伸と鎧珠
遠く遥か君が為
You'll be far away



「うーん、素晴らしい」
「ヒッヒッヒッ…、征士にそれが判るのかね」

 日曜日の縁側。梅雨の晴れ間に、伊達家では滅多に開けない倉の掃除をしていた。
 古い家に倉があるのは珍しくない。そして倉があるとは言っても、大昔の様に全財産が貯えてある訳でもない。今となっては、年に一度しか使わない家財道具や、他にしまう場所のない『無用の長物』が、正に肥やしの様に詰め込まれていたりする。要するに物置きだった。
 しかし中には幾らか、この家の家宝とされる物もあるので、こうして夏場と冬場の二回、倉の掃除と共に、それらの品の手入れをするのが習慣になっていた。
 征士は今朝、母親から分担された倉の天井の煤取りを終えて、この倉掃除の時だけ拝める、「ある物」を見に祖父の部屋へとやって来た。御年六十四才の征士の祖父は、陽の当る縁側で静かにその作業に没頭していた。

「何故ですか?、このくっきりした直刃(すぐは)といい、反りのバランスの良さといい、私にはとても良い物に見えます」
 征士は家の中に在って、日常的に敬語、丁寧語を使う。勿論それは、家風から来る厳しい教育に拠るものだが、この祖父に対してだけは抵抗なく話せた。それだけ正直に祖父を尊敬しているのだろう。恐らくこの家に住む家族の中で、征士が最も好きな人だ。剣術に於いても立派な肩書があるが、それ以上に実際の親よりも通じることのできる、理解者だった。
 けれど今の征士が、尊敬する祖父と肩を並べて、同等に会話しようとするのは無理がある。
「そりゃあ、稽古で使う真剣よりは良いが…、そう大した刀でもない」
 と、がっかりさせられてしまった。そして祖父にそう評された途端に、今自分の手に握られている刀身が、そう大した物でなく見えて来る。まだまだ征士の刀を見る目は未熟なようだ。
「それは、『山城大掾(やましろだいじょう)藤原国包』と言って、陸前の刀工として知られている。土地の物だから置いているのだよ。新刀なら相当な価値があるが、それは明治の末頃の作でな。ごく新しいものだ」
 土地の物、成程。
 確かに自分の生まれた土地で、同様に生まれた物を手許に置きたいと言う、そんな収集家の気持は理解できた。征士が僅かに持ち手をずらして、茎(なかご)に彫られている銘を見ると、言われた通りに、綺麗すぎる鉄色を露出させて、その名前は刻み込まれていた。
『まずこう言う所から見ないと駄目だな』
 征士は刀剣の類いが好きだ。
 幼い頃から続けて来た、剣道には無論大きく関わる物だが、現代の剣道では滅多に真剣を使うことはない。稀に行われる行事の中で、師範代である母親が形式的に使うだけだ。いずれ彼が師範を取ることになれば、竹に巻いた藁くらいは斬らせてもらえるだろう。
 けれどそれは「生きた刀」ではないと、過去に『古武道』として剣を習った祖父は言った。
 刀とは、護身を目的とした武器であり、武器とは人を殺める道具であると。何を護り、何を斬るべきかに迷うことなくして、剣の命は生まれないと。
