デーハー
中学生日記
スノーホワイト
Late Summer Vacation



 辺りは一面の銀世界だった。それより何故自分が今ここにいるのか、それが問題だ。



 八月も半ばを過ぎた頃、五人は洋行帰りの途に就いていた。まるで予想しなかった事件の疲労か、機内での彼等の様子は流石に大人しかった。無論、新たな心配事を抱えた状態で、陽気に騒ぐ気分にはならなかったのも確かなこと。

 アメリカはニューヨーク。全ての近代社会のルーツ、人種の坩堝、世界の経済とショービジネスの都であり、物質的華やかさと共に凶悪犯罪も同居する街。一部の荒廃を内包しながらも、見た目の豊かさばかりを演出したがる、現代のイベント社会のモデル。しかし、結局のところ金で買える娯楽や物品などは、これと言った特徴もなく、味気なく、面白味もないものに感じられた。
 かのマンハッタンなどは、ある意味人間的でない街という印象だった。完全主義の、程度の低い者には冷たくすました顔をして、きびきびと歩き回っていたビジネスマン達。彼等は己が世界を動かしている自負に支えられ、今日もそうしていられるのだろう。馬鹿馬鹿しい驕りだと思う。褐色に黄昏れるハーレムや、雑多な中華街やイタリア人街ならば、人間のする事など凡そ理屈ではないと、身近に知ることができる筈だが。
 事実世界を動かしているのは、人などではない。巨大な世界の内側で、人間達はひとつの機能を運営しているに過ぎない。そうでなければ、正しさを求め努力して来た筈の己の末路が、こんなにも不安定に揺らいでいる今を認められない。
 ひとつの使命を完遂することができた。我々はそれを大いに喜び、各々の自信となる何かを分かち合い、それぞれが洋々とした未来を感じることもできた。それがたった一度、この己の失態から生まれた事件により、全てを傷付ける形になってしまった。否、誰であったとしても、そんな苦々しい状況に平然としていられる訳がない…。
 征士のニューヨークの思い出は、大体そんな印象に始まり、そんな結果に終わったようだ。

 機内のシートにて、殆どの面子が静かに眠っている中、彼はずっと窓の外の空を見詰めていた。高度八千メートルの雲ひとつない空は何処までも青く、明るく澄んだ水流のように涼し気に映る。もしも可能ならば、そっくりそのまま自分の心と入れ替えたいとさえ願う。どこまでも見通せる景色。どこまでも透き通っている世界。
 今、征士の心理状態が最悪であることを物語る、不安な様子を隠せずに彼はそうしていた。
 そしてそれを見ていた者もいる。「眠っている」と一口に言えど実際はそれぞれだ。征士の隣に座っていた当麻は、只管寝た振りを続けていた。隣人の様子が気にはなっても、無駄に話し掛けるべきでないと感じているようだ。通路を挟み、伸とナスティもまた寝入ってはいなかった。突然何かが起こる、という程の非常警戒ではないが、明らかに普段と違う征士から目を離すのが恐かった。
 アメリカに来るまでは考えられなかったことだが、今征士は確かに、奈落の底に落ち込んでしまっている。自己の行動に自信を持てたからこそ、彼の能力は最大限に発揮されて来た。前衛に立つ彼に誰もが疑いを持ちはしなかった。その確固たる価値観が失われれば、征士に取っても彼等全てに取っても、浮き足立つものが何かしら生まれて来そうな、嫌な予感に心は駆られる。
 どうしたら良いのか、を今すぐ結論することは誰にもできなかった。
 また新たに見えて来た問題と、危惧していた諸々の怨恨の歴史。最も身近であり、最も不明瞭な憎悪を含む「鎧」という存在に対し、五人がどう立ち向かえるかは判らない。それこそ事が起こらなければ判らない。
『だから、今は考えない方がいいんだ』
 伸は心の中でそう呟いていた。
 できることなら、誰も何も傷付かずに済めば良い。けれどそう都合の良いことばかりはないと、これまでの出来事の中で嫌と言う程味わって来た。ならばせめて希望を見出せる形に、自らを変えて行くしかない。負い目は一生消えないものだとしても、どんな自分になろうとするかは、いつでも変更可能だと思うから…。
『僕らに何ができるだろうか』
 虚ろに宙を眺めていた伸に、ふと、とある考えが浮かんで来た。そう言えば、僕らには特別な約束事があった筈だ、と。



