海の中
SCUBA
Inner Space



 人は、未だ深海の生物を把握し切れぬように、心の深淵に潜む全てを解明することもできない。
 そこには何が存在するのだろう?、と思い巡らすばかりだ。



 三月十三日の夜のことだった。
「どうしたんだ」
 と、力の抜けた様子でソファに凭れる伸に、征士はやや心配そうに声を掛けた。夕食を終え、その片付けも終え、その間特に体調が悪そうには思えなかったが、どうも今日は大人しいなとは感じていた。普段の伸ならばもっと、身近で起こった事やニュースで聞いた話題を、積極的に口にして楽しませようとするのだが、今日は目新しい話は何も出て来なかった。
 仕事で疲れているのだろうか。それとも、しばしばある伸特有の「心の不調期」だろうか、と征士は思う。因みににその心の不調期とは、決して鬱病的なものではないが、普段は過敏なほど周囲の物事に反応し、笑ったり泣いたり表情の多い彼が、何故か一時的に鈍く落ち込む時期のことだ。これまで伸を観察して来て、春に多い現象だと言うことも征士には判っていた。
 伸は嘗て水の戦士だった。彼の性質は海によく似ている。海の波は絶えず高低差があるものだから、伸の心は元々そう言うものなのだろう、と理解しているつもりだ。なので征士は慣れた様子でその横に腰を下ろすと、目を見開いたままの伸の顔に己のそれを近付けた。
 互いの息が顔の皮膚に感じられる距離に来ると、
「ん…、何でもない」
 と伸は漸く答える。口ではそう言うが、何でもないと言う雰囲気ではないと征士は返した。
「明日は特別な日だと言うのに、調子が悪そうなのは気になるな」
 そう、明日は言わずもがな伸の誕生日だ。もうそのお祝いの為に仕事の時間調整や、レストランの予約も済ませてある。これまでに色々考えプランを立てたのだから、ちょっとした体調不良でおじゃんになるとかなり勿体無い。何しろ折角の誕生日だ。
 すると伸は、暫く身動きもしなかった体を少しばかり傾け、
「調子悪い訳じゃないんだ、何か…」
 ともかく気遣ってくれる征士には、何か訴えたそうな態度を見せるのだけれど、暫し目を泳がせ、しっくり来る言葉が思い付かなかったのか、
「いや、でも、少し気分が悪いかな」
 結局そんな返事に落ち着いていた。本当のところ何がどうなのかは、伸にしか判らぬまま会話は終わってしまった。聞いている征士は取り敢えず言葉通りに理解し、見合った適切な言葉を掛けてあげるしかない。
「なら今日は早く休め」
 気分が悪いと言うなら、特別な明日に備え充分睡眠を取るべきだ。それだけの事でも不調が解消される例は多くある。差し当たり伸に取って、今年の誕生日が残念な記憶とならぬよう、征士は前日の時点で既に、最大限の配慮をしてあげているつもりだった。
 だが征士の判り易い助言に対し、
「…ごめん」
 何故か伸は謝った。心配させていることを謝ったのか、自身が不調なことを謝ったのか。或いは現状を上手く説明できないことを済まなく思っているようだ。ただ、征士はそれらの可能性を思いながらも、普段の伸なら謝る前に、早くベッドに入ろうと動き出すことを考える。やはり今日の伸は何処かおかしいと、改めてもう一度征士は確認した。
「何を謝る?。…何かあったのか?」
 その頭に手を遣り、髪束の癖を確かめるように優しく撫でる。伸は特に嫌がりもせず受け入れている。場合に拠ってそんな戯れは煩がられることもあるが、今の伸は抵抗する気力もないのだろうか。それとも喜んでいるのだろうか?。真相はやはり判らないが、ただ今度の問い掛けには思い掛けず貴重な話題が、伸の口から語られ始めた。
「いや、別に。ただ、今日買物に出たら偶然純に会ってさ」
「純?、珍しいな」
