土中と水中
有限未来
The Rimit and the Cycle



「君がかなづちだったとは知らなかったよ」
「泳げない訳では…」

 何故だか私は、まるで非力な小枝の水に浮かぶが如く、自己の殻の中に小さく縮こまっていた。
 それは幻想だったのかも知れないし、己の中では実際に起こったこととも言えるかも知れない。白日の下の真実を、現実と言うものを、何も見たくはないし聞きたくもなかった。
 逃げ込んだ場所が何処であるかなど、知り様がなかった。

 けれど誰かが呼ぶ、君が呼ぶ、
 何故私はこの水辺に戻って来たのだろうか。



 いつだったのか、記憶となってしまった過去の戦いがあった。
 灰色に煙る中空の世界、聳え立つ魔城と地の塩の如く現れる兵達。その切りもないパノラマを武器ひとつで前進する、無心で戦う時間の経過を酷くよく憶えている。
 その時己は己であって、人間ではなかった。鎧と言う容器の中の心といった存在だった。言うなればプログラムされた機械。生きる意志や生きる上での選択とは関係なく、ただ目の前に現れる障害物を排除して行く、自動的な運動物でしかなかった。
 最終的な目的、長い戦いの出口となるものがもう目の前に在った。長い時間、普通の社会の一員である立場を放棄し、殺伐とした戦いの日々の中で全身全霊を鋭く保つことを、余儀無く旨としなければならなかった私達。その締め括りとして最後の一押しを、他に何を思うことなく突進するべき時だった。
 もうすぐこの非現実的な闘争も終わる。
 非人間的な全ての活動から離れられるのだ。
 と、結果を待たずして結論を下したような、手に握られた光輪剣は、僅か一筋の翳りもなく冴えていた。だからその最終的な局面に於いて、遼が導き出す筈の結果を危ぶんだ憶えはない。仲間の誰かが欠けることを危惧する意識もなかった。ただ多くのか弱き命に対して、待たれ、切望されている「正しさ」を勝ち取る為に、それだけの為に動いていた。動かされていた。
 己と言う人間に、本能的に植え付けられている何か。考えるより先に、使命として与えられた何らかの理論的目標。それを「何」だとは具体的に捉えられないが、一生かかっても明確な説明はできないだろうと思う、心の秘密、命の構造。
 生きる全てのものには、解読不能な古代文字を眺め惚けるような、生命の歴史的謎が含まれている。殊に人の心は、人の命は何処を目指しているのか知れない。その予測できない方向性が折に触れる度、この身の表に現れ出ては、逆らえない非情な力で感覚を揺さぶるのだ。
 我を突き動かす力は、正に己の命であり、命の根源的な要素から来る得体の知れない欲求。それが然るべき結末を見せんが為に私を動かしていた。私達を戦わせていた。のかも知れない。
 言い換えればば何もかも己の意志ではなかった。己の意識のない行動には、如何なる満足感も自責の念も意味を持たない。私はただ無心に戦って前進する己をよく憶えているが、それは私自身が、離れた場所から己を静観していた事実のようだ。
 私は私であって、私ではない。何かの為に揺り起こされた欲求に、自ずと自己を譲って静観していただけの者。
 だから恐れない。傷付かない。悲しくもない。

