伸の春
青 嵐
Spring Storm in a Teacup



 建国記念の祭日の夜、ほぼ食事を終えた伸が言った。
「僕、四月いっぱいで仕事辞めるんだ」
「え…」
 食事のテーブルに斜向かいに座る、征士は唖然として相手の顔を凝視した。
 突然の告白。当然同じ屋根の下に暮らす者同志、相談事は最初に同居人に話すことになる。拠って突然降って湧いたような話題が、しばしばあるのは当たり前のことだ。
 そして征士は数秒の内に、両手の茶碗と箸を忘れて考えた。
『専業主夫になりたいとか言わないだろうな?』
 否、真面目な顔をしてそんなギャグを言う筈ない。寧ろ最初にそんなことを思い付くとは、伸より征士の方が不謹慎だ。まだ正確に事を受け止められていないのだろうか。続けて、
『別に困りはしないが、転職するだけに決まっているではないか』
 やや落ち着いてそう考えた。取り敢えずマンションは伸の持ち物で、家賃の支払いがない分、征士の稼ぎだけで充分暮らせる状態ではある。だが無闇な想像をする前に、普通はひとつの仕事を辞めれば、次の仕事を探すものだと征士は思い付いた。ただそれが、現状の生活を変えることになるなら考えものだ。
 伸は今の仕事に不満があることを冗談とも、本気とも思えぬ調子で度々漏らしていた。だが仕事に不満があるからと言って、大学の頃から続く共同生活まで、改革しようと考えるかどうかは解らない。伸に限ってそんなことはないと思いたいが、征士は現在多くの身の回りの雑用を、彼に任せている状態なのだ。ともすれば仕事でなく、この生活自体を苦にしている可能性もある。
 まさかそんなことは、と思いつつ、また別の可能性も考えられた。
『もしかしたら実家に帰ることを考えているとか?』
 そう言えば少し前に電話があり、彼の母親の具合が悪いと聞いたばかりだった。以前から体に悪い所のある人で、度々臥せっているのは確かだが、伸も他の家族もそれには慣れている。電話を受けた時も特に顔色を変えなかった。それに今は姉夫婦が傍に着いており、突然帰りたくなる程のこととは思えない。それとも、
『人にぶら下がって遊んで暮らそうとしているのか?』
 伸は、働くこと自体に嫌気が差しているのかも知れない。精神的に、体力的にも酷く疲れている状態なのかも知れない。もしそうならこれまで、善きアドバイスができなかった征士にも多少の非がある。と、本人も考えるので、暫くの間は伸のしたいようにさせてやるべきだ。どうせ経済的に困ることはあまりないのだから。
 それで済むなら本当に、大したことではないと気を落ち着けることができるのだが。
『待てよ、前にあったが、子供ができたとか言われたらどうする』
 あの時も、今と似たような状況だった。確か食事を終えた後に伸が告白したのだ。ただあの時はかなり前から、彼は体の不調を訴えていた。今は特にそんなこともないし、大体あれは魔将達が(正確にはラジュラが)起こしたことだ。また起きないとも限らないが、彼等が関わらなければ自然発生する出来事でもない。
 否しかし、伸はある意味普通の人間ではない。征士も無論そうだが、異常な事件が起こる可能性もあることは、常々何処かで覚悟しながら生きている。そう、今現在の生活が百八十度変わる何かが起ころうとも、受け入れなければならない宿命を背負っている。それを思うと、本来はただ只管な幸福など、手の届かぬ刹那の幻かも知れないと思う。
 多くを望み過ぎてはいけない。これまでの流れがほぼ順調で幸せ過ぎて、来るべき変化について深く考えることがなかった。けれど征士は今に至り、果たして我々の「今」は何処まで続くのだろう?、と考え始める。いつかは変わらざるを得ない生活が、何処まで恙無く穏やかに続いているだろうか?。
 終わりゆく時間の中でも私は、目の前にいる人を愛せているだろうか…?。
 などと、会話の間の僅かな沈黙の内に、酷く深刻な考えに浸っていた征士だが、その耳に再び伸の平常極まりない声が届いた。
「あ、ちょっと違う、会社を辞めるんだ」
「…何が違うんだ」
