居眠り
中学生日記
Sleeping Beauty
スリーピング・ビューティ



 十月と言えば。
 運動会?、秋の行楽?、それとも中間試験とか。
 いやいや、天空の当麻の誕生日である。
 五人の要である遼は言うに及ばずだが、柳生邸の二年間の内、何故か当麻の誕生日にも毎年、何らかのイベントが催されていた。

 同じ世代の、固い結束で存在する五人の戦士達。しかし普段の生活がそれぞれなように、人によって誕生日の考え方も様々だ。
 例えば伸や征士は「特にお祝いはしなくていい」派だが、秀なら「盛大にやってくれ」と、自ら準備にも参加しそうなタイプだ。家庭環境や本人の性格によって、大きな差が出る面白い事例。そして有無を言わさず祝われるのが遼だったが、当麻に関しては、本人が遠慮しているにも関わらず、ほぼ遼と同様の扱いを受けていた。
 何故かと言えば、まあ、彼が家庭環境に恵まれていない面を、他の仲間が気にしているのかも知れないが、単に十月十日は休日だからかも知れない。
『取り敢えず、口に入る物なら文句は言わないだろう』
 いい加減に征士が答えると、
「そうだけどさ、食べ物なら当日用意するんだし」
 受話器を肩口に、伸は困った様子で自室を見回し始めた。何か閃く物がありはしないかと。
 相談しているのは無論プレゼントのことである。前回は戦いの最中でありながら、他の四人でお金を出し合い、「当麻用の枕」を買ってあげた。柳生邸に元々あった枕が、柔らか過ぎるとしばしば零していたからだ。それでも人の二倍は寝付きが良かったので、果たして必要だったのかどうかは定かでない。
 去年はそうして、この時期を五人一緒に過ごしていたので、相談事も買い物も、特に困ることはなかったのだ。しかし今年からはそれぞれの家が拠点となる。誰の家も近いとは言えない状況で、四人が一堂に会して相談するのは困難だった。
 そこで、全員とは行かなくとも誰かひとりを誘い、合同で選ぶのが良さそうだと伸は考えた。都心に出るなら、ついでに自分の買い物もして来ればベターだ。
 この場合都会に慣れている秀を誘うのが、最も効率がいい選択だった。けれど敢えて征士に電話を掛けたのは、彼のその後の様子を知りたかったからに他ならない。
 征士に取っては、前の夏休みはあまりに屈辱的で辛いものだった。けれどその後を伸が執りなして来たお陰で、元通りとは言えないが、今はほぼ安定した精神状態を保っていられた。これが続いてくれなければ、自分はいつまで経っても『サヨコ』を降りられない、と伸は考えている。神様だってしょっ中奇跡を起こす訳じゃない。救いの天使をあまり、宛てにされ過ぎても困るのだ。
「…あ、本とかってどうかな。普通の本屋にはなさそうな本」
 伸は教科書等の並ぶ本棚に目を止めていた。学校の勉強はあまり関心が向かないようだが、何しろ智将と言われるくらいだ、もっと高度な知的分野の方が、当麻の興味を惹くのかも知れない。
『ああ、それでもいい』
 征士も簡潔に同意した。
 本と言えば、まず神田神保町の右に出る町はないと思う。伸の頭は早速、双方からのアクセスなどを考え始め、
「じゃあさ、東京駅で待ち合わせればいいよね」
『そうだな』
 ふたりは十月最初の日曜日に、東京に買い物に行くことにした。当麻の誕生日の為に、なのか、それを口実に出掛けるのかは、やはり定かでないところだった。



