窓辺で話す征伸
雲中飛行
THE IN CLOUD



 僕が僕でないとしたら、君はどうするだろう?。

 今年の三月は、頭から既にポカポカ陽気で、テレビや新聞は連日春の行楽情報に溢れていた。本来なら三月上旬では早過ぎる、桜の開花情報もぼちぼち伝えられている。そのせいか、或いは陽気のせいなのか、町行く人々の表情も明るく微笑んで見える。世間はバブル崩壊後の影響が、少しずつじわじわと感じられ始めた時でもあるが、誰もそんなことを気にしているようには見えない。
 今は春。こんなに明るく麗らかな休日だから、新しい世界の空気を感じに何処かへ出掛けよう。
 新しい服を下ろして、ロードマップとカメラも持って出掛けよう。
 と、例年ならこの時期は、訳もなく外出することが多いふたりだったが、今年はどうも事情が違うようだ。
「折角の土曜だと言うのに、『出掛けよう』と言わないな?」
 朝食を終え暫くすると、それぞれの受け持ちの掃除やら、身の回りの整理を始めるのが土曜日の習慣だが、それも終わると昼食までは多少暇ができる。予め予定のない日は、いつもそんな頃に相談を始め、昼から午後に掛けて出掛けることが多かった。
 今日も十時半には大体のことを終え、征士が不思議そうな顔をして話を持ち掛ける。否、これだけの行楽日和を感じながら、伸が何も言い出さないのは異常なことだった。自ら何かしら楽しみを見付けようと、観光雑誌を捲り、情報に耳を峙て、いつもならこの頃は多少落ち着かない様子になるものだ。しかも明日は彼の誕生日である。今年に限って、伸が何を考えているのか征士はまるで解らなかった。
 特に不機嫌でも、何かに思い詰める風でもないが、こうなるとやや心配な状態にも感じる。
 そして、返事のないまま伸の部屋のドアを開けると、彼は個人用のテレビの前に座り、征士に気付いてこう言った。
「このゲームどうしても終わらせたいんだよ。会社から帰った後だとちょっとしかできないし、疲れてると面倒になってやめちゃうから、全然進まないんだ」
 何か、伸の感覚を狂わせる重大な事件があったかと思えば、そんなことだったかと、取り敢えず征士はホッと胸を撫で下ろす。しかしその後、伸の足元にあったゲームソフトのケースを見て、
「随分前からやってないか?、それ?」
 征士は再び不思議そうな顔をして見せた。彼の記憶では、先月の頭には遊んでいた映像が残っている。幾ら時間が取れないと言っても、同じソフトをひと月半もプレーしていたとは、征士にはあまり考えられなかった。
 ところが伸は、
「いや一回クリアしてるけど、また始めて今はトータルで40時間くらい」
 と、至って普通の顔で答える。その返答に余程驚いたのか、征士は思わず声高になって言った。
「40時間!?。何と言う…」
 何と言う無駄なことをしているのか、と言いたいところだったが、それは敢えて口に出さなかった。以前当麻に、無駄こそ人間らしさだと説かれて以来、その他の責任を果たしている分には、咎めてはいけないことだと肝に命じた征士だ。それがしばしば喧嘩の種になるからだ。
 しかし、小さな子供ならともかく、大人は普通そこまで執着して遊ばない、と考える彼に、40時間はどうにも納得できない数字だった。否、実は伸と征士の間には、知識の差から来る認識の違いが存在していた。
「本が出たから細かくやり直してるんだよ。普通にプレーして30時間前後だよ」
「40時間も30時間も大して変わらん。そんなにかかるのか」
「あー、君はゲームって言うと、ゼビウスとかマリオで止まってるだろ」
 そう、伸の言う通り征士は、初代ファミリーコンピュータ時代のゲームしか、まともに触れたことがなかった。言われて思い出すのはグラディウス、ツインビー、悪魔城ドラキュラ、秀と遼がよく遊んでいたスーパーマリオなどだが、確かにそれなら、普通の大人が入れ込むものではないかも知れない。
 ただそれらのソフトも、全ステージをクリアするには20時間以上掛かるだろう。ステージが区切られている為、短く感じるだけだと征士は気付いていない。
 まあそれはともかく、
「いや、横で見ていたのは色々ある」
