伸とせいじ
曖昧な月の記憶
#1
Beyond Two Recollections



 夕闇を待たずとも、月の歩みは僅かずつ続くもの。

 ふとした時、日常的な無作為の時に白い月を見る度、
 私はいつも不安な気持に襲われる。
 何かを思い出して苦しくなる。
 何を思い出しているのかは、いつも判らなかった。

 白々とした昼間の月…。



「よっし!、この辺でいいだろうっ!」
「何で秀が仕切ってんだよ」
 彼が率先して張り切ると言えば、食べ物に関わる行事に違いないのだが、本日の主役は一応伸であろうと、当麻は敢えて釘を差すようにそう返した。
 けれど秀は百も承知と言う風に、
「祝い事ってぇのはセッティングが肝心なんだぜ?、おまえこそ働け!」
 そう言い放つと、脇に抱えていた緋毛氈(ひもうせん)のひと巻を投げて、それは丁度当麻の手の上に落とされる。
「…へいへい」
「いい天気で良かったな、花が散ったら花見にならない」
 まだ着いたばかりから溜息を吐く当麻に、遼は空を見上げながらそう話した。
 今年の三月十四日、
『伸の誕生日でもあるし、大学の合格祝いでもあるし、俺達には戦士としての区切りを付けて、最初の桜の季節だからな』
 と、春休みの内に伸の家に集まって、皆で花見をしようと提案したのは遼だった。勿論最初に話を聞いたのは伸だが、それを断る理由が彼にある筈もない。電話を通じて、その翌日には五人の予定が調整され、各自終業式もそこそこに慌ただしく集まっていた。
 ところで花見と言えば、日本人の場合は専ら桜を思い浮かべる。日本の景色に良く似合う樹木であり、東洋の暦には絶妙に調和した花であり、元禄の昔には花見に興じる庶民の為に、幕府自ら多くの木を植樹して来た歴史がある。それだけ日本人には、愛着を以って欠かせないものとなっている。
 しかし、桜の花を嫌う者も確かに居るのだ。「同期の桜」と言う言葉に代表されるような、それは絶望的な戦争の歴史に重なるからだ。昭和二十年にもなると、元より鉱物資源の乏しいこの国の戦況は悪化し、片道の燃料しか積まずに出撃する、所謂神風特攻隊などの悲劇が始まることになる。散り際の美しさが桜ならば、それをシンボルに掲げた国の臣民はそう在らんとされた。
 大平洋戦争末期、徴兵された兵士は皆若く、特に志願して軍隊に入ったものでもなかったが、与えられた価値観を純粋に信じながら、結局は無駄に死んで行ったのだ。忌むべきは桜、一度は散るも毎年無垢の花を枝に連ね、死んだ者は二度と帰って来ない。矛盾に傷付けられた心は未だ回復しない。そのまま、今年もこの花を見る世代は存在している。
 憂うべきは桜。
 無論五人の少年達に戦争の記憶は無いが、ある程度は話として聞いているかも知れない。だが彼等にもそれ以上と言えるかも知れない、忘れられない戦いの記憶がある。どちらにしても、戦闘とは命に関わることだ。桜の花にはどうしても、切り離せない影が付き纏うものらしい。
 忘れてはいけない、桜の美しさは多大な悲しみを映している。
 ただ忘れてはいけない、例え通り過ぎた過去だとしても、それは常に、何かの折に引き出される失敗の記録であり、幼い思想の求める理想郷は、いつも破滅へと続くことを示している。この国の歴史も、戦士達の戦いについても同じなのだと。
 そして、今は心穏やかに過去を振り返り、命あることの尊さを愛でることもできる。日毎に春の気配が増す頃になると、特に遼はそんな心境へと至っていくようだ。花見の頃とは、戦場に立った者達の旗日だ。言葉として理解していないとしても、死を垣間見た者だけが、桜の美しさを真に喜べると知っている。
 だから、最後の戦いを最も負担に感じただろう、伸の苦労を労ることもできる…。