 東京駅の「銀の鈴」。休日は多かれ少なかれ混み合う待ち合わせ場所だ。
 そしてその人混みの中から、最初に征士の目が捉えた伸の印象は、
『な、何だ?』
 目指す方向に歩けてはいるが、左右に振らついているではないか。大人なら「酔っ払いの千鳥足」と思われかねない。勿論アルコールなど摂ってはいないだろう。
「おい、どうした」
 征士は慌てて駆け寄ると、真直ぐ立っているのも辛そうな伸の肩を支えた。するとゆっくりとした動作で首を捻りながら、
「…昨日ほとんど寝てなくってさ…。次の土曜の体育祭までに、委員会で作らなきゃならない物が沢山あるんだ。それで、徹夜明けで飛行機に乗ったら、すっごくよく眠れたのはいいんだけど、何かずっと目が覚めてくれない感じ…」
 伸はそう言って片目を擦って見せる。
「まだ睡眠が足りないのだろう」
 確かに伸からは、今にも横になってしまいそうな電波を感じた。欠伸が移ると言われるのは、眠りに入ろうとする波長が伝わるからだと言う。つまり一緒に気持良く眠った方が楽なのだ。が、無論駅構内でそうする訳もない。征士はその逆もあると考え、故意に行動をきびきびとし始める。
「体を動かしていれば、その内目が覚めるだろう。さあ、行こう」
 そう言って、伸の肩に手を掛けたまま歩き出した。
 それにしても『眠り』というキーワードは、当麻の専売特許だと思われたのだが。仲間達は皆、あれ程よく眠る(眠れる)人間を見たことがなかった。ふと征士は、当麻に関わる用事だからこんなことになるのでは、と多少恨み言のようにも思った。折角会う機会を作ったのだから、うつらうつらされては意味がない。否、自分の損得でなく、こんな状態の伸を引き回すのは可哀相だった。
 自から言った通りに、何とか目を覚ましてほしいと征士は願った。
 午前十一時。この時間に待ち合わせるには、伸は遅くとも八時前には家を出た筈だった。時間的に厳しい依頼を引き受けておきながら、しかし疲れていようが眠かろうが、約束には手を抜かずきちんと用意して来る、伸の几帳面さには頭が下がる。
 レースの襟の付いた、黒いビロードのワンピースに、生成のボレロの様な短い上着。実は皆姉君のワードローブだが、色々試してみると、大抵の物は着られることが判明した。なのでわざわざ「サヨコの服」を作る必要はなくなった。
 上着には色を押さえたリネンのコサージュ、それに合わせてパンフラワーの付いた大振りなバレッタで、半端な長さの後ろ髪を止めつけている。洋花プリントのバッグを持つ手には、ピンクシャンパンのブレスウォッチが撓んで、袖口から顔を覗かせていた。
 朦朧としていてもそれらを完璧に着こなしている。それは演技と言うよりむしろ、身に付いてしまった雰囲気と解釈する方がいい。伸がさほど注意を払わなくとも、それはサヨコ以外のものには見えなかった。否、区別が付かない程、「伸」と「サヨコ」の境界が薄れているのかも知れない。
 伸には良いことではないかも知れない。征士がどう思うかは判らないにしても。
 ふたりはそこから中央線に乗り、数分で御茶ノ水駅に到着した。