 一団の乗った飛行機が無事成田に到着すると、そこには純の両親が息子を迎えに来ていて、眠そうな顔の彼等に深々と頭を下げると、純を連れて自宅へと戻って行った。残った六人は皆、まず東京駅に出るのが最短の帰宅ルートの為、シャトルバスに乗って東京へ向かった。
 そこから、遼とナスティは中央本線、秀は東海道線、当麻は東海道新幹線に乗る。上野に出る征士と、羽田に向かう伸は、それぞれ逆方向の山手線に乗ることになる。
「じゃあ、またな」
「おう、お疲れ」
 と簡単な挨拶を交わした後、各自は自宅へ向かう電車のホームを目指し歩き出した。別段、これで二度と会えないという訳じゃない。いつもそうなのだから、妙な行動で誰かを済まなく思わせるのは避けようとしていた。いつも通り、彼等はあっさりと解散して行った。
 ところが、
 征士がホームの階段を昇り切る頃、背後から彼を呼び止める声がした。慌てた様子もなく、軽快に一段飛ばしで階段を走って来たのは勿論伸だ。昇り切った所で止まっていた征士に、追い付く前に彼は用件を話し始めていた。
「ねえねえ!、この後、夏休みの予定入ってる?」
 征士は突然切り出された、予想しない内容に些か口籠るように返す。
「この後…というと?」
 彼が考えている間に伸は階段を昇り切り、息を整えながら先を続けた。
「だから、この後だよ。二十三日から、二十九日の間、一週間くらい」
「…別に大した予定はない、と思うが…」
 特に何を勘ぐることなく答えた征士に、すると伸は明から様にニコッと笑って見せた。
「前に言わなかったっけ?、これからオーストラリアにスキーに行くんだよ。家族旅行なんだけど、僕ら帰る予定が少し遅れただろ?、だから家族はもう先に行っちゃってて、僕の分の予約はキャンセルされてるんだ。でも日にちをずらして、改めて予約できるようにしてあるって言うからさ…」
 そこまでで伸が言いたそうなことは、大方予想がついた征士だったが、
「君も一緒に行こうよ、どうせ暇なんだったら」
 伸の言葉にしてはかなり強引な気がした。
 仮にも自分は多少手傷を負っていて、決して体調が良いとは言えない状態。それを伸が知らない筈はない、むしろ彼の性格上、気になって当然の事柄だと征士は思う。そしてあの黒々と汚点を残すような事件の後だ。伸が何を考えているのか解らなかった。
「そう言われても…、しかし、金銭的に都合がつかない」
 一応、やんわりと断る方向に話を進めたつもりだったが、その理由では伸は引き下がらないだろうと、征士は話しながら気付いてしまう。
「そんなこと気にしなくっていいんだよー、友達も一緒に行くって伝えればそれだけさ。あ、家族旅行って言っても、それ以外の人もいるんだよ?。みんな招待してるんだから、ひとり増えたって全然関係ないよ」
 案の定、断りようがない条件を出されて、征士は困り果てるしかなくなった。
「…うーん…」
「ダメダメ!」
 けれど伸は矢継ぎ早に結論を迫るのだ。
「考え込んでもしょうがないだろ?、遠慮することないんだよ。僕はひとりで行くより、誰かがいた方が楽しいからさっ!。ね、いいだろ?」
 そこまで言われると、嫌だとは言わせないとの伸の強い意志が、どうにも逆らえないものに感じた。珍しいことだと、征士は少なからず驚いていた。伸が必死になる時、それは決まって自分以外の誰かを思う時だ。彼が誰の為にそう提案しているのかは、征士には解り過ぎる程解る…。
 だから結局断れなかった。
 そして了解を得た伸は嬉しそうに、
「じゃあ今日帰ってから、詳しい決定を連絡するよ。戻ったらまたすぐ出発って、ちょっとハードスケジュールだけど、ちゃんと来るんだよ?」
 と言って、踊るような足取りで階段を降りて行った。
「じゃあね!」
 最後に征士の方を見て、屈託のない笑顔を見せた伸の、思うところは今ひとつ掴めないままだ。が、約束してしまった事は仕方ないと征士は考えている。内心はまるで気乗りがしない。この夏初めて出掛けた海外で、とんでもない事件を起こしてしまったからだ。もう二度と国外には出たくないとも思った、その矢先だった。
 けれどそんな征士も、その律儀な性格までは変わらなかったらしい。否、彼は裏切らないと、伸は知っていたからかも知れない。



