだった。家の中心に真直ぐ伸びる廊下、その天井に下がった照明器具、玄関の傍の部屋も特に変わらないままだった。否、征士の今朝の記憶では、伸のおもちゃがあちこちに散らばっていた。今はもう伸もそんな年ではない、と思うと、些か淋しく感じる家の中の様子。
 その玄関傍の部屋に上がると、珍しく続き部屋の襖がひとつ開いていた。奥の部屋は仏間になっているが、規律に厳しい母親がそれを放置するとは、征士には信じられない光景だった。そこまで母が衰えているのを知ると、人間、出会う出来事に拠ってどうにでも変わるものだと、酷く悲しい気持になった。
 征士は、決まりの悪いその襖を閉めようと歩み寄る。ところが襖に手を掛けたその時、彼の目は奥の部屋の仏壇に釘付けになった。
『これは…』
 見たことのない少年の写真が飾られている。否、薄茶色の癖毛の髪、緑の瞳、その特徴には憶えがあった。少年はやや古びたフォトフレームの中で、屈託のない笑顔を振り撒いていた。
 そこへ丁度母親がお茶を運んで来たので、征士はすぐに尋ねた。
「これは、どう言うことだ」
 彼の唖然とした様子と、その視線の先にある物に気付くと、母親は消え入りそうな声で返した。
「伸ですよ…。…十六の時に…」
「そんな…!、馬鹿な!」
 そこで母は再び、自制の利かない様子で泣き出した。そして彼女がこれ程老いて弱っているのは、自分だけが原因じゃないと征士は知った。実は、この数年近所の人々には、伊達家の奥様はおかしくなったと囁かれている。上の息子は蒸発、下の息子は亡くなり、不幸なことが続いたせいで、あの気丈な人も遂に精神を病んでしまったのだろう、と専らの噂になっていた。
 そこまで人の人生を狂わせることになるとは、二十才当時の当麻には無論考えられなかっただろう。だから今は当麻も苦しんでいるのだと知った。
「…何があったんだ?」
 と、征士が続けて尋ねると、涙が止まらないながらも、母親はその時の状況を話してくれた。
「交通事故だったのです…。朝、学校に行くと言って、出て行ったそのすぐ後に…」
 伸は高校二年生だった。その日も普段と同じように朝食を摂り、先に仕事へ出て行く姉を見送った後、自転車に乗って学校へ出掛けて行った。彼はいつも通る道を、いつも通り走って行ったようだ。十分ほど経った頃、近所の顔見知りの女性が家に飛び込んで来た。すぐそこで息子さんが事故に遭ったと。
 慌てて現場に駆け付け、両親は病院まで付き添ったが、伸はほぼ即死状態で、一時間後には息を引き取ったと言う。
「・・・・・・・・」
 あまりにも酷い運命の悪戯。自分は、この家族は、たった十六で死なせる為に伸を育てているのか?、と思うと征士は言葉を失った。そう、例え自分が元の時間に戻っても、この運命は変えられないのかも知れない。
忽ち征士の心に絶望が満ちる。これから自分はどう生きて行けば良いのだろうと。
 しかしそこで、彼には思いも拠らぬ話が語られた。
「伸は、あなたの子ではありませんでした」
「な…、何です?」
 驚くばかりの征士に、母親は涙声のままこう続けた。
「十二の時に、遺伝子の検査をしてもらったら、この家とは無関係な子供だと判りました」
「じゃあ私は、騙されたのか…?」
 征士は高校二年のあの日を思い出す。学校の前で手渡された大きなバッグ。あの高級そうな身なりの女性は、恐らく征士が裕福な家庭の少年だと知り、自身の邪魔となった子供を押し付けに来たのだ。それが真相だったのかも知れない。後の祭りだが、もしそれが判っていたなら、警察に届けるのが無難な選択だった。その後の家でのとんでもない騒ぎを思えば、酷く悔しい思いが込み上げて来る。
 けれど母親は征士に向けて、更に声高になって泣き喚いた。