 萩市内で桜が見られる場所と言えば、萩城跡の指月公園が有名だが、そこは由緒ある毛利庭園の一角、一般に公開されているとは言え、敷物を広げて宴会を開く場所ではない。市民は専ら、伸の家から程近くにある公園に集まり、現代の花見の宴を毎夜繰り広げている。
 最盛期にはまだ二、三日間があるこの時期、今ならそこまで場所取りの苦労はないだろうと、伸は考えてその場所を案内していた。
「春と言えば、お花見お花見〜♪」
「まだ五分から六分咲きってところだぞ」
 何故か不必要に浮かれている秀に、毛氈を敷き終えた当麻が再び声を掛けるが、最早立て板に水と言った様子だった。一体何が彼をそうさせる。
「結局さ、何かにかこつけて楽しめればいいんだろ?」
 横でそう呟きながら笑っていた伸には、
「そうそう!」
 と、秀は力強く相槌を打って見せた。彼は続けてここぞとばかりに、重そうに肩から下がった鞄に手を入れると、皆の前である物体を明らかにして見せる。
「だから俺はフンパツして、『越乃寒梅』持って来たぜー!」
「おおっ」
 しかし素直に反応したのは征士だけだった。説明するまでもないが、高校生に日本酒に関する知識を求めるのは間違っている。否、知識だけなら当麻辺りは知っていそうなものだが、酒類を飲みつける習慣もなければ、何が良いかを語れるものではなかった。そしてもうひとつ、
「僕らは未成年なんだよっ!?」
 伸はこの宴会の監督者でもある為、予定に無い飲酒行為は心配の種だった。先の冬休み、特別なお許しの元で開かれた新年会は、室内だったこともあり、伸本人も些か羽目を外して楽しんだが、屋外で明から様に酔っ払っていれば、最悪の場合警察に補導されることだろう。友達を呼んでいる時に、問題が起こればそれぞれの家に顔向けもできない。
「そう言うなって!。もう誰がどのくらいいけるかは分ってんだしよ!」
 秀は「心配はない」と言って除けたが、伸はどうにも承諾し兼ねていた。
「まあ秀一人でも、一升くらいなら問題無いだろう」
 と、珍しく征士が口を挟むと、秀はそれに快く応えるように、
「征士は一升くらいじゃ顔色変わんねーしよ、なぁ?」
 笑いながら伸にはそう聞かせていた。
 秀と征士、彼等の気の合わせ方から窺えるのは、只管『酒を飲みたい』と言う一心だった。そしてひとりならまだしも、複数で意気投合されると切り捨て難くなるものだ。
「う〜〜〜ん、しょうがないなぁ…」
「ハハハ、まあ俺達は一杯だけにしとこうな!」
 遼が纏めるように言って、渋々容認する伸を宥めている。その横で秀は、既に晴れ晴れと他の持参品を広げ始めていた。
 わざわざ横浜で買い求めて来たと言う、杉材の升を彼はひとりひとりに配って回る。楽しむ場に対して抜かりがないのは大したものだ。そして栓を抜いた高級な清酒の瓶からは、洋酒に比べれば幽かなものだが、花の香にも似た柔らかい香りが漂って来る。意見が通ったことで秀は増々調子良く、それぞれの升に瓶の中身を注いで歩いていた。
「…こう言う場では、遼が音頭を取るのが筋だと思うが?」
 注文通り半分までで止めてもらった、升を掲げながら当麻が意見すると、
「おう賛成だ、頼むぜ大将!」
 最後になみなみと注いだ升を手にして、秀は力強く遼に合図を促す。
「よ、よーし…」
 別段宴会の掛け声に慣れている訳でもないが、遼は何となくやる気を見せて言った。
「では僭越ながら…、かんぱーい!」
「乾杯ー!」
 因みに、何がお祝いなのかは前に触れた通りだ。鎧戦士達には鎧戦士達の、大日本帝国兵には大日本帝国兵の、今日は特別なお祝いだった。

