遅れてない征士
雷鳴と雷光
The Sound and the Light



 もっと恋をしよう。

 その日は朝から小雨が降っていて、しかし暗くもなく寒過ぎもせず、六月らしいイメージの一日を予感させた。
 窓辺に置かれた鉢植えのマザーファーンが、青々とした葉を伸ばしている。このアジアンタム種の観葉植物は、冬場の乾燥には特に気を使う。征士が霧吹きと水やりを絶やさなかったお陰で、今年も繊細で複雑な造型を楽しませてくれる。
 植物は、愛情を掛けて手入れをする程、成育状態も良くなると言う。伸は「全くその通りだ」と、朝の窓を眺めながら思っていた。
 思いながら、出掛けようとしている征士に声を掛けた。
「今日は大丈夫そう?」
「定時で上がる予定だ」
「そう」
 彼が確認したのは、仕事を終えた後の待ち合わせ時間だ。古今東西誰であっても平等に、ふたり居れば最低年に二回、特別な日は巡って来る。そう、今日は六月九日だった。
 けれどその割に、伸の返事はあっさり素っ気ない。
「不機嫌そうだな?」
 上着の襟を正しながら、征士は横目で彼の様子を窺ってみる。
「別に?」
 と返した、相手の表情はやはり微妙なものだった。不機嫌と言う程でもないが何処か面白くなさそうな、否、これと言った感情がないような、何とも表現し難い伸の態度。
 さて、昨日何かあっただろうか?。それとも今朝起きてから、何か気に触る言動をしただろうか?、などと考えつつ、征士は伸の腕を掴んで言った。
「何か私に言いたいことがあるんじゃないか?」
 人は己に非がある疑いを持った時、ついつい多弁になってしまうものだ。思い当たる事件は特になかったが、征士はどうでもいいことを次々話していた。
「このところ帰りが遅いからか?。一年目、二年目は大変だと先輩から聞いていたが、まあ切り上げられないことはないんだ。今日は遅くなることはない。いや、自分勝手な言い分かも知れない、今は仕事優先の生活で済まないと思う」
 しかし、それを中断させるように伸は、
「別にって言ってるだろ?」
 特に変わらぬ調子で返す。彼はそんな話を聞きたい訳ではなさそうだった。
 ただそれでは埒が開かない。
「別に、と言う態度ではないな」
「そう」
 伸はまた一言だけで切り上げ、征士の問い掛けも、場の空気も何も気にならない様子で身を返すと、さっさと自分の鞄を取り上げ、玄関の方へと歩き出していた。
 勿論、彼のそんな行動は平常には思えない。いつも神経質に周囲の状態を確認し、気にし過ぎなほど人の心の動きに敏感な彼だ。怒っている時なら、敢えて横柄な態度を見せることもあるが、それでも無感覚に徹することはない。少し前の五月病的無気力でもない、仕事や家事は寧ろ精力的にやっている。 と思う。
 まあただ、伸のこうした不明な状態は、今に始まったことではないので、どう話しても、宥め賺しても今は答えてくれないだろうと、征士は経験的に理解した。
 そして言った。
「困った。困った人だ水滸様は」
 すると伸は、固まった表情をやや崩して振り返った。
「君ほどでもないよ」
 やっと少し笑った。今朝のところはそれで充分だと征士も満足したようだった。
 こんな時は考え過ぎない方が良い。伸を支配する気分とは、周囲の変化で転々として行くからだ。朝は機嫌が悪くとも、夜までそれが変わらないことの方が稀だった。そんな浮沈の激しい精神生活を送る人に、慣れていればこその対処と言うものがある。
 何が原因とも言えない、漠然とした、他者には理解し難い苦悩が確かに彼の中に在る。生きること自体に伴う希望と絶望の、区別できない複雑な感情を彼は持ち続けているようだ。ある意味それは水滸に与えられた使命だが、それは他者にはどうにもできない。
 故にこうして、愚鈍な振りで応対するのが今は良い、と征士思っていた。何れ自ら抜け出して来てくれるだろうから。
『何を考えているのやら、今も昔もさっぱり判らない』
 ただ、今日が特別な日であることを思うと、少し淋しい気もした。

