大学構内で
悪夢の実験室
#1
The rough times



 ドカン…!
 秋に色付く大学構内で、何かが破裂する音が響いた。
「キャー!」
 付近に居た女子学生などが途端に悲鳴を上げる。ざわめきは瞬く間に辺りに広がって行く。その内誰かが、
「理科実験室じゃないのか?」
 と言い出すと、その方向を見ていた者達は、すぐに現状を把握することとなった。
「煙が上がってる!、火事か!?」
 そこは大学の北西部、今や「魔の実験室」と呼ばれるデンジャラスゾーンだ。学生達はただ唖然とその様子を見詰めるばかりで、誰も近寄ろうとはしなかった。何故ならそれに関わると、必ず身の危険に晒されると噂されているからだ。
 ただ、そんな噂が立ったのはこの二年ほどのこと。この大学に、とある学生が入学して以来のことだった。

 とある学生。
 それを知っている征士は、ざわめく人垣の前で一度立ち止まり、
『また懲りもせずやってるな』
 と、一瞥して再び歩き出した。こんな状況はもう飽き飽きだ、とでも言う風情だった。
 征士と彼とは同じ高校の友人だった。偶然同じ大学に進学したが、学部が違う為、現在は滅多に顔を合わせる間柄ではない。だが征士には積もり積もった過去の記憶がある。その彼、名を羽柴当麻と言うが、高校時代から度々騒ぎを起こす問題児だった。否、もしかしたら中学以前もそうだったかも知れないが、実験と称して無茶な行動をしては、学校でボヤを出すなど繰り返していた。
 頭の出来は間違いなく良かった。彼の知的好奇心が、そうした行動に結び付いてるのは理解できる。政治的な危険思想を持つ訳でもなく、純粋な探究心の賜物だと周囲にも理解されていた。だからこれまで、どの学校でも退学などにはならず、今も一大学生としてここに存在するのだが。
 それにしても人騒がせな人物だった。恐らく今度も、大学からは渋い顔で注意されるだけに終わるだろう。世の中にはそんな風に、人に迷惑をかけながらも、何となく存在を愛される人間もいるようだ。それは征士にしても同じで、結局彼は『何処か憎めない友人』と言う認識のままだった。
 今はまだお互い大学の二回生。けれど当麻のような人間はこの先、どんな大人になって行くのだろうと思うと、征士は少々不安に感じることもあった。その強過ぎる好奇心の末に、何か恐ろしいものを発明し、この世を混乱に陥れるようなことがなければいいのだが。否、他人の心配を悠長にしていられるほど、自分は模範的学生でもないのだが…
 征士がそんなことを考えながら歩いていると、
「なあなあ」
 後ろから肩を叩かれ、何処となく見覚えのある学生に声を掛けられた。
「おまえ部活やサークルに所属してないようだが、山岳部に入る気ないか?」
 そうした勧誘は通常なら、新入生が入って来る春に盛んに行われるものだが、メンバー不足に困っているのか何なのか、二回生の征士に突然スカウトが訪れた。
「ガタイもいいし根性ありそうだから、今から入っても充分ついて来れそうだと思って」
 と、その学生は明朗に勧誘の理由を話す。ただ、何故征士が部活等に参加していないのか、その事情は知らないようだった。実は、大学内部だろうと外部だろうと、正確なことを知る者は多くない。そもそも征士と言う人は、群集に囲まれてもひとり浮き立って見える程、人目を引く容姿を持つ人間だが、その生活状況は謎多き存在として知られていた。何故なら彼は日々の授業を終えると、いつも急ぐように家に帰ってしまうのだ。
 人付き合いが嫌いな訳ではない。一秒でも早く会いたい恋人がいる訳でもない。だが、
「済まないが私は忙しい。勉強以外に遊んでる暇はないんだ」
 征士がそう返事をすると、その歯に衣着せぬ言い様には、誘いに来た学生も引き下がるしかなくなった。
「そうか…」
 そして立ち去って行く征士の後ろ姿には、何とも清々しい潔さが感じられた。機会があれば、自分もそんな風に格好良く振る舞ってみたいと、思わず目で追ってしまうほどだった。そんな状況でボーっと立っていた学生に、その友人らしき他の学生が声を掛ける。
「あいつ誘っても多分無理だぜ」
 そう言いながら近付いて来た男は、恐らく何らかの情報を得ているのだろう。諦めがつかない様子の間抜けな友人に、一言忠告してやろうと言う顔付きをしていた。
「何でさ」
 と、勧誘した学生が尋ねると、相手は間近まで寄り、さも重大な秘密を明かすように小声で言った。
「子供がいるって話だ」
 否、なかなか重大な秘密ではある。それが事実としたならば。
「えっ…?、だってあいつ現役だろ??。もう結婚してんの?」
「知らねぇが、いつも授業が終わるとすっ飛び帰るのは、子供の世話の為だって聞いたぜ?」
