思い出
Sweet Rain
Remember us



 雨の降る日には何かを思い出させる。
 意識してそうする訳ではないが、ふとした時に、ふと傘で擦れ違う時、ふと窓に映る自分を見た時、何処かから運ばれ来る不思議な追憶が、雨に滲むようにぼんやりと現れる時がある。
 人は何故思い出すのか。思い出そうとしてもいないことが、不意に目の前に現れるのは何故なのか。その答は未だ誰も知らない。ただ記憶の片隅に仕舞われた、何かが煌めくシグナルとなって脳幹を駆け巡り、いつか見た世界が再構築されることを、自然に受け止めて生きているだけだ。
 私達は常にそんな再生活動の中に生きている。
「雨が降って来た」
 昼食を終えた後、伸は窓の外を窺いながらそう言った。土曜日の午後、掃除などの家事は粗方終えて、今はのんびりとした安息の時間を過ごしている。
「そうか」
 本日仕事はお休みの征士も、ソファで寛ぎながら、伸に言われるまま窓の外を見た。既に梅雨入りしている六月の空は、無論いつ雨が降ってもおかしくはない。天気予報もこの一週間ずっと曇りのマークだ。だから雨と言われても何ら驚きはないのだが、ふたりは何処か待ちわびたように窓を見ていた。
 何故なら、
「降るか降らないか半端な天気より、降ってくれた方がスッキリするね」
「フフ、今頃の時期はな」
 と言うことだ。まあ特に、洗濯をする主婦なら不安定な空模様は鬱陶しいだろう。或いは日々傘を持ち歩くのも邪魔臭いだろう。重い空を見るだけで気が滅入る人も居るかも知れない。降るなら降ってくれる方が、と言うふたりの意見はそれなりに共感されることだと思う。
 それに加え伸は、
「こう少し明るい日の雨って好き。外を歩くと木や草がキラキラしてさ」
 そんな雨の日の楽しみ方を口にしていた。梅雨の時期は特にそんな日も多い。町中の鉄柵に絡まった昼顔の花など、露に濡れて白く光る様は確かに綺麗だ。普段は特に注目もされない路傍の花が、特別に美しく見えるのはこの時期ならではだろう。そしてそれを征士は、
「梅雨の風情と言うものだ」
 と語った。丁度この季節に生まれた彼だから、その風情については色々思うこともあるだろう。続けて伸が部屋を見回しながら、
「雑草から鉢植えの木からみんな生き生きして、本来生物はやっぱり、蒸すくらい湿気がある所に居る方が、自然で美しいんだろうなと感じるよ」
 梅雨の時期の印象をそう話すが、征士はやや苦笑いしながら、
「まあ、嫌な汗をかかないなら湿気のある環境は悪くないが」
 そう返してシャツを摘んで見せた。美しい季節も良い面ばかりではないから悩ましい、そんな征士の表情に伸も合わせるように笑った。
「アハハ、それはそうだね」
 部屋のあちこちに配された観葉植物は、確かに生き生きと艶やかな枝葉を伸ばし、見ている人間にも潤いを与えてくれる。葉の緑や斑の色も、冬場に比べ発色が際立って来たと感じる。植物には恐らく天国と言える季節。だがその場を動かない彼等に対し、人間は歩き、走り、活動しなければならない為、それに伴う不快感が仕方なく付いて来る。日本の六月は毎年そんな日常だ。
 ただジューンブライドと言う言葉があるように、欧米では最も美しく良い季節とされている。そう、この酷い湿気さえなければと言う思いが、ふたりの頭にも面白く浮かんでいる。何故なら今こそ、輝ける光の戦士が世に現れた時なのだから。
 すると伸がそこで、
「ね、明日君の誕生日だけど、何か特別にしたい事ってある?」
 と、突然話題を変えて言った。
「特別に?。何故今になって急に?」
「いや深い意味はないんだけど」
 伸の話の道筋が征士にはよく判らなかった。今日、征士の誕生日の予定はこのように決まっている。
「予定通り、六本木のアイリッシュバーに出掛けてから家で食事、と言う以外に特に希望することはないが」
