征士の怪我
予言の鳥
BIRDS COMING



 夜明けを告げる鳥の音に、恋人達は夢の終わりを知る。
 夜明けの時は近い、時は眠れる獅子の鼻先を今、掠めている。

 珍しい事ではないが、伸はその日、鳥の鳴く声で目を覚ました。



「退屈だな」
 伸はテーブルに着いて、普段と変わりなく朝食を摂り終えると言った。
 午前八時、既に食器も片付けられ、彼の手には半分程残ったコーヒーのカップがあるだけだ。今日もこれから大学へ出掛けて、二コマの講議を受けた後サークルに顔を出す。帰宅の途中で食料の買い出しと、クリーニング店に寄って来る。大体パターン通りの予定となっている。
 それに退屈している訳ではない。
 伸の眺める目線の先には、窓いっぱいに雑然とした都市が広がっている。このマンションに暮らし始めてから、一年半程が経過していたが、以来この風景は殆ど変わっていない。雑居ビルやマンションの屋根と壁に、被い被さる霞んだ色味の空。賑々しいとも寒々しいとも、何とも形容し難い景色だ。
 それに退屈した訳でもなかった。
「朝から言うことか」
 伸の呟きを耳にした征士は言った。彼は持ち物を整えると、伸の座るテーブルの傍へと戻って来た。そして思い出したように、
「先週話していたレポートは?」
 と続けるが、伸は視線を動かさずに答える。
「ああ、あれはもう終った」
「そうか」
 伸の問い掛けに対する会話はそれで終ってしまった、かのように見えた。
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
 ふたりはその後、それぞれの事をしながら黙っていた。気にしてはいない、傍に誰かが居るからと言って、話をしなければならない義務も無い。特にこうして同じ部屋に生活していると、自ずとそうなっていくものかも知れない。別段何があった訳ではないが、断続的な会話に終始する時もあると、自然に状況を受け入れているのだろう。
 否、極自然な感覚で状況を察しているからこそ、伸は黙りがちになっている。何故彼が退屈を感じているかは、征士にも推測できる事実があった。
「まあ、物事が片付き過ぎると、拍子抜けしてしまうのは判るが」
 暫しの静寂の後、征士が新聞の株式欄を閉じて話すと、漸く伸は立ち上がって答えた。
「そんなところだね」
 その表情には諦めのような、許しのような微笑みが見えて、彼が何かを悲しんでいることが知れた。無論言葉に出しては言わない、言ったところで何も変わらないと、伸は既に気付いているからだった。
 彼等の、身の回りを取り巻く世界はあれから、尽く平和な状況に纏まって行った。彼等が鎧と言う力を手放した時から、普通の人間の普通の時間が、誰の上にも滞り無く流れ始めた。独立はしていたが不完全だった、少年と言う存在から歩を進める道程に、無事戻れたことを誰もが喜んでいた。彼等が嘗て望んだ通りの状況が、今は現実となっていたけれど。
 最初に出会った時には、同じ目的を助け合う同志として、否応なく受け入れた仲間達だった。今やそれが第一の存在となっている。元鎧戦士達の、受験勉強やその後の生活も一段落して、今は皆親元を離れて暮らしている。誰もがひとつの段階を経て、それぞれの目的に適った生活をしている。誰にも将来に対する夢があり、それに向けて一日一日を過ごしている。
 正に今は、こうであってほしいと言う日常がある。強大な力への恐れも憧れも無い、身近な人の生死に悩むこともない。戦う意味でもなく、善悪の基準でもなく、日常的な他愛無い話題を連絡し合って笑う。重責を感じながら学校へ出掛けたり、何かの干渉を受けながら旅に出ることもない。ただ幸福な思い出とどうでも良い出来事の、降り積もる下地が在ってこそ普通の生活だ。
 昨日があって、今日があって、明日がある。
