思わぬ指摘
我が麗しきタナトゥス
Match for sleepers



 欧州にて、二十世紀初頭に定義された「無意識」は、既にアジアの紀元一世紀頃、大乗仏教の思想として考えられた、「末那識(まなしき)」と言う意識階層のひとつによく似ている。
 人のどうしようもない情欲を律した、ユダヤ・キリスト教圏の人々は、性に奔放なアジア人の洞察力に比べ、実に二千年近く、人の心理への理解が遅れていたと言う訳だ。



 梅雨入り前の土曜の朝は、まだ不快な湿気に悩むことは無かったが、伸は目覚ましが鳴る三十分ほど前に目覚めた。明け方の空からは心地良いトーンの、薄い朝日がカーテン越しに感じられた。
 早く目覚めてしまったのは、その日が六月八日だったからだろう。何事も細かい気配りをしなければ、気の済まぬ性格の彼らしい。猶予は今日一日のみだ、一日の間に最良と思える準備をしなくては、と、無意識の内にも責任感が働くようだった。
 さて、最良の準備とは誰の為か。伸はまだぼんやりとした意識ながら、首を横に傾け、隣で眠っている筈の人を横目に見た。そして変わらぬ映像が目に映ると、特に感慨も無いままゆるりと身を起こし始めた。
 夏掛けの薄い布団に隠れてはいるが、ベッドには裸の体が二体横たわっている。上半身を完全に起こした時、伸にはその状況が確と見えただろう。だがそれも既に、繰り返される日常の景色と化していた。故に伸は特別な関心も向けず、些か重く感じる額に手を遣ると、浅い溜息と沈黙に俯いたままで居た。
 まあ、朝一番から急いた欲情を覚えるほど、若くないのも事実だが、こんな関係が十五年以上も続くと、もう何も思わなくなる面がある。常に相手の挙動を意識し、機敏に反応するほど初な精神ではなくなっている。無駄なエネルギーを消費する必要のない、平和な状態とも言えるところだった。
 その昔、今はパートナーと言える相手に、初めて全てを曝け出した頃を思い出すと、情事の後の数日、その夜を幾度も幾度も思い返していたと、当時の強く鮮明な感情だけは、まだふたりの記憶に残っている。求めていた密な繋がりを得た喜びが、頭の片隅を占める時間が長かった。当時は離れて暮らしていた分、距離に因る制約が更に欲求を募らせた。若い体に宿る魂は、適度に意識を制御することができない。
 正直に言えば、ひと月ふた月接触の無いままで居ると、次に会う機会には、衣服など通り越し相手が裸に見えていた。それ程に、一度憶えた性的充足は鮮烈だったのだろう。ごく若い年頃の男にはよくある話だった。
 そのような、野生の興奮が遠い記憶となりつつある今は、十代の心と三十代の心は全く違うと、穏やかな理解を共有できている。伸の胸には淡々と、
『もうそんな恥ずかしい反芻はしなくなったな』
 との言葉が浮かんで消えた。
 ただそこから、ふと自らの胸に視線を落とすと、鳩尾の凹みの影に何かが付着していると気付く。手で触れると、乾いた何らかの液体が貼り付いている。まあそれも特別なことではなかった。
 ベッドなり、バスルームなり、肌を晒す場所でしばしば小さな痕跡を見ては、昨夜何があったか言葉を思い付く程度で、それ以上何も思うことはない。安定した生活の、或いは信用する相手との日常行動であり、その時々の感情は眠りの内にリセットされる。そうでなければ落ち着いて生活できないと、同居を始めた頃の異常な奔放さを比較できた。当時は学生だった為にそれも許された。
 即ち、何の干渉も拘束も無く、誰に気兼ねすることも無いふたりの部屋では、一度火が着くと祭の熱狂がいつまでも続き、延々幕無しに盛り上がることがあった。後ろめたくも丸一日、大学の講議を飛ばす日が時折訪れた。身も心も疲れ果てるまで相手を知ると、それはそれで新たな境地に辿り着き、時の損失より深い満足感を得られた。愉悦に耽っていられる自由がただ楽しかった。
