ドキドキ…
シュールレアリズム
Now Realists



I like you,___'cos I ain't like you.

「僕は君が好きだよ」
「…はい?…」
 伸は少し普通と違う言葉遣いをする。どうも、「同意」か「肯定」か、そんな意味を強調する時「好き」が使われるらしい。初めてそれを耳にした時は、ひどく妙な気分になったものだ。



 明るい柳生邸の昼下がり、あの日から時を隔てる毎に、彼等の心は確実に変化していった。不穏な動きに常に神経を尖らせ、いつ何時でも戦いが、目指す敵の姿が、仲間達の安否が頭から離れない。もうそんな息の詰まる日々の自分を忘れてもいいと、それぞれが解放し、弛緩し合う屋根の下。いつも慌ただしく過ごして来たこの家にも、やっと平和の時が訪れたのだ。
 春の風は少し肌寒く頬を打つ。でも乾燥気味のからりとした天気は上々だ。さて今日の午後は何をしよう、何処かへ出掛けようか、それとも思い切って一年分の掃除でもしようか。と、そんな事をこの場所で考えられたのも初めてだ。
『学校が始まるまでに、戦う事以外の僕らの思い出をできるだけ、沢山作りたいよね』
 伸はそんな事を考えながら、食後に入れたコーヒーの盆を持って、他の皆が集まる居間へと足を運んだ。