 少し、否かなり明後日の方向に考えていた征士は、伸の言い直した意味が上手く取れなかった。けれど続けられた内容を聞けば、征士は要らぬ心配をしていたと気付かされる。
「独立するんだよ。独立して仕事を続けんの」
「なっ、何だ…!?」
 但し、また別の心配が生まれたのは確かだった。
「そんなに驚くこと?」
「驚くに決まっている!、開業するにはそれなりの資金が必要だ。各種手続きにも手間がかかる、事務所だって借りなければならない、備品も揃えなければならない。私に一言相談してくれてもいいだろう?、これまでそんな準備をして来たのか?。ひとりで一体どうするつもりなんだ!」
 しかし伸は、何故か必死に訴え出した征士を見て、殊に幸せそうな顔でクスリと笑った。
「そこまで考えてくれるの、嬉しいよ」
「当たり前だ!」
「でも、僕も色々考えたんだ。うーん、そうだね、今も僕は充分楽しくやってるけど、もっとレベルアップできると思ったんだよね」
 すると、至って落ち着いた調子の伸の話に、段々征士も気持が収まって来たようだ。そもそも彼がひとり勝手にエキサイトしていただけで、伸は始めから変わった様子はない。
「どう言うことだ…?」
 と、征士が小さな溜息を吐きながら返すと、伸は、実はそれ程大したことではない予定を彼に伝えた。
「あのね、独立って言っても事務所を開く訳じゃない。在宅で仕事しようと思ってさ」
「ああ…何だ…」
 伸も最初にそう言えば良いものを。まあ恐らく、クイズの出題のようなつもりで話したかったのだろう。
「君の仕事と違って、経理事務は資格とお客さえあれば、場所はどこでもできるしさ。今は自宅のパソコンで大体のことはできるし、職場でストレス溜めるのもう嫌なんだ」
 彼の言うように経理の仕事は、特に企業や事務所に所属する必要はない。個人では仕事を集め難いだけで、それを斡旋してくれる団体もなくはない。それを思うと、自宅を動きたくない事情がある者には、かなり有利な職種とも言えた。
 そして征士も今に至り、充分納得して答えられた。
「そう言うことか。そう言うことなら、確かにわからなくもない」
「そうだろ?」
 ただそこでふと思い出された、気掛かりな会話が征士の頭に浮かぶ。
「だが、人のネットワークがなくなると情報が減るとか、そんな話をしていなかったか?」
 それは去年の征士の誕生日のことだ。出掛けたレストランの情報は、職場の同僚から聞いたものだった筈だ。人とのコミュニケーションを大事にする彼には、かなり重要そうなメリットだと思えるが、それを切り捨てても良いと考えているのだろうか、と征士は思う。
 ところが伸の返事は意外にドライなものだった。
「お節介で姦しい女子社員のこと?」
「…迷惑の方が大きいと言うなら仕方ないが」
 これは、征士の想像以上のストレスだったようだ。恐らく男性がもう少し多い部所なら、そこまで女子社員を疎ましく思わなかっただろう。女性は大勢集まると態度が大きくなるので、少ない方の立場が必然的に悪くなる。征士は実家での経験でそれを知っている為、そんな人員構成の部所に配属されたのは、運の悪いことだと普通に理解できる。
 けれど伸はもうひとつ、意志を決定した理由があることを話した。
「そんなことより、僕にはもっと大事な繋がりがあるからさ!」
 勿論それは、ふたりを含め五人の仲間達と、それに関わる人々のことだろう。
 ただ、今は学生の頃のように、誰もが時間を自由に使える訳ではない。それを判っていての発言だろうかと、
「私も、他の仲間も、そんなに遊び相手はしてやれないぞ?」
 征士が冗談混じりに返すと、伸はさも可笑しそうに笑い出した。
「ハハハハハ…!」
 既にふたりは食事を終え、食器を片付けようとしていた伸の手から、一瞬大鉢が揺らいで落ちそうになる。そんなに風に腹から笑えるなら、確かに心配はなさそうに思うのだが。
 その後に、伸が顔を近付けて言った言葉に、征士は再び考えさせられてしまうのだ。
