未来を走る
高校生日記
卒 業
Graduation



 今年も普通の顔をして三月は来やって来た。

 三月の行事と言えば元々、仲間達の間でも色々なものがあった。誕生会、お花見、卒業式に引越しなど。けれど、今年は伸の誕生日にも、進学する仲間達それぞれの引越しにも、まだしばらく間がある三月頭に、伸のスケジュールには予定が入っていた。
 その日、伸の住む都内のマンションのガレージには、一際目を引く車が到着していた。
「あっ!、テスタロッサだ、テスタロッサ!、どうしたのこれー?」
「借りた」
 連絡を受けてそこに降りて来た伸は、その数千万もする赤い車体を見るなり、喜々として騒ぎ始めた。写真で見るならともかく、実物を拝む機会はそうそうない高級車。今日はそれで、ドライヴに連れて行ってもらえると言うのだから、嬉しいに決まっている。
「えー、高校生に貸してくれるなんて、親切な人がいたもんだね〜」
「学校の近くの中古車ディーラーが、偶然置いていると聞いて。何とか頼み込んで貸してもらったのだ」
「へぇ、頼んでみるもんだ!」
 運転して来た征士は、昨年の夏に免許を取ったばかりだが、無論車の値段にもの怖じなどすることもなく、仙台から東京まで普通に乗ってやって来た。恐らく中古車ディーラーも、彼の運転技術を見た上で、貸す気になったのだろうと思われる。
 この年、伸を除いた四人も遂に大学生になる。ほんの数年前までは、まだまだ子供の部類だった少年達も、これからは皆独立して、それぞれの行く道に進んで行くことになる。今は懐かしいとも言える戦いの記憶、その周囲に鏤められた思い出の数々。様々な場面、仲間達のこと、個人的なこと、それらは確かに今へと繋がっているけれど、同時に不思議な気持も感じさせていた。
 あの僕らが、何事もなく大人になる時が来るとは、考えられなかった。
 否、伸はそう思っていたが、大学に入っただけで大人と判断するのは、些か尚早かも知れない。戦火を潜り抜けて生き延びられた、と言う意味なら確かにそうだけれど、まあ、彼が現在の平和な状況を喜んでいるのは間違いない。何はともあれ揃って高校を卒業する、それが今は何よりの朗報だった。
「何だぁ、折角家の近くにフェラーリが来たのに、離れるのが勿体なくなっちゃうね?」
 そう言いつつ伸はいそいそと、曇りひとつ無く磨かれた車のドアに手を掛ける。運転席の方へと回って歩く征士は、
「まさか。車一台と人生を引き換えにはできん」
 冗談は止せ、と言う調子で伸に答えていた。比較は多少大袈裟だったかも知れないが、勿論単なる商品と、東京の大学に通うことを天秤に掛けるのは無理がある。そもそも車は借り物なのだ。
 まあ、そんなことは解っていての冷やかしだろう。
「ハハハハ」
 やや無責任な様子で笑っている伸は、中古とは言え高級な皮張りのシートに膝を掛け、乗り込む前に車内の様子をぐるりと観察していた。明らかに普通乗用車とは違うデザイン、独特の車高の低さと計器類、イタリアの、それも特権的な者しか乗れないスポーツカーの内装は、充分に伸の関心を惹くものだった。
 征士でなくとも、誰でも一度は触れてみたい高級車の印象は…。
 とその時、
「あ…。…ちょっと待っててくれない?」
 車内のあちらこちらを見ていた伸が、突然何かを思い出しその場を離れる。
「ああ…」
 部屋へと戻るエレベーターに飛び乗り、軽やかな様子で行ってしまった伸を、まだ車の外に居た征士は奇妙な思いで見送った。
 今日はちょっとしたドライヴと言うだけで、大した行事じゃない、重要な忘れ物があるとも考え難かった。それより、出会い頭からずっと浮かれた調子の伸が、今突然表情を変えたのが気になっている。悲しい、辛いという雰囲気ではなかったが、何故だか身に詰まされるようだと、征士には感じられた伸の様子…。
 それから、五分程で彼はそこに戻って来た。
「ごめん、行こう」
 多少済まなそうに走って来た伸に、特に変わった点も見付けられなかった。先程までと同じ服、同じ靴、車内に置いて行った鞄の他に、新たな持ち物も特に増えていない。髪などに手を入れた感じもしない。一体何をしに戻ったのだろう?。
 と、征士は助手席に乗り込んだ伸を、暫し疑問に思いながら見ていた。その視線に気付くと、
「大したことじゃないよ、気にしないでいい」
 伸はそう答える。本人がそう言うならと、構わずブレーキを外した征士だったが。
 否、気にするなと言われ気にせずにいられることと、そうでないことがあるだろう、と征士は考えている。伸はしばしば大事なことを、己の内だけに仕舞い込む時があると、最早仲間の誰もが知っている。言わずもがな、それは自分以外の誰かを苦しめない為にだ。
 そしてこの場合、自分に対する気遣いだろうと察しが付くので、征士が気にならない筈もなかった。さて、ドライヴに関係のあることで、己が苦しむような事情とは何だろうか…?。