「でも、でも…!、伸はとてもいい子でした。私達はずっと愛情を持って育てた。だから、居なくなったあなたの代わりに、この家を任せるつもりでいたのです。…なのに…どうして…」
 その悲嘆に暮れる様子を見ると、征士にも母親の気持は充分過ぎるほど理解できた。例え誰の血筋だったとしても、伸は素直で可愛い子供だった。私達が紛れも無い愛を注いで育てたからからこそ、伸は大事なこの家の家族となったのだ。最早始まりがどうだったかなど、無駄な回想だと征士は思い直す。
 共に長い時間を過ごしたからこそ、家族はこうして強い絆で結ばれるのだ。
 とその時、「時間」と言う言葉を自ら思い付いた征士は、頭の中にある閃きが育って来たのを感じていた。
「もしかすると…」
 そう思い立つと、彼は慌てるように仏壇の帳面を見る。そこに記載されていた伸の命日は七月九日だった。彼は振り返ると母親に言った。
「伸が家を出たのは何時だった!?」
 突然の征士の剣幕に、母は一瞬息を止めるようだったが、
「え…。いつも八時頃には家を出ていましたよ…」
 と、思い出しながら話してくれた。明確な年月日と時間、それさえ判れば今できることがある。征士はもう迷うことなく走り出していた。
「え…、あ…!」
 その唐突な行動を目に、母親が狼狽えるのはどうしようもなかった。折角戻って来た息子がまた出て行ってしまう、繰り返す悲劇を必死に止めようと、彼女は絞り出すような声で叫んだ。
「何処へ行くの!!、やめて、戻って来なさい征士!!」
 追い縋る母親を、後ろ髪を引かれる思いで征士は振り切る。どうせこの世界は消えて無くなるのだ。今度会う時にはきっと、変わらぬ強く厳しい母に戻っている筈だと、征士は己に強く言い聞かせた。
「征士ーーーっ!」
 彼を呼ぶ声が外の路地にまで響いていた。けれどそれは彼の現実ではない。タイムマシンが生んだ仮の世界の悲しみは、ただひとり、彼の胸だけに納められる空想物語となるのだ。

 秋の夕暮れは瞬く間に薄闇を連れて来る。陽が落ちてすっかり暗くなった実験室の片隅で、半ば惚けていた当麻の元に、突然慌ただしく征士が戻って来た。
「あ…良かった!、戻って来たか」
 けれど喜んだのも束の間、征士は固い表情で彼の前を通過すると、何も言わず奥の部屋へと行ってしまった。その様子を見て、まあこうなることは予想できていたと、当麻は溜息を吐きながらその後を追う。未来の世界がこんな状況になっていると、知れば誰でも穏やかでは居られない筈だった。
 だがこの世界は終わる。征士が元の時間に戻れば、この世界の苦悩も己の苦悩も消えるのだと、当麻は漸く安堵の時を迎えようとしている。彼が最奥の実験室に入ると、征士はもうタイムマシンの椅子に着いていた。この二時間ほどの間何処へ行っていたのか、それで彼の気が済んだなら幸いだ。当麻はせめてもの罪滅ぼしとして、征士の無謀な行動を許した。
 後は雑誌を持たせ、メモに残る二十年前の日付に彼を戻すだけだ。
 と、当麻が安心してタイムマシンに近付いた時、征士は意を決したように言った。
「当麻、私を七年前の七月九日、朝六時半に送ってくれ」
「な…、何を言うんだ…」
 まさか、と思った。当麻に取っては想定し得る最悪の事態だった。征士は知ってしまったのだ、あの痛ましい事故のことを。やはり外に出すべきではなかった、何が何でも彼を阻止しなければならなかったのに、と、悔やんでも最早どうにもできない。当麻はただ正道を説き聞かせるしかなくなった。
「そんなことはできない、人の運命を勝手に変えていい訳がない」