 居間のテレビの前では、何やら騒ぎが始まっていた。
「ナスティが出掛けてる内に…ゴニョゴニョ」
「カーテンを閉めた方が…ブツブツ…」
「俺はいいって言ってるだろーが!」
 最後に遼の迷惑そうな叫び声がして、ドアを潜った伸が見たものは、居間のソファの背中越しに、頭を押さえ付けられている遼と、その上でニヤニヤ笑っている当麻だった。
「何してんの?」
 至極当たり前に伸が問いかけると、
「勉強会だ」
 と当麻は力強く答えた。どう見ても普通の意味での勉強会には思えない。反対側のソファに座って、文庫本を捲る征士はまるで知らん顔。テレビの前で背を向けて、何やらごそごそと怪しい行動の秀。それを見て伸にはピンと来るものがあった。それは半年程前の、戦いと戦いの間の短い夏の話。
 一体何処から仕入れたのか、秀は海外の無修正ビデオを入手して来たのだ。確かその時も、ナスティが不在の時を狙って観賞会をした覚えがあった。そしてその場を逃げ出そうとする遼を皆で、必死に押さえ付けた記憶も蘇って来た。そう、観たビデオの内容より、遼の反応が面白かった事の方が鮮明に思い出される。だからまた無理矢理付き合わそうとしているのだ。
「おまえらだけで見ればいいだろ!、俺はもういいっ」
 何度も同じ事を繰り返す遼だが、
「まあまあ、そんな事を言うもんじゃない。滅多に見られない貴重な資料だ」
 と当麻が冗談半分に言うと、
「そうだぜ、俺が親の目を盗んでこっそり持ち出すのに、どれだけ苦労したと思ってるんだ」
 秀は振り向かずにそう言って、
「よっし、始まるぞぉー!」
 と、かけ声と共にテレビ画面の前を退いた。そして遼の隣にどっかと腰を据えると、当麻の行動に合わせる様に、その片腕をがっちりと抱え込んだ。これでは最早身動きが取れない。
「離せって言ってんだよー!」
 空しく響く遼の声は、冒頭に流れる砂嵐に吸い込まれていくようだった。やがてそれが音の無いブラックバックに切り替わると、いよいよという感じに乗り出す二人と、対照的に引いている遼がやはり、伸の目には殊更面白く感じて、思わず吹き出していた。
 日頃五人の中では何かと頼りにされる遼ではあるが、こういう場面では茶化され、おもちゃにされているのだった。しかし、だからこそ親しみを持てるのも確かだ。特異な環境で純粋無垢に育って来た、彼は出会った当初、普通の感覚には馴染みにくい雰囲気を持っていた。簡単に言えば『近寄り難い』高潔さが遼にはあった。けれど今はそれも、『面白い』と感じられる彼の個性と理解している。
 そんな風に自分達が変化して来た事、今と言う時を共有できる仲間になれた事は、ひとつの財産だと誰もが信じられていた。
「何処行くんだ征士!」
 画面に、或いは遼に気を取られていた三人は、遼のその一声にはっと前を向いた。
「何処にも…私は部屋に居る」
 征士はそう言うなり、既に居間を出て行こうとしていた。遼の瞳はそれに付いて行きたそうに、助けを乞いながら追っていたのだが、
「本を読む環境ではなさそうなのでな」
 と、ただ自分の理由だけ告げて彼は行ってしまった。征士に協調性を求めるのは、余程の時でなければ意味が無い。と皆が理解していたので、大人しく彼が階段を昇って行く音を聞く他なかった。
「俺も部屋に戻る!」
 画面には既に制作会社のロゴやら、他のビデオの公告やらが、赤味を帯びた安っぽい映像を映し出している。もう逃げられない。
「往生際が悪いぜ、遼?」
 と笑った秀に更に一言最後の足掻き。
「征士は出てったじゃねーか!、何で俺は駄目なんだ!」
 それには当麻が答えた。
「まあー、征士にはもうお勉強の必要はないんだろうなぁ」
『そういう事かな?』
 当麻の横に立っていた伸は、その発言には何となく引っ掛かりがあった。
 伸はその、前回のビデオ鑑賞会の事をひどくよく憶えている。一度萩の家に戻って、そこで起こった家庭内の事件が、その後何となく気分の優れない日々を予感させていた。けれどこの柳生邸に戻ってみれば、戦う為に集められた筈の仲間達が、何とも面白可笑しい毎日を与えてくれた。それがとても嬉しかったのだ。なので数々の出来事と共に、その時感じた思いも疑問も、伸にはくっきりとした形で残っていた。
 前回もそうだった筈だと。
 否、途中までは全員揃って観ていたが、
『気に入らん話だ』
 と言って征士はその場を抜けて行った。その後秀が、
『こーゆービデオにそんな注文付けるか?、フツー』
 と言ったのも憶えている。確かに、普通じゃない理由の様な気がする。遼も遼だが、征士も普通の感覚ではないと、それも皆が知っている事だったけれど。
 気になり出すと、詮索しないでは居られない性分だった。否詮索せずとも解り易い人物なら、放っておいてもいずれ襤褸を出すだろう。けれど征士に関して言えば、決して複雑ではないが、普遍性の見当たらない思考回路を持っている。伸がそれに、ずっと関心を持っていたのも確かだ。特にこれといって癖の無い自分には、個性の固まりの様な人間に思われた。
 漸く画面に現れた艶やかな女性達も、既に青褪めている遼の事もそっちのけになり、伸は考えると、
「あ、僕洗濯物取り込まなきゃ」
 と、尤もらしい理由を付けて、せかせかと慌ただしくその部屋を出て行った。誰もその行動には疑問を持たなかった。