『…うう、…』
 何処か、足許の方で呻き声がする。荒れた地面の隆起する小高い場所で、一時軍勢の波が途切れたしじまの風景を眺めていた。瓦礫や岩石の積み上がる黒炭色の大地には、至る所に空洞があり、そこに嵌まり込んだ誰かの声が、こうして地上に聞こえて来るようだ。
 地上、という言葉は相応しくない。この妖しき天地は空に浮かんでいるのだから。誰か、という代名詞もあまり意味を為さない。ここに人間らしい者はほんの僅かしか存在しない。即ち我々と、魔将達、たったそれだけの人間の内、大人しく地下の空洞に嵌まっている者が居るだろうか。
 では、誰だ?。
『…う…』
 消え入りそうで消えない、終わりない断末魔の囁きを聞かされ続けている。彼はそこで苦しみ続けているのだ。残念ながら、その様なものに構っている暇はなかった。
 目前に迫っている、待望の終末を潔く迎える為に、私は無心に戦う者となって、否、無心に本能的調和に従う者となって奔走して来た。それら善行としての破壊に、何らかの意味を戴く為の終着点。それは余りに重要で、己を含めた全ての世界の法と秩序、或いは他に代えようのない柱となるだろう。
 いつの時も必要なのは理由だ。
 理由と言う始まりがなければ、私の存在、私のして来た事とはまるで空虚だった。結果がこの手に齎される時、それは己を正当化するものでなくてはならない。必ずそうでなくてはならない。でなければ私は、私達とは一体何だと言うのだろうか。
『う…う…』
 身勝手だとも思う。けれど見捨てるより他にないだろう。私は求められる正義の為に、考えられる最善を尽くさなければならない。大局の為に小事は切り捨てるしかない。
 そう、私は人ではない。鎧に魂を預け、人間らしい感覚から遠い所に佇む傍観者なのだ。だから辛くはない。悲しくもない。

「どうした、征士」
 不快に皮膚を掠める生温い風に乗って、背後から聞き慣れた呼び声が耳に届く。恐らくそうして暫し地面を見詰め、立ち止まっていた私を不審に思ったのだろう。鋼の軋む音すら軽やかに、彼が駆け寄る音を耳だけで確かめている。
「何か、あったの?」
 土の上に目線を固定していた私の視界に、水色の戦士の鎧の一部が映る。このまま何も言わなくとも、恐らく自分の視線の先に何かがあるのだろうと、彼なら察することができた筈だが。
「聞こえないか?」
 と私は言った。注意して耳を傾ける必要もなく、この場所に立てば聞こえるであろう、苦痛の主の存在を今も感じ続けている。すると伸は、
「…声だね」
 と確かにそれを受け止めていた。
 そして私は安堵する。彼に聞こえない筈はないと、予想通りに現実が在ることを。
 水滸の名を戴いた彼は、立場の弱い者を決して見過ごさない。人の悲しみや苦悩に背を向けられない。ある意味では切ない、ある意味では厄介とも思えるが、必ず救いの手を差し出そうとする存在だ。己の状況がどうであろうと、損得に捕われることもなく。
「…可哀想だが、今は何もできそうもない」
 しかし自分は、こんな結論を出したと伝えねばならなかった。と、意外なことに彼は、その地中の何処か一点を見詰めながら、至極静穏な笑顔を差し向けている。
 笑うのか?、この様子を?。
 伸の感情表現にしては解せないものだった。そして、
「今は可哀想かも知れないけど、きっと大丈夫だよ」
 と彼は言った。
 私にも見出せないものが、何故か伸には見えている様子だった。本来個々に与えられた能力からすれば、その逆でなければならないが。
「見えるのか?」
「…見えるよ、水が見える」
 それは地下水か何かのことだろうか?。
「だから大丈夫」
 伸は顔を上げると、改めて私に対して笑った。
 本当に「大丈夫」なのか?。何が、誰が大丈夫なのか。
『うう…う…』
 声はまだ聞こえている。当分止みそうもない苦痛の溜息の、谺する空気が私をそこに縛り付けている。置き去りにして良いものかどうかをまだ、迷い考え続けている。次の行動は既に決定していると言うのに。ここで為すべき事はひとつしかない。ただ多くに答える為に、己に答を貰う為に戦うことだ。
「行こうよ」
 言いながら、伸は背中に付けていた二条槍を手に、何かを振り払うように弧を描かせながら、その胸の前にスッと構えて見せた。
 そうだ、彼の示す通り今は、他のことに気を取られている場合ではない。
 ただ、心優しき水の戦士が自ら捨て置く、そんな存在に後ろ髪を引かれる思いがする。
 何故気になるのだ。