 それを聞いて征士は、当麻が伸の命日を知っていることに気付いた。何故なら彼はその葬儀に出席していたのだ。征士の家族からすれば、何故当麻が現れたのか判らなかっただろうが、彼にはその事件が、自分に関わる出来事のひとつとして、あまりにもいたたまれなく思えたからだった。タイムマシンとは直接関係ない部分にも、不幸の種が存在していたことについて、征士には本当に申し訳なくなってしまった。
 だから当麻は征士の勝手な希望を聞けない。自分と同じ過ちを征士に繰り返させたくなかった。だが征士にも尤もな言い分があった。
「既に変わっているだろう!?、私は二十年行方不明のまま、この世界のことを知ってしまったんだぞ!」
「・・・・・・・・」
 そう、既に変わっている。征士が屋外に出なかったとしても、当麻の思い悩む内容を聞いた時点で、二十才の当麻の運命が確実に変わった。何もかも変えてはいけないと言うなら、過去に伝言するのもルール違反だ。征士の記憶を消去でもしない限り、彼が元の時間に戻れば、二十才の当麻は安易な実験を止めるだろう。
 当麻が自身の失敗を打ち消したいこと、征士が悲惨な時の流れを変えたいこと、どちらにしても極個人的な理由だ。それとこれとどう違うのかと、征士は納得できない様子で呟いた。
「私はどうしても伸を助けたい」
 その気持は解る。解るけれども当麻は首を縦に振ることを躊躇う。
「言っただろう、おまえが元の時間に戻れば、この時間軸は消えるんだ。おまえが行方不明になる現実は何処にも無くなる」
「私のことはそれでいい。だが伸はどうなるのだ!」
「それは…、誰にも判らない」
 少なくとも伸が亡くなったことは、タイムマシンが原因ではない。だがタイムマシンに拠ってそれを知ったのだから、征士に生まれた救済の意思は、紛れもなくタイムマシンが原因だ。当麻がその事態の処理に困っていると、征士はそこで伝家の宝刀とも言える言葉を突き付けた。
「責任を取ると言ったな」
 そして『確かに言った』と、過去の場面を思い出しながら当麻の心は揺らぎ始めた。そもそも征士を実験台に選ばなければ、その前に人を実験に使わなければ、その前にタイムマシンなど研究しなければ、こんなことにはならなかった。征士が今こんな状況に陥っているのは、全く自分の責任だと当麻は認めざるを得ない。ならば責任を持って、征士の望む行動に付き合うべきだろうか?。
 それが責任を取ると言うことだろうか?。
「知ってしまった以上後戻りはできない!。私は七年前に行く義務があるんだ!」
 強い口調でそう訴える征士には、時に翻弄される人間の哀れさが見えた。SF小説などではよく見られる心理描写だが、それが現実となって当麻の目の前に在る。征士をこんな風にしてしまったことに、何らかの謝罪をしなければと当麻の胸も痛む。自分の悲しみはもうすぐ消えるかも知れないが、征士の悲しみは時を越えて存在することになるからだ。
 果たして何を選べば正解なのかと、当麻は最後まで悩んでいた。けれど征士が自ら頭を下げ、
「頼む…!」
 と言ったその姿が、本当に純粋な気持から懇願する、彼の切実な覚悟を当麻に伝えた。
 七年前に戻ったからと言って、人の運命を変えられるかどうかは判らない。或いは他に予想外の事態が起こるかも知れない。それでも征士を送り出してやることが、今できる唯一の贖罪かも知れないと、当麻もまた覚悟を決めなければならなかった。このタイムマシンの責任者として。
 彼はひとつ深呼吸をすると、踵を返しモニタールームへと歩き出した。今は助手が不在なので、全ての操作を当麻ひとりでしなくてはならない。彼はキーボードに向かい、七年前の七月九日、朝六時三十分丁度に行先を設定する。そして電流などの計器類をチェックすると、再び征士の前に戻って来た。
 二十年前と同じように、征士の周囲には金属の柵が立てられる。手順も器具も何も変わっていなかった。変わったのはここに居るふたりの心だけだ。だがそれが何より大切なのだと、四十才の当麻は深く念じながらスイッチを手にした。もう二度とこんな思いはしたくない。誰にもこんな思いはさせたくなかった。