 これがアメリカの大学なら珍しくもないのだが、ここ日本では現役入学の学生が、家庭を持ちながら勉学する姿は滅多に見られない。国内一般の感覚で言えば、二十歳くらいはまだまだ遊びたい盛りの時期だろう。そんな頃にもう既に、人生の重荷を抱えてしまっているとしたら、些か不憫に思える話でもあった。
 彼に何があったのか、彼はそれでも幸福に暮らしているのか、無論早くに運命的な人と出会ってしまうこともあるが、是非聞いてみたい衝動に駆られる特殊な事情。
「まあ俺も実際見た訳じゃねぇし、本当かどうかは知らんがな」
 後から来た学生はそう言うと、何処か含みのある様子を残して去って行った。人の人生に決まったルートがある訳ではない。誰がどの時点で誰と出会い、何が起こったとしても、それが最善だと思えるならそれでいいのだろう。彼はそんなことを言いたいようだった。
 この秋の紅葉のように、枯れ行く淋しさより鮮やかな色彩を喜べるなら、人生観など簡単に変えられるものではないだろうか。



 完全な和式建築の征士の家は、代々剣道場を営んでおり、近隣でも知られた名家だった。その敷地は広く、道場に集会場、母家と離れ、駐車場、蔵、池を含む庭園など、一通りの設備が揃った立派な佇まいは、如何にも伝統的な風格を感じさせる日本の家だ。
 通り掛かる人々は誰もが思う。伊達家は正しく地元の名士。
 だが、数年前からあまり良ろしくない噂が、密かに語られるようになっていた。勿論新聞沙汰になるような騒動や、酷い口論を目撃されたなど、公に知られる醜聞は何も存在していない。それ故「密かに」噂されているのだが、実際、伊達家ではひた隠しにしている事件があった。
 そしてその張本人である征士が、今日も大学から一目散に家へと戻って来た。
「ただいま」
 玄関の引き戸がカラカラと音を立てると、そのすぐ傍の部屋から母親の声が聞こえる。
「征士お兄ちゃんがお帰りですよ」
 すると間もなく小さな子供が、多少危なっかしい様子で走り出て、玄関の征士の許へと駆け寄って来た。
「せーじ〜!」
「伸〜、いい子にしてたか?」
 征士はそれを勢い良く持ち上げると、酷く愛おしそうに抱き包める。今年三才になった伸は、征士の十七才下の弟だが、それは御想像通り戸籍上でのことだ。つまり征士が十七の時に生まれた子供だった。
 そんな征士も、始めは赤ん坊にただただ戸惑っていたのだ。妹が小さい頃を微かに憶えていたが、自分もまだ幼かった頃なので、どう世話をするかなど考えたこともなかった。その前に高校の勉強もしなくてはならない。結局乳幼児期の世話は殆ど母親がすることになったが、それでも、日々見ている伸が少しずつ成長して行くに連れ、何とも言えない愛着が感じられるようになった。自分の子だと思えば尚更である。
 こうして今の征士と伸の関係は出来上がった。戸籍上でも家の内外でも、ふたりは一応兄弟として扱われているが、征士の意識は既にそれ以上のものがあった。だから大学の授業を終えるとすぐに帰宅し、できる限り伸と過ごす時間を作っているのだ。今は何よりその時間が、征士に取っての楽しみであり幸福だった。
 全く、誰がいつ何を幸福に感じているかなど判らないものだ。
「それじゃあ後は頼みましたよ?、征士。夕飯までにお風呂に入れて、服を替えてあげて頂戴ね」
 母親が玄関を覗きがてらに言うと、征士は快く承諾するように返した。
「わかりました」
 最早風呂の世話、着替え、遊び相手など彼にはお手の物だった。無論そこには愛情あってこそだが、特に伸は健康上の問題もなく、性質も大人しい子供だった為、未熟な親でも扱い易い面があった。ただその次に母親がひとつ注文を付ける。
「それと、もうおやつは食べましたから、夕飯まで絶対に食べ物をあげないように。前のように吐かせたりしたら、可哀想なのはこの子なんですよ?」
「わかっています」
 以前にはそんな失敗をして、征士も苦い思いをしたことがあった。相手が喜ぶからと言って、何でも欲しがるままに与えてはいけない。小さい子供は、周囲の管理力が大事だとその時は痛切に思った。考えてみればいい大人でさえ、食べ過ぎなどで胸焼けを起こすこともある。食事の管理は難しいことであるが故に、よく気を付けてあげなければならなかった。
 もう二度とそんな失敗はすまい。と、心に誓う征士も、一応人の親として少しずつ成長いるようだった。
 しかし、まだまだ完璧にとは行かない。
「ああそう言えば、階段に滑り止めを敷く話はどうしました?。危ないから早くしなさいよ」
 と母親が思い出したように言うと、
「早々にやりますって」
 征士は多少面倒臭そうに返した。作業自体の面倒さより、こうしていちいち指図されるのが嫌なようだ。だが勿論征士にも非がある。
「やると言ってもう何日過ぎました?。伸が危ないから言ってるのよ?。もう何処へもどんどん歩けるようになって、目を離すのが怖いんだから」
