不機嫌な征伸
ケ・セラ・セラ
Que sera sera



 その日は、特に何があったという訳でもない。
 長い戦いと先の見えない戦いの合間の、普通に平和な一日。否『特別に』平和な一日。



 夏、柳生邸の居間はとても静かだった。午後ならば陽気に賑わっているこの部屋だが、その時はナスティが車で買い物に行くと言って、それに当麻が同行して行った。遼は白炎を連れて散歩に出ている。秀は自分に割り当てられた部屋で昼寝をしている。否、昼寝と言うには少々早すぎる、午前十時を回った頃だった。
 そこには征士が居て、彼がいつもそうするように、窓際の強い日射しを避けた席に座って、今朝届いた新聞の朝刊を広げていた。中学生にしては渋い習慣だと誰もが思っている。恐らくその内容の内、三割くらいは理解できない年頃の筈だ。
 けれど征士本人には、内容を理解することが重要ではなかった。単純に大人の言い回し、大人のやり方、大人の見方、というものに常に関心を寄せていて、新聞は彼に取って大変な情報源だったようだ。無論その事実を知る者はまだ居なかった。
 何故彼がそんな風に、「大人らしい物事」に関心があったかは知れない。確かに物の考え方、言葉の説得力などは、あらゆる場面に於いて、有利に事を展開できるかも知れない。又は己の理想的な姿を構築する為に、必要な作業だと感じているのだろうか。
 ただ人は誰も、自分に無いものを求めている。実際の彼は本人が思うより遥かに、子供っぽい理屈で生きているのかも知れない。それを知る者も無論、今はまだ居なかった。
 隣のダイニングルームから、バタバタと慌ただしい音が近付いて来る。ナスティ達が出て行った後、伸は頼まれた訳でもなく、自ら各部屋の掃除を始めていた。
 頼まれた訳でもなく、と言えば聞こえの良い表現だが、彼らの中では単に「神経質」で片付けられていた。非の打ちどころのない清潔好き、と言う性質を持ち合わせることは、親の庇護下で暮らしている十代の少年には、凡そ珍しいことかも知れない。しかしここにはもうひとり、似たような習性を持つ者が存在している。先程から新聞を読んでいる征士がそれだった。
 但し行動の原理となるものは違う。
 だから征士は自ら他人の家を掃除する、などと言うことはない。「客」として他所の家で過ごす為の、礼儀を弁えていると言うだけだ。それが征士ならば、伸は己の立場を鼻から「客」とは理解しないようだ。自分が世話になっていることへの、代償のようにここではよく働いていた。他の者達は特に何もせず、何も気にせず過ごしているのだが、それを恨みがましく思わないのは、彼がこの中では年長者だからに過ぎない。そんな自負を持っての行動だった。
 それなので、ふたりは初めての共同生活に於いても、意見が衝突することは殆どなかった。まだ二日目ではあるが、既に何かしらの問題を起こした者もいる。靴や服を脱ぎ散らかしたり、朝寝坊が過ぎたり、人の迷惑を顧みぬ行動や、生活のサイクルを狂わす行動、それらに最も縁遠い場所に居たのがこのふたりだ。
 そう思って、互いに安心していたのがそもそもの間違いだった。意見を違えることはないと感じた、それは早合点だったようだ。
 彼等は「似て否なるもの」に他ならないのだから。

