出社前
SOUND OF THUNDER
サウンド・オブ・サンダー



 六月某日。
 東京の今年の梅雨入りは早かったが、毎日グズグズした天気が続き、本格的な雨降りの日はあまり無い。その日も空にはどんよりした雲が掛かり、すっきりしない薄暗い朝を迎えていたが、昨日に比べ湿度は多少低いようだと、鉢の水やりをしながら伸は思っていた。
 会社へ出掛ける支度を始めた征士に、
「今日もあんまり天気良くないけど、雨は降らなそうだよ」
 と声を掛けると、彼は一言、
「そうか」
 と言って窓の外を軽く一望した。鼠色にくすんだ建物の屋根屋根や壁の色が、この時期は普段に増して暗く沈んで見える。都心と言っても青山や松涛のような、閑静な住宅街なら美しさもあろうが、ふたりが住むマンションは所謂ゴミゴミとした市街地の一角に在り、新しい建物から戦後すぐに建てられた古い住居まで、様々なものが混在する地域だ。そんな決して美しいとは言えない町並みは、ある意味正しい東京の姿でもあるが、この時期の空模様が落とす色彩に染まると、酷く気が滅入ることもあった。
 征士は嘗ての自身を回想しながら思う。あまり東京に縁のない地方の若者は、テレビ等に映される東京のきらびやかな商業地を見て、それが東京だと認識し憧れる者が多い。しかし実際その真ん中に住んでみると、その土地の下に積み重ねられた歴史の、業の深さを感じるからこそ首都だと思う面も出て来る。
 マンションから少し歩くと、奇跡的に空襲から焼け残った一角があり、そこには江戸時代から続く伝統的な、東京風のアンコウ鍋の店がある。第二次世界大戦での大規模な空襲は、まだそこまで昔の話ではない。当時を憶えている人もまだ存命しているが、建物はそれ以上に歴史を語っている。
 その前に関東大震災もあったが、江戸時代には大火災が多く発生し、その度江戸の町は燃えて再建を繰り返して来た。江戸城の天守閣も火災で失われたが、市街地の再建の為の財政難により、天守閣を再建することができなくなったと言うのは有名な話だ。
 そうした災難が降り掛かる度、一部の人々は、江戸は呪われた土地だとして祈祷などを続けて来た。東京を始め関東の幾つかの場所には、平将門の霊を鎮める為の供養所が存在する。果たして千年以上昔の人物の思いが、現代の町にまで影響するだろうか?、とも思うが、信じる者が居るからこそ平将門の伝説も生き残っているのだと思う。それだけ関東の歴史には何か、大昔からの暗い因果が感じられるのだろう。
 そもそも徳川家康が武蔵国にやって来たのは左遷だった。彼が江戸の町を造成し始めた頃から、四百年の時が過ぎたが、当時の東京は基本的なインフラすらない、全く未開の土地だった。そう考えると、全て敗北から始まった東京と言う土地の、薄暗い、先行きの怪しい成り立ちが見えて来る。天気の悪い日の都心の景色は、正にそんな心許ない気分を齎してくれる、と征士は思うのだ。
 だが何処の国に於いても、首都の町とはそんな影と光を有するものだ。パリもそうだろう、ベルリンもそうだろう。活気ある首都の町が存続するその裏には、数々の歴史的事件があり、それがまた町の魅力であり、活力となって行くものなのだろう。過去の事件は決してそれだけに留まらない。後に新たな花を咲かせる切っ掛けとなるのだから、一時的な重い気分は明日への希望と思わなくては。
 今朝のこの、どんよりした雲もいずれは晴れる。梅雨は必ず終わると判っているのだから、今は堪え所だと征士は気分を切り替えこんなことを言った。
「でも一応用心しておくかな」
「え、何?」
「いや、靴に防水スプレーをしておこうと」
 雨は降らなそうだと伸は言うが、正に天気こそ予想外の展開になり易い事象だ。晴れてくれれば幸いだが、万一のことを考え用心するのもその後の幸福の為。何事も因果応報の言葉通り、注意深く準備しておくのは良い事だ。そんな征士の行動を見ると伸は、社会人の身だしなみが板に付いている様子を、
「ああ、感心感心。実に一流のビジネスマンらしいね」
 と冗談混じりに誉めた。すると征士も作った顔で一度振り向き、
「そうだろう?」
 と笑って見せた。笑っていた理由は以下の通りだ。
「ま、十五万したオーダー靴だから、つまらん事で傷ませたくないだけだが」