 時は留まることが無い。だから全ての物事は繋がっていなければならない。昨日の努力は今日以降に影響しなければならない。それが当たり前の時間の流れだ。
 なのに、周囲は穏やかに流動しているのに、僕だけが末法の世界に取り込まれたような感覚。
 僕らだけが。
「そろそろ出掛けるとするか」
 伸が暗に感じていることを、征士は知ってか知らずか、気にしない様子でいつも通りにそう言った。居間の時計は八時二十分になろうとしている。町の景色のそこかしこに、スーツ姿の会社員が目立つようになっていた。すると伸も、
「そう、じゃ僕も」
 と意外にあっさり続けて、既に用意してあった鞄を手に取った。何かが気になるにしては、既に割り切れているような妙な態度だった。伸ならばまあ、しばしばそんな時もあるだろう。それでも過去の彼に比べれば、悲愴感に感情を支配されなくなっただけ、成長したと言えるかも知れない。
 淡々とした様子で玄関に向かうと、特に変わった動作もせず靴を履いて外に出た。
「今日は車?、何かあんの?」
 部屋の鍵を掛けて歩き出した伸が、マンションの廊下の先を歩く征士の手に、車のキーがあるのを見付けて言った。通常なら征士は、地下鉄で数駅の大学へ定期券で通っている。無論学生が車を停められる駐車場が、都会の大学にある筈もない。すると征士は、
「部活の用具買い出しに車を頼まれた」
 と簡単に答えて、伸もまたそれだけで大体の状況を把握した。
 征士は剣道での推薦で大学に入学したが、一芸に秀でていようといまいと、下級生であることには変わりがない。買い出し等の雑事は大方、下級生の仕事として回って来るのだろう。当然、大学は遠方からの下宿生も多く、自由に車を使える人間はそう多くないだろう。
 そんな想像が容易にできてしまうと、伸は途端に普段の調子を取り戻して、頷く代わりに走り出していた。何も変わっていない、今朝は特に変わった出来事は無い。それだけ知れば伸は満足だったようだ。
 極めて小さな社会の仕組み、大学生らしい上下関係であったり、上京学生の生活事情等で成り立っている。その時だけの規則、その時だけの生活サイクルには、後々「何故?」と下らなく感じるものもある。けれど人は皆そんな風に、不完全な小社会の数々を経て、何れ広い世界へ出て行くだろう。
 そして大人になった後に気付く、全てが揃った広大無辺な世界よりも、限られた些末な世界こそ愛しいものだと。何故ならそこには根源的な優しさが在るからだ。狭く集約された場所には優しさが在り、広く拡散する場所には、果ての無い厳しさが存在するように思う。
 だから愛しい、だからこそ今は楽しい。
 征士を追い越して伸が、エレベーターホールのボタンを押すと、丁度そこに止まっていたエレベーターの、扉がすぐに開いて乗り込む。
「…じゃあ帰り遅い?」
「いやいつも通りだろう」
「そ」
 征士に対して、伸もまた簡単な返事で済ませた。アクシデントでも無ければ、征士はまず言った通りに予定をこなす。過去もそうであったけれど、今は尚更律儀にそうしていると伸は判っていた。
 示し合わせた訳ではないが、誰もが今を大切にしている。超常的な事件も起こらず、敵と見られる存在も現れない。普通の生活をしている時を大切にしている。今日の努力は必ず明日以降に繋がらなくてはならない。少なくとも明日が一定の条件で巡って来るように、儚くも願っている。
 伸はふっと征士の横顔に口を寄せると、
「じゃあね」
 エレベーターの扉が開いた途端に、そう言って駅へと走り出していた。
 上着代わりに羽織ったシャツの、首周りにふと風が抜けて行った。季節感の無い東京の町にも、いつの間にか冬の気配が訪れている。明日はもう少し温かい服装に切り替えよう、と、当たり前のことを考えていられれば、それで良かった。