 さて、特に辛口ではない銘柄の、特級酒のまろやかな味は案外、酒を飲みつけない者の方が喜ぶかも知れない。
「…あ、おいしい、これホントに高級なお酒だな」
 ほんの一口飲んだだけだが、伸にはその違いが判ったようだ。
「だろっ、有名なんだぜ?、新潟の酒で…」
 すると秀は得意そうに蘊蓄を並べ始めた。彼が他者に知識をひけらかすことのできる、数少ない分野だからかも知れない。ところがそうして話している内に、
「私には少し甘いかな」
「おい、すっかり空けてから言うなよっ。それでまた注ぐなっつーの!」
 升を満たしていた液体を空にして、征士はさり気なく自分でおかわりをしていた。
「だからなぁ!、やっぱりおまえの方が多く飲んでたんだよっ」
 秀が持ち出したのは無論正月の話だが、
「昔のことは忘れた」
「今日はそうはいかねぇからなっ!」
 しらを切る征士が手を放した途端、秀は酒瓶を確と抱え込んでしまった。その時正月の「誰がどれだけ飲んだか」の謎が解けていた。征士はあまり喋らない分、飲むペースが人より早いと言う事実だった。
「いいかっ、俺がもう一杯空けるまで次はやんねーからなっ!」
「君達…」
 あまりにも高校生らしからぬ争いに、伸が呆れ気味に呟いたその時だった。
「伸ー!」
 と、やや遠くから名前を呼ぶ女性の声が聞こえた。
「あ、姉さんが来た」
 今のところこの場には、一升瓶とソフトドリンクの缶の他には何も置いていない。花見には『お花見弁当』を用意するのが習わしだが、伸が家を出る頃には間に合わなかった為、後から運んでもらうことにしたようだ。
 大きな風呂敷包みを抱えている小夜子は、頻りに辺りを見回す仕種を繰り返していた。伸はその場を立ち上がって、彼女から判るように大きく手を振って見せる。漸くそれに気付いて、彼女は小走りに伸の元へと駆け寄って来た。
「はい、これで全部よ、お弁当、…?」
 そうして一時安堵した態度を見せて、彼女はしかし、そこかしこに漂う臭いにふと顔を顰める。
「お酒の臭いがするけど…」
「あー、何故か…」
 本来ならば、それを咎めなければいけない立場だっただろう。伸からは年の離れた姉だ、そうする理由も資格もあった筈なのだ。けれど、
「…私はいいけど、みんなちゃんと自己管理してね。箍が外れないように」
 とだけ彼女は告げた。伸の家では彼のすることには、殆ど注文を付けられた試しがなかった。それが伸の成長の為であるのか、或いは他の理由なのかは判らないが、仲間の一部からは、酷く羨ましい環境に映っていたようだ。常に伸をフォローしてくれる姉君についても。
「大丈夫、俺は殆ど飲めないから、周りを警戒する役に徹しますよ」
 当麻がそう答えると、
「大人しーく、見つからねーようにやりますっ!」
 秀は変わらず調子の良い言葉を続けた。彼等がそんな、バラバラな個性を主張し合いながら、それぞれ嫌味なく己に正直で、そしていつも仲が良かったこと。これまでの経過を考えれば、伸には大事な友達だと知っているから、小夜子は何も言わなかったのかも知れない。彼女は殆どノータッチでいながら、弟を酷くよく理解しているように感じられた。
「はいはい。じゃあ、お開きにした後は母家の方にね」
「うん、ありがとう姉さん」
 何処かしら、普通の姉弟ではないようにも感じられた。
「…伸のお姉さんって、伸にそっくりだよな」
 彼女が離れてしまってから、遼が呟くようにポツリとそう言った。
「昔会った頃より今の方がもっと似てるぜ!」
「普通逆じゃないか?」
 秀が最初に彼女に会ったのは、まだ阿羅醐との戦いすら終わっていない、伸が十五才の夏だった。続けて当麻が指摘したのは、年と共に男女差が際立って行く筈だろう、との予想だが、実際は当時まだ子供の顔だった伸が、既に大人である姉の顔に近くなっていた。まあ、この後幾らか時間が経過すれば、当麻の言う通りに変化して行くだろう。
 ただ、今の時点では否定できないことだった。
「悪かったねっ、そっくりで。ついでに言えば、母さんもそっくりだって言われるよ!」
 伸はそれらの言葉には飽き飽きしていると、少々不貞腐れたように返していた。
 その時ひとり、話題に乗って来なかった征士。彼は伸と姉との関係について、本人から少しばかり話を聞いたことがあった。しかし過去はともかく、今はその時のようなわだかまりを、この姉弟には感じられなくなっていた。だから関心が向かなかったのだろうか?。
「…どうした征士?」
 当麻が声を掛けたので、他の者達が一斉に彼の方を向いた。見れば再び空になった升を大事そうに、両手で包むように持ちながら止まっていた。俄に青褪めたような顔色をして、何処を見ているのか判らない虚ろな目をしている。
「東北モンのおまえが、このくらいで酔うわきゃねぇよな?」
「…酒に酔った訳じゃ…」
 秀の問い掛けには、掠れた声で何とかそう答えられていたが、
『何だろう、この感じは…。馬鹿な、月など見えていない…!』
 訳も解らぬまま、突然えも言われぬ不安に駆られる。酷く苦しい思いが己を支配していた。それはまるで、白い月を見た時と同じようだった。
「征士!」
 彼は眠るようにその場に伏せてしまった。



