赤い海辺
中学生日記
スプラッシュ
Splash of Mermaid



「もう、これで終わりにしよう」
 鎌倉に行きたいと言って、連絡をくれたのは伸だった。
「これ以上続けても、何にもならないと思うんだ」
 そして伸はそう付け加えた。
 言い出せない筈の宣告が可能になる程に、彼には不安の水底が見えていたのだろうか。

 物語の結末は、語り部によって変わることもある。
 だから悲しみばかりを見詰めないで。



 ほんの冗談、で終わらせる筈の戯れ事が、一年以上続いてしまったのは偏に、「終わらせたくない」と願う誰かの気持ひとつだっただろう。切っ掛けは不自然な行動でも、回を重ねる毎に、それが習慣であるように慣れて行った。別の自分に成り澄まして、夢の泡のような時間を過ごしに出掛ける、ただはにかみながらときめく心を楽しむ刹那。中世に流行した仮面舞踏会さながら、考えてみれば贅沢な遊びだったかも知れない。
 恋するは愉し。恋は人生の華。
 こんなに楽しい日々が在った。だが伸は敢えてピリオドを打つことにした。けれどそれで本当に良いかどうかは、内心まだ迷っていた。何故なら嫌でもいつか、近い内にこの変装がまるでおかしなものになるだろう。それまで続けた上で、自然に心が離れて行く方が恐らく、征士も自分も苦しまずに済むだろうとは、伸にも判ることだった。
 作り事の舞台の上にも、現実の時は流れ、いくつかの真実の輝きさえ見出されて来た。作り事とは言え、失う痛みを後に残すことを思えば、征士には済まないとも感じた。
 けれども人は言う。
『思い出は美しい方が良い』
 詩的情緒に流されている訳でもない。それは今の、伸の素直な欲求なのだ。いずれ見る影もなくなってしまう未来を思うと、成長の過程の内に枯れてしまう、残念な自分を見ていてほしくはなかった。元々別の人間として振舞って来たのだから、記憶の中にそのまま、『サヨコ』は変わらずに居て欲しいといつからか思い始めた。愛しむべき姿をしていた自分を、自分が居たことを忘れないで欲しかった。
 サヨコはサヨコなりに、征士が好きだったからだ。
 亡霊のイメージを『忘れるな』と言うのは、酷いエゴだと判っていても。
 時を経ると共に、己が変化して行くことは止められない。否むしろ、いつまでもここに留まりたいとは思っていない、大人になろうとする意志の方が常に勝っている。この遊びを始めた頃からしても、姿形、ものの考え方、置かれた立場、あらゆることが少しずつ変わって来た筈だ。それが極自然な在り方であり、無論刃向かおうとも思わない。
 ただ心残りなのは、一度獲得した筈の幸福な時間、即ちひとつの住処を失うことになる事実。二度と巡っては来ない少年期の曖昧な黄昏、落陽は朝日よりも美しいと感じる切なさばかりが、平等に分け合える唯一の宝物、かも知れないこと。
 今はまだ、後のことなど考えられないけれど。



 十一月の終わり、明るい色合いが形を潜めた地上の景色。
 天気は良くも悪くもないといった感じだが、街の色は薄ら寒く沈んで見えた。引導を渡した後ろめたい気持が、まるで辺りに投影されているかのようだった。伸はだからこんな時期を選んだ、という訳ではないが、この後冬に死に行くものが還る土は、凍て付く眠りの後に、新しいサイクルの新しい命となって、世界を明るくしてくれるのだと思う。だからそれで丁度良いとも感じていた。
 彼等は自ら育てたものの死を見届けに、ここにやって来たのだ。
 伸の提案に、最早征士も反論はしなかった。
 午前中に東京駅で待ち合わせ、昼より前には北鎌倉の駅に降り立っていた。ここから鎌倉の中心へと向かって歩き、江ノ電に乗って海の方へ向かう予定だ。デートコースにしては少々堅いと思われるが、伸のたっての希望だから仕方がない。どうせならデートではなく、仲間達で来る方が向いていたかも知れない。
 ただ伸が、何らかの意味を以ってここを選んだことが、征士に判らない筈もない。だから文句も言わず受け入れていた。
 サヨコは今日もきれいだった。初夏に一度切った後ろ髪が、また束ねられる程に伸びていた。体型をカバーする冬服を着込める季節なら、そこまで他人の目を気にする必要もないが、彼は今日も驚かされるばかりの、遊びにして余りある変わりようだった。姉から借りた服を着て、幅の太いリボンで髪を纏め、ほんの少し顔のパーツに手を入れただけで、十二分に少女らしい印象になった。
 そう、今はまだ疑われはしない。征士の目にも、恐らく他人の目にも、サヨコ以外を主張するものは映らなかった。古い建造物の薄暗い影を背にしながら、彼女は本当に生きて、存在していた。

