真実を見る
#2
REVERSE



三番能「金剛桜」

 そこは、金剛不動尊と呼ばれる、古来からの戦の神を祀る霊場だった。桜の名所にして、武家に縁の土地とあらば、遠方から馳せ参じる者も少なくない。但し今は夕闇の頃。鮮やかな茜色は既に散じて、薄墨を流したような辺りの景色に、桜の花ばかりが白く浮き上がっていた。
 ぼんやりとした月が出ている。月の光が桜に形容し難い色を与えている。
 橋掛かりから舞台へと、若女の面を着け、水衣(みずごろも)を纏った里女がゆらりゆらりと歩いて行く。そして舞台の中央には、まるで長旅に疲れ果てた風情の、橙色の鎧武者が座り込んでいた。厳めしい鎧を身に着けながら、怠惰に手足を放り出した彼には、武者らしい気迫など微塵も感じられない。石の様にぴくりとも動かないでいる。
 里女は武者の休む、金剛不動の桜の下へと静かに歩を進めて行った。鎧武者の傍まで来ると、
「其処のお侍様、如何され申した」
 まず様子を窺うように声を掛け、返事が無いと知るや、
「深草の野辺の桜し心あらば、ことしばかりは墨染にさけ」
 と、徐に『古今集』の歌のひとつを聞かせる。
 意味としては、深草(山)の野の桜に心があるなら、今年は(貴族達の為でなく)僧の為に咲け、と言う、世の在り様を問うような歌である。ただ、ここで何故そんな歌を聞かせたのか、耳にした鎧武者には皆目解らなかっただろう。
 里女は御親切にも、その歌の内容を説明すると、全くあっさりした態度で、霞の立ち篭める月影へと消えて行った。
 古今集と言えば平安期の和歌集なので、貴族と言えば天皇家や平家を指すだろうが、それに対して僧侶はどんな立場だったのか、を考えさせられる。恐らく舞台上の鎧武者も、聞かされた歌の背景に心を馳せていたことだろう。
 天皇家とは何か、武家とは何か、仏教の僧とは何を表すのかと。
 その内、舞台は夜へと暮れて、鎧武者はそのまま眠りに就くこととなる。同時に舞台の様子も変化して行った。彼が眠りの内に見る夢の場面へと、景色はそのままに転換して行く。
 橋掛かりから再び女がやって来る。神聖な女性を表す増(ぞう)の面を着け、朱に花鳥模様の長絹を羽織った、如何にも舞を演じる者の衣装。彼女はこの金剛不動の桜の精だと言った。そして、身動きできずに佇んでいる、橙色の鎧武者にこう告げるのだ。
「汝、名有りて徳無き男」
 それは正に、疲れ果てる鎧武者を表す言葉だった。戦に奔走し名を挙げるも、仏の道、即ち功徳からは外れて行くばかりの、矛盾した現状と心を言い当てていただろう。何も語らない、否、語れない武者の代わりに、桜の精が代弁したようなものだ。
 そしてこう続けた。
「花は誰の為にぞ咲く、何の為にぞ咲く」
 夕方の場面では、「僧の為に咲け」と言う歌を聞いたが、それはつまり、実際はそうではないと言う意味だろう。花見の雅びを楽しむことが、貴族達の春の習わしだとすれば、僧の為に花が咲くことはないのだ。何処に根付く桜だろうと、花はいつも時の天下人を楽します。と、和歌にはそんな皮肉も歌われていた。
 けれど、貴族の為に花が咲く訳ではない。誰の為でもない。何の為でもない。命は何かの為に有るのではなく、草木も人の生業も無常である。
 桜の精は短い言葉の中に、そんなことを説いているようだった。
「世を憂へし者は、仏を見、神を見ゆ」
 最後にそう言う頃には、鎧武者も確と顔を向け、桜の精の一挙一動を見ていた。人間ではない、精霊の言うことだからこそ、信じられる物事もあるかも知れない。花は何かの為に咲く訳でなく、己は何かの為に散る訳ではないのだと。
 生き死にには意味が無い。ならば、生ける間に何をしようや…
 そして緩やかな太鼓の節が始まると、金剛不動の桜の精は序の舞を舞い始めた。静かで気品があり、且つ遊楽的で華やぎも感じられる。そんな序の舞は正しく、精霊や天女にこそ似つかわしい舞だ。鎧武者は夢の中でこの神々しさに触れ、己の過ちを少しばかり覚ったようだった。
 戦場は常に死と隣り合わせであり、己が命の所在こそ全てだった。生き抜くことが勝利、それには違い無いが、徳無き命を生き抜くことに、何の意味があっただろうかと。
「深草の野辺の桜し心あらば、ことしばかりは墨染にさけ」
 桜の精の、命の息吹を感じさせる舞の内に三番能は終った。元より三番目は鬘(かずら)物と言い、女性が主役の情的演目が多い所為か、間の狂言も無く終始静かな成り行きだった。