 思い出し始めると、意外に様々な絵面が頭に浮かんで来た。タイトルこそ判らないが、征士は思いのほか多くの画面を憶えていると、自分で奇妙に感じるほどだった。それだけ過去に、好きで遊んでいた誰かが居たと言う意味だろう。すると伸もそれに乗り、過去の柳生邸の思い出話を続ける。
「秀と遼はアクションやレースゲームが好きだね。当麻はパズル系が滅茶苦茶上手かったよ。シューティングもよくやってたな」
「ああ、何やら記憶にあるな…」
 柳生邸の居間のテレビを占領し、秀と遼があまりに熱中していると、ナスティが「いい加減にしなさい」と怒鳴っていた。対戦ゲームで当麻に負けた秀が、暴れて植木鉢を壊したことがあった。その三人が居ない時、伸と純が双六のようなゲームをしていたこともある。ゲームそのものより附随する思い出の方が、更に鮮明なのは当然だとしても。
「僕はアクションとスポーツが好きだけど」
 と、伸が最後に自分の好みを付け加えると、征士は自分がプレーした、恐らく最後のソフトを思い出していた。
「モノポリーをやったことがあるぞ。そんなに昔ではない筈だ」
 それは次世代の機種のソフトだが、このマンションに来てからのことだった。確かにまだ五年ほど前のことなので、征士に取っては新しい方の出来事に違いない。
 しかしゲーム機を含め、電化製品の進化は次々進んで行くものだ。今現在が五年前と同じである筈もない。伸はその、征士の感覚のズレを埋めようとこんな説明を聞かせた。
「ものによるけど、今のゲームは複雑でボリュームが多いからさ、一回プレーしたくらいだと、内容がよくわからなかったりするんだよ。こういうデータ本を見て、気が付かなかった所をおさらいしたりする訳」
 伸はその分厚い本を手に取り、征士の方に寄越して見せる。渡されるまま何気なく受け取った征士だが、本の装丁をざっと見ると、また不可解と言う顔をしていた。
「内容なんてあるのか?」
 彼がそう思うのは仕方がない。ここまでに名前の挙がったソフトは皆、ゲーム性を遊ぶタイプのものばかりだ。そもそも元は「ファミリー」コンピュータなのだし、大人も子供も同じ受け取り方で楽しめることが、過去のソフトは前提となっていただろう。その場合、複雑な内容は却って邪魔になる。そして征士はその手のゲームしか知らないのだ。
 無論今は、特定層向けのマニア的なものから、子供には理解し難い内容を持つものなど、様々な傾向のソフトが存在する訳で、
「このタイプのゲームは話があるからね。まあ『ピーチ姫を助け出せー』って言う、単純な話も話の内だけどさ、これはかなり凝った話で面白いよ。長いマンガを読んでる感じ」
 伸は限りなく単純明解な説明をして、征士の疑問を穏やかに解いていた。尚、そのジャンルはRPGだが、判らない言葉を使うのは敢えて避けた。
 すると、伸のそんな心遣いが功を奏したのか、征士はひとまず納得して、
「ふーん?、どんな話なんだ?」
 と、内容の方に関心を向け始めている。自分が面白いと言ったものに、それなりの関心を寄せてくれるのは嬉しいが、但し、この先の伸には苦行が待っていた。
 当然だが征士も物語の本は読む。勧められればマンガも読むが、より現実的な青年マンガが好きなようだ。果たしてそんな人物に、RPGのファンタジーが理解できるだろうか?。
「えーとー、まとめて話すの難しいんだよな〜」
 殊にこの作品は、原型的なファンタジーとは掛け離れているのだ。恐らく征士も、トールキンやエンデの名前は知っているだろうが、寧ろファンタジーなどとは言わない方が、混乱しないかも知れないと伸は考えた。
 そして、その独特で奇妙な物語を彼は、粗筋的にかい摘んで話し始めた。
「主人公が、最初はテロ組織に参加して、大きな組織と戦ってるんだけどね、」
「物騒な話だな」
 たったそこまでで早速征士の茶々が入る。否、言葉だけを聞けば当然、現実の陰惨なテロ活動を想像するので、ごく普通の反応だとは思う。けれど話が進まないので、細かな説明は飛ばし、伸は非常にざっくりとした繋ぎ方で先を続けた。
