日常の伸
ささめごと
Every little things he does



 まだ春と言うには寒さの厳しい二月。特に東京は最も雪が降りやすい月でもある。しかし二月には、一般の男女には温かくなる某イベントが待っている。
 そう、バレンタインデーのことだが、一般の男女ではない征士と伸の間では、毎年チョコレートは贈らず、手作りのお菓子と特別なディナーを用意する決まりになっている。否、伸がそうすることに決めたのだ。特にチョコレートが好きではない征士の為に。
 ただ、やはり何年も続けると、段々する事がマンネリになって来てつまらない。伸は今年は何か少し、変わった趣向で演出してみたいと思っているが、そう考え始めると途端に、いつものマンネリのループが頭に浮かんでいた。
 例えば、
「何かほしい?」
 と征士に聞いたところで、
「伸がほしい」
 と返すに決まっている。本心でもギャグでもあるが、ふたりの合言葉として定着した遣り取りの後は、それ以上何も展開しないことが多かった。何故ならそのフレーズを聞くと、伸の気持もまた満足してしまうからだ。いつも、いつまでもお互いを欲しがっていられるのは、恋人として最高の状態だと思う。それがこの十年ほどの間、ずっと続いているのだから全く幸せなふたりだ。
 ただ、それとこれとは話が違う。折角毎年訪れるイベントなので、生活のアクセントとして楽しみたい考えが伸にはある。毎年同じような事ばかりしていては、確定申告でもしに行くような、ただの慣例行事になってしまう。実際知人に義理チョコを贈るにしても、毎年同じ物は贈ることは少ないだろう。そう言うことだ。
 小さな変化、普段とは違うほんの僅かな特別感、それが長続きする恋人達、或いは結婚した夫婦にはいかに大切か。征士は何も言わないけれど、伸は特に征士の方が、そうした変化を求めるタイプなのを知っているので、毎年この時期と誕生日は考えに考えているのだ。
 けれど、今年は今のところなかなか良いアイディアが浮かばなかった。



 夜七時頃征士が帰宅すると、七時半にはふたりで夕食を食べた。そこまでは何事もない日常のひとコマだったが、食事を終えて箸を置くと、伸は向かいに座る征士に確と聞こえるように言った。
「さ〜て、今年はどうしようかな〜」
「何がだ」
「バレンタインのディナーだよ」
 そう聞くと征士は、ああ、と言う表情を見せたが、伸ほどそのイベントに関心がないようで、一呼吸置くと彼はこう返した。
「別に無理に豪華にする必要もないぞ。そんなことより要は気持だ」
 それは無論、忙しく支度をすることになる伸への配慮であり、また自分に取って、バレンタインデーと言うイベントは重要ではないと言う、単純な意思表示でもあった。もう既にこうしてふたりで十年暮らしているのだから、今更バレンタインもないだろうと思う気持は、伸にも解らないでもなかったが。
 ただそれを言い出したら、あらゆるイベントを省略することになり、お正月くらいしか祝う事も無くなってしまうではないか。それでは一年の日の巡りがあまりに味気ない。実際そんな生活をするようになった時、君はそれに堪えられるんだろうかと、伸の口許に笑みが零れた。
 僕の為に、大した事はしなくて良いと言いながら、君は僕との約束や、仲間達との飲み会の予定は絶対に断らない。いつも自分を押さえているけど、本当はかなりお祭り好きな性格なことを、僕は知ってる…
 光の戦士である征士には、やはり晴れの場が似合う。彼の人生にはそんな場面が多くある方が、より輝いて生きられるのではないか。伸はそんなことを暗に思いながら、改めて征士に尋ねてみる。
「フッフッフー、君は何かほしい?」
 すると案の定、
「伸がほしい」
 と言う返事が聞かれた。けれどその言葉に集約された全ての気持を組んで、伸は敢えて反論するように話を続けた。
「ほらね、そう言うってわかってるから、何をしていいかわからなくなるじゃないか」
「心から正直に話しているのだから仕方ない」
 そう、それが偽りのない気持であることも解っている。何故なら僕も同じ気持だからだ、と言う思いを伸は飲み込み、
「本音を言えば良いってもんじゃないだろ、恋愛は」