『う…う…』



 何処をどう渡って来たのか。薄暗い雲に被われた副都心に、幽かに鳴り響く戦闘の音を辿って、私はこの一際高いビルの上を目指していた。文化と経済の中枢である街の、混雑した建造物は視界を塞ぐばかりだが、ここからなら、市街の様子と戦闘の様子を確認できると思った。

 今正に、選ばれたが故に立ち向かわなくてはならない、困難な状況を前にして私は居る。それまでの過去を全て捨てることになろうと、成し遂げなければならない「人間の勝利」の為に、敢えて非人道的と思われるものにも身を委ね、自らを研ぎ澄ませて行かねばならない。正しいとされる道へ、全てを導く為の戦いへ身を投じなければならない。
 これから始まる私の、戦士としての道程を想像するなら、失敗を許されない厳しい舞台の上に、輝かしい、喜ばしい勝利ばかりが在るとは思えない。むしろ心に、拭い去れない戦いの傷跡を残し、例え平穏無事な世界を取り返しても、常に何かの影に怯え、残りの人生を隠れ生きることになるかも知れない。
 世界戦争時代に戦場に立った者の如く、人知を越えた殺戮の記憶はそう簡単には色褪せない。戦に慣れた者の住処は、その戦場にこそ在ると言うように、戦いそのものに怯えるのではなく、己の心が変わってしまうことを思う。荒廃したものへと変わってしまうことを思う。今当たり前に己が感じている、普通の人間としての感情を失った時何が起こるのか、考えればとてつもなく恐ろしい。
 恐ろしいのだ、今の私には戻れないと予想できることが。
 そして大儀の為の力だけは、戦う程に増して行くのだろう。敵と教えられた存在が在り続ける限り、戦う意志を失うこともないだろう。心を置いて、戦う為の存在に徹することだろう。
 まだ何も見えない。見定める能力を与えられながら、何もかも見渡せる訳でもない。こんな未熟な自己でありながら、果たして何を期待されて呼び掛けられたのだろう。又私は何ができると思いそれを受けたのだ。恐れる己を振り切れる程に、何に自信を持つことができたのだ。誰に何を為せると、己に信じることができたのだ。

「やあ、君は仲間だね」
 そこへ降り立った私の目の前には、自分と同じ形式の防具を身に付け、穏やかに笑いかける緑の瞳が在った。同じくらいの年令、同じくらいの背格好。ただ向けられている表情と、その人物を取り巻く空気だけはかけ離れていた。
 それは優しい、それは柔らかい、それは不確かな流れの中に全てを内包する、原始の海の、幸福な眠りを暖めるゆらぎの様に淡い。
 だから彼は水の色を身に付けているのだろうか。彼はとても捉え難い。彼は遠く深い。
 今、ともすれば呆気無く死が舞い降りるだろう、何の保証もない戦いを前にして笑っている。それ自体が彼の象徴的な行為だった、彼の存在意義を考える上で。
「何を笑っている」
 解らなかった私の口を吐いて出た言葉は、真正直過ぎて、尚笑いを誘うような趣に転じていた。
 何故なら私は必死で探していた。
 こうして向かい合うだけの間にも、彼から受ける印象の中に僅かながら、希望を見い出している己の理由を探していた。
 宿命的な戦いの果てに、変わり果てた荒れ野の己の姿を見付け、それを否定できる答をとにかく、探さなくては居られなくなった。争いの先には怨恨が続くもの、戦の後の土地には必ず影が落ちる。戦いに伴う忌わしき遺産からは逃れられないと、諦めていた心が何に縋り付こうとしていた。
「僕、笑ってるかい?」
 彼は何でもない様子でそう問い返しながら、やはり疑いようもなく笑い続けている。
「…いいんだよ、僕はこれで。君もそれでいいんだ」
「不真面目だと思わないか」
 答は与えられない。否、答などないのかも知れない。
「フフ、怒りっぽい奴だな」
 そんなつもりはなかったが、答を求めて疾走を始めた己の必死さが、結局苛立ちと受け取られただけに終わってしまった。
 思えば怒りとは、至極真面目な思考から生まれる感情だ。正道を真剣に論ずればこそ、怒れる対象が明確になっていくものだ。無論私に取っての怒りは、彼ではなく私達の前に横たわる、絶えなき人の闘争の歴史とその結果に向いている。巨大な欲求が災いを呼び、屈する怒りが反動的な暴力を生み、その繰り返しで成る歴史の中に私達は存在している。私もその怒りの中に存在している。
 蓄積された憎悪は何処へ行くのか。何処に捨てられると言うのか。
「大丈夫だよ、僕らは」
 不明瞭な彼の言葉は、喜びも悲しみも判然とせず、善とも悪とも答を下さなかった。
 それなのに。



