しんとせいじ
曖昧な月の記憶
#2
Beyond Two Recollections



 夜九時を過ぎて、宴会帰りの面々が伸の家に雪崩れ込むと、その古く広い母家の玄関先には彼の母親と、先程会った姉の小夜子が出迎えてくれた。確かに伸が自ら言った通り、誰もが彼に似ているような、それぞれがよく似た親子だった。
 今五人の前に建つのは、如何にも旧家らしい日本建築の母家で、その間取りは形式通り、襖を外すと大広間になるように造られていた。なので大人数でも気兼ねなく訪ねられた。江戸末期から重ねられた年月が、建て具を趣きある色に変えているこの屋敷を、毛利家が今も大事に使っている理由は、誰もが自ずと理解していた。家と言うものは、住む者が居ないと途端に傷むからだ。
 同時に、荒れ放題の家には人も幸も寄り付かないだろう。
「またお世話になりまーす!」
 ここにはもう三度目、と言う秀がまず明るく挨拶すると、
「すいません、こいつすぐに寝かせたいんですけど…」
 遼に伸し掛かられている当麻は、幾分苦しそうな息で言葉を綴った。何故か遼のお守を任されて、当麻はここまで彼を引き摺るように歩いて来たのだ。眠る人間はより重く感じるものだが、それが自分と同じくらいの体重だからご苦労様だ。
「あらあら大変ね、手伝っておあげなさい、伸」
 そして母親に言われた通りに、伸は母家の引き戸を開けて、当麻が家に入り易いように促した。玄関の三和土から真直ぐ奥へと続く廊下には、既に煌々と明かりが点されている。靴箱の棚の上には、吉野桜に比べ豪奢に感じられる山桜の枝が、萩焼の肌の上に薄紅色の影を落としていた。例え風流の解らぬ子供相手でも気配りされた様子からは、家風から来る伝統の心が感じられた。
 訪ね来る者には皆、密やかな流儀で迎えてくれる家だった。
 結局、秀も手伝って遼を家に上がらせると、三人は殆ど荷物の様に彼を部屋へと運んで行った。酒の所為もあるが、そろそろ遼には就寝時間でもあるので、この場合は仕方あるまいと、誰もが笑って済ませられることだった。
 小夜子は彼等の後を追って母家に上がっていた。風呂の状態を彼等に伝えに行ったらしい。そして玄関先には征士と、伸の母親だけが残っていたが、後は小夜子に任せれば良いだろうと、母親は征士に軽く会釈して新宅へ戻ろうとした。
 一度はその、母家のすぐ横に建つ新宅に戻ろうとしたのだが、自分に向いている征士の様子が、何か言いたそうにしているのを察して留まる。そして母親が改めて顔を向け直すと同時に、
「少し、尋ねたい事があるのですが」
 と征士は、些か言い難そうな態度を表しながら告げた。すると、『どうぞ』と言う代わりのように、彼女は穏やかな面持ちで言葉を待っていた。それもまた何らかの配慮かも知れない。だから征士は、言葉を妙に飾ったり、曇らせることなく話ができたのかも知れない。
 思い切って征士は、思い出された事の核心から切り出していた。
「昔、伸は歯を折った事がありませんでしたか…?」
 ただ事実かどうかを知っただけでは、何かが大きく変わるとも思えなかった。征士に取って最も重要なのは、その事件に繋がる己の気持の問題だっただろう。その時に己が何を思っていたのか。そして何故その記憶に今も苦しんでいるのか。
 けれど征士は思い掛けない返事を耳にする。
「そんな事、気になるかしら?。もう殆ど忘れちゃったわ」
 妙にあっさり片付けられてしまった。否、それがもし自分に対する気遣いだとしたら、話し掛けた目的に合わないと征士は察する。聞きたいのはそうではなくて、と彼は続けようとしたが、伸の母親の方がやや早く口を開いていた。
「それにね、私達の方が恐縮した思い出だから」
「…?」