 北鎌倉から連なる寺社、仏閣は、嘗てここが古都の中心地であったことを忍ばせる。衰えた朝廷に代わり、武家が実権を握った最初の時代。しかしいつの時代も、武力を行使して出て来る者程、最期は神頼みの憂き目に遭って来た。鎧や剣が、真の意味では人の為にはならないと歴史は語る。そして今、その名残りを見る彼等の心にも、感慨深い何かを与えていた。
「僕の家はねぇ、この頃より前からきちんとした家系があったんだよ」
 年月に黒ずんだ板塀の並ぶ通りで、伸は建物の屋根を見上げながらそんな話をする。
「安芸よりも前の話か?」
「そう」
 勉強が苦手ではない征士は、歴史の表舞台に記されない話などには、素直に耳を傾けた。
「鎌倉に関係があるんだ、毛利から北条家にお嫁に行った人がいるし、その頃はこっちに住んでたみたいだね」
「その時々の政治の中心地に、人が集まるのは当然のことだ」
 そう返事をしながら、征士はふと思い立って、
「ならばこの辺りには、遠い親戚がいるということだな?」
 と微笑する。
「アハハ、そうかも知れない」
 現代の世界から切り離された過去の遺物が、脈々と今に繋がっていることを理解するのは難しい。けれどそれを自分と同じように、当たり前の事例として話す征士には、似た環境で育ったという気安さがある。明確な過去からの伝統を受け継ぐ者同士、その良い部分にも悪い部分にも触れて来た。
 だからだろうか、普段の生活の中で付き合う分には、お互い相手の異質さを感じることはなかった。こんなにも性質の違うふたりなのに、何故か穏やかに一緒に居られる。
「だから一度来てみたかったんだ。東京から近いのに、今まで来たことなかったから」
 そんな気持も容易に理解してくれる。
「海も近いしな」
 征士は一言で返したが、その言葉は単純にして、複雑な思いを表現していた。恐らく海とは今日の終点であり、水滸の伸が帰る場所なのだ。そこへ辿り着いたら、何が起こるかは大体判っている。
「そうそう、海は色々あるけど、湘南の辺りってやっぱりかっこいいよね。今も近い親戚がいたら、毎年でも遊びに来るのに」
「別宅でも建てたらどうだ、私が一緒に住んでもいいぞ」
 そこで、いつもの調子の会話のようでいて、伸には「あれ?」と思わせる。
「『逆玉の輿』を狙ってるのかな?」
 勿論征士の自尊心を刺激しないように、伸は冗談めかして言った。すると征士は、時代劇の芝居をするように、
「この伊達征士、そのようなさもしき男ではござらん」
 と言って、いきなり道の上で片膝を付いて見せた。
 途端立ち止まった伸と、それを楽しそうに見上げている征士。日本の時代劇から想像すれば、「武士同士の駆け引きの場面」といったところだろう。けれどそれでは些かつまらない。伸は暫し考え、自分の右手をそっと彼の前に差し出した。
「では『雷光の騎士』様、参りましょう」
 つまり、西洋の姫とナイトに書き換えてしまったようだ。
「ククク」
「ハハハ」
 この際細かいことなどどうでも良かった。征士は差し出された手を取って歩き出した。