「退屈だな」
 大学の講堂で、教科書を閉じると伸は溜息混じりに言った。勿論それまで行われていた、税法の講議に対するコメントではないが、どう取られても同じだったかも知れない。あらゆる社会活動の中で、税とは現代社会に必要不可欠な制度だが、その構造や理屈には何の面白味も無かった。
 無駄な動作もせず、てきぱきと机上を片付けて行く伸を横に見て、
「随分余裕な〜?、俺なんか学園祭の手伝いに時間取られて、レポートなんか全然手ぇ付かんわ」
 伸にバイト先を紹介してくれた友人が、些か恨めしそうな様子でそう言った。恐らく彼はレポートどころか、その他の課題にも難儀しているのだろう。
 今月の頭から文化の日に掛けて、大学では文字通り文化祭が行われた。伸の参加する『広報企画サークル』は、こんな時こそ重要な存在だった。プロのアーティストを呼んでのコンサート、学内のバンドやミスキャンパス等のコンテスト、それらを含め、学園祭の催しを告知する宣伝活動、当日の案内組織作り等、あらゆるイベントと広報の仕事が舞い込んでいた。
 そんな中、一年次は単なる使い走りだったが、今年の伸は有料の催しに対する出納責任者となっていた。チケット類の売り上げと、チケット販売の委託先に対する手数料、出演者への謝礼金、設備や賞品等にかかる経費、当日の入場料をまとめて、後日決算書を大学に提出する役目だ。伸はそれを任された九月から、この十一月の上旬まで、ずっと気の休まらない日々を過ごしていた。
 つい先日、漸くその決算報告を提出し終えて、伸に取っても一大イベントだった、秋の学園祭が終ったところだった。ただ、
「…不思議だな?、そこまで違う生活してるとも思えないのに」
 と、伸はそんな感想を友人には漏らしていた。確かに慌ただしく二ヶ月が過ぎたけれど、その他の事をする暇が無かった訳でもない。本当に忙しかったのは十月の末からで、それまでは普通に生活していたと伸は記憶する。すると、
「そりゃこっちが聞きたい、おまえどういう生活しとるん?」
「そうだなぁ…」
 相手も不思議そうな様子で尋ね返すので、結局どちらが正しい感覚なのかは、判らず終いだった。否、伸はただ常に、大学の勉強と用事、己の分担である家事、その他身の回りの雑事を、一定のペースでこなしていただけなのだ。その上で余暇を楽しむ時間も持てていた。それは恐らく本人が気付かない才能、時間を最も上手く使える才能ではないかと思う。無論何に価値を置くかに拠って、生活は大きく変わるけれど。
 ところで、友人との他愛無い会話の内にも、伸は時の流れの微妙な違いを覚っていた。そう、何らかの期日が差し迫っているなら、身の回りの物事はてきぱきと片付けるべきだ。自身の見通しに余裕があるのなら、今焦って何かをする必要はない。その他に、自ら立てた予定とは関係なく、無意識に期日を感じる時があるようだ、と伸は考えている。それはまるで、死期の近い者が突然身辺整理を始めると言う、よく耳にする話に似ていた。
 己の関わる物事が、手に抱えていた仕事や存在に於ける責任が、故意でなくひとつ、またひとつと許されて行く経過を今、伸は感じているのだった。
 けれども、
「おっ、そんなに暇なら、今度の日曜バイトに入ってくれよ?。ひとり休む奴がおって」
 気の良い友人は、そんな伸に何ら疑いも向けず、また新たな役割を依頼してくれた。後ろ向きな思考だが、これで少なくとも日曜までは、平和な日常に生きられると言う証しだ。今すぐ突然この世界を取り上げられてしまうことはない。だから伸は間を置かずに返事した。
「そう、僕は別に構わないよ」
「よっしゃ、助かったわ」
 助かった、と言う表現に嘘が無さそうなことを知ると、伸もほっとしたような笑顔を見せていた。