 そしてひとつ息を吐くと、彼女は征士の知らない事実を話してくれたのだ。
「あなたには知り様もないことでしょうけど、あの後あなたのお父様が、わざわざ仙台からおみえになったのよ。どうやって家を探し当てたかは存じません、きっとそれ程に必死だったのでしょう。…それは頭を低くされて、とても悲痛な様子で謝っていかれたのよ。流石にお見舞い金はお断りしたけれど、ね、高々子供の乳歯が折れたくらいのことでね」
 流石に返す言葉が出なった。
 己の知らない所で、子供にありがちな事件を深刻に受け止めていた、大人達の心情が今なら征士にも解る。何も見えていなかった、子供らしいと言えば子供らしい天真爛漫な、お山の大将だった過去を恥ずかしくも思う。それを弁明する言葉など出はしない。
 しかし征士の表情とは対照的に、不思議な薄ら笑いを見せて母親は続けた。
「そんな時はいつも思うのよ…、代々続く名家なんて家は、本当に窮屈よね。理屈に合わないしきたりも、他所への体面ばかり気にする生活も、家の名前には必要なことでしょうけど、生きている人間には面白くないことばかりね…」
 引き続き、愕然とした心境は変わらないままだったが、後に続けられた話の意味も、征士にはよくよく理解できることだった。昔話ではなく、今に於いては正にそんな壁に突き当たっている。そして、同様の背景を持つ者なら、誰もが感じていることだと彼女は説明した。少なからずそれは征士に取って救いだった。
 全く違った話をしている内に、偶然耳にすることができた歴史の本音。
「きっとあなたも、小さな頃からそんなものに押さえ付けられて来たでしょう。…でも私は思うのよ、決まりで縛り付ける為に家があるんじゃない、親として一番嬉しいことは、いつの世も、子供達が幸せに生きていることよ…」
 伸の母親の話は、いつしか辛辣な事実の陳述から、子守唄のような呟きに変わっていた。征士は黙ったまま、彼女の言葉に耳を傾けることしかできなかった。問い返したい疑問も、言い募りたい話も特に無くなっていた。不思議なことに、それだけで。

『…何と、謝るつもりが励まされてしまった』
 今は他に誰も居なくなった玄関先に、佇む征士は独りごちていた。初めて耳にした過去の内容は、それ相当の衝撃と動揺を彼に与えていたが、今、征士の心境は安静なものに落ち着いていた。
 それはひとつの発見に因る。同じ大人の集団と思えていた人々は、実はそれぞれに違った意見を持って生きていること。年令の差から、絶対的に解り合えないと思われた集団は、個人個人と見るとこんなにも違うと知った。似たような環境に居る全ての者が、全て同じ悩みを抱えている訳ではないが、世界は広く、人間は大勢居て、それぞれに違った意識も、似通った意識も持っている現実。
 だとしたら誰もが、望む場所を見付けられる可能性はあるだろう。己が望む環境も何処かに存在するかも知れない。己が自由に息のできる場所が、と征士は考えて、もう一度幼少の頃の記憶を思い返していた。
 心に溜め込まれて来た苛立ち。家と、それを取り巻く環境、いつも己を取り囲む大人達から与えられたもの。つまりはこの体を流れている『血』に、全てを支配されているようなものだ。
 思い返せば、私はいつも逃げ出したかった。
 女の格好をすることも、家督を引き継ぐ為の教育についても、己の為を思って与えられた義務だと、考える前に受け入れざるを得なかった。それが当たり前のようになった後にも、常に心の何処かに、全てを捨ててしまいたい、粉々に壊してしまいたいと願う己が存在していた。
 恐らく、あの時白い月に見ていたのは、そこから繋がる他の世界なのだ。異国の服を着て、異国の人形を手に持ち、珍しい菓子を差し出してくれた少女が、私を何処か違う世界へと、連れて行ってくれるかも知れないと言う幻想だ。