「そうだよ、僕ら自身は何でもない。僕らが生きるか死ぬか、勝つか負けるかじゃなかったんだ。それで済むような事は、本当は何処にも無いのかも知れない。僕らは知らなかったんだ…」
 傍観するばかりの観客のひとりとなって、伸は橙色の鎧武者が至るであろう答に、無言で賛同していた。



四番能「淀橋物狂」

 ここで舞台がやや趣向を変える。
 傍観的な役所であった鎧武者が、これに限って話を進める役となって歩き出す。
 舞台上は、翠の鎧武者が直面の従者を連れて、東国を見物している場面だった。能の物語はほぼ室町時代以前の話なので、当時の東国と言えば鎌倉周辺、平将門が開いた関東の諸地域、そして奥州・平泉辺りの一帯を指す。それらの周辺地域は、まだまだ粗野な田舎の里と言った感じだろう。
 が、武人には武人好みする景観と言うものもある。未開の土地の荒々しさにこそ、唐の史記を想像する愉しみが存在する。翠の鎧武者は東の各国を尋ね、その旅路の風景を満喫し、既に三年も家に戻っていないのだ。話はそんな状況から始まった。
 そろそろ帰着の途に就こうと、丁度関東の淀橋と言われる辺りにやって来た時、そこに、苦々しい表情の深井の面を着けた女が現れ、乱した髪に乱れた着物で、物狂いとなっている様を見せつける。大小鼓の拍子に笛のアシライで、緩急の激しいカケリを舞った。シテの女が抱える、既に見境の無くなった心の苦悩が、型や足踏み等の働きに拠って見事に表現されていた。
 その様子を見て哀れに思ったのか、或いは舞の上手に驚いたのか、鎧武者と従者は暫し立ち止まっている。そして、
「女、其のような見事な舞は、何処ぞのお社にでも奉納するが良し」
 鎧武者はそんな言葉を掛けた。見るも哀れなこの女にも、神は何らかのお慈悲を示されるだろう、と、そんな配慮だったに違いない。ところが、
「神も仏も無し、我には神も仏も無し…」
 と、女は世を儚む文句を綴るばかりなのだ。
 能に於ける「物狂い」とは、心病んで発狂することではなく、所謂心神喪失、放心状態や、何かに取り憑かれている状態を言う。なので哀れと思われても、存在を忌み嫌われることはない。取り憑いているものが悪霊だったとしても、不思議と過去の人間は、その言い分を聞こうとしていたようだ。古のこの国が如何に大らかだったかが伺える。
 さて、今暫く女のカケリを見ていた鎧武者は、追い縋るようにまた問い掛ける。
「其方は何故世を儚くす」
 そう言って、遂には自ら近付いて行った。何が彼の気に留まったのか、物狂いの女は誰を気にすることなく、己に入って嘆いているだけだ。が、
「我は世に捨てられてござりまする、全てに見捨てられ、最早帰る処も無し…」
 乱れた黒髪の下の、恨めしそうな女の顔を見るや否や、翠の鎧武者は一歩、二歩三歩と後ずさることになる。それは郷に置いて来た妻だったのだ。
 何と言うことか、悠々と気の趣くままに旅を続け、家を顧みることなど無かった鎧武者。その間に妻は、もしや捨てられたのではと日に日に疑心暗鬼になり、神経を磨り減らせ、遂には物狂いとなって彷徨い出したのだ。まさかこんな所でそれと落ち合おうとは…。
 けれど、狼狽えている様子の鎧武者とは対照的に、物狂いの女は爛々とし始める。そして今や憎しと言う仕種で、
「我も旅に出とうございまする…」
 と告げるのだった。
 そこで、呆然としていた翠の鎧武者と、物狂いの女を残し、従者の役者だけが舞台から下がって行く。その間女の役者は、簡素な水衣から舞衣(まいぎぬ)に着替え、同じ場を用いた別の次元の話へと出て行く。つまり、妻は生き霊となって、夫である鎧武者の辿る旅の後を着いて行くと言う、過去の再現の場面である。