『一見何も変わっていないようだけど…』
 何かに追われている、時間に追われている、僕にはもうあまり時間が無いのではないかと、取り巻く空気が感じさせている。
 戦いを余儀無くされた頃に、こんな未来があって欲しいと望んだ幾つかの事は、確かに現実として叶えられていた。生家を離れて一人暮らしを始めた。大学生になって、人並みにアルバイトを始めた。免許を取った。バイト代で買ったヴェスパに乗って、渋谷や青山のお洒落な町中を走った。大学生らしい遊びや、都会の人付き合いと言うものも知った。
 同居人ができた。一緒に勉強をしたり、旅に出たりもした。他の仲間達も近場に集まって来た。いつも皆が近くに居て、いつでも会いたい時に会える状態になった。禍々しい話題でなく、仲間達と普通の話ができるようになった。普通の生活をしていた。いつも傍に君が居た、日々君は見ている、日々君を見ている。僕は己の中の絶望感を意識せず、とても安心していられた。
 そうだ、追い付いて来たのは絶望感なのだ。
『僕らにしか知り得ない事がある…』
 僕らに取っては、夜明けは恐らく苦々しいばかりだ。例えその先に素晴しい未来があるとしても、必ず傷付き、苦悩する道だと知っているのだから。



 夕方五時を回っていた。
 全く予定通りに、その日一日の主立った用事を済ませて、伸は普段通りキッチンに立っていた。征士が部活から戻って来るのは、六時半から七時の間と決まっていた。本人が「いつも通り」と言ったのだから、帰宅時間をあれこれ窺う考えは全く無かった。余程の事件に出会したとしても、連絡を入れなかったことは一度もない。
 と、無心で夕食の支度をしていると、玄関先の電話が鳴り出した。伸は手にしていた包丁と、剥きかけの人参をまな板の上に置くと、布巾で手を拭きながらその元へ行った。
「はい、もしもし?」
 受話器を取ると、相手を憶測する間も無く、憶えの無い人物が確認作業をし始める。特に思い当たる用事も無く、光熱費等の滞納も無い筈だった。宅配便の住所確認にしては、えらく畏まっている気がした。
 そして続けられた話に伸は耳を疑う。
「えっ?、交通事故…!?」
『はい、五反田の救急病院に収容されていますので、今御都合が宜しければ、伊達征士様の健康保険証をお持ち戴きたいのですが』
 五反田、と言う地名が妙にリアルだった。征士の大学とは全く関係のない場所、寧ろ伸の大学の方が近いくらいだ。彼は何と言っていた?、剣道部の用具買い出しに車を使うと、今朝説明していた通りだ。可能性が無い訳ではない、だが俄には信じられなかった。都心部の複雑な道路事情に於いても、労せず運転ができる征士に限って、と伸の頭に幾度も打ち消しの言葉が浮かぶ。
 けれど、まず事実かどうかを確認しよう。
「はい、すぐ行きます…」
 伸は電話の相手にそう答えて、病院への行き方を尋ねると、すぐさま身支度を整えに向かっていた。
 持ち物は取り敢えず保険証と財布。夜にかけては冷えるかも知れないので、ジャケットでなくトレンチコートに袖を通した。またどんな状況なのかも判らない。財布には手許にあった現金全てを詰め込んで、伸は足早に部屋を出て行った。
 今朝、普段と変わりなく玄関を出て、大学へ向かう征士の様子が思い出された。右手に教科書等の入ったクラッチバッグと、玄関の壁に掛けてあった車のキーを持って、特に普段と変わりない様子、変わりない歩幅で歩いていたように思う。突然の凶事が舞い込みそうな予兆など、伸にも誰にも感じられなかった。変わった出来事は何も無かった。いつもと変わらない朝の風景だった。
 否。
 今朝は鳥の鳴く声で目を覚ました。あれは現実の鳥だったのか、或いは夢を見ていたのかも知れない。心の中で声がする、僕に何かを告げようと声がする。それから、「退屈だ」と言ったら、「朝から言うな」と征士は返した…。
『こんな退屈凌ぎはいらない』
 言ってしまってから後悔する言葉とは、必ずしも罵詈雑言の類ではないようだった。声に出しても変えようのない現実は、言うだけ無駄なばかりか、悪運を引き寄せるのかも知れない。伸は思う、恐らくそれは己が発した悲しみから、始まった悪い流れではないかと。
 明けを告げる鳥の音を耳にすれば、悲運を感じ取らざるを得なかった。
 ずっと見ないようにしていただけで、常軌からはみ出す力を、未だ有していることには変わりがなかった。
 だから排除される。何らかの形で弾き出されてしまう。
 この世界は普く普通の人々の為に在ると知らされる。