 それについては、征士は経験として理解することができた。勿論家族は知らないが、彼は十四にして既に剣を持って、戦場に立ったのだから。
 そう、数々の戦場を乗り越えて来た、人物と共に生きた刀の美しさは、目的を失った現代刀とは比べ物にならない。征士の心を惹き付けて止まないものは正にそれだ。どれだけの者が、それぞれに信じる正義を掲げて、この刀と共に生きたのだろう、或いは命を落としたのだろう。己だけを信じて剣を持つ人生は、例え様もなく潔い生き方だと彼は考えている。
 帯刀を許されない現代に於いては、せめてそう言うつもりで、というのが征士の理想だった。
 暫く打ち粉を叩いていた祖父が、紙で拭った後に現れた別の刀身は、明らかに先程の一振より見事なものだった。
「これは、名高い『備前長船(びぜんおさふね)、七兵衛祐定』だ。良い備前刀だろう、丁子(ちょうし)の刃文が何とも美しい。これは我が家で一番良い物だ、拵えもきちんとしているし、是非とも大切にしてもらいたい一振だな」
 すると征士は笑いながら、
「分かりました、肝に命じます」
 と答えた。実はこの刀だけは以前から知っていたので。祖父の自慢の逸品である「備前長船」の話を、征士は小さい頃から繰り返し聞かされていた。もう彼にさえその講釈ができる程だった。
 しかし、刀剣の蘊蓄を聞かされる時、征士には常にひとつ不満に思うこともあった。今それを思い付いたところで、早速祖父に尋ねてみることにした。
「爺、私はいつも思うのですが、『備前長船』や『長曽祢古鉄(ながそねこてつ)』のような名刀が、何故この東北の方にはないのですか」
 すると、孫の質問に真面目に応じて、祖父は暫く考えた後にこう説明してくれた。
「北の土地には、鉄の出る所が少ないせいだろう。鉄を打つ技術も進まなかったのだ。逆に良い鉄の出る土地には、自ずと名工が集まって来るものだ。まあ、特異なところで『月山(がっさん)』などと言う、南北朝時代の古刀はあったがね」
「『月山』ですか?」
 その名前には聞き覚えがあった。と言うのは、現代でも刀を制作してくれる刀鍛冶屋は存在しており、征士はパンフレットに載っていた刀工リストに、確かにその名字を見た記憶があった。しかし近場に居る人という覚えは、全くない。
「同じ『月山』とは言っても…」
 祖父は征士の様子を察して、付け加えて言った。
「今いる人間国宝の月山貞一は、何代目だったかなぁ。とにかく『月山流』を受け継いだ『貞一』の代から、摂津に移ってしまったのだ。だから、羽前の『月山』は、古刀の太刀しか残っておらんのだ」
 羽前と言えば現在の山形県である。近すぎる程近い隣の県に、そんな過去の名刀があったとは全く、征士は聞いたことがなかった。
 途端に色めき立つ思いがした。残っていると言うのだから、それは何処かの博物館か美術館などに、収蔵されているのかも知れない。早速調べてみよう、と征士は思いながら、傍で祖父が刀油を曳く様を大人しく観察していた。
 幻の名刀『月山』に、果たして征士は会うことができるだろうか。