 三月初旬の、外の空気はまだ充分に冷たかった。車の窓は締切っていても、冬が明けたばかりの乾燥気味の外気が、それとなく肌に冷たく感じられる。これからふたりの乗った車は、竹橋から首都高に入り、東名高速に入って伊豆方面に向かうことになっていた。行き先は特にこだわりがあった訳でなく、「何処か」と言った征士に、伸が提案しただけのことだった。
 車窓に桜の花のひとつも見えない。春の行楽としてはまだ成立しない、かなり半端な時期の昼間のドライヴ。大体、卒業式と引っ越しを控え、征士はこの時期かなり忙しい筈なのに、何故こんな思い付きの行動をしたのだろうか。
「でもいいの?、今頃。どの道もうすぐ東京に来るのに、直前に遊び歩かなくても」
 それなりに順調に一般道を進む中、伸はそう話し掛けた。
「歩いていないだろう」
「車だからな、とかそう言う意味じゃなくて!」
「ハハハ」
 しかし征士の方は、特に無理をして出て来た様子もなく、伸の小言にまともに答えない程度に、機嫌の良い状態だった。そしてその理由は、聞いてみれば簡単なことだった。
「滅多に乗れない車だから、今を逃すのは勿体ないだろう」
 前途の通り、征士はもうすぐ実家から引越してしまう為、折角地元で見付けたこの車に、乗らずに居るのは惜しいと思ったようだ。本格的な慌ただしさに突入する前にと、この日を指定したに過ぎなかった。そして訳を聞けば伸も、
「そうだねぇ、フェラーリは君の憧れだからね」
 その理由はあまりに征士らしいと、笑いながら相槌を打つのだった。
 幼い頃にはレーサーになりたかった、そんな彼がその代表格であるメーカーの、真っ赤な車体に憧れるのは当たり前だ。今こうして乗っていても、確かに夢見るだけの価値がある車、だと伸は普通に思えている。小さな男の子はその多くが、大型の乗り物、動力に関心を向ける傾向があるので、極々一般的な発達過程を辿っている。今は少々変わり者の征士だが、その始まりは至って普通だったのだ。
 ごく普通に基礎が築かれたから、彼の根底に歪んだ部分は存在しない。それをよく表している「フェラーリ」だと伸は思う。
 ところが、
「今はそこまでのこだわりはないが」
「あれ?、そうなの?」
 今に至って、熱望する程ではないと征士は言い出した。過去の彼の発言を思い返せば、何らかの心境の変化があったのではないか、と無闇な憶測もしてしまう。何しろ、征士は本当にレースカーが好きだったのだ。
 なので伸は考える。何か思い当たるような事件、節目となる出来事等があっただろうか…?
「ああー、そっか!。つまり今日は『卒業旅行』みたいなもんなんだ。だから僕を誘って、過去の自分を卒業しようって感じだろ。ね、当ってるだろ?」
 と、伸は思い付く言葉を次々捲し立てていた。恐らくそれに違いないと、ある程度確信を持ってのことでもある。なので、その様子は厭味なほど溌溂としていた。対照的に征士が黙ってしまったのは、そんな伸に引いているのか、図星を指されて言葉を失ったのか、返す言葉を選んでいるのか、正確なところは端からは判らなかった。
「・・・・・・・・」
「あれ〜?、何で答えないのかな〜?」
 そして伸はどうやら、この状況が面白くて仕方ないようだ。恐らく、征士が今日のドライヴを提案した時から、何らかの形で、昔のことをネタにしてからかってやろうと、楽しみに待っていたのではないか。そうでなければ、一年近く間の開いた再会に、喜色満面の様子で現れる理由もないだろう。
「今日は随分と調子がいいな」
「ハハハハ!、だって君をからかうの面白いんだもん」
「あのなぁ、」
 案の定、と言う理由を聞かされた上、征士は更に困った話を耳にする。
「だってさ、これまで物凄く気を遣ってたんだよ?、僕は。深刻な顔されると意地悪できないしさっ、この日が来るのをどれだけ待ったことか」
 それは皆征士の自業自得ではあったが。