 それはこんな道程だった。
 話に伝え聞く、武家の源流とも言える源軍の本拠鎌倉は、今は穏やかな遠浅の浜に囲まれ、静かに時を凪いでいる。名を上げようと荒ぶる者は、切り無く世に現れ来るが、その大半がほんの一時の輝きに終わる。我もまた大望を抱く者なれど、鎌倉の昔より伝わる頼朝公のようには、到底なれますまい。大事を為された頼朝公だからこそ、今を静かに見据えて居られるのだろう。
 鎌倉の先には、広大な関東の大地が広がっている。この広くなだらかな土地には、未だ何と呼べる物も無く、鍬や鎌を携えた農民が、畑を耕しのんびりと暮らしている。西国に比べ、随分と文化が遅れているようだ。しかし何処か懐かしい。この広々とした地に馬を駆って、何処までも、命尽きるまで走ってみたいと言う思いがする。未だ何も無い状態は、何故だか酷く血を騒がせる。
 野を越えて、北へ向かうには山を越えなければならぬ。東国の山々は険しく、樹木は黒々として、えも言われぬ重厚さを感じさせる。まるで分け入る者を拒むような、堅固な城の石垣を思わせる。山とはかくあるべし。それ故多くの土地と民を守れるだろう。素晴しい山々、切り立つ断崖、勇壮な景色を臨むにはそれなりに骨も折れる…。

 地謡が淡々とした調子の謡いで、その日記的記憶を綴り始める。翠の鎧武者は、己が辿った道程をなぞるように歩き出す。
 その後を、生き霊と化した妻がクセを舞いながら着いて行く。太鼓の音、アシライの笛、地謡の謡いが重なり合うクセに、見事に同調して舞い歩くのだ。まるで現実の過去に舞っている、過去に戻って実在できているような表現だ。しばしば能には、現代で言うSF的な場面が見られるものだが、何とも不思議で面白い脚本だと思う。
 そして、長い思い出渡りが終ると、女は現に戻るが如く中の舞を見せ、物狂いからも、生き霊からも立ち戻ったようだった。今は現実の舞台の上に、翠の鎧武者と女が対峙している。
 正気に戻ったところで、改めて妻として女は言った。
「旅は愉しき道なれど、其のお心は知れませぬ」
 鎧武者は黙って聞いている。
「戦とは何ぞ、武士とは何ぞ、男とは何ぞ」
 女の声は酷く哀しく辺りに響いていた。