 遅かれ早かれ地球世界にも、終焉の時は来るのかも知れないが、僕らにはそれとは別の悲しみがあると言うこと。

「すいません!、誰か…」
 JRとタクシーを乗り継いで、救急病院の簡素なロビーに駆け込んだ伸は、その受付窓口に向かって、誰にともなく声を掛けていた。受付の小さな窓は半分程カーテンが引かれ、明かりは見えるものの人気が感じられなかった。何の反応も無い。伸は些か乱れた息を整えながら、受付の窓の中を覗きに行った。
 小窓の向こうには、雑然とした事務机等が見えるばかりで、誰も居なかった。こんな時でなければ、ただ空虚なだけの部屋の様子だが、今は見る者の心情を苛立たせるばかりの無人状態。
『どうなってるんだよ!』
 衝動的な怒りが頭に昇って来た。すると、
「驚かせたな、済まない」
 憤る伸の横に現れたのは、何食わぬ様子の征士だった。
「あれっ…。…どうした…」
 征士の現れた方向には、開いた引き戸から明かりが漏れる部屋があり、たった今そこから出て来たことが窺い知れた。恐らく軽度の怪我の場合の治療室、か何かだろう。征士は至って穏やかな様子で、自分の足で普通に歩いて来たようだった。
 生命の危機、と言う状況ではなさそうだった。またそうして征士は無事だと知れば、伸の肩からは途端に力が抜けていた。
 しかし、想像していた状況との落差が、一度固まった表情を容易に変えさせなかった。交通事故にも様々あれど、人身事故と聞けばまず大惨事を思うのが人の常だ。それ以上に、伸は自らがこの事故を招いたように、考え過ぎていたので。
 そんな伸の強張った表情を見て、征士は正しい事情を説明し始める。
「大した怪我ではなかったのだ。保険証が要るから連絡が行っただけで」
「そう、か…」
 確かに、征士の言う通り伸の目には、怪我らしい怪我は見受けられなかった。右手の甲から手首にかけて、申し訳程度に包帯が巻かれているのみだ。それはガラスで切れた裂傷だったが、その他は軽度の打撲で、病院に担ぎ込まれるような怪我ではない。ただその場に居た他の者を搬送する序でに、救急車に乗り合わせただけだった。その時征士が案じていたのは、出向いた店の主人の容体だった。
 否、正しくは店そのものを案じていた。
「私は問題ない、が…それにしても困った。試合用の胴衣は他を当たるようだ」
 用具の買い出しと共に、試合用の新しい胴衣を注文する筈だったと、征士は短い言葉で暗に話している。ただその場合、店の主人が怪我をしたとしても、他に従業員は居そうなものだ。しかも、事故そのものに悩む前に、注文品の心配をする心理とはこれ如何に。
「どう言うこと?」
 漸くまともな受け答えができるようになった、伸がそれらについて問い掛けると、
「店に車が突っ込んだのだ。派手に破壊されたから、修復には時間が掛かりそうに思う」
 征士の口からはそんな答が返って来た。
 成程、彼の懸念する事情はそれで理解できた。店鋪を建て直すまでの間、通常通りの営業を続けてくれるだろうか、下手をすれば店仕舞いしてしまうかも知れない、と言う話のようだ。しかしそれより、伸は最も肝心な部分で混乱している。
「え…?、事故を起こしたのは誰?」
 すると、伸の訝し気な様子に征士は笑いながら、包帯をした手を横に振って見せた。
「違う違う、私は店の前に車を停車していのだ。店の中に居る間に、そこに軽トラックが突っ込んで来て、私の車が押されて店に突き刺さった、と言う訳だ」
「…あーあ…」
 改めて聞かされた事故の詳細は、征士の軽い怪我に比べて大規模なものだった。事実軽トラックの運転手は重体、傍を歩いていた通行人も骨折していた。店の主人には大した怪我は無かったが、あまりの事に持病を悪くして倒れていた。ただ、それだけの事を耳にしながら、伸の感想は征士の心情を表しただけの、単調なものだったけれど。
「賠償はあるだろうが、廃車決定だ。儚い命だったな…」
「折角好きなように作ったのに、だね」
 征士の嘆く意味も、伸には判っていてそう返した。車好きの彼が、入手した車体そのままで乗っていた訳はない。学生の身分であるから、そう豪華な改造はできないとしても、伸の言う通り、自分好みに作っていた車なのだ。現時点でほぼ良い状態に仕上がって、漸く一応の完成を見たところだったのだ。
「はあ…、しばらく不便になるが我慢してくれ」
 珍しいオーバーアクションで、天を仰ぐような動作をした征士が言う。言葉は伸に話しているのだが、本人が最も遣り切れない気分でいることは、あまりにも判り切っている。事故を起こした運転手を責めても、同じ車は戻って来ないだろう。
「そんなことはいいよ」
 多少気遣いもあって、伸はそう返したが、征士には大した慰めにもならなかった。
 しかし、
「形のある物はみんな、どうせいつかは手から離れて行くんだしさ…」
 と伸が続けると、それまでやけっぱちのような明るさを見せていた、征士は俄に色を失って、黙り込んでしまった。伸の話した結論については、究極的に言えば確かにそうだけれど。突き詰めれば万物は何ひとつ、個人の所有物にはなり得ないけれど。
 何故、伸が今それを言ったのか、征士は嫌が応にも気付かされていた。否、気付かなかったのではない、ずっと気付かない振りをしていた。
 恐らく仲間達の誰もが気付いていて、誰も言い出さないでいる予感。
 どんな形で夜明けが来るのかは、未だ誰にも判らない。
 或いは『死』と言う形で、訪れる未来かもしれなかった。
「車と一緒の運命を辿らないだけ、良かっただろ?」
 だから伸はこの事故騒ぎの結末に、それなりに満足していると話した。命の他は皆、この手から零れて行ってしまうとしても、僕らに取っての最悪ではないと、考えるしかないだろう?。
「そうだな…」
 畳み掛ける現実に動揺する征士が、落ち着いている伸に宥められるのも、また珍しい様子だった。