 と、それもまた真理と思わせる、的確な言葉で問い掛けた。確かに、毎日毎秒好きだ、愛していると言っていれば幸福かと言えば、そうではない。時には恋の欲求から離れ、知的で論理的な議論をするのも面白い。時には意見を違えてスネてみるのも面白い。日々押したり引いたりの駆け引きがあるからこそ、常に傍に居たいと思えるものかも知れない、と、そこで征士も頷いた。
「では…」
 彼はテーブルの上に両手を置くと、仰々しく何か発表でもするように口を開いた。それを見て伸が、
「おっ、何?。珍しくリクエストがあるの?」
 期待して身を乗り出すと、征士は正に伸の期待するところを答えてくれた。
「この間食べた鱸のソテーが上手かったから、何か鱸の料理を」
「よしっ!」
 思わず指を鳴らした伸を見ると、本当にこれこそ伸の求めていたものだったと、征士もよくよく理解した。私が何を欲しているかと言うことが、今の伸には必要な言葉だったと。そしてこんな遣り取りもまた、恋愛の楽しさのひとつだと知った。
 常に君を想ってはいるけれど、その時々によって求められる正解は違う。人間関係は数学ではない。そんなことを考え征士もまた楽しい気分になっていた。
「じゃあそうだね…、ローストした鱸でブイヤベースにでもしようか」
 征士のリクエストを聞くと、伸は暫し考えそんな提案をした。すると征士は間を置かずに、
「それがいい」
 と言った。基本魚料理が好きな彼には、とても好きなメニューだった。そんな相手の態度に伸は、
「そうそう、何かひとつそう言うヒントをくれると嬉しいんだよ、僕は」
 今は酷く嬉しそうに答えていた。全くほんのちょっとしたことで、気分は大きく変化するものだ。だから生活の中のあらゆる些細な事も、疎かにしては勿体無い。
「えーと、メモメモ…」
 すると伸は椅子を立ち上がり、今決定した事、それに関して思い付いた事を早く書き記そうと動いた。彼はいつもその為に、マンション内の各所にペンと紙を常備している。が、それについて今、十年来初めて征士が言及した。
「前から思っていたが、随分所帯じみているな」
「え?、何のこと?」
 突然思わぬ言葉を投げ掛けられ、伸はキョトンとしながら振り返る。すると征士は伸の手元を指差しながら言った。
「そのメモ帳だ。今時そんなことをする人間は少ないだろう」
 メモ帳、と征士は言ったが、実は折り込みチラシやミスプリントを綴じて束ねたものだ。今時と言われると確かにそうかも知れない。ひと昔前は何処の家庭の主婦も、折り込みチラシの裏をメモ代わりにしていたものだが、今はあまり見掛けない行動のようだ。印刷が向上して両面刷りのチラシが多くなり、昔のようにできなくなった点と、メモ帳など安く巷に溢れ返っているふたつの背景がある。
 ただ伸は、昔の主婦のような感覚でそんなことをしているのではない、とそこで声を張った。
「違う!、これは節約って意味じゃないから!」
 その思い掛けず強硬な態度を見ると、征士は不思議そうに首を傾げた。別に節約目的でも批難するつもりはないが、彼は何を主張したいのだろうと。そこで、
「他に何が?」
 と尋ねると、伸は改まるようにキリッと姿勢を正し、自らの考えをとくとくと話して聞かせた。
「買って来たきれいなメモ帳って、表裏両面、端まで書き込んじゃわないと勿体無い気がして、気軽に書いて捨てられないんだ。特に紙質のいいメモ帳とか、きれいな柄が入ってたりするのは気になってさ。これはもう本当に捨てるだけの紙だから、ちょこっと書いて捨てられるのがいいんだよ」
 まあ、それも節約思考のひとつと言えなくもない話だったが、恐らく伸が最も言いたいのは、ティッシュペーパーのような気軽な使い捨てを、高級なメモ帳ではやり難いと言うことだろう。その点は、
「成程、まあその感覚は解らなくもない」
 征士にもある程度理解できた。高級ブランドで洋服等を買うと、たまにノベルティのメモ帳などをくれることがあるが、ブランドイメージに合わせ、酷く高級な材質のメモ帳だったりすると、使うのが勿体無く感じて使えないことはある。伸はその高級ハードルがかなり低いのだろうと思った。
 そして征士の同意を受けると、
「だろ?、長く残す必要があるなら、ノートみたいな厚手の紙の方がいいよそりゃ」
 伸は解り易く他の例を挙げた。つまりそうした使い分けこそ自分のこだわり、と言う話のようだった。
 前の話題に戻るが、人間関係は数学ではない。人付き合いは合理的に割り切れるものではないが、しかし生活態度と言う面では、幾らでも合理性を突き詰めることができる。性格的なものか、伸は生活の中で自然にそうして、合理性や効率を見詰め続けているのだろう。何が自分に取って、或いは快適な生活をする為に最適かを、考え続けた上で答を出したのだろう。