「いや、悪いのは主に組織の方なんだけど、その内組織に狙われてる不思議な女の子に会って、その子を助けて一緒に逃げることになって。それから主人公が過去に、その組織の兵隊だった頃、怪しい事件があったことを仲間に話して、色んなことの元凶を探しに旅に出るんだ。ところが途中で女の子が死んじゃって、いや、主人公が殺そうとしたんだけど、結局敵に殺されて、」
「わからない流れだ」
 そこでそう言われるのも、まあ当たり前かも知れない。女の子が敵なのか味方なのか、これだけではまるでスパイのように聞こえてしまう。それについては伸もそれなりの説明を続けた。
「主人公が時々おかしくなるんだよ。別人になったような行動をする時があって、本人もおかしいと思いながら敵を追って行ったら、実は敵に作られた実験体だったことがわかって、」
「さっきから出て来る敵とは、最初の組織のことか?」
「そう、組織の科学者がある実験をやっててさ。で、自分は実験体だとわかった途端、敵の意志に操られて、世界の危機を自分で作っちゃうんだけど、その衝撃で何処かの島に流されて、廃人同様になって、」
「廃人って」
 流石に、ある程度若い世代が楽しむゲームで、主人公が廃人になるとは想像しない筈だ。征士はその派手な展開に半ば笑っていたが、
「シュールだろ?」
 まあ伸の方も、面白可笑しく受け止めているようだった。主軸の話はほぼ真面目な内容だが、ゲーム的表現には確かに、プッと笑ってしまうことがあるものだ。
「で、幼馴染みの女の子が主人公の意識に潜ったら、何で実験体なのか、何でおかしかったのか理由がわかって、実験体としての人格を克服して、自分が起こした危機の始末をつけに行くんだ。大体そんな話」
 何とか、所々苦労しながらも、伸はそのゲームの物語を話し終えた。そして聞き終えた征士は、
「実験体が人として目覚めるのか」
 との感想を述べていた。確かに伸の伝えた粗筋ではそんな風に受け取れる。SF映画等でしばしば見られるテーマだ。人とは言えないものが人の心を持つ、古くは『鉄腕アトム』の頃から、パターン化していると言えばそうかも知れない。だが、
「違う…。実験体と言っても一から作られた訳じゃなくて、元の人間の人格の上に、別の人格ができたってだけだよ。だから自分でもおかしいと思ってるんだ、自分は自分じゃないかも知れないって」
 と、伸は征士の誤った発想をそう訂正する。するとそこで何かが腑に落ちたらしく、征士はひとつ頷いて返した。
「成程。理由はわからんが、実験体を作った者が元凶だな」
 与えられた情報から、理論的に考えその答に辿り着いたようだ。ところが、
「まあね。それがラスボスじゃないけどね」
「何故そうなる?」
 伸の回答に、征士は理論通りでない結末の理由を尋ねることになる。
「何故って。元々この話の舞台が抱える問題とか、主人公の過去とか、敵のボスの背景とか色々あって、自業自得の面が強い話だからさ」
「自業自得、と言うことは元凶は主人公なのか?」
「いや…、だから単純な作りの話じゃないんだって」
 まあその辺りは、ひとつひとつ口頭で説明するのが面倒だっただろう。常識的な理屈で考える征士に対し、ファンタジー的な創作部分をいちいち解説するなど、笊で水を汲むような作業だ。大体ゲームの話など、理解できなくとも生きるに困らないし、必死に解説するのは馬鹿馬鹿しい。そしてこれ以上会話を続けると、ゲームをする時間が増々削られるので、最後には、
「このゲームヌルい方だから、後で自分でやってみたら?」
 伸はそう言って話を放棄していた。
「ふ〜ん?」
 それでも、少しは面白そうだと言う顔を征士が見せたので、伸の努力もそれなりに報われたようだった。
 尚、伸の話した「自業自得の面」とは、ゲームの主人公にも敵側にも言えることで、主人公はそれを乗り越え、敵側は自滅すると言った感じの内容だ。そう、敵は結果的に自滅するので、所謂ラスボスが理論的でない人物になっている訳だ。

 それから約二時間後。
 ふたりはダイニングテーブルで、休日には珍しい昼食を摂っていた。休みの日は家を出ていることの多いふたり、当然普段なら外食と決まっている。だが、決して外食が好きな訳ではないので、思わぬ家での昼食は征士には少し嬉しかった。