「はいはいはい…」
「何ですかその返事は!。私がどれ程苦労しているか判っていますか!」
 答え方の悪さが、遂に母親の逆鱗に触れてしまった。そもそも彼自身がまだ親の世話になっている上、想定外の子供の世話もさせられ、彼女にはそれなりのストレスが溜まっている筈だ。そんな時にあまり横柄な態度を取るものではない。煩い、と感じても、元々の原因が自身にあることを思えば、せめて言葉くらいは丁寧に遣り取りしなければ。
 そんな風に、二十歳とは言え征士もまだ充分未熟者である。そしてそのことを自分でも解っていると、彼は母親に頭を下げて言った。
「はい…。苦労を掛けて申し訳ありません」
 苦労させている、面倒を掛けていると言う点では、征士は両親に絶対に頭を上げられなかった。何故ならこうなった経緯があまりにも、驚くべき状況から始まったのだ。
 高校二年生のある日、征士が下校しようと学校の門を出た所に、見覚えのある一台の車が停まっていた。スカイブルーのBMW。その美しく手入れされた様子も正に記憶通りだった。そしてその扉が開くと、これまた見覚えのある女性が降りて来た。彼女は当時三十才前後の年令で、高級そうな身なりと優雅な振る舞いが、何処か現実離れした印象の人だった。
 彼女は、ある会社社長の妾だと話していた。出会ったのは地元のショッピングモールで、彼女のポケットから落ちた何らかの書類を、拾って渡したのが切っ掛けだった。大切な物だったのか何なのか、お茶を御馳走すると言って喫茶店に誘われ、自己紹介を交えて暫く話をした。そして車に乗り、彼女の自宅だと言うマンションへ行った。まあそこで、ちょっと遊んでもらったと言う訳なのだが。
 もう一年ほど前のことだった。その時以来彼女には一度も会っていなかった。なので突然目の前に現れたのには、勿論驚いたが、それ以上に彼女の表情が何やら怪し気なことに、征士は戸惑う気持を隠せなかった。何かあったのだろうか?、挨拶くらいした方がいいだろうか?、迷っている内に近付いて来た彼女の手には、妙に大きな荷物が抱えられていた。
 そして征士の目の前に来ると、その荷物を確と彼の手に渡して言った。
「この子、あなたの子よ」
 言われて初めて、その大きなバッグの口を覗いてみると、確かに小さな頭部の疎らな髪の毛が見えた。そして僅かに動いているような気がした。
「事情があって育てられないから、よろしくね」
 彼女はそう言い残すと、くるりと背を向け車に戻って行く。
「え…??。ちょっと、待っ…」
 その後腐れなさそうな態度には、正に取り付く島もなかった。彼女はそれきり何も言わず、車に乗り込むとそのまま何処かに去ってしまった。佇む征士にはただ混乱ばかりが残された。
 どうしよう。どうしたら良い。
 自分が大変な過ちを犯したことは頭にあるが、それ以上に生き物を預かったことが問題だった。遺失物として警察に届けようか。それとも学校の先生に相談しようか。と思ったが、そのどちらも駄目だと征士は思い留まった。もし自分の子供であることがばれたら、間違いなく学校から何らかの処分が下されるだろう。その上警察沙汰などにしたら、家族までが世間に嘲笑されるだろう。
 幸いその時、その現場を見ていた者は居なかった。征士はとにかく急いで家に戻ることにした。
 家に戻り、荷物の中身を見せ、仕方なく事の経緯を話した征士に、その家族がどれ程怒り嘆いたかは言うまでもない。付き合いのある特定の相手ならまだしも、行きずりの女性との間に出来た子供を押し付けられた、その事実がショックを通り越して、脱力した空騒ぎに変わったほどだ。
 六才年上の姉は征士を酷く詰った。妹は唖然として何も言葉を発しなかった。征士はまだ起きてしまった事を受け入れられない様子で、答を乞い願うように両親を見詰めていた。けれどそんな中、彼の母親は既にもう腹を括った様子で、バッグの中で眠る赤ん坊を抱き上げると、
「弥生、悪いけど薬局に行って来て。この子に必要な物を一通り揃えて頂戴」
 冷静に上の娘に伝えた。これ以上何を議論しても現状は変わらない。そう思えば、もうじき餓えに泣き出すであろう幼子を、どうにかすることが先決だと頭を切り替えていた。母は強し。そんな言葉を三人の子供達はこの時ばかりは、実感として受け止めただろう。そして一部始終を見守っていた父親も、既にこの先のことを考えていたようだった。
「養子として受け入れるしかない」
 そう、父の言う通り、地域一帯に知られた伊達家としては、未成年である征士の子供をその通り、征士の嫡子として受け入れる訳には行かなかった。しかも相手は何処の誰とも知れない。こんなことが公になっては家名に傷が付くと、考えた上での判断だった。まあ、これが江戸時代以前の武家であれば、誰の子だろうと寛容に処理した筈だが、現代に於いてはとにかくそうするしかないと、両親はその場で決めていた。