 そう、一風変わった思春期のごっこ遊びに、一方的にのめり込んでいた征士に対し、伸はその真直ぐな思いをただ、受け止めるだけ受け止めていた。彼は征士の意向に合わせただけで、他に大したことはしなかったけれど、決して悪い感情ではないと解っていたから、征士に取ってマイナスとなる思い出にならないよう、いつも考えて行動して来た。
 それが勿論自分の為、自分達の未来の為にも、何かしら良い絆になると思っていた。そうしてずっと、鎧と言う存在が手から消えてしまう頃まで、伸は征士に会う度、話す度に酷く気を遣っていた。征士が征士らしく前に進めているか、いつも注意して彼の変化を見守っていた…。
 だから征士自身、自業自得は判っているのだが、
「敢えて言わなくてもいいだろう」
 今の伸の反動的な、底意地の悪い言い回しに対し、征士は空いている手で物理的阻止に出ようとした。言葉で反論しても、この件について強く出られないと征士は知っている。ならば、次々とからかい半分の言葉を繰り出す、伸の口を塞いでしまおうと思った。思ったと同時に、腕を延ばし体を傾けた征士。
 しかし、
「!」
 その手から逃れようと、身を引いた伸のシャツの襟の中に、ある物を見付けて動作を止めてしまった。それは至極小さな象徴だったけれど、やっぱり、未だ忘れられない最初の切っ掛けだ。
「へっへっへ…、判った?」
 征士がそれに気付いたのを知ると、伸は殊更楽しそうに笑った。ふたりが最初に連れ立って出掛けた時の、お土産となった『ガラスの靴』を伸は、何故か今になって身に着けて来たのだ。
「この車を見たら思い出したんだ。一緒に連れてってあげなきゃ可哀想かな、と思って」
 そう、伸がマンションのガレージから、一旦部屋へと引き返したのは、これを取りに戻ったのが理由だった。しかし、今の今まで後生大事に持っていたとは、それだけで征士には驚きの事実だった。更に、わざわざ山口の実家から、東京のマンションまで運んで来たというのも、極めて伸らしい話かも知れない。
「物に対して随分感傷的な」
 征士の感想はそんなものだったけれど、
「違うよ、昔の君がさ」
 伸ならば、物を物以上の見方で見ているからだった。
 いつか彼は話しただろう、「僕らはまるでシンデレラのようだ」と。あの頃征士は、否、彼等はまだ透明な世界に立っていて、命が発する純粋な欲求のままに生きていた。他のどんな価値観にも左右されず、善悪の混在する世界の、真の姿など知らずに生きていた。何も知らなかったから、正しさに疑いを持たずに戦っていられた。ただ、そんな風で居られる時間は、人ひとりの一生の中のほんの一時だ。
 いつの間にか、社会や世間の存在の大きさを知り、常識や共通の価値観に合わせながら生きるようなった。大人に近付いているのは確かだろうが、ある意味では自由のない、窮屈な方へと追い遣られている状況だ。それが普通の成長過程だと、誰もが経験的に知っている通りだが。
 ずっと、人が永遠に自由でいられるなら、誰がどんな服を着ていようと、誰が誰を好きになろうと、全く問題にはならないだろう。現実はそうではないから、限られた時間の中で夢を見ようとするのかも知れない。今はそんなことに気付いている。
 境界のない自由な夢を見ていた。彼等が自由に息をしていた時代の儚さを、象徴的に表したプレゼントだったかも知れない。無論彼等は、それを知っていた訳ではないけれど…。
 すると、
「あれっ?、これで全部夢が叶っちゃってない?、ねぇ?」
 暫しガラスの靴に思いを馳せていた伸が、過去に征士が思い描いた「未来予想図」を思い出いていた。憧れの車を運転している自分、助手席には過去の理想の人が居るではないか。
 その途端に伸の口調が、また愉快そうなリズムに戻ったので、征士は溜息混じりに一言、
「まあな」
 とだけ返した。
「何だよ、だったらもっと嬉しそうな顔しろよ、アハハ!」
 征士が大人しくなると、伸はより調子づいて明るくなるようだった。それもこれも、過去からの経過だから仕方がないと、今は収めておくしかなさそうだった。無論征士はこんな風に弄られる為に、ドライヴに誘った訳ではなかったが。