 駅の改札は二ケ所あるが、ふたりは聖橋口の改札を出てしまった。
 神保町の一角へ行くには、普通御茶ノ水橋から歩いて行くが、伸は知り合いから『改札を出て広い通りを真直ぐ歩き、靖国通りを右に曲がる』と聞いていたので、その間違いには気付きようがなかった。何故ならどちらの改札でも「広い通り」は存在した。ただ、どの道靖国通りは一本に繋がっているので、目的地に辿り着けることは間違いない。
 古くから学生の町である御茶ノ水周辺は、学生に必要な書籍や資材の店、それを製造している出版者や印刷所、また医療関係の機材を製造販売する、小規模な店鋪がやたらと集まっている。あまりに数が多い為、特に宛てがない買物の場合は、時間に余裕を持って来ることをお勧めする。
 賑やかな町の雰囲気、決して良いとは言えない都会の匂い。駅の前に聳える高層ビルのショーウィンドウには、気が早くもクリスマス向けの商品と共に、連なる豆電球とカラーフォイルの装飾が煌めいていた。あっと言う間に今年も年末だな、と征士がぼんやり考えている横で、先程から言葉少なに、大人しく征士に合わせて歩いていた伸が、
「忘れてたけど、もうそんな時期なんだね」
 と割合まともなことを言った。駅前を通過して行く人々の、颯爽とした歩調や明るいざわめきが、伸を睡魔から引き離してくれたようだ。
「私の家には関係のない行事だが」
「あれ、そうなの?」
 伸は「おや」と言う顔をする。例え仏教徒だろうと回教徒だろうと、今時の日本人には単なるイベントでしかないクリスマス。ケーキくらいは買って来ても良さそうだけれど。
「まあ、家では何もしないから、外で雰囲気を楽しんでいるという訳だ」
 確かにパーティやイベントは随所で催されている、単なる店鋪のセールもそのひとつだ。小学生以下の子供ならともかく、今はそれで充分かも知れない。
「そっか。家でやらなきゃいけない訳じゃないもんね」
 そう返した伸の家では、毎年家族揃ってディナーを楽しんでいた。
 ところでクリスマスの日と言うのは、毎年微妙な日程になるようだ。カレンダーの様子によって登校になるか、休みに入っているか、或いは終業式ということもある。今年はイブの日が終業式に当たるので、比較的クリスマスを楽しみやすい日程ではあった。
『征士を呼んであげたら』
 との考えが、伸の頭を一瞬掠めて行った。けれどすぐにそれは否定される。
『サヨコとして?』
 馬鹿な、と思う。しかしそうでなければ、わざわざ遠い自分の家に招く意味もないだろう。
 今ここに居る僕と征士は、大勢の中の単なるふたりではない、五人の中のふたりでもない。たったふたりだけしか存在しない架空の登場人物なのだ。それ以外の集団とは、基本的に関わることができない。伸はその悲しさに気付く、映画やお話の主人公のように、ただお互いを見詰め合うだけで生きるなど、実際にはあり得ない幻想だから。
「みんなで集まれたらいいんだけどな」
 伸はそう締め括って前を向き直した。靄が掛かっていた頭は既にすっきりと、初秋の空気の爽やかさを感じられている。様子を窺い、その変化を覚っていた征士だが、肩に掛けた手はそのままにして、目的地へと歩いて行った。

 さて、先に注意書きをしたように、特に宛てなくこの界隈にやって来ると、どの店に入れば良いか少々困る時がある。規模の小さな古書店などは、びっしり詰めて連なっており店の区別も付き難い。そしてそこに貼り出されている目録を見ては、溜め息を吐くこともしばしばだ。
『十返舎一九・東海道中膝栗毛 揃 880,000円』
『夏目漱石・こころ 初版 225,000円』
 最早教科書などで写真しか見られない、博物館にしか存在しないと思える物が、高価ではあるが、この町では商品として今も流通している。流石にそれらを購入しようとは思わないが、眺めて歩く分にはそれだけで、多くの知識を得られる商店街だと言えた。
 けれど考えてもみよ、伸の家にも征士の家にも、古来から伝わる書物などはいくらかある。倉の中まで洗いざらい探してみれば、貴重な物も何かしら存在する筈だ。同様に残っている他の物があるのだから、古書店に売られる物があってもおかしくはない。が、
「きれいに残ってる本があるなんて、何か考えられないね」
 伸がそう言うと、
「本など大概虫食いで傷んでいるな、良くて埃や黴、あとは湿気で染みになっているとか。たまに出て来る物はそんな感じだな」
 征士はさらりとそう返して来た。
「そうそう、表紙が剥がれちゃってたりね」
 紙の製品は、状態の良い骨董はなかなか出て来ないものだ。以前から妙な所で見解が一致するふたりだが、だからこそこの値段、と買価には共に納得している様子だった。殊に都心部は二度に渡る大火で、多くの文献を焼失した歴史がある。現代になり、元の商品が何処からか戻って来たような町は、やはり不思議な感覚を覚えた。
 ところで、そうして珍しいものを眺めて楽しむ為に、ここに出掛けて来た訳ではない。
 ふたりが靖国通りの歩道を、人の流れのままに歩き進んで行くと、神保町で最も混雑する一帯に出て来た。何故なら一般的には大方の用が足りる、有名な大型書店が数件並ぶ地帯だからだ。というより、始めからここを目指して来る者が殆どなので、土地勘がない分ふたりは遠回りして来たのだ。まあまあ有意義な散策ではあったろうが。
「あ、ここでいいんじゃないの」
 言うなり、伸の足はビル化した書店のひとつに向いていた。さてこの、超巨大書店の膨大な蔵書の中から、当麻に似合う物を探し出せるだろうか。