『…苦しい…』



 春ではない。なのに満開の桜が咲き誇っている。
 夜ではない。なのに辺りは偏に暗く閉ざされている。
 ここは墓場だ。私達の生ける屍を永久に閉じ込める墓場だ。
 私はもう眠りに就こうとしている。私達は眠りに就こうとしている、桜の下。

 力尽きた。古の時代から続く負の歴史そのものである、重厚な壁の如く聳え立つ邪悪の猛者に、ほんの短い年数を経ただけの少年の魂が、打ち勝つことなど土台無理な話なのだ。
 散って行く。恐らくこうなることを予見されながら、何故人間の未来は私達に託されたのだ。私達は一体何の為に、己を犠牲にして戦って来たのだ。余りにも空しいではないか。
 目的の為に、躊躇うことを忘れ、卓越した力の結晶である武器を振り翳し、乱れず淡々と斬り捨てられる己を誇りにも思っていた。称賛と充実感は後よりついて来るだろう、後に与えられる筈の何かの為に、人間らしい感覚をも今は意識の底に沈めた。
 非日常的な戦場を日常とする、聖なる僕の穏やかさと冷酷さ。私に求められていた力はそう言うものだったと思う。そして私はその通り在れたと思っている。
 なのに何故私は負けたのだ。何故私達は破れたのだ。

 漆黒の闇の中では、綿毛のような白い花の房が、自ら白い光を放っているように見えた。
 死者に手向けられた最後の華やぎは、再生を約束する証のような無限花序の枝に、この悲しみを紡ぐことを責めはしないだろう。悲しみに悲しみを重ね、更に深い悲しみを持った命がいずれ現れる。それが私達に与えられる結果なのだろうか。戦うことを強いられた人生に対して。
 とても空しい。そしてとても悔しい。遣り切れない。思考が及ばない。これが妥当な結末だと言うなら、私達を導いて来た彼の先人はまるで遠く、更にその上に天意が在るとするなら、それは心を惑わすばかりの磁場でしかない。
 できることなら、命在るもの全てが営みの為の駒であるなどと、極論としての真理を突き付けられたくはない。私は私でありながら何者でもないと。
 神の理論を理解する為に戦った訳ではないのだ。

『疲れた…』
『もういい…』
 誰かが口々に呟いている。白い花が誘う、馨しき眠りに誰もが就こうとしている。世界を包み込むような大きな桜の下に、無念の二文字を抱いて敗者の安らぎを夢見ている。最後に与えられた約束の地で、永遠に満開の桜の散り行く様を眺め、我は死してもこの世は久しく続いて行くことを思う。
 改めて思う、人など幾らでも代わりが存在すると。この自己の為の意義は無く、鎧の為に必要な命だったのだと。
『眠りたい…』
 もう、使命による呪縛から解放されて眠りたい。
 何もかも終わった。もう己以外の何とも関わらず、何にも左右されず、理想と現実の狭間で苦悩することもない。何も要らない。私達に必要なものは何も無い。これ以上に与えられるものも何も無い。力不足を悔やむことももうない。
 全ては大木に刻まれた虫の噛み跡の様に小さく、目立たない過去の記録と成り果てるばかりだ。誰もが皆、一度は何かを為せると、導かれるままに受け、悲しみの連鎖から成る悪しき歴史を断ち切ろうと、名も無きひとりとしての活動を天命に捧げた。
 何も信じなかった訳ではないのだ。
『でも、大丈夫だよ、まだ遼がいる』
 信じなかった訳ではないのだが。
 それなのに。