「しばらく会ってない内に、今年もう大学の四回生だって。就職活動の為にスーツを買いに来たんだって言ってたよ」
「ほう。前に会ったのは…鎧戦士の十周年の会だったな。その時は大学に合格したと喜んでいたが、時の経つのは早いものだ」
 征士が言う通り、純にはここ最近全く会っていなかった。三年前その集まりにやって来て以来、彼も忙しいのか、あまり誰とも連絡を取っていないようだ。思えば大学に入るまでより高校生の頃、高校生の頃より中学生の頃の方がよく顔を見ていた。年を取るに連れ取り巻く世界や環境が変わり、純も昔の付き合いばかり大事にしていられないのだろう。無論過去より今の方が誰に取っても大事だ。
 そうして、いつの間にか変わってしまう事はある。
「そう、あの小さかった純が、もう僕よりひと回り大きいんだもんね」
 伸は特に表情を変えなかったが、その発言から、何らかの感慨を持って出来事を振り返っているようだった。
 何処を見ているのか判らない虚ろな、或いは、何かを見ようとする意思を感じられない瞳が、ソファの上の天井に視線を漂わせている。こんな時の伸の意識や思考を想像するのは難しい。ただひとつ言えるのは、何かが切っ掛けで心の安定を乱されたなら、できるだけ傍に、密着する程近くに寄り添い、彼を安心させることが肝要だと征士は思う。そして、
「それでどうした?」
 と、今日の話の続きを尋ねた。町で偶然純に会った事から何があったのか、それが今の伸にどう繋がっているのか、ヒントになる部分を是非教えてほしかった。けれど伸は、
「ん?、それだけだよ。何処かでお茶でもと思ったけど、忙しそうだったからやめたし」
「何だ、何か気になる話でも聞かされたのかと思ったぞ」
 予想からは外れ、征士が考えたような不穏な話は、伸は何も知らされていないらしい。寧ろ充分に話せる時間が取れず、残念がる様子をぼんやり見せながら伸は続けた。
「ああ、そう言う訳じゃないんだ。新たに聞いたことと言えば、ナスティに先週会ったって話くらいさ。純も史学科に進んだから、就職先について相談したかったんだって」
 最近会わなくなったとは言っても、確と仲間達との繋がりが感じられる純の進路。両親の職種とは関係ない道に進んだのは、無論鎧戦士との出会いが影響しているだろう。だからそれを聞いた時、例えあまり会えなくなろうとも、私達はずっと同じ気持を共有できると感じたものだった。征士は三年前をそう思い返しながら、伸には笑い話のように聞かせた。
「成程、ナスティは適任だが、純もちゃっかりしているな」
 すると征士の意図した通り、伸の惚けた表情に少しばかり笑みが差し、
「あはは。あとは、僕と征士の近況を話しただけ。お正月にオーストラリアに行って来たとかね。『伸にいちゃん相変わらず海が好きだね』って笑ってたよ」
 多少明るい声色でそう言ったので、征士も漸く気負う気持を楽にすることができた。笑えない訳ではない。現状はそこまで深刻な落ち込みではない。強く働き掛けなければ戻って来られないような、心理的異常事態ではないと知ると、征士自身も安心してこの後の処理ができるからだ。勿論彼は伸の保護者などではないが、最も近くに居る人間として、唯一無二の恋人として、こんな時に力になれないとしたらあまりに辛かった。
 今努力できる事は特別な明日までに、伸を穏やかな状態へと促してあげることだ。その為に征士は、表には出さずとも様々な解決策を考えている。故に変わらず伸の髪を撫でながら、問題の糸口を更に探ろうと言葉を掛け続けた。
「元気そうだったなら何よりだ」
「うん、元気そうだったよ。就職とかにそんなに悩んでる感じでもなかった」
「では何が原因なんだ?」
「ん…?」
