夜の町の征伸
仕事を終えた僕たちは
It's gonna workout



 六月の始め、まだ梅雨入りには遠く感じる、清々しい一日の終わり。
 銀座の町には仕事帰りのスーツ姿や、歓楽街をうろつくきらびやかな女性達、賑やかさに惹かれて集まる有象無象が、切りなく行き来している。
 東京の代表的な商業地として知られるこの町は、実は意外に地方からの労働者が多い。全国的に知られているからこそ、ここを目指して働きに来る者が多いのだ。また同時に、東京へ出張に来た地方のサラリーマン等が、憩いを求めて遊びに来る場所でもある。つまり同郷から来たホステスに会える確率が、とても高い町だからだ。
 勿論その前に、財界人や政治家が利用する高級料亭もあれば、外国人向けの高級ホテルもある。首都に隣接する一等地の歓楽街と言う、昔から変わらない側面も持ち続ける。
 国を代表する町、人種の坩堝、恐らくニューヨークの夜の喧噪も、こんな混沌とした活気が感じられるんだろうな、と、窓の外を横目に見ながら伸は思った。
「あーあ、毎日毎日同じことの繰り返しでさ…」
 メインディッシュの華やかな皿を目の前に、伸は大きな溜息を吐いて見せる。特別嫌なことがあった訳ではない、彼の仕事への愚痴は今や日常会話と化していた。この一年ほどの間、何かにつけ文句を垂れることが多くなった。殊に今日のような仕事帰りは、その日の不満を聞かされること確実だ。
「せめて君のとこみたいに、お客さんがよく来る職場だったら良かった。仕事が単調な上に、毎日同じ顔ばっかり見てるの飽きたよ」
 本日の伸の悩みは、閉鎖的な職場環境について。
 彼は大学の商業科を卒業した後、とある企業の総務部に就職した。専門は税金関係だ。その職種については特に不満はないのだが、偶然なのか運命的な巡り合わせか、就職先の職場は彼の想像とは違い、色々と飲み込めない事情が存在するようだ。
 つまり営業的に出歩くこともなければ、日々お客を相手にする窓口業務もない。社員が頻繁に行き来する部所でもない。企画や改革などの進歩的な会議もない。毎日自分の机に向かい、ほぼそこから動くこともなく、同じ面子ばかり見ている状態に嫌気が差しているのだ。
 小規模な会計事務所などでは、本来の仕事以外の雑用も多かろう。それもどうかと思うが、あまりに変化がなさ過ぎる職場と言うのも、まだ若い彼には詰まらなく感じてしまうものだろう。そして、
「その上これだ。新卒の子が使えないから、その尻拭いまでさせられてさ!」
 実は今日、伸は約束の時間に十五分も遅刻していた。その理由は彼の弁の通りである。
 まあ征士の方はその間、予約を入れていたこのレストランで、ゆったり食前酒など楽しんでいたので、伸の遅刻を特にどうとも思わなかったが。否、それより、
「そう言うな、どんな仕事に就こうと面白くない面はあるだろう」
「そーだけどさぁ」
 入社当初は新社会人としての希望に燃え、明るく快活だった伸を思い出すと、些か現状が心配に思える征士だった。
「水準以上の給料を採れているから、こういう贅沢もできるんだろ?」
 と、そこで征士がやや話の方向性を変えると、それについてはニコッと笑って見せ、
「んー。それはそうだけどね。この鹿肉のフォアグラ乗せ美味しいねー」
 いつもの伸も垣間見れたので、今はまだそこまで深刻な状況ではないようだった。
 そう、仕事を選択する基準と言えば、やはり一番に給与面を見てしまうものだ。例え豊かな実家を持つ伸でも、独立しようと思うなら、自力で少し贅沢できる程度の給料を取りたいと考える。故に彼は、中小規模の会計事務所でなく、大手の複合企業に就職したのだ。
 しかし入社して数年、仕事にも社内環境にも慣れ切り、学生時代の友人や周囲の人の職場の話を聞く度に、給与の額面では解決できない問題があると、伸は気付いてしまった。
