ナアザと宇宙
Eclipse



 昼間の煩悩京。
 その日、倒壊した建物を排除した空地には、朝から民人の長い列と話し声が満ちていた。阿羅醐時代には見られなかった穏やかな人集り、人々の明朗な表情、珍しく子供の泣き声も聞こえる。常に殺伐としていた町中の一角で、漸く住民と政府との連帯感が見られるようになった、この世界には嬉しい出来事だった。
 政府と言っても、無論迦遊羅を中心とした極少数の集まりに過ぎない。まだ組織として何ら確立されたものはなく、個々の役職もなければ、定められた議場も存在しない。故に今はまだ本来の政治的活動より、妖邪帝王と共に失われたこの土地の秩序を見直し、崩れた世界を整備することで手一杯だった。誰もがまず目先の事に奔走するばかりの、今は混迷に生きる時代だ。
 しかしそんな中、迦遊羅の肝煎りで実施された全く新しい試み。何が行われていたかと言えば、地上で言うところの健康診断である。当然そこには那唖挫が駆り出されていた。
 嘗ての煩悩京では、過去の日本の歴史同様、それなりの権力者でもなければ、医師に罹る機会など殆どないのが通例だった。これと言った立場を持たない民衆は、売薬なり民間療法なり、各々の智恵で命を繋ぐしかない。それで駄目なら死を待つしかなかった、弱い子供は自然に淘汰されて行った。それでも歴史は続いて来たのだから、強ち悪い社会とは言えない面もあった。
 ただ、今は少なくなった人口をこれ以上、減らさぬよう考える必要がある。絶対的な力を持つ主を亡くした、広い妖邪界全体を治めるには人数が必要なのだ。
 迦遊羅はいつかそんな考えに至り、まず人民の集中する煩悩京にて、ひとりひとりの健康状態を見ることを始めた。その初日である今日の結果は、予想以上に広く理解を得られたとして、実施した側にも充分な満足感が得られたようだった。
 まだほんの取り掛かりではあるけれども。

 その日の昼下がり、と言って差し支えない頃、
「那唖挫殿、」
 庵の庭先に迦遊羅が現れ、慌ただしく過ぎて行った出来事に対し、
「今朝方はご苦労様でした」
 と声を掛けた。
「改まって礼を言われる程のこともない」
「ですが、皆喜んでおりましたよ。こんな中でも小さな子供を抱えた一族もおりますから」
 縁側に座し、その新たな活動に使われた道具を片付けていた、那唖挫は言葉通り表情も変えずに返す。実際は数千人もの人々の、相談を聞くだけでも大変な労働だった筈だ。だが彼はそんなことをおくびにも出さず、普段と変わらぬ態度を見せるばかりだった。
 恐らく彼なりの、実験的な試みへの歓迎の表現なのだろう。
「ここに来て漸く、某か目新しいことに手を付けられた、と言うところだな」
「そうですね」
 ただ、迦遊羅の返事が些か弱含んで聞こえたのは、まだたったそれだけ、と言う思いが強いからに他ならない。改善すべき問題も課題も山とある中、煩悩京と言う一地域での、ひとつの仕組み作りに着手したと言うだけだ。勿論何をするにしても、施行して即全体に行き渡るなどということは、この広い妖邪界では無理な話だろう。煩悩京の外には、地形さえまともに知られていない場所もあるくらいだ。
 全てを把握し、全てを統治するのは恐らく不可能だった。そもそも阿羅醐が創造した当初から、この世界は中心から離れる程曖昧な構造になっている。否、普通の人間にしても、宇宙が膨張し続けていることを実感する者は、誰も居ないのと同じことだが。
 それ故、せめて目の届く範囲を平和的に構築し直し、後は時間をかけて、段々と周囲に波及して行くよう考える。気の長い計画だが、少しずつ、一歩ずつやって行くしかないところだった。
 そんな現状について、
「本来なら、重篤な事態を訴えに来る前に、異常の兆しのあるなしを把握すべきなのだろうが」