 すると、征士の再度の問い掛けに、僅かに心を動かしつつあるような表情を見せ、伸は瞼を閉じると、そのまま眠りに入りそうな様子で言った。
「さあ…。僕にもよくわからない。ただ何か不安になったんだ」
 それを聞くと「やはり」と思うしかない。口頭で「特に何もなかった」と言うのも嘘ではない。これと言った明確な事件があった訳ではないが、何か漠然とした不安を感じたと言うことだ。伸にはよくある出来事でもあるが、それについて征士が、
「子供だ子供だと思っていたら、すっかり大人になっていて驚いたか」
 と例を挙げて話すと、伸は深く推考するように長い間を置き、けれどやはり答が見付からないと言った口調で返した。
「うん…そうかな?、ずっと昔の姿のままでいてほしいとは、別に思ってないんだけどな」
 そこで、征士がふと感覚の違いについて己の意見を漏らす。
「そうか?。私はどちらかと言うと違和感がある」
 こんな事で意見の相違を見るとは思わなかったが、明らかにふたりの受け取り方が違う点だった。不安を訴える伸には、現在の純も普通に受け入れられているのに、何も感じていない征士は違和感があると言うのだ。面白い対比だった。
「え…、何でさ?。君は兄妹を見て来て、小さかった妹が大きくなるのを身近に知ってるだろ」
 初めて伸からそう尋ねられると、征士はそれを良い傾向だと思い、殊に慎重に言葉の遣り取りを続けて行った。
「毎日見ている相手なら、突然変わった感覚は持たないだろう。純とは時間を空けて飛び飛びに会っていたから、前後が繋がらない感じなのだ」
「ああ、まあね、段階的に変わって行く感じだったね」
「よく親戚の子供が、あっと言う間に大きくなってびっくりすると言う話を聞くが、成長期の映像を所々引き抜くだけでは、実像として認識しにくい」
 すると、伸はふと閃いたように目を開き、こんなことを言って征士を感心させた。
「そうだね。何か紙芝居でも見てるみたい、かもね」
「ああ、それはなかなか良い例えだな」
 そしてそんなイメージを思い付ける心理状態なら、恐らく大丈夫だ、伸は明日には回復できるだろうと希望が持てた。途端征士は無性に嬉しくなり、髪を弄っていた手を奥へと滑らせ、伸の頭を抱え込んで自分の首元に押し当てた。力の抜けた大人しい伸の、しかし確かな息遣いや脈動が征士に伝わって来る。それでも敢えて為すが侭になっているのは、伸がどれ程彼を信用しているかの証だった。
 だから今は君に尽くさなければ、と、征士は空いている方の手で伸の片手を取ると、より安心させるように握ってあげた。珍しく伸の指先は冷たく冷えていた。一見朦朧としているように見えて、頭では必死に原因を考えているのだろうかと感じた。
「昔の僕達を見てた人達も、同じように感じてたのかな…」
 伸が口を開くと、もう話の核心とは関係ない話題だったが、征士はそれに付き合って話し続けた。
「無論そうだろう。私達にはまだその感覚はないが、年を取ると子供時代がいかに短かったかを知ることになる。周囲の人間には尚更短い時間だろう」
「うん…」
 すると伸は、征士の説明に納得したように再び瞳を閉じ、温かい腕に微睡むように首を凭れさせた。これでもう眠りに就いてしまおうとする仕種だった。だがその前に一言、
「もっと、ゆっくり時間が進めばいいのにね」
 伸はそう言った。その表情は割合幸せそうなものだったので、特に言う程そのことに悩んではいなさそうだった。そして征士もつられるように安堵し、ふたりの三月十三日は暮れて行く。

 征士は居間のソファからベッドに伸を運ぶと、布団の上にそっと伸を横たえた。例え既に微睡み始めていても、生活の決まりごとに厳しい伸ならでは、彼は見もせずに背後の寝巻を引き寄せると、横になったまま器用に着替えを済ませていた。普段着のまま寝ると言う発想は彼にはない。そんな様子を少し離れた場所から、面白そうに征士が見ていると、
