不安になる遼
海がくれるもの
Sea Change



 大学で出会った友人、毛利君はいつも朗らかで人当たりが良く、概ね普通の学生だが、ひとつだけ変わった所のある人だった。
 彼は海が好きだ。尋常ではない程に。

 その夏、俺は大学のサークル仲間と共に、毛利君の実家に遊びに行った。
 遊びに行く、との言い方は語弊があるかも知れない。日本史研究部のメンバーは皆、大名家の確かな筋の嫡子である毛利君と、彼の実家周辺の文化に興味津々だった。同行したメンバーは神奈川、大阪、そして山梨で育った俺を含め、まだ誰もその付近に出掛けたことがない。故に遊ぶと言うより、見聞を深めに行くと言う方が正しかった。
 ただ、彼の実家はすぐ傍に海があると聞いた。季節がら海と聞けば、誰もが水辺の遊びに興じたくなる時期だ。五日程の滞在中、一日くらいは言葉通り遊びに出るのも良いだろうと、サークルの仲間達は考えていた。
 無論俺も、深く考えることなくそう思っていた。



 そこは大層な佇まいの日本家屋。一部は近代的に観光地化された萩の町に、彼の家は古の風情を残しつつ存在していた。
 都会に暮らす者には、これを単なる家と呼んで良いのか迷う程の、広い敷地と多数に分かれた棟。今は主に来客用の母家、離れ、茶室。現在生活する別宅、蔵、物置き、作業場。丘の斜面に据えられた昇り釜は、この町の伝統工芸を支える大切な設備だ。平々凡々たる生活環境に比較すると、お話の世界のようにも感じられた。
 夏の数日の間、そこに寝起きしていた学生三人は、その日、友人である若当主の提案で、海に舟遊びに出ようと計画していた。滞在四日目の午前中のことだった。
 晴天の続く西日本の天気は、その日も特に変化なく朝から晴れ渡っていた。これまでに萩周辺の史跡、史料的物件は大方回り歩いたので、帰宅の日を前に今日は一日、のんびり楽しんで過ごそうと言う訳だ。
 日本海に面した、波の静かな萩湾には小規模の釣り船が多数停泊している。その中に毛利家所有のボートがあり、彼等は操縦士と共に、それに乗って外海へと出て行った。近場の岩礁、無人の小島を巡りつつ、付近で最大の見島に寄って戻る予定だった。
 夏の日射しの中では、萩湾はターコイズ色に輝いていた。また離れ行く岸を振り返ると、鄙びた屋根瓦の続く町並みは、背景に青々とした夏蜜柑の葉を背負っている。本州に於ける海の町のイメージは、横浜にしろ神戸にしろ深い青を想像するが、この町は不思議と南国的な翠色だった。
 そのせいか遼の胸にも、不思議な感情が沸き上がっていた。
「…海を見てると、時々何とも言えない気分になるんだ」
 学生達の乗り込んだボートは、沿岸の浅い岩場を抜け、今は快調に波間を滑っている。湾内の南洋を思わせる海とは違い、流石に外海は一面の青い世界だった。それでもこの快晴の空の下では、幾分軽やかな色調に見えている。
 そんな明るい世界の中で、遼は何故だか自身の感情に不安を覚えていた。
「そう」
 その横に居た伸は、軽く遼の顔を覗き込むと一言そう返した。港を離れ二十分程度、船酔いしている訳ではなさそうだ。旅のホストとして当然の気遣いを見せた後、伸は彼に、
「海の向こうから死者がやって来ると言うからね」
 と、冗談なのか脅かしか、奇妙な話をして笑った。
 外洋に出ることを不安に思う者は少なくない。陸に住み慣れた人間は、地に足が着かない場所を恐れることもある。生物は、特に子供は防衛本能から、見知らぬ環境を怖がるようにできている。伸は恐らくそう知りながら、半ばからかっているのだろうが。
「気持悪ィこと言うなよ〜」
 海に親しみを持っている筈の、横浜育ちの秀が、風とエンジン音に負けない声でそう返した。ボートの舳先に立っている伸と、船尾に凭れる秀が会話するのは難儀だが、ふたりはお互い声を張り上げ、面白がって会話を続けていた。
