夏の午前の征伸
雷 水 解
The Harmonization



 生き続ける内に幸福は生まれ、生来の悪は苦悩を呼び続けるとしても。

 暑い。否、熱い。
 梅雨が明けた後の猛暑の中、試験休みに入ったばかりの都心の駅構内で、何故か彼は不必要に走っていた。と言うより人で混み合う駅の中を走れば、他の利用客の迷惑になるだろう。仮にも礼の戦士たる者が、凡そらしくない行動ではないか。
「きゃっ」
 ほら、直接ぶつからないにしても、視界に入り辛い手荷物が行く手を遮っている。
「申し訳ない、急いでいるもので」
「…あ、いえ…」
 けれど、至って真面目な様子で彼が振り返れば、大抵の女性は気を良く許してくれるものだ。中年に差しかかる位の、手に有名店の紙袋を幾つも下げた女性は、大人しい態度でそう返すと、彼が見えなくなるまで行先を見送ってくれた。
 今はそのような小事に、懇切丁寧に応対してはいられなかった。否そんな気持にはなれなかった、と言う方が正しいだろうか。征士は一分、一秒でも早くそこに辿り着きたかったのだ。
 その必要はないのだけれど。

 午前九時。それが待ち合わせの時間だったが、まだ八時半を少し回った頃だった。
 時計を忘れた訳でもない、思い違いをしている訳でもないが、征士は無意識に動作を急いでしまう。それは恐らく、長い間停滞していた時間を取り戻そうとする、反動的な意識に違いないのだ。ひとつの思想に凝り固まり、自ら己の領域に閉じ篭っていた、ほんの少し前までの自分を悔しく思っている。
 考えてみれば、仲間達から離れてみたところで、原因は己の中だけに存在するものだった。自ずと自信を喪失して、自ずと不信を抱き、それを解決できない内は誰にも、己の不様な様子を晒したくなかった。戦士としての生活が始まってより、心に染み付き始めた矢鱈な自尊心。それを守ることに馴染んでいた己が、今は最も愚かだったと征士は考えている。
 それによって半年以上もの間、必要不可欠な養分を摂り損なっていたのではないか?。即ち仲間達の信頼から来る心強さと明るさ、常に自己の存在を認めてくれる瞳。
 今は自然に時の流れるままに、自ずと口を突いて出る感情を大切にしたかった。
 己に与えられて来た言葉を全て、これまで通り、同じようにまた耳にしたかった。
「大丈夫だよ」と。
 些か征士らしくない一日の始まり。そうして過去を回想する本人の思考を他所に、無意識に急かされながら征士は走って行く。
 と、視界に見えて来た駅の改札には、まだそれらしき待ち人の姿は見出せなかった。それで漸く足の運びを緩めて、征士は安心したようにひとつ息を吐く。つまりどうしても相手より先にそこへ着きたかった。先に待ち合わせ場所に着いていれば、結果最も長く共に居られることになるからだ。徐々にそこへ近付いて来る彼の姿を、遠くから見ている時間も含めて。
 それ程に、今日は記憶に残したい時だと。