 さすがに今はそんな馬鹿げた事はしない。社会人は社会に適応しなければやって行けない。底抜けな自由はそうして失われたが、だからと言って気持が離れた訳でもない。持てるだけの情熱を消費していた、その頃より寧ろ心は軽くなっている。無闇な不安を感じることも少なくなった。あらゆる経験と共に積み上がった過去が、安心を得る壁となったような形だろう。
 それが大人になることかと言えば、やや違う話のように思うが、そう辿って来た結果として存在する今を、伸は自ら「不思議だな」と感じている。生きる為に常に獲物を追う、或いは豊かな縄張りを守り戦うような、闘争的意欲を失えば枯れると想像していたが、人はその他の動物とは違うのだ。生存競争のみではない社会を持てる程度に、発達した脳は優れていると言える。
 それは恐らく人の愛の為だ。
 とはまだ、起き抜けの伸には思い付けていなかったけれど。

 その時、枕を背に膝を抱えていた伸は、皮膚に僅かな衣擦れの音を捉えた。伏せていた顔を横に傾けると、いつの間にか征士は瞼を開けていた。まだ目覚ましは鳴っていないので、既に起きている人の動きを感じ取ったのだろう。伸も起きたくて起きた訳ではないが、無意味に早起きをさせたと済まなく思う。
 反射的に「ごめん」と、彼が口を動かそうとすると、先に征士が妙な事を口走った。
「生きていたのか…」
 戦いの夢でも見ていたのだろうか?
「…何それ?」
 返しながら伸は、征士が寝惚けて話すことは滅多に無いと気付く。大概は頭が回り始めるまで黙っている。けれども、意味ある言葉を向けたなら増々判らないと、伸が不審な声で尋ねるのに対し、彼は些かギョッとさせることを告げた。
「昨日、伸は『このまま死にたい』と言った」
 申し訳ないが伸は憶えていなかった。否、憶えていなくとも、いつ言ったのかは大体想像できる。まあ事の最中に零した戯れ事など、真面目に受け取られても困るが、この場合は征士の悪趣味な冗談である。何故ならその後に、
「よっぽどきも…」
 と続けた相手の口を、叩き付けるかのように伸は塞いだ。実はこんな事も日常の内であり、例え半分寝たままのような体でも、瞬時に反応する癖が付いていた。
 ただ、冗談ではあるが、征士は常に事実を述べるだけとも言えた。それが伸には堪え難い現実であり、もの笑いにしようとは悪趣味だ、との遣り取りを繰り返している。それにはひとつの正常を保つ為の、征士なりの配慮が含まれているが、伸はもう判り切っているので止めさせた。昨夜の記憶は曖昧なままだが、そうかも知れないと認めているからだ。
 その程度には素直に、開き直れるようになったせいだろうか。理想を演じ過ぎればストレスになる一方だが、彼の心は軽くなったと言うのだから。
 ところがその朝、意図があるのか偶然か、征士の続けた話は彼をより深く抉っていた。
「知らないんだな」
「え?」
「伸はよくよく『死ぬ』と言う。『もう死んでもいい』、『今すぐ死ねたらいいのに』、そう言えば最初から、『僕は死んだも同然だ』と言っていたな」
「!!」
 特に辱めようとはしていない、今は穏やかに見詰めている相手の瞳に、伸はまさかと言う己を見せられていた。
 そう、少し前に夢判断で有名なフロイトの、「快楽原則の彼岸」と言う論文を読んだ。学会で袂を分けたユングに比べ、フロイトの精神分析はグロテスクに感じるものだが、伸も一般的な印象通りあまり好きではなかった。けれど「快楽」と「彼岸」と言う、不釣合いに感じる二者に興味を惹かれ、何となく読んでみると、思わぬ知識を得ることになった。