 征士の言うアイリッシュバーは、会社の同僚に紹介された雰囲気の良い店だ。古くから大人の町であり、外国籍の人間の集まる土地柄もあり、六本木には特徴ある洒落た店が多い。お誕生日ディナーは征士の希望で伸の手作り、となっているが、食事の前にヨーロッパ式に、バーに酒を飲みに行くことにした。時間に余裕のある日曜日だからこそ実現したプランだ。
 それに何の不足があるだろう?。昔のように仲間達全員で祝うことはなくなったが、この数年ではベストと思える予定を立てながら。と、征士はまだ考えている。
「うーん、そういうことじゃなくて」
「そういうことじゃないとは?」
 そして伸は、何が特別なのかをこんな話から聞かせ始めた。
「いやね、今朝思い出したことなんだけど、柳生邸で初めて僕の誕生日パーティと、みんなの卒業祝いをした日にさ、」
 それは妖邪界絡みの一連の戦いを終え、それぞれが実家に戻って行く直前のことだ。
「ナスティが気張って、家の倉庫からレブロングラスのセットを出したの憶えてるかな?」
「レブロングラス…憶えてないな」
「まああの時みんな中学生だったしね、どんな品だったかなんて忘れてると思うけど」
 その時は伸も知らなかったが、ナスティからイスラエルの有名なガラスだと教えてもらい、後にそれがある程度の高級品だとも知った。すると、
「ああ、彫刻の入ったゴブレットのようなグラスで、酒じゃなくジンジャーエールを飲んだ記憶があるぞ」
 征士もぼんやりとその時の様子を思い出した。確かにその時しか使ったことがない、アラビア風の細工のグラスを見たことがあると彼は言った。そしてそれこそが話の胆だと言うように、伸は強調して強く相槌を打って見せた。
「そうそう、それ。ナスティの家の大事な物なんだけど、それを出すのを手伝った時さ、グラスは問題なかったんだけど、箱に一緒に入ってたオードブル皿みたいなのが、床に下ろした拍子に割れちゃったんだよ。ナスティ、ちょっと切なそうな顔してたんだよね。口には出さなかったけど」
「そんなことがあったとは、全然知らなかったな」
「うん、みんなには言わなかったし、ナスティの気持を思ってちょっと、心の底からパーティを楽しめなかったんだ。むしろ次のナスティの誕生日に、何か代わりの物を贈ってあげようとばっかり思ってた」
 そこまでを、今も多少苦々しく思う様子で伸は話すと、一息吐いて、
「でも今思うと、『何か贈ってあげよう』の前に、その場でもっと慰める言葉を掛けてれば良かった、って少し後悔してるんだ。僕もまだまだ気が利かなかったなって」
 最終的に何が心残りだったかを彼はそう纏めた。
 そんな事態は人生の内にしばしば起こるものだ。事件や事故そのものよりも、人の対応で印象が良くなったり悪くなったり。結局は人同士の社会であるから、惨事も良き思い出にできることが望ましい。そして話を聞いていた征士は、
「それはまあ…、パーティの当事者でもあったからな、伸も普通の状態ではなかったのかも知れない」
 と、長い時を越えてフォローした。確かにそうだった、戦いの緊張にひとつの区切りがつき、五人全員がそれぞれの理由で祝ってもらえる、それは特別なパーティだったのだと伸も続けた。
「そうなんだよね。僕も含めて全員のお祝いだなんて、ちょっと舞い上がってる所はあったんだ。ナスティもそんなだったから、思わぬ失敗に唖然としたんだよね」
「誰が悪いと言う話ではないな」
「良いか悪いかは関係ないよ。でも心情的に『悪いことしたな』って気持が残って、折角の一日に味噌が付いちゃったね」
 そう言って、回想しながら小さな溜息を見せる伸を、征士は新鮮な気持で見守っているようだった。自分もそこに居た筈の過去の一場面。知り得なかった伸の視界を今、こうして耳にしながら自己の記憶も補完されて行く。あの時己は何を考えていただろうか?。恐らく戦闘の余韻でぼんやりしていて、情緒的な思考は何も無かったと征士は思う。