「あのカレンダー持って来てくれない?」
 と伸が呟いた。あのカレンダーと聞いただけで、征士には思い当たる物があり、
「ああ、オーストラリアの?」
 と返すと、伸は無言で頷いた。最近伸が気に入って、暇さえあれば眺めているカレンダーがある。それは年末から正月に出掛けたオーストラリアの、よくあると言えばよくあるお土産品だが、使われている海の写真が彼は大層気に入り、仕事部屋の机の前に飾っているものだった。
 海の写真などは、征士にはぶっちゃけどれも同じように見える。海岸や岩場の風景ならまだしも、そのカレンダーは海中の珊瑚礁の写真なので、それだけで何処の何かを特定できるものではない。海の色が違うと言われても、そんなもの光の加減や写真の撮り方によって、変化させることができるだろうと思う。だから伸がそのカレンダーをどう気に入ったのか、征士にはよく判らないのだけれど。
 彼は言われるまま伸の仕事部屋へ行き、そのお気に入りのカレンダーを持って来た。
「好きなだけ見ろ、写真はなくならないから」
 そう言って渡すと、伸は嬉しそうに一度それを胸に抱き締め、布団に潜りながらその写真をずっと眺めていた。何がそんなにお気に召したのか、とにかく伸はその写真に釘付けだ。何か、彼に取って非の打ち所の無い完璧な海の写真だと、思わせるものがあるのだろうか?。
 すると伸が、
「また何処かの海に行きたいな。今年は海外にはもう行っちゃったから、夏に沖縄にでも行こうよ」
 目が冴えてしまいそうな話を始めたので、征士はそれを止めさせるように返す。
「ああ、そうしよう。その話はまた明日にでも。今日はもう休め」
「うん…、おやすみ…」
 そうして伸は静かに眠りに就くことになった。否、もう眠りに入ると思われた時、部屋を出ようと動き出した征士に、伸は最早不要と思える言葉を掛けていた。
「…ごめんね」
「ん?」
「さっきごめんて言ったのは、ね、今日は君に付き合える気分じゃないから」
 そう言えば先程、妙な感じで伸が謝ったのを征士は思い出した。何だ、まさか夜の営みのことを言っているとは、全く思いもしなかったなと征士は笑い、その話題の明るさを感じながら、伸にはより優しく思いを伝えた。
「そんなこと、今は気にしなくていい。明日以降は元気になってもらいたいものだが」
 その言葉の裏にある征士の気持が、伸には正しく伝わっただろうか。彼が大切にする記念日なりお祝いなり、一年の中の楽しみな行事をフイにしてしまわぬよう、征士は努めているのだけれど、
「うん…。明日は誕生日だから」
 そう答えた伸は、正常でないながらもちゃんと判っているようだった。
「おやすみ」
 征士は声を掛けて部屋の照明を落とした。間接照明の小さな明かりだけが残る薄闇の部屋は、すぐに静かな独立空間と化した。この夜は深海に潜る夢でも見ながら、ぐっすり眠ってほしいと征士は伸に思った。



 無音の空間。けれどとても明るい。とても暖かい。
 ターコイズブルー?、セルリアンブルー?、チューリップチントブルー?。何と言って良いか判らない美しい色が、体中を包み込んでいるのが判る。そして私は浮遊している。何処へともなく、誰とでもなく、只その美しい青の世界を漂っている。
『ここは、何処だ?』
 その内、下方へと落ちて行くに連れ、ゆらゆらと揺らめく何かが見えて来た。それは風にさざめく林のような世界。白いイソギンチャクやら、色のない海草やら、それらを擦り抜けて行く銀の小魚などが、流れに合わせ気持良く動いている様だった。
 そしてその中心に立ち竦む人の姿を捕らえると、征士はこの状況を漸く把握した。
『海だ、海の中に伸が居る』