 それは正に伸らしい、と、征士は笑顔で言葉を訂正することになった。
「では私の間違いだ、所帯じみているのではなく合理的だ」
「そうだよ?、わかってくれてありがとう♪」
 伸も、相手がスッと異論を引っ込めてくれたので、合わせた笑顔でそう返した。
 長く良い関係を保つコツがあるとするなら、こうした時に、意見を主張し過ぎずすぐ折れることだろう。特にこんな、ある意味どうでも良いような日常の瑣末事で、我を張って譲らない態度は愚の骨頂だ。相手を愛すればこそ、少し気になる行動も広い気持で許せる。既にもうずっとそうできているふたりならではの、笑顔の交換は正に愛情の証だった。
 恋人は使い捨てられるかも知れない。だが真実の愛は捨てるどころか、常に心に存在し続けるものだ。紙のメモと人間関係の、意外な類似性に気付くと、ふたりは尚更愉快な気持になっていた。まさかこんな話題からも、お互いの気持を推察できるとは思わなかった。
 するとそこで伸が、
「あ、でも君だって会社でメモくらい取るだろ?。何使ってんの?」
 そう話し、征士の仕事上での行動を尋ねた。聞かれると征士は、暫し会社のデスクの上やら、引き出しの中などを思い出し、
「まあ大体取引先から貰った、企業名の入ったメモ帳などだな」
 と返した。特に変わった様子でもない、征士の勤め先の風景を想像しながら伸は、
「そうだよね、あーゆうのも割と気軽に使えるよね、別に可愛かったり、特別高級だったりしないし」
 更に征士を納得させるように言った。確かに会社のデスクの上とは通常、付き合いのある会社から貰った物で溢れている。メモ帳、カレンダー、ダイアリー、ファイル、ボールペン、それぞれ大した物ではないが、事務用品は幾らあっても困らないので、各社名刺代わりに置いて行ったりもする。そしてそう言う性質の物なら、使い捨てるのもあまり気にならない。
 成程伸の言う事は強ち間違いではない、と、そんな己の現状を考えた時、征士はふと他の社員の行動を思い首を傾げた。
「ああ…」
「何?」
「いや、これだけ電子機器が発達しても、紙にメモをする習慣はあまり廃れないなと」
 征士が首を傾げたのは、これだけパソコンなり、携帯電話なりが普及していても、会社に持ち込まれるメモ帳の数は減らないと言うことだ。長い文章や手紙の類は、手書きをしなくなった人も多いと聞くが、それでも紙のメモ帳にはまだまだ需要があると、何処の企業も判っているのだろうか?、と。
 するとその答らしきことを伸が説明し始める。
「そりゃそうだよ、紙派の僕としては、その理由は主に三つあると考えてるよ」
「三つ。それは何か?」
 そしてそこから、マンションのダイニングが伸の一大講議の場となった。
「ひとつは、思い付いたことを記録するのに一番早い方法だから。文字だけじゃなく図もすぐ書ける、決まった形式がなくて電源も不要だから」
「それはまあ一番だろうが」
 最初の話題は誰でも普通に感じることだった。この時代の電子機器はどうしても、自由な曲線などを好き勝手に書けない不便があった。そして電子機器は、電源を入れて暫し待たなければならない面があり、思い付きを即座にアウトプットしたい時には、多少もどかしいツールでもある。
「ふたつ目は、メモ帳を持ってなくても、その辺にある紙状のものに書けばいいこと。昔から壁にメッセージを書いたりするけど、個人的にどうしてもって時は手の甲に書いてもいいし」
 だがそのふたつ目については少し茶々が入った。
「書く方のペンを持っていれば、と言うことになるかな」
 征士が言うと、伸はこう言って反論した。
「今時何処でも売ってるし、お店とか何処でも貸してくれるしさ」
「まあな」
 確かに今時、書くもののひとつも置いていない場所は無い。ついでに言えば、紙類も何かしら置いている所が殆どなので、入手に困ることはあまりないだろう。少なくとも特定の機器を持っていなくては、メモができないと言うことはない。
 だが伸は、以上の二点よりも重要なことを最後に残していた。
「そして三つ目が一番大事ね。目に付く所に置いておくとみんなが見られて、簡単に情報を共有できる。子供でも年寄りでも問題なく見れることさ」