 それにしても、午前九時と言う早い待ち合わせは妙かも知れない。その時間に都内品川駅に着く為に、征士は朝六時台の新幹線に乗り合わせたが、普通に考えてもう一人は、かなり無理をしてやって来ることになるだろう。特に急ぎの用件がある訳でもなく、わざわざそんな強行をするものだろうか。
 否征士の方なら、いつ何処の場所を指定されたとしても、「必ず行く」と言えるくらいの心境だったが、待ち合わせの相手は無理をしてまで、彼に会いに来ようとは思わないだろう。けれどこの時間を指定したのは征士だった。それを承諾してくれた理由は勿論あった。
 その時、改札の鉄柵に寄り掛かっていた征士の視界に、駅の外の更にロータリーの向こうに、見覚えのある茶色の髪の人物が現れる。まだほんの指先ほどの大きさにしか見えないが、目の利く人間には充分すぎる存在感だった。
 すぐ手前のビルの壁面を飾る時計は、八時四十五分になろうと言うところだ。そして歩道橋の中腹で一時立ち止まった彼は、眼下に現れた、何処に居ても浮き立って見える征士を見付けて、頭の上に伸ばした手を小さく振って見せた。特に問題なく伸は時間前にそこに現れていた。
 実は、彼の学校も一昨日から試験休みに入った為、家族の用事に付き合って、昨日からここ品川のホテルに泊まっているのだ。家族に付き合うとは言っても、直接彼に関係のある用事は殆どないので、ただ遊びに来たと言っても過言ではない。家に残っても他に誰も居ないのだから、遊びに出た方が良いに決まっている、と考えたのだろう。
『随分早かったんだなー』
 伸は視界に征士を捉えながら思う。確かにいつも、待ち合わせには早く到着している彼だけれど、伸にしても余裕を持ってやって来たのだ。征士の気持は察するに余りある状況だった。けれど伸にも考えていたことがあった。征士に会ったら、まず第一声には何と言おうかと。
 伸は歩道橋の上を緩やかに走り出した。征士は彼がその場に現れた時から、もうその歩道橋の降り口へと移動を始めていた。もし空から見れば、引かれ合う磁石の運動の様に見えただろう。何故あんなにも近くに居た人に、長く距離を感じて過ごさなければならなかった、と征士は再び己の心中に問い掛けている。
 話したいことが沢山あった。
 謝りたいと思えることも、征士には数多く頭の中を駆け巡っていた。そしてふたりの距離がほんの数メートルに近付いた時、
「征士!」
 伸は変わらない笑顔で、階段を走り降りて来て言った。
「さぁ!、僕の胸に飛び込んで来い!!」
 目前で階段を降り切ろうとする彼を前に、征士は思い掛けず言葉に詰まってしまった。まさかそんなことを言われるとは、征士でなくとも誰も想像しなかっただろう。それこそ伸が今日の為に考えていた、出会い頭のギャグが成功した瞬間だった。
「なーんちゃって、ヒャッヒャッ…」
 路面に降り立つと途端に、作ったような口調は形を潜めていたけれど。まずはこんな風に、一際明るい調子で始めようと伸は思っていた。征士が今日どんな顔をして現われるかは、大体予想できたからだ。
 そして伸の思惑通り、目を点にして固まっていた征士。言いたいことは幾らでもある状況だが、言葉らしい言葉が何も浮かんで来なかった。伸の意外性には、むしろいつも楽しんで付き合えた筈だが、今の一言は征士の某かの感情を掠めて、理性的な思考を一気に飛ばしてしまった。
 そして征士はその数秒程の混乱の中で、恐らく自分にも予想外の行動に出ていた。
「・・・・・・・・」
「・・・おいっ!?」
 言葉通り飛び込みはしなかったが、抱き締めていた。
 幸いこの時間ならまだ、駅の利用客は皆足早に通り過ぎて行く。他人の行動に気を取られて、わざわざ立ち止まる者など殆ど居ないだろう。言葉が出ない代わりに、意識しない感情表現として出てしまった腕が、自然と伸の体に巻き付いていた。まあ端から見て、特にロマンティックなシーンにも見えなかったが。その様子はさながら『涙のご対面』と言うところだ。
「何やってんだよっ、コラ」
 伸の頭の中では瞬間的に、様々なことが思い付いては消えて行った。例え恋人同士だとしても、朝の街中ではまずお勧めしない行為だ。その上この滑稽な抱擁状態は、人の目にどんな風に映っているだろうと。ただこの場合、征士に非を唱えることはできないかも知れない。
「…済まない」
 言われればすぐに手を離した征士だが、困惑顔を向ける伸に対して、弁解できる確かな理由はやはり思い付かなかった。通常の彼なら、「悪ふざけ」の意思を伝えていただろうが。