「だって君さ、いっつも仕事忙しそうだし、僕まで外に出てると増々一緒に居られないじゃないか。それをどうにかしたかったんだ」
「私のせいなのか?」
「それも半分だよ」
 だが伸は嫌味がましい様子でもなく、言葉に続けて征士の頬にキスをすると、何事もなかったように席を立っていた。
 そんな彼の機嫌の良さが些か引っ掛かる。幾ら春が近いと言っても、まだあまり春の訪れを感じられない二月十一日だ。そう言えば今年のバレンタインデーは、外に食事に出るのではなく、家でパーティをしようと伸は言っていた。それも生活を変えようとする意識の先走りだと、今は妙に納得してしまう征士だ。
 伸に取って退職が嬉しい、最も幸福な形だと言うなら諌める理由はないが、しかし、自分のせいでもあると聞かされれば、征士が罪悪感を感じるのは仕方ない。
「う〜ん…」
「考えなくていいよ、もう辞表出しちゃったし」
 その時はただ、伸の明るい表情と心の変化が、逆に重くのしかかって来るようだった。経済的にはどちらも独立しているものの、精神的に頼り合う状態は単なる同居人とは違う。伸も悩んだのだろうが、征士の悩みも尽きることはなかった。



 三月頭、この年は既に春一番が訪れ、テレビでは花粉予報が頻りに流れていた。
 埃っぽい春の陽気に人々が浮き足立つ、その夕暮れ時、征士は退社後に時間の都合がついた、ふたりの仲間を呼び出して居酒屋に居た。無論伸の話を聞いてもらう為だ。
 話したところで、解決策が出る類のことではないが、伸と自分の考えが道を外してはいまいか、第三者に意見を聞いてみようと考えていた。それ程征士は悩んでいるようだった。因みに伸はこの日、朝から有給を取り、横浜に出て来ている遼に会いに行っている。その際他の仲間達の予定も確認したので、夕方に東京に集まれるメンバーを征士は自ずと知った、と言う訳だ。
「…と伸は言うんだが」
 二月の間に伸から聞いた事の経過、彼の大きな決断について征士が話すと、既に二杯目のジョッキを空けた秀は、特に驚きもせず言った。
「別にいいんじゃねぇか?、伸が考えて決めたことなんだろ?」
「だな」
 同席する当麻も簡単に相槌を打っている。
「人ごとだと思ってないか?」
「人ごとなんて思ってねぇよ、伸が今の会社イヤがってんの知ってるしよ」
 そう、それについては恐らく仲間内で、知らない者は居なかっただろう。今は集まる度に、それぞれの仕事の話も話題に上り易い。その都度伸は職場の愚痴を零していたのだ。
「だな」
 と、思い当たることがある当麻も再び同意した。
 ところで征士からすると、元々伸と仲の良い秀の意見は注意深く聞こう、と言う考えがあった。当麻の言いそうなことは想像がつき易いが、秀は伸に似て、意外な視点でものを話す面があるからだ。そして早速彼は、征士が気付かない立場からの話を始めた。
「仕事はともかく環境が悪ィとなりゃ、俺だって同種の別ンとこに移りたくなるぜ。伸の考えは普通だと思うけどな」
「それはそうだが…」
「大体俺だって、今より条件のいい仕事があるなら、今すぐにでも転職してーよ。給料がいいことは勿論だが、時間的に自由ってすげぇ魅力だぜ?」
「だな」
 尚、秀は海外からの旅行者の世話をするコンダクターと、クルーザーの運転の兼業をしている。それなりに世話好きで、動くことを苦にせず明るい彼には、性に合った仕事と言えるようだ。
 ただお判りだろうが、この手の職種は拘束時間が不規則である。数日仕事が続くと、その後は数日暇になると言った具合だ。そんな彼でも「時間的自由は魅力」だと言うのだから、確かにそれが普遍的価値観かも知れない、と征士は考える。
 彼はこれまで、特に仕事に拘束されている意識はなかった。何故なら仕事も楽しみのひとつだからだ。その上で自由な時間も、ある程度は持てている。何故それではいけないのだろうと考え続けている。
「自由の定義の問題だろうか」
 と、征士は呟くように返したが、そこで秀からは勢い良く反論された。
「何言ってんだ?、働かなくても楽しんで暮らせるなら、働きたくねぇ奴がほとんどだろ?。そーゆーこと思わねぇ奴は変人だってんだよ」