 眠った後には昨日の悲しみが、ほんの僅か色褪せていることに気付くだろう。
 記憶とはそうして、いずれ何もかもが曖昧なものになって行くけれど。

 時は遡る。
 そこにはおかっぱ頭の、赤い着物にぽっくりを履いた少女が、白髪の老人に手を引かれて歩いていた。老人は所謂御隠居の身であり、水戸光国ではないが、国内を旅して歩くのが隠居後の唯一の趣味だった。その時も恐らく、老人の趣味でそこへ足を運んだのだろう。花見に賑わう休日の庭園、春の陽がさんさんと降り注ぐ午後だった。
 子供好きな老人はにこやかで、預けられた子供の歩調に合わせながら、注意深く人混みを進んでいた。
「綺麗なもんだろう、本土の桜は少し様子が違うだろう?」
 老人は見物客の行き来する中、立ち止まっては空を見上げて、常に子供に話し掛けながら気遣っている。
「和霊神社の桜は見頃を過ぎたが、花はこうして北へ向かって旅をするもんだ」
 けれど、横に立つ少女の方はと言うと、話を聞きながらも周囲の騒がしさを気にしていた。殊に同じくらいの年の子供達が、嬌声を上げて駆け回る姿を目で追っている。そしてこう言った。
「…わたしはどうして、こんな格好をさせられている」
 大人の気遣いも空しく、気にしないでいてほしいことをまず気に掛ける少女。否、それは幼い頃の征士だ。周囲の様子を見て不貞腐れてしまった彼に、
「ま、ま。それももう少しの辛抱だ。来年学校に上がったら、みんなと同じようにしてもらえるだろう」
 老人はそう返して頭を撫でて遣るしかなかった。
 子供が健康に成長するように、との願いは親ならば誰もが持つものだが、その為に現代では特異な風習を押し付けるのは、大人の我侭と言えるかも知れない。単に家が続くことを思うなら、後継者は彼の姉でも、妹でも構わない筈なのだ。
 遊び盛りの頃に、同年代の子供達と同じにできない征士は、老人の目から見ても些か不憫だった。もっと小さな頃ならまだしも、そろそろ異質な者を意識して排除するような、人間的な感情が育って来る頃だと思う。既に彼の姉は、普通でない弟を家から追い出してしまった。
 つまり征士が、今も縁続きである宇和島伊達家に、休みの度に預けられているのは姉の所為だった。やや年が離れている姉の方が、当然だが体も大きく力が強かったこの頃は、喧嘩となると征士が負けるのが通例であり、間違いが起こりはしないかと、彼の親は気が気じゃない日々を送っていたようだ。それ程に姉弟の仲は悪かった。
 まあそれは単なる昔話でしかない。ある時期からは姉の方が、矢鱈に火花を散らすこともなくなっていた。
 小さな征士を宥めていた老人の目に、通り過ぎた子供が手にした綿菓子が見えた。征士の目線に合わせて、低くしていた姿勢を伸ばして眺めると、通りの先に屋台の様な茶屋が出ていて、団子などの菓子を売っている様が見られた。そこに集まる花見客で、折り重なるように人集りができていた。
「茶店が出ているな。よし、爺が菓子でも買って来てやろう。ここの椅子に座って待っていなさい」
 園内の歩道に沿って並んでいるベンチに、征士は大人しく座って、人混みに紛れて行く老人の背中を彼は、黙って見詰めているしかなかった。変わらずあちらこちらから、元気に走り回る子供達の声がする。胴衣を着ている時なら可能だが、この格好では早足で歩くことさえ厄介だった。恨めしそうにその光景を眺めながら、真直ぐに、切望して止まない「少年らしい生活」を求めていた。
 その時。