 比較的広い、見通しの良い通りが続いていたので、ふたりはそのまま手を繋いで歩いていた。今時手を繋ぐという行為は、時代が古いような、子供じみているような、人によっては恥ずかしい行動かも知れない。けれど今のふたりの一致した意見は、
『だからいいんだ』
 とのことだった。象徴的な行動であればある程実行する価値がある。それは最初から続けられて来たひとつの美学だった。でなければ擬似体験など何も面白くはないと、何故か彼等は始めから知っていた。それ程に、現状の立場を忘れたいと思わせる、鬱屈した現実を生きているのだろうか?。
 否、鎧を負うことから来る単なるストレスだろうが。
 その時その前方に数台の観光バスと、ざわめく人の群れが見え始めた。紅葉の時期も終わり、寒さが堪え始める季節に団体旅行とは物好きな、と思えば、その集団は揃いの制服を身に付けていた。何処かの学校の修学旅行らしい。背格好からして、征士と同じ中学生のようだった。
「そう言えば君は何処に行ったの?」
 伸の記憶では夏休み明けすぐの頃に、四人の内三人が修学旅行の話題をしていた。ひとり当麻だけが、夏より前に四国に行ったと聞いていたが。
「京都に…」
「何だ、方向は違うのにおんなじだね」
 去年になるが、伸も京都へ修学旅行に行ったのだ。それを考えると、鎌倉に旅行に来るのはどの辺りの学生なのか、少々興味が涌かなくもない。伸は正面に向き直ると、目前に迫るその集団を確と捉えた。
 ところが、
「うわー、男子校かなー…」
 詰め襟の学ランが黒い壁を作っていた。よくよく見渡してみても、華やかな髪のアクセサリーや、かわいらしい持ち物がまるで見当たらない。反射的に嫌そうな顔をした伸を横目に見て、征士は息を詰めるように笑った。
「私の学校も似たようなものだぞ」
「え?」
 そんな話はこれまでに聞いたことがなかった。疑問を感じながら、伸は視線だけを征士の方に向ける。
「共学ではあるが、男子部と女子部に分かれているからな、教室の風景は大体こんなものだ」
 そして納得はできても、感情的拒絶が和らぐ訳でもなかった。
「うえ…」
 と、思わず本音が出てしまう伸。しかしそんな様子を見ても、サヨコはかわいいと感じられるのだから、征士は最早重症かも知れない。そしてだから、伸が「やめよう」と言い出す訳だ。
 否実際、ふたりの前を通り過ぎて行く学生達も、チラチラと伸の方を窺っては、コソコソ話にニヤけていた。男子校の生徒達、という条件もあるだろうが、もし伸がこの状態で学校に通っていたら、例え共学の学校でも目立つ存在だっただろう。何しろ都心の街中を歩けば、あらゆる方面から声を掛けられた記憶が新しい。
 そこで征士はまた思い立って、繋いでいた手を伸の肩に掛け、自分の方へと引き寄せた。丁度修学旅行生と一般観光客が、入り混じって通行の邪魔になっていた。それでぴたりと寄り添ってしまうと、ふたり、示し合わせたようにデモンストレーションを始めるのだ。
「何かみんな珍しそうに見てるね」
「羨ましいんだろう」
 伸は半ば寄り掛かるようにして、必要以上に顔を近付けて話した。
「でも彼女持ちだっているでしょ」
「そういう意味ではなく」
 征士はそこで言葉を切って、伸を覗き込むように続ける。
「皆が憧れるような彼女はそうそう現れないものだ」
 そして伸はお約束のように笑った。
「それを言うなら、みんなが憧れるような彼氏もなかなかいないよ?」
 笑いながら、しなだれ掛かった伸の体を受け止めるようにして歩いた。征士はもう一言、
「嬉しいことを言う」
 と加えて、満足そうに微笑んでいた。
『何だこいつら』
 黒い集団は、その間を通過して行くふたりを見て、ほぼそんな感想を持ったに違いない。ただでさえ目立つふたりの男女が、派手に仲の良い所をアピールして歩いているのだから、呆気に取られて当然だった。無論中には嫌悪した者もいただろうが、大半は羨望の念を持って見送った筈。同じ年頃のふたりだからこそ、彼等の気持は手に取るように判る。
『自分があんなにカッコ良くて、あんな彼女連れてたらなぁ』
 そしてそう思わせることこそ「してやったり」だった。
 今は正に、誰の目から見てもサヨコはサヨコだった。もうあと数カ月で十六才になる伸だが、普段は感じられなくとも、少女としても成長して来たことが窺われた。本人は意識していないとしても、こうして共に過ごしていると、板に付いた演技を追求する毎に、身なりの完璧さなど、作られた少女の人格にも厚みが増して行ったと感じる。
 人の成長とは、自ら吸収して育つ部分もあるが、他者からの恵みによって育まれる面もある。『サヨコ』というキャラクターが、会う度に魅力的に変化して行ったのは、恐らく誰かの真直ぐな愛情が注がれて来たせいだった。
 その結果として、己を蝕む幻を作り上げてしまったことに、征士は未だ気付いていないとしても。
 気付かなかった。全くの遊びで始めた事だけに、周囲の影響を受け易い性質を持ちながら、伸は戦士として存在している事実を。