 改めて、その無駄な時間を惜しいとも思った。そんな気持を征士は、
「私が気付いてやれなかったのは切ない話だ」
 と言ったが、人の心を読むエスパーでもあるまい、伸が心の裏に隠した感情をそう簡単に、見抜かれることもなかっただろう。今現在ならともかく、当時はまだ友人付き合いさえ殆どなかった頃だ。征士の返事に伸は面白がって、
「そうだろう?、気付いてほしかったよ?」
 そう返すと、征士も今はその乗りで愉快に答えた。
「あの頃もっと私が積極的に伸にちょっかいを出していれば」
「ハハハハハ!」
 そんな風に、後々面白可笑しく語れる思い出なら、伸もそこまで気にしている訳ではないのだろう。当時は気掛かりな事件でも、今はやや胸を掠める程度の記憶なのだ。それを確認すると征士は、
「で?、何か贈ったのか?」
 と、事の顛末を尋ねた。伸が話すには、
「贈ったよ。事情を家で話したら、お母さんが薩摩切子のオードブル皿を選んでくれてさ。ナスティの誕生日に合わせて発送してもらった」
 とのことだった。如何にも金持ちのお坊っちゃんらしい行動だ。ただ、
「でもそんなことよりやっぱり心だよ、大事なのは」
 伸はそう付け加えて、あくまでこの話は「物」についてじゃない、と念を押していた。まあここまでの流れで、既にそんなことは充分征士に伝わっている。今更外した議論をする筈もなかったが、伸には何かこだわりがあるのか、兎角自分の気持を印象付けて語っていた。それにはこんな理由があったのだ。
「心と言うなら伸が他に負けることもないだろう」
「そう評価してくれる?」
「ナスティも、それを受け取って伸の気持が充分解っただろうさ」
「そうならいいけどさ…。そんな訳でね、自分の誕生日を喜ぶより、人に済まない気持が勝る時があるのは、その時のことが原因かも知れないと思ってさ。そんな過去はちゃんと精算することを、君にもお勧めしようと考えた次第だよ」
 つまり、征士が自身の誕生日を気持良く過ごせるよう、嫌な思い出は整理すべきだと。過去の自分の痛い経験を元にして、伸はそこまで征士に配慮しているようだった。
 考え過ぎかも知れない。或いは余計なお世話かも知れない。だがそんなにも明日一日のことを考えてくれている、伸の存在に征士は深く慰められている。
「ああ…、それが『特別にしたい事』か」
 と言いながら、伸に比べればまるで無神経で図太い自分に、こんな風に気を遣ってくれる者は他に居まい、と、征士は幸福を噛み締める思いだった。今聞いた過去の一場面からは、想像できなかった現実が今は存在している。この道を辿って来て良かったと思うばかりだ。
 しかし、
「だが私は特に…、誕生日に関してあの時ああしていればと、思い残すほどの記憶は無いような…」
 征士にはこれと言って、心に引っ掛かるものが見当たらないようだった。彼のことだから、些細な傷は既に忘却の彼方に消えたのかも知れない。それを聞くと伸はにこっと笑って、
「ならいいんだけど。お祝いを素直に楽しめないのは損だから言ったんだけどさ」
 安心したように話を締め括った。その笑顔には嘘のない、ごく自然な微笑みが感じられた。
 成程、繊細な人の心遣いとはこういうものだと、征士は今更ながらひとつ学習する。例えそんなタイプじゃないと判っていても、一見何も感じていないように見える相手でも、万一の可能性を考え伸は尋ねてくれる。そんな人が傍に居てくれるからこそ、この適当な自分が生活の細かい面にまで、幸福感を見出せているのだなと思う。
 征士に取って、伸の過去の回想は全く自分に有難いものだった。
 けれどその時、
「ああ。いや、ただ…」
 征士の脳裏に思わぬ記憶が、何かを切っ掛けに甦って来た。