 目の前に舞い降りた花びらを追って、椅子を立ち上がった征士の着物の袷から、見覚えのない珠がひとつ転がり出た。それが何だったのかは今も判らないが、零れ落ちたそれはなだらかな草地の上を跳ね、勢い良く転がり出して離れて行く。憶えはないが、何か大事な物かも知れないと、征士は慌ててそれを追い掛けて行った。そして追い掛ける内に、元居た場所が判らなくなる程、遠くまで離れてしまったらしい。
 辿り着いたそこは、花見のメインストリートからは外れた、あまり人気もなく、疎らに若木が点在する庭の一角だった。まだ細く、花付きも不十分な桜ばかりでは流石に、その周囲に集まろうとする者も少ない。けれど征士の目はある一点に止まっていた。
 一本の若木の枝の元に緋毛氈が敷かれていた。
 そこに、征士と同じくらいか、少し小さいと思える年頃の少女が居る。
 とても妙な光景だった。否、征士には見慣れないものばかりだったようだ。舶来の陶人形が着ているような、エプロンの付いたワンピースを着ている。頭の横に小さく結わえた髪が、作り物のようにくるくると巻いている。又、似たような格好をした人形も傍に置いてある。並べられたガラスの食器に、少女は桜の花弁などを集めて、ひとりでままごと遊びに興じているようだった。
 その見慣れない様子に征士は酷く心惹かれて、一歩、また一歩と恐る恐る歩み寄った。そして毛氈の縁に彼の影が掛かると、その少女は俯いていた顔を上げる。暫く黙って征士の顔を見上げていたが、驚いたことに彼女は、
「ようこそおいで下さいました」
 と、きちんと三つ指を着いて挨拶したのだった。
 今思えば何のことはない、大人の行動を真似してそうしたのだろう。けれど再び顔を上げた時の、少女の微笑する顔は今も驚く程鮮明に思い出せた。微風に煽られる亜麻色の髪に、新緑の若葉を思わせる翡翠玉の様な瞳をしていた。誰かによく似ている。この記憶が存在したからこそ、征士は似たような面影に惹かれたのかも知れない。
「こちらにお上がり下さい、お菓子をいただきましょう」
 掛けられた言葉の形式立った様子とは違い、少女は人なつこそうな態度を見せていた。征士は促されるまま緋毛氈の上に正座していた。実を言えば、彼はままごとの類は嫌いだった。姉に無理矢理付き合わさせる度に、喧嘩になって更に嫌な思いをするのが落ちだった。だが、この場では断らなかった。
 籐のバスケットから取り出されたのは、中世の舞踏会の絵の付いた丸い菓子の缶。少女がその蓋を開けて、やはり見慣れないキャンディやチョコレートの、金銀の包みを小さな手で掴んでいる。それを桜が敷かれた食器の上に並べて行く様を、征士は食い入るように見ていた。
「どうぞ、お召し上がり下さいな」
「…ありがとう、ございます。いただきます」
 勧められるまま、征士はそれを手に取って口に運んだ。少女はそんな彼の様子を嬉しそうに眺めていた。彼女は自分の場所に、誰かお客が尋ねて来るのを待っていたに違いない。これはそうした遊びなのだと征士は思った。
「さあ、ごあいさつなさい」
 すると、少女は傍の人形を膝の上に乗せて、
「この子の名前はマリエールちゃん。大事なおともだち」
 と、その頭を下げさせて見せた。それは子供の体に対してかなり大きな人形だったが、彼女が両手に抱き締めると、丁度ペットの犬猫のようにも感じられた。そして尚も嬉しそうに笑いながら、少女はこんなことを言った。
「あなた、このお人形にそっくり」
 子供ながらに、征士はこの状況をよく呑み込めていた。つまり彼女の大事な人形に似ていたから、自分はここに招かれたのだと。似ているとは言っても、髪の色と目の色くらいのものだったが、何故だかそう言われたことは嬉しかった。
 よく笑う少女の腕に抱き留められている、その人形が分身の様に思えたのかも知れない。