 今はその、己の失敗を日々嘆いているところである。
「前菜のオマール海老も旨かった」
「うんうん♪」
 ところで、ふたりはこうして月に一度、正式なディナーコースを食べに出掛けることになっている。今日は伸の職場の女性が、何処かで貰って来たタウン誌の情報から、夏のコースメニューに惹かれて銀座のこの店を選んだ。メインディッシュと前菜、スープ、野菜、パンとワイン、デザートでお一人様九千円也。
 それが高いか安いかはともかく、彼等の考えとしては、折角社会人になったのだから、学生の内は似合わなかった大人らしい道楽、大人としてのたしなみを楽しもうと言う、イベントを開催している感覚だ。なので勿論、料理が美味しければ気分も盛り上がる。
 更に今回はそれだけに留まらなかった。
「銀座と言う場所で、外観がいかにも洒落ている割に、目玉が飛び出る程高い訳でもない。知らなかったが意外と良心的な店だ」
 と、征士が満足そうに言うと、
「そうなんだよ…!。お菓子も美味しいしさー」
 伸は小声になって嬉しそうに答えた。お菓子も、と言うのは、この店はどちらかと言うとレストランより、贈答用の高級菓子で知られているからだ。そのイメージと、銀座と言う立地を考えると、リーズナブルと言っていい価格設定には、非常に満足感があった。
 それ故、
「それもこれも、職場が情報源なら仕事に文句を言えないだろうが」
 征士はそう続けたのだが、例え雰囲気の良いディナーの最中でも、伸には受け付けない話のようだった。
「いーや、それとこれとは別だ。どんな職場だって情報交換はできるし」
 まあ確かに、所謂グルメ情報やタウン情報は、業種を問わず何処でも比較的出易い話題だ。単なる趣味とは違い、誰でも食事はするのだから当然である。ただ征士は、
「私は高級レストランの情報などあまり聞かないぞ?」
 そう言って首を傾げる。
「それは君に問題あるんじゃない?。気軽に話し掛けにくい雰囲気が漂ってるんだよ」
「そうか…?」
「お洒落な食べ物やお菓子に興味ありそう、なんて、誰が君に思うんだよ?。せいぜい居酒屋情報くらいでしょ」
 伸の指摘があまりに的確なので、征士は納得せざるを得なかった。
「そうだな…」
「ハハハ」
 誤解のないように付け加えると、伸が言うほど征士は話し掛けにくい人物ではない。彼は仕事が好きで、職場に居る間は非常に意欲的に働いている為、業務上は誰とでも普通に接している。寧ろ頼もしく寄り付いて来る者がいる立場だ。
 但し仕事以外の話題となると、特に女性社員の世間話などには、全く入って行こうとしない。止め処ないお喋りを嫌う男性は珍しくないので、彼が特別おかしい訳ではないが、そんな理由で伸のように、豊富な話題が取り巻く状況ではないのだ。
 人数的に、征士の職場は男性社員の方が多いこともある。そしてそれが伸の悩みでもあった。
「まあ、話題が多いのはいいけど、女子社員だらけはウンザリなんだよ…。同じ業種でも男の方が多いとこもあるのに、何であんなとこ選んじゃったんだろ」
 採用者の趣味なのか何なのか、彼の職場は言う通りほぼ女性社員で埋まっている。現在二十人居る社員の内、男性は彼を含め四人。と聞くと、安易な考えではハーレムのように思われがちだが、実際は肩身の狭い思いばかりするようだ。基本的に女性は集団になると強いので。
「それについては同情するが。運が悪かったな」
 征士もその点に於いては、過去の経験からとても嫌な環境だと解るので、伸の苦悩を自然に労っている。就職前にそれが判っていたら、まず選ばなかっただろうと思う。
「同じ業種の企業、二社見学して『こんなもん』と思ったら、全然雰囲気違うんだもんな〜」
「採用傾向までは、就職情報からは読み取れなかったか」
「うーん…。大手企業の一部門なんて選ぶんじゃなかった。独立事務所に行けば良かったよ、君みたいに」
