隠れている一人と一匹
TIGER EYES
大花月シリーズ4
タイガー・アイズ



「ああそれ、来週の日曜だよ。招待券もらったんだけど、征士が興味があるって言うからさ」
 と、遼の問い掛けに答えた伸は、
「へぇ…」
 意外そうな、若しくは気後れしたような顔をされて、途端に落ち着かなくなっていた。
「えっ、何っ?、何だい遼?」
「いや…何でもない。何か、難しそうな事に興味があるんだな、と思って」
 本格的な秋に入る頃の週末、一日だけ柳生邸に集まった五人は、出会い頭から明るく活気ある会話を始めていた。この時期特に重要な議題があるでもなく、皆、普通の生活の中の楽しみを満喫していると、和やかに報告し合う場になっていた。
 そのごく最初の方で出た話題。
 秀は今免許を取ったばかりで、暇を見てはバイクツーリングに出掛けると言った。これから関東近隣の行楽地を回るそうだ。無論最大の目的は、紅葉や観光でなく食べ物だろう。方や当麻は珍しく、この秋は学校の弓道部に真面目に通っていると言う。中学の頃とは違い、今在籍する高校の部活は熱心で成績も良く、大会シーズンは滅多にさぼれないのだそうだ。
 そして伸は、来週東京に出て来て、国立博物館の『中国三大書家展』を観に行くと言った。因みに三大書家とは欧陽詢(おうようじゅん)、虞世南(ごせいなん)、ネ者遂良(ちょすいりょう)の三筆だが、現代漢字の手本と言われる王義之(おうぎし)以外は、現在の学校教育では殆ど見ない名になってしまった。彼等の親の世代には広く知られているが、今は習字をする者以外は普通に知らない時代だ。
 それはともかく、伸の家にその展覧会のチケットがあり、彼自身はそこまで関心がなかったものの、関心のありそうな人物に連絡したところ、「じゃあ一緒に観に行こう」と言うことになった。伸はその経緯を遼に話した訳だが。
「どうした?」
 会話の場から離れて、遼がまだ首を傾げるような仕種を見せるので、それとなく当麻が声を掛けた。個々の個人的な活動には関心の薄い遼にしては、やや妙な態度だと思ったからだ。すると、
「えっ、ああ…」
 本人は考え事でもしていたのか、呼び掛けに多少驚いた様子で振り向く。そして、何やら相談したそうな顔をして当麻の傍に寄ると、こう言った。
「前に集まった時に色々あっただろ…?。俺等には他人事でも、伸は気になってないのか…?」
 遼が示しているのは無論、悪奴弥守の術の作用から起きた事件のことだ。遼はその子細を知らないままだが、知らないだけに、伸が全く気に留めていない様子は、「舌の根も乾かぬ内に」との印象を与えていた。まだ二週間しか経っていない上、伸はつまらない事もしつこく憶えているような、苦労症の性格だと遼は認識しているからだ。
 しかし、ある程度事情を知っている当麻には、逆に遼の気持が解らなかった。「気にするな」と伸が配慮に配慮を重ねた結果に対し、遼は納得できていないらしいと。過去にこんな状態の彼は見たことがない、何より人の意思を尊重する奴なのに…。
「ああ…」
 と溜息混じりに答えて、さて何を言おうか考えていた当麻に、
「いや、気にならないならその方がいいんだ」
 遼は慌てるようにそう続けた。恐らく自分でも、自分らしくない態度だと判っているのだろう。そして当麻の口から、
「そうだな…」
「?」
 些か冷めたような声が発せられると、遼は尚混乱する心情を露に見せていた。
「あいつらの事は放っとけばいいんだ。こっちが馬鹿を見るぞ」
「ああ…?、え?」