 そうしてぎこちなく、時にはにかむように笑い合う内に、空では陽が傾き始めていた。
 常に遠くに聞こえていた、人々のざわめきも様子が変わって来たようだ。そろそろ帰り支度を始める者と、夜桜を楽しむ者が入れ替わる頃だった。ふたりを包んでいた柔らかい光が、ややオレンジ色に霞み始めて、少女は名残惜しそうに言った。
「もううちに帰らなきゃ。…こ、これでおいとまして、よろしいでしょうか?」
 名残惜しいのは征士も同じだったが、それを聞き入れない訳にもいかなかった。子供の分際では、家の決まりを破るのは重罪だと、素直に思えていて然りだ。
 けれど、征士はそのすぐ側に立ち止まったまま、少女がその場を片付けてしまうのをずっと見詰めていた。バスケットを片手に、もう片方の腕には人形を抱えて立ち上がった、彼女も流石にその視線に気付いて問い掛ける。
「…あなたは帰らなくていいの?。おうち遠いの?」
「遠いけど、今は爺と旅行してるから」
「ふうん…?」
 少女は今ひとつ要領を得ない風ではあったが、その時征士の後ろに何かを見付けて、ぱっと表情を一変させた。
「お月さま」
 振り返ると、薄茜の空に浮かんだ白い月が、とても美しく映えていた。
 月を含めた辺りの景色は、切り取られた写真の様にそれは見事だった。景色が素晴しいから気持が洗われるなど、子供の彼等には思い付かないことだが、夕陽に暮れようとしているこの世の切なさだけは、既に感じ取れるものだったようだ。続けて少女は話した。
「…おともだち、この子しかいないの」
 何の前置きもなく漏れた言葉。それがどれ程の悲しみかをその時、征士にはまだ理解できなかった。が、自分に似た人形を大事に抱えている彼女には、何かしら答えてあげたかった。ただ、何を言って良いのやら思い付かない。
 するとそこへ、
「こっ、こんな所に居たかっ!。…随分探させおってー」
 憔悴し切った老人の声が響き、やがて走り寄るなり征士に言った。
「黙って居なくなるとは何事か!。人がどれ程心配するか分からないか?、いつも皆の気持をよく考えろと言っておるだろう!」
 無論そう言うのは躾の為だが、口調には多分に怒りが含まれていた。老人の立場から言えば仕方のないことだ。しかしその結果、肝心の征士よりも、傍に居た少女の方を怯えさせてしまっていた。
「あっ、驚かせてしまったかな?、ああ悪かった悪かった。…お嬢ちゃんは、この辺りに住んでいるのかね?」
 老人は努めて穏やかな口調に戻したが、少女は怖がる様子のまま、逃げ出すようにその場を立ち去ろうとしている。僅かずつ下がって行く彼女を見て、
「待って」
 と征士は呼び止めた。
「あした。あしたまでいるから、あしたまたここで待ってる」
 迸る征士の言葉を、老人は狐に摘まれたような顔で聞いていた。確かに明日までここに滞在する予定だが、昼頃には空港へ向かって、征士を仙台の家に送ることに決めていたのだ。しかし当時、征士はなかなか強情なところがあると知られていた。仮にも次の当主と定められている子供故、軟弱であるより良い気質だと解釈されていた。拠って、ここは言うことを聞いてやるしかなさそうだった。
 少女の方は、やや困った顔を見せながらも、小さく頷くと、小走りにその場から去って行った。限りなく満月に近付く白い月が、ふたりの小さな約束をぼんやり眺めていた。