 その後、赤ん坊は伸と名付けられ、遠縁の親族の子供を引き取ったことにされた。一応相手の女性の住所を当たってもみたが、既に引越しており行方不明となっていた。事情があって育てられない、と言ったのだから、何かそれ相当の事があったのだろうか。ともすれば凶悪な事件に巻き込まれていたかも、と思うと、この程度で済んで良かったのかも知れない。
 そうして今に至る。征士は両親の適切な行動に助けられ、無事高校を卒業し、今はそれなりに格のある大学にも通えている。だから征士は親に頭が上がらないのだった。
「そうですよ、私は息子の失態に責任を取らねばなりません。だからこうして、この子は私の子として引き取り、ちゃんと育てて行くつもりです。でもその責任の一端はあなたにあるのですから、あなたも自分の責任をきちんと果たしなさい」
 母が重々しくそう諭すと、靴を脱いで家に上がっていた征士は、改めてもう一度頭を下げながら言った。
「はい、確と心得ます」
 親としての責任、この家の一員としての責任、それらを征士は噛み締めながら今を生きている。けれど前にも述べたように、現在の境遇を幸福と受け取れるなら、最早何を言われようと傷付くこともない。騒乱の時は過ぎ、今はとても穏やかな日常を過ごしている。征士は腕に抱えた小さな伸の重みを何より、大切な現在だと認識できているのだから。
「じゃあ頼んだわよ。伸もご飯までいい子にしてるのよ?」
 改めて征士には念を押し、次に伸の目線に合わせて母親が言うと、
「はぁい、おかぁたん」
 伸も既に家の気風に慣れた様子で答えた。伸はこの家の人間にはあまり似ていなかったが、よく笑う可愛い子供だった。なので始めは皆腫れ物扱いだったものの、今では家族の寵愛を一身に受けている。
「今日は大好きなチーズ味のシチューを作りますからね」
 母親も何だかんだ言いながら、久々に出会った小さな子供の相手を楽しんでいるようだ。思えば征士の姉が早く結婚をしていれば、このくらいの孫がいても全くおかしなことはない。恐らく母もそう考えて自然にしていられるのだろう、と征士は思った。
 そして母親が廊下の奥に消えてしまうと、征士は伸と顔を見合わせ、
「また怒られてしまったな」
 と呟いた。すると伸は判っているのかいないのか、面白そうな顔をして返した。
「せーじはいい子ですか?、わるい子ですか?」
 先程母親に「いい子にしていなさい」と言われた伸は、単にその言葉を繰り返しただけだろうが、そう言われると返事はなかなか難しいと思った。大人になるに連れ、誰しも己の中の善悪は混沌として来るものだ。だからと言って、三才児にそれを得々と論じるのは馬鹿げている。征士は暫し考え、
「そうだなぁ、普段はとても良い子だが、時々悪い子にもなるな」
 そう答えると俄に伸を笑わせていた。
「ときどきわるい子ですか!」
 すると伸は、自分が悪い事をした時に受ける折檻のように、征士の顔や胸を叩き出した。まあ叩くと言っても大した力はないので、結局じゃれ合いのようになり、征士はそんな状態も面白く見ているのだが。そして、一頻り暴れた伸の額に自分のそれを合わせると、
「でも安心しろよ、私は良い子でも悪い子でも、一番伸を愛しているからな」
 征士は言い聞かせるようにそう言った。子供に対しては素直に語れるそんな感情。勿論まだその真意は幼い伸には伝わらないだろう。伝わらないどころか、
「いちばん、あいしるている?、から?」
 伸は言葉自体が聞き取れないようのなので、改めて征士は言い直した。
「一番好きだと言うことだ」
 するとそれには弾けるように反応して、伸は征士の腕を力一杯握り締めて言った。
「ぼくも、いちばんせーじがすき!」
「そうかそうか」
 それを満足そうに受け取ると、反省の念に駆られていた征士の心も漸く上向き、彼の足は再び軽快に歩き出していた。愛する者に愛される、これ以上に幸福なことがこの世にあるだろうか。それをダイレクトに教えてくれる子供の存在が、今は征士の無上の喜びとなっていた。例えその始まりが、悪夢のような事件だったとしても、結果に報われることはあるものだ。
 因みに何故伸が征士を好きかと言うと、恐らく一番長く遊び相手をしてくれるからだろうが、それでもその記憶が伸の中に、ひとつの愛情として残ってくれれば良かった。犬などは判り易い例だが、遊びを通して二者の絆が深まることは当然あるだろう。それを表すように伸が、
「せーじはいい子ですよ?」
 今度は征士の顔を撫でるようにして言ったので、彼も今度は、
「そうとも、少なくとも私は、伸にだけは一番良い子でいる自信があるぞ」