 君みたいに、と言われると、何と返して良いか征士は判らなくなる。征士にしても、今現在は不満のない状態だが、この先何年も経過した後の結果は判らない。大手企業の方が安定しているのは確かだし、個人に取って後々有利な条件も自動的に与えられる。無論独立事務所の方が、仕事は面白い面があるが、総合的に見てどちらが良いかはまだ判断できないところだ。
 なので、
「まあ…、まだ三年目だ、失敗だったかどうか結論するのは早いんじゃないか?」
 考えながら征士はそんなことを言ったが、
「おや、君らしくないお言葉?」
「やっぱり、そうか」
 伸にはすぐに違和感と捉えられてしまった。
「君が僕ならとっとと転職してるよ。ああもう、一秒でも早く失敗を修正したいってね」
「クク…、無理な慰めはボロが出るな」
「ハハハ!、僕にそれが見抜けないと思ったのかい?」
 付け合わせのアーティチョークを頬張りながら、伸は酷く愉快そうに笑った。
 勿論こんな流れになったのは、伸の悩みについて話していたからであり、征士としては相手の心境を考えての助言だった。伸の言う通り自分が同じ立場なら、一年で見切りを付けたかも知れないと征士は思っている。だが伸は自分とは違うだろう。自分と同じように考えろとは言えなかっただけだ。
 相手に配慮した結果、箸にも引っ掛からない言葉しか言えなかった。
 けれども、実際男に取って仕事は一生を左右する、重大な要素と言えるので慎重にもなる。それ故伸の悩みができる限り穏やかな形で、落ち着いてくれることを征士は願っているのだ。そのことは、言葉として言わなくとも相手に伝わっていた。らしくない助言が何処から生まれたものかなんて、伸に判らない筈もない。
 つまりこうして、ただ現状を話し合うことにもそれなりの意味がある。特別な食事の席を設け、普段は味わえないお客様気分を楽しむだけでなく、如何なる状況でも変わらない相手のとの距離感を楽しみ、同時に安心するのかも知れなかった。自活する上での悩みは尽きなくとも、悩みに対する結論は出せなくとも、君が居れば今は何処に居ても楽しい。それが確認できれば良いのかも知れない。
 日々の、仕事を終えたふたりには。
「あ、ところでさぁ」
 と、そこに至って伸は思い付いたように言った。
「ん?」
「君、何かほしいものある?」
 カレンダーが新しい月に入り、今月九日は無論、ふたりに取って少し特別な日だ。伸はこれまでの会話から頭を切り替え、仕事の不満を聞かせることを止めたのだが、征士はと言うと、
「今目の前にいる人」
 途端に適当な態度になった。
「そう言うお約束はいいから。もうすぐ誕生日だろ」
「それは『伸らしくないお言葉』だ」
 続けてやり返すように「らしくない」と言った。何がらしくないのかと言えば、伸はこれまで人に欲しい物を聞いたりせず、自ずとそれを察知してプレゼントを選んで来たからだ。
 何故今になって、相手の希望を知りたがるのかは理由がある。
「らしくないって言うか、これを貰ったら嬉しいって物、もうあんまりないと思わない?。何を選んでいいのかわかんなくなって来たよ、最近」
 伸がそう話すと、成程、と征士も頷いてみせた。
「まあな…。学生の間は稼ぎもないから、ほしいものを自由に買えない分、気の利いたプレゼントは嬉しかったが」
「そうなんだよ。今は手頃な物は普通に自分で買うし、単純な物を贈ってもつまんないからさ」
 物質的豊かさの時代に生きる人々は皆、何処かしらでそんな行き詰まりを感じることがあるだろう。現状以上の豊かさ、現状以上に価値ある物が存在するかを考えると、金で買える物にはあまり魅力を感じなくなって行く。殊に、それなりの給料が取れる身となったふたりには、壊れた物、旧式になった物を買い替える以外に、特別ほしい物はなくなっている。