 必要はないのだが、伸はそろそろと忍び足で階段を昇ると、二階の廊下も足音を立てずに静かに渡って、僅かに開けられているドアの中をまず、隙間から覗いて見ることにした。征士は先程と何ら変わらない様子で、壁を背に自分のベッドに掛けて本を読んでいた。見る限り、それ以外の理由があって場を離れたのではないらしい。
 伸はまた頭の中で、有りもしない理由を様々用意すると、思い切ってそのドアを開けて、
「あれ、ほんとに本を読んでるとは思わなかったな」
 と、覗いていた事を疑われない様に言った。気付いて顔を上げた征士は、
「…他に何をしていると言うのだ」
 と返したが、伸は特に気を引こうとはせずに、
「さあ?」
 とだけ答えた。こんな場面で言ってみたい、些末な事柄は多々あったけれど、目的から外れてしまうのを危惧して我慢していた。
「そういう伸は何をしている、何か用か」
 聞かれるだろうと予想はしていたので、先刻思い付いた通りに伸は言った。
「いや、風が強くなったからさ、ナスティが大事にしてる蘭の鉢が倒れてないかと思って…」
 すると偶然にも、噛み合う内容の言葉を征士は並べた。
「それなら今朝、私がテラスの桟に縛り付けておいた。茎が折れたらおしまいだが、端に寄せてあるから大丈夫だろう」
「ああ、あれ君がやったの」
 ほっとして笑って見せながら、伸は不自然さを気取られずに済んだ事を喜んでいる。そして安心して本題を切り出した。
「…それはそうと、ねえ、何でみんなと一緒にビデオ観ないの?。前も途中で出てったじゃないか」
 そんな事を聞かれると思っていなかった征士は、一瞬変な表情を伸に向けたが、
「興味がないからだ」
 と曇りのない声で返して来た。
「えー?、そんなにはっきり言える訳?」
「どうせ下らん作り事だろう、見たところで白ける。私には時間の無駄としか思えないが、飽きずに見る奴も居るものだ、理解に苦しむ」
 征士が尚きっぱりと言い連ねるので、多少なりとも興味を持っている自分が、「下らない」と言われている様な気がして、伸は思わず一歩退いてしまった。
「そ、そう…?」
 恐る恐るといった口調に変わった、自分に戦いているらしき伸を見て征士も、諄く言い過ぎたようだと態度を和らげて付け加えた。
「そりゃあな、現実の方が良いだろう?」
 そう言って口の端で笑って見せた。勿論それで伸が穏やかになった訳ではない。むしろその逆だった。
『現実の方がいい?、どういう意味だ?、いや征士に限って適当に誤魔化すなんて事はない。じゃあそのままの意味か?、当麻はそれを言いたかったのか?』
 頭の中で、どう受け取っていいか迷う言葉ばかりが巡る。けれど伸は自分がそうしている間にも、また元通りに、何食わぬ顔をして手許の本に視線を下ろした、征士の落ち着き振りがひどく羨ましく感じた。生活の中のあらゆる場面に於いては、別段征士だけが皆より抜きん出て大人であるとは、感じた事はなかった。皆何処かしら成長の早い部分も遅い部分も持っていた。
 けれど、同じ言葉を耳にしながら、いちいちどぎまぎしている自分と、特に何も変わらない風情の征士には、大きく隔たりが在る様に伸には思えた。大人か子供かではなくて、それは自分と征士との明らかな違いだと。だから羨ましいと感じている。
 その違いに、いつも疑問符を投げ掛けるのは伸だ。それだけ伸には常に鮮やかに焼きつけられる、自分にはできない振舞いが輝かしく見えるのだろう。
「…そういう君は好きだよ」
 伸はそう呟きながら、もう少し話を続けてみようと、大人しく本を読んでいる征士のすぐ傍に来て、隣の当麻のベッドにそっと腰掛けた。その言葉を征士はどう受け止めたのか、「おや」という顔をして伸の方に首を捻る。