 伸が部屋に篭っていて詰まらない、と言う思いをする反面、ちょっとした良い事にも出会したので、時には言われるまま従ってみるものだ、と、征士は気を良くしている。その証拠に彼は、そこまで真剣に聞いていたとは思えない、先程のゲームの話を自ら振っていた。
「しかし変わった話のゲームだな」
 既に残り僅かとなった、皿の上のクリームソースのパスタをフォークで拾いながら、征士は思い出すようにそう言った。
「そうかな?。ゲームとしては珍しいけど、本や映画にはこういう話よくあるよ。自分が自分じゃない気がするとか、何かに操られてるとか」
「ああ、そう言う意味ではそうだが」
 伸の返した通り、確かにその意味では多数の著作が存在すると思う。だが征士が奇異に感じた点は、テロから始まり、世界の危機を救うと言う流れの方だった。そんな話は現実に殆どお目にかからない。テロがテロである理由を考えれば、テロ集団が世界を救うことはあり得ないからだ。勿論征士は実際のゲーム内容を知らないので、そんな考えになってしまうと言える。
 そして、コメントが的外れだったせいか、伸は「よくある」方の話として続けた。
「でもゲームとしてプレーすると、自分が自分じゃないって不安は、本人よりむしろ周りを心配させるのかもって、視点が変わるところはあるね」
 実際それが、このゲームの話を進める牽引力になっている為、普遍的に人が持つ心理を上手く描けているのだろう。伸もその点を気に入っているのだが、その時、
「そうだろうか?」
 征士はまるで意に解さない様子で呟いた。対して伸はこう返すしかなかった。
「ほらね?、征士みたいな自分が絶対の奴は、周りの不安なんかわからないんだよ」
「そんな言い方はないだろう」
 冗談半分の遣り取りではあったが、続けて伸は決定的な過去の事件を口にする。
「だって実際そうだったじゃん。僕らがどんな思いでアメリカに行ったと思ってんの?。ただ助けに行った訳じゃないよ、征士が元に戻らなかったらどうしようって、僕ら随分考えたんだよ」
 思った通り、征士はすぐ反論することができなかった。恐らく本人もその時のことには、自信を持って答えられない何かがあるのだろう。
 コントロールを失い、勝手に動かされていた光輪の鎧。それを見た他の仲間達は、まず征士の安否を心配して当然だった。鎧の性質がどうこうなんてことは、後から考えれば良かった。ただ征士が今、何かによって強制されているのか、洗脳されているのか、或いは意識がないのかも知れないと、口には出さなくともぞれぞれ不安に感じていた。
 鎧戦士と言う集団、これまでに培われた繋がりを維持できなくなるかも知れない。そんな不安が残る四人の胸に満ちていた。
 今思えば、出来事は違うにせよよく似た状況だと、言い出した伸の方も思うくらいだった。そして暫しの間を置いて、
「それは…昔の話だ。言われなければわからなかった」
 征士がそれなりの反省の弁を聞かせると、伸はおや珍しい、と言う態度で笑って返す。
「今は言われなくてもわかると?」
「少なくとも伸の考えていることはわかる」
 素直に己の非を認めたかと思えば、それが言いたかったのかと言う征士の思考は、全くいつの時も一貫しているようだった。
 そして確実に、征士の示す意味が伸にも伝わっている。征士がアメリカに招待されたあの事件の頃は、ふたりはまだ今のような関係ではなかった。他の仲間達に対する付き合いとそれ程変わらない、否、表面的にそうしながら、単なる仲間意識とは違った感情を見詰めていた。そういう時代だった。
 それを思うと、もし今の征士なら違うだろうと伸にも感じられる。人間は様々な関わり合いの中で、個人差はあれど影響し合って行くものだから、彼の言葉通り、少なくとも伸の思うことは考えられる征士になった、と言うのは間違いではないかも知れない。
 それはどれだけ相手を想っているかに依ることだ。
「ん…。まあ、確かに昔の話だね」
 導き出された答を少しばかり、気恥ずかしく感じながら伸が認めると、征士は何事もなかったように戯けて言った。
「今伸は、ゲームの続きの前に買物に行こうと考えている」