 その時、襖の奥から彼を呼ぶ声がした。
「征士、征士、お電話ですよ」
 母親であり、剣術師範である人のよく通る声が、日本建築の板張りの廊下に谺していた。征士は黙って祖父に一礼すると、その部屋を出て、電話の置かれている玄関口へと出て行った。家屋の巽の方角にある祖父の部屋からぐるりと、半周するように歩く途中に、その声の主である母親が立っていたので、征士は、
「誰から」
 と一言尋ねる。
「毛利君ですよ」
 和服に襷がけで、袖を纏めている母はまだ倉の掃除の最中だった。少しばかり、不機嫌そうな顔をしている様を、当たり障りない一言で通り過ぎて、征士は電話の受話器を取った。
「もしもし」
『ああ、征士、元気?』
 伸の切り出し方はいつもそんな感じだったが、特に急用と言う訳ではなさそうな雰囲気だ。
「別に変わったことはないが、何か用か?」
『ううん…、用事はないんだけど、どうしてるかな、と思って』
 征士はふと思う。そう言えば先週電話をくれた時も、伸は同様にそんな切り出し方をしていた。十日程前のことだ。
 特にこれと言って用もなく電話をかける、と言う行為を「おかしい」とまでは思わない。世の中には好きでそうする者も居ると、理解できない訳ではなかった。けれど伸の方はともかく、征士はそんな趣味を持たないだろう。伸が判らないこととは思えなかった。
 何故自分に度々電話をかけて来るのか、妙だった。別段迷惑とは思わなかったけれど。
「今日うちは倉掃除をしていて、朝から何だかバタバタしている」
 取り敢えず、征士はこれまでの一日の経過を話していた。すると伸は、
『ああ、そう言えば倉があったよね。うちにもあるけど、そりゃ忙しそうだ』
 と普通に笑いながら返して来た。
 少し前のこと、連休には仲間達全員で征士の家に遊びに来ていた。その発端は、遼が連休中に剣の稽古をしたいと言って、家に道場を持つ征士に話を持ち掛けたことからだった。その話がそれぞれの者に回り、全員が集まった結果、まともな稽古になったかどうか…、と言う状況になってしまったようだが。
 だから伸は、征士の家の様子を大体は知っていた。
「まあ、代わりに良いこともある。久し振りに爺様の刀のコレクションを拝めた」
『コレクション?』
 その単語に何故か伸は反応した。
『そんなに沢山あるの?』
「いや、大事なものは三、四本だが、他にも無造作に転がっていたり、実際使っているものもあるのだ」
 と征士が答えると、伸は、
『へええー?』
 と些か頓狂な声を上げる。
『そんなに持ってると大変だろう?、刀剣の管理ってお金かかるしさ』
 けれどその問いには、今一つピンと来ない征士だった。
 記憶に拠れば確かに、刃研ぎなどの手入れ、保存用の白鞘の作り直しなど、管理と言えることはしばしばしているようだが、それにどのくらい費用がかかるかを聞いた憶えはなかった。
 無論自分の持ち物ではないから、という意味でもあるが、この家に居て征士が家の金の話を耳にする、と言う場面は滅多に無いようだ。それだけ、彼は裕福な環境を持っているし、又本人もそんなことには関心を持たなかった。
「さあ…、どうだろう。私は聞いたことがない」
 すると伸は、冗談半分の調子に批難して言うのだ。
『あっ、知らないのかい?。駄目だよそんなことじゃー。君の家にある物は、ゆくゆくはみんな君の物になるんだろ?。関心のある物だったら尚更、ちゃんと聞いとかなくっちゃさ!』
「…そうだな…」
 言われてみれば確かに、と征士は途端に説得される。物は物でしかないが、単なる物だろうと、家だろうと、自然環境だろうと、何の手も入れずに同じ形を留めることはできない。大切な物の手入れをするのは、収集家ならば当たり前のことだ。
 けれど、