 と、那唖挫は溜息混じりに話した。そう、過去の地上も恐らくそうだっただろうが、病気等は明らかな異常が出るまで、見過ごされて来た事実がある。知識がない訳ではない、ごく一部の限られた者しか、その恩恵に与れない階級社会が存在したからだ。
 階級社会と言えば、今でこそ悪い響きに捉えられがちな形式だが、人の進化の過程の中では、それなりに意味があり効率の良い社会でもあった。如何なることも優秀な者を優先し、そうでない者には権利を与えない代わりに無理を強いない、その形で人間は長く種を繋いで来たのだから、決して悪の根源的な扱いを受ける考え方ではない。
 ただ古いと言うだけだ。より多くを生かす為に、今は地上の人間達を見習い、ひとつ先へと進まねばならないだけだ。
「地上にはそのような仕組みもあるようですが、ここですぐ実現できるとは思いません」
 迦遊羅はそう返し、また地上と妖邪界との歴史の違いを悲しんでいる。千年の昔から比べれば、この妖邪界もそれなりの進歩をして来たが、地上のそれには遠く及ばないと実感できる。否、迦遊羅と魔将達は皆室町後期の生まれだが、その後の四百五十年のみを比較しても、差は歴然としたものがあると言うことだろう。
 日本と言うたった一国の離れ小島を祖とし、他の干渉を受けずに来た世界には限界があった。まして力による侵略のみを考えていた国ならば。
 そして、愚かな歩みを修正すべく迦遊羅は、
「医術の覚えのある者も足りませんし、記録する者も必要です。常に一定の人手を集められるかどうか、その前に何処に誰が居るか、戸籍の登録も侭ならない状況ですから」
 確と現実を見詰め、今は苦しくとも、問題に向き合うことを自ら提言していた。そうした彼女の理性的且つ前向きな判断が、今の妖邪界の拠り所と言って過言ではない状況だった。
 恐らく迦遊羅の理想は、地上と同じ発達を見ることではない。妖邪界の民は皆、言ってみれば古代人の集団であり、誰も急激な近代化を望んではいないと知っている。あくまでも古来の文化を土台とし、その上に共和的な仕組みを成立させることだ。それは不可能ではない、と考えるからこそ、魔将達も他の権力者も、迦遊羅への協力を厭わないのだが。
 ただ、那唖挫にはそれとは別の心配事があった。
「人手に関してはまだ良い」
「他に、何か?」
 迦遊羅は、少なくともこの件について、真摯に考えているらしき那唖挫の話に注意深く耳を傾ける。そして意外な問題点を更に知ることとなった。
「阿羅醐が…、無理な日食など起こしたばかりに、天の運行が変わってしまった。この先何年かは作物の出来の悪い状態が続くだろう」
「はい…」
「それはこっちも同じだ」
 そう、彼の言う問題は天候の不順から、植物由来の薬品が入手し難くなることだった。無論食物の不足が起これば、栄養失調から来る病も出て来るだろう。
 怪我の治療にしても、病気の回復にも薬は必要だ。那唖挫の庵には様々な植物の茂る畑があるが、個人で世話できる程度の実験植物園でしかない。また食物以外のものを栽培する農家も、現状は皆無と言って良かった。薬草は皆自生するものを摘み取り、適宜使用して来ただけなのだ。
 そんな習慣自体を変えて行かねばならない。新たな都を支えられるだけの人口を生かす為に、民衆の意識をも改善して行きたい。だがその駆け出しのこの時期は、気候的な悪条件に見舞われると言う状況だ。
「この数年を乗り越えなければな」
 那唖挫が言うと、迦遊羅にも充分その危機感が伝わったらしく、
「ええ、その通りだと思います」
 と答えて、彼女は苦々しく口を結んだ。思うことは様々あれど、既に変わってしまった状態を戻すことはできない。阿羅醐の計画は始めから決まっていたのだから、結局自分達には、過去のままの妖邪界を維持することはできなかったと、改めて思い知るだけだった。
 残された者に取っては、故もなく煌々と照らし続ける陽の光。