「ただ?」
「ハハ。後悔している訳ではないが、面白い事をひとつ思い出したぞ」
「面白い事?。何?」
 それは勿論伸に関することだった。彼が今見せた細やかさや、隅々まで気を回す心の豊かさに触れ、自ずと思い出された一場面に違いない。伸の回想より更に過去の柳生邸でのある日…。
「いやいや、今日はやめておこう、勿体無いから」
 けれど征士はそう返し、今はまだ話さないと言う様子を見せた。
「何でさ!?」
「明日、誕生日を迎えたらお礼に話そう」
 そして、ソファの前に立っていた伸を掴まえると、その頭を胸に抱き、額にキスをして言った。
「今は何と幸福なのだろう、私は」
 今度は征士の言動に伸が悩む番だった。突然何がどうしたと言うのか。
 ただまあ、明日になったら話すと言うのだから、今目くじらを立てて追及する必要はなかった。征士の促す通り、お楽しみは取っておけば良いとも思う。だがほんの少し、その片鱗だけでも教えてくれないかと伸はもう一押し。
「どう言うことなんだい?」
「その時も雨が降っていたのだ。丁度今日のように午後から降り出した。それが伸に対する、かなり最初の頃の淡い思い出だ」
「最初の頃。ってことは?、気になるなぁと思い始めた頃ってこと?」
 だがその問いには答えてもらえなかった。
「まあその辺はまた明日」
「ケチー」
 追想から追想へ、今日の午後は思わぬ会話の展開になったが、それもこの静かに降り注ぐ雨のせいかも知れない、と思うと、やはりこんな天気も良いものだとふたりは思う。雨の降る日は何かを思い出させる。ふたりで居ればふたりの記憶が、抱き締め合う腕の中に次々と浮かんで来るようだった。僕達はいつも見詰めていたと。僕達はいつもお互いの心に住う夢を見ていたと。
 そして、夢が現実となっても心が褪めない今を、優しい雨が包んでいてくれるようだった。



 ところで翌朝、
「さあ!、話してくれるね?」
 伸は起き抜けの征士の耳許で、元気良くそう叫んでいた。六月九日、正にお誕生日の目覚めの時である。
「まだ起きたばかりだぞ…?。こんなムードも何もない時に話すようなことじゃない」
「おやそう?」
 流石に征士もそう言って、朝からハイテンションの伸に「待った」と示した。そこまで楽しみにされていたかと思うと、嬉しい気持もある反面、多少困ったことになりそうな予感もした。何故なら、
「そんなに期待されても大した話ではないし」
 と続けた通り、クスっと笑える程度の話題だと征士は考えるからだ。「明日まで」と引っ張ったのが良かったか悪かったか、伸の様子に対し今は悩むところだった。
「期待し過ぎ?、僕?」
「まあな」
 とりあえず伸にはそう返事すると、普段通り朝の素振りに出ようとした征士。するとそれを追い掛けるように、
「じゃあ夜までできるだけ忘れてるようにしよう。忘れてるぞ?、僕は、今は」
 やはりまだ何処かテンションの高い声色で、伸は楽しそうに言った。
「わざとらしいな」
「しょうがないじゃないか!。努力して忘れとくよ、僕は」
「おい…。参ったな」
 これが、今年の誕生日の朝の風景。思わぬ事態に後のことが多少心配になる征士。だが、それもいつか笑える思い出になってくれるだろうか?。そう信じるなら何事も流れのままに、と、征士は竹刀を握り直して部屋の外へ出て行った。
 何事も、私達に取って悪くないと信じられれば、足元はスッと軽くなって行く。

「今日は朝から雨だな」
 その後、朝食の席に着くと征士は何とはなしに言った。素振りはいつも外の廊下で行う為、征士は外の様子を充分観察して来たところだ。すると、
「静かだね、今年の君の誕生日は」
 伸もまた、部屋の中に幽かに響く雨音を聞きながら、今は穏やかな様子で返した。朝一番の喧噪が静けさに変わり、雨の一日らしい状態になったことを征士は感じ、ホッと胸を撫で下ろす。伸が宣言した通りに落ち着いてくれて良かった、と言う思いだった。