『助けてくれ…』



 静寂から突然の喧噪。懐かしい仲間達の声が聞こえた。
 何がどうなったのか思い出すことも侭ならないが、私を捉えらていた拘束具は外され、押さえられていた怒りが爆発すると共に、私に共鳴した鎧が自ずと身を包み、卑しき要求を押し付けた者達に、脇目も振らず向かっていた。
 肥大する欲望が歪めた醜悪な姿、人とも精霊とも呼び難い異形の老体。その様な蔑むべき存在に屈していたなど、到底自我の許せる範疇ではなかった。
 その時鎧は、剣は私と一体になった。強い感情の流れの向くままに、何の違和感も感じぬ体の一部品と化していた。こんな究極的な同調をこれまでに感じたことはない。最早鎧の意志は私の意志だ、この屈辱から生まれる力を行使することに、躊躇う必要などないと思えた。私がより善く存在する為に、鎧が正常に私の意志で機能をするように。即ちそれが全ての為であると思えた。
 妖しき光線を放つ者。その汚れた光を世界に振り撒く事は許さない。
 体は酷く疲れていた。手足は鉛の様に重く引き攣っていた。けれど精も根も尽き果てた己の状況すら忘れる程、私を背後から揺さぶる意志があった。眼前に構える邪悪な敵を撃つこと、ただそれのみに集中する心。撃ち破る力のみを求める心。しかしこの心が、既に取り返しの付かないものだとしたらどうする。
 渾身の力で振り下ろした私の剣は、結局何にも届かなかった。
 敵の破滅だけを願い、空回りする思念ばかりが私の許に残る。意に反し鎧を操られ、この身を虐げられた悔しみや恨み辛み、けれどそんな惨めな力では所詮、何事も立ち行きはしないと告げられるが如く。
 そして、空間を邪に操る光の波動が来る。
『水火既済、火雷噬嗜、風沢中孚、風天小畜、乾為天』
 悪魔の英知と化した陰陽を操り、完成された呪縛を与える八卦の羅列。そしてそんなまやかしの術にすら負けている、己の意志とは一体何なのだと思う。己の弱きをただ思うばかりだ。
 否、力を求めた時点で既に同等に堕ちていた。

 思いは人から生まれ、悪しき怨念もまた人から生まれることを知っている。この鎧と言う存在が、悪しき側面から生まれ出た物だということも解る。我々は皆それを熟知の上で、敢えて死神に触れる覚悟で武器として扱って来た。主人はあくまで己でなくてはならない。己の意志に従わせるものであり、鎧の意志に従えられてはならない。
 いつかそんな助言を受けた記憶はまだ新しい。だのに、人の器でしかない魂には、そう器用に善悪を扱うことはできなかった。例え善処を重んじ戦うにせよ、意は暴走すれば善とは呼べないものになるだろう。その上受けた悪意をそのままに、己の土壌に埋めることすらできないかった。右の頬を打たれれば左の頬をも、などとは極限の状態で思い付ける理屈ではない。
 否、それができないから駄目なのか。できないから私は屈しているのだろうか。
 耳を塞ぎ切れない心の悲鳴と、心に負った傷の戦慄く震えを止められない。どうにもできない怒りが、受けた屈辱の印を倍加する痛みにして返そうと働く。神でも解脱者でもない私には、己の最も自然な感情の動きにいつも、任せるしかなかったのだ。
 普通の人間であることは忘れても、人間のひとりであることからは逃れられずに、私は小さく、偏狭な檻に入れられた羊のような存在だ。私は小さい。小さな世界から出られないままここまで来た。幾度となく大義を唱えられても、意識の何処かでそれに抗おうとする意志が燻っていた。何処まで行っても己と言う意識を捨て切れない、それが私なのだ。
 私は私であって、私でないものになどなりたくはない。他の何にもなりたくはないのだ。
 即ちそれが弱さであり、小さいと言う意味であり、悪に堕ちた理由だ。
 それとも人は必ず悪魔に魅了されるだろうか?。