 フロイトの唱える精神学では、死への欲求を「タナトゥス」、その対義語は性的欲求を表す「リビドー」としている。対義語とは正に厄介なものだ。反意であると同時に表裏一体を示すことが多い。例えば「優しい」の反対を「厳しい」とすると、厳しさを優しさと解釈する場面が存在する。「優しい」の反対を「冷たい」としても、半端な優しさは寧ろ冷たく感じることもある。つまり似たようなものだと言えるのだ。
 確かに伸は、「死」と言う言葉を使いがちな気はしていた。恐らく父親が早く亡くなったことで、死を身近に感じるんだろうと思えていたが、そうではないのかも知れない。或いは、物事に過敏で疲弊し易い性格が、つい弱音を吐かせるとも思ったが、それも違うかも知れないと気付かされた。
 違うと言うより裏返しだった。彼はどうも日常的に、最高の死を求めているような自覚があったが、それは反面、最高の性的欲求を持っていると言うこと…
 それを読んでしまうと、彼はただただ自身が穢らわしく、恥ずかしいばかりになっていた。事実そうだと腑に落ちてしまったからだ。
 僕のタナトゥスはリビドーでもあるのだ。
「…本気で思ってないよ、今ここで死にたいなんて」
 図星を刺され、やや不貞腐れたように伸は返したが、穿った見方として、腹上死は最高の死に方だとも言う。彼の中でも恐らく誤りではない筈だった。



 前途の通り、明日は征士の誕生日である。
 毎年のことだが、今年も外食があまり好きでない彼の為に、伸はお祝いの席のメニューを一週間も前から考え、様々な仕込みをしている。今年の三月、自身が三十才を迎えた時、その場の思い付きではあるが、ある意味印象深い江ノ島の思い出をくれた征士に、食事以外の何か、それに見合う素敵な物をプレゼントできたらいいと、やはり一週間前から真剣に考え出した。
「今年はね、三十才のお祝いのご飯はもう考えてあるんだ♪」
 朝食を終え、週末の家事をそれなりに済ませた、午前十一時頃のマンションの居間にて、伸は偶然テレビ画面に湘南の海を見た。春先の夜とはまるで違う、湘南と聞いて誰もが想像する明るい景色は、作られたイメージのように今は感じる面もある。既存のイメージは本当の自分を見えなくすると、三月十四日に新たに覚えたことだった。
 社会人となって八年の歳月が経過し、自身はすっかり大人らしい感覚に馴染んでいる。二十歳以前のような幼く青臭い思考は、記憶のひとつとして何処かに仕舞われた、と思っていたがそうではなかった。社会に見せている顔とは別に、本来の自身はあまり変わらず存在し、それを最もよく見ていたのは征士だった。常に近い場所に居ればこそ、重要な観察を得られる事実だった。
 だから彼は三十才の伸に、最も相応しいプレゼントができたのだろう。ならば同様に彼を見て来た自分も、同じ事ができなくてはと伸は悩んでいるのだが。
「それはいいとして…、他に何かほしい物ある?」
 但しそう尋ねたとしても、返って来るのはお決まりの文句だと諦めている。
「伸がほしい」
「そのお約束はもういいから」
「言わないと気が済まないんだ」
 最初はどんな場面だったか忘れてしまったが、もうずっとその遣り取りは、決められた漫才の台詞のようになってしまい、結局本心は推し量るしかなくなっている。たまには何か「これ」と言ってほしいと、ソファの隣に座りながら渋い顔をする伸に、珍しく話の続きがあったと思えば、
「何故なら私はいつも本気で言っている」
「あのさぁ…」
 征士はわざわざ捲る雑誌の手を止め、さも大事なことのように真顔で言った。確かに大事なことではあろうが、尋ねている意味でないのは明らかだ。如何にも迷う様子を見せている伸には、素直に意図を読んでほしいと、些か苛つく気持も生まれた。
 自身には酷く重大なものだった今年の誕生日。だから征士にも、相当の何かを返してあげたいと思うのに、せめてヒントをくれてもいいだろうと彼は声を大にする。