「あれ〜、君らは知らないの?」
「何がだよー?」
「『いたこ』って言うだろ、死んだ人の霊を呼び出したりする人。『潮』が『来』るって書くんだよ?。海に関係あるに決まってるじゃないか!」
 代々中華街に暮らす秀には、馴染みのない話だったかも知れない。潮来の思想は古代中国の世界観から生まれたものだが、現在は知識として取り上げられることのない、一種のファンタジーとされている。
 けれども、伸が口にしたのは日本史上の事実である。過去の人々は海や陸の繋がりを知らず、大陸の見えない地域には、海がどこまでも続いていると信じられていた。その向こう、海と空の繋がる水平線の向こうに、黄泉の国が存在すると土俗的に考えられていた。そしてその二界の橋渡しをする能力者を、海に因んで潮来と呼んだ。
 古来、霊的な場所であったから、亡骸を海に流す風習が生まれたのか、亡骸を流すから霊的な場所とされたのか、意味付けの順序は定かでない。
 当然、科学的見地から言えば迷信に過ぎない。が、
「潮が来る…」
 遼はその言葉を大事に確かめるように、小声で繰り返していた。
 彼に取って何か、大切な言葉や映像が蘇る経過のようだった。次々その胸に現れる思いは、岸に流れ着く漂流物を拾い歩くのに似ている。当たり前の廃物の中に、思わぬ物を見付けときめくことがあるように、心の中の宝探しは驚きに満ちている。遠い過去に流した瓶が戻って来たようだと。
 確かに、潮が運んで来るようだと。
「そんな事しながら話されると、黄泉の国の船頭に見えるぞ、おまえ」
 そこで、基礎知識的な会話を聞き流した当麻が、目に映る情景を的確に語った。船の舳先に立つ伸は、漁に使う銛のようなものを手にして、意味もなく水面を掻いていた。単純な移動の間は手持ち無沙汰だったのだろう。これが手漕ぎのボートで、櫂を持っていたなら尚それらしい。
「そーだぞ!、変なこと言うから寒気がして来たじゃねぇか!」
 当麻の話に乗って秀もボヤくと、伸も、「成程」と頷き笑っていた。
「アハハハ、意外と怖がりなんだなぁ?秀は」
「暑いなら丁度いいだろ。海は屍骸の宝庫だと知らないなんてな」
 結局当麻が頻繁にするように、秀の無知をからかう形となったが、良好な友人関係の内に笑い、余暇を楽しむばかりの三人には、俄に黙り込んでしまった遼の心情は測れなかった。なにもこんなに明るい空の下、気の合う仲間のすぐ傍で、深い悩みを思い出さなくてもいいだろうに、と…
「・・・・・・・・」
 否、逆かも知れない。概ね全てが満足と言える時ほど、それが崩れる不安を感じるかも知れない。目先の悩みを抱えていない時ほど、根源的な問題を思い出すかも知れない。遼自身も、なにもこんな時にと思いつつ、去来する止められない思いを抱き締めていた。
 死んだ者を思い続けるのは不健康だと思う。
 誰に言われた訳でもなく、いつしかそう考え、彼は過去の悲しみを断つ為の成長をした。彼の母は彼が幼い頃に亡くなっており、朧げな記憶しか持たないものの、やはり家族に母親が居ない家庭の寂しさは、周囲との比較により常に感じていた。ただ、まさか今になって、その是非を問いたい気分になるとは思わなかった。居ない者は居ない、そう割り切ってはいけなかっただろうか、と考えていた。
 伸は些か怪し気な態度を見せながら、考え込む彼の表情を見ている。そうして友人にイニシアティブを与えていた。海に関し誰より執着のある、伸は恐らく何らかの解答を得ているだろうが、遼が彼なりの答を見付けることが、最良と判断したようだった。
 何故なら、十人には十面の海があると伸は考えるからだ。
 果たして海の向こうには、その通りの答があるのだろうか?