「それもわかってるよ」
 天気は冴えないけれど、そうしていつものように笑い合う朝であったから、征士は今日もいつも通り仕事に出て行ける。世の中に不快な事は様々存在するが、日常の小さな幸福こそが、家であり国であり、世界を支える屋台骨であると、今は疑いようのない朝のひとときだった。できれはそれが己だけでなく、己の大事な人とも共有できる感覚であってほしいものだ。と、征士が思うともなく思っていると、
「ああ、でもどうしようかなぁ」
 何故か伸はそこで溜息を聞かせた。
「何が?」
「何がって六月じゃないか、もう君の誕生日まで一週間しかない。今年は何しようかなと思って」
 そう、征士がぼんやり空模様を気にする傍、伸の方はそれどころでない大事な行事に、毎日頭を悩めていたようだ。まあ子供の内ならまだしも、いい大人になって自分の誕生日を意識し、指折り数えて待つようなことはないのだから、征士が意識していないことは責められない。だが祝う側に取ってはとても大事な事だった。何故なら伸の誕生日は、いつも征士が気に掛けて祝ってくれるのだから。
「忙しいなら外に出てもいいぞ?」
 と征士は言うが、伸の悩みは時間的な点ではないらしい。
「それじゃ君のお祝いにならないじゃない。前はそうだったけどさ、折角僕が家に居るようになったんだから、君の希望通り、僕が気持を込めて何か作ってあげたいんだよ」
 征士が一番喜ぶものを作りたいと言う、伸の希望に合う良いメニューが思い付かないのだ。勿論季節柄調達が難しいもの、時期外れで美味しくないものは作れないし、そもそも征士にはこれと言って、特別執着するような食材が存在しない。苦手なものは多少あるが、基本的に何を食べても、調理法が良ければ美味しいと言う人間だ。だから意外にお祝いのメニューは難しかった。
 否、征士のことだ、もしあまり好きじゃない料理が出て来たとしても、伸が誕生日にせっせと作ってくれたとなれば、美味しいと言うに決まっている。だからそこまで征士の好みを追求する必要はないように思うが、伸はそれでは納得しなかった。本心から美味しいと言ってくれなければ嫌なのだ。
 伸のそんな完璧主義な性格はよくよく判っている。なので征士は、
「それはまったく有難い心掛けだが、あまり根を詰めるなよ?」
 と、やんわり諭すように伝えるが、伸の気持はとてもそれでは収まりそうになかった。
「根を詰める程の事じゃないよ、たかが二人分の料理じゃないか」
 普段に増して語気が強い。やる気があるのは結構なことだが、征士としてはそんな事に、そこまでエネルギーを注ぎ込むこともないだろう、と言う気分だった。そんな時ふと伸が、過去の何かを思い出したように言った。
「そう言えばさあ?、前に何処かで食べたキャビアのお寿司が美味しかった、とか言ってなかった?」
 それは会社のお得意様である、某企業の幹部に食事を御馳走になった時の話だ。無論征士だけでなく数人が招かれたのだが、有名ホテルにある高級寿司店で、珍しいネタを色々食べたと言う話題のひとつだった。
 キャビアの寿司は確かに美味しかった。だが征士は返事を言い淀む。
「ああ、まあ…」
「まあなの?」
「いやそんな物無理に買って来ることはない。接待で行った店で一貫出て来ただけだ」
 どうも征士は、その高価なばかりで無駄に思える食材を、わざわざ買ってほしくはないようだ。店のコースメニューなどに、少々乗っている程度なら大した値段ではないが、ひと瓶、或いはひと缶買うとなると、そこまで食べたい物でもないのに、との思いが込み上げて来るようだった。
 だが伸は、これと閃いたからにはなかなか引かない。
「でもさぁ、美味しかったんなら一度作ってみたしいさ」
「どんな寿司だったかなんて忘れたぞ?」
「そこは僕がちゃんと考えて作ります!」
 そう言われてしまうと、征士としては返す言葉がなくなってしまった。伸が作るものが不味い訳はない。その点には絶対的な信用があるので、他に言えることと言えばただ、
「うーん…、ふたりで少し食べる為にひと瓶買うのは勿体無い気がするがな」
 大人数のパーティならまだしも、と言うごく普通の感想だけだった。それについては伸もやや思う所があるようで、