「ハズレだよ♪。昨日買って来たプリンを今食べようか、夜にしようかと思ってた」
「ククク…」
 まあ、どうでもいいような表層意識までは、例えエスパーでも読み取れないだろう。そんなことは、本当に大事なことの前ではただの笑い話だ。



 そうして、家から殆ど動くことのない、彼等には珍しい休日が暮れて行った。
 三月半ばの東京はまだ流石に、桜の花を楽しめる状況ではない。だが今度の週末にはもう、上野公園などが賑わいそうだと予想が出ている。伸の心情的に、大人しく部屋に篭っていられるのもこの土、日までだ。それまでに冬の宿題を終わらせようと考えるのは、思えば合理的かも知れない。
 と、暗い窓の外を見ながら、征士は次の週末のことを考えていた。今眼下に映る、行き交うの車のライトの瞬きも賑やかで、征士には好きな風景だった。満開の桜のような美しさはないが、心に某かの愉しみを感じさせている。光の点滅を見ると脳が刺激されると言うが、車の場合はその先にまだ見ぬ目的地、即ち未来を感じさせるイメージがあるのだろう。
 明日は何をしよう?。次には何処へ行こう?。風向きに左右されやすい伸のこと、前もって立てた予定通りには行かないこともある。なので征士も、常に予定は未定として、あまり深くは考えないのが常だった。
 その時、征士の立つ寝室の窓辺に伸が来て、見慣れた夜景を一望すると言った。
「僕は僕じゃないかも知れない、毛利伸と言う人格を与えられた別の人間かも知れない…」
 ついさっきまで、自分の部屋でゲームをしていた彼だ。その印象が鮮明に頭に残って、そんなことを口走るのだろう。だが、
「…とかって、たまに思うことあるよね?」
 と伸は続けた。どうも彼は、それが特異な感覚ではないと言いたいようだった。
「私はないな」
「ないのか…?。知らなかったよ」
 残念ながら征士は同意しなかった。その上、
「そう言うのは離人症と言うのだ」
 と、まるで病気扱いの言葉を続けた。否、毎日のように頻繁にそう思うなら、確かに神経症を患っていると言える。本格的な心の病気の一歩手前だ。
 けれど、伸にはそんな心配はないことを判っていて、征士は敢えて言ったのだろう。彼は続けて例を挙げてこんな話をした。
「例えそんなことがあっても、十四の頃に新宿で会ったのが今の伸なら、私の知っている伸はその人だけだ。それ以前に、名前の違う別人と入れ替わったとしても、私に取っての伸は今目の前に居る人間だ。ああ、昔病院で、子供を取り違える事件がしばしばあったらしいが、遺伝的に毛利家の人間じゃなかったとしても、そこで育った伸は伸に違いない」
 そう、征士から見た客観的な事実に、毛利伸と言う人の存在を怪しくする要素はない。無論征士でなくとも、他の仲間達や身近な人間の多くが、鼻から疑いもしないことだと思う。なのに何故本人の心だけが、それを不安に感じたりするのだろうか?。
「そうだね…?。考えてみると根拠のない想像だなぁ?」
 言われて伸も、自分のことながら首を捻る結果になった。
 大体そうした離人感覚と言うのは、病気でなくとも疲労の激しい時や、精神的ショックを受けた時などに起こると言うので、理屈ではないのかも知れない。事実がどうあれ沸き起こる不安を止められない、脳内の一時的な異常活動が、ありもしない想像をさせることのようだ。
 そして伸の場合は、
「どの考えや感情を選択したかなど、気にしやすく神経質で、情緒不安定な者が感じやすい不安らしい。つまり己と言う型に自信がないのだ」
 と征士が分析する。別段離人感覚だけでなく、その手の性質を持つ人は各種神経症にかかり易いけれど。
「よく知ってるな?、そんなこと」
 伸が不思議に思って尋ねると、征士はまた単純明快に答えた。
「最近そんな本を読んだばかりなんだ」
 彼と言う人はいつもそうだが、こんな時は飾らない事実のみを淡々と話すことが、何より相手への思い遣りだった。お陰で伸は、こうして自身の異常の話をしていても、闇雲な不安を感じずにいられる。
「自分と言う型ねぇ…」
 ところが、伸がもう一歩踏み込んで考えようとすると、
「考えなくて良い、伸はそのままでいいのだ」
「そーお?」