 都会の夜は、昼間よりも寧ろ賑やかに感じる。
 薄甘い闇に浮かび上がる、人工の光の町はまるでひとつの城のようだ。闇を支配し、光無き世界を恐れず生きる為に、努力して来た人間の歴史と、理想が行き着いたひとつの形。地上は人間の住む場所であると、広く知らしめるような存在に思える。
 生けるものの、ひとつの魂には昼と夜が巡って来る。形在る存在の時を昼とする定義、自我無き存在である時を昼とする定義、解釈はそれぞれにあるだろう。ただ、出来得ることなら全ての時間、光の当たる場所に居たいと人は願う。昼夜を問わず明るい都市とは、正に人間らしい欲求の具現かも知れない。
 つまり、人間にできる事はその程度なのだ。昼も夜も含め全ての場所と時間を、普く照らす太陽を創造することはできない。せいぜい限られた幾つかの都市を一定の年代、星を散らした程度に飾るだけだ。そしてそれだから、大した事はできない存在だから、人間はここに居ても良い。
 ここは力を持たぬ者の世界だ。
「…あれはナイチンゲールだよ」
 ベッドに座って窓を見ていた、伸は今朝の目覚めの出来事を思い出していた。未だそれが現実なのか、夢なのかは判らないままだが、そうして都市の夜景を見ていると、己の現在の居場所は夜であることが、夜明けを恐れる夜の住人である今が、不思議と自然に受け入れられるようだった。
 詰まるところ、戦士の昼間は戦場なのだと。
 夜の懐は盗人にさえ優しいので、誰もが出て行く時を躊躇うものだけれど。
 伸がそんな考え事をしていると、髪を拭きながらその横にやって来た征士は、寝室の外から伸の呟きを既に、耳にしていたようだった。
「私は何処へも行かぬと言っただろう」
 と話すと、膝を抱えて窓を見詰めていた伸の背中に、自らの肩を預けて座った。薄ら寒い部屋の空気に馴染んで、ひんやりとしていた綿の寝巻の感触が、忽ち人の体温を伸に伝えた。征士の言葉通り、いつ、何処に居ても誰かが傍に居る。何が起ころうとも、仲間が居ると言うことだけは信じられる。それは幸福な運命でもあるのだと、確認も出来た。
 けれど伸は、
「そう言う意味じゃない」
 と笑いながら否定した。伸の挙げた鳥の名前から、征士はかの文学作品に例えて、自分と伸について話していると思ったようだ。夜明けを告げる鳥の声は、恋人達には悲しみの象徴でもあるが、この場合は甚だしい誤解だった。伸は全ての人間と、広く世界全体を考えていたところだった…。
「いや、合ってるか」
「はぁ?」
 だが伸は続けて訂正する。
「朝までにはまだ、もう少し時間があるって知らせだったんだよ」
 そう、夜明けを告げるのは雲雀だ。今はまだ慌てて何処かへ行かなくていい。何かに呼ばれているのか、この世界から排除されようとしているのか、何れ時は満ちて答が出るとしても、今はまだ許されている。残された時間の中では、普通の人間に紛れることを許されている。
 唯一の理を知り、偉大な力を知り、掛け替えのない者達に出会い、多くの望みを叶えて来た。
 だからもう、
「夜が明けないといいなんて、贅沢を言っちゃいけない」
 伸がそう続けると、征士は判ったのか判っていないのか、伸の肩を後ろから抱き締めて言った。
「贅沢か…」