 それならただ「刀が好きだ」と言う己の気持は、それとは何か別物のような気が征士にはした。祖父の話を聞き、その収集品を見るのはいつも楽しいが、己が本当に見ている、或いは己の中に存在する『刀』とは、物ではなくイメージ的な何かだと、征士は気付き始めている。
 己が求める理想、己の心が求める形。
『ちょっと前に、うちに伝わってる槍を直したんだけど、請求書が来てびっくり』
「…槍?、刃身だけならそんなに長くないだろう?」
 征士が聞き返した内容を説明すれば、基本的に刃物は何でも、手入れをするのは「刃」の部分が中心であり、槍の刃は刀より短いだろうと言った訳だが。
 伸は続けて話した。
『ところがどっこいだよ。刀は一寸一万円で研いでくれるのに、槍は七割増なんだって。ついでに槍自体が良い物だからって、「上研ぎ」の扱いで、一寸二万五千円になってたんだ。うちの槍は結構刃が長くてね、一尺六寸もあるんだ。だから研ぐだけで四十万だよ。それに新しい白鞘とはばきと、柄巻きや拵えも直したら二百万近くかかったんだ。すっかり古くなってたからしょうがないけどさ』
 確かに槍で一尺六寸は相当長い。殆ど脇差しの刀と同等の長さかも知れない。
 それはともかく。征士が以前聞いた話では、伸の家はかなり裕福な暮しをしているとのこと。なので物の値段や費用について、そうカリカリしなくても良さそうに感じる。
「フーン…、憶えておこう」
『そうだよ?、自分の為だよ』
 けれど不服そうに修理話をした後で、伸はすっきりと笑い飛ばしている。実際伸の方も同様に、自分の所持金から槍を直した訳ではないのだから。ただ経済観念を持つのは良いことだ、とでも伸は言いたかったのだろう。
「今度聞いてみるよ。私がよく見に行く刀剣商でも、研ぎなどを受け負っていたと思う」
 前向きに返事をしてみせた征士に、
『それはいいね、相場ってものが分かるよ。そうしたら、うちがボられてるのかどうかも分かりそうだしね』
 と伸は明るい調子で返した。
「そう言えば…」
 その時、征士はふと思い付いた話題を振った。
「夏休みに、皆でアメリカに行くということだったが、決定なのか?」
 すると伸の口調は何故か、トーンを落とし気味に、呟くように変わって行く。
『ああ、まだ連絡はないけど。でも変更ってこともないんじゃないの。みんな楽しみにしてるんだからさ』
 そう言った本人が、あまり楽しそうではないのだ。
「乗り気ではなさそうだな」
『え?、そんなことないよ。ただ僕らってバラッバラで、何するかわかんない奴もいるから、団体旅行なんてちょーっと不安だね』
 伸が茶化すように答えた内容は、恐らく本当の理由ではないと征士は、何となく気付いていた。
 不安、には違いない。それが何なのかは見当も付かないが。
「まあ、何処に行ったとしても、苦労するのは伸とナスティだろう」
『だから言ってるんじゃないかっ!』
 征士はそれ以上追求せずに、話を合わせてお茶を濁すことにしたようだ。伸の方がそうしてほしいだろうと察している。大体どんな時も、自己の不安に対する明確な理由がない、或いは明確に言えない、それが伸と言う人間だ、との認識が征士には既に出来上がっていた。
 それは彼が、あらゆるものに優しいからだ。己の外にその不安が波及するのを嫌うからだ。そしてそれ故に考え方も甘い。不安が現実になるのを恐れる前に、その原因を徹底して潰してしまうことが、伸には何故できないのだろうか。征士はずっとそんなことを思っている。
 それとも己にマイナスと思えることも、大事に抱えていなければならないだろうか?。
 生きてみなければ解らない。進んでみなければ解らないことだ。
「その前に宿題を片付けておくかな」
『そうだね、何があるか分かったもんじゃないよ。…ん、それじゃあね。また電話する』
 十分程の短い会話の後で、伸はあっさりそう切り上げた。
「ああ…」
 結局何だったのか、を考えるのは止めておいた。