 否、淋しかったのは恐らく伸の方だ。
 マンションの敷地を出て、ふたりは駅の方向へと歩いて行く。駅までのほんの二、三分の距離をふたりは、静かに傘を並べて歩いて行く。音もなく降りて来る霧雨に近い雨粒が、アスファルトの道路に染み入ると同時に、周囲の音まで吸い込んで行くようだった。
 とても静かな朝だった。彼等の住むマンションの周辺は、恐らく戦後すぐに住宅地化した地域で、町並みは些か古いデザインの商店街と、下町を思わせる小さな家々が密集している。少し歩けば江戸時代から賑わう、本当の下町的な一帯もあるが、ここは住宅地を取り囲むように、広い幹線道路と企業や学校の巨大な建物が並ぶ、多少息苦しさを感じさせる地域でもある。
 拠って、本来は行き交う車の音、通勤通学の人の雑踏などが、朝は騒々しく聞こえて来る筈なのだが。
 今朝はそれが妙に静かに感じた。物思いしながら歩くのには最適かも知れないが、ふたりはすぐに最寄駅に到着してしまった。
 細い路地と店鋪のゴミゴミした一角、地上に出ている地下鉄の駅は最近では珍しいが、ここはできた当初から変わらないのだと言う。しかしそれも既に見慣れた風景だ。改札を抜けると、征士と伸は別々の方向に別れ、征士は東京方面、伸は池袋方面のホームへと向かって行った。
「じゃまたね」
 と、伸は軽く合図するように言って、振り向きもせず駅の階段を降りて行く。
 取り巻く世界も静かだが、彼自身も異様に静かで冷めていた。けれど階段の途中でふと足を止め、一時全てを忘れたように動作も止める。
 彼の心に影を成す目下の不安。
『僕ら、このままでいいのかな』
 日常の生活の中で、どちらも何も言わずにいるけれど、大学生の頃とは明らかに変化して来た生活状況。こうして双方が仕事に通い出すと、毎日同じ時間に家を出ては、暗くなって戻るの繰り返しで、何が楽しいのか判らなくなっても来る。
 無論楽くて働く訳ではないし、楽しいことばかりで生きられる筈もない。ただ今は、家族ではあれどそれ以上には感じられない。それでいて常に一緒に居る意味があるのだろうか?、と、そんな考えがやんわり彼を苦しめているようだった。
『普通の男女だって、結婚したら恋愛感情は薄れて行く。それでもただの家族、ただの同居人になりたい訳じゃなかったのに…』
 家族なり、恋人なり、友人なり、特定する線引きは人によっては難しい。
 そしてそれは伸だけが抱える不安だった。存在する人間の数だけ、その繋がり方にもバラエティがあると、征士なら思うともなく思っていそうだ。また何事も、自分さえ信じていればそれが真実と言えるのではないか。
 静かに、冷たく揺れ動いていた梅雨入り前の朝だった。