「それでいいだろう」
 征士はまた、今一つ気の入らない返事をした。
「適当に言ってない?」
 伸は疑うように彼を上目遣いに見上げている。
 意外にあっさりと、プレゼントに相応しい本は見付けられたが、伸が真面目に意見を聞こうとしても、征士は適当な相槌を打つばかりだ。
「僕より君の方が、当麻の趣味なんかはよく知ってるんじゃないの?」
 と、やや口を尖らせて伸が言うと、
「さあ、そうでもないと思うが。当麻は気の合う奴だが、趣味は殆ど合わないからな」
「アハハハハ」
 あまりに的を得た返答だったので、思わず笑いのつぼに入ってしまった。
「確かにそんな感じだね」
 それは伸の目から見ても、何となく感じられるふたりの違いだった。単純に分類しても、どちらかと言うと当麻は理系、征士は文系の嗜好を持っている。そもそも生活態度やサイクルがまるで違い、関心の向く方向もかなり違っているようだ。むしろそれで気が合う方が不思議かも知れない。否、性格的には似た者同士と言って差し支えないが。
「私に当麻のことを聞かれても、他の皆と変わらない知識しかないぞ」
「ふーん…。みんな同じだと思ってたけど、意外に違うんだなぁ」
 伸は征士の言葉がやや新鮮に聞こえ、暫し止まって考えている。
「何が?」
「いや、僕は秀のことは割とよく知ってると思うからさ。結構色んな話をしてるし、家にも遊びに行ったことあるよ。普通に友達と言える友達だよ」
 それを聞いた征士も、妙な顔付きに変わっていた。
「…少なくとも、こうして待ち合わせて出掛けるような相手ではないな」
 そして伸は、よく判らなくなってしまった。
 征士の言う通りだとすれば、今の時点では当麻よりも、余程自分の方が親しい人物なのだろう。けれど自分であって自分ではない。征士が知っているのは『サヨコ』を演じている自分であり、本当の自分は元の平行線を保ったままだと思えた。
 様々な出来事、それぞれの特徴から考えれば、本来自分と征士には、同調できる要素が少ないと見て正しかった。つまりはあまり関心を持ち合えない間柄で、それこそ「与えられた同じ目的」がなければ、相手を理解しようとさえ思わないかも知れない。けれどその状態が変化したのは、サヨコが始めてからのことだ。ただ表面的な様子を変えただけで、停滞していた時間が流れ出したのだ。
 そんな成り行きだった、と伸は現実の経過を思う。自分の側から言えば、最近征士の人物像がよく見えて来たと感じる。しかし征士の見ているものは、自分とは違う存在かも知れない。それを素直に喜べないのは当然だった。
 或いはそんな考えに到れたことを、収穫と捉えて良いのだろうか?。
「僕と一緒の方が楽しい?」
 伸は思い付いて、故意にそんな質問をしてみた。そして征士の答えは、
「そうでなければ、こう度々会うことはないだろう」
 擦れ違っていたとしても、その返事が嬉しいと感じている自分も居ることを、伸は確認できていた。だから彼はずっと、ふたつに彷徨う心を決め倦ねている。自分の中のどちらかを取って、片方は自然消滅させた方がいいのか、それともきっぱり断ち切る方がいいのかを。
「うん…」
 そして少し照れたように笑っている、それは伸なのかサヨコなのかも判然としなかった。征士の目にはただ可愛らしい存在として映っているので、敢えて区別は要らないかも知れないが、伸には大きな問題だった。男として成長することは望んでも、女性らしくなりたいとは思わない…。
「じゃ!、これでいいね?」
 突然、流れを変えるように伸は言うと、一度甘く流れそうな雰囲気を掻き消し、くるりと踵を返してレジの方へと歩き出した。通じていることの喜びに浸っていたいと、心の何処かで波打つ気持も、確かに自分の抱えている思いのひとつだと知っている。
 ふと手に持った『一般相対性理論』のタイトルを見て、伸はもう一度密かに笑っていた。
『僕らが良ければいいはずなんだけどね』