「おまえの望む未来があるように」
 最後に当麻はそう言って、タイムマシンのスイッチを入れた。征士を囲む四台の装置が発光し始める。目の前に立つ当麻の姿が霞んで見えなくなって行く。もうこの当麻に会うことはない。征士が元の時間に戻れば、彼は別の可能性へと変貌してしまう。そう思うと、征士には今になって多少の後悔が生まれた。何かひとつでも、当麻の苦悩を慰める言葉を掛けてやれば良かったと。
 しかし既に強烈な光が征士を飲み込み、二十年後の世界は彼の周囲から消え去った。自ら言った通りもう後戻りはできない。征士はただ望む時間へと向かうだけだった。



 装置の光とは異なる眩しい朝日が、小さな天窓から差し込んでいた。
 征士が目を開いたその時、コンクリートの実験室には誰も居なかった。それはそうだろう、この世界は元の時間の十三年後に当たる。二十才の当麻が、ここに征士が来ることを予見できる筈もなかった。そうでなくても、朝六時台ではまだ誰も登校していないだろう。
 壁に掛かっている時計は、間違いなく午前六時三十分を指していた。問題の事故が起こるまであまり余裕は無い。ここから家までは徒歩と電車で五十分ほど掛かる。征士はすぐに立ち上がると、既に慣れた様子で実験室を歩き出した。是が非でもと頼み込んで、この時間に送ってもらったのだから、救出のタイミングを逃す訳には行かない。確実に、七時四十五分頃には家の周囲に居なければ。
 コンクリートの最奥の部屋を出ると、外のドアまではふたつの部屋を経由して行くことになる。モニタールームを通り過ぎ、征士が二番目の部屋に入った時だった。
「何故ここに来た!?、まだ二十年経ってないぞ!?」
 誰も居ないと思われた実験室に、何と当麻が居るではないか。三十三才、否、まだ誕生日を迎えていないので三十二才の彼は、二十才の征士を前に酷く慌てた顔を見せていた。
「こんなに早くから実験室に居るとは」
 と征士が言うと、当麻はその理由を含めてこう返した。
「昨日から徹夜で泊まり込みだったんだ!。急に装置が作動したから目が醒めた。一体何があったんだ!?」
 成程、ソファに無造作に掛けられた毛布、あちこちに向いたボサボサの髪は正に寝起きだ。ソファの横には何処かで買って来たらしき、菓子パンと飲料のペットボトルが置かれていた。何とも当麻らしい朝じゃないかと、征士はその様子を見て思わず笑みを零す。
 そう、今はまだ微笑ましく居られる程度の状況なのだ。征士が行方不明となって十三年経っているが、当麻は今日この後に起こる惨劇を知らない。それが彼自身の意識を大きく変えてしまうとは、全く想像もしていないだろう。ただ予定外に現れた征士に驚いている、この時点の当麻はとても元気そうだった。
 征士の家の状態が変わってしまったことに、そこまで罪の意識を感じていないようだった。
 だからこそ、征士は自分が動かねばならないと思う。伸の命を守ることは、家族が悲しまない為でもあり、当麻が必要以上に苦しまない為でもある。そしてこの経験を必ず元の時間に持ち帰り、タイムマシンの何たるかを当麻に伝えなければ、と征士は真摯な考えから思った。
 そして征士の足は、その目的に向けて走り出す。
「おいっ、何処へ行くつもりだ!」
 更に慌てて当麻がそれを止めようとするが、征士は振り向きもせず言った。
「私は急いでいる」
「駄目だ!、何をするつもりか知らないが外に出るな!!」
 流石に四十才の当麻よりは体力がある、彼は観音開きのドアの外で征士の腕を捉えると、何が何でも行かせまいと痛い程強く握った。無論当麻にしてみれば、想定外の事件を防ごうと必死である。だが既にその想定外のことは起きていると、知っている征士は改めて例の言葉を告げた。