 電話を終えた征士が、玄関から廊下を曲がった所に、彼の母親はまだそこに立っていた。そして征士が近付いて来る途中で、呼び止めるように声を掛ける。
「どう言うことですか?」
「は…?」
 解らない質問だった。何が「どう言うこと」なのか。しかし訝し気に見詰める母の顔に対して、何かしら言葉を返さなければと征士は思う。
「…電話のことですか?」
 すると、征士は思いも寄らない答を耳にした。
「先方に何度も電話をさせるのは失礼です。いつなら出られると、きちんと伝えなさい」
 特に用もなくかかる電話。が、そう何度もあったとは考えられなかった。
「いつのことです」
 と征士は尋ねる。しかし母親の言わんとする、その矛先はまた思わぬ方向に向いていた。
「…昨日から三度もかけてらしたのに、その度理由を付けて、『不在です』と答えたのですよ。昨日は誰も、あなたが何処に居るのか知りませんでした、それではまともな返事をすることができません。あなたがフラフラ遊びに出ていると取られても、仕方のないことです」
 濡れ衣だったが、反論しない方が良かった。
「お友達だからまだ大目に見られますが、家の体面が悪くなることは許しません。この家の一員であることをよく考えて、常に襟元を正しなさい」
 母親は言いたいことだけを言うと、用は済んだと言うように、さっさとその場を引き上げて行った。征士の後方から、引き戸の玄関が景気良く閉まる音だけが、いつまでも耳に残っていた。
 家の道場を切り盛りする、男勝りの母親。
 征士は自分の親が余り好きではなかった。否、子供の内はただ厳しく大きな人だと思えたが、今はただ、己に窮屈な環境を強いるばかりの存在になっていた。父親はと言うと、そう言う気質の母に合わせているだけだ。こうはなりたくないと思う、典型のような男だと征士は感じている。
 いつからか、憎しみすら感じていた。親そのものではなく、この家から生まれる様々な、己の望まない手枷や足枷について。何故、自分は自分なりに立派にやっている、と言うだけでは駄目なのかを考え始めた時から、己の立場はただ重圧を感じるだけの、面白くないものになっていた。
 一族の先頭に立って、それを率いて行く身になることは、幼い頃より素直に受け止めていた筈だった。それなりに魅力も感じていたし、特別扱いを受けることにも抵抗はなかった。それに相応しいものに成ろうと、純粋に努力をして来た筈だった。
 けれど。
 体面だの形だの、家の評価を気にしながら生きることには、堪えられない。
 変わったのは親なのか、自分なのか判らなかった。