 征士が気付くと、伸もまたそれに気付いたように顔を上げ、ゆっくりと降りて来る征士に微笑みかけていた。否、まだ詳細な表情は判らぬくらい離れていたが、彼は微笑んでいたと感覚的に受け取った。これだけ明るく美しい海の中だから、彼は微笑んでいるに違いないと征士は感じた。
 しかし降りて行く速度が妙に遅い。また肌に触れる水圧が些か高いような気がした。これはかなり深く潜って来たのだなと、想像だが征士は周囲の環境を考える。
『私も海の中に居る。だが不思議と息は苦しくない』
 そう、普通に息ができているようだ。或いは呼吸をしなくとも平気なのかも知れない。とにかくこの海は、そんなことは気にせず漂える不思議な海だ。もしかしたら伸の頭の中にあるイメージなのかも知れない。私はその中に迷い込んだのかも知れないと征士は思った。まだ落ち着いてものを考える余裕もあった。
 すると、イソギンチャクの林の中に新たに何かが現れた。それはビデオの合成映像か、万華鏡のような怪しげな光の回転を見せながら、次第にある人の姿を映し出して行く。勿論征士も知っているその人は、先程伸の話題に出て来たばかりだった。
『あそこに居るのは純だ。私達が出会った頃の純と、中学生頃の純と最近の純が重なって見える』
 その奇妙な映像を見ると、征士ははっと我に返る思いがした。
『何故なんだ?。何故そんなに彼のことを気にしているんだ?』
 もしこの海が伸の見ている夢ならば、何故こんな心の奥底にまで純の記憶を持ち込んでいるのだろう、と思った。それは本人が話したように、何らかの心の不安を駆り立てる切っ掛けだったと、証明しているのだろう。次第にそれは昔の小さな純の映像に固定したが、伸がずっと彼を不安がっていること知る。
 そしてふと見ると、微笑んでいた筈の彼が今は悲しげに沈んでいた。思わず征士は口に出して声を掛けた。
「伸?」
 本来水の中で声を出せる筈もないのだが、何故だか普通に発声できた。だからやはりこれは本当の海ではないのだろう。すると征士の呼び掛けに対し、伸の気持が水を伝って彼の胸に届いた。
『不安になったんだ』
 その言葉は前に聞いた。よく判らないが不安になったと彼は告白した。そして何故か次に、
『伸にいちゃんは相変わらず海が好きだね』
 と、純の声が聞こえて来た。それも伸から話として聞いた言葉だ。
『不安になったんだ』
『伸にいちゃんは相変わらず海が好きだね』
 何やらそうして記憶に残る言葉を繰り返されると、いつまでも同じ場面から抜け出せないような、閉じ込められる不安が俄に襲って来る。別段自分が責められている訳ではないのに、もう止めてくれと声を大にして言いたくなった。気分が悪い、ここから脱したい、どうしたらそうできる…?。
 征士が意を決して行動を起こそうと、ただ落ちて行くだけだった体を反転させた時、突然視界が開けるように事態は変わった。
『僕も早く就職して、自由に好きな所に行けるようになりたいよ』
 と純は言った。それは初めて聞く言葉だった。そう言えば旅行の話をしたと言うので、それに対し純が返した返事だろうか?。ただその言葉には、何ら不安に感じる要素は見当たらなく思った。伸が何に不安を感じたのかは見当が付かない。だから、
「それが…、どうしたんだ?」
 と征士は、段々近付いて来る伸に尋ねた。伸は上を向いて真直ぐ征士を見詰めながらこう言った。
『不安になったんだ、人は節目節目で新たな世界に旅立って行くんだよ』
 それは純が大学を卒業し、また自分達から離れて行ってしまう不安だろうか?。またそれに置き換え、他の仲間達とのことも連想しているのかも知れない。そして、
『君もいつか何処かに行かなきゃいけない。若い時は短いよ』
『・・・・・・・・』