 昼間の穏やかな海に浮かぶ、ボートの視界には遠い島影と数々の岩、空を行き交う海鳥達、そして太陽と千切れ雲以外は何も見えなくなった。船の四方に広がる海原は、まるでうたた寝でも楽しむように、この時間は常に緩やかに揺らめいている。
 呑気な学生達のバカンスは途中、上陸できそうな岩礁のひとつに立ち寄り、暫し冒険者の気分を味わった後、海亀の棲息地として知られる見島へ向かっていた。
 その間も、秀と当麻のふたりは、初めて見る周囲の様子、初めて足を踏み入れる場所を大いに楽しんでいたが、遼は終始大人しい様子だった。そんな時、他の三人は敢えて触れないようにしている。子供ではないのだから、個人の思いに浸りたい時に、不必要な言葉は掛けないと了解していた。
 何を考えているかは知らないが、生い立ちに不幸を持つ彼には大切な時間もあるだろう。実は伸も十二才で父親を亡くしているが、十二にもなっていれば、事実をありのまま受け止めることもできる。家族の死について、曖昧な記憶しか持たない遼のことを彼は、常に気遣っているようだった。

 走る船の上では、跳ね上がる水飛沫が陽の光に煌めき、砕けるダイヤモンドのようにも見えた。光の演出が景色を美しく見せるのは間違いない。海は南中の昼間が最も美しい。しかし幾ら美しくとも、眺める物がそれしかない長距離移動は、そろそろ飽きが来るところだった。
 ここはまだ陸から近いが、もし大海の真ん中にまで出ようものなら、どれだけ退屈な思いをするだろうか。しばしばニュースになる漂流者の意識を、想像で楽しむ余裕はまだあったけれど。
 只管平和に広がる空、只管微睡み続ける海…
「おい…、伸、」
 ところがその時、秀が微妙な空模様の変化に気付き、伸を振り返りながら尋ねた。
「何か時々暗くならねぇか?」
 影となるものは何も無いのに、との疑問だった。すると尋ねられた伸ではなく、先に当麻が口を開く。
「雲のせいだろう。上空は結構風があるみたいだな、雲の流れが早い」
 そう、他に大して見る物が無いので、当麻は空の流れる様ばかり見ていた。無意識にしていた雲の観察が、偶然役に立ったと言える場面。だが、それだけに秀は、
「雲だとしたら、天気は大丈夫なのか?」
 そんな心配もしていたようだ。海上での天候の見方は、地上のそれとは違うだろうと伸に尋ねると、今度は伸が質問に答えてくれた。
「大丈夫、海ではよくあることだよ。波は荒れてないし、黒い積乱雲も見えないし、低くて小さい雲のちょっとした悪戯だね。一時暗くなるだけで大抵は何もないよ」
 そして、海の事情に慣れている伸が、全く気に留めない様子で話すのを見て、
「ならいいけどよ!」
 と、秀は途端に口端を上げて笑った。馴染みのない場所での出来事は、誰でも多少神経質に受け止めるだろうが、実例を知ってしまえばそんなものだった。少し考えれば海水は温められ、常に水蒸気を生み出している筈だ。まあ、彼には現実に海が荒れることより、掴み所のない幽霊話の方が嫌そうだったが。
 それから、暫し話をしている内に、彼等の視界に頻繁に影が差すようになった。その時はまだ、風に揺れる大きな葉影のように思えなくもなかった。しかしある時、薄闇を齎す雲自体が目に映るようになり、そうかと思えば、あっと言う間にボート全体が覆われていた。
 海上を漂う浮雲が、周囲の十数メートルの範囲だけを薄暗くする。その中に居ることは、誰にしても嬉しい気分ではなかったが、ただ、このような極々小さな浮雲でも、その下は相当涼しいと三人のビジターは知った。低い雲ならではの現象、それもまた学生達の新たな発見だった。
 日陰の暗さも時と場合に拠っては良いものだ。
 面白い、と言う顔を露に上空を見上げた秀が、
「ただいま、雲の下を通過中〜、て訳だな?」
 と、今は明朗にアナウンスの真似をする程、彼には大した事ではなかったようだ。
 但し感覚的な奇妙を覚えるのはどうしようもない。それまで殆ど喋らなかった遼が、
「少し、気味が悪いな」
 この時ばかりは、辺りの景色を一望し呟いた。海上全体は明るく輝いているのに、何故か身の回りだけが暗いのだ。故意に日陰に入った訳でもなく、音もなく寄って来た闇に閉じ込められたような、居心地の悪さを彼は感じていた。無論考え事をしている最中だったせいで、余計にそう感じるのだろう。己の心の風景が外に現れたような、細波の上の不安な陰影…
 すると当麻が、
「確かに。動きがのろいのも妙な感じだ」
 遼に同調しそう続けた。何故なら遼は反対の場所でその原理をよく知っている。山に掛かる雲は景色を次々追い越して行くが、その水蒸気は主に川や土や植物が発する。雲海と呼ばれる現象は真水だが、塩分濃度の高い海水を思えば、不思議な事が起こるものだと彼等は思った。
 そう言えば、海坊主の伝説は海上の蜃気楼だと言われている。明け方に漂う水蒸気に陽光が反射し、巨大な球のような形を描くのだと、当麻はテレビ番組の解説を思い出した。不思議な事が起こる、言葉で言うのは簡単だが、その原理を解くのには長い年月が必要だった。
 長い年月の内に、明かされた自然現象は数々存在する。けれど海には、まだ知られない秘密が多数含まれている。太古より人の生活に欠かせぬ場所でありながら、人は意外に海を知らないものなのだ。実に興味深い話だと、今は改めて考えさせるひと時だった。