 いつも他の価値観を欲しがっていた。
 私は逃げたかった、白い月の向こうに。



 騒ぎ疲れたのか、それとも飲酒の所為なのか、その夜は無事に戻った者達の誰もが、夜更かしをせずすぐに寝付いてしまった。伸も普段は新宅の自室に眠るが、今日は皆と一緒に母家に寝ることにしたようだ。どちらにしても、伸には馴れ親しんだ家に違いないので、落ち着かないと言うことはなかっただろう。
 ところが、仲間達がすっかり寝静まったその部屋から、伸はひとり抜け出して母家の外へ出て行った。その音を征士は聞いていたが、彼の家に於いては、彼だけの用事もあるだろうと気にせずいる内に、伸は再び母家へと戻って来ていた。やはり気にする程の事ではなかったようだ。
 そう征士が思い、明日以降に彼と話をする機会があるだろうか、と考えながら眠りに就こうとした時、何かが征士の頭の上に触れた。そしてそれは不器用な動きで、寝ている頭を揺り動かそうとするのだ。
「まだ寝てないだろ、征士」
 声の主は伸だとすぐに判ったが、征士はやや不機嫌そうに上体を起こす。
「…人を足げにするな」
 伸は襖に寄り掛かって座っていた。そして意味ありげに笑いながら、片手を自分の背中に回して言った。
「君にいい物を見せてあげよう」
 背中の後ろに何かを隠しているらしい。就寝用の、豆電球の明かりではすぐに見出せなかったが、征士の顔のすぐ傍まで近付けられると、それは、金の巻き髪に薄紫の目をした、例のフランス人形だった。
「マリエールちゃんだよ〜ん」
 伸は何故だか愉快そうに、しかし他の者を起こさない程度の小声で言うと、それを自分の頬に押し当てるように抱いて見せた。当時は妙に大きな人形に感じられたが、今はそれなりの存在感しか受け取れなくなっていた。そして年数と共に些か古びた様子でもあった。
 伸の言いたいことは、最早征士にも解らなくなかった。『思い出そうとしても思い出せない事もある』と言った、彼は征士よりも前から、過去の出来事を知っていたのだろう。もしかしたら、最初に会った頃から気付いていたのかも知れない。征士は忘れていたが、別の人間には忘れられない記憶となることもある。無上の幸福だったか、拭い去れない苦痛だったかはともかく。
 そして、知っていて何も気付かせなかったのだ。おくびにも出さなかったのは、伸の精神の強さのようにも感じられた。黙っていた彼の配慮が、何も知らなかった征士には酷く申し訳なく思えた。
 同時に見透かされていた気がして面白くない。
「伸の友達だっただろう、唯一の」
 征士は少し皮肉っぽい口調でそう言うが、伸は穏やかなまま、
「そうだよ」
 と答えて瞳を伏せる。彼の様子が微妙に変わったのが感じられた。
「僕はねぇ、君とは反対だったのさ。あの頃の僕には、女の子の格好をしてなきゃならないって、理由があったからね」
 特に苦し気な告白ではなかったが、それはとても奇妙な話だった。
「最初はただ、姉さんが羨ましかっただけなんだ。ほら、何て言うかさ、男の子の服ってデザイン的につまんないだろ?。姉さんの方がいい服を着せてもらってるって、僕がしょっ中拗ねてたからさ、ある時小さくなったお下がりを着せてもらったんだよ。そしたら父さんが『かわいいかわいい』って笑ったんだよね。…結局服のことより、父さんが喜んでくれたのが嬉しかったんだ。
 それからはよくそんな格好をしててさ、何でも姉さんの真似ばっかりしてたけど、小学校に入る少し前に、その父が死んじゃっただろ?。僕は実際なかなか立ち直れなくて、母さんや姉さんを随分心配させたらしくてね。だから、少し変な行動をするようになった僕に、無理に止めろとは言わなかったんだと思う。僕に取っては喪服みたいなものだったんだ、あれはさ」