「そうだな…、その点は電子機器の一番の問題ではある」
 征士もそこには酷く納得して頷いた。常に通電して画面を開けていないと、その情報が見られない場合、仕事上の遣り取りならともかく、ちょっとした伝言に一日中電力を使うのは勿体無い。コードレスの電子機器なら一日を待たず、数時間で充電が切れてしまうことも必至だ。また勿論、機器を扱えない年令の者に対しては、どうしたって紙の方がいい。その情報を渡す時も軽くて簡単だ。
 そこまでの講議を終えると、伸は最後にこう話す。
「だろ?。こんなの誰の発明ってことでもないんだろうけど、適当な紙に何でもパパっとメモしておくことが、快適に暮らす鍵だったりするんだよ。同時に、要らなくなったものは捨てないと混乱するから、すぐ捨てられるってのも大事なんだよ」
 すぐ捨てられると言う意味では、電子機器はまた少し面倒な面があるかも知れない。既に要らなくなった情報かどうかは、その日付や時刻を見て確認する必要があるし、自主的に消去しなければいつまでも残る。伸の言う混乱が起こり易い環境とは言えた。
 それらの、伸の細かい洞察を鑑みると、メモをすることなど大した事ではない筈なのに、征士には何故か深い感銘のようなものが込み上げて来た。そこでひとつ軽い溜息を吐き、
「素晴しい」
 と彼は言った。その一言を受け、
「お?、紙の素晴しさをわかってくれたね?」
 と伸が返すと、征士はもう一度笑顔を作ってこう話した。
「いや伸が素晴しいと言ってるんだ。そこまで信念を持って紙にメモを取っていると言う」
「ははは、まあね、そんなに深く考えることじゃないかも知れないけどね」
 伸の言う通り、それは取り立てて言うほどの日常行動ではないかも知れない。だがやはり伸の言う通り、そんな小さな事の積み重ねが生活を上手く回らせているのだろう。食事のメニューも、待ち合わせの時間も、ふたりの間で交わされたふとした言葉まで、気に留めておくからこそ、そこに確かな気持が生まれるのではないか。いつもそれを気にしていると言う、愛情だ。
 そんな風に伸は、無意識に周囲の小さな物事にも気を配り、それぞれ愛することを自然にしているのだ、と思うと、征士は忘れるままに生きている己を省みて、
「私のように何も意識しない人間には、伸のそう言う細やかさはある意味憧れでもある」
 と言った。言うと同時に、テーブルの横に戻って来た伸の手を取り、愛おしそうにそれを頬に押し当てる。この伸の手が書き記す文字なり図形なりが、全て自分の為に向けられたメッセージであるかのような、妙な錯覚さえ征士には生まれていた。些細な事ながらとても幸福な気持だった。
「やだなぁ、そんなに誉められてもこれ以上何もないよ?」
「これ以上は要らない、私は有りの侭の伸を愛しているので」
「困っちゃうなぁ、ブイヤベースの他に何を作ろうか」
 珍しく伸は照れた様子で体をくねらせていた。「愛してる」の言葉も、会話の中で軽く使うことはあるけれど、こんな態度で真面目に言われると、受け取る方も軽く流せなくなるようだ。それだけ心の篭った言葉には力がある。
 故に心を込めて書くことにも、人を動かす何らかの力があるのだろう、と伸は思った。例え何とはないメモ書きひとつに於いても。



 二月十四日、の夜。
 その日も七時頃に帰宅した征士は、ウキウキと楽しそうな伸に促され、バレンタインのディナーの席に着いた。食事の他に特にイベントは無いのに、何をそんなに浮かれているのだろう?と、征士がやや不思議に感じながらテーブルに向かうと、目の前に置かれた皿の上を見て「おや」と思った。そこには、レースカットの綺麗な縁取りをされた、白い封筒がひとつ置かれていて、「伊達征士様」と宛て名があった。
 伸は今キッチンに戻り、料理を温め盛り付ける作業に入っている。恐らくそうしている間に中を見ろ、と言うことだろうから、征士はそれを手に取り蓋を開けた。中にはやはり特別な何かが入っていた訳ではなく、普通に折り畳んだ便箋が入っていた。
 但し。
「伊達征士様
 十四才の頃に君に出会ってから、もう十三年経ちました。
 いつも僕を見ていてくれてありがとう。
 僕はその寛大さに応えられているかどうかわからないけど、精一杯のことをやっているつもりです。
 僕もいつも君を見ています。
 今もずっと君が好きです。
 この先もこうして、ふたりで居られたらいいと思いますが、君はどう思いますか?