「でもこんな静かさって嫌いじゃないよ。耳障りな音が聞こえないと、自分達だけの世界って気がするしね」
「空間を独占しているような感覚かな」
「そう、雨の帳に被われた部屋はさ、自分から外に出ようとしなければ、まるで独立した空間みたいに感じるね。この世界には僕達の家しかない、みたいな」
 すると、既に叙情的な雨の世界に浸っている伸を見て、
「今朝は私達しかいない」
 征士もまた追随するように返した。そうして深まって行く話の趣が、これからの一日を明るく色付けて行く気配が感じられる。先程までとは打って変わって、心の奥に染み入るイメージが次々生まれている。だから雨の日は良い、と、改めて征士が窓の外を見ると、
「そうだよ、ここは僕達しかいない雨の国さ」
 伸はそう言って、まるで王様か王子様でも扱うように、テーブルに丁寧に食器を並べて見せた。そう、今日は小さな征士国のお誕生会、と言うのは間違いなかった。
 今朝は忙しい普段の朝とは違い、伸は征士の好みそうな中華粥を炊いていた。昨晩作っておいた牛肉の甘煮に、浅葱を少々、生姜の細切り少々、白胡麻少々、そして、
「これ食べる?」
 と、摘んだコリアンダーを征士の鼻先に差し出した。
「…食べられる」
「じゃあ入れる」
 それもまた伸の細かい気遣いのひとつ。好き嫌いは殆どない征士に対し、それでも少し変わったものについては、必ず使っていいかどうかを尋ねた。穏やかに流れ始めたこの朝の一時に、もうそんな彼らしさをひとつ見せてくれる。その小さな感動を征士は、後々まで鮮明に憶えていられたら、と思った。
 飛び石のような記憶が甦ることはあれど、大半の日常の記憶は忘れられて行くものだ。如何に幸福で楽しい時間があったとしても、その全てを再生することはできない。だから意識して憶えておきたいことは、念を入れて憶える必要があるのだ。今年の誕生日の朝は、特別に静かで幸福な朝だったと。
 そう、今が大事な時かも知れない、と考えると、征士の口が不意に動き始めた。
「伸、憶えているか?、私と当麻がズブ濡れで柳生邸に戻った時のことを」
「え?、何時のことだって?」
「遼の体力がまだ戻り切らず、他のメンバーで活動していた頃だ」
 お粥の鍋の火を止め、丁度振り返ろうとしていた伸はそこで目をパチクリさせた。
「随分…昔だね?。最初に阿羅醐と戦った後だろ?」
 もう十年以上の時が経過した、青く懐かしい時代の話題を耳にすると、少し前に浜松町に集まった面々の姿と、当時の彼等が重なり不思議なイメージが浮かんだ。伸は手元の作業を続けながらも、その不思議な話に集中し始めた。
「そう。柳生邸に集まって暮らし始め、それぞれまともなコミュニケーションが取れるようになった頃。私達は遼に代わり、白炎の世話も交代でやっていただろう?」
「ああ、そうだったね」
 そこまでは伸の記憶にも残っているようだった。白炎と言えば、特に世話などしなくても独立して生きる存在だが、当時は遼がしていたことを、「やらなければならない日課」と思い込んでいた為、毎日誰かが白炎の世話をすることになっていた。
 ところがその記憶は、実は正確ではないと征士は言った。
「だが最初の最初は、伸と秀だけがやっていたのだ。私と当麻は非協力的だと言われ、ある日から交代ですることになった」
「あれ、そうだっけ…?。あんまり憶えてないなぁ?」
 ほら忘れている。伸が私の知らないナスティの記憶を持つように、私も伸の忘れた場面を記憶として持っている。だから「憶えよう」と言う意識が大切だ、と征士は続けた。
「そうだ、私達はそれである日、白炎と散歩して来るように言われたんだが。丁度折り返し地点と言う頃になって雨が降って来てな。小雨程度なら良かったが、サーサーと音をたてるくらい降って来た」