「おっ、そろそろ出口か?」
 雲に覆われ五分ほど経過した頃だった。秀はボートの一部に再び光が当たるのを見て、漸く影の中から脱出する兆しを知る。その内一秒、二秒と時が進むに連れ、睫に触れる光が増えて行くのを感じた。
「本当だな、陽が差して来た」
 遼も、途端に嬉しそうな口調に変えて言った。彼はそこまで深く、内面の深みに沈んでいたのだろうか。或いは単に暗さを怖がっていたなら、伸や当麻には少し笑える状況だった。「暗くなるだけで何もない」と前に説明した通り、例え地上でも、明暗の境に強固な壁がある訳でもなかろうに。
 遼は何を考えているのだろう?
 ところがそこで、伸にも偶然だったが、「何もない」とは言えない状況に出会していた。
「何だ?、外の明るさは強烈だな…」
 ボートは順調に雲の下を抜けていたが、外の光を異様に眩しく感じ、当麻は目を覆いながら言った。正午過ぎの太陽が照らす世界は、確かに一際明るいけれど、目の開けないほどの光は尋常でないと思う。明るさに慣れないと言うレベルじゃない、と彼は続けて感じたままを訴える。
「おい…、おかしくないか伸?」
「何でこんなに眩しいんだよっ??」
 けれど彼は、慌て出した当麻と秀に対し、全く平常な様子で返した。
「別に何でもないよ」
 ふたりには意外な返事だったが、この海に慣れた伸のことだ、恐らく危険は無いと信じるしかない。無言で目を覆う遼にも、その一言で伝えたい意図は感じられた。伸は幾度か、以前に出会ったことがあるのだろう、このような堪え難い程の光の洪水に。
 その明かりは刻々と強烈なものになり、視界の全てを白く透かして行った。
 物理的力は無い筈だが、爆風に己の姿が掻き消されて行くようだった。
 だが伸は何故、これ程の変化に身動きひとつしないのだろう。経験的に害はないと知っていても、痛い程の眩しさは同じ筈なのだ。好きこそ物の何とやらで、愛着が勝れば堪えられるのだろうか?。否そんな馬鹿な、と、遼は抱え込んだ頭の奥で疑問を繰り返していた。伸は元より、海と言う一要素に於いては、普通の人の感覚じゃないと知っていたけれど…
 海は様々に姿を変える場所。地球上に多大な影響を及ぼすエネルギーを含有し、ダイナミックで秘密主義な場所でもある。新天地に臨む夢も見られれば、回帰的な郷愁を誘い、本能的な恐怖をも感じさせる。身近でありながら理解するのは難しい。まるで伸のようだとも感じつつ、そんな海が彼を狂わせるようにも思う。それとも自分を含め、彼以外の人間が鈍いのか、弱いのか、と遼は自問自答していた。
 すると、それまで身動きしなかった伸が、そろそとその場を歩き出すのを感じた。船上の不安定さをものともせず、軽やかに歩く足音が奇妙に耳に響いていた。遼は恐る恐る顔を上げ、目に翳していた掌をゆっくり開いて行く。
 光は、間違いなく先刻より柔らかくなっていた。
 そして目を開くと、きついと感じぬ程度の光量の中で、じっとこちらを見ている彼が居た。
「伸…?」
 ボートの端から端、かなり離れて立っているのに、何故だか伸の表情はくっきりと見えていた。彼は笑っている。否、微笑んでいる。何処かで見たことのある微笑みだった。
 突然、遼に閃きが生まれる。
 自分は「何処かで見た」と感じることができた、と、これまで鈍くなっていた何らかの感覚が、少し取り戻せたように彼は覚る。すると謎掛けを解いたように、重なっていた伸のイメージが捲れ上がり、その本体を離れ、誰かが彼をじっと見詰め続けていた。
『誰だ…?』
 まだ何とも判別できずにいたが、人だと言うことは彼にも判った。恐らく己の感覚を鋭くすればする程、姿形がくっきり判るのではないか。海の秘密、心の秘密、それらを解くには最も原始的で、自然に感応する能力が必要かも知れない。見い出そうとするのではなく、訴え掛けて来るものを受け入れる力だ。
 人類は、潮の干満や星を見ることなど、あらゆる事象を受け発達した生物だ。そう理解すると彼は、己の内に眠る心を一心に見詰めることで、漸くその人の姿を見ることができた。
『…ああ…、母さんだ…』
 海上に出た時、過去に憶えた不安な気持を思い出した。「死者」などと言う言葉を耳に、無理矢理忘れようとしていた自分を思い出した。そうして頑に心を守らなければ、母の望む通り強く生きられなかったからだ。それでも優しい母の面影は、それを失った悲しさを瞬時に運んで来る。思い出してはいけない、見ぬ振りをしなければと、幼いの彼の心にその死は影を成していた。
 けれども。今、改めて母の記憶に出会った遼は、素直に「思い出せて良かった」と感じられていた。彼の心がもうひとつ成長したのか、或いは亡き母からのメッセージか。
 例え今は居ない人だとしても、記憶から消去していい訳じゃない。家族の縁が切れた訳でもない。悲しみから逃げ続けるだけでは、誰の死も何ら意味を持たない。本当はいつも、誰にも生き続けてほしいと願うのが、人として当たり前の感情だと判っているのに。と、遼が今そんな開眼の機会を得たのは、素晴しい幸運と言えるかも知れない。
 それは海の不思議な力の所為なのか、それとも…?
「伸…!?」
 すると、母の面影を連れて来た彼が、船体の細い縁を軽やかに走り、ボートから空へふわりと飛び出した。ような気がした。
 引力を無視するような伸の、臨む先の光の中に誰かが居る。
『やあ、晴れてるから会えると思った』
 そう話し掛けると、遼には確と見出せない誰かが答えていた。
『私はここに居る、おまえは…?』
『そうだね、前みたいに会えなくなってごめんね』
 しかし見えていない彼等の、交流する意識だけは遼にも捉えられた。目は盲目なれど、耳は鮮明に状況を把握している不思議さ。伸と、そこに居る誰かは再会を喜びつつ、人の生の遣る瀬なさをも分かち合っている、と感じられた。
 誰なのか、いつから知っているのか、いつからそこに居るのか。
 母のように亡くなった人なのか、或いは人ではないのか。普通の人間の知識では、疑問が湧くばかりで理解し難い状況だった。ただ伸がとても落ち着いた様子で、満ち足りたように笑っていることだけは、遼の頭に強く印象付けられた。
 伸はだから、普通でないと思える程に海を愛するのだろう。と。
『おまえはまだもう少し生きて、経験する必要がある』
『僕がそこへ行くまで待っててくれるかい…?』
『・・・・・・・・』
『・・・・・・・・』