 古の景観を眺めつつゆったり歩きながら、ふたりはやがて鎌倉駅の周辺へとやって来た。
 観光地ではあるが、流石に都心から近いこの町の様子は、田舎のそれとはかなり違った印象を与えていた。いわゆる土産物店、土地の工芸品の店なども軒を連ねているが、最近は『鎌倉ブランド』とでも言おうか、洒落た高級店の方が数を増している。
 元よりマリンスポーツを楽しむ若者と、遠い過去の史跡がそれとなく調和して来た背景がある。伝統彫刻である鎌倉彫の薄暗い店先を過ぎると、隣には鮮やかな原色のサーフボードが並んでいたりする。古くて新しい町、だから鎌倉の町は魅力的だと言われる。不思議な状態である筈なのに、訪れる人は何故だか安らぎのような憧憬を抱くのだ。
 新しいだけではつまらない、古いだけでは使いようがない。本来人々が求めている理想の姿は、実はこんな形なのかも知れない、とふたりは思った。
 ところで勿論、海に関する品々には、伸は無意識に興味を引かれてしまう。新市街には細々した雑貨やアクセサリーの店が、目に余る程の数で犇めき合っている。それらのほぼ全てが、鎌倉の海をテーマにした商品を置いているのだから、伸の触角が動かない筈もなかった。
 観光客とただの買い物客が入り混じる通りを、人の流れに合わせのろのろと進みながら、店の窓越しに見える、小さくかわいらしい商品を眺めていた。海洋生物のガラス細工、貝殻でできたペンダント、海をイメージしたモビールなどは、真剣に購入を考える程の物でもないけれど、伸には飽きもせず眺めていられる品物だ。
 そしてある店先で伸は足を止めた。
 ショーウィンドウの中に一際光を放つ、伸には縁のあるシャチやイルカの形をした小さな商品が、シリーズとして幾つか展示されていた。恐らくペンダントトップかチャームだろう。銀色の台の上に、透明から青のストーンを使って形作られた、そのキラキラと輝く様は、日の当たる静かな波打ち際を思わせた。
 彼は暫くそれらをじっと眺めていた。かなりお気に召したらしい。
 しかし値段が表示されていない。ふとその店を見上げると、落ち着いた印象の店の外観と共に、小さな吊り看板が目に入った。そして瞬時に理解できた内容は、ぱっと目を惹き付ける美しさには、必ずその理由があることだった。つまりその店は高級宝飾店であり、ショーウィンドウに並んだそれらの商品は、恐らくフェイクの素材ではないと想像できた。
 ひとまず、落ち着いて考えようと伸はその場を離れる。すると少し離れた場所から、ずっとその様子を見ていた征士が、何かを言いたそうに立っているではないか。
「『買ってあげよう』なんて言わないでよ?、高そうだから」
 先手を打って、伸は笑いながらそう告げる。案の定出鼻を挫かれた様子の征士を見て、伸は胸の空くような勝利を味わっていた。ふたりの間でも競い合いは続いていた。
「何故だ?」
 征士はいつものように余裕のある振りをしている。
「もう返す機会がないからだよ」
 けれど伸は、余裕の無い正論で答えるしかなかった。どう考えても万単位の商品なのだ。ところが普段なら理解の早い征士が、その日ばかりは珍しく食い下がって来た。
「そんなことは考えてほしくない、私が良いと言ったら良いのだ」
「よかない」
 しかし伸も譲ろうとはしない。
「私の愉しみを奪うつもりか?」
「そういう話じゃないの!」
 何故なら、後々残る物が増える程、忘れられなくなるような気がした。
「黙って言うことを聞いた方がお得ですよ、お嬢さん」
 が、大真面目な顔をしてそう言った征士には、思わず態度を懐柔させられていた。
「フッ、ハハハハッ…」
 笑うに決まっている。否、半分は笑いを取る為に言った筈だった。
 これまでに何度も、伸は同様の演出を見て来ているからだ。その度に、素直に乗せられるように笑っていたけれど、今の状況はそれすらも切なく感じた。
 こんな時の、故意に作った『カッコ付け』がサラリと出て来る、調子の良い征士がとても好きだった。サヨコを辞めたら失ってしまうもののひとつ。最初に一緒に出掛けた時に感じた、女の子の立場故に与えられる特権だ。それまで知らなかった彼の一面が見えたこと、新鮮で楽しいと感じる物事ばかりが、数え切れない程の記憶となって今は胸を締め付ける。
 横に居れば男として羨ましい、悔しいと常に感じながらも、伸は自分に与えられた役割を愛せていた。
 失うものを数え始めると涙が出そうになる。
 伸は、そんな思考に傾くことを振り切るように、
「じゃあ、代わりに高級なごはんでも奢ってよ」
 そう言って征士のジャケットの袖を引っ張りながら、再び歩き出した。振り返らずに。
 征士の方は、仕方なく先導されて歩くしかない。否その前に、僅かな一瞬の表情をも逃さず見ていた彼は、今伸が感じていることが垣間見えた瞬間、何も言えなくなってしまったのだ。
 全ての始まりは自分。
 始めから自分の愉しみの為に用意され、繰り返されて来た架空の恋愛。その最中に住まう間は、ただ明るい遊び心だけを感じていれば良かった。何があったとしても、自業自得で終わる事だと思っていた。それに因って自分以外の誰かが悲しむなど、考えもしなかった。
 征士は今、伸が同じ気持を共有していることを知って、ある意味では幸福も感じたが、別の意味では酷いショックを受けていた。こうして「通じている」状態は、心の何処かで暗に望んでいた結果だが、想いが叶うと引き換えに、遣る瀬なく新たな苦しみも生まれた。
 最早征士には、何もしてあげることができないと判る。
 時間がない、と伸が言ったのはいつだっただろう。
 そして、終わりを見詰めながら恋するのは、とても不健康なことだと思う。