「傘持ってかなかったの?」
「出る頃はそれほど降りそうではなかったのだ。だが伸は、午後から雨が降ると言う予報を知っていたようだな」
 すると伸は、やや悪戯っぽい顔をして、
「え?。あれ?、僕いじわるしちゃった?」
 と笑って見せる。丁度食卓の準備が整い、伸も席に着こうと言う時だったので、その上目遣いの表情が何とも悪魔的だった。ただ征士はそれに笑顔で返すと、
「意地悪かどうかは。ただ、それで濡れて帰って来た私達に、『ゴメンゴメン』と何度も謝っていた」
 そう続けて伸をフォローしていた。例え意地悪だったにせよ、そうでなかったにせよ、実際雨が降るかどうかは伸のせいではないので、そこを恨みに思うことはなかった。
 その時、テーブルにふたりが揃ったので、一旦話は中断し朝食を始める。
「さあどうぞ、召し上がって下さい、お殿様?」
「有難くいただきます」
「ハハハハ」
 そして食べ始めるが、一口だけ箸を進めると伸は、どうにも気になる話題をすぐに続けた。
「でもそんなことあったっけ??。何か全然憶えてないな」
 それは恐らく、伸に取っては何と言うことはない日常だったからだ。だが他の者にはそうでない事もある。その理屈通りに征士は、その後の出来事を続けて話した。
「その時、伸は私達を見てすぐにタオルを取って来てくれた。当麻には当麻のタオルを、だが洗面所を探して私のものが見付からなかった、と言って、私には伸の使っているタオルをくれた」
「えー?、憶えてないや、全っ然」
 聞けばそこまでは、確かに憶えてもいなさそうな在り来たりな流れだ。それが何故面白いのか、征士が何を注目したのかは想像がつかない。しかし、
「その時…」
 征士は箸を止め、何故だか口を被って、向かいに座る伸の顔をまじまじと見た。
「ん?、何さ?」
 何か大事なことを言いたそうで、でもあまり大声で言えなそうなこと。恐らくそんなことだろうと伸には察しがついたけれど。征士はそこで少し改まると、その時感じた気持を率直な様子で伝えた。
「伸のタオルからとてもいい匂いがしたので、私は顔を拭きながら妙な気持になった。…伸に直接口を付けているような気がして」
「アハハハハ!」
 大した話ではないと聞いていたが、伸は思わず爆笑する。まだ特に色っぽい会話も、恋愛らしい遣り取りも無かった頃に、そんなことを考えていたと知って笑えない筈もない。突然の雨に降られなければ、起こり得なかった感情の動きが、その時の征士の中に存在したのは確かだった。
「それで、伸に触れるとこんな沸き立つような気持になるのか、と、思うようになったのだ」
 征士は半ば冗談のようにそう続けた。否、言葉としては冗談かも知れないが、暗にそんな気持が生まれたことは間違いないのだろう。またそこから続く現在を思うと、伸はやや照れ笑いを浮かべて返した。
「いや〜!、何かかわいい話だな、征士君」
 可愛い話。まだまだ可愛かった時代が過去にはあった。けれどそんな頃にも既に、お互いを意識し合っていたのは紛うことなき事実だ。改めて今それを掘り返してみると酷くこそばゆい。けれどそんなことの積み重ねが今を築いていると、注目すると尚幸福な気持になれるようだった。
「それが雨の日の淡い記憶だ」
「あれ…?」
 ところで征士がそう話を結ぶと、伸は意表を突かれたようにキョトンとする。
「もしかして夜を待たずに喋っちゃったの?」
 そうなのだ。ついさっき「ムードがない」と断っておきながら、一時間も待たずに征士はもう語り終えてしまった。その理由を彼は、
「フフ、今朝の様子がその時の雨に似ていたもので」
 と言った。これもまた優しく心を撫でて行く雨のせいだ。雨の魔法が起こした奇跡、と言うと大袈裟過ぎるが、静かに降り注ぐ雨は何故だか心の扉を緩くする、と、今朝のふたりはすっかり甘い雰囲気に落ち着いていた。