 自室の机の上に伏せて、伸はじっと鎧の珠を見詰めている。
 窓辺の日射しに照らされる淡い水色の球は、自由に泳げる海でできた、小さな星の模型のようにも感じた。もうすぐ夏がやって来る。何かが起こりそうな夏が。沸き立つような気持とは別の感情が、今は彼の心を支配していた。
 それでも『信』の珠は明るく透き通っている。
 戦士としての己が曇りなくここに在るという証拠。言わば己を見詰める作業を伸は、このところ何度も繰り返しているのだ。己の中に生まれた不安と、己の思い描く理想が誤りでないように、願い続けているのだ。それは彼だけが持っている、彼だけの思い。
 コツコツ、とドアが鳴った。
「はい、誰?」
 伸が返事をすると、遠慮がちに顔を覗かせたのは、姉の婚約者である竜介と言う男だった。今現在この家には成人の男子が居ない為、何かと不便な部分を補う意味もあって、まだ結婚してはいないが、彼は同居して既に家族のような扱いになっていた。
 姉の起こした騒動の後、また暫く家を離れていた伸には、確かに始めの内は抵抗があった相手だ。だが、こうして毎日顔を合わせているだけで、自然とここに必要な役割を持っている人だと、受け入れることができたから不思議だ。と、伸は日々感じている。今は家族が一人増えたことを、素直に喜べるくらいにはなっていた。
「電話、もういいか?」
 彼は伸に、表情で合図するようにそう言った。この竜介は、伸には殊更明るい態度で接する人だった。
「ああ、もう済んだからいいよ」
 家の電話は、親機と子機に分かれたタイプなので、伸が話していた間、他の者が電話を使うことはできなかったのだ。もし仕事の用事なら待たせて悪かったかな、と伸が済まなそうにすると、
「やっと掴まったじゃないか、昨日から何度もかけてただろ?」
 と、それを感じさせないように別の話題を振る、そんな気遣いをしてくれる人だった。無論他の者から、伸がどんな性格かを聞いてそうしているのだが。
「あはは、今日は日曜だから流石にいたよ」
 そして伸は次第に、彼を『義兄』として信用するようになって行った。
「あれ、逆じゃないの?。日曜は遊びに出て、普段は家に居るのが学生って気がするけどなぁ…」
 竜介はそんなことを呟きながら、伸の部屋のドアを閉めようとする。
「あっ、待って!」
「…え?、どうかした?」
 すると伸は何かを思い付いた様に椅子を立ち上がる。突然の行動に些か驚かされながらも、竜介は笑顔を作って振り返った。
「・・・・・・・・」
 ところが、呼び止めておいて言葉が出なかった。
 伸は一瞬の内に様々なことを考える。これまで家族に対して、自分の弱音や不安を訴えたことはなかった。例え苦しんだとしても、自分の大事な人々が尚苦しむことを思えば、黙っている方が良いと考えて来た。だがそれは、己がこの家を支えなければ、との思いからだった。己が自ら折れたらこの家はおしまいだと、思っていたからだ。
 しかし今は状況が変わった。己がどうだろうと、この家族を守ってくれる人は居るのだ。だからもう、そんなに肩肘を張らなくて良いのではないか。それともだらしないだろうか。
「…何でも、思ったことを言ってくれていいんだよ」
 彼の様子を見ていた、竜介の方からそう促してくれた。有り難いことだ。
 聞いてもらったところで、答など始めからなさそうなことでもあったが、伸はただ己の考えに対して、正統性を信じたかったのだ。
「…自分が『こうしたい』って思うことを、他の人に任せるのは、間違ってるかな?」
「どう言うこと?」
 伸の問いは、それだけではまるで要領を得なかった。
「自分がしたいことを他の人がするって意味?」
 ならば自分の意志は何処へ行ってしまうのか。竜介には解らない話で当たり前だった。
「うん…、と言うのはね、何かをしようとする時、人には向き不向きがあると思うんだ。僕がやりたいと思っても、うまくできない事もあるでしょう?。だから、それができると思う人に期待してるんだ。もしそれがうまく行ったら、そこからヒントを得ることもできるから…」
 これまでにずっと思って来たこと。心の中に貯えられて来た思い。
 戦うこと、戦いの中でのことを、伸は言葉を選んでなるべく平素に話している。それで意味が通じてくれるように祈りながら。
 すると暫くして、考え込んでいた竜介は返した。
「そうだなぁ、そう言う時もなくはないね。可能性がある方に賭けようって時が。うん、だけれども、その成功はその人だけのものだよ?。逆に失敗すれば自分も失意をいただくことになる。それを納得できるなら、悪いとは思わないけどな」
 そして彼の言うことは尤もであると、伸は小さく頷いていた。
 僅かながら、心に立ち篭める霧が薄らいだ気がした。可能性があるのか、結果が出るのかは変わらず分からないけれど、少なくとも己の気持がそう動いているのは、おかしいことではないと信じられる。それだけ確認できただけでも伸には良かった。
「うん、そうだと思う。…えへへ、変な質問ごめんね」
 思いの外、それだけで態度を変えた伸を見て、結局何が言いたいのかは理解できないが、竜介はホッと胸を撫で下ろすような心境に至った。
 何しろ彼の姉上からは、
『伸は元々大人しい子だったけど、お父さんが死んでから、家では不平や不満を全然言わなくなったのよ。こっちから聞こうとしないと、どんどん無理をするから気を付けてあげて』
 と半ば脅されていたので。
 伸が取り敢えず納得してくれたことに、むしろ感謝したいのは竜介の方だったようだ。
「いやいや、難しいことには大して役に立てないけど、一応君より十年長く生きてるから、何でも聞いてくれよ」
 彼は最後にそう言い残すと、明るい空笑いでその場を去って行った。

