過去を想像する征士
海と少年
REMEMBER THE SEA



 通り過ぎた記憶に漂う心を八月は許してくれる。
 最も少年らしかった時期はもうとうに過去のものとなったけれど。

「つまんないなぁ」
 唐突な伸の呟きを耳にして、
「…何が?」
 ガレージへと向かう征士の足は弛んだ。
「折角優越感に浸ってたのに、あっと言う間に追い付かれちゃったからさ」
 伸が言うのは、六月に漸く取れた運転免許の話だった。周知の通り、十八才の誕生日を迎えた時点で取得可能になるものだが、それ程の期間で交付を受けられるかはぞれぞれだ。伸が二ヶ月少々を要したのに対し、征士は教習僅か一週間と、事務手続きの十日程で済んでしまった。つまりふたりが免許を貰ったのは、同じ六月の内だったのだ。
「ああ、何だまたその話か」
「『また』で悪かったよ」
 膨れ面をしながら前を歩く伸を、征士はただ微笑ましく感じていただけだが、伸には相当それが気に入らないらしいのだ。否、カート経験を基礎に持つ彼に、技術的な意味で競うつもりは鼻からない。伸はただ、自分の車に征士を乗せてドライブする場面を、もっと長く楽しみたかっただけのようだ。あまり「お兄さん」らしい行動を示す機会がないものだから。
 それが今のところたった一度の経験に終わっている。そう、征士の誕生日に合わせて、彼の家まで遠乗りに出掛けたのが最初で最後。
 こんなに早く己の愉しみを奪われるとは、と伸が落胆したのはつまり六月の末だった。その後すぐ期末テストのシーズンに入った為、彼等は会う機会に恵まれず、実際に征士の運転を見たのもこれが初めてだった。八月十日、柳生邸に集合する日の前に伸の実家を訪ねた、征士は自分でレンタカーを運転してやって来た。その不安のなさそうな様子からは、今後伸の出番がまずないことを表すようだった。
 無論、それ程劣等感を感じることでもない。大学に通いながら二ヶ月少々で免許を取得できた事実は、平均以上の成績と言って間違いない。都内の教習所は路上実習が極めて困難、田舎の広い道を走るのとは条件も大きく違う。単純な比較では語れないことだろう。
 では伸は何がそんなに不満なのか。
 それは恐らく己にも、相手に対して思うことでもなく、タイミングの妙が存在し続ける不満なのだろう。学年が違うと言う明確な差がありながら、実年令には殆ど差が無いから生じる特殊な感情。常に一歩前に居る筈なのに、いつも追い付かれて追い越されているような感覚。自分は何の為に仲間達より先に生まれたのかと、その意味を長く考え続けている。
 最初に出会った時から、伸より背が高かった征士だが、一時期並ぶくらいになった後、今はまた十センチ近い差が生じていた。学年以外の何もかもが、征士は自分より早く進んでいると、伸には感じられているのかも知れないが。
 生物の成長には固体差があるものだ。目に見える点のみを比較しても無意味である。
 しかしそんな科学理論はともかく、伸の気持の上では、何か重要な意味があるとでも思わなければ、やっていられなかったのだ。