 存在を精算するように、完成を見る度無へと返って行く流れがある。
 車はもう戻らないけれど、ならば、永遠に完成を見ないこの人は消えないだろう。

 文字は風化しても、言葉は心に残る。肉体はいつか滅び去るが、魂は不滅だ。
 夢は途切れても、自己の平和を失っても、君の居る限り僕は生きるだろう。









コメント)丸一年シリーズを止めていましたが、漸く再開です。やっと「Message」関連に来て、この話は序章に当たります。久し振りに悩み多き話になったけど、「Message」の解釈を自分なりに展開するシリーズが、この後しばらく続きますので宜しく…。
ですが、「摂氏37℃〜」のコメントに書いた通り、季節に合わない云々の理由があって、征士と伸が一緒に住み始めてからの話に、まだ書いていないものがあるので、それも順次up予定です。時間が前後して読み難かったらすみませんっ(> <)。
ところで「Message」自体は、年の上半期にリリースされ、一応桜の花も描かれていますけど、すずなぎってどうも「紅葉」の印象が強い。だから秋っぽい、と思ったら、OVAを見返してみて、紅葉の背景や着物が数々あったのですね。すっかり忘れてましたが、それならやっぱり「Message」は秋で正しい、と今更自信が持てました(キャラの服装から言っても)。いやだって、いつの話か困っちゃうようなエピソードが、幾つかあるじゃないですか…。
最後に、タイトルはシューマンの曲ですが、文中に「ロミオとジュリエット」を引用したので、頭の中ではそっちが流れていた感じです。冬期五輪がイタリア開催だったせいで、今年はやたらこの曲を聞いたしね。




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