 綺麗な包装紙にリボンまで付けて貰い、この中身が教科書であるとは想像できない状態だった。大体予定通りのプレゼントを用意できたので、後はふたりの自由時間となった。
 一歩書店の外に出ると、御茶ノ水駅へ向かう道がひどく混雑しているのが判った。またお昼時を迎えたこの町の、飲食店の混雑は凄まじい時がある。書店の中に在った喫茶店でさえ並んでいたのだ。その渦中に飛び込んで行くのは少し気が引けた。時間に追われる状況ではないので、彼等は地下鉄の駅の方へとしばらく歩いてみることにした。
 すると、学芸出版の町とは言いながら、学生に当て込んだようなお洒落な輸入雑貨店や、カジュアル、スポーツウェアの店なども多く存在するのに気付く。そこまで空腹を感じていなかったせいか、伸はたちまち物色という趣になり、それらの店先を興味深く眺め始める。そんないつもの伸、乃至いつものサヨコの行動が顕われ始めると、征士は安心して後を付いて歩けた。
 その時伸は、ある店の前に置かれた立て看板に注目していた。
『MLB今季もの特価セール』
 そこは恐らく、アメリカのプロスポーツグッズを扱う店だろう。野球のシーズンは十月一杯というところなので、そろそろセールを始める時期だった。ちなみに伸にはMLB、NFLより好きなスポーツがある。店の前まで来ると、その入口には最近人気が上昇した、シカゴ・ブルズの真っ赤なユニフォームが下がっていた。それによってNBA商品もあると知り、伸はうきうきと店内へ足を運んだ。
 日本では、観るスポーツとしてはマイナーなバスケットも、アメリカでは華やかなスポーツであると証明するように、店内に揃えられた商品はどれも、派手な色彩とデザインを主張し合っていた。それらを見慣れない征士には、何処に焦点を合わせていいか困惑する程だった。しかし伸の立ち止まった一角は、比較的落ち着いた色合いの物が集まっているようだ。
 伸はボストン・セルティクスのファンなのだ。と言っても、日本のファン層からすれば上位人気のチームなので、特別珍しい嗜好ではない。ボストンはマサチューセッツ州の都市だが、オールドイングランドの気品を大事にしたチームカラーは、白と緑の二色で構成されていて、デザイン的にもスタンダードな印象だ。その爽やかなイメージも伸が気に入った理由だった。
 しかしアメリカと言えば。
 この夏は仲間達とアメリカの都市を歩き、伸はその時も色々買い物をして来た。無論スポーツグッズも購入したが、一度にそう多くの物は持ち帰れないので、アメリカでしか手に入らない物を買って来た。だからこうして日本に居ても、まだ買い物をしようという訳だ。
 そして、これだけアメリカっぽい雰囲気の中に居ながら、征士は特に変わった様子も見せなかった。店に入った後になって征士を窺うと、ただ自分の方を穏やかに見据えている彼が居た。そうか、と伸は察した。誰にしても四六時中悩み続けることは不可能だ。他の関心事に気を取られていれば、一時忘れていることもできるのだろうと。
 今はその役に立つ為の『サヨコ』だから、それで充分だと思えた。
「やっぱり長袖の方がいいかなー」
「私はそっちの方が好きだ」
 しかし単なるTシャツ一枚を選ぶのに、既に三十分が経過しようとしていた。まあ、そのパターンには慣れて来た征士なので、特に急かすでもなく彼女の行動を見守っていた。漸く伸はその内の一枚を選び出し、それまでに広げた別の商品を元通りに畳み始めた。相変わらず、感心する程手際がいいと、征士は声に出さずに笑っていた。
 その途中、伸はハタと手を止めた。
『待てよ、男物を買ったらおかしいか…?』
 今日の出で立ちは既に、この店内の様子からも浮き上がっている。この上妙な買い物をしていいのだろうか。否、プレゼントだと言って買えばいいのか。
 伸が考えを纏めたその時、何故か店員の男がすぐ傍に立っていた。あまりに至近距離だった為に、一瞬戦いて身を引いてしまった。先程まで店の奥のレジに座っていた筈が、何故いきなりここに立っているのだろう。すると店員は征士の方を窺って、
「こちらの商品ですね」
 と言った。そして彼がレジへと戻って行く後に付いて、征士はスタスタと行ってしまった。
『やられた』
 もたもた考えていたのがまずかった。けれど何も言わずに行動を起こすのはフェイントだ、と伸は考えの甘さを悔しんだ。行動の前に宣言をするのが征士のやり方、のように思っていたが、それも時と場合に拠るらしい。
 そして、こんな時の彼はいつも上機嫌になる。伸の傍に戻って来るやいなや、
「相当早いがクリスマスプレゼントということで」
 とにこやかに言って、商品の入った袋を伸に差し出して見せた。
「コラァ…」
 けれど喜色満面とも思える彼を見ては、下手に機嫌を損ねたくもなかった。以前なら『どうあってもこの落とし前は付ける』と啖呵を切ったが、今はそれより前に、征士に気を遣っている自分が居るからだ。何より彼が元の姿に戻ってくれれば、それが一番嬉しかった。
 自分も、恐らくサヨコだって、以前の君の方が好きだと思う。