 するとそれまで、短い相槌しか入れなかった当麻も、
「おまえがそのひとりだ」
 待ってましたと言わんばかりに、笑いながら征士を遣り込めていた。別段変人と言われても、今更なので傷付くことはないが、
「私のことはいいと言うのに…。今は伸の話をしているのだ」
 征士はそう言わざるを得なくなった。集まった面子が悪いのか、どうも伸のことより、自分が弄られる場になりそうな気がすると、征士が思う傍から秀は言う。
「だからなんじゃねぇか?、征士が伸の考えを理解できねぇのは」
「だな。仕事が一番面白いと言える人間は多くない」
 しかし当麻がそう続けた時には、征士も多少強く出られた。
「人のことが言えるのか」
 何故なら当麻もまた、大学の研究室に日がな入り浸る人間だからだ。因みに彼は何とまだ学生の内だった。大学に四年、大学院に三年過ごした今年は、修士課程を終え博士課程の途中と言うところだ。まあ、卒業してもしなくても、彼のホームは同じ大学の研究室であり、今後給料を貰える身になったとしても、試験がなくなるだけで作業はあまり変わらない。
 だから当麻については、晴れて社会人となっても、仕事好きは自分と同じだろうと征士は思ったのだが。
「俺は、仕事が面白いんじゃない。研究が面白いんだ」
 と、思わぬ抵抗をされた。
「それのどこが違う?」
「勘違いするな、大学の研究室には色々縛りがあるんだ。好きな日時に行って帰る訳じゃないし、研究にも目的制約のあるものがほとんどだ。当然予算の制限もある、面倒な雑用もままある。何でも好き勝手にはできないんだぞ」
 聞けば成程とも思うが、しかしそれは当たり前だとも思う。仕事である以上研究とは、何らかの役に立つものでなくてはならない。大学の場合は企業より更に、広く多くの対象に向けた研究をする義務がある。だが少なくとも、関心のない作業をやらされる職業ではないのだし、征士には我侭のように聞こえた。
「それでも好きなことで稼げるには違いない」
 しかし、当麻が言いたいのは勿論、自身の就労条件なんて話ではない。そこで秀が、
「だからよぉ!、別に伸は経理なんて好きじゃねぇんだってば。金勘定が好きな人間なんて俺ヤだぜ」
 と口を挟むと、征士もはっと我に返っていた。いつの間にか自ら方向を違えている。当麻を相手に話していると、しばしばこうなるから厄介だった。過去のライバル意識のようなものがそうさせる、のかも知れない。
「…いや、話が逸れたようだ。そう言う話ではなく、」
「何だよ」
 そして征士はそこまでの流れを纏め、改めてふたりに問い掛けた。
「職場の問題はまだ理解できるんだ、我慢できない環境も世の中にはあるだろう。だが、伸の理由の半分は時間の融通だと言うから、そんなに時間的拘束を苦にしていたのかと…」
 けれどその答は、既に出ていると当麻は言った。
「そりゃおまえのせいだろ」
「…即答したな」
 今は次々串焼きを頬張る秀も、食べつ笑いつ忙しそうにこう続けた。
「ハハハ!、そーだそーだ、朝と夜遅くしか時間がねえって、言ってたもんな!」
 その通り、征士以外はそれ程考えなくとも思い付くことだった。伸の職場はそれなりの企業だけあり、勤務時間の規則が厳密に守られていた。遅刻には厳しく、無駄な残業はさせなかった。各部所内で遣り繰りして、残業を無くすよう指示されていた程だ。つまり伸には充分な余暇があったと言う意味だ。
 そんな彼に時間の拘束を嫌がる理由があるとすればただひとつ。だが、
「それは私の仕事が変わらない限り同じだろう」
 と征士は返した。確かに征士が家に帰らないのなら、ふたりが会う時間も変わらないことになるのだが…。
 秀はそこで、いつか伸が自分に話した悩みを、親切にも征士に伝えてくれた。
「そうじゃなくて、いっぱいいっぱいだって話だぜ?。週末を空ける為に月曜から金曜は、仕事と生活のことで歯車みてぇに過ごすだろ?。それがヤなんじゃねぇの?。俺はあんま規則的な仕事じゃねぇから、そんな風には感じねぇけどよ」