 それより征士は、これが最初の言葉だと思うと情けなかった。伸ではないけれど、征士にも最初に言おうと考えたものがあったらしい。しかしもう、忘れてしまったとしても構わない展開になっている。
 今日も暑くなりそうな太陽とは反対に、冷ややかに彼等を通り過ぎて行く視線の流れ。こんな場合本人が気にする程には、人は他人に関心を寄せていないことが多い。つまり恥ずかしいのは本人ばかり。仄かな照れと気まずささえ感じながら、彼等はまだ向かい合って立っている。
「あー…、いや…」
 そして伸もまた言葉を失いかけながら、取り敢えず気にしていない様を装い、或いは戸惑いを隠すように笑い、何とか次の言葉を捻り出していた。
「元気だった?、よね。聞かなくても分かるけど」
「そうだな。別に身体的な不調は何もないが」
 この期に及んで普通の挨拶をするのも、何やら間の抜けた行動だった。伸の言う通り、聞かなくとも判りそうな無駄な説明をしている、その現状が頓に可笑しく感じられて、どちらともなく笑い出していた。
「君が病気になるなんて全然、思ったこともないよ」
「風邪ぐらいは引くぞ」
「そう、その程度だろ?」
 いつもの通りの伸の軽口も、「いつも」である内は何ら価値を感じないけれど、こうして久しく時を隔てた後でも、全く変わらない現状は酷く安心させるものだった。征士だけでなく伸に取っても、ただ以前の続きであってくれれば、それが最上のことだと思っていた。何かがあった、と言う過去の事実は、この場では置いておけば良いと。
「私は伸ほどナイーブではないからな」
 他にも言い様はあったが、征士はこの場ではそう返していた。秀のような健康優良児とは違い、彼は幼少期の喘息の所為で、実際は全く何処にも問題が無い身ではない。ただ日々の鍛練と節制を以って暮らす分には、水準よりもむしろ頑丈で居られるだけだ。
「そうそう、君はいつも図太くないとね。それが君の特徴のひとつだから」
 返した伸にも、それらの情報は既に得られていたが、敢えてそんな言葉を使っていた。何より征士自身が元のように、欠点を感じさせない在り方に戻れるよう願って。
「でないと伸の役に立たない」
「分かってるじゃないか、ハハハハ!」
 そしてまだ仲間の内に居ると言う意識が、征士の中に確と存在するなら言うことはなかった。伸を特定した意味はまた別の話だとしても。
「…私のことは良い。ところで聞かなかったが、何故今ここに来ている」
 暫くの間、互いに様子を見るような浮ついた会話が進んでいたが、ここに至って漸く、今日の話題らしい話題が出たようだ。
 前途の通り、待ち合わせ時間を決めたのは征士だが、待ち合わせ場所を指定したのは伸の方だった。彼がここに来ているのは知っていたが、何故来ているのかを征士は知らなかった。しかし、
「ああ、本家に挨拶に来たんだ」
 伸の答は、普通にはまず予想しにくいものだった。無論彼ではなく、彼の家族の用事だからだろう。
「本家と言うと、毛利本家か?」
「そうだよ。今年の暮れに姉さん達が結婚するからさ。今日、十時頃って言ってたから、もうすぐ出掛けるんじゃないかな」
 そう言えば伸の姉上は、最初の戦いの間に婚約したと聞いていた。征士は冷静に、又懐かしくその時の場面を思い出していた。あの時も確か、酷く暑い日が続く夏の一日だったと。もう二年も前になる筈だが、婚約に至った経緯に多少問題があった所為か、随分時間が掛かっていることを思う。
 それと征士はもうひとつ、毛利家の本家が現在は東京に移っていると、何かで読んだ覚えがあった。利便性などから郷を捨てた訳ではなく、明治維新後、貴族院に参加した毛利一族の別宅が東京に在り、以降中心的な人物は皆東京に住んでいた。更に後になって、地元の家が県の文化財に指定された為、その際本家の人々は殆ど東京へ移動したらしい。
 いつの時代も有力者は都に集まるものだから、その類の話と言っても良いだろう。
 さて、伸の簡単な説明で、上京の目的にはかなり理解が進んだ征士だったが、しかし今、それより気になる発言があったようだ。
「伸は行かなくて良いのか?」
 一応、今のところ彼は次代の分家の当主として、一番に名前が上がる立場だと思われる。例え年齢に比較して頼りなく映るとしても、その立場を弁えた上で、家族に同行しながら用事に参加しないのは、筋が通らなくはないだろうか。これを征士の家に置き換えれば、他の家族の怒り顔が目に浮かぶようだった。