 さてそんな時、価値ある贈り物とは一体何だろう?。
「それなら今日のように、食事か何かでいいぞ?。銀座なら久兵衛とか」
 と征士は返したが、伸は自ら言い出したことに納得が行かないようで、まだずっと考えている様子だった。無論久兵衛も却下したいところだろう。
 貰うのが伸なら実は簡単で、ネタがない時はどこぞで評判のお菓子でも買って来ると、それで充分なことが多い。征士は元々あまり「何がほしい」とは言わないだけに、贈る方は智恵を絞ることとなる…。



「それで?、何かリクエストないの〜?」
 夜の銀座は今正に宴も酣と言う時間帯。だが、メインの銀座通りを一本外れると、店の電飾も落ち着いた、雰囲気の良い舗道が続いている。足早に通り過ぎてしまうのは勿体無かった。美味しい食事に満足し、ワインで微酔いになった今は、何とも気持の良い状態だ。ふたりはその高級感漂う舗道の明かりを楽しむように、のろのろと寄り添って歩いていた。
 そしてまだ、レストランで出た話題を続けていた。
「食事では駄目なのか?」
 再び征士は言うが、伸の様子から言って、まともに聞いているかどうか怪しかった。
「何かもっと、特別なことがいいんだけどな〜。光輪の征士様に特別に必要なことが〜」
「酔ってるな?」
「ちょっとね、多分ね…」
 まあ、肝心の話は進まなくとも、アルコールのお陰で伸が、職場のストレスを忘れられているなら幸いだ。勿論アルコールだけでなく、食事、会話、銀座の雰囲気等、今宵遭遇したもの全てが彼に心地良く感じられたのだろう。今の伸は、待ち合わせに現れた時とは打って変わり、酷く御機嫌な様子でにこついている。
 大体、町中でベタベタ体を寄せて歩くなど、少しでも理性が残っている時にはまずしない。深酒をした訳でもないのに、征士が「これは良い展開」と思って当然だった。
 今夜は思いの外良い晩となった。月に一度の食事会は定例行事に過ぎないし、綿密なセッティングをしようと、何事も狙った通り結果が出る訳ではない。だから今の状態は天からの贈り物のようだった。そう、喜びとは不確定性あればこそ、かも知れない。そして喜びとは個人により千差万別だ。征士は最早、自身より伸の幸福を喜んでいるのだから。
「フフフフフ〜」
 何が楽しいのやら、征士の肩口に顔を埋め伸は笑っている。端から見れば気味の悪い光景かも知れないが、征士が嫌がっていないならそれでいいのだろう。
 ふたりはやがて交詢社通りを過ぎ、みゆき通りを駅の方へ曲って、幾つかの横道を越した後、再び名もない通りへと歩き続けていた。本来なら大して時間の掛からない道程だが、まるで時間稼ぎでもするように、ふたりはゆっくりゆっくり歩を進めている。
 否、人間に可能な唯一の時間操作とは、如何に幸福な時を持続させるかと言うことなので、彼等は全く正しい行動をしているかも知れない。
 一瞬の喜びを一分にも一時間にも変えられれば素晴しい。
「キャーーーー!!」
 ところがその時、ビルの裏から女性の悲鳴らしき声が聞こえた。
「何だ?」
 と征士が呟くや否や、
「泥棒ーーーー!!」
 続けて尋常でない言葉を耳にする。夢見心地でボンヤリしていた伸も、はたと正面を向き目を見開いた。
「泥棒だって…」
 まだ九時半を回ったところで、銀座の町は明かりと人に溢れ返っている。言葉通りの泥棒なら、活動時間があまりに早過ぎる気がした。恐らく引ったくりか何かだろう、と征士が思った時、
「わっ!!」
「!!」
 建物の影から走り出て来た男が、伸の肩を掠めて逃げて行った。驚いた伸の頭はそれで完全に覚めてしまった。
 そして、こんな時指を銜えて見ているふたりではない。条件反射のように征士が走り出すと、伸もすぐにその後を追った。かくして事態は、銀座を舞台にした捕物帳へと変わっていた。