「ほう?、そう来るとは思わなかった」
 伸の方も何の事を言っているのかよく判らないまま、
「どうしてさ」
 と答えた。すると征士はこんな事を言った。
「伸のような、いかにも良家のおぼっちゃんが、実は意外と実践派なのかと」
「え?、…ははは…、君だってそうだろ?」
 至って冷静にそう返せたものの、伸には後味が悪かった。これでは全くのハッタリになってしまう。
 思わぬ方向に話が進みそうだった。これ以上追求されないように、この場を退散する算段を始めた方がいいかも知れない。しかし伸の思惑とは反対に、征士は自分のレベルでの話を続けた。それこそ、滅多な事では聞けない内容だ。
「なら解るだろう。知らない内は、何を見ても聞いても興味の対称になるが、実際を知ってしまうとなぁ。妙に脚色された世界を、ただ指をくわえて見ているなど、馬鹿馬鹿しく思うようにもなる。私は現実の方がずっと良いと思う」
「…そうかも知れない」
 いずれそういう心境になるかも知れない、と伸は一応相槌を打っておく。しかしそれはまずかった。話が途切れない。
「元々私は一番現実を愛している。それ以上の事は無いと思うのだ」
 成程と思わせる事を確かに征士は言っていた。
「そう思わないか?」
 けれどそう問われても、伸には確たるものは何も無いのだ。その上、征士に対して大見得を切れる程、自分は現実主義ではないと思えた。すぐに気付かれる嘘なら付かない方がいい。答に詰まったまま、伸は他にどうする事もできずに、返答を待つ征士の顔をぼんやり眺めていた。
 その様子を征士はどう受け取ったのか、やはり伸には想像が及ばなかった。ただ突然音が消えた、衣擦れの音さえ無く佇んでいる二人の空間が、やたらな緊張感を押し付けて来るように感じた。空気が変わって行く、変わって行く何かを具に感じ取っていた。
「そう思うだろう?」
 征士はもう一度問いかけて、それまで手にしていた物を傍に伏せて置いた。そしてその手を伸の方に伸ばすと、じっと見開かれている瞳の、縁取られる睫の先に悪戯する様に触れた。途端にびくりと目をしばたかせて、驚く様な、はにかむ様な気持ちで伸は言う。
「そう…だね、僕は好きだよ」
 咄嗟に口から出た言葉。
「…ならばこうしよう」
 すると、何処か愉快そうに切り返した、征士は何かを提案している。前に伸ばした手を伸の額の上に重ねると、そのまま後ろへ倒す様に力を加えた。否、そう大した力は必要なかった。ベッドの縁に浅く腰掛けていただけの伸は、途端に安定を失って、征士の思う通りに仰向けに倒されていた。
 それと同時に、自分のベッドから離れた征士が、天井を映していた伸の視界にすぐさま入り込んで来る。そして顔のすぐ横に置かれた彼の腕が、ギシとスプリングの軋む音を立てると、伸は自分が、照準を定められた獲物の気持ちに追い込まれているのを、密かな恐怖感として感じた。行動の理由が解らない事が、気安い筈の相手にさえ怯えてしまう状況。こんな状況。
 けれど征士の言葉は、淡々として小気味良く響いた。
「愉しいと思える事は色々だ、それなら私はこうする」
 耳を澄ませば階下の、テレビのスピーカーから漏れる曇った音が、意味不明の喘ぎ声を彼等に伝えていた。虚構の世界を覗き見て楽しめる者も居れば、違う趣向を持った者も居るというだけの事。ただそれを共有しようとするだけで、相手の心の動きを捕らえて躊躇する程の、行動の重さは始めから有りはしない。だから征士の言動は明るい。
 明るい、明白な理由を以って顔を近付けた、その影に覆われ、窓の外の陽光から隠される伸の口許が、何かを乞い願う、聞こえない声を発している様に見えた。