 きっと、伸の一番の不安はそれなのだろうと征士は思った。確かに人生は何が起こるか判らない。また今感じている気持が如何に強くとも、何らかの切っ掛けで気持が変化することは、百パーセントないとは言えない。私達は確かにまだ若い。年を重ねて行く苦労はまだ何も知らない。この先も常に面白可笑しく平和で居られるかなど、誰も保障してくれはしない。
 ただ、そんな漠然とした不安は誰もが少なからず持っている。そのことに深く苛まれるのは、それ程に私達の絆が強いからだろうか?。私達が今とても幸福で、日々充足していることが逆に不安を招いているのだろうか?。見詰めている伸の瞳は、それに応えるように大きく揺れた。
『僕はいつもここに居る。ここで昔の気持を大事にしながら生きてる。僕の時間は止まってるかも知れない。僕は君の自由を奪い続けるかも知れない…』
 だが、不安を感じればこそ愛はより深く育まれるものだ。障害がある程強く心は結び付いて行くものだ。君の不安も私の不安も、私達の愛情の糧として消化されるものだと、君には憶えていてほしい。征士はそこで強く思った。
 こんなにも、無意識の内に伸の中に入ってしまう程、私は君を愛しているのだと。
「私は何処にも行かない」
 もうすぐ手に届く所まで降りて来ると、征士は言った。
「私がここに居るのは私の自由だ。私の意思でここに居てはいけないのか?」
 すると、手を伸ばし漸く触れた征士の指先を、伸は確と掴んでホッとしたように笑った。
『…ううん…』
 水の中でもその体温は正確に伝わって来た。そして最も大切な意思が伝わって良かったと、征士は伸に見えるように安らぎの表情を作った。伸はきっと解ってくれただろう、例え一日一日が先の見えぬ暗闇だったとしても、私は未来を君と共に過ごしたいと願っている…
 指先から掌へ、手から腕へと、引き寄せるように伸の腕が征士を包み込んで行く。変わらずゆっくりと降りて行く征士は、まだその底に足が着いていなかったが、伸は彼の半身を優しく抱き締めると言った。
『ありがとう…、君が好きだよ…』
 その言葉を聞くと、明るい海の色が尚一層明るく輝いて見えた。不思議な海、伸の中の海には、明るく透明な迷いや悲しみがさざめいている。だが征士はそこに、暖かく受け入れられている事実を知り、却って幸福感が増すようだった。
 隠されている君の内部に触れられるからこそ、今は幸福なのだと。
「私もこの海が好きだ。明るく暖かい」
 と、征士は漸くイソギンチャクの地面に降り立ち、既に抱き着いている伸を大外から抱き締め返す。ふたりの体がぴたりと合わさり、もう何があろうと離れないと思った。何と言う満ち足りた気分だろう。征士が深い喜びを感じていると、そのすぐ横で純が手を叩き始めた。いつの間にか周囲には他の三人の仲間とナスティも居る。また次々に、今は遠い魔将達、離れて暮らす両親や兄妹達も、仕事の同僚から昔の友達まで全ての者がふたりを囲み、手を叩いて祝福してくれていた。
 こそばゆいこと。全ての人々が私達を認めてくれている。
 こんなことがあって良いのか…

 瞼にビクリと何らかの感覚が走った。
 はっと目を開くと、間接照明だけの薄暗い部屋は、まだ陽が昇る前の早朝の様子を呈していた。征士は頭だけを動かし、横に伸が大人しく寝ているのを確認すると、溜息混じりに小声で呟いた。
「…夢だ」
 どうも、本物の海には思えないと感じていたが、そう言う訳だったのかと少々残念な気分になった。目覚める直前の心地良さがあまりにも、圧倒的な記憶として残ってしまった。寝ている間に見る夢は大抵、起きがけに見るものしか憶えていないと言うが、正に寝覚めの良い夢だった。
 ただ、
『よく考えると恥ずかしい夢を見たな』