 征士はその作業を中止させた。何故なら、以前から幾度も聞かせて来たことだが、それが伸と言う個性であり、彼の持つ無限の可能性だと思うからだった。
「流れに乗って、その時その時に重要な物を取れることが伸の美点だ。不定形であるからこそ有利なこともある」
 強さとは、抵抗力だけを言うのではない。力とは推進的なものを指すばかりではない。征士はこれまでに、そんなことを充分過ぎる程理解して来たので、伸のそんな在り方に尊敬の念も感じつつ、ある意味甘えている面もあるようだ。何が起ころうとも伸は受け止めてくれるだろう、と言う、背後にある征士の意識が感じられたのか、伸は、
「何か言い包められてる感じだな」
 と、多少不満そうな口振りで返した。
「誉めているのだ。何と私の為に生まれて来たような性格だろうと」
 案の定、征士の言いそうなことは大体予想がついた、とばかりに、伸はひとつ溜息を吐いて眉間に皺を寄せている。
「君ねぇ…」
 するとそこで、何故か得意げな表情を作って見せた、征士は昼からずっと言いたかったことを口にした。
「私のことを、自分が絶対の人間だと言うからだ」
 確かに、征士がそうなら釣り合いを取らなければ。
 しかし夜までそれを気にしていたと言うのは、やはり自らそう感じるところがあると、墓穴を掘っているようなものだ。否、征士もまたそれで良い。各々の性質を認め合いながら彼等はやって来たのだから、伸も重々承知のことだ。
 何が起ころうとも君は君だと言う意志を見せるから、周囲の者も安心して居られる。
「ククク…、ハハハ…!」
 途端に征士の言い種が可笑しくなって、伸は盛大に笑い出していた。
 そしてそれなら、自分は未来永劫安心なのかも知れない思う。例え己と言う存在に不安を感じても、決して変わらない人が信じてくれるのなら。ただ、その人を見ているだけでいいのではないか。これまで通りに。
 そんな簡単なことだったのだろうか?。
 僕達は上手く出来ている。本やゲームの物語より余程よく出来ている…。
 一頻り笑った後、伸はもうこの件については満足だと言うように、窓辺を離れ、勢い良くベッドに倒れ込んだ。そんな様子を見ると、征士もまた彼の心の変化を察し、同様に満足そうな顔を見せながら尋ねる。
「明日の予定は?」
 今日は伸の希望で何処へも出なかったけれど、なるべくなら明日は、何処かへ行こうと征士は考えている。何故なら前途の通り、明日は世間で言うホワイトデーだ。勿論本人も忘れている訳ではないだろう、水滸の伸と言う個性がこの世に生まれた日を。
 すると、最初からそのつもりだったのかどうか、事実は判らないが伸は言った。
「いい天気が続いてるし、桜が見れる所に行こうよ。勿論君が運転手だ」
「そう考えていると思った」
 事実は判らないが征士に、今の伸が思うことだけは判っていた。
 大事な記念日は一緒に過ごそう。
 常に予定は風任せ、気持は変わる雲のよう。時々の輝きに遊び、何処をどう漂おうとも、あなたとわたしが繋がっていることを確かめる度、世界が成り立つのなら構わない。
 私達はそんなもの。

 僕が僕でないとしたら、君も君ではなくなってしまうのだろう。けれどそんな不安は今、春の夜空に煙のように消えて行った。









コメント)作中に出て来るゲーム、ちょっとプレーしたと日記に書いた通り、この話の為にあらすじを拾ってたんです(笑)。97年の3月の話なので、折角だから当時らしいネタを使ってみました。アニメキャラがゲームキャラを論じると言う、不思議な感覚を書きたかったんだけどどうかしら。
そして私は、その頃初めて花粉症を発症して、春シティ合わせの原稿が遅れ、印刷屋に〆切を伸ばしてもらったんでした(^_^;。まったく今年も花粉に苦しめられてます。もう十年以上か…。
タイトルはいくつか候補があって迷ったけど、結局某マンガのタイトルをお借りしました。勿論「雲」にこだわって。本来雲と言うと当麻のイメージだから、征伸ではあまりないタイトルですな。



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