「何処行くんだ?、遼。花なんか持ってよ」
「…死んだ人にさ」
 多大な欲望の吹き出す巨大な都市の片隅で、思い掛けぬ事件から不幸な目に遭ったのは私ではない。むしろ私が全てを殺したようなものだった。己のこだわりひとつから生じた、一際目立つ汚点を我々の歴史に残した惨事。けれど仲間達は僅かな厭味さえ言わない。
 それが恐い。白とも黒とも判断されないままで居ることに、後にまた同様の失敗をしてしまう可能性を思う。
「じゃあ、みんなで行くとしよう」
「マンハッタンがいいんじゃないか?。ハドソン川の河口にさ、大きい吊り橋が見えたじゃないか」
 落ち着いた仲間達と同じように、死者を弔おうという気分にはなれなかった。
「君、大丈夫?。大丈夫だよね」
 言葉も出ず止まっている私に、念を押す様に伸は言った。

 解らない。ここに至ってもまだ信じられるものはあるか。まだ私に信じられるものがあると思うのか。それを幸運と受け止められる余裕さえ、今の私にはない。
 それなのに。



『…うう…』



 何処か、足許の方で呻き声がする。荒れた地面の隆起する小高い場所で、一時軍勢の波が途切れたしじまの風景を眺めていた。瓦礫や岩石の積み上がる黒炭色の大地には、至る所に空洞があり、そこに嵌まり込んだ誰かの声が、こうして地上に聞こえて来るようだ。
『・・・・・?』
 この戦場での一場面を私は既に知っていた。奇妙なことだが、過去の時間が繰り返されているようだ。苦し気な唸り声は変わらずこの耳に届いている。前にここに来た時から、何か変化があったのだろうか。辺りの状況はさして変わりがないと思えたが…。
 その時突然、足元の地面がガラガラと音を立てて崩れ始めた。金属の様に硬い組織に思われた黒の土塊が、年月に晒され変質したかのように、脆く乾いて崩れ落ちて行くのだ。
 私は一歩、二歩と後ずさりを余儀無くされる。地面は忽ち湖程の深さに陥没し、土砂は切り立つ谷底へ流れるように落ちて行った。緩い振動と沸き起こる土煙。人の世界ではないこの場所でも、当たり前の現象は起こると見えた。
 そしてそれらが静まった後に、私はそこに居るだろう声の主を探して、クレーターの様な擂り鉢の中を覗き込んだ。
 その瓦礫の中に居たのは、私だ。

 彼を置去りにしたことも、忘れてはいなかった。
 戦うことに付き纏う悩みから、ただ解放されたかっただけだ。
 だから私はもうひとつの思考を持つ己を否定した。彼が居座れば、戦う意志の上で邪魔になると思えた。私はもう人でなくても良い、鬼でも良いから、不惑にして強靱な魂を勝ち得た戦士で在りかった。美しさや愛しさなどという概念に気を取られて、中途半端なものに成り下がれば、撃てる敵も撃てなくなると危ぶんでいた。完全な勝利と、跡形も無く敵を打ち砕くことが、何より価値に繋がると信じていた。
 しかし今は判る、事実は違っていたのだ。
 人を放棄して戦えば人の為にもならない。
 人間らしい生活を失っても、人間を辞めることはできない。
 そして人の心とは、統べて半端なものであると言うことも。
 長くそこで苦悩し続けた己の半身が、まるで哀れなものに見えて来る。否、間違いなくあれも私だ。私達は何の為にこんな遠回りをして来たのか…。