 人出で賑わう町中の一角、確かにそこは一目で高級そうな、シーフードグリルのレストランだった。彼等はそこでやや遅い昼食を摂ったが、本来は中学生、高校生風情には少々場違いな店だ。迎えたウェイターや、カウンター越しに見える厨房のコック達も、彼等の言動には目を白黒させていた。
 無論学生にしてもまだまだ幼い年頃、ランチに付いていたワインは(仕方なく)断ったが、ふたり共食事のマナーはきちんと教え込まれていた。また、伸はこのような格式ある店には来慣れていた。征士はと言えば、人に恥をかかせることはまずしないだろう。場所に似合う会話や態度というものをいつも考えていた。
「車海老のフリカッセなんて、帝国ホテルよりおいしかった」
 などと宣われた日には、「子供の皮を被った大人ではないか」と、妙な想像をさせたに違いない。それもまた愉快な思い出のひとつ。ふたりで居ることがどんなに楽しかったか、という記憶のひとつだ。
 食事を終えた後、彼等は鎌倉駅から江ノ電に乗った。
 話には聞いていたがふたり共、この小さなおもちゃのような車両、田舎臭さではない洒落たレトロの雰囲気に始めて触れ、それぞれ何らかの感動を覚えていた。シーズンオフのこの時期は、乗客数もそれ程多くなく、海が見える方の席に普通に座って、心地良い揺れをのんびり楽しんで居られた。
 動き出してすぐの間は、線路沿いの景色はまだ、一般家屋などの住宅地が連なっている。何とはなしに車窓を眺めながら、伸は引き続き考えていた。これからこの電車は海へ行く。そこが僕らの終着点だ。海は全ての川が流れ着く場所。めくるめく景色を渡り流されて来た、抱えて来た全ての荷を下ろして行く場所。全ての思い出を置いて行く場所…。
 別れの場面には打ってつけだと、伸は頭で笑いながら心で泣いている。
 何もかも、そう簡単に割り切れるものはない。殊に楽しい時間だったのなら。