 結局その日は一度も晴れ間が見られず、小雨が降ったり止んだりの天気だった。
 夕刻、もうあと十分ほどで午後五時半の定時を迎える、多少ざわついた特許事務所の一角、征士の耳に不快な言葉が飛び込んで来た。
「え?、残業ですか?」
 声のした方に首を捻ると、征士の配属部所の課長が、人の好さそうな顔をしてこちらを見ていた。実際この課長は温和な人物だった。そのせいか多少出世が遅い三十代半ば。バブルが弾けた後のこの時代、企業は徐々に年功序列から実力主義へと変わりつつあったが、その微妙な時期に取りあえず課長になれて良かった、と言うタイプの先輩だった。
 否、人間的には善き人物なのだ。ただ仕事上それが武器にならないと言うだけで。
 そして彼は申し訳なさそうに、事の子細を征士に話した。
「いや彼が抱えてる分なんだけどね…」
 と、征士の隣の列に机を構える、他の一社員を目線だけで示す。
「先方がとにかく早くしてほしい、どうしてもって、一昨日から何度も電話が来るもんだから。できれば早く片付けたいんだよね」
 つまり課長は、度重なる催促に堪えかね、その一件を早く片付けたいと言うのだろう。
 何処の世界にも、いつの時代にも我侭な人間は存在する。予め決まった期間で仕事をすると、先方には伝えてある筈なので、そんな要求に応じてやる必要は勿論ない。この事務所のお得意様でも、コネのある人間と言う訳でもなかった。要はこの課長が、毅然と断る態度を取れないだけのことだ。
 なので征士は、深く考えることなく返した。
「今日はこの後予定があるので」
「駄目かなぁ」
「駄目です。元々今日処理する分を、昨日前倒しで片付けたんです。今日は帰らせてもらう」
 無論この課長が、わざわざ征士に話し掛けたのは、彼の能力とやる気を買ってくれてのことだろう。それ自体は喜ばしいのだが、いつもいつも尻拭いを宛てにされ、他人の受け皿的立場になるのは御免だった。
 征士が正式にこの仕事に就いて約半年、仕事上ではまだ一人前と言えない状態だったが、一社会人としての心構えなら充分学んだ後だ。ここは単なる事務の部所ではない、受注と外部発注を請け負う営業的な窓口だ。能力を買ってもらえる場に所属する身なら、人の命令ばかり聞いている場合ではなかった。
 なので、
「そこを何とか。今日だけで三回も電話が掛かって来たんだ」
 と、席を立って言い寄られても、征士が首を縦に振ることはなかった。そして、
「放っておけばいいんです、駄目なものは駄目だ」
「冷たいなぁ」
 冷たい、などと、こんな場面で情に訴える科白を耳にすると、どうでもいい事だが、少しばかり反論したくなった征士。
「そもそもルール違反です、早くと言うなら、契約時点でそれ相当の対価を払う決まりです。通常料金しか払わない客の我侭に付き合う必要はない。事務員は奴隷ではないんですよ」
 当然それは、気弱な課長にも判っていることだろう。彼も決して、迷惑な依頼人の奴隷になどなりたくない筈だ。
「それはそうだが…」
「それとも課長が特急料金を支払うつもりですか?、それなら考えますが?」
「い、いや…」
 流石にそう言われてしまうと、そんなもの払う気はないと言う他にない。電話の催促に悩まされているだけで、鼻から依頼者を擁護する気などないのだから。
 何事も、余計な情けは掛けるべきではない。始めから助ける気がないのに、気紛れで、或いは個人的な感情で相手を助長させると、それこそ自分の為にも事務所の為にもならない。無責任であり、罪だと思う。
 課長はそれに気付かないのだろうか?。と考える、征士の前で彼は困ったように立ち尽くしている。その様子は些か気の毒にも映ったけれど、
「その依頼ひとつくらい、大した業績ではありませんよ」
 征士は言って、駄目押しするように相手を納得させていた。もし課長が、己の部所の成績を上げようと考えてのことだとしても、実際その一件は大した仕事ではなかった。大手企業からの大量の依頼ならともかく、アイディア発明品の申請一点だと言うのだから。
 すると暫しの後、
「ああ…」
 気の抜けたように立っていた課長はくるりと背を向け、その背中越しに征士に言った。
「君が羨ましい…」
「はい?」
 突然何を言い出すかと思えば、面と向かって言い難いことを彼は、序でのようにこの場で打ち明けた。
「相手の心象など考えず、人の顔色を窺うなんてこともなく、そんな風に生きてみたいもんだよ…」
 確かに、そんなことを言われた経験がない訳ではない。
 だが普段の自分はそこまで不躾な態度ではない、つもりだ。しかも今は仕事の話をしているのであり、敢えてそれに徹していることを解っていない、と征士は思う。
「はあ。そうすればいいじゃないですか」
「軽く言ってくれるよ」
 だが征士も言っておいて、頭では課長の意見にも頷いていた。
『無論そうできない人間も居るが』
 その時、すぐに伸の顔が思い出されたが、日常生活の彼がそうでも、意外に職務上では冷徹な面があることを、ふと思い返して征士は笑った。要は切り替え、又は演技ができるかどうかだ。その意味では自らコロコロ態度を変えられる、伸はとても器用な面を持っている。
 そう、性格的に不器用な誰かと言えば、遼や秀辺りになるのだろうか?。しかし彼等は、不正に対しては全力で怒る気質を持っている。人間を端的なタイプで分類するのは難しい、と、征士は既に関係ないことに考えを巡らせていた。
 人の社会は難しい。しかし難しいから面白いこともある。
 壁の時計の針が五時半を指すと、事務所内には終業のコール音が流れ始める。密かなざわめきに満ちていた社内のフロアが、それを期に一層騒がしくなった。やがて征士はてきぱきと机の上を片付け、すっかり朝の状態に戻すと言った。
「では、私はこれで上がります」
 鞄を手に取り、椅子をデスクに押し込んで歩き出そうとすると、
「本当に帰っちゃうの…」
 未練たらしい課長の声が聞こえた。
「しつこいですよ」
 この場合、「心を鬼に」と言う場面でもなかった。企業から見て重要でない仕事一件と、付き合いの長い大事な人との約束、どちらを取るかと言えば答は決まっているからだ。
 その時征士は漸く思い付く。
『最初に理由を言えば、しつこく食い下がらなかったかもな』
 と言うか、課長も征士が断る理由を聞こうとしなかった。聞いてしまうと何も言えなくなると、恐らく判っているのだろう。何となく腑に落ちない、姑息さを感じながらも征士は気分良く事務所を後にした。