 そう話を合わせて笑った。決して嘘ではない、そして、出来る限りこのままの関係で居られたらいい。今の征士にはそんな未来を夢見ることもできた。果たして未来も伸が素直な良い子で居られるか、自分がこのままで居られるかと言えば、丸きり何も判らないけれど。
 けれど、一度憶えた愛はそう簡単に忘れはしないだろう。
「さあて、今日は何をして遊ぼうか」
「ぶーぶー、うーうー」
 伸は最近気に入っている、おもちゃのハンドルを回す仕種を見せた。征士が膝に伸を乗せて、ハンドルの動きに合わせ体を傾けてあげる遊びだ。
「よし、じゃあドライヴに行こう」
 征士はそう言うと、自らも楽しそうに伸の頭を撫でた。自分の好きな車に関する遊びに、伸が喜んでくれるのが嬉しかった。いつかもう少し時が経ったら、今度は本当にふたりでドライヴに出掛けよう。伸のまだ知らない新しい世界を見に行こう。その時を楽しみに、征士は伸の成長を見守っている。



 それからひと月ほどが経過した。
 その日もまた、征士は授業が終わると手早く荷物を纏め、さっさと家に帰ろうとしていた。秋も暮れ行くキャンパスはすっかり落葉に被われ、毎日のように清掃業者が出入りしている。今年ももうあと数えるほどで終りだな、などと考えていると、ふと征士の頭に伸の顔が思い浮かんだ。そう言えば今年のクリスマスプレゼントをどうするか、まだ考えていなかったと。
 ただ最近の伸を見ていると、自分なりの意思や嗜好が芽生え始めているように思う。それなら一方的に何かを渡すより、店に連れて行って自分で選ばせた方がいいかも知れない、と征士は考えた。その場合あまり高価な物を強請られると、自分が困ることになるかも知れないが…
「征士!」
 とその時、背後から彼を呼び止める声が聞こえた。振り向かずとも誰だか判るその相手が、まだ到着しない内に征士は返事をしていた。
「当麻か、何だ?」
 すると全速力で走って来た彼は、征士の前まで来て息を切らせながら言った。
「頼まれてほしいことがあるんだ」
 当麻はどうにか征士を引き止めたい様子だった。それ程の重大事なのだろうか、と、一瞬征士に動揺が走ったが、冷静に相手の身なりを見てみれば、そうではないと結論するに至った。当麻は最早ユニフォームとも言える、薄汚れた白衣を羽織っていた。そう恐らく、自分の何らかの研究に協力してほしいとでも言うのだろう。なので征士は、
「判っているだろうが私は忙しい。おまえの為に割ける時間はない」
 お決まりの文句をそう並べることになった。そもそも当麻は征士に子供がいることを、確実に知っている人間のひとりだった。同じ高校の友人であるが故、過去に様々なことを話して来た間柄だ。ならばその事情を察してくれてもいいだろう、と征士は思うのだが、彼は尚も食い下がって続ける。
「そこを何とか!。一時間、いや三十分で済ます!」
 そう言って手を合わせる当麻の必死さ。余程人材に困っているのか、ふざけた態度でないところが哀れみを誘う。そして、本心は一刻も早く家に帰りたいのだが、数少ない友人の頼みを聞くことも、有意義な行動かも知れないと征士は考え始める。
「三十分…。まあ、それくらいなら」
 と、考えた末に征士が答えると、パッと顔を上げた当麻は、善は急げとばかりに征士の腕を掴んで言った。
「よし!、そうと決まったら早く行こう!」
「何処に行くんだ?」
 三十分と約束したからには、当麻もなるべく征士の好意に沿うよう、速やかに事を進めたいと思っているようだ。拠ってふたりの足並は、端から見れば何かから慌てて逃げるような様子だったが、とにかくふたりは急いである場所に向かっていた。どちらにしても、一分、一秒でも惜しい思いだった。
 正門から続くタイル敷の綺麗な歩道を抜け、林のような憩いのエリアを抜け、ふたりはキャンパスの奥へ奥へと移動して行く。しかし、遠目にある建物が見えて来ると、
「おい…」
 征士は途端に顔色を変えた。それは、関わると只では済まないと言われるあの場所だ。思わず彼は足を止めて言った。
「実験室じゃないか!?。冗談じゃない!、怪我などさせられたらたまらない!」
 そうか、だから協力者が見付からなかったのか、と、征士は自分に声が掛かった理由をそこで知った。否、実は他にも理由があるのだが、今はそんな話を長々としている場合ではない。
「怪我なんてしないって!、そんなに警戒しなくても大丈夫だ!」
 抵抗する征士を、当麻は何が何でも説き伏せようとしている。だが、
「大丈夫なものか!、前に入院した奴がいただろう!?、こないだもボヤを出したばかりだぞ!」
「あれは単なるミスだ!、今日は手順通りごく安全な実験をするだけだ!」
 当麻の言うことにはあまり説得力がない。実際征士の言う通り、この二年弱の間に幾度も事故を起こしているからだ。勿論本人は、失敗を楽しんでいる訳ではないだろうが、もし万一のことがあったら、と思うと、それに付き合わされるのはやはり怖い。そこで征士が、