 心は流れる、ある方向に。山の斜面を駆け降りる川の様に、必ず決まった方向に流れて行く。惰性じゃない、僕の心がそう望んでる。悪くない、悪いことじゃない。

 伸は再び机に向かって、鎧の珠を眺めている。その中に、それに繋がる誰か姿を見ている。
 力強い言葉。鋭い切っ先。真直ぐに真実を捉える瞳。如何なる圧力にも曲がらない意志。輝いている。その輝きを信じている。君はどんな局面に立っても、自己という輝きを失うことはないと。
 僕らが住んでいる小さく狭い世界の秩序など、君はいつか打ち砕いてしまうだろう。
 自由になりたい、いつか僕は僕の為に生きたい。

 ただ、君が持つ鎧珠が曇りかけたことだけが、不安だった五月。


 
『研ぎ、一寸八千円、上研ぎ、一寸一万円より。薙刀は三割増、槍は八割増…』
 その日の夕方、征士は仙台市内の刀剣商の店先に居た。頼まれてポストに手紙を出しに来たついでに、都合良く立ち寄ることができた。そして店の入口に貼ってある刀研ぎの料金表を、早速学生手帳の空きページに書き写していた。
『そんなにボッている訳でもなさそうだ』
 どう見ても高校生くらいにしか見えない、少年が熱心に何かを調べているのを見て、奥に居た店の主人は感心して彼の傍に寄って来た。
「お若いのに、刀に感心があるのかね」
 征士の祖父より更に年を重ねた風貌、白髪に白い顎髭を蓄えた小さな老人は、親しみ易そうな笑顔を向けて話し掛ける。
「あ、はい。私の家に刀があるので、手入れにどのくらいかかるのかと」
 征士も至極素直に理由を答えた。まあ、幾ら何でもこの手の商売は、通り掛かりの者に押売などしないだろうと。又どんなに安いものでも、高校生が小遣いで買えるような代物は無い。
「ほほう、それは感心なことじゃ。しかし…、あんまり何度も研ぐことはできぬから、まずは錆びないようにするのが大事じゃよ」
 その主人が微笑しながらくれた助言は、征士には初めて聞く話だった。
「そうなんですか?」
 征士が問い返すと、老人は顎髭を弄りながら、楽しそうに説明をしてくれた。
「日本刀は外国の剣と違って、二層構造になっておって、芯には柔らかい鉄を使い、途中でポッキリ折れてしまうのを防いでるんじゃ。だから多少撓っても、折れてしまうことは滅多にない。それから、刃の部分は硬い方が良く切れるから、表面だけを硬い鉄で包む。つまり、硬い『皮鉄』の部分はそう厚くはないんじゃよ。何度も研ぐ内に『心鉄』が出て来ることがあって、そうなると名刀も台無しじゃ」
 流石に店の主人だけあって、刀のことは何でも聞いてくれ、と言わんばかりの名調子だった。
「はあ、よく分かりました、ありがとうございます。今日は時間がなくてこれで帰りますが、また来たら話を聞かせてください」
 感心と尊敬を以って征士は、丁寧にそう返すと小さくお辞儀をする。彼の礼儀正しい態度に、老人も快く返してくれた。
「幸い儂は楽隠居の身でね、いつでも歓迎するよ」
 にこやかな人物、和やかな対話。何故だか分からないけれど、征士は老人一般には心安い。そして今日またひとり、仲良しの爺様が増えたようだ。

 己に取っての『刀』とは何か。
 朽ちて行くものと不変のものの違いは何か。
 店のドアを出て、征士はふと店の前に居る男に目を遣った。ショーウィンドウをじっと見詰めている、見慣れない服装に身を包んだ男。どうも日本人ではないようだった。外国でも日本刀の評価はとても高いと聞いている。しかし都心から離れたこんな土地でまで、目を光らせているとしたら大変な執念だ。
 征士がそんなことを思った時、男はすっと彼の方を向いて言った。
「君はなかなか興味深い…、そんな年から刀剣類の勉強かね?」
 ギョロっとした目が酷く特徴的な顔だったが、それより流暢に日本語を話すことに驚く。
「はぁ…、そんなところですが」
 少々間の抜けた返事をした征士に、しかし、
「それは頼もしい」
 男は一言そんな感想で返した。そして、征士には願ってもないことを話し始めるのだ。
「私はニューヨークに住むコレクターなんだがね、特に日本刀が好きで、かなりの数を所有しているんだよ。だが最近は一人で楽しむより、物を見る目を養おうとしている若い人に、自分のコレクションを見てもらうのが楽しみでね。本物を見ることは、何より勉強になると思うよ。どうだね君、今度、学校が休みの時にでも見に来ないかね」
 暇を持て余す金持ち風情のすることは、凡人には理解し難いものもある。今出会ったばかりの、何処の誰ともつかない者に、いきなりそんな話を持ち掛けるだろうか?。否、過去の歴史には、貴族や金持ちがこぞって芸術家を発掘し、育てることに情熱を傾けていた時代があったけれど。
 しかし、現代にもそれと似たようことが行われている、とは征士は知らなかった。
 男は厭味のない口調で付け加える。
「いつでも歓迎するよ、由来の分からないものを一緒に研究しようじゃないか」
 征士はつい、頭に過った言葉を口に出していた。
「『月山』を御存知ですか」
 すると、何故だか嬉しそうに笑いながら、男はこう言った。
「ああ、『月山』の太刀も一振りある。それよりもっと古い、平安時代の古備前も見事だよ。よし、実物を見せてやると必ず約束しよう、来るかね?」

 約束の地、ニューヨークはもう、すぐ彼の目前に在った。



終(NY編につづく)





コメント)ああ、やっとここまで来たか、って感じです。NY編は自分の征伸には大きなターニングポイントでありまして、ここまでとここからではかなり様子が変わるので…。ビデオ自体はただ絵がきれいだな、とか、征士は主役(?)をもらえていいな、とか思っただけですが(笑)。
という訳なので、次は夏…。02.11一部修正




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