 海が見えた。
 薄曇の空の下には、鉄を流したような深く暗い海の色があった。これが夏の海だったら、何かしら楽しい想像もできたのに、と思う。
「夏だったら泳ぎに行ったのにね」
 伸が言うと、征士は些かギョッという顔をする。
「何さ?」
「え?、ビキニでも着るつもりかと」
「・・・・・・・・」
 言われてみれば確かに、サヨコで水泳は無理があるようだ。それこそ百年の恋も褪めるかも知れない。
「クククク…」
 やや間を置いて笑い出した伸に、連られるように征士も笑っていた。
 人は終わりの時が近付くと、「走馬燈のように」一生を振り返ると言うが、ふたりが乗った江ノ電の、緩やかに景色の流れる車窓には、これまで過ごした彼等の時間が、走馬燈のように映し出されただろうか。
 初めてディズニーランドに行ったこと、写真を撮られたこと、プレゼントをもらったこと、新宿でナンパに遭ったこと、お返しをしたこと、満員電車に困ったこと、無理矢理オーストラリアに連れて行ったこと、スキーをしたこと、当麻の誕生日に合わせて買い物に行ったこと。そして今日のこと、今朝のこと、先程のこと、今、こうしている時間のこと。
 ふたりは自然と寄り添って窓を見ていた。
 静かに最期の時を待っているかのように。否、銀河を走る音のない列車に揺られ、二度と帰らなくても良いとさえ思う。
 ただ心の中にだけ生きて。