「このカラ天気と来たら、憎々しいにも程がある」
 最後に那唖挫は独り言のように言って、迦遊羅の抱く心情を慰めていた。
 既に亡き者となった創造主の、嫌がらせのようにも感じる世界の現状。町の機能は一部が停止したまま、町の外は更に荒れ放題の様相で、人々の心は沈み活動も衰えている。洗脳であったにせよ、熱狂を伴う目的を失った人々は、今や捨てられた部品の如く静まり返っている。正にここは捨てられた世界なのだ。千年の悲願を達成した後、元々放棄される場所だったに違いない。
 しかし、だから負けたくないとも感じる。嘗ての支配者の思い通りにはしたくない。この妖邪界が予定外に残ったからこそ、我々は贖罪の希望を持つことができる。
 我々は帝の庇護から生まれた訳ではない。我々には我々の本来の命があるのだと、これからの生き様を以って示すべきではないか。
 那唖挫の思うところが、迦遊羅に伝わったかどうかは定かでない。否、言葉による考えなどどうでも良かった。今、暦の上の気象変化が、病のように世界を蝕みつつある現実。立ち上がろうとする者達には厳しい試練だが、その先を見続けることで解決して行くしかない。先導する立場の者が皆、心折れぬようにと願うばかりだった。

 迦遊羅の姿が見えなくなった、縁側にて那唖挫は今一度空を見上げる。
『悪奴弥守め、こうとなったら昼の叙情を説けば良いものを』
 いつぞやの宵に、彼のした例え話を思い出す。夜の月に見る安らぎは過去への愛しみ、苦悩を強いられる昼間への悲しみ、ゆらめく未来への不安な感情、様々なものを映し出す鏡だ。常に夜であり影として存在したこの世界の、有り様をそのまま現しているようでもある。だから誰もが心惹かれる。誰もが親しみを感じながら夜空を見ている。
 今はまだ多くの者が、過去から抜け切れずにいるので仕方がない。だが夜の美しさばかりを珍重すべきではない、と那唖挫は思い返していた。少なくとも天に陽が存在しなくては、生物は生きて行けないのだ。そして光あるからこそ闇もあるのだと、悪奴弥守ならよくよく解っている筈だった。
 慈悲深い夜に馴染み過ぎることを止めよ。
 強引に陽を開いたお陰で月は閉じた。
 月の通路が開いていた頃は、並の兵士達も妖邪船すら地上へ送り込み、大軍勢による戦闘と破壊が可能だった。それは同時に、誰もが取り戻したいと願う故郷へ出向くことだった。地上への渡りは正に希望だった。しかし、今は阿羅醐の鎧を持つ四人のみしか、地上へ降りることができなくなった。万一ここに何かが起ころうと、力のない民衆は置去りにされてしまうと言う訳だ。
 如何に熱望し待ちわびようと、何処へも出て行くことはできない。誰も、この長い昼間の世界から逃げ出すことはできない。
『月にはもう何もありはしないのだ』
 夜の月から得られる安らぎは、単に陽の光の反射だと言うことに、人々はいつ頃気付くだろうか。



 それから暫しの時が過ぎ、いつもそうするように、那唖挫は板間に苦参や柴胡などの包みを広げ、根を乾燥させる為の陰干しをしていた。また藜などを薬研(やげん)で粉砕する作業を始めていた。迦遊羅には尤もらしいことを話した手前、己の期待される役割を怠ける訳にも行かない。
 体を動かすことに比べ、地味で退屈な労働は尚気が滅入るようだったが、何れ無心で没頭するようになれば、腹立たしい程長い昼間も快適に過ごせると言うものだ。夕暮れを待ち遠しく思うことなく、知らぬ間にそうなっていれば何より幸いだった。
 そうして淡々と、何ら変化もなく時が過ぎて行く。
 ところがその日。
 迦遊羅の現れた庭先に、バタバタと慌ただしい足音を聞かせながら誰かがやって来た。否、誰かと言う前に那唖挫は気付いていた。そして俄に身構えていた。
「貴様…」
 庭木を掻き分け、何かに憤るような険しい顔をして、そこに姿を見せたのは悪奴弥守だった。そしてこんな様子でやって来る時は要注意だと、那唖挫は手早く身の回りの道具を端に寄せる。