「責任を取ると言ったな、当麻」
 その重々しい口調を耳にして、当麻の表情には不安の色が現れて行った。何故なら征士がそんなことを言い出すのは、理由があってのことだろう。本来現れる筈のない時間に現れたのも、それが原因だとすぐに思い付いたからだった。征士に何があったのだろう?、自分は何をしてしまったのだろう?。途端に思考をフル回転させた当麻に、征士は簡潔に事の成り行きを話した。
「二十年行方不明になっている内に、私の家には大変な事が起こっていた。その最悪の事態を食い止める為にここに来たんだ。止めても無駄だぞ」
 当麻はそこで初めて、この征士が七年後からやって来たことを知る。つまり二十才当時の時間に戻る前に、この時間に寄り道したことが判った。それは彼の言う通り、ここで今何かが起こるからだとも。
 何かが起こる。征士はそれを未来の時点で知ってしまった。拠って当麻は四十才の自分が、とんでもないミスを犯したことも知った。何故、雑誌を渡して戻らせるだけの実験が、こんな事になるのか信じられない気持だった。同じ実験室の中で、余計な情報は一切与えず、そのまま元の時間に帰すことが安全上最も大事だと、判っていた筈なのに。今もそう認識しているのに、と当麻は混乱しながら思う。
 だが勿論今の彼には、四十才の彼の思考は理解できないだろう。今日この朝の出来事を経験しなければ、あの当麻にはならないのだから。そして、もう永遠にあの当麻には会うことはないのだ、と、征士は当麻の手を振り切って走り出した。話に動揺していた彼の手は、幸い程良く力が抜けていた。
 急に全力で走り出した征士の後ろ姿に、もう追い付けないと覚った当麻は大声で叫ぶ。
「待て!!、勝手なことをするな!」
 すると征士からも大声で返事が届いた。
「勝手に二十年飛ばされた私の身にもなってくれ!」
 そう言われると、結局当麻は反論できなかった。例えこれまでの十三年間が仮の時間だとしても、十三年行方不明のままの征士を探し続ける、彼の家族には酷い迷惑を掛けてしまったと、既に当麻は後悔しているからだ。過去の時点では五分の時が二十年に伸び、人の苦しみも二十年に伸びてしまった。タイムマシンが作り出す世界とは、夢や希望に溢れたものでは決してないと、今は彼も結論していた。
 ならば恐らく、想定外に征士がここに現れたのは自業自得。全て身から出た錆だと思う他になくなっていた当麻。
「おい…!、ああ…、どうなってしまうんだ…」
 彼は膝を着き、がっくりと肩を落とし項垂れた。実験はもう当初の予定から大きく軌道を変えている。後は征士がとんでもない事を引き起こさぬよう、祈るばかりだった。



 同じ家並、見慣れた町の一角に征士は身を潜めて待っていた。
 二十年後の世界でもそうだったが、ここでも顔見知りに会うと騒ぎになってしまう為、征士は慎重に辺りの様子を見ながら隠れていた。通勤時間は道行く人も多く、ただ隠れているのもひと苦労だった。絶対に失敗できないミッションを前に、余計なドジを踏まないようにと、征士は常に緊張感を漲らせていた。
 その緊張の中で思う。あの写真の中の少年は、実際見てみるとどんな印象の人物だろうと。自分が知っている小さな伸の面影はあまり無かった。またどれくらいの身長で、どんな声で話すのかなど、写真一枚見ただけでは知りようもない。自分は彼をきちんと見分けられるだろうか。そんなことが多少心配にもなった。
 そして、彼は自分を憶えているだろうか、とも思った。憶えていてくれれば恐らく、この後の事も進め易くなる筈だった。不審人物の言うことを聞く人間は滅多に居ないが、自分が伊達征士だと判れば、伸は自分の話を信用してくれるだろう。大人しく誘導に従ってくれるだろう。どうかそうであるように、と征士は心から願う。