『くすぐったい…』
 耳から首筋の辺りを啄む様な戯れ、頻りに髪や項を撫でる優雅な手の動き、こんな風に、他人に触れられた事はこれまでなかった。頬に掛かる、自分とは違う髪の匂い。直に肌に触れる別物の息遣い。意識が何処かへ追いやられるような感覚。単なる仲間や友達には感じない歯痒さともどかしさ、秘められた羞恥心とが混じり合って、伸の口からは絶えず笑い声が漏れて来た。
「ククク…ククククッ…」
「いつまで笑っていられるかな」
 そう返した征士も笑っている。その細かな振動が首を伝って、伸の咽の奥を幽かに震わせていた。堪え難い何かがそこで燻る度に、僅かずつ体温が上昇して行くのを感じている。変化して行くのを感じている。そうして忙しなく煽り掛ける唇に反して、征士の手は無機的な動作でシャツの釦を外していく。伸にはまるで気付かれない程に、静かな機械の様に繰り返す。
 やがて全ての袷を解放した隙間から、その手は水平に描かれた鎖骨をゆっくり、丁寧になぞりながら胸部を開かせた。
「っ!」
 その過程に、思わず肩がビクリと振れた。晒され始めた皮膚にひやりとした外気を感じ、途端に我に返るが如く伸はたじろぐ。
 無意識に触れられる事と、意識して触れられる事はこんなにも違う、と戸惑う思考の中で再び、密かな恐怖心を思い出していた。違う事を、知らない事をこの身が覚える恐ろしさを感じる。尚繰り返される優し気な行為が、悪魔の囁きにも似たたおやかさで体の中へと、染み入る様に感じ始めていた。
 簡単に取り引きなどして、良かったのだろうかと。
『恐い…』
 けれどそんな心情など気付きようもない、悪ふざけする様に陽気に這い回る手指は、するすると躯の側面を滑り降りて、うっすらと浮き出る肋をひとつひとつ、確かめながら再び這い昇って来る。その骨の形、皮膚の感触、まだ柔らかい筋肉の作り出した流線を楽しむ様に。微妙な震えをさえ感じ取る指先の、触れた後を付いて灯る熱を遊ぶ様に。
 それから、次第に音階を上げていく心臓の、初めて触れる鼓動を確かめに、征士の手はなだらかに隆起した胸の上へと辿り着いた。
「っ…」
 掌にふと触れた小さな突起に、仄かに他の場所とは違う温度を感じる。肩口まで降りて来た征士は、顔を傾けてその手の下にあるものに目を遣る。と、それは胸の上に短い拍動を伝えて、細かく震えながら色めき立って見えた。生活の中で見た事がない訳ではなかったが、こんな時は妙に可愛らしく映るものだ。
「!っ、…っ」
 周りの一際柔らかい皮膚からなぞらえる、前触れだけで息を詰まらせている伸の、小さな、けれど特別な反応に征士は顔を上げた。伸はまだ普通の顔をしていたが、健康な肉体の、どうしようもなく機敏な訴えに歯向かう、健気とも思える様子は返って、暴き出したい欲求を惹き付ける。そして、固く結び始めたそれに触れると、弾かれる様に伸は身を強張り、脇を締めて堪える仕種を始めた。
『割り切った方が楽だろうに』
 征士はその反応をただ、窺っていれば良くなっていた。
 例え半分は遊びだとしても、思うような反応が無ければ詰まらない。その意味ではまず目的を得ていた。普段とは違う表情を観察するのがひとつ、そして特別な状況での、咄嗟の行動を愉しむのがこの場の真骨頂だった。言わば秘密を探り出す事こそ、征士に取っての『現実の遊戯』なのだ。
 その意味を伸が理解していたとは思えない。
「…っ、…んっ」
 指先で戯れ掛け、指の腹で撫で付けて刺激を加える度、引き攣る口の端が、奥歯を噛み締めているのを明瞭にしていた。明らかに上気し始めた顔色とは裏腹に、右手に掴んでいる征士の袖に加わる力が、強く引き寄せながら、理性を手放すまいと地味に表現していた。
『我慢強いなぁ』
 まあ、それがいつもの伸と言えばそうだ、と征士は口先で笑った。上辺の表情とは違い、いつも素の感情を押さえている伸の、人となりがこんな場面にも現れている気がした。何に我を張っているのか知れないが、考えてみれば彼の本当の意見など知らない。