「何か、あったの?」
 抉り取られた地底を眺めている私の視界に、水色の戦士の鎧の一部が映る。曖昧で捉え難い個性を生きる彼なら、某かの意味を汲んでくれるかも知れない。私は顔を上げると、
「どうにもできないものが」
 と答えた。彼は極控え目な動作で頷いて見せた。
「そう…」
 すると、私が見ている目の前で、伸の体は何とも表現できない微妙なものと成って、更に透明になって辺りに流れ始めた。瞬く間に姿形を失くし、やがては激流となって辺りを浸して行った。瓦礫の底に居た私も、すぐに姿が見えなくなった。
 最早ここは山も谷も荒野も無く、全ての景色はただ海の広がりと化している。そして私もその渦中へと呑み込まれて行く。有無を言わさぬ天災の如く溢れ返っている。
 海が嬉しいのか悲しいのかなど、考えたこともなかったが、初めてそんな疑問が頭を過った。

 明るい視界の中で何かの声を聞いている。

 命の活動は悪いものではない。善いものでもない。
 善でも悪でも、完成された存在でもなく、
 何とも呼べないものは、否定されない。命は否定されない。

 苦しい息の中で誰かが呼ぶ。

『君は君だ』
 誰かが呼んでいた。
『僕は信じているから…』



『…助けてくれ、誰かっ!』

「…君がかなづちだったとは知らなかったよ」
「泳げない訳では…」
 何故またこの水辺に戻ってしまうのか、を考える前に。

 私は暗に教えられていた。忘れてはいけないと、大切に守り続けたものを隠した鍵の在り処を。深く暗い、絶望と悲しみとが寄り添い合って、紛れて、目を背けたくなる真実の沈む場所に、同様に己を救ってくれる答も存在していた。
 何処から来るのか判らない、得体の知れない欲求を生み出し私を動かすもの。
 真に望む場所へと導いている、「私」と言う脆さと危うさを現すもの。
 それらが闇からの産物であっても、それらの為の部屋は必ず用意されていること。
 ひとりの人間であることにこだわり続ける、こんなに利己的な魂であろうと、必ず許される場所があることを思い出している。

「クックック…また戻って来てしまったか、私は」
「…何のことさ?」
「いや、今度こそは家に帰れるだろう…」

 彼が示してくれた、命の源である渾沌(カオス)。
 雑多で豊かな原始の水にこそ彼は居て、善も悪をも抱き締めていた。









コメント)どういう小説だ、とお怒りの方がいたらすいません(笑)。光輪伝の私的補足という訳で、CDのすぐ後、一度眠った後の話になってます。冒頭から2/3くらいまでは一側面しか見ていない征士なので、本当はいい所もあるんだけど負の感情が強くて、自分で信じられないという意味です。うーん、わかっていただけたかしら…。
ところで光輪伝なんですが、内容はともかく、いつの話なのか本当にわからないですよね。これを書く前に聞き直しましたが、結局問題なのは医者のセリフ「15年前のお前がなんたら」の下りだと思うんです。
この話の時点で17才としたら、出て来た少女は2才って事になります。いくら何でもそこまで幼くないですよね、奉納の舞を踊れるくらいだし。最低でも3〜4才と考えると、この時点で征士は18〜19才って事に。それMessageまで行っちゃってる年令じゃ…って。
なので問題の「15年前」というセリフは、医者が適当にサバを読んだセリフと考えます(笑)。12年から18年くらい前の事を「15年前」と言うんでしょう。それで、話の内容から輝煌帝伝説より後とは考え難いので、ゆだみはその前に入れて考えてます。だから年は一応16才です。




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