 秋の特徴的な高い空が、そろそろ赤く染まって来そうな午後の庭。
「みんな、表面は何も変わらないようだが、心では色んな事を考えてるんだな。俺にはよく解らないが…」
 遼は草の上に寝そべりながら、白炎を相手に問答していた。勿論白炎が答える訳はないので、端からは独り言を言っているようにしか見えない。
「ま、あんまり気にし過ぎない方がいいよな、白炎」
 だが、通じないだけで彼はいつも遼に答えていた。
『ああ。お主の心は平和だな烈火』
 そして常に遼の悩みも共有している。目下の白炎の心配事は、遼が人の心の複雑さを理解できないことにあった。今ここに集う同年の戦士達は、育った環境から自ずとそこに気付き始めている。迦雄須の教えでは、只管正しさを求めるよう仕向けたが、それは若い段階での話だと知り始めている。
 しかし遼の場合、自然環境の比較的単純な状態しか知らずに育った為、今になって成長に苦労する局面を迎えた。白炎はそれを見守ることが、己に託された大事な使命だと思っているようだ。それこそ幼い頃から共に生きて来た相手なのだから。
「動物はいいよな…、細かい言葉の違いなんて気にしなくていいし」
 遼がふと、投げ遣りとも取れる事を言うと、
『そうでもない…』
 白炎は無言で反目していた。
『それに私は動物ではない、伝説の霊虎として生かされる身故』
 だがその呟きを聞く者は誰も居ない。遼を始め戦士達に伝えたい事、話したい事は山程ありながら、そうできない彼の立場は色々と、苦労の多いものだった。
「何て言うか、こういう気持を分かってくれる奴がいたらなぁ…」
 また遼がそんな風に思い付きを口にする前に、白炎はとうにそれを考えていた。話せない己の代わりに、適当な相談役となる人物が居ると良いのだが…。
『それは統率する者が共通に持つ苦悩だ。烈火、お主はそれを乗り越えねばならぬ』
 そこへ、
「やあ!」
 と、明るい顔をした思わぬ闖入者が現れ、真摯な思考の流れが突然途切れた。顔を見た段階では驚かなかった遼も、
「え…?、伸…じゃないな」
『こいつはいつぞやの…』
 その見慣れぬ出で立ちから、偽者の方だと知って急に体を怯ませた。今さっき柳生邸で顔を合わせた伸は、無論和服など着ていなかった。
「憶えててくれたかい?」
 けれど相手は、遼の強張った表情などお構いなしで話し続ける。
「憶えてるも何も…、何しに来たんだ、勝手に降りて来ていいのか?」
「そんなに警戒しなくてもいいじゃないか」
「いやその…」
 すると、ふたりの遣り取りを見上げていた白炎は、
『仕方ないだろう、烈火はまだある意味では子供同然だ。前のような事があると、今は混乱するばかりだからな』
 と、誰に聞かせるでもない独り言。のつもりだったが、
「そうなんだ、ふ〜ん」
 思い掛けず偽水滸が相槌を打っていた。全く思い掛けない事だったので、遼の枕代わりに横になっていた白炎は、思わずその場を立ち上がる。何故、人の手に拠って生まれた者が、己と意を通じさせることができるのか、少なからず驚いていた。
「何に答えてるんだ??」
「ん??」
 そう、但し遼だけは、今ここで如何なる発見があったかを知らない。偽水滸と、何故か彼に向いて立ち上がった白炎、その双方の様子を交互に見て、
「あっ、もしかして、おまえ白炎の言ってることが分かるのか!?」
 事態を察することだけはできたけれど。すると、今度は偽水滸の方が不思議そうな顔をして、落ち着かない表情の遼に返した。
「君は分からないの?」
 当然、彼はそれを疑問に思っただろう。常に遼の傍に寄り添う霊虎の話も、彼は既に聞き知っている。鎧戦士達の最も近くに居て、それを導き助ける超自然的な存在。だが、ただ傍に居るだけなのか?、と彼が考えてしまうのも無理はない。少なくとも、人間とは違う存在と言う意味では同列の、偽水滸は誰にも意思を伝えられるからだ。
 もしかしたら、元来言葉を持たない生物だからかも知れない。しかし地上の戦士達は、未だ鎧を身に着け活動していると言う、貴重な味方が何も伝えられなくては無意味だろう。と、偽水滸は考え、そう口に出そうとした。が、
『駄目だ、偽水滸よ。言葉では伝えられぬ事を伝える為に、私は烈火の傍に置かれているのだ。通訳してはならん』
 白炎は相手の思考を察してそう言った。すると偽者は、何故彼の言葉が通じないのかを知り、
「そう…。色々事情があるんだね」
 意外に素早く納得して見せる。そんな様子は、オリジナルの水滸によく似ていると感じられた。己が腑に落ちなくとも、他の意思を受けて口を噤む様を見て、白炎はひとり奇妙な感覚を味わっていた。暮らす環境が違う、生物としても全く違う存在だが、彼は彼で確かに水滸なのかも知れないと。
「なっ、何を喋ってるんだ!、教えてくれ」
「駄目なんだって。残念だけど」
 ひとり蚊屋の外になっている遼に、けれど偽水滸は気を遣い過ぎもせず、悪びれもせずそう返した。続けて、
「それと僕は偽水滸じゃないよ。今は『スイスイ』って名前なんだ。紛らわしいからって那唖挫が、」
 と話を続けると、
「はぁ!?。何処からそんな話題になったんだよ?」
「あ、ごめん。白炎に言ったんだ」
「・・・・・・・・」
 遼の顔色がふっと暗くなる。
「どうしたの?」
 しかし似ているとは言え、伸ほど相手の心情を気にしない偽水滸には、遼の変化が何なのか全く判らなかった。そして、
「みんな俺を除け物にして…」
 と、捨て台詞のような言葉を残し、遼は足早にその場を離れて行ってしまった。折も折り、仲間達の中でひとり浮いているのではないかと、悩みを持ち始めた矢先のことだ。
『ああ…。仕方がないな』
 遼の後ろ姿を見送りながら、白炎もそう言う他無かった。またそれを耳に、
「仕方がないの?」
 偽水滸が尋ねると、白炎は実に久し振りの『会話』をすることになった。迦雄須でさえ、白炎の言葉を聞いていた訳ではないので、彼は本当に長い間会話をしなかったのだ。
 話したい事は常にあった。故に言葉はすらすらと口に昇って来た。
『いつまでも、在るべき理想ばかり見ていることはできぬ。理想とは簡潔で単一なものだが、現実は複雑怪奇なのだ。…烈火は頑固な面がある故、自ら己の向きを変えようとしなければな』
「理想ばかり見てると子供ってことなのか?」
『お主にはどう言えば良いか難しい、子供であった記憶は無いのだろう?』
「まあね。何から何まで完全な複製って訳じゃないよ。オリジナルの水滸が過去に経験した事で、既に忘れちゃってる事は僕の中には無いよ」
『成程…』
 いつ生まれたかも既に不明となった長寿族と、つい最近現れたばかりの未曾有の存在、そんな掛け離れたふたりが交す言葉はしかし、思いの外ひとつの方向に纏まっていた。地上の五人と魔将達のように、彼等の間にも鎧と言う媒体が確と存在している、ようだった。
 白炎は見ている、鎧に関わる全ての者の未来と結末を。
 偽水滸もまた、自らを生み出した土壌である鎧と、それに関わる事象を見出そうとしている。己が、鎧が、この世界の何であるかを知りたがっている。そして己を考えながら、己とよく似た人間達のことを考えていた。
「でも君の話はちょっと分かった。烈火は少し、他の仲間に同調できてないってことだろ?」
 白炎の話を聞いて、偽水滸はごく自然にそう答を出していた。それから、
『意外にお主は馬鹿ではないのだな』
「意外に?、僕が馬鹿じゃないのは元の水滸のお陰だよ」
『そのようだな』
 自身とオリジナルの関係も既に、大体のことを把握できているようだった。前に現れた時は、何でも知りたがる子供のような態度だったが、随分進歩したものだと白炎は感心している。そこまで早く、日進月歩の如く変化する必要はないけれど、生命体は変化しなければ生きられないことを遼には、是非理解してもらいたいところだった。
 硬い物質は壊れ易いように、心頑なではいつか信念も折れてしまう。故に人間は、体の成長と共に心を柔らかくする。ある意味それは、大人の狡さや汚さなのかも知れないが、理想だけでは誰も救われないと知れば、そう変わるしかないのだ。何もかも、純粋で単純な幼年期を抜けて、変わって行かなければならない。
 丁度そんな事を考えている今は、伸と似て非なる柔軟性を持つ異生命体に、話が通じる現実は幸いだったかも知れない。と白炎は思った。
『烈火についての話は、あくまで一面でのことだ。全てが問題と言う訳ではない』
「分かってるよ。そうだな、水滸ならどうするだろう…」
 そして、白炎の意思を受け取った偽水滸は、その場で何かをしようと思案し始めた。