「僕はこれまでにもう何もかも!、全部君にあげてると思うんだけど?。その上でこれ以上何がほしいんだよ!」
 するとその反応が面白かったのか、征士は更に作った態度になり、全く真理であることを伸に伝えた。
「一度貰えばいいと言うものではない」
「まあ…そうだけどさ」
 そう言われてしまうと返す言葉も無い。芸者を買った訳ではないのだし、相手の言うことも尤もだと頷き、伸は更に落胆するしかなかった。
 それを見て征士の口許はふと笑ったが、さすがに面白がっているだけではなかった。伸の気持が判らない訳ではないのだ。そして、あまり虐めても可哀想だと感じながら、暫し考え、突然印象の違う話を繰り出していた。それは数日前の出来事だった。
「先日、仕事が忙しい日に昼飯を食べに出たついでに、何故かチョコレートが欲しくなって買って来た」
「…珍しいね?」
 話の意図はまだ見えないが、誰にも珍妙に感じるエピソードである。伸や当麻のような甘党ではない、そもそも菓子類をあまり食べない征士が、自らチョコレートを買うとは何の話だろうと、伸が尋ねるのも当然だった。すると彼は理由をこのように解説する。
「頭が疲れていたんだろう、糖質は脳の栄養だ」
「それが何なの?」
「つまり、体は本能的に足りない物を欲しがるようになっている。よくできたものだと思う」
 成程それは一理ある。受験生などが試験にチョコレートを持って行くのは、近年常識になりつつあるが、脳に限らず糖は手っ取り早いエネルギーであり、朝に甘い物を食べると、早く頭や体が活動を始めて良いと言われる。睡眠中に失われたエネルギーを素早く補い、活性化を促す働きがあるからだ。故にヨーロッパには、朝からスイーツを食べる習慣を持つ国もある。
 しかしそれは、征士自ら話すように体の機能の話であり、恋愛的な感情に直結するかは判らない。相手が何らかの、生命に必要な物質を発している訳でもない。疲労と糖の関係の話は面白いけれど、結局伸は、
「そう、要は体が欲しいと」
 そう結論するしかないところだった。まあそれも否定はしないと征士は返す。
「無論全てを含めてだが」
「含めてだが、ってことは、体も入ってることに変わりないだろ」
「体は魂の器だからそうなる。体を征する者は全てを征するとも言う」
 否定しないどころか、解釈によっては、体を手に入れてしまえば自動的に魂も付いて来る、と受け取れる話ではないか。それはあまりにも伸に失礼だ。
 と端からは感じられるが、言われた本人は特に不愉快でもないようで、
「…君は正直者だよ」
 苦笑いのような、微妙な表情で溜息を吐くだけだった。
 実際は、人間関係はそんな単純なものではないと、誰もが判ることだろう。家庭を大事にしながら不倫する人間も居り、必ず全てが体に左右されるとは言えない。恐らく征士の話した格言は、過去の戦争に関するもので、本隊を押さえれば全て崩れるとか、重要人物を拘束すればその国は終わりだとか、本来そんな例を表した言葉だろう。
 けれど何処となく納得し、自嘲する様子の伸は、寧ろ征士が話した意味に思えたようだった。故に軽く落ち込みもする、自身が征されている感覚があるからだ。
 勿論、伸はそんなことは口にしない。話せば相手が調子に乗ると思った通り、続けて征士はこう言った。
「私が手に入れたいのは、常に私に足りない物だ。伸は反対の場所に居るからな」
 言いながら、鏡に映る手と手を合わせるように、彼は伸の左手を取って指を組む。人の右手と左手はうまくできており、交互に指を組み合わせればかなり固く繋がれる。何の為にそう進化したかは不明だが、こうして体は離れていても、結んでいる実感を得られるのは不思議なことだ。そして征士の意思もよくよく判った。一度捕まえたものは離さないと言うのだろう。