 晴天の空を抜けるバイパス。伸の自宅から小一時間も走れば、車は海岸沿いを真直ぐ走る有料道路へと出た。日中は夏の盛りらしい陽気が続いている。波打ち際の白い水飛沫が、只管目に涼しく映っていた。窓を開けて外の空気を感じたい気持と、クーラーに因る快適な車内温度を放棄すること、どちらを取ったものか伸は考え始めていた。
「それで、何処へ行くか決まったのか?」
 手にはロードマップを広げながら、窓に流れる景色を食い入る様に見詰める伸に、征士は今更な質問を敢えて問う。ここまで伸の誘導に合わせていただけの征士は、もういい加減目的地を教えてくれても良いだろう、と思った。すると、
「そうだね、虹が浜に行こうか」
 伸には幾つかの候補地があったらしいが、その中から、県内有数の美しい海岸を選び出していた。伸の家からは近所とは言えない場所の為、そう滅多に出掛けることはない行楽地。但し、この時期ではそろそろ海月(くらげ)が発生する。水遊びならいいが、本格的に泳ぐつもりなら不適当な選択かも知れない。
 母なる海を愛し、水に触れることで心安らぐ。そんな伸がわざわざ泳げない海へと向かっている。海月の情報など聞き及んでいない征士は、
「ナビよろしく」
 と、特に疑問を感じずにアクセルを踏み出したけれど。
「はいはい。…まあいいけどね」
「まだ不機嫌が続いているようだ」
 そして話は出掛けの会話へと戻っていた。
「だってさ、いつも君が運転してくれるなら、僕が免許取っても意味なかったじゃないか」
 助手席に悠々としている伸の言い分は、普通に考えればおかしな内容だった。己が己を運ぶ為に車を走らせる機会なら、今後幾らでも作り出せそうなものだ。或いは大学の友人、戦友であった仲間達、実家の家族等の為に、車を使う考えはないのだろうかと。
 だからこれは冗談の一種だろうと、征士はあまり真面目に受取らなかった。大体今の伸の様子を観察する限り、出る言葉ほどには不服を表していないのだ。そして更に、
「そんなことはない、何かがあって、私が倒れたりしたら代わりが要るだろう」
 征士の言う通り、何らかの事情で征士が運転できないことは考えられる。ふたりで出掛けることを前提にするなら、どちらも運転できる方が有利には違いない。緊急の運転手、或いはレッカー車等を呼び出して、無駄な出費をするのも馬鹿馬鹿しい。
 だが、その提案に対する伸の返事には、強く反論できなかった。
「そんなの滅多に起こる事じゃないよ。それより長くペーパー続けてて、非常時に突然普通に運転できると思ってんの?」
「うーん…」
 世の中には、折角取った資格を眠らせている者も多いと言う。まあ、その肩書があるだけで就職に役立つ場合もあるが、自動車、船舶等の運転免許と、医師免許などは流石に長く日が経つと、改めて勉強し直さなければならないだろう。人命に関わる資格は中途半端にしてはいけない。それについては征士も納得しているようだ。
「ほらね、実際分からないだろ?。君ほど運転が身に着いてる訳じゃないんだ」
 ただ、伸の話は何故征士以外の者を対象にしないのか、それだけが解らない征士だった。まるで今も、明日からも常にふたりだけで過ごすかのような、或いはそんな時以外に車の運転などしないとでも言うような、酷く限定的な場面への彼の不満。
 そう、征士が感じていることは正しかった。伸は彼を車に乗せて走ることにしか、運転の楽しさを見い出していなかったようだ。元々は風を感じられるバイクの方が好きだった。又都会で暮らす分には、車を所有すべき理由もあまりないものだ。ならば伸はただ、征士が車好きなのを知った上で、特に必要もなく免許を取ったことになる。
 否、疑わしく思うなかれ。伸のすることにはしばしば、明確な意志が見出せないこともある。既にそんなケースにも慣れている征士は、敢えて相手を立てるようにこう返していた。
「…伸はそんなに下手ではないと思ったが」
「クク。でも特に上手くもないって顔だよ、征士。お世辞はいいから」
 結局いつもの伸らしい顔をして、深く傷付いた風でもなく、妙にはしゃぐでもなく征士の隣に座っている。どう対応すればどんな返事をするのやら、征士はいよいよ困って来たところだ。
「ん、では行く」
 と一言で返して、それまでの流れを征士は断ち切っていた。いつの時も、伸の中にはもやもやとして不明瞭な、答の出ない思いが何かしら存在している。本人にすら制御できない意志の揺らぎに、他人がまともに相手をしても疲れるだけだった。だからばっさりと切ってしまう。伸に取ってもその方が楽になると征士は知っている。
 これまでもずっと、落葉の舟の様に揺曳する伸の心に、征士は振り回されてばかりいたようなものだ。けれど間違いなくそれが伸なのだから、仕方がないと思って許している。そうして片方が何処かで折れることが、上手く付き合って行く条件だと判るからだ。
 或いは片方の要求を通す代わりに、と付け加えれば完璧だろう。