 ところが伸は特に気になる様子もなく、酷くあっさり返して来た。
「今日はいいって。明後日かその次くらいに親戚が集まるって言うからさ。僕はまだ実家に居ることにしといてもらったんだ」
 本当に、似たような旧家筋でも体質はそれぞれ違う。否、どちらが特異なのかは知れないが、少なくとも伸の家族は余り窮屈なことはさせない。伸の要求を寛容に受け入れてくれた結果が今だとすれば、征士がどんな感情を持って聞いたかは想像に易い。
 しかしそれについて、今は深く考えずにおくことにした。どちらにしても、貴重な時間を作って貰えたことを喜ぶ気持がある限り、征士は逆らわずに相槌を打つまでだった。
「そうか、それなら良いのだが。…あ、」
 とその時、征士はふとまた別の過去を思い出す。謝らなければ、と思っていたことのひとつだった。
「ありがとう、…手紙を」
「ん?、ああ…」
 何を指しているのかは、伸にもすぐに思い当たるものがあった。征士の誕生日に着くようにと、先月彼が差し出した手紙のことだった。
 何故征士がそれを思い出したかと言えば、彼の自宅でちょっとした事件になったからだ。
 伸の手紙が到着した数日後に、征士は学校から帰るなり、玄関先で母親に厳しく叱られたことを思い出していた。掃除か何かで母親が彼の部屋に入った折、机の上に、未開封のままの手紙が置かれていたのを見て、失礼だと言って激怒したのだった。
 とにかく、そのような対外的な礼節には煩い家なのだ。彼が何故それを開けなかったか、否開けられなかったかを思い測ってはくれない。如何なる場合でも、それは「甘え」だとされて終わりになっただろう。まあそれも、全く理解できないことではなかったが。
 そして伸は伸で、返事は来ないだろうと予想していた。折角だから厭味のひとつも言ってみよう、と言う心境に今は至っているだけだ。そのくらい、とても心が軽くなっていた。
「まあね、ちゃんと届いてたんならいいけどさぁ、何にも言って来ないなんて、君にしては随分無礼じゃないか?。ん?」
「だから…悪かったと言っている」
 すると伸が思ったよりも、征士の態度が正に済まなそうな様子を示すので、
「ハハハ、言ってみたかっただけさ。これ以上落ち込まないでよ」
 しつこく問い詰めるのは止めにした。勿論上がり掛けた気分を再び突き落としては、伸の意図する演出が台無しになってしまうだろう。
「…そんなだったからさ、心配してたんだよ、みんな」
 伸が最も伝えたかったのはそれだった。それを素直に言葉で伝える為に、息詰まる雰囲気にはしたくなかったのだ。そんな場の中で重苦しく言えば、返って征士が負担に感じるかも知れない。だからこれまで征士には話し掛け辛いと、伸だけでなく皆が思っていたのだけれど。
「ああ」
 そして、言われなくとも解っていると表すように、彼は確かな一言で返していた。伸の表す感情はそもそも、己から生まれ出るものより、周囲の意志から作られるものが多い。彼の背景には必ず仲間達の姿があると、征士が知らない筈もなかった。
 すると伸はまた、それまでの軽妙な口調に戻して、
「ま、今はもう全っ然気にしてないけどね」
 と言った。まるで何もかもが冗談だと言うように。
「自分から出て来るって言ったからさ!、ああもう征士は大丈夫だって。…みんな心配し過ぎなんだよ。僕は放っておいても、征士はいつか出て来るだろって言ったんだ。家に引き蘢ったまんまなんて耐えられない!、とか何とか言って」
「クックックックッ…」
 それがただの冗談と取られたのか、心理を突いていたかは定かでない。征士は苦笑しながら、しかしひとつだけ何かに確信を得られる。
「…ホントだよ?」
 それは、結局信じることを諦めずにいてくれた、伸の気持だ。
 恐らく他の誰よりも心配していて、誰よりも今を安堵している筈なのだ。口で何を言おうと、彼が発するあらゆるものが明白にそれを伝えているからだ。ただ伸は面と向かって人を励ますことに、多分に恥ずかしさを感じはぐらかしているのだろう。まあ、己の愚直で真面目な行動に、恥じらいを感じないのは遼くらいのものだ。
 正直に、征士は嬉しかった。
「そう言うことにしておこう」
「ホントだって言ってんの」
 信じない征士にやや不貞腐れた顔をして見せる、伸の言いたいことは征士には切ないほど解った。その意味は長く離れていても、一度憶えた彼への理解は変わらない、消えてしまうものではないと言う幸福だった。
 己に対する伸が何も変わっていないこと。
 征士にはそれで充分な答だっただろう。