 車が首都高に入った後は、休日特有の牛歩状態に暫し嵌まっていた。東名への入口、谷町インターを過ぎるまでの我慢と言うところだが、征士には運転時の集中から離れ、まともに話をする余裕が生まれていた。
 先程から伸ばかりが言いたいことを言い、征士は自分の意見を言う間がなかった。伸が調子づいてるせいもあり、今のところ征士は、話したいことの一割程度も話せていなかった。別段、生きる為に重要な話でもないので、無理に聞かせるつもりもなかったが、伸が折角『卒業旅行』だと振ってくれたので、そんな雰囲気を保っている内に話した方が良い、と考えていた。
 否、話と言っても整然とした文脈はないかも知れない。征士はただ伸に、今の自分を知ってほしかっただけだ。
「昔は良かったな」
 と、前の話題に続けるように征士が切り出すと、
「ああ、そう、今の僕では不満なの」
 伸は空気を読まずにそんな返事をした。
「人が真面目に話そうと言う時に、その返事はないだろう」
「ハハハ、悪かったよ」
 些か横柄に、前の話題を引っ張り過ぎたことを詫びると、伸は窓の段差に肘を掛け、流れの鈍い外の景色を背にして、ある程度体を運転席の方へ向けた。聞きましょう、と言う態度を判り易く示す伸に、征士は敢えて目を向けることはなかったが、車内の様子が変わったのを見て話し始める。
「…子供の内は誰でもそうだが、住む世界が小さく美しければ、それに相応しい夢を見るのだろう。私はあの頃はまだ、綺麗過ぎる程の夢を見ていられたのだ」
 彼が客観的に、当時の自分を振り返って言えるのは、背伸びをしながらも、邪心に塗れた現実の社会を否定していた、正に思春期的な思考の時代だった、と言うことだ。真似事が楽しければ楽しい程、そんな理想的未来も作れるのではないかと、信じようとしていたに過ぎない。何故なら傍から見る大人の世界は、あまり魅力的なものには見えなかった。
 続けて征士はこうも言った。
「それなりの苦悩はあれど、絶対的な幸福の中に生きていた、と思う」
 戦いや家庭の問題は仕方なく存在するが、それでも全てが苦痛だった筈もなく、未成年として常に何かに守られていた事実。そしてその他に、例え虚構でも、理想がそのまま通用する楽しみが存在した事実。そのどちらに身を置いていても、不幸にはなり得なかったのだ。
 人によって人生の運不運はあるものだ。例えば遼や当麻なら、家庭の面ではあまり恵まれなかった。が、征士は殊に幸福な少年時代を続けたということだろう。
 そして、その守り手のひとりであった伸は解釈として、
「そうだね。君は特に幼かったんだよ」
 歯に衣着せぬ言葉を返した。
「・・・・・・・・」
「今更怒るなよ」
 眉間にやや皺を寄せた征士に、伸はもう一言そう言ったけれど、
「そうだな、怒っている訳ではない」
 漸く顔を向けた征士の表情は、確かに言葉の通り、怒っているのとは若干違う様子だった。目付きが厳しい割に、反抗を示す意志は見て取れない。過程を飲み込んだ上で新しく、意欲的に何かを見据えるような、やや満足そうな表情でもあった。ただ、
「じゃあその態度は何だいっ?」
 と、伸が身を引いて文句を付けたのは、征士の起こした行動が多分に圧力的だったからだ。彼はシートからできる限り体を傾け、できる限り伸の方に顔を近付けて言った。
「今は汚れた現実に生きているから、生易しい夢では満足しない、と言う態度だ」
 そして、そんな台詞を耳にすれば、途端に伸は鳥肌が立つような寒気を感じていた。
 思い出せる過去のあらゆる時点から、言葉を選ばず思い切ったことを言う、時には無慈悲に切り捨てる、征士の話法は大体心得ていたつもりの伸だが。今はその新たな面に触れ、恐ろしい場面に会ってしまったような気がした。正直なところ恐いのだ。厳しいと感じたことはあっても、恐いと思ったことは過去にはなかった。勿論言葉だけでなく、あらゆる要素が含まれてのことだが。
 何故だか急に、銃口を向けられた鹿の気分になっていた。
「降りようかな…」
「残念ながらまだ当分高速の上だ」
 それは冗談だったにしても、伸が多少居心地の悪さを感じたのは確かだった。何故なら今ここに居るのは、彼のよく知る征士ではないらしいので。否、でも。
「いい加減に目を覚ましたらどうだい?、夢を見るのは止めたら?」
 伸はもう一度だけ問い掛けてみた。暫く離れている内に、征士はそんなに変わってしまったのかと、確かめるように伸は『夢』と言うキーワードを繰り返す。
 すると征士は、
「とっくに覚めている」
 フロントガラスの向こうに視線を止めたまま、淡々と現実を語ってくれた。
「覚めているから、確と在るものしか欲しがらなくなったのだ」
「そう…」
「それでもまあ、退屈はしないだろう」
 嘗ての征士が感じたように。
 儚い物、朧げな物、曖昧な存在に心を惹かれる傾向は、まだ大人ではないことの現れだったかも知れない。否、正しくは惹かれなくなるのではない。損得や後先を考えると、それを手にすることが果たして、己の為になるかと思考するようになるからだ。もしかしたら手を触れてはいけないのかも知れない、手に入れた途端に色褪せるかも知れない、そんな考えを持つようになるからだ。
 失うことへの恐れは、生きた経験の多さから生まれて来る。だから大人になるに連れ、無謀な夢は見られなくなる。魅惑的な何かと、失えない物を秤にかけることはできない。
 征士は今は、そんな風に理解しているのではないだろうか。