「虹が浜とはどんな所だ?」
「え?、単なる海水浴場だけど、この辺ではすごく綺麗な所だよ」
 見通しの良い車道をひた走る、レンタカーの白のCR−Xが陽光に輝く。本当ならせめてポルシェにしたいところだったが、生憎それは店から出払っていた。他には赤のアウディが置いてあったが、同じ外車でも、赤い車はフェラーリ以外認めない征士だった。妙なこだわりだが、それに因って国産車を借りることになったらしい。
 ところで、
「わざわざ遠出するほどに?」
 と、征士は問い返していた。伸はただ虹が浜の説明をしただけだったが。
「…耳聡いね」
 すると征士の予想した通り、そこは曰くのある場所だと伸は答えた。予想は「単なる海水浴場」と言う言葉から思い付いたものだ。
「そうでもない、伸の家からもっと近い所は他にありそうだからな」
 言わずもがな、萩市は美しい日本海に面した町である。以前征士が伸の家を訪ねた時は、その何れの海岸も泳げる季節ではなかったが、市民は誰もが海に親しみを持って過ごしていると、町の様子から充分に感じられた。恐らくここの住人なら、誰もが近場の海岸を知らない筈はない、殊に伸がそれを知らない訳がない、と征士は考えたからだ。
 すると伸は答えた。
「それもそうだね。…もう半月くらいで、夏休みが終わっちゃうからさ」
「何の関係が…?」
 勿論征士に質問されると解っていて話したので、特に伸の態度に動揺は見られなかった。そして彼は三年前の自分に思いを馳せながら、当時の出来事を少しずつ話し始めた。
「うん。僕らが最初に出会った年の夏に、遼が突然僕の家に来たことがあったんだ。お父さんと一緒に九州に来て、そこから別行動になったらしくてね。近くに来たついでに寄ったって話だった」
 その事実については、征士は以前に聞いたような聞かないような、朧げな記憶を探り始めている。確かに遼が自宅に泊まって行ったと、いつだかに聞いた覚えがあるようだ。そして、今改めて当時の話を聞いた後、まず征士が思い付いたことは、
「遼の父親と言えば、掴み所の無い人物だと聞いているが」
 あまり重要ではなさそうな家族の知識。否、実はそれが話の要点だったのだが。
「そう、その時もね、親子で旅行に行った筈なのに、現地から急に仕事に出掛けちゃったらしいんだ。変わった人なんだよね、どうも」
 伸は続けてそう説明すると、ふっと不可解な笑みを零している。無力を覚った後の諦めのような、その遣る瀬ない微笑は話の中の誰に向けられたものなのか。それとも話の顛末に、思わず笑う理由があるのだろうか。どちらにしても、あまり芳しい印象ではなかった。
「それでどんな様子だったと言うのだ」
 だから征士は答を催促するように言ったが、
「先を読むなよ。…ま、説明しなくても分かるだろうけど」
 順を追って話したかったのに、と伸はまた不満そうに訴え、しかし一瞬嗜める顔を見せるだけに留めた。こんな所で余計な脱線はしたくなかった。少なくとも上の空ではない、関心を持ってこちらに耳を傾けている、征士の態度が判っただけ安心して続きを話せそうだった。
 そして征士は期待通りの返答をして見せる。
「遼のことだ、見た目はいつも通りだったのだろう」
「そう。でも事情を聞いたら、やっぱりどっか淋しそうに見えたんだよね。だってその旅行って、遼の夏休みの始まりに合わせたものだったのに、ほんの僅かで終わっちゃったみたいだから。まだ休みは沢山残ってるのに、どうしてもう少し一緒に居られないの?、って感じだったよ」
 聞けばやはりそんな事だったのか、と征士は無言で小さく頷くばかりだった。
 鎧戦士五人の家族環境は、周知の通りそれぞれに目立った特徴がある。しかしそれは必ずしも幸福で、恵まれた環境と言えないのもまた特徴だった。親同士が別居している者、日本人でありながら日本人でない者など、幼い頃から何らかのマイナス面を持つ者ばかりだ。その中で片親が居ない遼と伸には、他の者には解らない共感が、何かしらあるのかも知れなかった。
 遼の話を特別に話しているのが、まずその証拠だと征士は考えている。
「…ただ仕事が忙しいのかも知れないし、余所の家の事情は僕には分からないけど、遼はいつもそんな淋しさを我慢してるのかなって、思ったらちょっと辛かった。それで、少しでも楽しい思い出を付け加えてあげようって、一緒に出掛けたのが虹が浜だったのさ」
 伸の話は、車が到着する少し前に虹が浜に辿り着いていた。
「何となく、その時の遼の淋しさを思い出すんだ、この時期」
 ならばその地へと向かっているのは、過去の悲しみを弔う為なのか…?。
 秋の海岸は淋しいと言う歌もあったが、晩夏ならまだそうでもない筈だった。特に征士の住む東北地方に比べれば、山口県内は何処も蒸し暑い陽気に満ちている。恐らく虹が浜海岸も、まだ普通に人の姿を見られる時期だろう。心静かにひとり浜辺に佇む、とはいきそうもない人々の明るいざわめきが、既に耳に聞こえて来るような空の下。
 それでも良いのか?、と征士は横顔の伸に問い掛けた。
「今の私が言うのも何だが、あの頃はまだ半分は子供だったからな」
「ハハ、みんな今はもう少し成長してるね」
 まだ充分に幼かった少年達。それぞれが侭ならない感情を己に抱えて、何を目指すべきか迷い、右往左往していた日々を思い出している。今も達観できる程のものは得ていないにしろ、三年前はもっと幼かったと素直に認められる。少しずつでも歩んで来た己がここに居ることを、今は穏やかに感じているふたり。
 それは勿論、話の中心に居た彼にも言えることだろう。
「恐らく遼はもう、そんなことを気にしてはいないだろう」
 と征士は纏めた。今も尚、遼がその頃の思いに囚われていると考えては、彼に失礼だと笑っても見せた。
「…うん」
 多少歯切れが悪かったが、伸も反論することなく落ち着いている。
「故意にしろ偶然にしろ、遼は早くから独立を迫られる環境に在った、と言うことだ」
「そうかも知れない」
 つまり過去の伸の感傷だけが、今も虹が浜に取り残されているのだろう。その時から様々な経験と時を経て、何故それが未だに心から消えないでいるかは、もしかすれば遼ではなく、伸の方に原因があったのかも知れない。その時強く心を揺り動かした何かが、今も彼を悲しみの海辺へと誘っているのだ。
 伸の言う淋しさとは、何なのか。