 そう、相手の顔を見ている時間、言葉を交わす時間は同じでも、伸はそれ以外に何かをしたいと考えているのだろう。今は朝食の用意と片付け、身だしなみ、帰れば食品と生活用品の買い出し、自分の持ち場の掃除と洗濯、入浴などと、仕事の為の様々な準備で一日が終わってしまうからだ。正に土日を空ける為の生活、と言うウィークデーを空しく感じているのだろう。
 自由だった大学の頃に戻りたい、とまで贅沢な希望ではないだろうが、せめて一緒に居られる時間には雑用をしたくない、記念日にはケーキを焼くらいの余裕がほしい、と言うことではないか。
「つまり自分達の為に費やせる時間を、伸は大事にしたいんだろ?」
 そこでは当麻も、意地悪せず穏やかに纏めていた。最も大事なことが征士に伝わらなければ問題だ。否、彼も本当は何処かで解っているのだろうが、どう納得して消化するか、そこで迷っていると当麻には見当が付いていた。
 征士と伸が、有り体に言って恋人となってからもう随分経つが、それ以前から続く五人の関係はより深い、かも知れない。互いに様々な観察をして来た結果、集まれば必ず答えてくれる仲間が居ると言うのは、あらゆる場面で心強い状態だ。
 だから征士の持つ罪悪感も解る。伸に申し訳なく思う気持も解る。
「だが、しかし、そんなことで本当にいいのだろうか…?」
 征士が困ったようにふたりに返すと、秀は「仕方ない」と含んだ苦笑いで言った。
「いいも何も、伸は元々そう言う奴じゃねぇか。ここに居たら遼だってそう言うぜ?」
「そう…だが」
 もうそろそろ横浜から帰宅している筈の伸は、恐らく遼にも仕事の話をしただろうが、確かに彼も秀と同じことを言うかも知れないと、征士にも想像できた。そして、
「幸せ者だな征士君は」
 と、当麻が再びからかう調子に戻ると、
「茶化さないでくれ」
「いいや、おまえはそんな風に、人に『済まない』と思いながら生きるタイプなんだよ。心が自由な人間は得てしてそんなもんさ」
 からかいながらも、当麻は何らかの真理と言える不思議な話をした。
「心が自由だと…?、人に済まないと思うのか?」
「それは自分で考えろ」
 一見睨んでいるようで、実際は狐に摘まれたような心境でいる征士を、当麻は面白そうに軽くあしらっている。伸の話題はともかく、征士は己をあまり知らない人間だ。否、知っても否定する人間と言う方が正しい。己の天然の奔放さを認めたがらない所がある。だからいつも、当麻にはズケズケ言われからかわれるが、まあ、客観的に己を見ることは誰にも難しい。
 端から見ている者には、簡単な答だったりすることも多々あるが。
「ふぅん?。その謎掛けは俺も、何となくわかる気がすんな?」
 と、飲み食いのペースが落ちない秀が続けると、
「だろ」
 当麻は最初に戻り、簡潔な相槌を入れるのみに落ち着いた。

 自由とは何だろう?。
 今も昔も、この身は拘束されようとも、体の中に感じる心は風のように自由だ。だがその感覚は全ての人間が、同様に感じることではないのかも知れない。例え心と言う実体のない領域でも、拠り所の無い自由は不安に感じる人間もいるのだろう。寧ろ現代人は、その方が多いのかも知れないと征士は考えている。
 何の指標も筋道も無い、天地左右も存在しない場所を邁進できる心は自由だが、代わりに孤独で背負う物も大きい。規範に囚われず生きることは、一般に変わり者の目で見られて然りだ。それに堪えられる人間でなければ、真の自由を生きることはできない。それでも自由を愛し続けられる人間は、そう多くはないのだろう。
 だから済まないと思うのか?。私は自由だから済まないのか?。
 否、己は自由を苦にしないが、己に繋がる誰かは孤独を淋しがるからだ。恐らく、そう言うことなのだと征士は、彼なりに理解して家路に就くこととなる…。



「遼は来週から二週間、ナスティに着いてインドの大学に行くんだってさ。向こうにも伝奇学なんてあるのかね?」
 九時過ぎに自宅マンションに戻ると、伸はまず遼に関する報告をした。