 何が要注意かと言えば、
「やめんか!」
 悪奴弥守はやって来た勢いそのまま、無言で庵の中に上がり込むと、那唖挫の着物の襟を掴み後ろの壁に押し付けていた。そして乱暴な行動とは裏腹に、些か震えるような声で懇願する。
「た、頼む」
「・・・・・・・・」
 慣れた事情とは言え歓迎する筈もない、と言う、明から様に嫌な顔を那唖挫はして見せた。
 夜更けから朝方にふらりと現れ、勝手に人の家を塒にしている、普段の悪奴弥守の行動は奇異ではあれど大人しい。彼は元よりお喋りな人間でもなく、家の中を荒らす訳でもなければ、ただ眠りに来るだけなら御愛嬌で済んでいた。
 但し、しばしば昼間の内に訪れる時の、彼の中での感情の高まりは理解し難いものがあった。何が切っ掛けであり発端なのか知れない。まるでさかりの付いた獣だ、と、那唖挫はいつも疎んでいるのだけれど。
 説教をする間もなく、袷を開き膝に割り込んで来る悪奴弥守の動作が早く、結局いつも済し崩しになってしまうのだ。否、何をそんなに急いているのか、面白く感じてしまう面もあるからだ。
「まったく…貴様と言う奴は、」
 まるでひと月も追い回した獲物に、漸くあつりけたかのように肩口にかぶり付く、逸る意識を押さえられない悪奴弥守には、最早那唖挫の小言など聞こえないだろう。
「如何ともし難い…」
 せめて白昼のことでなければ、人として認められる程度の秘密に納まるものを、と思う。
『野の獣にも天然の畏怖はあるだろうに』
 けれど、そのように人間然とした理性や羞恥を越え、尚人間的で在れる悪奴弥守は面白い存在だと、いつしか達観して見ている那唖挫。
 押さえられないのではない、相手を知って敢えて押さえずにいるのだ。そう、ガツガツと餌を貪る犬の食事を見ているようだ。こんな荒っぽい扱いをされては、花街の女共も仕舞いには逃げ出す。故に悪奴弥守はここにやって来る。否、何故己なのかは知れないが、彼なりにそれで上手く纏まると思っているのだろう。
 決して受け入れたくはない。何故同じ男に押さえ込まれ、身を削る思いで貫かれなければならぬ。無闇に暴れる欲望のまま貪られねばならぬ。限りなく無骨で直情径行の男、何ら知的なところもなければ、ただ頂点へと向け突き進むだけのこの男に。然も白々とした昼のしじまに。
 だが、考え付く罵詈雑言を頭の中に並べながら、そして眉間に皺を寄せながらも、那唖挫は彼に付き合ってやっていた。それが武士の情けと言うものか、単なる哀れみなのかは判らない。

 一頻りの時が過ぎた。
 苦悩の時は永く、安楽の時は短く感じるものだが、さてどのくらい陽は傾いただろう。様々な薬草が広げられたままの板間には、それぞれ某かの苦悩より解放された男がふたり、今は乱れた息を整わせ微睡んでいた。
 通り抜けて行く風が、何事もなかったように皮膚の上を掠めて行く。明るい時間帯のこと故、思わぬ闖入者に出会す可能性もある筈だが、過ぎてみれば何に脅かされることなく、今はただ躯に篭る熱が気だるく残るばかりだった。
 悪奴弥守は、動物的な勘に冴えた人間だ。恐らくこの時間帯、誰もここに近寄らないと気取った上でやって来たのだろう。常にそうであるから、今のところ誰もこの習慣的密会を知らない。無論それに越したことはないが、知られないからと言って、押し込まれる側の口惜しさが変わるものでもない。
 ほんの少し前なら、屈辱的な辱めとしか受け取れないことだ。
 なので那唖挫は、
「まこと貴様は、腹を空かせた野良犬のような」
 今更ながらひとつ厭味を言って、また今の己の微妙な気持を次の言葉に現す。
「悪食に過ぎるぞ」
「フ、ハッハハハ…」
 それを聞いて、悪奴弥守はさも可笑しそうに笑い出した。確かにどちらの悪趣味を指しているのか、判らない言い分だった。けれど悪びれる様子もなく、悪奴弥守は至って真面目な顔をして答えた。