 海岸沿いの駐車場に車を停め、そのドアを開けると、途端に潮の臭いが鼻先をくすぐった。
 到着した虹が浜海岸の周辺は、予想通り少ないとは言えない人出で賑わっていた。明るい日射しの降り注ぐ中、鮮やかに映えているパラソルの色、デッキチェアの色、水着の色。けれど目から飛び込むそれらの情報に比べ、耳障りな声や音は意外に少なかった。幸運なことに、大人しく日焼けに微睡む者や、大人しい集団が多く感じられる。これなら伸の目的にも適うかも知れなかった。
 否、彼が何をしに来たのかは、今を以って判らないことだったが。
 昼間の波は静かに寄せては引いている。その波打ち際をザクザクと、湿った砂の軋む音を聞きながらふたりは歩いていた。色の薄い瞳には眩し過ぎる海辺の日射しに、征士がポケットからサングラスを取り出す。その動作を意識した訳ではないが、不意に伸は先程の話の続きを口にしていた。
「…あの時はもっと人が居てさ、あんまり大声では話せなかったけど、僕らの戦いを最後まで成し遂げようって、真面目に約束なんかしてさ。遼が無理して笑ってるように見えたのが、僕にはただ切なかった。…今はもう全てが終わった後だなんて、なーんか不思議な気持だよ」
 けれど、素直な感想を話したつもりの伸に対し、思わぬ言葉が返って来る。
「遼には楽しい思い出になるよう気遣い、伸には辛い思い出になった」
 征士の言うように考えたことは、これまで一度もなかった伸だ。
「えっ?、いや、そんなことはないけど…」
 伸は思わずそう返したが、果たして、征士の意見は間違っていただろうか?。
 これまで征士は幾度も見て来た、伸は己の感情がどう動いているのか、客観的に知覚することができないのだ。引っ切りなしに、心があまりに大きく振幅するものだから、その一点一点を捕捉できないでいるのかも知れない。繊細な人間とはそう言う面を持つものだ。又それが特に辛い事実であったり、人を傷付けるような感情であれば、誰にも気付かれないようにしまい込んでしまう。
 そんな彼だから、実際その時何が起こったのかを伸は、未だ正確に把握していないのだと思う。少なくとも、最も近くで見ていた征士にはそう考えられた。
「誤魔化しているようだ」
「何がさ」
「淋しさを感じていたのは、むしろ伸の方ではないのか?。傍に居ない父親に対する伸の気持と、その時の遼の様子が重なって見えたからだ。だからいつまでも気に掛かっているのだろう」
「・・・・・・・・」
 恐らく、それが真実だったのだ。そして訳も判らず疑われているように感じた、伸の強張った表情は次第に溶けて行った。
 今、記憶の中に刻まれた言葉が見える。
『どうしてお父さんは居てくれない』
 それが三年前にここで、伸と遼とが共有していた感情なのだろう。些か恥ずかしく感じる真実にせよ、確かにそうだと認めてしまった後は、急速に心が楽になって行くのを伸は感じていた。幼い頃、自分は父がとても好きだった。仕事に出て離れている時も、傍に居る時も、いつも自分を一番に気に掛けてくれる大きな存在だった。それを失ってしまった時の悲しみは消しようがない。
 そんな、既に判り切ったような過去の事実が、これまで探し出せなかった忘れ物だ。いつも大事なことが、生温いオブラートに包まれて見えなくなってしまう。悲しみが己を傷付けないように、或いは誰かを傷付けないようにと、意識しないレベルで心の奥に埋めてしまうからだった。