 逃げる男と、それを追うふたりの男。しかしその間の距離はなかなか縮まらなかった。未だ人通りの多い町中は思うように動けず、また身軽な服装の犯人に対し、征士も伸もビジネススーツのままだ。
『まどろっこしいな、アンダーギアがあればすぐ追い付くのに』
 と伸は思ったが、取り敢えず相手が視界に捉えられている限り、征士は諦めないことも解っていた。次第に犯人は疲れて行くだろう。相手がスポーツ選手でもない限り、体力のある方に軍配が上がると知っているからだ。鎧戦士を降りた今も、日々の鍛練を続ける彼はこんな場面で頼もしい。
 男は、晴海通りを真直ぐ有楽町方向に逃げていた。追っ手が居なければその辺りの駅で、乗り物に乗る予定だったかも知れないが、万一駅に入って電車が来なければ、袋の鼠になってしまうと気付いたのだろう。有楽町駅を過ぎ、更にその先の地下鉄日比谷駅も通り越し、日比谷公園へ逃げ込もうとしていた。
 だが、只管に目標を追い掛ける征士は、必ず相手を捕まえるだろうと、その時伸はふと確信を得た。犯人の足取りがかなり覚束なくなっていると、遠くからでも確認できたからだ。そこで、
『このまま追ってってどうする?。征士が掴まえたら…』
 伸はもうその後の処理を考え始めていた。どうにかふたりで押さえ込んで、警察に連絡をしなければ。この場合下手な暴力行為はできない。最も良い方法は周囲に居る人間に助力を頼み、人海戦術で押さえ込むことだが、上手い具合に人が捕まるかどうか…。
 と、その時。伸が公園の入口に辿り着くと、その奥で激しい足踏みや呻き声など揉み合う音がした。どうやら征士が追い付いたようだ。伸は急いで音のする方向へと走り出す。公園内に外灯はあるが、そう何処もかしこも明るい訳ではない。当然犯人は暗い場所を選ぶので、伸もまた木々の影を分けるように進んだ。
 しかしその途中、まだ伸には何も見えない時点で、
 ザッバーン…
 不穏な水音がした。もしかして揉み合う内に池に落ちたか!?、と嫌な予感の内に視界が開ける。するとそこに、呆然と立ち止まる征士が居た。
「何してんだよっ!」
「あー…」
 そこまでの経過。征士は犯人の腕を掴まえ、柔道の技の如く投げを打った。相手は疲労困憊していることもあり、そこで一旦大人しくなった。けれど、征士がそれ以上何もしない様子を見ると、隙を見て目の前の心字池に飛び込んでしまったのだ。
 逃げようと必死な人間は何をするか判らない。水に飛び込んだからと言って、川や海のように何処かに繋がっている訳でもない、ここは単なる池なのだ。ただ、暗く底の見えない水に入ろうと言う、踏ん切りがつくかつかないかの問題だった。
「ええいっ!」
「おい…!」
 伸はやって来た勢いそのまま、威勢良く池に足を踏み入れていた。目前の敵をみすみす逃すようでは、元鎧戦士の沽券に関わるとでも思ったのだろうか。
 否、理由はどうあれ、如何なる水場も恐れない彼は流石に水滸だと、征士は関心しながら携帯電話を取り出していた。
「もしもし、泥棒を追い掛けて掴まえたのですが…」
 かくして夜の銀座の追走劇は終わった。その後征士が公園の警備員を連れて来ると、ふたりに代わって男は押さえられ、後は警察の到着を待つのみとなった。
 しかし思いも寄らない事態になったものだ、と、征士は夕方からの出来事を回想しながら、今はずぶ濡れとなった伸の肩に手を遣り、その勇気ある行動を労っている。伸の方は、征士の失敗を怒る様子でもなかったが、疲労から来る放心状態の中で、ぼんやり何かを考えているようだった。
 始まりは仕事の遅れによる十五分の遅刻。不可抗力とは言え、伸に取ってはそれも珍しい出来事だった。そして更にこんな珍事に繋がっていようとは、誰が想像できただろう…?。
 否、想像できないからこそ、思わぬ喜びや幸福が生まれることは、先に述べた通りだ。