 ところで、彼等は駅のロータリーに掛かる歩道にて、これまでずっと立ち話をしていた。一度そこで話が途切れると、
「ああ、それで、何処かに行くと言っていなかったか?」
 と征士は、予め電話で聞いていた内容を確認する。
「あっ、それはねー、別に大したとこじゃないんだけどさ」
 けれど伸は何故だか困ったように笑っている。
「こんな時間だと、まだ何処のお店も開いてないだろ?。だから調べとくって言っただけさ」
 説明しながら、彼は既に次の目的地へと歩き出していた。着いて来るようにと征士を促しながら。
 そう、待ち合わせ時間を指定したのは征士だ。できる限り長い時間が欲しいと思ってのことだ。征士にはもうひとつ謝らなければならないことがあった。恐らく、長い話になるだろう。
 彼等の一日はまだ始まったばかりだけれど。



 品川と聞いて、海岸方面の洒落たイメージを想像する方も多いと思う。しかし品川駅の周辺は、特に綺麗な建物が集まっている訳でも、特に美しい景色がある訳でもない。
 これが江戸時代なら、芝浦方面は駅のすぐ横から海が広がっていて、その海岸と松林は人々に親しまれた風景だった。だが、今はその海岸線さえ殆ど臨めない。埋め立て地には企業ビルやマンションの並びが、只管遠く続くように見えているだけだ。
 高輪方面なら、駅の周辺は冴えないにしても、少し歩いた辺りにはそこそこな緑地が連なっている。そのちょっとした都会の森には、所々に小奇麗なビルが立ち、閑静で落ち着いた雰囲気を醸し出している。都心部に詳しい方なら、まずこの辺りの様子は知っていることだろう。ここには幾つかの寺社と有名ホテルが連なっている。そして伸と家族はそこに宿泊していた。

 時間に終われて歩く社会人達を後目に、それらホテル群の周辺を観察しながら、彼等はのんびり歩道を歩いていた。涼し気な木立を横に、歩道を挟んだ通りの交通量の多いこと。ふたりの自宅の景色から言えば、都会で言う「閑静」は言葉通りではないようだ。いずれ進学の為に東京に住む場合には、この言葉を信用して部屋を借りてはいけない、とまで考えられていた。
 そして十分程の道程で辿り着いたのは、何の事はない、伸が泊まっているプリンス系のホテルだった。
 つまりまだ午前九時半にもならないので、一般の店鋪が開店するまで待っては、一時間以上無駄に過ごさなければならない。昨日の内に伸は、ここのティールームが七時から開店するのを調べて、まずここへ来ることを考えたようだ。
 ところでこのホテルの屋内は、一歩入れば広大なラウンジがまず、眩い光の装飾と共に目に飛び込んで来る。金色に輝くシャンデリアの下で、落ち着いた茶系のソファに凭れながら、ゆったり談笑する宿泊客やビジネスマン達。そのソファの間を行き来する、銀盆を手にしたボーイの優雅な立ち振舞い。誰にしても少し心惹かれる光景ではある。
 勿論ここでお茶を飲むことも可能だが、恐らくこれから話されるだろう内容は、大衆の耳には入れられないものも含まれるだろう。と、伸は考えて敢えて他の場所を選んだ。エレベーターに乗ってふたりが着いた階には、夕方からはバータイムとなる、落ち着いた雰囲気のスペースがあった。
 モノトーンで統一されたモダンな内装の、ボックスになった席にふたりは着いた。夜中の営業もある店らしく、店内の様子は流石に、子供じみたディティールが一切見当たらない。閑散としている訳ではないが、何もかもがシンプルで心地良い。デザイナーのセンスも大したものだが、ここを選んだ伸もなかなかのものかも知れない。
 そうして店内の様子に馴染む頃、革の表紙のメニューから、ふたりはアルコールでない飲物をそれぞれ注文する。一通りの段階を終えると、やっと本題に入れる、と言った様子で息を吐いた征士を見て、伸は苦笑しながら一言、
「馬鹿だなぁ、もっと早く言ってくれればいいのにさ」
 と言った。
 その意味することはつまり、今年に入ってからを考えても、冬休み、伸の誕生日、春休み、五月の連休、征士の誕生日と、かこつけられるイベントは多過ぎる程にあった。それを思えば、こんな何でもない時の出来事にしてしまっては、今日は惜しい日と思えて然りだろう。
 仲間達の、誰のどんな行事にしても、喜ばしいことは皆で分け合いたいと考える彼等の習慣。しかし現実は思うようにいかないものだと、笑うしかなかった。
「そうだな、全く…」