「まあちょっとね。基本的には添え物だし、グレードの低い奴はあんまり美味しくないかも知れないし、いいのが見付かったらってことにしようかな?」
 と返した。確かにキャビアキャビアと騒ぐ割に、それは決してメインでガツガツ食べるものではない。アクセントとして使うだけの塩辛い食品だ。また確かにグレードによってかなり味が落ちる。美味しく作ろうとしても元が美味しくないのでは、高い買物をする意味がなかった。
 さて、それらのことを考慮した上で、伸は今年は何を作ることになるだろうか?。今のところまだ何も決定していないが、征士がチラと時計を見遣り、
「ではそろそろ出掛けるか」
 と言うと、伸はくるっと気分を換えて快く彼を送り出した。
「ん、気を付けて行ってらっしゃい♪」
 悩み事にも様々な種類があるが、結局伸がそんな態度でいられるなら、それは幸福な悩み事に過ぎない。征士は変わりない伸の笑顔を見ると、安心して玄関に向かうことができた。

 彼は一度玄関に座り、前に話したように靴箱から防水スプレーを取ると、大事な靴に丁寧にそれを吹き掛けた。女性と違い男性の身に着けるものは、ほぼ型が決まっていて装飾的な部分が殆ど無い。だからこそ靴、鞄、腕時計など、実用的な物にこだわりを持つようになる。征士がこの度初めてオーダーの高級靴を作ったのも、まあ自然な成り行きではあった。
 会社社会ではよく聞かれるように、面接等ではまず靴を見ると言う。また健康上の理由からも、足に合った靴を履くことは大事だと言う。故に靴にこだわりを持つのは良い事だ。征士もそれを理解しての買物だった為、とても満足している様子だ。
 満遍なくきれいにスプレーをかけたところで、彼はスプレー缶を靴箱に戻そうとした。と、その時、
『ん…?、何かある?』
 彼の目に一瞬、何かがキラッと光る残像が見えた気がした。マンションに据え付けてある靴箱は、下に五センチほどの隙間があって浮いているが、本来は光が入らない為、下に落ちている物を見ることはできない。今は偶然扉を開けており、征士も姿勢を低くしていたせいか、最下段の桟の隙間から何かが見えたようだった。確認の為その辺りを覗き込んでみると、確かにチラチラと光る物がそこに在った。
 なので征士はその隙間に手を入れてみたが、
『うーん、無理だな』
 ある程度奥の方にそれはあるらしく、届きそうで届かない。無理をしてスーツの袖を汚してしまうのも面倒なので、丁度使おうとしていた靴べらを手にし、水平にして差し入れてみた。ところが、
『しまった、もっと奥に入ってしまったぞ』
 どうも勘が悪く、靴べらに当たったそれは更に奥へと転がって行った。征士は何とかそれを手前に引き寄せようとするが、形状のせいか思うように動いてくれない。二、三分そこで格闘したところで、時計を見るともう出て行かなければならない時間に達しようとしていた。
『まずいな、こんな事をしている場合ではないのだが』
 いよいよとなったら伸に声を掛けて行くが、征士はそこで最後の手段として、傘を持ち出し横に掻き出す作戦に出た。ゴルフのスウィングの要領で、上手く当たれば出て来てくれそうだが、また更に変な方向に行ってしまったらタイムオーバーだ。伸に余計な作業をさせない為にも、征士は集中してその作戦に能った。隙間に差し込んだ傘の先端が、その物体に触れているのを確認すると、反動を付けて勢い良くそれを打った。
 すると、見事にその物体が弾き出され、玄関ドアに当たって止まった。作戦成功にホッと一息吐いた征士が見た物は、銅メッキの台にガラスか何かが埋込まれたボタンだった。
『見慣れないボタンだな?、伸の服のものだろうか?』
 苦労して拾い上げた物だから、本当ならじっくり観察したいところだったが、既に家を出るはずの時間を過ぎている。征士は気になる気持を振り切り、それを棚の上に乗せて出掛けて行った。伸なら何も言わなくとも気付いてくれるだろう、と、その点には何も心配は要らなかった。



 それから二時間程経った頃、征士の思惑通り伸は玄関の異変に気付いていた。彼はいつも一通りの家事を済ませると、玄関横の仕事部屋に移動するので、その時玄関の汚れ等をチェックするからだ。
「あれ?、何でこんな所にボタンが置いてあるの」