 いつも父親が自分を見ていてくれるように。そんなことを伸は思っていたのかも知れない。そして小さな伸の悲しみを知っていたから、母親も姉も、何より彼の心を気遣っていたのだろう。端からも神経質に感じられる程に。
 ただそれは単なる昔話に過ぎない。伸は更に続けた。
「そんな訳でさ、学校に行き始めた頃はなかなか友達ができなくて。早生まれだから、他の子供より劣ってたところもあったし。でも不思議だね、君は昔の自分を思い出すのが嫌みたいだけど、僕は全然そんなことはないよ。女の子の服を着てることにも、何の疑問も持ってなかったな」
「…解らないことだ」
 征士は大人しく聞き続けていたが、そこで初めて口を開く。それに続く言葉は何も無かったが、伸にはひとつ答えられることもあった。
「それが君と僕の違いだね」
 過去の悲しみの為に、却って冷静にそれを振り返れることと、盲目的な平和でしかない過去が、思い出すのを辛くしていることの差が、何に拠って振り分けられた心理かを知っても、過去の凶事を変えることはできないけれど。
 少なくともそんな彼等が出会ったのには、何らかの意味があるかも知れない。今これから変えて行ける事も必ずあるだろう。
 記憶とは何れ、何もかもが曖昧なものとなって、己を守る幸福だけが残るのだから。
「僕は、自分の周囲の人が喜んでくれるなら、何でも素直にやる子供だったんだよ。今も大して変わらないけど、お陰で時々自分が解らなくなるね。自分って何なんだろうと思うこともある。…でも結局さ、少しくらい面白くない思いをしても、他のみんなが傷付かないなら、それでいいやって考えてるよ。多分昔の僕もそう考えてたと思うよ…」
 伸にはとうに、ただ懐かしむだけの昔だった。他の誰かにもそうであってほしいと、願うばかりだった。
「こんな考え方は嫌いかな、君は」
 そして変わらない、何処か淋し気な微笑を以って、伸は他人の感情ばかりを気にするので、
「またそんな事を言うか」
 征士は襖に凭れている伸に近寄ると、右手を彼の頬の横にスッと翳して言った。
「もう一度叩いてやろうか?」
「…今度は頬骨くらい折れるだろうね」
 笑いながら答えた伸の横で、ピシ、と殆ど聞こえない振動が感じられた。叩くと言うより、軽く弾いただけのようだ。それでも一瞬、強張るように動作を止めた伸は、確と目を開けて征士の顔を見ていた。彼は今度は、伸の頬に唇を寄せた。
 もう抑圧から来る我侭で、自ら希望を傷付ける程子供ではないと言うように。

 鎧戦士として生きることに、一度は逃げ道を見い出したつもりだった。
 けれど今度はそれに絡め取られて、長く苦悩する日もあった。
 いつも悲鳴を聞かせる心を解き放つのは、
 遠い記憶にも、目の前にも居る、伸だった。









コメント)「光輪伝」の設定を使っているので、かなり征士寄りの話になっちゃいました。元々伸の子供時代を書こうとしたんですが、こういう形でしか話にならなかったです。
過去から同人誌では、母がいない遼の淋しさについては、よくよく書かれて来てるのに、伸の父に関する話は、あまり突っ込んだものを読んだ記憶がないんです。伸がいつも笑ってるからと言って、楽々それを乗り越えられた訳じゃないんじゃないの?、と言う疑問から始まった創作でした。その辺の話は今後もまだ書く予定です。
ところで、伸の家族は征士のことを知ってたんですが、征士の家族は爺さんふたり(征士の祖父と、話に出て来た親戚)と父以外は、過去のことは知らないままです。母の耳に入ると大事になると思ったようです(笑)。




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