 翌日。
 征士は約束通り、昼前にはその公園の一角にやって来ていた。しかし相手の少女の方は、その姿をなかなか現さなかった。平日に戻ったその日は、行き交う観光客の他に花見の人出は無く、昨日の騒がしさからは格段に静かだった。尚、閑散とした草地の片隅に、征士はもう小一時間も待ち続けていた。
「のお、征士、そのお嬢ちゃんは何と言ったかな?」
 仕方なく付いて来た老人は尋ねるが、
「…知らない」
 と征士は答えるばかりだった。ぼんやりと穏やかな、楽しい時を過ごしていたのは確かだが、お互いに名前を聞くことはしなかった。その日花見の賑わいの中で、共感の内に通り過ぎる思い出となる事だと、暗に感じていたからかも知れない。だから『またあした』の言葉は、咄嗟に出た感情と言う他にない。時間を指定するのさえ忘れてしまった程だ。
 老人は征士の答に少なからず不安を憶える。小さな子供のことだから、気紛れな約束など忘れてしまったのでは?、と考えられた。そうなった時に最も傷付く者を案じているのだ。
 けれども。
 午後一時にもなろうと言う頃、草地の丘の方角から、一目散にこちらに走り寄る小さな人影が現われた。昨日の少女に違いない、と見付けるなり征士は思う。そして傍に立つ老人も、その様子を見てホッと胸を撫で下ろしていた。待ち惚けにならずに済んだのは幸いだった。
 ところが事は、思いも拠らぬ結末を迎えようとしていた。
 徐々に近付いて来る子供の姿形が、見開いた征士の目にくっきりと捉えられて行く。その経過である一秒一秒、或いは心臓の鼓動が耳に付く音を刻む度、征士の中に、何とは言えない複雑な感情が首を擡げ、その形を成して行った。
 怒り、悲しみ、戸惑い。そんな言葉で代弁できるかも知れない。まだ幼い彼の心の中には、いつからかそんなものも形成されていた。これまでに少しずつ溜め込まれて来た負の感情には、誰も気付かなかったけれど、今は征士の全てとなって現われていた。
 息を乱しながら、
「いつから待ってたの?、…今日、学校があって…」
 と言った、征士の待つ場所に現われたのは、少女ではなく少年だった。紺色の帽子に白のシャツ、緑の格子模様の半ズボン、背負っている大きなランドセルには、新一年生の印の黄色いカバーが掛けられていた。だがその帽子の鍔から覗く控え目な笑顔は、紛れもなく昨日の少女のものだった。
 征士は何も答えなかった。黙って目前の情景を見据えている彼に、少年は何となく様子を察して、やや畏縮しながらもう一度話し掛ける。
「あの…ね、ごめんね、…」
 彼にしても、征士を騙すつもりはなかったのだ。だからすぐに謝罪の言葉も出たけれど。
 不安気に立ち竦む少年の小さな顔に、一瞬大きな風圧が感じられた。ような気がした。
『バシッ』
 人影も無い昼間の庭に、その音は鋭く響いていた。
 突然の思わぬ状況に、老人が慌てて何かを言い募ろうとした時、その少年の後を追って来たらしき、セーラー服の少女が小さな悲鳴を漏らす。
「…どうしたの!?」
 高校生だろうか、髪を後ろに束ね皮の鞄を下げたその少女は、草地の上に膝を付いた少年の元に走り寄る。すると目に涙を溜めて、彼は少女のスカートの襞を手繰り寄せるように、彼女にしがみ付いて泣き始めた。ふたりが似た容姿をしているのはひと目で判った。
「あ、あ、お嬢さん、この子のお姉様か何か…?」
 老人が話し掛けると、
「はい、そうです」
 彼女は簡潔にそう答えた。少女は泣いている弟の異変を気に掛けていた。口を歪ませた妙な表情を見て、その顔を持ち上げさせると、口からは一筋の血が流れている。何処かを切ったようではない、と口を開かせると、そこから小さな白い物がポトリと落ちた。歯が折れていたのだ。
「これはとんだ事を!。子供がやったとは言え、申し訳ない事をしてしまった…。これ!、おまえも謝りなさい!」
 しかし事態に狼狽える老人の心境など、その時の征士に思い測れはしない。彼は両手をきつく握り締めて、促される事を頑に拒んだ。
「…いやだ」
「何を言うかっ!、己が手を上げたのだろうが!」
 征士は首を横に振るばかりだった。
 こんな場合に於いても、何を言っても無駄だと老人は知っていたが、目の前でキョトンとしている少女に対し、何とも決まりが悪かった。
「本当に、申し訳なかった。…この子はこうと決めたら譲らぬところがあって…」
 そして溜息をひとつ吐くと、
「改めてお詫びに伺いたいと思うが、お宅はどちら様かね?。できれば…」
 老人はそう申し出たのだが、その言葉を中途で遮るように少女は返した。
「いいえ、そんな大層なことをされなくても結構です。命に関わるものじゃないと思います」
 彼女の物腰は柔らかく、無論まだ未成熟な様子を窺わせる仕種だったが、丁寧にきっぱりと断った様子からは、その育ちの良さが充分に伝わって来る。ならば尚更、きちんとした形で謝罪するべきだと、老人はすぐさま呼び止めようとした。が、
 少女はその場できちんとお辞儀をすると、啜り泣く少年の手を引いて、静かにその場を歩き始めていた。明ら様な態度にこそ表さないが、彼女がどれ程弟の様子を案じているかを知る。常に彼の心の波長を汲み取っているような、些か神経質な様子にも感じられた一部始終。なので老人も、これ以上長くは引き止められなかった。誰にも偏に大切に思うものはあると、年数を永らえた者には解り切ったことだった。
 征士が何を感じていたかだけは、解らないまま。