 その為だけにここに来たのだから、うまく行かなければ何の意味もない。当麻に我侭を言っただけで終わりになるなら、私はただの道化師だと…
 家の門の格子戸が、カラカラと音を立てて開いた。そして暫しの間を置いて、「行って来ます」と若く爽やかな声が聞こえた。それを追うように微かな母親の声も聞こえた。間違いなく彼が出掛けようとしている様が、征士のアンテナに捉えられた。
 彼は自転車に乗って走り出した、ようだ。住宅街の中の細い道では、あまりスピードは出さないだろう。だからそこで止められると征士は踏んでいた。耳を澄まし、その自転車がどう進んで来るかを予想しながら待っている。もうすぐ、もうすぐ征士の隠れている曲り角にやって来る。
 そして彼は現れた自転車の前に立ちはだかった。
 急ブレーキの甲高い音が辺りに鳴り響く。何とか衝突を避けようとして、心臓の高鳴る最中に居る少年は、すぐにはその相手の姿を見ることができなかった。ハンドルを握り締めた彼の手には、突然襲って来た恐怖の度合が窺えた。征士はその手の上に、自分の両手を静かに重ねると言った。
「今日は学校に行くな」
 その妙なメッセージに、伸が恐る恐る顔を上げると、危ない目に遭った筈の人は何故だか、とても安心したような顔で微笑んでいた。
 否、それは衝撃的な微笑みだった。
「…征士…、だよね…?」
 伸は瞬きも忘れたようにその顔を凝視している。そして征士は、自分のことを憶えていた伸を見て、更に胸を撫で下ろす心境に至った。ひとまず悪い流れの時間は止まり、暫くふたりの間に静寂が流れた。すると、
「おかあ…!」
 家の方に向かって、伸が母親を呼ぼうとしたので、征士は咄嗟にその口を手で塞ぐ。
「呼ばなくていい!」
 まだこの事態が何なのか、全く解らない伸は目を白黒させている。彼に取っては漸く帰って来た征士が、何故他の家族に知られたくないかなど、この場で理解できる筈もなかった。ただ、そのような一方的な行動に出る割に、征士の手は優しいと伸には思えた。少なくとも誘拐や強盗など、悪事を働く人の強硬さではないと思った。
 だから、驚いた割には穏やかに出来事を受け入れ、伸は征士の次の言葉を待っている。すると程なくして征士は言った。
「とにかく、今日は学校は休むんだ。何処か安全な場所へ行こう」
 何故自分を学校に行かせたくないのか、伸にはまるで解らなかったけれど、
「安全な場所って…?」
「そうだな、私と一緒に大学に来てくれ」
 征士の予想した通り、伸は言われるまま着いて行こうとしていた。それは偏に、彼等の基礎を成す愛情の賜物だ。愛を知る人間は、他人の愛を信じることもできるからだ。



つづく





コメント)第一話で一言しかコメントできなかったんですが、一話目に入れたかった部分が1ページの容量ギリギリ過ぎて、本文自体もかなり削って、やっと1ページに納めたんです。ちょっと予定外でした。
で、この話は、人物設定が「三界の光」にちょっと似てるので、続けて同じような設定のパラレルはまずいなぁ、と思いつつ書きました。何故かと言うと、本当は歴史物パラレルを書く予定だったけど、考えてみたら少し前まで「King Vermilion」を書いてて、続けて歴史物を書くのも辛かったんです(^ ^;
どっちにするか迷って、結局こっちのドタバタSFにしました。ドタバタな割にこの二話目はかなり話が暗いけど、次はまた違った展開になるので、どうかお付き合い下さい…



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