 冷静になってみると征士は、夢の内容が酷く自分勝手な妄想にも思えて来る。純が伸に何を話したかなど聞いておらず、自分が勝手に想像した会話から、伸がこんな風に悩んでいると勝手に物語を作ったようだ。しかも伸が嬉しそうに自分を受け入れている、否それ以上に、関係ない周囲の人間に拍手されるなどと言う、妙な状況に心が踊っていた。
 私の中にそんな願望が存在するのだろうか?、と悩みたくもなった。もしかしたら伸の不安を探っていたようで、自分自身の内なる気持を確かめていたのかも知れない。私の中にも何らかの不安は存在する。だが私の現在の気持に間違いがないことを、伸にも、誰にも認めてほしい思っているのかも知れない、と思った。
 そんな一方的な感情で、伸の不調を捉えているのだとしたら問題かも知れない。自分に取って人を愛するとはどんな事なのかと、征士は起き掛けの頭で考えようとしたけれど…
 その時、
「ん…?」
 そこで伸が寝返りを打った。征士もあまり眠りが深い方ではないが、伸もまたちょっとした事で目を覚ましやすい体質だ。
「起こしてしまったか?」
 と声を掛けると、けれど伸は特に不機嫌そうでもなく、一度征士の顔を見ると再び目を閉じて言った。
「ん…、おはよう」
「ああ」
「うーん…、何か、いい朝だね」
 言葉通りに穏やかな顔をして、朝のやや冷たい空気から逃れるように布団を探る。大事そうにボロ布を抱える子犬のような、愛苦しいこの仕種は普段の伸と何ら変わらず、いつも起き抜けの一瞬にしか見られないものだ。しかしそんな伸の様子を見ると、征士の頭には途端に疑問符が浮かんで来た。
「そうか…?。もう気分は良くなったのか?」
 昨晩あんなに心配し気遣っていたのに、夢にまでその状況が現れたのに、実は大したことではなかったのだろうか?。
「え?、何の事…?。ああ、昨日の夜ちょっと嫌な気分だったけど、何かすっきりした!」
「…そうか」
 拍子抜けだった。勿論嬉しい誤算だが、あれこれ考えていた自分が馬鹿を見たような、複雑な心境の征士だった。だがそれは決して無駄ではない。伸について考える程に己の姿も見えて来る、人は人を映す投影装置だと征士は気付いたので。
 それに伸が、
「フフ…。何処の海だか知らないけど、ずっと深くまで潜る夢を見てたよ」
 まさか征士が願った通りの夢を見ていたとは。
 恐らく内容は、征士の見た夢と同じではないだろう。だが伸の好きな海の夢を、ふたりして見ていた事実は素敵なシンクロだ。あのオーストラリアのカレンダーのせいだろうか、海の暗示が結果的にふたりの意識を良い方向に導いていた。心理学的夢判断に拠ると、水の夢は無意識を司ると言う。そして無意識が解放されるとストレスも軽減され、心理活動が平穏に戻ると言われている。
「そうか…それは良かった」
 結局、伸の心境が何故一夜で変わったのか、明確なことは何も言えないが、幸いなことに征士も頗る気分が良くなり、今日は気持良く伸の誕生日を過ごせそうだった。まあ、偶然その切っ掛けを作ってくれた純には、最大限の感謝をしようと征士は思った。

 例え夢だとしても、君の居る海に潜れて良かった。









コメント)と言う誕生日の朝のお話でした。今年は海に関する話を書きたいなーと思ってて、これはその第一段です。何故海をテーマにしたいかと言うと、ある曲を聞いて「今年は海だ!」と思っただけなので、深い意味はありません(^ ^;。
そして久し振りに純が登場したんですが(解放区シリーズでは初めてだな)、私の予定では社会人になってからの方が、純はしばしば出て来るようになります。と言っても他の三人ほど目立つこともないだろうけど…



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