 しかし「足りない物」かと言われると、それもどうだろうと伸は感じてしまう。結婚した夫婦でも、二者が居れば全て事足りる訳ではない。人が必ず一点のみの欠陥しか持たぬ生物なら、今こうしてがっちり掴まれていることも、正論だと納得するが、自分達は全く完全ではないと伸は知っていた。完全なら周囲に呆れられることもないだろうと。
 そんな、計り難い人の存在の区別について、
「僕は何かの栄養素みたいなもんだと」
 素朴に伸がそう尋ねると、大枠には当て嵌まると頷きながら、征士はまた少し気になる発言を付け加えていた。
「日常的にはそんな欲求かも知れない」
「日常的には?。非日常のパターンもある訳?」
 サプリメント呼ばわりは構わないとして、こうした含みのある言い方を見逃さないのが、伸の美点でも欠点でもある。追及した結果、より落ち込むことにならなければいいのだが。
 それに対する返事は、落ち込むと言うより身震いするようなものだった。
「伸が死にたいと言う度、だったら全部私に寄越せと思う」
 組んだままの掌に力が加わり、自身の方へ引いた征士は、言葉を更に行為で示していた。
 先程、一度捕まえたら離さないと、伸が感じた意思はそれ以上の意味があったようだ。もし疾病などで、本気で死にたいと願う場面に至ろうと、征士は絶対に許さないつもりなのだろう。
 思いもしないことだった。何気なく死を呟く度、反動的にそんなことを感じさせていたとは。と、やや恐ろし気な気持で伸は、
「怖いなぁ…、事故なんかで突然死したら、ロボットにでもされそうだ」
 思い付くままそう続けたが、それは見当違いだと征士は言った。
「考えたくはないが…それは無い。少なくとも現代のロボットなら全く」
 確かに彼の言うように、二千年代初頭の現在、マンガや映画に登場するような、人間と見紛うロボットは完成していない。無論機械の頭脳に、人の記憶や個性をコピーする技術も無い。とてもじゃないが彼の望む伸にはならないだろう。
 よりロボット技術や人工知能開発が進めば、命や心と言ったものも曖昧になる可能性はあるが、そう考えるとふと、伸には疑問がひとつ浮かんで来た。
『征士は僕と僕でない物を、何処で線引きしてるんだろう?』
 或いはそれが判れば、何をあげれば喜ぶかも判りそうなものだ。そこで幾つか例を挙げて彼に尋ねてみる。
「じゃ、例えば心は無くても、体は生きてる状態だったら?」
「植物人間とセックスして楽しいと思うか?」
「…すぐつまんなくなりそう」
 それについては間を置かず返して来た。まあ趣味だとしたら異常心理の類だろう。何をしても情的反応が無いなら、それこそロボットやダッチワイフと同じだ。
 そうではない。征士は命に含まれる個性を見ていると、伸はそれに当たるもうひとつの例を挙げる。
「それじゃあ、昔ながらの奴隷とか?。ヒンズーの最低カーストみたいなのはいいと思う?」
 けれど、少々考えはしたものの、彼の返答はごく模範的なものだった。
「身分は関係ない。…道具扱いしたい訳ではないし、ストレス解消が目的でもない」
 身分制度、階級等が存在する場合、奴隷を気に入って愛する例はよくあるが、それを所謂正室に迎えることはない以上、彼の言う通り「使い易い道具への愛」に似たものかも知れない。それも強い関係性のひとつではあるが、彼の望む形ではないと言う。単に誰かを所有したい訳ではない、思い通りに使いたい訳でもない、他人を虐げ尊厳を奪いたい意識も無い。
 そう聞くと、結局征士の言葉は明解でありながら、総合的に何なのか伸には判らなかった。自然に死ぬことさえ許さぬような、恐ろしげな意欲を持ちながら、物理的束縛をするつもりもなく、単なる性処理の対象でもないとしたら、今更だが、彼は自分に何を求めているのかと思う。
「んー…、単純なようで難しいんだよ、君の要求は」