「…っあ?、な、何だったんだ今の?」
 ボートの縁に凭れたまま、突然目をぱちくりさせた秀が言った。既に周囲は、何事もなかったような普通の景色に戻っていた。
「変だな…、一瞬意識が飛んだ。眠かった訳でもないのに…」
 当麻はもう少し確かな言葉で疑問を口にする。ふと眠りに落ちてしまう状況と似たような、時間の途切れ方を感じたのだろう。けれどすぐ腕時計の表示を確かめると、
「時間はほとんど変わってないな」
 とのことだった。途切れたにしてもごく僅かな時間だったようだ。ボートのエンジン音もまた、何でもなさそうに単調な震動を響かせていた。一瞬、否、数秒程度、目に突き刺さるような光を感じたが、あれは一体何だったのだろう?
「何だったんだろうね」
 すると伸は何食わぬ顔をして言った。
「でもほら、もうすっかり雲を追い越したよ」
 恐らく事情を知っていながら、伸は何も言わないつもりだろうと、遼だけはぼんやりその状況が掴めていた。別段学生達の身に何があった訳でもない、全てを正直に明かす必要はないけれど。
 そして彼の指差すボートの後方には、今は全体を観察できるようになった、小さな笠のような雲が丸く浮いていた。
「おお!、ホントだぜ。こうして見っと、でっかいパラソルみてぇだな」
 一難去って、途端にはしゃぎ出した秀のように、些細な事は気に留めないでいてほしい。答に触れたそうな者には、少しだけ教えてあげてもいい。広い海原を背景に、穏やかに友人達の様子を眺めている伸は、言葉にせずそう語り掛けているようだった。その証に、ふいと遼の方を向くと、ひとつ合図を送るように笑って見せた。
 悲しみを知りたがっていた君には、海の秘密のひとつを見せてあげたかった。
「どうした?、遼?」
 意味深長な伸の態度に、まだ戸惑いを隠せない遼の目の前で、当麻は悪戯っぽく手を翳して見せた。勿論意識が戻らない訳ではない。どちらかと言うと狐に摘まれた状態だ。ただ、
「ああ、いや…、何でもないんだ」
 そう答えた遼は、何やら悩み事が解消したかのように、酷くすっきりした笑顔を見せていた。忌み嫌い続けた過去の思い出に触れ、却って幸福な気分に変わることがあると、遼はその、奇妙な世界の仕組に感動するばかりだった。
 単純明解な理屈のみでは足りない。この世は複雑で秘密めいているから救いがある。解き明かすことのできぬ、人の知力の及ばぬ場所にこそ、本当の人の幸福は存在するのかも知れないと。