 午後六時を前にした表参道駅。雨は一時的に上がっていた。
 空は相変わらず鈍い灰色のままだったが、平日では恐らく最も人通りの多い時間帯、黒々と湿った路面が、立ち並ぶ高級店の照明で金色に覆われ、仕事帰りの楽しい夜への突入を演出しているようだった。
 平日のお洒落な商業地。バブル期のアフターファイブの、狂乱を思わせる賑やかさは形を潜めたものの、まだその名残りを残す町は明るい。道行く人々の中には、既に草臥れ果てた者もいるかも知れないが、職務による拘束を解かれ、一日の締めくくりに繰り出す場所なら、しみったれた場末の町より、目に楽しいこんな市街地を選びたいものだ。
 殊にそれなりの意味がある日ならば。否、場所を決めたのは伸の方だったが。
 と、地下鉄出口から交差点の信号に立った征士の目に、思わぬ光景が飛び込んで来る。待ち合わせ場所に指定された某ファッションブランド店の前、伸は誰か見知らぬ女性と話していて、何処となく困っている様子に見えた。
 実際、彼は非情に困っていた。
「僕の家は真言宗!、もうそれ以上必要ないから!」
 征士には会話の内容までは聞こえなかった。伸はそう強い口調で言い切ったが、相手は頑として引き下がってくれない。そう、何らかの団体の勧誘に引っ掛かっていた。そしてこんな時勧誘員は、恐らく返される内容はどうでもいいのだ。人の好さそうな風貌からターゲットを絞っている。
 すると、この町には些か不似合いにも感じる、飾り気のないスーツ姿の女性はこう続けた。
「ですから宗教ではありません。私達は主に勉強会を開催して、社会や個人の幸福とは何なのか、どうしたらそれを実現できるか議論しているだけです。勿論それを実践する奉仕の日もあります。基本的に全て、科学理論や物理的根拠に基づいた活動で、怪し気なものではありませんよ」
 その時点で、相手は至って普通の口調なのに、何故だか伸はたじたじの様子だった。ここまでどれだけ時間が経過したのか知らないが、既に相当な圧力を掛けられたのだろう。近年の新興宗教やカルト団体は大概、企業並の勧誘マニュアルが存在するものだ。その通りに会話を進めれば、相手に逃げ道がなくなって行くよう考えられている。
 気の優しい人間には全く住み難い御時世だ。
「そう言うことにも興味ないから」
 伸がそう返すと、今度は突然怒ったように相手が強く出る。
「興味がないんですか!?、御自分を含めた全体の幸福に興味がないんですか!?。あなたは世界がどうなろうと関係ないと仰るんですか!」
 無論それもマニュアルなのだろう。
「そんなことは言ってないけど…」
 また、世界がどうなろうと、などど言われると、元鎧戦士としての良心が刺激されるのは確かだった。自分達は何よりこの世界の平和を願い、自らの命を賭して働いて来た。普通に暮らす人々の誰よりも、その意識だけは強く持っていると自負がある。けれど伸は何かを言いたそうにしながらも、微妙な態度で口を結んでいた。鎧戦士の過去の活動は無論、言いたくても言えない事情だ。
 だが、その時横断歩道を渡って来た征士は思う。
『そこで「貴様に何がわかる」、と凄めば済むのに』
 間違いなく彼ならそうしただろう。詳しい事情など伝わらなくていい、ただ威嚇するだけでこの場は離れられるのだから。
 しかしそうは出ない、己を敵視する者以外には牙を剥かない伸は、こうしてストレスを溜め続けているのだった。
「そうでしょう?、身の周りが幸福でなければ、あなたも決して幸福ではない筈です」
「ええ、まあ…」
 こんな場面を、もしビデオカメラでずっと撮影していたら、恐らく滑稽な映像にしか映らないだろう。苛立ちながらも相手を気遣う青年と、強気で頑なな勧誘の女性。最終的にどちらに軍配が上がるかは目に見えている。これだから、余計な情けは掛けるべきではない。
 遂に反論もしなくなり、何でも頷いて遣り過ごしていた伸の元に、漸く「相手の心象を考えず、人の顔色を窺うこともない」人物がやって来た。そして、
「少し遅れたな」
 と言った。
 商業ビルの壁面のデジタル時計は、まだ五時五十六分の表示だ。
「えっ?、いやまだ…」
 声を掛けられると、改めて伸は自分の腕時計を確認したが、きっかり一分進めてあるその針も、五時五十七分を指していた。どちらにしても待ち合わせには四分早い。つまり、征士はこの現状のことを言っているようだ。
 そして、そこまでの遣り取りを知ってか知らずか、
「彼の退屈凌ぎになってくれてありがとう」
 何食わぬ顔で相手の女性に言うと、返事も聞かず、伸には有無を言わさずその場を連れ出していた。残された者は「え?」と言う顔をするしかなかった。
 今は、相手がある種の企みを以って近付いて来た為、不躾な態度も許される状況だった。
 しかし確かに、征士は時折身勝手な態度を見せて人を驚かせる。高慢と言える時もあるし、横暴と言える時もある。だがこうして見ると、それらは決して悪い形容詞ではないようにも感じる。寧ろそうなれる心の強さが必要だ。
「…見てたのか?」
 と、引っ張られながら歩く伸が問うと、
「さあ?、いつから話していたのか知らないが、勝手に何処かへ連れて行かれちゃ困る」
 征士は笑いながらそう返した。そして、
「着いてったりしないよ、いくら何でも」
「伸はそう言っても、私に取っては伸に関心を向ける人間は、全てが敵であり不安の種だ」
 と、今更に思える、歯の浮くような科白を何故か話して聞かせた。
 何を思って突然そんなことを言い出すのか。ふざけるにしても、そんな意味合いの言葉を使われるのは不愉快だと、征士はずっと昔に知っている筈だった。それこそ鎧戦士として集められ間もない頃、外見的な弱々しさを言われると伸は、酷く怒って機嫌を悪くした。それを一番よく憶えているのは、痛い目に遭った征士だと思う。なので伸は、多少面を喰らいつつ何とか言葉を列ねる。
「僕はそんな、世間知らずのお嬢様じゃあるまいし、そうそう危ないことになんか、」
 だが、征士は意図があるのかないのか、ただはっきり聞こえる声で簡単に返すばかりだった。
「それでもだ」
 もしかしたら何も考えていないかも知れない。口に昇ることを息をするように、自然に吐き出しているだけかも知れない。それには善意も悪意もない。そもそも征士はそう言う奴だから、しばしば誤解や勘違いを招くことがある。ただ自然にしているだけなのに、と思うと、
「ふたりの時間を守るのも私の大事な仕事だからな」
 本当に今更、簡単な言葉達が何故か、キュンと胸を締め付けた。
 意識の表面の理屈じみた考えで、言葉の意味を理解しようとするのではない。言葉自体はどうでもよかった。ただいつもと違う感覚が欲しかっただけだ。と伸は感じる。
 またそんな時こそ、空気を読まない発言の威力は発揮される。
 良い意味で征士は予定調和を乱す時がある。だがそれで良いのだと。