「何と言われようと構わぬ、俺は元々雑食なのでな」
 そして横たえていた身を起こすと、普段の通り不機嫌そうな顔をした那唖挫の肩を捉え、確と力を込めて握った。
 那唖挫が感じている、何とも言い様のない状態への配慮だろうか。否、配慮とまでは行かない、己の生来の悪を認め受け入れているからこその、穏やかな態度と言えるものだ。ある意味開き直りでもある。
 だが、生物的外道と知って、それを隠さず居られるのは大したことだと思う。傲慢だとも言えるが極めて自由だとも思う。だから那唖挫はそれ以上何も言わなかった。この閉鎖的且つ封建的な妖邪界に於いて、こんな人物が存在することも、それなりに意味を持つと考える以上。

 そうして嵐のような一時が去り、悪奴弥守の姿が見えなくなった後、湯殿にて僅かずつ赤らんで来た空を、桟の向こうに見ながら那唖挫は考えていた。
『昼夜が逆さまなのだ。夜行性の生物は皆そうかも知れぬが、大概の者には迷惑この上ない』
 確かに、本来秘め事であるべきことをわざわざ、明るい内に行うのはおかしな発想だ。否、思考の上ではなく、日々の回転の仕方がそうさせるのかも知れなかった。悪奴弥守に取って、最も能力を発揮する活動期間は夜だ。碾いてはその間が彼の理性であり誠である、とも言える。だから彼は夜中にはやって来ない。日の出に掛かる明け方から宵の内にしか、戯れに訪れることはないのだ。
 それはそれで良いだろう。それぞれ違う特徴を持った魔将ならでは、引き続きそれらを生かして然るべきだろう。ただ、那唖挫は常にそう思いつつ、ひとつだけ腑に落ちぬこともあった。
 悪奴弥守は、至極冷徹な心を以ってこの世の夜を眺める筈だが、何故月に幻想を抱いたりするのだろうと。阿羅醐時代の希望を現す架け橋、月の輝きがどれ程過去の我々を惹き付けたとしても、今は単なる明かりと成り果てたことを知りながら。
『今宵は新月が三つ…、あ奴も馬鹿な夢は見ぬであろう』
 まだ縁取りとしか言えない、白い月の細い輪郭を見て那唖挫は溜息を吐いた。夢を貪るばかりでは何も生まれない、昔を愛しんでいては先へ進めない。悪奴弥守とて、過去の停滞に戻りたい訳ではないだろうが、全ての者に着けられた足枷が、あまりに魅力的な光を放っているからだ。
『地上の光が幻なら、現は毒の沢に藻掻くことだ』
 無論誰にも、等しく地上の記憶があることは確かだが、地上の太陽は幾度月に侵されようとも、変わらず万人の上に輝いている。
 希望とはそう言うものでなくては。



 善か悪か、禍々しさを燃やし続ける陽も落ちた。
 その日は、長過ぎる昼間を持て余すことなく、充分に思える仕事をし、考えようによっては面白いと言えることにも遭遇し、那唖挫にはそれなりに有意義な一日となった。
 漸く待望の夜が訪れ、辺りが闇に包まれると、夜風と共に心地良く疲労が感じられる。風は何処から吹いて来るのか、盃になみなみと注がれた酒の、水面も仄かな小波に揺れていた。これがもし月の明るい晩なら、咽び泣くような叙情の趣が盃に楽しめただろう。水に滲む月とは何故か、遣る瀬ない記憶を奥底から運び出し、諸行無常の今を微笑ませるものだ。
 そんな一時の感傷に華を添える意味では、月明かりも良いものだ。
 盃に口を付け、那唖挫はふと思った。そう、揺らめく月を見るように、過去の栄華も愚かしさも皆、今この時の為に在ると考えられれば良いのだと。人間胸の痛みなくして、個々の進歩は認められない。この妖邪界も致命的な傷を負えばこそ、その昔を懐かしく、密やかな笑みさえ零れるほどに感じられる。笑いは一種の悲しみだと言われるが、その逆もまた然りだと思う。