「私は人の親となったのだ!、何かあったら貴様は責任を取れるんだろうな!?」
 心からの本音をぶちまける。それでも、と言えるなら、当麻の正しさを信用してもいいと思った。他人の一生を背負える覚悟があるのなら。或いは、本当に確実な安全を保障できるなら、だ。
 すると意外にも、躊躇うことなく当麻は言った。
「大丈夫だって言ってるだろ!、取れる責任なら取るさ!」
 そう返されては最早、征士に反論の言葉は浮かんで来なくなった。そこまで言うなら、ここは当麻の弁を信用するしかない。後は運を天に任すのみとなった。
 ふたりは再び歩き出す。問題の実験室が征士の目前に迫って来る。外観は特に変わった建物ではないが、近付くに連れ何か、暗く禍々しいものが感じられるようだった。もしかしたらこの立地が悪いのかも知れない。過去にそこにお稲荷さんがあったとか、方角が悪いとか、そんな話はしばしば耳にするものだ。と、嫌な考えが頭を過り続ける征士は、気乗りのせぬままそのドアの前に立った。
「さあ、中に入ってくれ」
 色気のない金属の観音開きのドアを、当麻は慣れた様子で景気良く開く。そこから見えた内部は閑散としていて、少し征士の想像とは違っていた。ビーカーやフラスコなどの実験器具、各種精密機械が所狭しと並ぶ、理科実験室とはそう言うものだと思っていたが、ここではやや種類の異なることをしているようだ。
 ドアの奥へと進むと、区切られたモニタールームらしき場所から、
「こんちは、今日はよろしく」
 と挨拶の声が聞こえた。何となく見覚えのあるその顔は、真田遼君と言う当麻の後輩で一年生だ。どう誑し込んだのか知らないが、当麻の研究の助手のようなことをしているらしい。そして更に奥へ行くともうひとり、征士の知る学生が杖を片手に笑っていた。
「よう!。ここで会うのは初めてだな」
 彼は秀と言って、体育学部の二回生だ。去年の学園祭が切っ掛けで知り合いになり、以降何故だかよく当麻に会いに来るようになった。理工学部と体育学部に共通性があるとは思えないが、彼等には何かしら馬の合うところがあるらしい。今日もこうして体に故障を抱えながらも、実験に立合おうとしているのだから。
 そして、気の明るい彼が征士にこう告げる。
「悪ィな、ホントは俺が実験台になる筈だったんだが、怪我しちまってよ」
 成程自分は秀の代役なのかと、状況を理解したと同時に、普通の学生より間違いなく体の強い彼なら、実験台にも進んで協力しそうだと征士は思った。この忌み嫌われる実験室に、自ら乗り込んで来るくらいだから、それ相当の体力、身体能力に自信があるのだろうと。
 だが確かに怪我持ちでは心配だ。それとなく征士は秀の不自由な左足を見る。その時ふと征士の頭にある事が思い浮かび、率直に秀に尋ねた。
「その怪我は、前の実験のものではないのか?」
 しかし彼は特に気にもしない様子で、カラカラ笑いながら話すのだ。
「そうそう!、配線ミスか何かで機械が爆発したんだ。ありゃ大笑いだったぜ」
 自分が大怪我を負ったと言うのに、何と寛大な発言だろうか。若しくは、この程度に楽観的で居られなければ、魔の実験室に立ち入ることはできない、のかも知れないと思った。
 そして征士は立ち入りたくもないと思った。
「帰る…」
 征士が途端に踵を返すのを見て、慌てて当麻が駆け寄って来る。
「待て待て!、さっき言っただろ?、安全な実験だって。機械はもう完成してるんだ。もう不安定な動作はしないから大丈夫だ」
「本当だろうな…?」
「本当だ!、俺を信じてくれ!」
 言いながら拳で自分の胸を叩いて見せた、当麻には当麻なりの自信があるのだろうが、どうも今一つ信用し切れない征士。秀の話を聞いてしまえば仕方のないことだ。自分は彼のように笑って許すことはできない、と思うと、その後の関係が悪くなることも考慮せざるを得ない。否、既に当麻の周囲は、実験を恐れて人が寄り付かなくなっている。それで良いのか?、と問いたい気持も征士の中にはあった。
 科学実験は良好な人間関係より魅力的だろうか?。
 けれど、当麻はそのリスクも承知の上かも知れない。自分のしたい事を貫く為に、犠牲となるものがあることを解っているのかも知れない。頭の良い奴だから恐らくそうなのだろう。これは敢えて当麻が選んだ道なのだ。征士がそんな理解に達した時には、最早断れる可能性も薄くなったと、彼は自分で気付いてしまった。
 何故なら、今はまだ良好な関係の友人だからだ。まだ信じ合える心があるからこそ、ここに連れて来られたのだから。
「…解ったよ」