「俺はどうしたらいいんだ…」
 柳生邸の庭から程近い、疎らな木立の草むらにひとり佇んでいた遼は、前の自分の思わぬ行動に、多少驚き落ち込んでいた。
 言葉の通じるふたりが悪い訳ではない、ましてや彼等が意図的に、自分を仲間外れにしていた訳でもない。勿論仲間達が、自分から遠ざかろうとしている筈もない。だと言うのに、己の中の儘ならない感情が空回りしている。周囲のあらゆる事への、理解点が誰とも微妙にずれているような孤立感…。
 自分は何をどうしたいんだ、人に何を求めているんだ、と遼は考え込んでしまっていた。
 木立の淡い葉影の下に、ふわりと一陣の風が舞い込んだ。秋口だと言うのに妙に生温い風が、顔や首に髪を撫で付けるのを多少煩く感じる。こんな時は、人と言わず全ての物に放っておいてほしい。と、遼が思うともなく思っていた時、
『烈火…』
 遠くで誰かの声がする、気がした。
「ん?。…誰か呼んだか?」
『烈火…よ…』
 否、確かに呼んでいる。何処かで聞いたような声が、奇妙な風の流れて来る方から聞こえて来る。
 と思ったら、
「えっ!?」
 突然背後に何かの気配を感じ、遼は振り返った。
「あ…、う…、うわぁ〜〜〜!!!」
 振り返り、そして蒼白な顔になって、彼は再びその場を走り去ってしまった。遼の背後に立っていたのは、まるで地獄から這い上がって来たような、恐ろしい形相をした朱天童子だった。何故そんな様子だったかは、無理矢理冥界から呼び出されたからだが、流石の遼にも、友好的に受け入れられる雰囲気ではなかったようだ。
 そして、その状況を遠目に見て、
「あらら、失敗みたいだ。丁度いい話し相手だと思ったのに」
 偽水滸は意外そうに呟いていた。否、呼び出した彼には意外だったが、横で白炎は、
『人選はともかく、唐突に幽体を呼び出すのは…』
 と、至って常識的な考えを聞かせる。偽水滸に取っては、肉体を持って生きる魂とそうでない魂に、大した隔たりはないのかも知れない。その辺りの人間の感じ方について、まだ学習不足なのだろう、と白炎には思えた。
 ただ、人間とそうでない物の中間的な存在、と言う意味では、自分と偽水滸は同じようなものかも知れなかった。これと言った前例も無く、群れを為す種族も無い単一の存在。人間の傍で生きる以外に選択肢も無く、いつ終わるか判らない己の時間を永らえているだけの。
 その時間は、あまりに長く不明瞭なので、たまにはこんな風に、突拍子も無い話題を持ち込む者が居ても良いけれど。
『誰だ!、私の眠りを妨げるのは!』
 呼び出されてより、自我が確と固まって来た様子の朱天が、既に誰も居ない木立の中で怒鳴っていた。彼をそのまま放置する訳にもいかず、
「ごめんごめん、じゃあ、しょうがないから君は僕と一緒に行こう」
 と、偽水滸は謝りながら、何処か楽しそうに出て行った。まあ、遼には一時の相談役にしかならなくとも、妖邪界に連れ帰ったらさぞかし話題になるだろう、と彼には判っていたので。
『はぁ?、貴様は誰だ?』
 にこにこしながら近寄って来る偽水滸を見て、朱天は怪訝そうな顔をして返す。しかし彼も何れ他の魔将達同様に、『取り敢えず妖邪界の一員』と、偽水滸を認めることになるだろう。それ程に、嘗ての悪の都は衰退しているからだ。
「じゃあね!、白炎」
 そして偽水滸は、朱天の着物の袖を掴むと、殊に晴れやかな顔をして戻って行った。結局彼が何をしに降りて来たのかは、不明のままとなったが、彼がほんの一時面白い場面を提供してくれたことに、白炎は思いの外喜んでいた。
 普段は見ることのできない空の上の、新しい友達が完全に気配を消してしまうまで、白炎は秋の空を見上げ続けていた。