 陽も月も、既に仕掛けを失くしたはりぼてに過ぎない。その実体に心寄せるのではなく、我々は我々の望む月を観るべきだ。無論何れは、誰が言わなくともそうなるだろうが、今を苦しむ者には気付いてほしいことだった。
 永く不変であったこの妖邪界にも、今は変化の風が吹く。無常であるからこその幸を思い出すことも、この世の課題かも知れない。
 と、物思いしつつ、盃に残る酒を一気に飲み干してしまうと、那唖挫は一度奥へと膳を下げ、再び外の見える畳の間に戻って来た。今は他に誰の姿も無い、那唖挫の庵は緩くさざめく草の音や、幽かな虫の声が時折聞こえ来るばかりだ。この夜はこのまま、夜気に紛れて静かに消え入りたいものだ。
 ところがその時、風の仕業とは違う庭木のざわめきがあり、那唖挫は音のする方へと寄って行った。
「誰だ」
 と尋ねても返事はない。途端に嫌な予感が那唖挫の頭へと昇って来る。そして、縁側横の植木に潜む男を見付けると、
「何をしておる」
 案の定と言う相手に、腕組みして見下ろしながらそう続けた。
「何、竹林を見にな」
「・・・・・・・・」
 低木を背に、蹲るように座っていたのは螺呪羅だった。魔将達の中では比較的明るい気質を持つ彼だが、その様子は妙に大人しく縮こまって見える。本人の言動から察するに、何らかの思いに沈む心を慰めにやって来た、そんな印象の幻魔将だった。
 ただ、だからこそ那唖挫は警戒を見せている。極たまにだが、螺呪羅がこんな風に現れる時は要注意なのだ。何が注意かと言えば、悪奴弥守の時と同じことである。
 螺呪羅はその場を立ち上がると、縁側に立つ那唖挫の、常に不機嫌そうな顔を見上げて言った。
「おや、顔色が優れぬな?、那唖挫」
「優れぬとも」
 実際は暗いばかりで、顔色など窺える状況ではない。だが螺呪羅の意図することを受け、那唖挫はその通りの優れぬ心境を語る。
「貴様の考えが判るからだ」
 ところが螺呪羅の方は、嫌がられているにも関わらず、尚馴れ馴れしい態度で那唖挫の足を取って続けた。
「ここに在って唯一の薬師が、そんなことでは皆が困るだろう」
 まあ、本当に顔色が悪いとしたらその通りだが、挨拶としては馬鹿馬鹿しい遣り取りだ。那唖挫は螺呪羅が、何を求めてやって来るかを知っているので、全く妥当な言葉を以って答える。
「その通り、俺は薬師であって、妙薬そのものではない」
 もし那唖挫が、地上で言う精神科医のようなものであったら、それこそ適切な治療をする場面だった。夜にかこつけ身の不安を訴えに来るなど。しかしこの妖邪界では、そうした分析医学は発展途上のままだった。その分野での何らかの処置を求められても、那唖挫にはどうすることもできない。勿論それは螺呪羅にも解っていて、
「どっちでも同じことだ、俺には」
 と彼は返し、縁側に座る序でに履き物を放り捨てていた。
「貴様なぁ…」
 那唖挫は言って、結局人の話を聞かない相手に苛立ちを見せる。どいつもこいつも全く、安心し切って人の領域を侵害して来る。魔将とは言えどあまりに不躾だ。無論ほんの少し前までは、夜の渡りどころか顔を合わせば文句ばかり、喧々囂々と交わすだけの間柄だった。それが何故こんな転化を見せたのか。
 だがそれでも、那唖挫は心底から怒っている訳ではなかった。優しさでもなく、哀れみでもなく、那唖挫自身にも解せない感情が蠢いている。世の平和と仲間内の平和を天秤にかけることは難しい。ただ、現行の世を率いて行く立場の魔将が、先達て不安定では問題だとも思う。
 なので、特に許諾を得もせず、座敷に上がり込んだ螺呪羅を追い出しはしなかった。
「貴様の減らず口に付き合うのは沢山だと言っておろう」
「なら黙っているとしようか」
 そして、これから何がどうなるかは想像に易く、諦めるしかなさそうな成り行きだった。
『何と巡り合わせの悪い日』