 それがひとつの結末。しかし未だ終わらない過去でもあった。

 何故あの時、私は素直に謝らなかったのだろう。何故傷を負わせる程強く叩いたのだろう。
 白い月を見る度に、正体の判らない苦しさが込み上げて来る。
 けれど同時に、私は苦しみの向こうに、与えられた僅かな幸福の記憶も見ている。
 あんなに愛しい時だったから、今も忘れないでいることを。



 白い月が見えた。

 ハッと我に返った。征士が突然起き上がると、気付いた面々はそれぞれに声を掛ける。
「おっ、やっと起きて来たぜ?。よく寝てたなぁ征士」
「どうしたの、そんなに疲れてたのかい?」
「不思議な事はあるもんだ。俺の得意技を奪わないでほしいな」
 尚、一杯だけと言いつつかなり酒が進んでいた遼は、食事の後にすっかり寝入っていた。
 辺りは既に夜の帳が降りて、周囲は宴も酣と言った様子でざわめいていた。花見客の為に特別に設えた提灯の明かりが、日光より優しい色合いで辺りを包んでいた。幕府のお達し通り、桜の時期だけは庶民の無礼講も許される。それぞれが自由の身となって、酒を呑み、弁当に舌鼓を打ち、唱い踊る伝統の春の行事。
「悪ィんだけどさぁ、お花見弁当はすっかりこの通りだぜ?」
 秀は並んだ空の重箱を示して、大して済まなそうでもなく笑っていた。まあ征士なら、こんな事で怒りはしないだろうから。
 そして色々に問われるも、征士にはまだ事情が理解できなかった。今は夜空の月が見えるが、倒れた時にも月が出ていただろうか?。その上、こんな風に昏睡した経験は今までなかったのだが。
 すると、考え込んでいる征士に伸は言った。
「思い出そうとしても、思い出せない事ってあるよね」
「…?」
 征士は彼の顔を見たが、そこで朧げに浮かんだもうひとつの顔があった。
「憶えている夢は起きる直前に見たものさ。普通その前に大量に夢を見るが、その殆どは忘れちまうそうだ」
「へえ?、何か勿体ねぇ話だな」
 当麻の言う普通の夢とは少し違う、遠い日の記憶。かなり不正確で曖昧になっているのは確かだが、小さな少女の顔、伸の顔、似たような印象がふたつ並んでいる場面。恐らく、それが引き金になったのだと征士は感じた。そしてすぐ問い返そうとしたが、
「じゃあ、これでお開きにしようか」
 伸は遮るように、他のふたりに向かって言った。可哀想だが、気持良く眠っている遼にも起きてもらうしかあるまい。

 桜の花、緋毛氈、花見の賑わい、そして良く似た姉弟の遣り取りする様。それらが偶然に揃ったこの時、征士は漸く苦しみだけでなく、過去の出来事の全貌を思い出せたようだ。解らないと言って押し留めていた気持に、向き合ってみようとの考えが生まれていた。もしかしたら己にはその時から、一歩も進めないでいる何かがあるのかも知れないと。



つづく





コメント)1pで終わると思ったら意外と長かった、この話。ちょっとオリジナル部分が多い小説なので、セカンドシリーズに入れるか迷ったんですが、一応原作シリーズの方に置くことにしました。さてさて、取り敢えず続きへ。



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