 遼は大学を卒業した後、准教授となったナスティの助手として働いている。実は千石大学に入学したのも、助手となったのもやや裏口的ルートだったが、自らが関わって来た伝奇学や考古学について、更に勉強したいと言う彼の気持を組み、ナスティがどうにかしてくれたのだ。そうした後ろ盾があるのも、五人には全く心強いことだ。
 しかし今や、海外の研究旅行にも着いて行くと言うのだから、それなりに遼の労働は評価されているのだろう。
「さあ…、神学や神秘学ならあるだろうが」
 歴史好きでも、大学では別分野を学んだ征士が凡その見当で言うと、
「神秘学か。面白そうでいいよね、大学の研究って」
 伸は帰ったばかりの征士に、いつもそうするようにお茶を入れながら返した。ただ、「面白そう」の一言が征士にはどうも引っ掛かる。先程当麻の愚痴を聞いたばかりだ。無論学問の分野としては、神秘学などは想像力を掻き立てる部類に入るが、想像的なだけに重要視されない面もあるだろう。
「面白いことばかりでもないと言っていたぞ、当麻が」
 けれど征士の胸の閊えをよそに、伸は普通に笑い流していた。
「そりゃ仕事でやってることだし、色んな制約や規則には妥協しなきゃならないだろ。面白くない面があって当然さ」
「それもそうか」
「インドなんて汚いし治安も悪いし、面白い文化は色々あるけど、僕はあんまり行きたくないよ」
「ハハ…」
 確かに、国ひとつを取ってみても美点と欠点は存在する。自分もインドの歴史や宗教的慣習に興味はあれど、長く滞在したいとはあまり思わないな、と征士は苦笑する。魅力に感じる度合が高ければ、何事にも堪えられるだろうし、単なる仕事なら、仕方なく堪えるしかないインド国内の環境。
 誰も皆社会人となれば、それに似た経験のひとつやふたつはあるものだ。しかし、
「でも君は何にも文句言わないんだよねぇ、今のところ」
 そこで伸は、征士が今言われたくないことを口にした。
「余程いい仕事に巡り合えたのか、それとも君が余程仕事好きなのか、君が仕事に愛されてるのかな?」
 ドクンと心臓が音を立てて鳴った。自分は済まないと思いながら生きる人間だと、指摘されたことを征士はまだ、完全に飲み込めていない状態だが、こんな風に話される度済まないと思うのは確かだった。
 自分は確かに仕事運は良いと思う。国民の義務である筈の、労働を好きだと言えるのは幸運なことだ。だからと言って他のものが霞む訳ではない。例えば伸より仕事が好きかと言われたら、流石にそうではない。比べる対象ではないと答えるだろう。だがそれを他人は解ってくれているだろうか?、と、征士はしばしば疑問に思うことがあった。他人の恋愛話や人生相談に、稀にそんな比重の話が出て来るからだ。
 どちらが大事か、どちらがより好きかなど決められない。どちらも好きであり大切だ。欲張りかも知れないが実際そうなのだ。そのタイプの人間は恐らく多くが、限られた時間の中で誠心誠意、双方に情熱を注ごうとしているだろう。けれど伸が、そんな自分に合わせようと行動することを、その度申し訳なく感じている。
 済まないと思う。そしてそれは、文句を言いながら働く他の仲間の日常を思う時にも、ある程度感じられることだった。
 対象が大切だからこそ済まないと思う。苦しむからこそ対象の大切さが判る。
「私はよく観察されているな」
 己について考えながら、より己を知っていそうな伸に征士が言うと、彼は案の定、
「僕はそう言う君が好きだからさ」
 と答えた。だから自由のない彼に済まなく思ってしまうのだ。
 恋愛とは心の呪縛かも知れない。恋愛でなくとも何かを酷く気に入ることは、ある種の固定観念や心の偏りを生むことだ。伸の場合、自分にはなれない人間像に憧れることが、自ずと自分の立場をも変えてしまっている。人は影響し合いながら生きてはいるが、迷惑な影響を渋々受け入れている人間も、この世には多数存在する筈なのだ。仕方ないと言えば仕方ないことかも知れないが…。
「そう言われても今は素直に喜べない。会社を辞めることも、気を遣われている気がする」