 那唖挫にはそうとしか言い様がない。これまで二者の来訪がかち合うことはなかった。どちらにしても頻繁とは言えぬ間隔で、正に「忘れた頃にやって来る」ものだった。忘れていられる時が充分に存在するからこそ、迷惑者達を許せているのかも知れない。
 だがその時那唖挫は、少しばかり面白い理屈を思い付いた。
 長い周回を続ける惑星同士も、何年かに一度、何十年かに一度は交差する時が来るが、それはまるで日食の驚天動地の騒ぎのように、怖れを抱きつつも感動的な一瞬だと。別段今のこの事態を喜ぶ訳ではないが、滅多に起こらない事が起こる巡り合わせの妙は、ある意味人生を面白くするからくりだと思った。
 この世界にはもう何も無い。だが人が存在する限り愉しみも存在するだろう。人の数だけ交錯する面白さがあるだろう。
 螺呪羅が何をどう考えるか、正確なところは測り兼ねるが、彼もまたそんな意識を以って模索しているのではないか。でなければ、ほんの一時の気休めに過ぎない体の快楽など、安易なものを求めたりはしない。だが人間は、そんな詰まらぬ事にも没頭し、無闇な情熱を燃やすことで胸の閊えが取れたりもする、奇妙な能力が備わっているので。そんな事で前を向けるならそれも良いと思えるので。
 決して、受け入れたくはない。何故己が同じ男に弄られ、遊興の内に精を吐き出さねばならぬ。有りもしない身の欲求を焚き付けられなければならぬ。狡っ辛く抜け目ない、ある面では信用の置けぬ男。小手先の技が優れるばかりで、実が伴わぬ阿諛追従に生きるこの男に。
 だがそれでも、己の置かれた中庸の立場を恨めしく思いながらも、那唖挫は彼を許すだろう。身の回りの回転こそが己の、或いは全体の回転へと及ぶかも知れない。詰まらぬ事でも良い。何事も起こらなくては、何を始めることもないからだ。
 命は常に躍動しなくてはならぬ。

 それから更に、夜は黒々と更けて行った。
 既に僅かな衣擦れの音さえ止んで、穏やかな沈黙だけがそこには在った。
 閨の乱れた布団の上には、那唖挫が疲れ切った様子で顔を伏せていた。最早夜の穏やかさも静けさも、安穏と楽しめる心境ではない。兎に角多くの事が通り過ぎて行った一日が、速やかに幕を下ろしてくれることを願うばかりだった。最後には己の為と納得しながら、しかし、こんなにも他人に妥協する必要があるのか、今を以って考え続けながら。
 螺呪羅はその布団の横の、畳の上に肘を衝いて横になっていた。自ら宣言した通り何も言い出さない螺呪羅は、まるで晒されるままの倒木のようだった。何処から入り込んで来るのか、先程と変わらぬ風が彼の前髪を掠めている。はだけた着物の端もまた、鬱陶しくゆらゆらと風に揺れている。それらが気にならないのか、彼は微動だにせずそこに落ち着いていた。
 饗宴の時が終わり、今はあまりにも静かで閉じている。それを嫌ったのか何故だか、那唖挫は眠りに落ちる前に淡々と話した。
「貴様に取っては、何処の誰でも構わぬ筈だ。誰もかも身代わりでしかない」
 それにぴくり反応を見せた螺呪羅。
 言われたことは動かしようのない事実であり、何も反論はできなかった。心には別の何かを思い、行く宛てのない感情を代替としてぶつけられる相手は、正に迷惑千万に感じることだろう。この場に於いて那唖挫には何を言われても仕方がなかった。だから多少落ち込んでもいる。
 だが那唖挫の方はそんな螺呪羅の、意外に消極的な在り方に面白さを見ている。真に欲しがっているもの、何より大切に思うものには、彼は決して近付かないのだ。対象を穢すと考えるのか、変わった愛情の掛け方もあるものだと、感心してしまう程だった。
 ある意味従属的思考であり、酷く理想が高いとも言える。ただ、そんな性質に縛られた生物は些か哀れだとも感じる。否、本人がそれで満足なら構わないけれど。
「可哀想な奴よ、触れられぬものを何処にか見るばかり」
 続けて那唖挫が、嫌味とも哀れみとも取れることを言うと、それまでこれと言った表情を作らずにいた螺呪羅は、思い立ったように笑って返した。