 ふたりは再び行き先の定まらないまま歩き出した。通りはずっと続いているが、飲食店らしきものはあまり見当たらなくなった。何処かから地下鉄に乗って、JRの駅に出た方がいいと彼等は相談していた。
「そうだね、駅ビルがある所なら面倒ないし」
「この先は…東西線の九段下だ」
 征士は手に小さな地下鉄路線図を持ち、その先にある駅を確かめながら歩いていた。
「飯田橋に出る」
 そこに駅ビルがあるかどうかは、彼等に取っては「行ってみなければわからない」が、無ければ他のターミナル駅に移動すれば済むことだった。深く考えずに彼等はそのルートを使うことにした。
「もう一時半になるけど、何が食べたい?」
 伸が聞くと、
「君が」
 と征士は即座に答えた。
「真面目に答えろよー」
「いやいや、そう答えるのが礼儀というものだ」
 だが昼間の会話としては不適切だったかも知れない。楽しければ良かった、ただそれだけだ。



 運良く、と言おうか飯田橋には駅ビルが存在した。なので彼等は着いて早々に、食事の席に就くことができた。
 午後二時を過ぎていたので、彼等は二時間程かけて、御茶ノ水から九段下までを歩いたことになる。運動量としては大したことはないが、見慣れぬ物、興味を惹く物を次々眺め歩いていると、体より神経の方が疲れて来るようだ。
 だからか食も進んだ。
 そして食後間もなく、伸の許には睡魔が戻って来てしまった。
「おい、大丈夫か…?」
 征士が端からも判る心配顔を向ける程、その二度目の到来は、抵抗空しく伸を圧倒し始めていた。
「…駄目だ、死ぬほど眠い…、眠りたい…」
 一応ちゃんと答えられてはいるが、テーブルに伏せたまま伸はじっと動かない。このまま店で眠られては困ると、征士でなくとも考える状況だった。明日は当たり前のように朝が来て、普段通りに学校へ行く筈なのだ。否その前に、伸はこれから羽田へ戻り、更に宇部空港から自宅までの、かなりの距離を移動しなければならない。
「とにかく羽田までは連れて行く…」
 征士がそう話し掛けた頃には、
「・・・・・・・・」
 既に返事もしなくなっていた。