 もうボートの前方の視界には、目的地である見島が広く捉えられていた。ここから先は恐らく、いつもの遼に戻ってくれるだろうと、当麻も安心した様子で頷いて見せた。そんな風に、一から十まで相手を理解しなくとも、良い人間関係を保つことはできる。何事もほどほどに、知っていたり知らなかったりするのが、地球人類の幸いではないだろうか。

 世の誰にも不安を感じる時はあるが、本来、根拠の無い不安は存在しない筈なのだ。ぼんやりした不安、と残して自殺した文士も居るが、過去の武士達の栄枯盛衰や、生物の発生と絶滅など、地球上の活動を知識として持つからこそ、ぼんやりした不安も生まれる。
 そして、不安の種は誰もが必ず持ち合わせるが、見えぬ所に仕舞われていることがある。外海の深さを思う時、自身の未知の部分をそこに投影し、隠された秘密が恐ろしくなることもある。何故なら誰にも隠し事はあるものだ、何かを秘めていなければ形成されない人格もある。大事な事は知られてはいけないので、見られない場所に隠すのである。
 だから、人が海を知らないように、人は己のことも知らない。
「死ぬってどういうことなんだろうな…」
 もう間もなく観光地の島に到着、と言う、皆が楽しげな空気を作っていたところ、遼は唐突にそんな呟きを聞かせた。
「何言ってんだ!?、こんな時に!?」
 勿論、伸の他のふたりには、「何故」としか言い様のない状況だったが、意外に、その後に続けられた遼の話は、当麻や秀にも快く受け入れられていた。
「いや、済まん。何かこの景色みたいに、全部が繋がってるような気がしたんだ、生きてるものも死んだものもさ」
 昔の人が、海の向こうを冥界とした気持を、遼は今穏やかに理解した。誰もが時を超え、場を超え、いつまでも繋がっていたいからだ。海を渡れば会える、常にそこに居ると感じていたいからだ。その考え方は不健康ではないと彼は思う。
「そうかも知れないね」
 と、身を以ってそれを知る伸が返した。彼が幸せそうに笑う時、海の何処かに居る誰かも、波のさざめきと共に微笑んでいるような気がした。



 毛利君が海を愛する気持が、酷くよく解った夏だった。









修正コメント)この話の前説(征士と伸の話)を、新たに同人誌(夜の海を走って月を見た)に書いたので、ついでに加筆修正を加えました。特に話は変わってませんが。
これをサイトに載せた当初、「征士についてふたつの解釈ができる」と、ここに書いてあったんですが、よく考えると片方はあまりにも都合の良い流れで、結局どんな存在かは割と早い内に、「こうだ」と言うものが定まってました。
幸いサークル活動三十周年記念本に、これを思い出して書き残すことができました♪。まあ、死んだ人の話には違いないんですけどね…(´`;




BACK TO 先頭