 もう、三十分で了解した時点で決まった運命なのだと、諦めて受け入れる他にない。征士は当麻の覚悟を思い、また自身の安全への覚悟も決めて、再び前を向いて歩き出した。実験室の最奥の扉を潜ると、そこはまた閑散とした倉庫のような場所で、その一角に何やら妙な装置があるのが見えた。
 近付いて行くと中央には、何処にでもあるようなパイプ椅子がひとつ置かれている。これも装置の一部なのか?、何をする装置だろうか?、暫し考えた後に征士は言った。
「それで、何をしたら良いんだ。手短かに説明してくれ」
 すると彼のやる気を受け取った当麻は、水を得た魚のように生き生きと目を輝かせ、
「了解だ!。まずそのサークルの中の椅子に座ってくれ」
 晴れやかな声でそう指示をした。椅子とは前途のパイプ椅子のことだが、より近寄ってみると確かにその周囲には、バスケットボールのコートのような円が描かれていた。征士はそこに入り、指示された通りその椅子に腰掛ける。そして当麻が金属の柵のようなものを広げ、円に沿ってそれを並べて行った。最終的に征士は檻の中に居るような状態となった。
「で?」
 当麻の作業が終わった様子を見届けると、征士は次の段階の指示を待っている。しかし、現時点ですべき事はもう終わってしまった。当麻は装置から少しばかり離れると、征士の正面に立って言った。
「これからおまえを未来に送る」
「未来…」
 その言葉を聞くと、この簡素な作りの装置がどうやら、タイムマシンらしきものであることは征士にも判った。タイムマシン。言葉としてはありふれた言葉だ。百年も前の小説に既に登場しているくらいで、今や誰もがそれをある程度理解している。ただ、実現できる技術が確立されるかどうかは非常に怪しい。想像の域を出ない乗り物だと皆思っていることだろう。
 ところが当麻はその可能性を信じている。自分の考えに基づく装置をこうして製作し、今その実験を行う段階まで漕ぎ着けた。そして彼の予測では、
「そうだな、切りのいいところで十年くらい」
 このタイムマシンは十年先までの旅が保障されると言う。まあ、実現すれば確かに恐るべきことなのだが、その前に、征士が席を立ち上がって言った。
「それは困る!!、私には大事な家族が居るのだ!」
 彼が慌てるのは当然だった。一日二日ならまだしも、十年も家を空ける訳には行かないだろう。そんなこととなったら家族だけでなく、あらゆる面で混乱が起きてしまう。だがそれは勝手な間違いだと当麻は話した。
「いや、よく聞け。未来に着いたらすぐここに戻って来るんだ」
「すぐここに戻る?」
 理屈の解らない征士が返すと、当麻は簡潔且つ丁寧に説明してくれた。
「そう、おまえは未来の俺に会って、またすぐタイムマシンで『今』に戻って来るんだ。時間は殆ど経過しない。五分後に設定すれば、今から五分後にここに戻れる。判るか?」
 征士はその時、映画の『バックトゥザフューチャー』を思い出す。それに登場したデロリアンと言う車には、指定の年月日を入力する機能があった。つまりそれをもっと精密に、時間まで指定できるようにしたと言うのだろう。未来の指定の時間へと飛び、過去の指定の時間へと戻って来る。今回はそれだけのことをするのだと、征士にも漸くこの実験のイメージが掴めて来た。ただ、
「…判らないではないが、どうやって未来に行ったと証明するつもりだ」
 考えると征士にはそんな疑問も湧いて来た。タイムマシンとタイムマシンを往復し、戻って来たことが判るのは征士自身の記憶だけだ。それでは学術的な裏付けにならないだろう。無論この後に、より理論的な実験を続けるつもりだろうが、現段階での当麻のアイディアはこうだった。
「未来の俺は、おまえにその時の最新号の雑誌を渡す。それを持って帰って来るだけでいいんだ」
 成程、未来から何かを持ち帰ると言うのは、簡単で判りやすい結果を齎してくれそうだった。特に大部数を誇る出版物なら、その印刷行程から偽物と疑われる心配もなく、同時に未来の情報を得ることもできて、一石二鳥のアイテムと言うところだ。しかしそこでもうひとつ、
「何故雑誌を渡すと判る?」
 と征士が突っ込むと、当麻はニヤリと笑って言った。
「俺が今からそうメモしておくからだよ。おまえが現れる時まで机の前に貼っておくんだ」
「ああ…、そうか」
 当麻は未来の当麻に伝言する。いついつに征士が現れるので、最新の雑誌を渡して、いついつに彼を戻してくれと。確かにそれで今回の実験は成り立つ。後は火事でメモが消失したりしないことを祈るだけだった。
 こうしてひとまず征士の疑問は解決した。彼の心も再び落ち着きを取り戻したようだった。その様子を知ると当麻は、
「じゃあ始めるぞ、座ってくれ」
 早速実験開始の動作に入った。これ以上話を続けても、無駄に時間が経過するだけだと今は征士も判ったので、指示通り大人しく席に着いていた。そして当麻はモニタールームに向け、無線で連絡を取り始める。