 頭から意識が遠退いていく、時折フッと現実の世界が見えたかと思えば、またすぐに何処かへ攫われてしまった。ゆるゆる落ちて行くような心地良い浮遊感。面白いことだが、熟睡している時には何も感じず、居眠りの状態ほど至福を味わっている。
 自分という枠組みなど、溶けて無くなってしまう夢を見る。
 夢か現か、どちらかに固定されない有と無の間に、至上の楽園は存在するのかも知れない。
 そこにならふたりの幸せな未来を見ることもできそうだ。
 但し留まることはできない。

 人は眠っている間が華だと言う。人の世は知らぬが仏だ。



 体が何処か、床の上に下ろされた、ような気がする。
 伸がぼんやりと薄目を開けると、オレンジ色の白熱灯の光に滲む、征士のほっとしたような表情が目に映った。ああ、君は言った通り、僕を空港まで送ってくれたんだな。と、頭の何処かで繰り返し呟いていた。その時、
「伸、伸!、せめてお部屋まで自分で戻りなさいな」
『えっ』
 ふたりだけの世界に突然割り込んで来た、母親の声に仰天して伸は途端に目覚めた。
 視点を定めれば、そこは見慣れた自分の家の玄関だった。隣に座って困り果てた様子を見せている、母親は今朝見た服装のままだった。そして引き戸の前に立っているのは、送ってくれた征士だ。
 …ん?。
「何で君がここに居るの…」
 やっと言葉を発した伸に説明をしたのは、彼の母親だった。
「何でじゃありません、征士君が来てくれなかったら、私ひとりじゃ何もできなかったのよ。昨日から小夜子達は出掛けているでしょう?、私が空港に迎えに行っても、もう小さい子供じゃないんだから、あなたを担いで歩くことはできないのよ?。まったく、出掛ける日の前に徹夜で無理をして、欲張っても結局迷惑をかけることになるんだから…」
 母親の必死の説教に、伸は完全に目が覚めていた。そして慌てるように、
「ごめんなさいっ」
 と一言、肩を竦めるようにして彼は言ったが、
「…私じゃなくて、征士君にお謝りなさい」
 と母は返してその場を立った。その態度からは、自分に対する怒りよりも、人に迷惑をかけたことへの遣る瀬なさが、余りある程伝わって来た。
「明日の朝一番の飛行機を手配してもらうから、申し訳ないけど今日は泊まって行ってね」
 そして征士にそう伝えると、足早に電話のある部屋へと行ってしまった。自分が女の子の格好をしている理由も、何も聞かないままに。
 恐らく征士に頼らざるを得なかった状況に、伸の母親は余程気を咎めているのだろう。当たり前である、彼はまだ義務教育を受けている身なのだ。しかし本人からすれば、伸の母は病がちだと聞いていたので、頼まれた事を迷惑とは感じなかったようだが。
 そう言えば昨日の朝から、姉夫妻は義兄の実家に泊まりに行っていたと、今更ながら伸は思い出していた。姉さんに手伝ってもらおう、と引き受けた体育祭用の「内職」の予定が狂い、徹夜になったのはその所為だったのだ。そして、運悪くそんな日に会うことになっていた征士は、とんだ災難を被ってしまった。
 玄関の引き戸の摩りガラスは、もうすっかり闇の色に塗り替えられている。日が短くなったことを差し引いても、少なくとも午後七時は過ぎているだろう。これから征士が仙台の家に戻るのは、確かに不可能だと思えた。
「ごめん、…何か全然覚えてないんだけど、大変なことになってたみたいだ。もう二度とこんなことはないようにするよ」
 伸はそんな言葉で謝ったが、征士は嫌な顔など少しもせずに答える。
「いや、そこまで苦労した訳でもない」
 そして何故だか嬉しそうに笑っていた。自分には有意義で満足な結果だ、とでも言うように。無論伸は知る由もない、ここまでの長い道中、征士がどれ程この状況を愉しんでいたのかを。つい先程までサヨコをおんぶして、その母親と一緒に歩いていたなど、まず通常では想像しない出来事だった。
 守るべきものを守れたという達成感なら、伸にも解ることだったけれど。