 店の窓から差し込む光はまだ、徐々に角度を変えて日が登る過程を描き出す、そんな時間帯だった。
 思えばこんな早くから、斜向かいで真面目な話をしたことはなかった。壁に掛けられたシャガールのポスターも、ガラスの反射で殆ど白く飛んでしまっている。目に映る調度品は尽く白く霞んでいる。だから返って何にも気を取られない。午前中のすっきりした空間も良いものだと感じていた。
 征士はそれまでのことを、ゆっくり淡々と話し続けていた。
「…いつから考え方が変わってしまったのか、否、私が元々持っている要素でもあったが、明確な切っ掛けと言うより、戦いの中で徐々に変化していたのだろう。
 自分はそれなりにきちんとやれている、程度の自己評価がいつの間にか、何事もできないことはないと、向こう見ずな程の自信に変わっていた。最初の戦いから、ずっと勝利を重ねて来たこともあるだろうし、或いは鎧に近付き過ぎて、影響されているのに気付かなかったのかも知れない。
 何より己の感覚が鋭くなり、戦う意思と意欲が充実していて、判断を誤る場面も殆どなく、阿羅醐の件からの私は、それで完全なものと成ったように有頂天だった。何と言うか、孤高の賢者のようなつもりで居たのかも知れない。
 そんなつもりでは、結局何も見出せる訳がない。鎧珠の僅かな曇りを目にしながら、気に留めなくて良いと判断したくらいだ。そして事件は起こった。否私が事件を起こした…。
 本当に、人生とは予め分からないものだと知ったな。無関係の者を手に掛けるようなことが、己の身に起こるとは、勿論考えたこともなかった。それまでの全ての自信めいたものが、全て一気に崩れ落ちてしまった。それはそれで、今は良いと思う。
 しかし私はひとつだけ気付いていた。例え、悪しき意思を持って鎧が操られるような、そんな凶事に見舞われなかったとしても、私はいつか誰かを手に掛けるかも知れないと。我々の正義に対して、誰かの存在を消さなければならないと思えば、私は迷わず殺すだろう。
 それは鎧とも、遭遇した事件とも関わりなく、恐らく生まれた時に与えられた意識なのだ。そしてその、己の暗い側面を否定できないことは、あらゆるものへの不信感に繋がって行った。
 戦士として共通の価値観への思い違いが始まり、これまで指針として来たものが曖昧に揺らぎ始めた。何もかもが微妙に食い違って見え、「正しさ」とは何なのか、まるで意味が分からなくなっていた。それで誰からも離れ、一人で考えることを選んだ訳だが…。
 誰だとしても本当の意味では、直面する死を恐れずには居られない。しかし最も恐いのは死そのものではなく、命を犠牲にしても、やはり守れないものは存在するという事実だった。正義と信じて戦おうとも、甲斐もなく事態は悪い方へ傾く時もある。あの事件のように。
 そしてそんな考えから、私は『不確かさの上の正義』に気付いてしまった。それがとても辛かった。
 何より己の行動は、殺そうと薙ぎ払おうと、全て正義に裏付けられるべきものだったからだ。正義が存在しなければただの暴力でしかない。そしてどちらと判断されるかも、場合に拠って変わってしまうのだから、私は剣を持つこと自体に意欲を失ってしまった。
 戦いたくないと思った。もう二度とそんな場所に駆り出されたくないと思った。己の中の恐ろしき感情が引き出される、そんな場面に再び出会うことを、恐れずに居られなくなっていた。
 迷うなと言われながら、迷わずに行動するのも愚かとされる。こうすれば必ずこうなると言う方法は、実は何処も存在しない知った時、私は全てに迷う者になってしまった。…と言う訳だ」
 そこまでの話を、二十分余りの間彼は話し続けていたが、その様子は不思議と、伸の目に苦しそうには映らなかった。
 恐らくそれはもう、征士がそこから抜け出したと言う証拠だった。だから彼は自ら伸に会いに来た。だから平常心で事の経過を話していられる。彼に取っても、伸に取っても、それらはこれから徐々に色褪せて行く過去なのだ。だから彼等は穏やかに対峙して居られる。
 そして苦悩に落ち込んだ記憶など、常に心の表に置かれるものでもない。それより記憶の墓場に埋められた後には、生かせるものにも変わると経験的に知っている。征士の悩み続けたこと、行いに於ける正当性に迷う度に、これからは引き出される貴重な情報として復活するのだろう。
 そして征士は、
「だがもう良いのだ」
 と付け加えて、頭をスッと持ち上げ、自分の手許に置いていた視線を共に上げる。彼の目の中に、普段より何倍もの慈愛を感じる、伸の穏やかな微笑みが確と捉えられた。
「何でさ?」
 伸は邪魔にならないように一言で返すと、
「己ばかりが迷っている訳ではない、と気付いたので」
 今は一層落ち着いた表情で、征士は伸を見ていた。
「事件の印象が強く残り過ぎたようだ、それで私は忘れてしまっていた。誰もが同様に何らかの要素を与えられ、誰もが生まれながらに良い種と悪い種を持っていると。冷静に思い出してみれば、過去に己の邪悪さを問われて、秀が罠に掛けられたこともあったのだ。
 誰も絶対的な正義を知り得ない、誰も己の中に確固とした正義の理論はない。だから遼でさえ幾度も間違って来たが、それを恥と感じてはいけなかったのだろう。誰もが己の抱える暗い部分と戦うことも、迦雄須に与えられた使命の内なのだと、今は思う。…間違っているか?」
 最後に問われた言葉に、
「ううん」
 と、間を置かずに返して伸は目を細めていた。
 善悪と行いの意味が解らないのは伸も同じ、否むしろ伸の方が、より曖昧な見解しか持てない存在だった。誰も皆理不尽と感じる戦いの中で、仕方なく納得するしかない過去の出来事もあったことを、いつも誰かの出した結論から、彼は始めて納得できるようなものだった。だから伸はいつも喜んで誰かの声に耳を傾ける。
 誰かの決断をいつも待っている。
 征士に会えて良かったと思っている。
 又何かが起こる度に悩み迷うことを、己の失敗に狼狽え欺瞞に傾くことを、たったひとつの言葉で救える者が居る。中庸だからこそ誰のことも考えられる。偏りが少ないからこそ、誰の美点も欠点も快く受け止められる。今は誰も疑わない、彼と言う存在が、仲間達全てにどれだけ必要だったかを。
 否、今は征士にどれだけ必要だったかが判る。
 伸が居てくれて良かったと思っていた。
 お互いの存在が確と見えている時なら、誤りは起こらない筈だった。
「…そうだよ。僕は思うけど、命にも戦いにも、答なんて最初からないんだ。無理に求めると間違った答が出るんじゃないのかな」
 結局征士はひとりで解決してしまった。と思えている伸には、これ以上先輩風を吹かせて彼に言うことなど無かったが、敢えて話を続けていた。
「でもさ、君の悩んでたことなんか、僕はいつだって考えてたよ。僕はいつだって恐いと思ってる。…でも戦っても戦わなくても失くしてしまうものがあるなら、可能性のある方に賭けるしかないじゃないか。投げ槍みたいだけど、僕らは迦雄須にはなれないしね…」
 そしてそれまでの話を締め括るように、伸は自分の考えを纏めてみせた。最大の悲しみは存在しても、唯一の答は存在しない、そんなことを理解して行かなければならないと。
 するとその時、征士の様子が微妙に変化した。
 何故だか一瞬身を固くするような、彼の手先に妙な緊張が現れるのを見る。伸は言葉を綴るのを終えて、ただ征士の不思議な態度に目を丸くした。
「今、何と言った…?」
「え?、どうしたの」
 何か気に障ることを言っただろうか?。おかしな発言をしただろうか?。否、幾ら考えたところで解りはしないだろう。その方向では。
 伸はまだ気付かないが、征士の頭の中に幾度も谺し始めた声。