 悩める伸に、頭で悩む必要はないと言いたげな征士は、そこで再び笑いながら返した。
「そうか?、ごく単純なことだぞ」
「じゃあ何?、判るように説明してよ」
「・・・・・・・・」
 さて、あえて言葉にするなら誤解が生じぬように、また伸に納得できるよう伝えければ。征士は自身を表すに適切な言い方を考え、暫しの間を置いてこう話した。
「伸の胸にある強い死への憧れが、私には魅力的に見えるのだ。私は永遠に愉しく生きたいと思っているが、反対の意識を持ちながら、伸は私より愉しそうに生きている」
 すると直感的に伸は思った。
『それは同じ強さを持った、リビドーとタナトゥスが吊り合っているからだ』
 そして更に思う。征士は根本的に遊び好きな人間なのだ。出会った当初からその風貌に似合わず、子供のような悪戯をしたり、人をからかったりするのが好きで、誰もが真面目に戦う中でも、自ら可笑しみを見つけ出す少年だった。確かにそれらは意地悪でもなく、他者を見下すことでもなかった。彼はただ人との関わりに、面白さを感じていたいだけなのだと。
 その面白さにはスリルなり、エキサイティングな何かも含まれていただろう。年頃になればそれに準じた性愛観も生まれただろう。恐らく彼のリビドーは自由で破天荒なものだ。対して、日常的に死ぬ死ぬ言うような人物は、どう見えていたか想像できなくもない。
「だから私は、いつも死にたがっている伸がほしい。より愉しく生きられるに違いないと思う。そう言うことだ」
 征士がそう纏めると、彼が考え抜いた言葉はよくよく伸に伝わっていた。
『それは僕が、いつも性的衝動を持っていると、暗に気付いてるからだろう…』
 精神分析とは何と無礼なものか。誰しもが持つ暴かれたくない物が、皆詳らかにされてしまう。勿論個人情報は守秘されるだろうが、公開された分析術は全人類の知識となった。故に誰か、自身をよく知る人には自ずと見えてしまう。伸には自身を卑しい存在だと、恥じ入る観念が与えられることになる。
 ただ、精神分析は観察の賜物であり、論文など読まなくとも、本能的にその理屈を得ている者はいる。本来は考えずとも判ることを、文字により明文化・体系化しただけであり、恐らく征士はフロイトの唱える説など、全く御存知ではないだろう。
 つまり観察の得意な彼には、ある面に於いては、瞬時に分析できることが多くある。
「判ったか?」
 と、己の行動原理を、征士は率直に話した上で念を押す。けれども伸にはどうも、フェアじゃない口説き方に感じていた。何故なら伸には、これまで気付かなかった理屈であり、酷く悔しい思いも生じているのだ。
「…判らない」
「今更誤魔化さなくてもいいぞ」
 そう簡単に返されると更に、相当前から知っていたんだとしか思えなかった。
 ああ、いつから君はそれを知ったんだろう。それから、彼は医師ではないので、誰の情報にも守秘義務は負わない。外部への迂闊な発言から、秘密が漏れる場面は恐らくある筈だ。と思うと、結局伸は落ち込むことになってしまった。
 なので彼の出来る事は、今以上に堕落するまいとの決意だけだった。
「やっぱり黙っててくれない?」
 僕の正体はなるべく知られてはいけない。
「死にたくなるだろ、自分がいかに好き者かって言われたら」
「ハハハハ」
 そこでまた「死」と言う言葉を選んで使う、相手を征士は笑ったけれど、早くから知っていて傍に居る彼には、最早覚り切った状態でもあるようだ。だから彼は労るように、伸だけが飢えている訳ではないと、穏やかに補足するのだった。
「それでいいんだ。私も同類だから」
 組み合わされた手指に、一瞬痛い程の力を感じた。伸にも既に、そのような征士の暗喩的な意思伝達は、繰り返し刷り込まれて来た経験がある。しつこく言うようだが彼はとても正直だ。
「そうだね…」