 前場の役者が下がり、四番能二場の始まりは、舞台中央に上がった狂言師の口上で始まる。変わらぬ黒装束にロザリオを下げた、キリシタンを表す奇妙な衣装が、観る者の目を妙に引き付ける。
 そしてまず、前場の女の問い掛けに答えてみせた。
「戦とは何ぞ、其れは武士たる者の生業也。武士とは何ぞ、其れは武術にて何事かを為す者也。男とは何ぞ、其れは為すべき道を選ぶ者也」
 軽妙な語り口が心地良く感じられる。簡潔な説明でありながら成程と思わせるのは、言葉のリズムの良さにもあるのだろう。そして次に、
「哀しきは鎧武者、戦の源、武士の源、男の源、力、に因りて動かされ、力に因りて命運を見ゆ。誰が造り給うたか、この哀しき者共…」
 と続けると、狂言師は静かに舞台端に下がって行き、それに入れ替わるように、舞台の中央へと向かう鎧の集団が現れた。
 橋掛かりから、一陣の風の様に舞い込んだのは、この題目の中心である『鎧武者五人衆』だ。無論前の場の、翠の鎧武者もその中に含まれている。蒼、浅葱、橙、翠、そして未だ話には登場せぬ緋色の鎧。彼等は舞台の上に円を描くように練り歩き、やがて決まった位置取りに留まった。
 続けて橋掛かりから、背中合わせのまま昇って来たふたりの役者は、対の拵えの白と黒の鎧を身に着けた、即ちふたつの『輝煌帝』だった。五人衆に比べ、重々しく踏み締めるように舞台の中央へと進む。そして一心同体の如く、ふたつの輝煌帝は左右を向いた格好で止まった。
 今、鎧武者五人衆は輝煌帝を取り囲んでいる。暫しの間、両者は無言で睨み合っている。
 そこへ狂言師の一声が、
「力は更なる力を生み、鎧は更なる鎧を生みぬ。憎悪は憎悪を生み、畏怖は畏怖を生み、この世の果てまでも続かぬ!」
 と響くと、途端に何かに弾かれるように、囃子の音と激しい立ち回りが始まった。 仁義に厚き鎧武者五人衆の、天王山とも言える戦いが始まった。
 ただ、舞台で激しく動いているのは、輝煌帝を取り囲む鎧武者と、場面を演出する囃子方の手捌きのみで、ふたつの輝煌帝は悠然と其処に立っている。目には見えぬが、両者に歴然とした力の差があると感じられる。しかも鎧武者五人衆は知っているのだ。言わずもがな、輝煌帝は彼等に拠って呼び出された物、武者達の個々の力では、始めから太刀打ちできぬ存在だと。
 ならば何故戦うのか。
 彼等の意思とは関係なく、禍々しき力に揺り起こされ、この世に生み出された希有な落とし子。全てを焼き尽くし、全てを無に還すと言う恐るべき力。無理を承知で、背水の陣で臨むは遺憾の念からか、それともまだ御し得ると考えるのか。
 何故戦わなくてはならないのか。
 結果は火を見るより明らかだった。輝煌帝の振り下ろす剣の一撃に、為す術無く鎧武者達は倒れて行った。無気味な程静かに立ち振舞う対の輝煌帝が、この舞台を、世の全てを凌駕したのだった。
 一体、彼等は何故この戦いに臨んだのだ…。
「力を求むる者は力に滅びぬ。義を取る者は義に泣かさるる。命無くば他の命も無し。不条理なれど此れぞ正道也。常なるは対の鎧の如き、滅びと復活の理のみ」
 舞台上に伏したままの鎧武者を背に、世の空しい事象について、狂言師が淡々と語る。
「人の心に戦は有り。求む求まざるでなく、心は抗うもの也。名有る心は抗うもの也。然し捨てよ、自らを捨てよ、己を捨てよ。命のみを見つ、天のみに平伏せよ。さすれば汝は救はれむ。天に於きては、力の化身も汝も等しく在り。等しく救はれるもの也…」
 最後に、対の輝煌帝が激しい太鼓の囃子に乗って、自らの勝利を祝う急の舞を見せた。雷雲の轟くような音と共に、力強い足拍子が地鳴りのように響く。我が物とした天地を縦横無尽に踏み締める、それは正に神々の行進のようだった。
 演じられた急の舞は、元より男神や鬼が演じる舞であり、堂々として快活な動作が、気の空くような爽快さを観衆に与えるものだ。ただこの演目に限っては、些か戸惑いを生じさせただろう。現世が最早、人の手を離れてしまったような不安さが残る。
 白と黒の輝煌帝の饗宴。
 それでも良しと狂言師は言うのだが。

「僕等がどうにかできるなんて、驕りだったと今は思う」
 四番能の長い上演を観終えて、伸は全てを悟ったように呟いた。
「大きな流れの中の、ほんの一端を担っていただけさ。それでも、心が一番重要なのは変わらない」
 最後の場面の鎧武者達と、狂言師の口上とが妙に噛み合ったところで、愈々『水滸新闘記』も一番を残すのみとなった。これまでの番組の流れが、今の伸には充分過ぎる程理解できていた。
「それから、みんなも感じているだろうけど、僕等の求める正しさとは何だろうね。より難しい事を、これからは考えなきゃならない…」
 もうひとつ、僕らは前に進まなくてはならない。