 単に精神の健康度で言えば、今の征士はとても良い状態なのかも知れない。
 理性と感情の葛藤が激し過ぎるのも良くない。表裏が混然として、纏まりを欠いた人格を持つ人も、現実に居なくはないが、それではこの世界で輝ける人物になれないだろう。彼はそれでは駄目だ、征士はいつも光り輝いていなければ駄目だ、と伸ならば理解している。
 だから征士は今のようになったのだ、とも、徐々に解って来たところだけれど、
『昔は可愛げがあったのに、今の征士はどうも隙が無い』
 伸は少々詰まらない思いをしていた。見た目に反し子供っぽい理屈で動いている、ほんの少し年長の自分から見て、とても面白い存在だった征士。
 だが同時に別のことも考えていた。
『でも相変わらず、僕が言えないようなことをサラサラ言うのは、かっこいいと思う…』
 ふと気付いた。
 まだ夢を見ているのは自分じゃないかと伸は感じた。
「…フハハハ」
 思わず自嘲して吹き出していた。
「何だ?」
「いや、君は随分成長したんだな、と思うけど、僕はあんまり変わってないなって」
 けれど、上辺がどれ程変わっても、変わらない本質と言うものがある。すっかり忘れたようでいて、いつまでも消えずに残るものもあると、誰もが知っている通りだ。
 征士は伸の嘆きのような言葉を聞くと、伏目がちな物憂い表情へと変わって行った。それから極めて静かな動作で伸の顎を取ると、親指で彼の唇をスッとなぞっていた。それが何を意味しているか、解らない伸ではなかった。
 迂闊なことを言うものじゃない。眠っていた真実までが目を覚ましてしまうから。
『僕も君が好きだよ』
 きっと、今も、ずっと。
 それは君も同じなんだろう?。
 言葉にはしないけれど、ふたりの間に確かに通じているものが、伸の唇の上に残った。

 優しい過去に後ろ髪を引かれる思いは、もう誰の中にもなくなった。
 ただ、今も昔も変わらず恋していると、伝えたかったのだ。



 伊豆の海まではまだ遠い道程だったが、車がのろのろと進んでいる現状を少しばかり、愛しく思えるような気がした。









コメント)「かなり後の話なので」と、「ロングバケーション」のコメントに書いた割に、その翌々年の話だったりして(^ ^;。でもこの話を書く為には、ちょっと長いスパンを取らないと、過去の出来事の懐かしさがあまり感じられないので、ここまで出し惜しみしました(苦笑)。
それで、結局この話の征士と伸はどうなるのかと言うと、この先は色々考えられるけど、プラトニックなままで終ることにした。他に色んな話があるので、何でもかんでも怪しい展開にしなくていいかと。ただ「普通の友達とは言えない」状態で続くのが、何かステキかなーとこのシリーズには思います。とにかく無事完結編を発表できて良かったです。
ところで、文中のシチュエーションを頭に思い浮かべると、「征士、前見て運転しろ」と言いたくなりますね(^ ^;。かなり危険です…。



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