 それなら余り、長い時間を待ちたくもなかった。
 伸に袖を掴まれていた、これまで空いていた方の手を移動させて、征士は次に右側面から浸食を始めた。その代わりに、利き手をするりと背中に滑り込ませて、そこから背筋を伝って下方へ、目的の場所へと降りて行く。答を急ぎ出した掌は、些か不躾に神経を弄り始める。
「…っ!、ふ!…」
 その背骨がざわめく様な感覚は、堪え切れず伸の上体を浮き上がらせた。力の入らない膝下がぱたぱたと音を立てる。更に右胸の上に与えられた、ざらりとした舌先の艶かしい蠢きに、掴む物のなくなった右手が宙を彷徨いながら、遣る瀬ない痺れを持て余していた。
「うぅ…!」
 思い通りに制御できない、無為に身じろぐばかりの自分を伸は、どう見てほしいかなど、最早考える余裕もなくなっていた。 始めから演技になっていない、元より振りだけではどうにもならない事かも知れない。
 征士の遊びに、自分はほんの少し大人の振りをして、付き合えるだろうと思った。
 けれど知っていた筈だった。征士と自分は違う。同じ場所で同じ視野を持つ事はできないという事。
 これがただの好奇心の産物ならば、止めろと言う事もできた筈だった 。
 が、
「!!」
 征士の右手がベルトの金属音を鳴らすと、初めて伸は抵抗の意志を露にした。無意識の内にその手首を掴んでいた。けれど、口からは何の言葉も出ない。それこそ伸の中で思う事がばらばらな印。征士はしかし、それを当然の行動だと理解しつつ、あくまで過程であるとしか考えていない。気にせず掴まれたままベルトの掛け穴を外すと、後は特に苦労する事なく、緩められた衣服の中にその手を侵入させた。
 そして、予想していた状況がそこにはあったのだが、
「くっ…ぅっ」
 苦渋に絞り出される声を聞く。歪んだ表情には切なさを感じる。手の中で、既に熱く息衝く体の主張に対して、眼下に震えている伸の様子は穏やかではない。このまま息を詰めて、窒息死してしまいそうな緊張ばかりが、皮膚を通して征士に伝わって来た。
 窮屈に押し込められた下着の中から、解放させるように上向かせ、その形をなぞるように幾度か緩急を与えると、至極緩やかな煽動にも、急き立てられる様に体積を増しながら、ただ一点の出口へと先走る、透明な欲望を早くも吐き出して、ぬるりとした淫猥な感触を双方に与えた。
「うぁっ、…っうっ」
 抗おうにも成熟し切った高まりの、貪欲に極みを求める性から離れられない。それでも伸は、弾けそうに張り詰めた動物的な象徴に、跪かせる囁きを受け入れなかった。絡められた指に弄ばれるまま、流されそうになる意識を必死に引き戻していた。
「んくっ…、うぅ…」
 不本意な熱病。固く閉じられている瞼。眉間に皺を寄せたまま固定された顔の、額から滲み出た汗がその間を流れ落ちていく。震える唇から息吐く事さえ忘れ、零れそうな吐息を塞ぎ続ける、か細く唸るばかりの嘆きの声がした。
 探していた答ではなかった。
 そして漸く征士は気付いた。伸は嘘を付いていたのだと。
 始めから、只管逃げ惑っていたようなものだった伸が、今に至って征士には、何だかいたたまれなくなってしまった。彼が何を思ったのかは解らないにしても、苦しむ為に誘いに乗った訳ではないだろう。無論征士にしても、辱めようとする意志は無かった。あくまで合意の上の馴れ合い、以上の事を要求したつもりはなかったのだが。
 言葉が正しく通じなかったのかも知れない、と思う。
 しかし考える前に取り敢えず、この半端な状態をどうにかすべきだった。伸を解放してやらなければ、食い違いを済まなく思う以前に、余りに可哀想な事この上ない。
 幸い、心情的には穏やかで居られた。非が有るとすれば、どちらにも有ると思えたので。再び動き始めた状況に、変わらず喜ぶでもない、喘ぐでもない伸を見ていると、何も表現できない彼をどうしても、哀れむ様な気持ちが前面に出てしまうようになった。征士は極めて優しい律動を以って、手の中に激しく脈打つものに促しを与えた。
「…っ!、んぅっ…!…っ」
 昂る情慾を全て呑み込む様な、密やかな最後の声を耳にして、彼の手には滴る体液ばかりが残された。