『慌てなくとも、何れ烈火には解るだろう。迦雄須が見込んだ人間故』
 遼を探しながら、柳生邸の周囲をうろついていた白炎は、その裏庭に立ち惚けている彼を見付けた。すると同時に向こうも、親しい顔が現れたのに気付き、
「あっ!、白炎っ、今、一瞬朱天の幻が現れたんだ!。おまえは見たか?」
 と、只ならぬ様子で言いながら駆け寄って来た。口調はしどろもどろだったが、話す内容からは、「ただ怖がっているのではないな」と、白炎は察することができた。今はまだその程度でも良い、と思った。
「何だったんだろう、何かを伝えに来たのか?。それとも…」
『そう思うなら逃げなければ良かったのだ。偽水滸はあれで、まともに考えてくれたのにな』
「何かの前触れか…?」
 けれど、何が起こったとしても、思う事の詳細を伝えられないことは変わらない。白炎は結局、いつもそうするように遼の足に寄り添って、宥めるように頭を擦り付けるだけだった。
 それでも。
「…そうか、そうだな。ひとりで悩んで心配させちゃいけないよな。みんな俺に話し掛けてくれてるのに」
『そうだ。言葉など使わなくとも、通じる事は多くある筈だ』
 彼等の間に、これまでと変わらない絆を確認する。

 急がなくて良い。いつか言葉を越え、時を越えて語れるようになれば良いと思う。









コメント)当初考えていた内容から少し変わっちゃったけど(白炎と朱天が中心だった)、楽しい話になったし、暑い中で意外にスラスラ書けたので、これで良かったような気がします(^ ^)。ちゃんと遼の話にもなってるし、数年越しでやっと8月のノルマを達成した感じ。
尚、『中国三大書家展』なんてものを出したのは、今、江戸東京博物館で『王義之展』をやってるからでした(笑)。『ちょ遂良』の「ちょ」の字が日本には無い漢字らしくて、「ネ」に「者」と打ったけど、正しくは「衣」偏に「者」です。




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