 家に居る間は気付かないが、ふたり外に出て他人に触れれば触れる程、自分達の真の姿が見えて来るのは不思議なことだ。しばしば「誰にも邪魔されない世界に行きたい」、などと言う台詞や記述が見られるが、果たしてそれは本当に理想的な形か、今は首を捻らざるを得ない。
 簡単に言えば彼等は、夫婦として落ち着きたい訳ではない。いつまでも着かず離れずの恋人でいたい。果たして、そう望んでいればそうあれるだろうか…?。

 暫く止んでいた雨がまた降り始めた。徐々に暗くなって行く、薄雲の夕空に蛍光燈のような光が瞬く。いつも、轟く音と光に導かれ雨は降る。優しく潤い渡る世界にも、時には強い言葉と態度が必要だ。
 手持ちの傘を開きながら伸は言った。
「ごめん、ありがと…」
「御免?。礼を言われることをした憶えもないが」
 何のことやらと、恐らく故意に知らぬ振りを決め込む、征士の態度に伸は尚ホッとしていた。そう、特別な日だと言うのに、今朝はいい顔をしてあげられなかった。それも含め、付き合いの悲喜交々全てを楽しんでいられる征士は、やっぱり、誰より一番近くに居てほしい人だと伸は思った。
 もっと恋をしたい。
「そう?、僕は忘れてないよ。今日シャンパン買ってあるんだ。家に帰ったら二次会だよ」
 金色の雨が降る、華やかに滲んだ夜の青山の町へ、ふたりの足音は消えて行った。









コメント)出だしの雰囲気、中盤のお仕事話から、最後にはまた違う展開になって、自分が楽しく書けたお話です♪。そしてやっぱり征伸は永遠の恋人だ!、と思いました(*^ ^*)。
タイトルは言わずもがな、シュトラウス1世のポルカ。本当は社交ダンスでもさせようかと思ったけど、征士とダンスはどうにも、イメージが結び付かなくてやめました。いや、民族衣装を着てポルカを踊るなら似合うけど、そんなの話にできないし…。




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