『戦っても戦わなくても失ってしまう』
『忘れたい』
『全てを失ってしまいそうなのだ』

 夢か現か、頭の隅に残っている苦痛の叫びと、それから、
「今何かを思い出した…、私は、伸と共に、何処までも落ちて行くのだ」
 それから、何やらとても幸せだった記憶。
 そう遠い昔の記憶ではない。必死に頭の中を探索する程に、それらは断片的に少しずつ思い出されて来た。水辺、ぼんやり明るい水辺。奈落。どこまでも続く奈落。暗い水の底へと落ちて行く。何処だか判らない宙を更に落ちて行く。苦しみながら。叫びながら。考えられない程に情けない己を露呈しながら。そして辿り着いた先は…
「落ちて行った先には…」
 この記憶は何だ?。
 正視できない恥ずかしい己の姿、或いは解放に酔い痴れる至福の時。この妙な記憶は何なのだろう。
「蓮の花の上に…?」
 自ずと伸はそう答えていた。そしてハッと我に返る。同様にそこまで思い出してしまうと、もう黙り込むしかない奇妙な回想。そこで何があった?。
 伸は自分で、自分の顔が紅潮して行くの感じている。
「知っている…?」
「…別に、何も、知らない…」
 何とも言えない戸惑いの空気がふたりを覆っていた。
 確かに、夢だったからこそ忘れていた記憶だ。睡眠中の夢は個人の心の活動と言われ、舞台は現実の世界でなくとも、睡眠者の経験には数えられるものとなる。ならば夢であっても、そこにふたり以上の意が存在した時点で、ある意味では夢でなくなりはしないだろうか。
 そしてしばしば人の夢に現れ、道を示してくれた先人を彼等は知っている。だからそれも、全く有り得ないこととは思わない。なまじ常人以上の何かを与えられた者として、思考が及ぶ範囲内の発想でもあっただろう。
 それが余りにも、個人的過ぎる接触だったとしても。
 社会で言うところの公私混同的な、禁忌を冒したような後ろめたささえ感じる。その意味では彼等は共犯者なのかも知れない。互いの無意識の心が、本来在るべき距離を済し崩しにして、遠く離れておきながらそれでは耐えられないと、無意識のまま働き合った結果のこと。
 更にそれぞれの奥深くに眠る感情をさえ掘り起こして。
『ただ傍に居たい』
 こんな現状で良いのだろうか、と征士は思う。
 しかしどれ程罪の意識を念じようとしても、結局今をして幸せな夢だったことには変化がない。否定しても意味がない。もしかすればそれが、今の己を支える思いかも知れないからだ。己の根源的な意識かも知れないからだ。
 そして生物には全て背負うべき咎がある。人には原点となる罪がある。罪を持つ程に人は楽になれると言うが、誰もが同等に与えられる心、この厄介な心と言う持ちものは、押し並べて人を豊かにも苦悩もさせる。始めから心は善くも悪しくもある。原始から伝えられるその形を変えることはできない。つまり、所詮人には真の聖者となれる能力は無いと言うこと。
 与えられた力を全て正しく使えるとは、始めから期待されていないのだ。ただそう在ろうと努力する、進化の過程が結果を生み出し続けるだけだ。そこで篩い落とされる者ではいけないと言うだけだ。己は、選ばれた存在として。
「フフフ…」
 征士の口からは諦めのような笑い声が聞こえる。
「不思議なことはあるものだ」
 そこまで考えて、正しさに悩むのはもう止めよう、と思った。
 向かい合う伸が何を思っていたかは判らない。けれど己の悩みも公の悩みも、全て同じ土壌の下で繋がっていると、彼なら容易く理解できるに違いない。
 そうでなければ、戦士で在らんとする苦悩と相手に思うことが、同時に存在する夢など見ないだろう。