 そうして、征士は信じられない風景を目の当たりにしている。

 北半球と南半球は季節が逆であると、学校の勉強では確かに習った記憶がある。けれど知識は知識以上の何でもない。実際飛行機に乗り、夏から冬へ移動するという行動の妙が、パラドックスの仕掛けに嵌まったように感じられた。またそれは、東北地方に住む征士にしても、見た記憶のない広大な雪景色。
「すごい見晴らしだね、僕もここに来たのは初めてだよ」
 伸は素直にその景色について感想を述べていた。征士はというと、「すごい」などという簡単な言葉では言い表せない、真っ白な雪の平原をただ、初めて雪を見た日のように眺め入っていた。
 あまりにも白い、白いキャンバスの大地に描かれる自由なシュプール。本来の土や岩肌の色をすっかり覆い隠して、今は楽しげな図柄を残すばかりの明るい空間。ひとつのサイクルを終えて眠りに就く冬。静かに閉じている冬の雪原。新しい季節は必ずやって来るとの予告だ。
 そんな意味を知っていて、伸は征士を連れて来たのだろうか?。否、恐らく伸は自分よりも征士の方が、雪は身近だろうと思っただけだ。傷付いた時ほど人は回帰したがると思う。失意を胸に故郷へ戻る者がいるように、馴染みのあるものはいつも安らぎを与えてくれる。少なくとも伸はそう思っていた。
 またその他にも、別の目的が伸にはあるのだが。
 ともかくふたりを乗せた車は、どこまでも白い景色を切り裂きながら、道路を真直ぐに駆け抜け、光を反射する近代的な外観のホテルに停められた。入口に待つ緑の制服のポーターが、荷物を運んで行く後に付いて、ふたりがロビーに入ると、ラウンジには集まっていた伸の家族と、知人達が小さく手を振って見せた。
 豪奢と言う感じではないが、広々として落ち着いたロビーには、著名なスキーヤーの記念の品や写真等が飾られている。高級リゾートの割には気さくな印象で、特にこういった場所に来慣れない征士には、まず一安心という心境だった。
 チェックインを済ませた伸に、彼の母親は手招きをした。ひとつの壁面が全てガラス窓になっている、けれど眩しくはない明るい広間。丁度昼食を終えた頃の時間帯、伸の家族はラウンジの一角でお茶を飲んでいた。今はゆったりと休憩している時だった。