 しかもそれはとても目立つ代物だった。平たい貝ボタンなどはあまり主張しないが、遠目では一見鈴のようにも見える金属の盛り上がりと、ターコイズ色のガラス質の物が、差し込む光を反射して重厚に光っていた。伸はすぐにそれを取り上げると、しげしげと眺めてみるが、
『えー、何のボタンだろ?。僕の服にこんなの付いてたかなぁ?。征士のかなぁ?』
 見れば見るほど謎めいた物に思えて来た。それはとても凝った造型で、ガラスを八の字に包んでいる金属はロープ、その途中に船の碇とサソリが付いているデザインなのだ。糸を通すボタン穴にまで、細かくロープの彫刻が施されていた。手作りとまでは思わないが、何処かの店のオリジナルの特殊なボタンだと思った。
 それだけに、自分の持ち物かどうかは判別し易い筈だが、伸は少しばかり迷っている。このデザインが自分の趣味に合うことから、もしかしたら自分の服のボタンかも知れないと疑念を消せない。それなりに服持ちでもある彼は、ひとつひとつの服に付いているボタンを、確と憶えているか自信が持てなかった。
 さてどうしよう。
 ただ、今は取り敢えず仕事の時間だ。別段忙しい時期ではないが、ボタンひとつで生活サイクルを乱すのは良くないと考え、
「後で調べてみよう」
 と、伸は置いてあった元の場所にそれを戻し、仕事部屋に入って行った。

 行ったのだがやはり何か気になる。伸は一度パソコンを立ち上げ、今日処理する分の伝票類のファイルを手に取ったが、どうにも仕事をしようと言う意欲が湧かなかった。頭の中にあの印象的なボタンのイメージが染み付き、今すぐ宝探しを始めないと気が済まない気分になっていた。何がそうさせるのか判らないが、とにかく気になるボタンなのだ。
「何か気持悪い、やっぱり今確かめよう!」
 遂に伸は、仕事を始める前に席を立ってしまい、一度戻したボタンを手に取ると、クロゼットのある寝室の方へ勇んで歩き出した。何が何でも短時間で事を解決するつもりだ。
『形からしてジャケットとか、外に着るもののボタンだろうし、そんなに時間が掛かる訳じゃない!』
 そう、そんな予想はすぐにできる物だったので、伸はすぐ出所探しに着手した。無論伸も征士も、クロゼットの中はいつも整頓されているので、気が重くなることもなかった。
 まず、伸は自分のクロゼットを開けてみた。そこですぐ気付いたことは、拾ったボタンのような大きなものは、通常厚手のコートなどに付いている点だ。今は六月、既にそんな服は着なくなっており、クリーニングから戻って来たものを、専用カバーに掛け換えて収納してある。今頃ボタンが落ちているのはおかしなことだった。
 だが一応それらをひとつひとつ確かめ、同じボタンがあるかどうか調べて行った。またある程度薄手のジャケット類も一応全て見てみたが、結局同じ物は存在しなかった。
 自分の服じゃないと判ると、今度は征士のクロゼットを確かめに行った。征士の衣類は伸に比べとても単純で、ビジネススーツの他も変わった形のものは少ない。なので伸は、綺麗に並んだコートやジャケットを一通り見ると、すぐに該当しそうな服は無いことを知った。
「違うな…、無いな?。今日着てった服か?」
 と、一度は考えてみたものの、それならボタンが取れたことに気付きながら、仕事に出て行ったことになる。社会人としての身なりに特に気を付けている征士が、それはないだろうと思った。大体、
「いや、こんなのスーツのボタンじゃないし」
 最初からそれは判っていた筈だ。では何から?、いつ?、このボタンはこの家に紛れ込んだのだろうか?。自分の持ち物じゃないことは判っても、謎は深まるばかりだった。
「誰か落としてったのかなぁ?。誰かっても、最近コートを着て来た人なんて居ないし…」
 この玄関には伸と征士の他に、外部の人間もある程度出入りしている。無論宅配サービスなどのお届けもあるが、伸に仕事を依頼しているお客様もやって来る。可能性としては、制服を着ている業者より、自由な格好の伸のお客様の持ち物である確率が高い。また伸は、ボタンが靴箱の下にあったことを知らないが、そこは週に一度は掃除している為、この一週間ほどの間に来た人物に限られるのだ。