 後にふたりは、東京・中央区の警察署から感謝状を貰うことになるが、その前に、この銀座の夜の特殊な出来事が、征士の今年の誕生日を左右することとなった。



 六月九日、朝。
「はい、プレゼントだよ!。お誕生日おめでとう!」
 征士が日課の素振りを終えて部屋に戻ると、伸は朝食より先に、ラッピングされた封筒のような包みを渡した。
「そう言えば、結局何にしたんだ?。単純な物は嫌だと言っていたが…」
 征士は忘れていたようだが無理はない。あれから伸は、プレゼントに関しては何も話していないのだ。しかし、妙ににこやかなその態度を見ると、余程自信のある何かを選び出したのだろう、と征士は感じた。そしてその通り、
「そうだよ。丁度君に必要な物を見付けたからね、今年はすごくいいプレゼントだと思うよ!」
 と伸は続けた。言い方に多少の疑問を感じるものの、当麻や秀ではあるまい、笑いを取る為のジョークと言うこともないだろう。征士は目の前で止まっている伸の、今すぐ中身を見てほしそうな様子を見て、促されるままにその包みを開けた。
「何だ…?」
 封筒状の包みの中から、商品券のような冊子がひとつ現れた。所謂ビール券やデパート券に比べると、半分くらいの大きさで枚数はかなり多い。表紙には何も印刷されていなかった。首を傾げながら征士がその表紙を捲ると、印刷された文字を見て、
「…そう言うことか…」
 嬉しい贈り物の筈が、征士は何故か溜息を吐いてしまった。
 それは、近所のスイミングクラブの回数券だった。そして伸の言わんとしていることは、聞かなくとも重々理解したことだろう。
「先週日比谷公園で僕はつくづく思ったよ。ああいう大事な時に躊躇うのは、君の体力から言って勿体無いよ。これを機会に、水に対するニガ手意識を克服しよう!」
 まあそうかも知れない。あれだけ勢い良く追い掛けておきながら、大して深さもなさそうな池に入れないのは、何処かに抵抗感があるからかも知れない。冬の海に飛び込む訳でもないのに、それに似た恐怖感があるのかも知れない。思い返せば過去に、征士は水に溺れかける幻想を見たことがあったが、そんな記憶が二の足を踏ませたのかも知れなかった。
 また伸ならばともかく、高価な服や靴を汚したくないなどとは考えないだろう。征士の場合。
 だから訓練が必要だと思われた、訳だけれど。
「泳げない訳ではないのだ」
「それは知ってるけど、有難く貰ってくれなきゃ困るよ?。多分久兵衛の寿司より高いから!」
「む…、それは蔑ろにできないな」
「ハハハハ!」
 征士の困惑顔を見て、伸は勝ち誇ったように笑ったけれどその前に。
 今も昔も、伸は何らかの理想を征士に見ている。自分に不可能な生き方のできる人間を、鏡に映る分身のように見詰め続けている。ある意味では希望の象徴だ。そしてそれに気付いてしまったからには、征士もやらざるを得なかった。

 その日の仕事帰りから、早速征士はひと泳ぎして帰ることになった。今年はとんだ誕生日プレゼントを貰ったものだ、とは思うものの、家に戻った時の伸の顔を想像すると、寧ろ楽しみが増えたようにも思う。何故ならきっと、単純な喜びとは違う表情をしているだろうから。
 仕事を終えたふたりには、いつも何かしらの幸福が待っている。









コメント)このタイトルは高橋幸宏さんの曲なんですが、仕事帰りの町中での、大人の恋愛を歌ったステキなイメージの曲で、そういう話にしようと思ったんだけど最後は私らしいオチ(笑)。
とりあえず楽しんでもらえたらもう充分よ〜(投げやり)。
あ、最初に出て来た銀座のレストランは、文中の説明に当て嵌まるお店は数軒あるけど、何処でも好きな所を想像して下さーい。


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