 そして、見えなくなったものを見付けてくれるのは、いつも明日の先を見ている征士だった。
 まるで雨雲から虹を渡す魔法の様に。
 だから僕は君の傍に居なければならない。
「…どうして君に分かるの」
 暫しの間の後、そう尋ね返した伸の様子は既に、虹が浜の話を始める前と同じに戻っていた。
「そうだな、私ならそこまで感傷的になれない。保護者が傍に居ないことも、考え方に拠っては良い環境だと思うからだ。遼は早く一人前と認められるようになるだろう。最近の遼を見れば自然と分かることだ、恐らく私達の中で一番早く」
 征士の言うことは尤もだった。最近は、以前のように頻繁に集合することがなくなった分、暫く時間を空けて会う度に、仲間達の様子が新鮮に映るようになっている。そしてあの熱血自然児だった遼が、誰よりも大人びて見えた5月の集会。リーダーの重責を全うした彼にはそれだけの、伸びしろが与えられたような現実だった。
「そう、かも知れない」
 もう誰も、過去のままの感情を残してはいないだろう。
「一人前って言うのは、淋しさに堪えられることだろうか」
 伸だけが淋しさに塞がれた過去に漂っている。
「そう言う面もあるのではないか?」
 征士はそう答えて、俄に視界から消えた彼を振り返った。すると、すぐ後ろに立ち止まっていた伸と目が合って、何故だかその日一番の笑顔に出会えた。
「じゃあ…、僕はまだ半人前でいいや」
「あっ、おい」
 伸がそんな表情を向ける時は、いつもそうであるように、何かしら悪戯な行動に出るものだった。恐らく正直な喜びの感情が、自分で照れ臭く感じるからだろう。彼が何に喜んでいるのかは、今ひとつ掴めないでいる征士だったけれど、
「大声で話せないことはあっても、行為を見られるのは平気なのか」
「ハハハ、ハハハ」
 よく見かける恋人達のするように、己の腕に絡み付いて笑っている伸を見て、ひとつの問題を解決したことを共に喜べる、そんな気にはなっていた。
 今日からはこの虹が浜も、ただ懐かしい思い出へと変わって行く。と思いたい。

「じゃあ征士はさ、来年東京の大学に入ったら、ずっと僕の運転手をしてくれる訳?。僕は何もしなくていいって訳だね?」
「突然何だ…」
 そして話はまた、最初の他愛無い話題に戻っていた。ああ、もしかしたら、伸は頼もしく偉大な父親に近付きたいのかも知れない。だからまず傍に居る対象を押さえようとするのだ、と征士は失礼ながらも微笑ましく思い、笑っていた。



 誰も振り返らない記憶を大切に抱えていられる理由は、傍に誰かが居るからかも知れない。









コメント)夏コミの後に書くつもりが、暑さとオリンピックの為に断念(笑)。まあでも、夏の思い出を振り返る時期に書けたので、それで良しとしておきましょうか。
実はこの話の伸遼の部分、TVシリーズの前半と後半の間に入れようかと思ってたんですが、エピソードが短過ぎて話にならなかったので、こんな形で後出しにしました。93年頃に考えた古いネタだったんだけど、復活させられて良かったです。ちなみにタイトルは大貫妙子さんのむかーしの曲ですが、「少年」ってイメージがよく伝わるような、すごくすてきな曲だったりします。




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