 十一月の片瀬海岸は、昔の流行歌ではないが誰も居なかった。
 防砂壁の向こうに見える、海岸沿いの町からは切り離された別世界。吹き付ける強い海風が砂浜の砂を巻き上げ、空気さえ黄土色に濁って見えた。自然の脅威とも感じる冬場の砂嵐、このような光景は、海辺に住む者には別段珍しいものではない。
「冬の海って感じだなー」
 親しみを持って伸は言った。
「…そういうものか?」
 予測もできず、乱雑に煽られる髪を煩そうに、征士は手で押さえながらそう返す。
「よくわからないが、人気の無い海岸は淋しいと言うより、激しいものだな」
「ハハ、そうだね」
 この期に及んでも、征士の観察は的確だと思えた。彼は自分と違い、何があろうと感情に流れない思考をすると、伸は改めて思いながら、同時に安心した。
 風に向かって歩き出した伸は、何処か遠くを見ている。
 海岸沿いの道路を、征士よりも少し先を歩きながら伸は続ける。
「海は毎日違う顔をしてるんだよ、人で賑わってる時は気にも止めないけど、生きてるものは少しずつ変わってるんだからね」
 絶えず風に煽られる前髪の癖、横に棚引くスカートの裾が、その言葉を裏付けるように揺れていた。砂浜に重なる砂紋と同じ、風が美しい模様を絶えず生み出している、そんな時の流れを感じている。それに逆らうのは愚かなことだと、印象付けるような自然の芸術だ。
 道沿いからテトラポットに跳び移り、海を目指して渡って行く伸の後を、征士はやや気の進まない様子で追い掛けて歩いた。海星の化石のような、コンクリートのオブジェの地平線を見て、今更だが伸には海の景色がよく似合うと思った。傾き始めた陽が、赤錆色の妙な空を作り出していたが、それでも征士から見える風景の印象は変わらなかった。
 君は君の場所に帰って来たのだと。
「海はいいねー、自然が作り出す色はきれいだよ」
 独り言のように伸は繰り返している。呟くと言うよりは、叫んでいると言う方が近かった。激しい風の音と、砕ける波の音が畳み掛けるように、言葉の余韻を消してしまうから、叫んでいなければ相手に届かなかった。言葉に乗せた他の何かも、届かないように感じた。
 伸が立ち止まっていた場所に、気後れするようにして、漸く征士は辿り着いた。そして、
「奇妙な色合いだが、不思議ときれいだ」
 と一言感想を述べると、
「うん…、それはきっと、今日が終わろうとしてるからだろう」
 伸は様々な事情が混在する空の色を、そんな表現で返した。
 消える真際の命は、例えどんなものでも最大に輝くだろう。だからこそ夕陽は美しく印象的で、朝日は控え目な色に輝く。伸はそんな例を思いながら、すぐ横に居る征士に、僅かに一歩近付いて顔を上げた。
 そして、滅多にできることではないが、伸は真直ぐに征士の瞳を見ていた。嘘は吐けない、心に某かの曇りがあるなら、征士に対してまずそんな行動はできない。答を躊躇わないように、気持が揺らいでしまわないようにとの、伸の決意だった。
 彼は話し始めた。
「…この一年ちょっとの間、征士に会う度にずっと考えてたんだ。僕は、本当に女の子だったら良かったのかなって」
 伸の目に映る征士の表情は、不自然に思える程変わらない。変わらないことを確かめて後を続けた。
「それでも良かったと思う。今とは全然違う人生だったとしても、僕はちっとも構わないよ」
 征士は微動だにせず見詰めている。こんな場面に出会う度に、本当の伸の強さが見えて来るものだと、場違いな達観さえ感じている。何故なら伸は、如何なる境遇に陥っても、誰の為のどんな犠牲にも成れると言うからだ。
 だからいつも寄り掛かっていた、伸が足りない何かを他に求めるのと同じように、征士もまた何かを宛てにしていた。無論人と人の関わりとは、皆そんなものでもあるだろう。ただ、その懐に甘えている内に、征士は最も大切なことを見失っていたようだ。
 最も大切なこと、を、伸はこう言った。
「でも、もし僕が僕でなかったら、僕らは多分出遭うこともなかった」
 何の為に。
 自分の為ではない、世の中の全ての為に。
 幸福とも不幸とも今は言えないが、必要があって選ばれた存在だった。
 誰もがその五つの命のひとつ。
「だから、ごめんね」
 そして、伸の出した答は正当なものだと征士も思う。何を今更当たり前のことを言うかと、征士は無理に笑って見せようともした。
「冗談で始めたことに、入れ込む方がどうかしている」
 けれどそれは自嘲の色に傾いて行く。
「馬鹿げた話だ、私は自分で気付かぬ内に、在る筈のないものを信じようとしていた。…私は本当に、好きだったのだ」
 ククク…と苦笑いをしている征士。それもまた見たことのない彼の一面だった。だからと言って、長く見ていたくもないと伸は思う。
「僕も好きだったよ」
 全ての声が止んだ。
 在るのは彼等を取り巻く無情な風ばかり。一瞬の喜びも憂いもすぐに吹き飛ばし、偏りのない空洞であることを善しとする風。そして思考することを止めた容れ物達は、ただ今の感情だけで生きられるようになった。伸は止まっている征士の両の袖を掴み、彼の頬にそっと唇を寄せた。

 海と陸が接する方へと、再び伸はゆっくり渡って行った。
 海からの風に変わらず吹かれている。空は焦げた煉瓦のような褐色に再び変化していた。征士の視界には背中を向けたサヨコが居る。彼は動けなかった。動けない足許で泡立つ水音ばかりが耳に着いて、離れなかった。
 ひとつの存在だけでなく、積み重ねられて来た時間も想いも、海の泡となって消えるだろうか。
 きれいに消えてしまうのなら、それもいいだろう。