五番能「復活」

 舞台にはアイの役者として、キリシタン姿の狂言師が宮に座っている。作り物として、宮の横には桜の木が置かれている。そこへひとりの武士が、梨打烏帽子に直垂(ひたたれ)姿、悩める青年を表す邯鄲(かんたん)の面を着けて、橋掛かりからやって来た。戦に破れ、怪我でも負っているのか、役者は覚束ない足取りを演じて歩く。切能はまずそんな場面から始まった。
 武士の男がキリシタンのすぐ傍までやって来ると、
「其方、何故そうも草臥れておられるか」
 と声を掛けられる。男はそこでがくりと膝を落とし、もう首も動かせないと言った風に、相手を見ようともせずに答えた。
「戦に破れし者のさだめ…、自刃も叶わず、某はおめおめと生き恥を晒すばかり」
 そして緩慢な動作で身を起こすと、今度はキリシタンの方を向いて続ける。
「とうに骸と化した此の身が、重うてならぬのです…」
 逃げ延びた落武者の言い分は、古来からの日本の美徳、即ち武士道に支えられた当たり前の文句のように思う。武家の治世が始まって以降、長く重んじられて来た日本人の心。形に表すならば、正に桜の散るが如くと言ったところだろう。
 桜は久しく、日本人の美観として愛でられる花だ。年初めの時期に開花することから、希望的な印象で語られることもあり、またその散り際も美しいとされ、殊に文学的な題材には欠かせぬ風物だろう。誰もそれを否定する者は無い。この能が創られた時代でさえそうである。
 けれどキリシタンはこう言って嗜めた。
「其方、己に無礼であろう。何を以て己を骸と申す。自ら命を拵へ、自ら命を断つと申すか」
 不可解な問い掛けに、身動きせずに止まっている武士の男。キリシタンは暫しの間を置いて、更に講釈を続ける。
「身は朽ち果てようとも、其方の旅は終らぬ。武士には武士の、僧には僧の、修羅には修羅の行く道が、深遠に続くものと心得よ。誰もが往きて、己が命題を知らねばならぬ。しかれど、御悲嘆召されまするな。天におはす方は常に其方の道を、整えてお待ちになっておられる。往けば其方は必ず救はれましょう。命のともしびがその証也…」
 すると、その台詞を言い終わった途端に、辺りから大小鼓と笛の音が聞こえて来る。何とも表現し難い、些か陰鬱な調子に合わせて、動きを止めていた武士がカケリを舞い始めた。武士の道、修羅の道の苦悩を存分に訴えかけるように、苦し気な舞が狂言師の前で繰り広げられる。
 勝敗とはただ結果に過ぎない。争い、競い合いに敗北するのは恥ではない。キリシタンの言う、たったそれだけの事が武士の男は受け入れられない。否、今も昔もそれに苦しむ者は居るけれど。
 己を捨てよ。
 と、四番能での狂言師の台詞が、再び聞こえて来るようだった。
 何故そう草臥れているか、何故苦しむのかと。
 けれど、苦悩に満ちたカケリを舞い終えると、その後には救済がやって来るのだった。風に運ばれるが如く、再び舞台に姿を現したのは『鎧武者五人衆』だ。一度地に伏した筈の彼等が、生に悩むひとりの武人を取り囲む。最早鎧武者は武者でなく、戦に迷う者でもなく、神憑りな存在と化して、男に何らかの導きを与えようとしていた。
 先程までとは一転して、明るく愉し気な調子の囃子が始まった。
 千秋万歳の寿ぎ、渉り拍子の明朗なリズムに乗って、鎧武者達は命あることを謳歌するように、下り端舞(さがりはのまい)を舞い踊る。恰も、キリシタンの説は正しいと賛同し、己を喜び、この世をも喜んでいるようだ。前の演目が、人に左右できぬ自然の掟ならば、この演目は生ける者全てに対する、救いと恵みであると思う。
 業も徳も備わった鎧武者達は、正に人間の代表として喜び合う。
 その輪の中から、緋色の鎧武者がひとり前に出ると、次には中の舞を始め、その中に華やかな乱(みだれ)を入れて、更にその場を賑々しく盛り上げた。こうして、舞台の上の世界は賑わう一方の祭となった。神と呼ばれるものと、人間との華々しい祝言である。
 太鼓の音が鳴り続けている。それに引き寄せられたかのように、遂には面を着けた武士も立ち上がり、自ら颯爽と神舞を舞い始める。疲れ果てた男はこうして生まれ変わった。死より復活することもあらば、生きながらに復活することもある。ただ、与えられるものを喜び、舞えば良いのだ…。