 これからもお付き合い下さるでしょうか?
 お返事待っています。
 毛利伸」
 と言う、平常の会話とは少し違う言葉が並んでいたので、征士は思わず目を丸くした。
「な、何だこれは?」
 すると、その驚く様を待っていたかのように、伸がキッチンから顔を出して声を掛けた。
「クスス、君が『紙に書くこと』を誉めてくれたからさ、初めて書いたラブレター、それ」
 ラブレター。そう言えばそんな物を遣り取りしたことはなかった。年賀状や普通の挨拶の手紙なら、幾度か伸に書いたこともあるが、もう何を書いたか忘れてしまった程、大した内容は記していないと征士は思う。また最近は何でもメールで済んでしまうことが多く、手紙と言うものをあまり書かなくなった。その、何とも言えない特別感に思わず、
「三くだり半でも突き付けられたのかと思ったぞ」
 と、背中に冷や汗を感じながら征士が言うと、伸は少し不貞腐れたように返した。
「そんな文面じゃなかっただろ!」
「いや、突然のことで正しく読み取れていないようだ」
 折角心を込めて書いたのに、全く伝わらなかったとしたらあまりに悲しい。だが征士の様子は、手紙の内容が頭に入って来ない程に、突然のラブレターに驚いたようなので、まあ伸は口を尖らせながらも許してあげることにした。そんなに驚く程、手紙を書くことは新鮮な行動だっただろうか?。それならもっと大事な時に取っておけば良かった、とも思って結局笑っていた。
 そして、征士は改めて手紙の文字を見詰めている。物凄く上手いとは言わないが、几帳面に整った文字のひとつひとつが、丁寧に気持を伝えようとしているのを感じられた。画面上のドット文字ではない、印刷された活字でもない、手書きの文字はそれを綴る時の微妙な感情を、事細かに伝えてくれるようだった。恐らく伸は面白さ半分、真面目な気持半分でこれを書いたに違いないと。
 だが例え半分は冗談だったとしても、このような気持の受け渡しは、下手なプレゼントより何倍も嬉しいと感じた。だからこそ紙に書くことは廃れない。誰も一度はそんな経験をしているから、廃れさせたくない文化なのだな、と、征士は開眼すると共に身の幸福を噛み締めた。
 思いを込め、文字で心を伝えてくれる相手が居ると言うのは、何と特別で嬉しいことだろう。
 それなのでお礼に、
「あー、伸は今、何かほしい物はあるか?」
 征士がそう問い掛けると、伸はまたクスリと笑って言った。
「君がほしい」
 得意のお株を取られて征士もまた笑ってしまったが、その後に、征士の求める答を伸は確と続けた。
「と言うのは嘘。君の真似しただけ」
「本当は何だ?」
「そうだね、その手紙の返事をもらえたら嬉しいかな?」
 文面の終わりに、お返事待っています、と書かれている通りだった。片方だけが良い思いをするのはフェアじゃない。是非征士にも、溢れんばかりの思いを紙に綴ってほしいところだった。まあ恐らく征士が真面目に書こうとする時は、ペンではなく筆を持ち、手紙と言うより書と表現する方が正しいようなものを、贈ってくれるだろうと伸は予想できていたけれど。
「成程、そう言うことなら返さなくてはいけないな」
 征士が、そんな伸の希望に納得すると、ふたりはまた顔を見合わせて笑った。本当のところは文字での感情表現などどうでも良い、取るに足りないことだけれど、ほんのちょっとした生活の中のイベントが、長く幸せに暮らせる秘訣だと学習したばかりだ。征士は誠意を持って伸の希望に答えるだろう。伸が伝えて来たよりももっと、強く深い愛情を表現してみせようと考えながら。



 その日から、征士はホワイトデーに向けて久し振りに墨を摺り、長く使っていなかった筆を取った。









コメント)バレンタイン向けの甘くて軽いお話を、と思って、大体思う通りに書けました。甘いと言う意味では、よその小説に比べたら全然甘くないと思うけど(^ ^;。
ちなみに伸を「紙派」にしたのは、私がそうだからです。いや、この文章もメールも普通にPC使ってるけど、ちょっとした事をメモする時と、手紙を書く時は紙が一番なので、私の部屋は未だに紙だらけです。まあ同人やってる人は紙が好きな方は多いと思いますがね。



BACK TO 先頭