「彼が征士君ね」
 伸の後を遅れて付いて来た征士を見、伸の母はまずそう声をかけた。彼の家族はこれまで、五人の中では秀にだけ面識があった。柳生邸に集まって住んでいた頃、一度家に戻った伸に同行していたからだ。そんな訳で、初対面となる伸の家族に対し、征士はとりわけきちんと挨拶をした。
「初めまして、いつもお世話になっています。今日はお招き戴きありがとうございます」
 無料で御招待とは言っても、友人の家庭の場合は却って気を遣うものだ。勿論招待する側はそうなることを望まないし、そこに居た伸の母と姉は、むしろ普段よりもリラックスムードで寛いでいたけれど。
「電話でお話ししたことがありましたけど、お会いするのは初めてね。でもあなたは印象通りだわ。いつも弁えのある話し方をされるから、伸のお友達にしては立派な人だと思っていたのよ」
 と、伸の母は上品で静かな口調で返した。
「どういう意味だい、母さん」
 すると半ばふざけるように伸は口を挟む。確かに征士は少し、その他一般の友達とは違う人種に思えるが。そして母親は穏やかに笑いながら、
「そうね、早くから社会に向き合う意識をお持ちのようだから、という意味ですよ」
 と答えた。成程それはそうかも知れない。
 本人の意志という訳ではなかったが、例え親の躾であっても、既に大人然とした意識を身に付けているだけ立派だ、と言うのだろう。
 それにしても、と征士は思った。今自分に向き合っている伸の母親は、何と優雅で優しげな印象だろうと。その隣に座っている、伸とそっくりな顔をした彼の姉も、朗らかだが大人しい、厭味のない存在感を示すに留まっている。伸を加えたこの三人の家族は、征士が属するそれとはあまりにも違っていた。自分の母や姉ならもっと、押し付けがましい主張を感じて然りだと思う。
 そして更に、『この親にしてこの子』という言い方をしばしば耳にするが、伸がそうなら自分もそうなんだろうと彼は感じた。立派だと思われることと共に、己の失敗も環境から来たものを無視できない。注意深く控え目な行動に徹しろとは、家族の誰も言わないからだ。何だかとても、遣り切れない気分になって来た。
「ああ…、征士の家はうちよりずっと厳しいそうだからね」
 その時、伸はテーブルの隅に置かれた木箱を見つけた。
「それ何?」
 見るからに誰かからの贈り物のようだった。箱を包装していた金の包み紙と、赤いリボンが束ねられて端に寄せられている。それらの高級そうな印象から、何となく箱の中身に興味を惹かれたが、
「これは…あなたには楽しめない物よ?」
 そう言って、母親はふたりに木箱の蓋を開けて見せた。中にはドンペリニョンの瓶が仰々しく横たわっていた。確かに伸には嬉しい贈り物とは言えない。
「ホントだ、僕はいらないや」
 伸は淡白にそう言って笑うと、
「でも征士はほしいかも知れない」
 この話題を征士に振り向けた。少なからず関心を寄せていたのに気付いたか。
「さあ…、洋酒はあまり飲んだことがないからわからない」
 そして彼がそう答えるなり、伸の母と姉は同時に笑い出す。どうやら何かしらの知識を、伸から既に得ていた様子だ。
「伸から聞いてるのよ、お宅の方ではお酒が飲めないと、一人前と認められないんですって。じゃあ、お夕食の時に少しだけ差し上げましょうね。シャンパンはお祝いのお酒だから、これからも良い御縁であるように乾杯しましょう?」
「どうも…ありがとうございます」
 思いも寄らず、この場に和やかに受け入れられている自分を、征士は申し訳ない思いで満たす他なかった。この場合、親切な振舞いを断る方が無礼だと知っている。けれど伸を含め、この一家の対応は優し過ぎて切なくなった。
「じゃ、僕ら部屋に寄ったらすぐ出掛けるから。食事の時間には戻るよ」
 そして伸は、最後にそう言って場を切り上げた。
 先程から長旅の疲れも見せず、ずっと楽し気な様子を続けている彼は、何処か無理をしているようにも感じられた。もし本当にそうなら、それは自分のせいだと考えられる征士は、歩き出した伸を無言で見送る母親に対し、当然ながら心を痛める結果となる。だから、彼は丁寧に一礼しようとして、
 頭を下げた瞬間、低い視界に映った伸の行動。
 誰もが気付かぬ内に、伸はそこにあったある物を手にして、自分のポケットにこっそり収めてしまった。征士には『何のつもりだろう』と、首を傾げたくなる不思議な行い。
 ただ、伸は変わらず楽しそうに装っているので、それについては黙っていることにした征士だった。