 と、呆れたように返しながらも、君に取って僕は丁度合致する点があり、特別妖しい人間には見られていないと、最後には多少救われる気持にもなった。同類であるからこそ、征士は自ら話そうともしなかったのだ。彼等の真の姿を。



 暮れた空にビル明かりが煌めき、あともう四、五時間で日付が変わる頃となると、伸は食事をしながも、家事をしながらも、ぼんやりテレビを見ながらも、忙しなく頭を回転させ続けていた。
 前の会話からは、全く具体的な単語は出なかったが、征士が強く念じる、ある種有難い意識はよく理解した伸だ。二者の高等な思考の繋がりは理想かも知れないが、低劣な本能の繋がりが平和なこともある。ではそれに応えるプレゼントは、何が相応しいかとまだ考え続けている。
 今年は鎧戦士が三十才になる節目の年。
 若さのみで走って来た時代を越え、吸収した物を確実に積み上げて行く始まりである。
 その門出に、できればこれまで全く見たことも無い物を。
 見たことも無い、僕が新種の生物にでも生まれ変わることができたら、それこそ判り易く命の愉しさを返せるだろうに。と、伸の頭にぼんやりファンタジックな映像が浮かんだ。
 精霊なり妖精なり、目に見えるかどうか微妙な程度の、実体の無い存在に人は憧れる傾向がある。日本で言えば幽霊や妖怪もその内だろうが、伸は何処かでいつも、そう言うものになりたいと思っていた。自由にのんびり漂うだけで居られたら、心はどれ程平穏で軽やかだっただろうと。
 肉体を持てばこそ視野は狭くなり、悩み苦しむ命を生きなくてはならない。
 社会は天然の心を殺す。
 恐らくその覚りが起点となり、彼の中のタナトゥスは生まれた。
 けれど今、それこそ求める物だと繰り返す人が居る。それを手に入れたいと真直ぐ訴える人が傍に居る。永らえる程に深くなる死のスパイラルに、自身のリビドーが吸い込まれて行くのを、その人は安定した快楽の形だと知ったのだろう。自ら発する欲望が無限なら、受け止める器も無限でなくてはならない。同類とはつまりそんな意味なのだ。
 想像してみれば、最初から非常識な関わり方のような気もして、伸はこの不思議な出会いを幸せに笑うこともできた。まるで自分は光さえ閉じ込めるブラックホールだと。

『そうだ、ブラックホールの超密度な重力が、無限大になる特異点の領域は、人には計測不可能だから神秘的なんだ…』

 そして午前零時を過ぎ、六月九日。
 征士の見る限り、伸が特別な閃きを得た様子はなかった。
 ならば明日何が用意されているか、楽しみに眠るとしよう、と、彼は過度な期待も無く一日を終えようとしていた。ところが伸には、特別な準備はしなくとも良い、あるプレゼントが既に見付かっていた。
 一応寝仕度をして寝室に来た征士の、上着の襟を唐突に掴んで引き寄せ、伸は「おめでとう」と言うなり、自ら強く唇を押し付けた。
 予想しない行動に頭の着いて来ない、征士が何らかのアクションを起こす前に、伸は次々先手を打って働き掛ける。両手で首を捉え、確と頭を掴まえると、自らしたいように傾けては幾度もキスした。探りながら最も深く交われる角度を見付け、気持を示したがる舌が自然に、相手の領域を侵すように滑り込んで行った。
 一秒でも早く同じになれと急かし、煽る口内の攻防の中で、現状に落ち着いて来た征士の腕が、伸の背中と腰を絡め取るように周り、何らかの狂熱に沸く彼の体を抱き寄せる。見せられた感情の強さを真似、骨が軋むほど密着させた体の内に、狂おしい圧が生まれると、それを合図に伸は一度顔を離し、心境の変化を知りたそうな征士に一言告げた。
「僕に無限の欲があるところを見せてあげよう」
 その振り切ったような妖しい様子に、「おや」と思いながらも、彼は昼間話した「死の欲望」の続きだと、すぐに理解し伸の好きなようにさせていた。そう、彼が欲しいと言った物を正に、今くれようとしていることを知って。