 短いしじまの後に、そろそろと探る様に目を開けた伸に、
「冗談だよ」
 と征士は言った。そう言った彼の顔を伸は、乱れた服を直そうともせずに、暫く黙って見詰めていた。



 その夜、殆どの者が寝仕度を終えた頃、征士は一度ベッドに入ろうとしたが、止めてまた考え込んでしまった。また、と言うのは横に居た当麻の形容であり、征士は夕方頃から、何かに悩んでいる様子だった。
「さっきから何なんだ、一体」
 と聞いても、既に一度聞いて答えなかった事を今、新たに聞き出せるとは思えない。
「んー・・・」
 実はその夕方から、伸とはとても気まずい雰囲気を作っていた。否、征士には特別その理由は無いが、伸は明らかに、自分に対して閉ざし気味な態度で、避ける様に後の時間を過ごしていた。事が事だけに、とても他の者には話せないが、実際本人にも切り出し難かった。解らなくなってしまったからだ。
 一方的に自分が押し付けた事なら、即座に謝る行動に出るだろうが、拒絶されなかった事で避けられるのは合点がいかない。殊に伸の性格では、無理をしても相手を許す方に出る筈だった。
 この不明瞭な行動の意味は何だろう。
「いい加減にした方がいい、あと何日かしたら、もう暫くここには来ないんだ。考えるだけ無駄無駄…」
 言いながら当麻は、いつもそうするようにナイトキャップ代わりの本を手にして、ごろっと横になって見せる。珍しく当麻が『早く寝ろ』と言っているようなものだ。けれど、何も知らない彼の助言には、逆に心を掻き立てられるものがあった。
『あと何日かしたら…』
 あと何日かで、ここでの穏やかな生活は終わってしまうのだ。ひとつ与えられた重要な責務をこなした後、これから戦士として共に行動する時間は、確実に少なくなっていくだろう。否そうなる事をむしろ望んでいる。だとしたら、不安な要素を抱えたまま離れるのは、決定的に反目するより尚悪いと思えた。
 何か理由が、或いは誤解があるなら早い内に確かめた方がいい。それが全体の不和を呼ぶ傷になる前に。そして、思い付けば征士の行動は早かった。
 乱れぬ足取りで部屋のドアに向かった征士に、当麻はぼそっと、
「何処に行く?」
 と声を掛けはしたが、
「『いい加減にしろ』と言われたからな」
 出て行く征士を黙って見送ると、また本の活字の上に目線を戻していた。大概に於いて、人の助言に素直に耳を貸す奴じゃないと、当麻はよくよく理解していた。

 その時伸はまだ階下に居て、やはりいつもそうするように、ナスティと共に家の戸締まりやガス栓等を見て回っていた。そうした習慣を征士は知っていたので、彼等の部屋の前は素通りして、明かりの消えたダイニングへ続く階段を降り始めた。すると丁度二階に昇るナスティに出会って、
「どうかしたの?」
 と声を掛けられた。
「伸に用事が」
 征士は有りのままに答えた。
「伸なら玄関の方に行ったわよ、じゃ、おやすみ」
 ナスティも極当たり前に答えて、彼の行動を妙だと疑いはしなかった。
 普通でないのは彼等の間だけで、他の全てはいつも通りに動いている。何故こんな風に、当たり前の風景から浮き上がってしまったのか、否、征士は自分の行動の中に、思い当たる節が無くはなかったのだ。けれど伸には、それは知る由もない事だ。
 自分に対して、伸は少なからず好意を持っているのだろうと、勝手に解釈していたと知れたら、物笑いの種になってしまうだろう。今となっては。
 閉められている筈の、玄関ドアが小さく隙間を開けていた。風が入り込んで来るその向こうに、不規則な音を立てている人の気配が感じられた。恐らく彼はそこに居るのだろうと、征士は三和土の暗がりから何とか自分の靴を見つけて、重厚な造りのそれをできる限り静かに開けてみた。一人で居たがる者の邪魔になってはいけないと。
 段々に開けて行った外の世界は、藍を流した様な夜空に金色の月が、欠けた輪郭まで鮮やかに視界を惹き付ける、ざわざわとした春の風の中。それぞれの胸中を表すかのような、その耳障りな雑音の中で、僅かにドアの軋む音を聞き分け、玄関ポーチの端に座っていた伸は振り返った。
 驚きに、暫く言葉が出なかった。
 殴られるくらいで済めばいいと思っていたが、怒るならまだしも、伸は泣いていたのだ。
 まさか泣かれるとは思っていなかった。それではあんまり、少女趣味なお話の様に出来過ぎている。けれどそれ程に傷付いたという事だろうか。征士は困惑のまま取り敢えず一言謝った。
「あー…、悪かったよ」
 すると伸は上擦りながらも、すぐに返事を返して来た。
「君は嘘つきだよ、良くない現実だってあるんだ、絶対」
「…嘘を付いていたのは伸も同じだろう」
 征士はそう返したが、それ以上責めようという気は毛頭無かった。自分の主義主張を他の誰かに、強要しようと思った事はない。伸は自分とは違う人間だと理解していた。だから本来は、こんな事にはならなかった筈なのだ。発端と言えば、魔が差したとしか説明しようもない。
 改めて征士は言った。
「確かに良い事ばかりではない、だが私の考えは変わらない。思うようにならない、予想が付かないからこそ現実は良いものだと私は思う。そうであれば、私が生きている時間に、永遠に退屈な時は来ないからだ。それより幸せな事は無いと思う…」
 黙って背を向けている伸が、何を思ったかは解らない。けれどそれが正直な自分だと訴える事しか、今征士にできる事はなかった。言葉で言わずとも、常にそうで在った筈の自分。理解してもらえなければそれまでの事だ。
 それまでの事、だったのだが。
「…僕は君が好きだよ」
 それは「同意」か、「肯定」の意味だと征士は知っていた。
「どうせなら『素晴らしい』とか、『面白い』とか、感想を言ってほしいものだ」
 なので征士は冗談混じりに注文を付けた。
 けれど伸には、征士の冗談を笑えなくなっていた。
「だってさ…、信じてくれないんだよ。僕はもう何十回も言ったのに」
「…ん?…」