「そっか…、その日もこんな雨だったんだ」
「秋雨だがな」
 再び食事を口に運びながら、彼等は終始和やかに微笑み合っていた。今朝がそこまで特別な朝になるとは予想しなかったが、思わぬ季節のプレゼントを貰ったような気がして、ふたりは今がとても嬉しかった。
 日常こそが基本、日常の会話こそが関係性の深さを育む。過去のほんの一部を思い出しただけで、こんな幸せな気持になれるなら、これまで何気なく歩んで来た全ての道が、どれ程素晴しいものだったかと思う。無意識に過ごしている一日一日が、後に何より喜びを齎す贈り物となるのだ。だからこれからも、確実にそうであってほしいとふたりは思った。
 これからも、いつも私達の思い出が人生を彩ってくれるように。

 食事を終えると居間のソファで、伸が自らこんなことを尋ねた。
「それで?、本当に僕に触れてみてどう思った?」
 まだ朝の八時前、恋人らしい秘め事を話すには早過ぎる時間帯だが、今は既にそんなムードに流れつつあった。征士は、
「どう思ったか…?」
 そう答えると、多少とぼけたような顔をして伸の髪を撫でる。髪から額へ、額から耳へ、頬へ、その手が顎の方に移動して行くと、彼は唇を近付けて髪から顳かみにキスした。何か柔らかい物を壊さぬように、それは慎重で優しい動作だった。そして、
「こう思った」
 と言った。
「言葉にして言ってみよう?」
「言葉になどできるものか」
「ハハハ」
「ククク」
 そんなこそばゆい戯れも、大切な記憶となって行くことに笑った。
「何かさ、思い出があるって幸せだね。それを思い出すとすぐ新鮮な気持が戻って来る」
「今の話を思い出せたのは伸のお陰だ。『特別にしたい事』の例を聞いたら、随分前の自分の気持も思い出せた」
「切っ掛けがスイッチだとしたら、タイムマシンみたいだと思わない?。意識して作ってるんじゃなく、本当にその時の状況が甦って来るし」
「そうだな…。楽しい記憶も焦った時の記憶も、体が憶えたことは瞬時に呼び出されるな」
 だからと言って、過去を変えることはできないけれど。否、だからこそこれから過去となる今を、刻々と大切に生きる必要があるのだと思う。例え一秒毎に切り分けても、いつの時も君を想っていると。
「だから私は伸を見ることを止めない。これからもずっと」
「僕もきっと、ずっと君を追い掛けてるだろうね」
 そう言ってふたりが顔を見合わせると、居間のソファに並んで座る日常のよくある場面が、今日は酷く魅惑的にとろけるように感じた。
 特別な見えないカメラが、今フラッシュを焚いたような気がした。
「またひとつ雨の日の記憶が増えたな?」
 と穏やかに征士が呟くと、伸は窓を流れ落ちる雫の一粒を見詰めながら、
「僕達の思い出が溜められてる場所は、何処にあるんだろうねぇ」
 その幸福な場所を探すように、探して手の中に納められたら、それはどんな形を見せるだろうと想像するように、明るく透明な笑みを浮かべていた。

 雨の降る日は何かを思い出させる。だから雨の日は素敵だ。









コメント)現代の方の原作基準シリーズは、毎度何かを題材にして書くことが多いですが、今回は文化などではなく「思い出」について書いてみました。
何故かと言うと、このタイトルにした「Sweet Rain」と言う曲の歌詞に、何度も「Remember」の単語が出て来るので、そうだな、雨の日って色々思い出すよな、と、私が影響を受けたからです(笑)。
いやしかし、このふたりじゃないけど、今TVシリーズ〜OVA辺りの話を読むと、何とも甘酸っぱい思いがしますね。それだけ私の征伸が成長したってことでしょうか!?。



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