 ただ、伸の言う通り既に、厚手のコート等を着る季節ではない。果たしてそれは何処に付いていた物だったのか、今のところ全く予想が付かなかった。
「まあ…しばらく玄関に置いておこうか。探してる人が偶然来るかも知れないし」
 家中探し回り、色々考えてみたけれど、結局そのボタンは元の棚の上に戻されることになった。伸としては気になる物は、早く片付いてほしいところだったけれど…。



 その持ち主は彼の希望通り偶然現れた。否、その日の午後にマンションの管理人が、預かってくれた書留を届けてくれたのだが、その時ボタンを見て「探している人がいた」と言うので、それかどうかは判らないが一応渡すことにしたのだ。
 持ち主は管理人にボタンの紛失を話すくらいだから、余程大事にしていた物なんだろう。そう思うと、些細な出来事だが良い事をしたと伸は思った。無論その前に征士の努力があってのことだったが。



 以来、ボタンのことは忘れ去られ、思い出すことはなかった。



 六月九日。
 征士が仕事から帰ると、ここ数年の誕生日はいつもそうであるように、テーブルの上には様々な料理が並んでいた。が、その真ん中に蓋で隠されたひとつの皿がある。いかにも勿体振ったその様子は、伸のことだ、何かのサプライズを用意しているのだろうと征士は思った。全ての準備が整い、ふたりが席に着くまで秘密にされていたその蓋を、
「ジャーン!」
 と、伸が効果音付きで持ち上げると、案の定その料理を見て征士は目を点にした。嬉しいと言うより多少困惑した様子だった。
「…やっぱり作ったのか」
 その感想通り、征士が難色を示していたキャビアの寿司だった。勿論征士が以前食べたものとは違うが、伸が考えたキャビアとスモークサーモン、アボカドソースの乗った寿司は、それはそれでとても美味しそうに出来ていた。
 否、この場合の問題は味ではない。毎年来る誕生日ごときで、変な無駄遣いをさせてしまったら申し訳ないと思う。ところが伸は、
「これは君の行いが良かったせいだよ!」
 意味ありげにニコッと笑ってそう伝えた。良い行いと言われても、最近伸に対して特に何をした記憶もない征士は、
「は?、何だ?」
 と、まるで思い付かない様子だ。それもその筈、思わぬ事が思わぬ展開へと転び、普通は繋がらない結果を予想しろと言う方が無理だ。すると伸はその経過を楽しそうに話した。
「こないだ君、玄関でボタンを拾っただろ?。あの持ち主が判ってさ」
「ああ…、すっかり忘れていたがどうしたんだ、あれから」
 征士は本当に、言葉通りすっかり忘れていたのだが、伸はその日、征士が玄関で何かモタモタしていることには気付いていた。だからボタンを棚に置いたのは征士だと、すぐ理解することができたのだ。そして、
「あれ、僕の所に来たお客さんの物だったよ。何のボタンかと思ったらバッグに付いてたものだって」
 季節外れのような謎めいたボタンの理由が、すっきり解明されたことを話した。
「成程…、今頃の服にしては重過ぎると思った」
「だよね!」
 聞けば確かに、皮などを使ったバッグの装飾なら、大振りなことも納得するし、デザイン自体は今の季節にも合っていた。服だとばかり思っていたが、ボタンはバッグや帽子、稀に靴にも使われていることを、その時は思い付かなかったと言う笑い話だ。
 だが、そのボタンが特徴的な物だったが故に、無事持ち主の元に戻されることになった。それはこんな話だった。
「それでね、何か理由があって大事なバッグだったから、取れたボタンをずっと探し回ってたんだって。もう替えのパーツが製造されてないらしくて、相当必死だったんだろうね。渡しておいた管理人さんが連絡したら、横浜にいたのにすっ飛んで来たって」
 因みにそれは四十代くらいの女性だが、伸がそのボタンに気付かなかったのは、常に黒づくめの服を着ている変わった人で、服の方の印象で憶えているからだ。持ち物もいつも変わった物を持っていて、ぼんやりお洒落な人だとは思っていたが、一度持って来ただけのバッグの細部までは観察していなかった。逆に今思えば、変わったお洒落アイテムを持っていそうな人は、その女性くらいしか思い当たらない。もう少しよく推理すれば良かったと、伸には少し残念な結末でもあったけれど。