「十年…、いや二十年にしよう。そのくらい時間が経った方が、情報の変化も顕著に見られるだろう」
 彼が言うと、無線機の向こうで微かな『了解』の声が聞こえた。恐らく真田君がその指定を行うのだろう。モニタールームにあったキーボードから、数字を打ち込むだけの作業と思われる。
 しかし、そんな簡単な作業だと思うと、征士にはまた不安が生まれて来た。その場の思い付きで十年を二十年に変更できるほど、この装置は長年の信用が置ける物なのだろうか?。二十年もの歳月に耐えられるのだろうか?、と。
「本当に安全なんだろうな?」
「例え失敗しても爆発するようなことはない」
「帰れなくなったりしないだろうな」
「大丈夫だ。俺は二十年後もこの大学に居座るつもりだからな!」
 その当麻の発言を聞くと、征士は頭を抱えながらも、一応安心することができたようだった。
『大学の厄病神だな』
 不思議なことだが、その点にはある程度の信用が持てるからだ。当麻と言う奴は度々問題を起こす割には、必ず誰かに、何かに擁護され許されて来た経緯がある。それが彼と言う存在そのものだとすれば、きっと未来も、渋い顔をされながら大学に残っているだろう。彼の意思が続く限り、その通りになっているだろうと征士には思えた。だから彼は一応納得したのだが。
 まあそれ以前に、未来に行くなどと言う実験が、成功するとは思えないのが正直な気持だった。今度もボヤ程度で済んでくれれば幸いだ、くらいの意識しか征士にはなかった。
 モニタールームから、
「準備OKです。全ての動作に異常なし。座標確認、二十年後の同月同日同時刻」
 との連絡が入った。すると当麻はまずサングラスを装着、そして台の上に置かれていた小さな箱を取り、暫しそれを手の上に見詰めてから言った。
「よし、スイッチを入れるぞ。…幸運を祈る」
 スイッチの微弱な起動音が部屋に響くと、征士の周囲を囲む柵の外に、四台置かれた照明のようなものが光り出した。その光は徐々に強くなり、その内カメラのストロボのような強烈な発光となった。コンクリートのグレーに囲まれた部屋が、もう真っ白に飛んで何も見えなくなる。その前にとても目を開けていられず、征士は閉じた瞼を更に手で被っていた。眩しい。辛い程眩しい。
 その光の中で当麻が、
「成功すれば間違いなくノーベル賞だ!」
 と笑っているのが聞こえた。その声も雑音もいつしか、光に飲み込まれ消えて行くのを感じていた。



 光が、消えている。
 それに気付くと征士は被っていた手を外し、恐る恐る目を開いた。まず最初に自分の膝と足が見えた。着ている物も含め、特に体に異常は無いようだった。座っているパイプ椅子にも問題はない。そして顔を上げると、そこは閑散としたコンクリートの実験室だった。
 先程見ていた風景と、特別変わった様子は感じられないその部屋。征士を囲む柵も発光装置も、今さっき見ていたものと同じだった。なので実験は失敗に終わったと感じても、おかしくない状況だったが、征士は装置の横に立つ人物を見て、そうではないとすぐに気付いていた。
「本当に…、成功したんだな…」
 神妙そうな顔をして征士を見詰めている彼は、そう、見覚えのある顔をしていた。
「…当麻なんだな?」
 と征士が声に出すと、彼は征士が無事ここに到着したことを確認し、何処かはにかむように笑った。
「ああ、そうだ、間違いない。恐らく随分老けて見えるだろうが」
 確かに、と征士は思う。ひょろっと伸びた背格好に薄汚れた白衣、人好きされそうな笑顔の感じは変わらないものの、二十年の年月を経た生物の変化は、語るまでもなく明らかに目に見えた。特に、つい先程まで二十才の当麻が前に居て、すぐ後に四十才の当麻に替わったのだ。その二者の違いがくっきりと、征士には捉えられたことだろう。
 ただ、外見の変化もさることながら、当麻の人物像も変化していると征士には感じられた。この世紀の実験が成功したことを、確認した割にあまり喜びの表情を出さない。感情を押さえているのか、年を取るとそうなるものなのか、彼は酷く落ち着いていて、声も物腰もとても静かなのだ。あの当麻が将来こんな風になるとは、今を以っても信じられない気持の征士。
 当麻はそして、征士の周囲の柵を開くとすぐ横に来て言った。
「済まなかったな、征士」
 彼の瞳には何故か、深い悲しみの色が見えた。ような気がした。
「済まない?、何が?」
「いや…」
 その力無い返事も征士は大いに気になった。当麻に何があったのだろう?。今ここで話を聞くことができるなら、その心境の変化の理由を知りたい、と征士は思った。



つづく





コメント)四十才の当麻が出て来るので、この十月にどうしても書きたい!と思って書きましたー。


GO TO 「悪夢の実験室 2」
BACK TO 先頭