 翌朝。
 何事もなかったように柳生邸の一日は始まっていた。
「なー、朝メシまだー?。俺腹減って死にそう…」
 秀の情けない訴えが、久し振りにダイニングルームに谺していた。
「注文付けるなら手伝えよぉ!」
 テーブルに食事が並ぶのを待つばかりの、怠惰な様子の秀にキッチンから、わざわざ顔を出して伸はそう返す。すると白炎を連れて散歩から戻った遼が、
「伸の言う通りだぞ」
 と、明るく笑いながら口添えしてくれた。
 遼が片方の味方に付くと、途端に相手の形勢が悪くなるのが柳生邸の常だった。秀は椅子にシャキっと座り直したものの、結局何も手に着かず頭を掻いている。まあしかし、伸もわざわざ出て来たのには訳があった。手に持っていたみかんを放り投げると、それは大きく弧を描いてまんまと秀の頭に命中した。
「でっ、…何だよっ!」
「アッハハハハ」
 遼の笑い声に対して怒声を吐きながらも、とりあえず食物を与えられた秀はすぐに機嫌を直すだろう。ふたりの様子を見届けて、伸はキッチンに戻ろうとしたが、その時遼の後ろに、朝の素振りから戻って来た征士が姿を現した。今朝はまだ挨拶もしていない。伸はわざと声を張り上げ、
「おはよう征士」
 と声を掛けた。調子の狂う大声に、狐に摘まれたような顔をした征士だったが、
「ああ…」
 と一言だけ答える。信じ難いことだが征士の影は薄かった。
 昨日の様子から、こんなことになるだろうと予想できなくもなかったが、これは前代未聞の落ち込みようだった。征士は今、失恋と自己嫌悪のどん底に嵌まっているのだ。
 まあ今はそれも仕方がないと思うが、いつまでもそんな態度で居られたら、こっちもただでは居られなくなるだろうな、と伸はひとつ溜め息を吐く。
『参ったなぁ』
 荒れ野と化した夢の跡が、いずれ元の緑に蘇る時まで、結局僕の苦労も終らないと思った。

 晩秋の祭日一日だけの集合。テーブルに並んだ朝食の向こうに、変わらないナスティの姿も在る。いつもの面々が平和な一日を充分、満喫して過ごそうとしていた朝だ。その輪の中で、起き抜けの当麻と征士のふたりだけは、別次元に居るようだった。
 パンの皿を前にして、先程から当麻はテーブルに伏せたままぴくりとも動かない。
 横から秀が、
「寝るのか食うのかどっちかにしろよ!」
 と彼の頭を軽く小突くと、一瞬スイッチが入ったように顔を上げたが、また伏せてしまった。
「ほっとけよ」
 伸が諦めてそう言った後は、誰も当麻を気に掛けはしなかったけれど、ただひとり、食の進まない征士だけが、向かいに座るだらしない輩を観察し続けていた。そして遂ぞ恐ろしい光景を目撃することになる。
 当麻はほとんど眠りながら、手も使わずに器用にパンをかじっていた…。
「ギャッハハ!、寝ながら食ってるよ当麻!、マジでマジで」
 秀の爆笑と共に、皆がその『珍しい動物』を覗き込んでいた。大方柳生邸の朝はこんなバカ騒ぎの内に過ぎて行く。しかし征士には全く笑えなかった。
『お伽話の多くは、元は悲劇的な結末が多いが、これではまるで喜劇だ…』

 結末は、語り部によって変わることもある。
 今は悲しみしか見えないとしても、いつかこの思い出に慰められることもあると、信じて待つとしよう…。



終(一応)





コメント)という訳で、一年おつき合いいただいたこのシリーズもこれでおしまいです。はぁ〜、しんみりしちゃいますね、別れて終る話とゆうものわ…。ドタバタだっただけに。
実はまだ少し続きがあるんですけど。タイトルはなんと「高校生日記」!(ヒネリがない)。これまでの話の一応続きなので、もうしばらくおつき合いくださいっ。その前に番外もあります。
そう言えば、童話タイトルをずっと使って来ましたが、「人魚姫」と言うタイトルでは話が違うし、その英語タイトルは長いので、昔あった人魚映画のタイトルを拝借しました。ダリルハナーがかわいかったなっと。




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