 終わり良ければ全て良し。心に一抹の無念を感じても、それを遥かに超える喜びがやって来るなら、既にどうでもいい事だった。
「で、一昨日お礼ですって、デパート商品券もらったんだよね」
「それがキャビアに化けたのか」
「その通り。商品券一万円と、それに一万五千円足して二万五千円のキャビアを買った訳。そのくらいの値段の物なら不味いってことないでしょ」
 こうして、当初の伸の思い付きのまま、キャビアの寿司が実現したのだった。果たして征士と伸、どちらに幸運があったのかは判らないが、誕生日にまつわる面白い出来事として、記憶に残りそうなこの六月の幸運は、キャビア以上に価値あるものにはなっただろう。
 そして、その切っ掛けとなった朝を征士は回想する。
『そうか、あの日いつもの地下鉄に乗り遅れたんだ。遅刻するほどではなかったが、少し慌ただしかったんだよな』
 また更にその朝は、東京と言う町の深い因果について考えていたことも思い出した。東京がこれだけの首都になったことは、徳川家康が豊臣家に不興を買い、当時の田舎に追い遣られたことから始まる。勿論家康は、どうにかその土地を良くして行こうと努力したが、まだその開発当初の時点では、家康が天下を取るかどうかは判らなかった。その確証を持てる者は誰も居なかった。
 しかし江戸の町は、当時の世界全体から言っても大都市に成長した。幾度も焼け野原になりながら、戦後も首都の大都市として在り続けている。考えてみれば不思議なことだ、後に大阪を超える都市になると知りながら、家康に武蔵国を与える訳もなく、関西に比べ災害も多いこの土地が、何故こんなに繁栄することとなったのか。
 だが意外にそれは、転がった賽の目がどう出るかと言うだけの、単純な始まりだったのかも知れないと今は思う。何故なら正に、転がり出た一個のボタンの為に、我々に思い掛けない贈り物がやって来た。始まりは多少不運な出来事も、後々どうなるかは予測できないものだ。
 だから単なる日常生活も、常に注意深くあるべきだと、征士はそこで漸く自然に笑えた。
「些細な事で幸運が舞い込んで来ることがあるものだ」
 と言うと、伸は彼にチラと目配せしながら返した。
「だよ。思うに君の目が良かったからだろう」
 すると、無意識にそうした伸の仕種が、何故か征士には印象深く映ったようで、暫し無言でじっと伸の顔を見詰めていた。それを、
「何?」
 と問い掛けると、征士はこれまで口にしたことのない、とても些細な悩み事を伸には話した。
「目を誉めてくれるのは嬉しいね」
 ああそう言えば、昔征士は人から目が怖いって言われて、片目を隠すようになったんだって言ってたっけ、と、伸はかなり懐かしい話題を思い出す。まさか今もそれを気にしているとは思わなかったが、一度指摘された弱点は、後々いつまでも憶えているものかも知れない。それならもっと、いつも誉めてあげれば良かったと伸は少しばかり後悔した。
 でも今よりもっと、感じるまま思いを伝えられるようになったら、僕達にはまた新しい歴史が始まるかも知れない。
 と考えると、
「何だ、そんなこと口に出さなくても、わかってると思ったのに」
 伸はそう言って、今度は真直ぐに征士の瞳を見た。彼の目に映る伸の表情からは、確かに言葉は無くとも、無条件の愛情を感じている心が見えるようだった。敢えて言うことはないが、君の優れた部分は全て憧れであり好きだと。



 因みに、伸の作ったキャビアの寿司はとても美味しかった。









コメント)色々あってなかなか書きはじめられず、間に合うかどうか心配してたんですが、どうにかお誕生日にupできて本当に良かったです(^ ^)=⊃。元々書こうと思ってたネタとは、違うものに変更しちゃったんだけど、こっちの方が話がまとまってて自分で良かったなと。
尚、タイトルは同名の映画から取ったんですが、こういう、過去の小さな出来事が大惨事に発展する系の話は、他に「バタフライ・エフェクト」と言う映画も知られてます。んーでも、私はもっと古典的な「タイムマシン」とかの方が好きですかね。



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