 しかし宿泊する部屋に着くなり、伸はまたひとつ奇妙なことを言い出した。
「ちょっとその前に、地下のショップに行ってもいい?。ウェアを買わなきゃなんないんだ」
 買わなきゃならない、とはどういう意味だろう?。伸の持参した大荷物には、無論スキーウェアも入っている筈だ。一着新調したいというだけなら、この言葉遣いはどうも妙だと征士は感じた。
 スキーリゾート専門のホテルの中には、流石にスキーに関する専門店が入っている。ここでフル装備を整えることは勿論可能、スキー板やスノーボードの修理、ワックス等も引き受けてくれる窓口があった。初心者から玄人向けサービスまで揃えている、正に至れり尽くせりといった印象。オーストラリアは最もスポーツを楽しんでいる国だと言う、そんな背景がよくよく感じられた。
 更に隣にはセーターや帽子などの、ウール製品のブランド店も並んでいる。ここまで来ると流石に、スキーをせずには帰れない雰囲気だ。
 ただこの時間、ふたりの他には人の姿が無かったので、インショップはやや踏み込み難い様子だった。が、伸は構わずどんどん店の中へと入って行った。慣れというものだろうか、征士は特に必要な物はないので、そのまま店先に立って伸を待っていた。そして暫しの間店員にああだこうだと注文を付けると、彼は店の奥へと消えてしまった。どうやら試着をしようとしているらしい。
 普通の洋服とは違い、サイズバリエーションはあまりないスキーウエアを、試着する客はあまり見掛けないと思う。標準体型から激しく外れている訳でもない伸が何故?、と、征士は首を傾げ考えていた。何やら今日はこんな状況ばかりが続いている。
 暫く経って、戻って来た伸はとても上機嫌で、今試着したものを購入すると店員に伝えていた。
 そもそも、有無を言わせず連れて来られたところから、伸の行動には不審な点があったと征士は振り返る。およそ彼らしくない行動に何となく、乗せられて着いて来た振りをしているけれど。
 まあそれでも、心理的ショックに追い込まれるような、恐ろしい事態が起こる訳ではないだろう。と征士は引き続き、大人しく伸の行動を見守っていた。

 さあ、全ての準備は終わった。後は着替えて出掛けるばかりだ。



 最近のスキーウエアはとにかく、派手で目立つ色使いをしているのが特徴である。これだけ堂々と蛍光カラーや原色を着られる世界もないだろう。それには歴とした理由があり、真っ白な景色の中で遭難者を見付け易くしている、と言うことだ。
 しかしそうだと判っていても、普段身に付けない色に抵抗がある者も居る。征士が正にそれだった。全体的には白が勝っているが、蛍光の紫と黄の取り合わせが、気分的に目に辛く感じさせていた。要は彼の趣味ではないという意味だ。但し端から見る分には、誂えたように似合っているとも言える。主観と客観の相違とは大体そんなものだろう。
 支度を終えたところで、征士は別の部屋にいる伸を待つことになった。何も考えられない時が五分、十分と過ぎて行った。否、何故別の部屋で着替える必要があるのか疑問だが、だから無心で待っていられる節もあった。伸は恐らく、驚くような何かをしようとしているに違いないのだ。そういう時ほど彼は溌溂としているから、理屈に適っている。
 余計な推量をしない方がより面白いだろう、と征士は考えていた。そして、
『面白い』
 と考えられる心が、未だ自分に存在していると気付く。あれ程打ちのめされたばかりだというのに、己の情けなさにあれ程苦しんだというのに。これまでの価値観、自己の中に在り続けた信念、全てが崩壊した絶望の中に今も居る筈だった。もう立ち直れないかも知れないと思った。全ての邪念を払うことだけに、残りの一生を捧げても良いとさえ思った。
 けれどその決意が今はまた、脆く崩れかけている気がした。これで良いのだろうか、目先の事に逃げるようで、決して納得ずくの状況ではない。しかし。
 自問自答の内に、頭は更に空白になって行く。仏の道ではそれが道理だとも言う。結局答など見付からない心理に至り、後は堂々巡りをするばかり。白くなっていく、白い領域が広がって行く…。