 征士が珍しくネガティブな発言をするので、思わず伸は相手の顔を凝視する。
「へ…?」
 いつものようにソファの定位置に座り、お気に入りの唐津の湯呑みを手にする征士は、外見からは何ら変わった様子は見られない。だが、直前に会ったふたりに何か吹き込まれて来たなと、そのくらいのことはすぐ想像できた伸だ。
 本来そんなことに揺れる征士ではないのに、落ち込んでいるとすれば、それは図星を差された時である。そう思う伸は、努めて明るい怒り口調で返した。
「今更何だ!、今更気付いたって遅いんだよ!。気を遣うって言うなら、これから僕に返してくれればいいだろ、もうすぐ誕生日だし!」
 そうして僕らはやって来たじゃないか、と伸は声を大にして言ってみる。
 まあ、事の発端は伸の仕事の問題だ。春一番に乗ってやって来た大きな変化も、本来は征士が悩むべきことではない。ただ常に彼等はふたりだった。いつもふたりと言う単位を中心に考えるから、相手の問題も針小棒大に感じてしまうことがある。けれど基本は、ふたりが幸福であるかどうかだけなのだ。
 するとその時、「誕生日」と言うキーワードを耳にした征士は、
「…そうか」
 一応気が収まったように返した。恐らく例年のこの時期は、その日が来るのをもっと楽しみにしながら、生活していたことを思い出したのだろう。最近は五人全員が集まり、どんちゃん騒ぎと言うこともないが、毎年その日と前後には、何らかの楽しい思い出が積み重なって行く。
 例えそれが呪縛の内であったとしても、楽しいならそれでいいのではないか、と。
「そうだよ。どうかしたの?」
 征士の横に座り、その首を取って自分の方に向かせた伸は、成程、そんな拘束を拘束とも感じていないようだ。それは己の仕事に対する気持と似ている。不思議と苦にならない縛りもあるものだと、征士は今になって、自由と言う定義の難解さを知った。
 今更当麻に言われるまでもなく、日頃何処かで済まなく思う気持が征士にはあった。言葉で人に指摘されると不愉快にもなるが、自由の本質は人を振り回し、規則の統制を受けると安心感が生まれ来る。そんなことは既に解っているつもりだったが、それが己の人生のテーマかも知れないと、これまで征士が意識することはなかった。
 けれど実際、己の持てる悩みも財産も「自由」である。
 この春は、何と重大な発見をしたのだろう。そして見詰めてくれる相手がいつも、自分を教えてくれる鏡として存在している、その幸運な状況を大事に守っているのも、紛れもない己の自由意志だと征士は思う。
 その表現し難い素直な思考を言葉にすると、答はひとつだった。
「私も、人の繋がりを愛する伸が好きだ」
 自由な人も魅力的だが、自由のない人も魅力的だ。伸はそれを体現するように、征士には殊に魅力的に映る笑顔を見せながら、キスした。

 春の嵐は新しい風を運んで来るようで、その大気は過去から地球に存在するものだ。つまり春風が吹くからと言って、世界の全てが刷新される訳でもない。ある意味ではいつも同じと言うことだ。
「僕は変わらないよ、仕事の形が変わるだけでさ」
「私も変わらない」
 変わらぬ苦痛に不自由するより、変わらずに居られる自由の方が良い。何だ、そんな簡単なことだったのかと、征士は漸く腑に落ちたようだった。









コメント)伸のBDとは直接関係ない話でしたが…、私の征伸らしい話を書けただけ良かったわ(^ ^)。五人全員登場するし、春先の楽しい感じもあって。
ところでこれ、わかる方はわかったかな?。過去にあった「征伸解放区」と言うコーナーで、伸は在宅で仕事をしてることになってたけど、このシリーズの征伸の規定路線なんです。伸の退社と独立は。
もう一方の本体の征伸(と言うか五人)は、遠い世界に行っちゃってるけど、「偉大なる哲学」で仕事に悩んでいた通り、やはり人間生業と言うものは、悩みが尽きないところであります…。



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