 そろそろ、時計の針が十一時に届こうとしていた。広々としたホテルの中でも、あちらこちらで慌ただしい雰囲気が漂っていた。
 レストランの奥からはランチタイムを目前に、金属製品の鳴る音が頻りに聞こえて来る。のんびり寛いでいたラウンジの人々も、今は活発に移動を繰り返している。チェックアウトの団体が詰めるエントランスは、何故だかお祭り騒ぎのように賑わっていた。
 そんな頃、ふたりは高級店が軒を列ねる、金のショッピングモールを歩いていた。まだ高校生である彼等には、まだそう馴染める雰囲気ではない場所だが、それなりに溶け込んで居られたのも確かだった。それは育ちの所為なのか、規制の多い厳格な教育には、相当の結果があると示しているようなものだ。事実彼等は「子供の客」としては扱われなかった。
「こんなのどう思う?」
 伸が手に取ったマイセンの陶芸品。薔薇の上の舞踏会に踊る男女と、それを取り囲むような天使達の、思い思いに囁くような仕種が目に楽しい。
「悪くはないが、少女趣味ではないか?」
「だって姉さんの結婚祝いだよ?」
 すると奥から店員が現われて、
「お客様、お気に召すものはございましたか?。…もし贈り物でしたら、こちらで包装から配送まで、全てお受け致しますから、御遠慮なくお申し付け下さいませね」
 と如何にも丁寧語の言葉を掛けたが、無論それに戦くふたりではなかった。結局その場では商品を買わなかったが、伸の滞在期間にはまだ余裕があるので、店員にはそう告げて店を出ることになる。
 ショッピングモールの通路は、昼間の熱線に輝くシャンデリアの天井と、お伽話に出て来そうな大理石の広い廊下、飾られた彫刻と生花の列が、如何にも非日常的な高級感を漂わせていた。数歩歩き出した所でふと、先程の陶器の人形達が、くるくると踊る光景が目に見えるようだった。
 それで伸は征士の手を取って、歩きながらくるりと一回転して見せた。
「こんな風だったかな?」
「はは、もっと優雅に踊っていたな」
 気さくに、誰とでも楽し気に話を合わせられる伸は、けれど他の仲間達とのように、ふざけ合うばかりの会話を征士にはしなかった。征士の態度に合わせていたこともあろうが、伸が場を和ませようと努めなくとも、彼は自ずと気持を組んでくれたからだ。
 いつからか思い出せはしないけれど、或いは始めからだったのかも知れない。だから征士の前では余り無理をせずに、思い付いたままの行動をすることもできた。そしてその度に伸は、穏やかに自分を見ていてくれる彼を知った。
 有りの侭で居る方が喜ばれることもあると知った。
 無理を重ねる程に、理想を求め過ぎる程に、己も他の誰かも苦しむと彼等は知ったばかりだ。
 伸はもう一度、今度は征士の腕にしがみついて言った。
「みんなが幸せだったらいい」
 みんな、と言いつつそれは誰かに向けられた言葉だと、やや伏目がちに憂えた伸の表情を見れば、征士にも容易に想像ができる。今、このフロアの上で幸せそうに踊っていた幻は、伸が二年前に決別した思い出の残像だ。
「少なくとも伸の家は普通に幸福だと思う」
 と征士は返した。
「そうかな?」
「家の姉は結婚などしそうにないからな。妹も当分ないだろう」
 自分の兄弟は揃いも揃って親不孝だ、と征士は苦笑していた。何故なら伸が今も尚家族を愛おしく思うような、日溜まりの記憶の様な感情を征士は知らないのだから。少なからず伸を羨ましく感じることのひとつ。無論彼は思いもしないだろうけれど。
 しかし妙な様子の征士を見て、
「君はどうなんだよ?」
 伸は悪戯っぽい表情に変えてもう一度問い掛ける。
「考えたこともない」
 すると歯切れ良く即答した征士の顔を伸は、そっと両手で捉えて近寄ると、彼の口の傍にぎゅっと自分の唇を押し当てていた。
「!?」
「…ホントかなぁ、ハハハ」
 そうして笑っている。特別な変化もない場の流れの中で、その行為の意味するところは判らない。恐らく征士にも伸にも判らない。ただ伸の内側から出て来た行動と言えるだけのもの。けれど多くの恥ずべきことが知れてしまった後で、伸がそれでも己を認めてくれているのなら、それで良いと征士は思う。
 否、気持は踊り出しそうに舞っている。
 何処に居ても馴染んでいる、どんな環境にも愛される彼を思えば、流れの中でくるくると目紛しく変わる場面を楽しむような、そんな在り方が伸にはお誂え向きだと解る。そしてそんな彼を見ては、只管に人生の面白さを感じる己が存在する。
 本当に、伸はいつも何を出して来るか解らない。だからいつも笑って居られる。
 だから傍に居たい。
「なら伸は考えていると言うのか?」
「僕はみんなが幸せだったらいいって言ったじゃないか」
 キラキラと陽光を受けて輝くフロアを、伸は逃げ出すように小走りになって、征士はやや遅れながらも、ゆったりと自分の足取りで歩けていた。



「何処へ行くって?」
 外の気温はもう相当に上がっていた。沸き上がるような熱気と眩しい光。行き交う人の肩や腕の、露になった皮膚が気温の為か、急な日焼けのように真っ赤に色付いている。今日も屋外は厳しい暑さになるだろうと予感させる。
 ところがこんな日だろうと、
「探検だよ?、昨日ビルの細ーい隙間に、古い家があるのを見付けたんだ。全然日も当たんないし、もう崩れ落ちそうな家なんだけど、ちゃんと人が住んでるみたいなんだ。面白いから見に行こうよね!」
 伸の関心が趣く先は変わらず統一性もなく、又変わらず夏の日射しを恐れない態度だった。どちらかと言うと、暑さより寒さの方が堪えられる征士には、都心の夏には些か嫌気を感じなくもない。思わず伸を引き止めるように、
「今日は暑くなりそうだぞ」
 と征士は言ったが、勿論伸はそれを知っていてこう返した。
「だから何だい?、今日は君が僕に付き合うのは当然だ」
「…分かりました」
 征士は何も反論できなかったが、それがすぐ近所にあることを伸は敢えて黙っていた。そしてお昼になる頃には、丁度良く町中の店に入れることだろう。何もかも予め伸が考えていた予定の内だった。
 誰かと居られる時を何より楽しむように。

 苦悩の時もいつかは過ぎ、無上の喜びもまた束の間に終わるものだけれど。









コメント)季節が合わなくてすみません。光輪伝が夏の話なんだもんなー。それといきなり妙に明るい乗りになりましたね(笑)。何本かずーーーっと暗い話ばっかりでしたが、まあ悩みなんて、抜け出してしまうと馬鹿馬鹿しかったりしますよね。
ところで雷水解(らいすいかい、と読みます)、ステキな言葉でしょう?、フフフ。実はこの前の小説「有限未来」で、NY編の回想部分に出て来た陰陽八卦のひとつです(易占いのこと)。意味もステキなんですよ!。…という訳なので、この小説を書くまでは、五行と陰陽の研究を出さないでおこう、と思っていたの(笑)。これでやっと研究文を書けます(LABOに入るから見てやってね)。
それと、作中に出て来るビルの谷間の家は実在してます。実はうちの母の友達の家(笑)。…すいません勝手に書いて。




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