 伸が欲しい、と、口にするのは毎年の恒例行事だったが、思えば積極的に応じようとする年は無かった。そもそも性格的に、伸は与えられるものを享受するタイプなので、自ら求めて来ることは殆ど無かった。それを不自然に感じることも特に無く、そうした関係だと征士は理解していた。けれど、本当のところどうだったのかと今は感じられる。
 伸の中には、目に見えぬ何かを熱狂的に求める意識が存在した。死への憧れがその代表的なもので、彼は自身を明かすことを躊躇い続けていた。ある種不健康な精神を抱えながら、本能的悦びに傾き易い自身を恥じていたのだろう。ただ何事も楽しい方が良いと話すばかりで。
 そこから、こんな今が訪れたことに、征士は密かな驚きと鮮やかな幸福感とを得ていた。
 これが君の考え抜いた贈り物なら素晴しい。
 君がこれまでどんな感情を育てていたかが判る。
 そして伸が自ら、最高の物を得ようと動いた時、扉の開放されたむき出しの欲望は、彼の肉体の隅々で魅惑的に畝っているのを知った。恐らく彼の好きな海のように、その重い水の揺らぎは、日常的に彼の何処かに隠されていたものだ。
 日頃軽く明るい表情を人には見せながら、彼の視線は常に冥界の道へと向いている。征士はそんな彼が欲しいと言い続けたが、では、長く彼の欲しがっていた物は…と考えた。
 首を齧られながら征士は尋ねた。
「死にたいのか?」
 すると伸は、何ら抵抗を感じぬ様子で答える。
「まあね」
 それならば、征士はふたりが共有する至上の望みの、最も麗しいイメージを確認するだけだった。それ以上は無いと思える愛を。
「では私の腕の中で死ね」

 言葉では何を言おうと、その後する事は通常とさして変わらない。当たり前だが、告白したからと言って、人間以外の能力を持てる訳でもない。否、行為自体に変化を求めた訳ではなかった。ふたりの間で長く曖昧にされていた、性的欲求の存在を確と掴みたかっただけだ。
 誰の命にも備わる本能は、何処まで行っても飼い慣らせるものではないと、征士も知っているし伸も知っている。ただいつも君を求めていた。三十年生きて充分納得したことを、素直に、露骨に見せてもいい時が巡って来たのは、真摯に見詰めて来た身の幸いに違いない。
 彼等の覚えた恋愛のひとつの愉しみに、新たな印象が強く濃く刻み込まれて行く。
 今日はそんな記念の日となったようだ。



 インドに於けるカーマ・スートラの思想は、仏教には取り上げられなかったが、人の性と死に因果のあることは、太古から広く知られた観念だった。何故なら宇宙的回転は理の世界でありながら、人には永遠に回転する性の悦びを与えているのである。









コメント)三十才の節目とは言え…とんでもない話ですいません;。しかもやや難しい理屈を入れたら、なかなか手が進まなくなり、途中で思い付いたマンガのネームを書いたり、他の小説案を書き出したり、増々進まなくて困った作品です;
んーでも、この内容はいつか書こうと思ってて、機会が巡って来たのは良かった。アメリカ人のカップルは、性の嗜好をオープンに話し合うけど(映画やドラマに見るように)、日本にはそんな習慣ないですね。ただ目的が子作りじゃないので、いつまでも楽しく遊び続ける理由、を書きたかったのでした。
尚、文中の大学時代の話は、書かなきゃ書かなきゃと思いつつ、面倒臭くてまだ書いておりません;。やや時間のかかりそうな話なので、なかなか手を着けられないんですが、再来年くらいに書けたらいいなと思っています(^ ^;



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