「ならば、これからは那唖挫を見ているとしようか」
「気色悪いことを言うでない」
 無論戯れ事だ。長い付き合いの上でもある、既に腹の探り合いをする必要もない。ただ、今一時がそれなりに愉しければ良いだけのことだ。
「さすればもっと良い顔をしてくれるのだろうな?」
「もっとも何もあるか。顔は変えられぬわ」
「クックッ、そうかねぇ」
 螺呪羅の気の明るさの裏にあるものが確と見える。そんな時は嫌々でも、甘んじて誘いに乗ってやる那唖挫だった。己を己らしく保つ為に、螺呪羅が自ら必要だと赴くのだから仕方ない。



 月は陽を喰らう。大地は月を喰らう。しかし絶望の時はそう長くは続かないものだ。生まれ出ずる新たな月を見よ、新たな陽の昇り行くを見よ。そして我等もそう在らん。
 今は数多の失意に蝕まれようとも、足掻くことを繰り返そうとも、何れ誰もが望む形に収まるだろうと信ずる。ならばこの混乱の時をも易々と愉しみ、年の巡りを只管に待つのみだ。
 誰もがそうであれば良い。

 闇の中をひたひたと、誰かの近付いて来る音がした。行灯の火はとうに消され、庵には他に明かりのひとつも無いが、板を踏む足音は確実に閨へと向かっていた。
 気付けばすぐ足元に誰かが立っている。
「・・・・・・・・」
「ら、螺呪羅!、何をしている…!」
 言われた本人には見えなかったが、その声で容易に相手は知れた。夜明けが近付くとここに現れる悪奴弥守だった。だが、
「貴様こそ何だ、こんな夜更けに」
 螺呪羅は悪奴弥守の、夜毎の奇行的行動を知らなかった。そして、
「貴様こそ、ではない!、何だその格好は!」
「いやまあ…色々と…」
 悪奴弥守の方も、螺呪羅が時折那唖挫を訪ねることを知らなかった。三魔将の内でこんな場面に遭遇するとは、彼等には思いもよらない事態だったろう。ふたりは途端に騒がしく語り始めた。
「色々と、何だ?、どうせ明かし難いことなのだろう?。俺はただ眠りに来ただけだぞ」
「ただ?。ただの訳なかろう?、こんな時刻に。貴様に人のことが言えるものか」
「言えるとも!、真に俺は眠りに来たのだ。なら那唖挫に聞いてみよ」
 けれど、
「…煩い」
 どっちもどっちだと腹の底から思う、那唖挫は身動きひとつせずに告げた。
「貴様等、僅かでも感謝の念があるなら俺を労れ」
 そう言われると、どちらにしても引かざるを得なくなる。己の勝手を聞いてくれる相手に対し、枕元で喧嘩を始めては無礼にも程がある。悪奴弥守も螺呪羅も、納得の行かぬところは多々あれど、この朝までは奇妙な雑居寝で過ごすしかなかった。
 彼等が今後どう折り合いを付けて行くか、誰もまだ知る由もない…。

 けれど、意味もなくまた陽は昇り、意味もなく月は満ち欠けを続けるだろう。
 世の退廃に翻弄される人々は、病の如く己を蝕む時に抗いつつ眠る。
 この数年を乗り越えなければ。
 新たな星の巡りに、誰もが新たな命を感じられるその日まで。









コメント)単独の魔将小説はいいけど、いきなり何だ!、と思えた方はすみません(^ ^;。これは『朽木桜』の続きになっていて、それを補完する話です。
元々ここまで書いて完全な話だったんですが、本にやおいを入れるか入れないか迷って、入れないことにしたので、ここでは有りの侭ぶちまけた次第です(笑)。一種のお医者さんとして宛てにされてる那唖挫像を…。
一応誤解のないように書いておきますが、私は那唖挫総受ではありません。この話の時間帯ではそうなってるけど、基本的には悪×那だと思ってます。でも魔将達に関しては、愛情がどうとか言う話じゃないので、まあ何でもアリなのかも知れないです(笑)。



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