 観客席からは、感嘆の趣を感じさせる、鳴り止まぬ拍手が聞こえていた。
 これにて『水滸新闘記』の五番は終演となった。
 そして伸は呼び掛ける、
「君は、この舞台を観られなかったんだ。僕らも知らなかったけど、これからは、きっと君にも答えられるだろう…」
 呼び掛けて、その場から意識が薄れて行った。
 何故伸が時を越え、示されたこの場所に居られたのか、誰の意思に拠ることなのか、誰の計らいなのかは全く解らなかった。
 けれど、戦いに対し最も懐疑的で、常に心を傷めていたのは他ならぬ伸だ。彼になら、この演目の伝える意味が理解できるかも知れない、間違わずに伝えられるかも知れないと、何かが呼び寄せてくれたようだった。何か、未知なるもの。恐らくその存在には、この後の人生を感謝することにもなるだろう。と、伸は暗に感じていた。
 何故なら戦士達には、まだ久しい未来がある。

 江戸末期、庶民の間では歌舞伎役者の、決闘場面の立ち回りにやんやと喚声が上がり、社会は風雲急を告げる勢いで、古い価値観を滅ぼさんと動いていた。もしこの時代に、戦国以前の能演目が復興することがあったなら、もう少し、少なくとももう一人は救われていた筈だったが…。



「その答え、いつか聞かせていただきます」

 新たに作り出された歌舞伎風の舞台は、彼女が能舞台を知らない事実を、如実に物語っているようだった。
 浦賀の小高い丘に建てられた、一風変わった建築の芝居小屋の中。鎧演舞の行われた舞台の上には、鎧武者五人衆の五つの鎧が倒れ、板に横たわったままになっていた。
 圧倒的な存在の輝煌帝に代わり、その中央に立つと、すずなぎはロザリオを手に祈り始める。
「天におはします我等が主よ…」
 すると、その祈りに応えるように、集団の先陣を切って烈火の鎧が、立ち上がり、清々しく天へと昇って行った。次に光輪の鎧が、続けて金剛の鎧が、何に惑わされることなく、空の一点を目指して昇って行った。阿羅醐の怨念から生み出された鎧にも、等しく慈悲が齎される場があると言う。
 つまり正しさとは、全てが同等であることではないだろうか?。
 そして水滸の鎧が立ち上がり、未だ眠る天空を引き上げるように、連れて昇って行った。こうして全ての過去の鎧は、心からの祈りに因って、人には触れられぬ場所へと消えたのだった。すずなぎのすべき事もこれで全て終ったのだ。
 安堵の息が漏れた。
 予め考えていた予定とは、多少違ってしまったが、これで良かったのだとすずなぎは微笑んでいる。己だけでなく、苦しむ全ての者が救われるようにと、考えられなかった自分はあまりに惨めだった。最後の時になって、母の記憶に会うことができて良かった。
 鎧戦士達に、彼等に出会えて良かったとの思いが、今の彼女の全てだった。

 ふと、すずなぎの胸に響く声が聞こえた。
『僕らは「桜」ではいけなかった。
 散ることの美しさより、生き続ける愛情を取らねばならない。
 これからは。
 君もそうであるように…』
 けれど、誰の発した声なのか、確かめる間も無く鎧達は天に召されて行った。



 目覚めよと呼ぶ声ありて、吾は久しき眠りに就きにけり。
 まこと此の世は判らぬものよなぁ…。









コメント)訳の解らない話、と感じた方には本当にすみません(^ ^;。取り敢えずこのエピソードを書かないことには、私の中で先に進めないので、頑張って形にした訳なんですけど。なのでまあ、よく解らなかった方は、雰囲気だけ受け取ってくれればいいと思ってます
 そもそも「Message」が、TV版から続く戦いの理念を覆す内容なので、じゃあ何が駄目だったのか、これからどうするのかと言うことを、OVAよりもう少々掘り下げたかったのです。あのままじゃ何だか抽象的すぎて、これからトルーパーが何を目指すのか、よく判らなかったので。
 と、そんな訳でこの後の原作基準シリーズは、半オリジナルになりますが、新しい展開を期待してくれる方には、「お楽しみに(^ ^)」と書いておきますね。この話については、殆ど征伸じゃなかったのが申し訳ないけど、次からは普通に征伸です(笑)。
 尚、一応の参考ですが、『金剛桜』の下地は『墨染桜』、『淀橋物狂』の下地は『賀茂物狂』、『復活』は特に下地にした作品は無いです。




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