 まさか、こんな形で訪問するとは思わなかったが、そうして征士は初めて伸の家にやって来た。けれど何をするでもなく、明朝早々に帰ることになりそうだ。
 きれいに整えられている伸の自室は、明治に建てられた純和風の母家の隣に建つ、新しい輸入住宅の二階にある。ほぼ全てが畳敷きの征士の家の様子と、単純に比較はできないが、外国製の家には見た目だけではなく、家財道具にも外国らしいものがあると感じた。
 個人の部屋にベッドが二台入っている様を、征士は初めて目にしたようだ。海外では子供部屋などに、ゲスト用のベッドがある家は少なくない。今日はそれが征士に提供された場所だった。
 そして、机の上には下書きだけの横断幕のような物が、作業の後そのままに置かれていた。
 伸は「秀の家に行ったことがある」と話していたが、その前にナスティと共に、遼に届け物をしに行った話を征士は聞いている。自分は誰の家にも行き来したことはないが、と思い返して征士はフッと笑った。ほんの短い滞在でも、恐らくここに来たのは自分が最初だろうと。
 そんな些細なことでも、不運を幸運に捉えられる者こそ勝者だ。
「もう、店に居る時からほとんど眠っていたのだ。何とか歩かせて羽田までは連れて行ったが、そのままひとりで飛行機に乗せても、まともに家まで帰れるとは思えなかった。だから宇部空港まで送って行って、宇部から仙台に戻ろうと考えていたが、ここに電話をしたら『今人手がない』とのことだった。それで伸の母上に頼まれてな」
 現実の就寝前に、征士は事の経過をそう話した。
「殴ってでも起こせば良かったのに…」
 しかしそれは些か無理な話だろう。
「そんなこと…、できるならとうにやっている。どんな場合でも、女性に手を上げるなど最低な男のすることだ。それに一度起きたとしても、後々までずっと起きているとも限らない。どうにも離れられなくなってしまったのだ」
 征士はあくまで、自身の理性的な良心に従うからそうなる。しかし寝ていた本人には、
「そんな心配しなくても大丈夫だったよ。起きなければ救護室とかに寝かされるだけだし」
 征士が感じたと同様の不安など、まるで解せない態度だった。まあ、帰宅の遅い子供を心配する家庭などでも、大概そんなものだろう。
「そう安易には考えられんな。何かあったら私の責任だと思った」
「あー、あのさぁ…」
 いくら頼まれたからと言ったって。
 高校生の伸よりも更に、法的に「子供」として扱われる征士は、責任を取る以前に、責任を荷すことができない立場だろう。そんなことは征士にも判る筈だった。それに『何かあったら』と言われても、本当は男である自分に、それ程大した事があるとは思えない。そんなに不安を感じることだったのだろうか?。もしこれが自分でなかったら、飛行機に押し込んで帰らせただろうに…。
 征士の思考がただ真面目なのか、それとも入れ込み過ぎているように感じなくない。今は普通のパジャマに着替えた伸を見詰めて、
「心配だったのだ」
 と征士は最後に言った。
「…君の方が心配だよ」
 そう言い残してから、伸は部屋の明かりを落とした。

 その後征士は安眠の途に就いたが、逆に伸は眠れなくなってしまった。
 このままでいいのだろうか?。このままどうなってしまうだろう?。
 僕達は。



 目を覚まさせる方法を君は知らなかったのか?。
『お姫様は王子様のキスで目を覚ます』
 もうそんな冗談を言う気にも、なれなかった。



つづく





コメント)羽柴バースデイの頃むちゃむちゃ不調だったので、このお話、うっかり書き忘れるところだったのです(^ ^;。取りあえず発表順序が逆にならなくて良かったです。
それでこの話は征伸なのに、きっかけになった当麻の影がずっとチラチラしてますよね。実は当秀の番外編があるんですが、その伏線、という訳ではありません(笑)。




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