 もしかすると、恐ろしい勘違いの交錯だったのか。
「それを先に言ってくれ…」
「何度も言ったって言った」
 溜め息を付く伸は、伝わらない苛立ちを無力感に変えていた。
 『冗談』がまずかったのだ。そういう事だったのかと、漸く理解するまで随分時間が掛かった事に、最初に伸が、そんな言葉を使い出した頃を思い出していた。けれど征士は思い出して、それが全ての始まりだった事にも気付いた。
 言葉が無ければ、意識しようもない事だった。
 何故なら彼等は似ていない。自然の成り行きで意志の疎通がある相手では、決してなかった。違う所を見ている者をどうして、自分に向かせる事ができようか。
 I like you,___'cos I ain't like you.
 けれどそれならば、「伝わらない」と文句を言われる筋合いではないような気もした。 半分は遊びにしても、残りの半分は全くの正気だったのだ。
『暗示をかけられていたようなものじゃないか』
 と、結果的に憎たらしくも感じられる伸に、けれど再び突き放す様な言葉も出ない征士だった。

 頭を抱えながら、今更と思う弁解をした。
「…言っておくが、来たのが伸でなければ、あんな事はしなかったぞ、私は」
 何を言ってもカッコ悪い。
 と征士が思い、不貞腐れた気持ちでいる事を、風の音は掻き消さなかった。
 すると、暫く間を置いてその場を立ち上がった伸は、一度深呼吸をする様な振りをして、月を仰ぐ様な振りをして、またのんびり家に戻ろうとする振りで体を返すと、いつも通りの平静を装ってこう言った。
「僕は好きだよ?、君の『現実』が好きだ」
 意地の悪いこと。
 けれど、決して思うようにならないから、予想が付かないから良いとは、言えなくもなかった。ドアの前に立っていた征士は、いくつかの意味で嬉しそうに戻って来た、演技ではない伸を初めて捕まえられた。



 後々、気を付けて聞いてみれば、他の誰にもそんな言葉遣いはしていなかった。









コメント)表の説明に「かわいい話」と書いておいて、実は「こわい伸」の話かもしれない(笑)。
「原作基準」の方ではまだ当分こうゆう関係にはならないので、セカンドの方はこんな脱線話が数々あったり…。本当はTV第一話の後既にやおいが…(笑)。でもそれじゃ「あんたら本気で世界を救う気があんのか!?」って、ギャグにしかならないので、書かないでおこうと思ってます。とほほ。




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