 それから数分が過ぎた後、
「待たせてごめん、じゃ、行こっかー」
 と、漸く届いた伸の声と共に、広めのクロゼットのような部屋からバタバタと、否、跳ねるような様子で彼は姿を現した。そして伸が予定していた通りに、征士は目を丸くして黙り込んでしまった。それもその筈、『彼女』が予告なく現れることはなかったので。
 つまりそれは、頭の横を小さくふたつに結んで(先刻ラウンジのテーブルにあった、贈り物の赤のリボンを結わえている)、少しばかり眉を整え(自分でできるようになった)、薄く色付く程度のリップクリームを塗っている(これは一応スキーアイテムの内)。そして地下のショップで買ったウェアは、伸にしてもまず着ることのない、蛍光ピンクと蛍光オレンジの眩い配色だった。当然レディースなのだろう。
 絶句するしかない。確かに見た目も強烈だが、それ以上に伸の思い方が解るからだ…。
 誰かを助けようと思うなら、「自分」は無くなろうと構わない、多少大袈裟だが彼はそう訴えているようなものだ。その時々の状況に応じて、伸は何でも捨てることができる。だから伸は強い、強くしなやかな存在なのだと解る。
 また征士が黙って着いて来たのは、伸は決して裏切らないと知っていたからだ。絶望の中にも光明を見出せるように、或いはそれを納得して早く受け入れられるように、自分に仕向けている水滸の伸は大した奴だと、征士は今更ながらに思った。
「…その為に、わざわざ私を引っ張って来たのか?」
 だが伸は至って普通の様子で答えた。
「そうだよ、だって約束しただろ?、もう少し続けてあげるって。こういう時に出し惜しみしたら何だっていうのさ」
 理屈じゃない。けれど振れることなく描かれる、一対のシュプールのように明確で爽やかだ。誰の為に『サヨコ』は存在しているのかと、彼は征士に問い掛けていた。



 漸く、ふたりはゲレンデへと向かうことにした。板にストックに靴に金具、ウィンタースポーツは大概道具が多い。しかし今は、到着した時に比べ随分足取りが軽くなった。理解できたことを、理解して貰えたことを、お互いが納得した結果だった。
 エレベーターホールから再びロビーの方へ歩くと、そこにはまだ伸の母親が残っていた。それを見付けるなり、征士の足は自ずと歩みを止めてしまう。自分は納得しているものの、果たして親から見た場合、この息子の姿はどうなんだろうと思う。後ろを歩いていた伸がそれにぶつかり、
「ど、どーしたの?」
 発せられた声に、母親はくるりと振り返ってこちらを見た。
「…伸…?、まあ、何て格好なの?」
 確かに驚いてはいた。けれど彼女の表情は征士の予想とは違う、愉快な余興を見るような趣でしかない。そして、
「だってさあ、男ふたりで遊びに行っても、見た目的に面白くないじゃない。これでも遠目で見ると、かなりいけてると思うよ?」
 何でもないような伸の返答を耳に、彼の母親は、穏やかに開く花のように破顔した。
「気を付けて、行ってらっしゃい」
 何と寛容なことだろう。
 この一族は何故こうも、物事を笑って済ませられるのだろうと、征士は更に不思議に思いながら、ひどく感謝の念をも感じていた。もしかすると、奈落の底に落ちるだけ落ちたとしても、それを忘れ笑っていられる内は、まだ大した状況ではないのかも知れない。それとも人の意志など実は、かなりいい加減な作りなのかも知れないと思った。何かを切っ掛けにして、百八十度変わる人生もあるという通り…。
 そんな征士は今、様々な状況を嬉しく思い始めている。次々起こり来る出来事をまた、楽しみに受け入れる感情が戻って来ていた。
 新しい紙の上に再び、新しい放物線を描き出せることにも。



 辺りは一面の銀世界だった。それより何故自分がここにいるのか、それが最も大切だった。



つづく





コメント)日記にもグチっていた通り、なかなかまとまらなくて苦労しました。エピソードが飛び飛びな話なので難しかったです。このシリーズは基本的にコメディだから、あまり深い心理描写をしないように心掛けている面もあって。
また今回は外伝に関する話なので、どうしても征士が暗くなっちゃうし、「水面の月」があるので、同じような描写をする訳にも行かないし。あ、「水面の月」もこれと同じ時間帯の話ですが、別にどっちが本当ってことはありません…。




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