「悪いんだけどさー、ちょっとそこ退いてくれない?」
 頭の上に掛けられた、ややぶっきらぼうな言葉に反応して征士は顔を上げた。換気の為に開け放たれた居間のドア、そこに伸は居て、埃取りの小さなモップを忙しなく動かしていた。
「ああ…」
 とだけ征士は言って、隣のダイニングに退散しようとその場を立ち上がった。
 と、その時征士の目に止まったのは、伸が身に着けている花柄のエプロンだった。普段ナスティが使っているものだが、彼女が着けている分に、これと言って気になる服装ではなかった。しかしどう言う訳か、伸が同じ格好をしていても似合わなくない。これが遼や当麻ならそれこそお笑いだと思う。
 注意して見れば、伸は頭に埃を被らないように、頭巾のような布を巻いている(征士は『三角巾』という名称を知らない)、両手には手甲のようなものを付けている(要するに腕カバー)。現代風のお掃除スタイルとしては、極普通の出で立ちだと思えるが、古くから剣道場を営む家の、征士の生活環境の中ではせいぜい、テレビドラマなどで見かける程度の、特異な服装だったらしい。
 なので征士は自然と、ドラマなどで見る絵を想像して、うっかり思い出し笑いをしてしまった。
「ん、何か可笑しい?」
 伸はその様子を見るともなく見ていて、突然笑い出した征士に訝し気に尋ねる。丁度部屋を出ようとしていた征士だが、廊下に出る前に一旦足を止めて、わざわざ振り返ってこう言った。
「そう言う格好をしていると、何処ぞの若奥様のようだ」
 それが発端だった。
 征士はただ「面白い」と表現しただけなのだが、それに対する伸の反応は尋常ではなかった。
 パン、と弾けるような音が広い廊下によく響いていた。一瞬何が起きたのか判らなかった征士だが、視界のぶれが治まり、左の頬に焦げるような痛みが昇って来る頃には、その理不尽と思える行為に対し、見せている片目の上に怒りの色を露にしていた。
「…説明してくれ」
 それでも、征士は取り乱しはしなかった。例えどんなに憤慨しようとも、感情に委せて暴言を吐いたり、まして暴力的になるなどもっての外。決して大人気ない行動はしない、と彼が己に課した鉄則なのだろう。なので冷静に体を立て直すと、征士は押し黙っている伸に続けて言った。
「何を怒っている、ウィットと言うものが分からないか」
 黙ったまま、同等の怒りを持って睨み続けていた伸。だがこの場に於いて、征士の言い回しは更に癇に触ったようだ。
「…分からないよ、だったら君には何が分かるって言うんだ」
 征士も征士なら、伸も相当にひねくれた物言いだった。
 何故だか、こんな遣り取りになってしまった。それは思い遣ることの裏返しだったけれど。むやみに怒りを煽らないように、不愉快な出来事を包み隠そうとするように。ふたり共、そこで起こったことに直接的に触れようとはしない。そのものを口にするより、遠回しに何かを訴えようとしているのだ。
 けれどそんなことでは埒が開かない。それぞれの思惑とは裏腹に、事態は悪い方向へと展開して行った。
「…そうだな、私には分からない。説明できないことにぶつかる度に、手を上げられるのでは堪らない」
 売言葉には冷静に買い言葉で返す、征士は一貫してその語り口調を変えないが、それを聞けば伸の方は、酷く感情的な態度に変化する。
「知ったようなこと言うな!、僕がどうしたって?、何を聞いてるんだ君は!」
「私は今の状況を説明しただけだ」
「自分が納得すればいいって訳?、君はいっつもそんな調子で…」
 始めからまともな議論ではなかった。そもそも話し合うべき議題から逸れてしまっている。この会話を続けても意味がないと覚ると、征士は聞こえぬ振りを決め込んで出て行こうとした。が、
「待てよ、勝手に止めるな!」
 このまま馬鹿にした態度で去られるのは、如何にも口惜しいと伸はがなり立てた。しかし更に、
「怒鳴るな、煩い!。そんな風に続けられても聞く気がしない。もう良いだろう、伸は掃除に忙しいのだ、さっさと戻れば良い」
 と強い調子で返され、伸は完全に頭に血が昇ってしまったようだ。
「冗談じゃない!、僕は好きでこんなことやってる訳じゃないんだ!、誰もやらないからやってるんじゃないか!。ほっとけば自然にきれいになるとでも思うのか?。ナスティを手伝おうともしないくせに!、みんなの代わりにやってるんじゃないか!」
 彼はそこまでを一気に捲し立てたが、最早征士の心象が変わる訳でもなかった。
「そんな恩着せがましいことなら、今すぐやめれば良いんだ!」
 征士がやや言葉を荒げたその時、二人の前にはいつの間にか階下に降りていた秀が、元々丸い目を更に丸くして立っていた。そして一言、
「ガイジン同志で喧嘩すんなよ〜」
 と、故意に調子を狂わすような冗談を吐いた。勿論、
「外人はおまえだ!」
 と二人から反論されたことは言うまでもない。



 しかし伸は何故あんなに怒ったのか、と、征士には理由が皆目解らないままだった。元々虫の居所が悪かったのか、それとも他で何かがあって不機嫌だったのか?。あれこれ一通りの考えを巡らたところで、思い当たることは何も無かった。
 伸はそれきり二階の部屋へと消えてしまっている。征士はダイニングルームにて、今更読む気になれない新聞を手に持て余しながら、取り留めなく沸き上がって来る疑問を見詰めていた。そこへキッチンから、パンの袋を抱えた秀が入って来て、テーブルを挟んだ向いの席に座って言った。
「おーい、生きてるかー?」
 思うままに、掌サイズのフレーキを頬張る秀。それを見て『伸が居ないのを良いことに…』とも思ったが、それより、自分はそんなに思い詰めた顔をしていたか?、と征士は慌てて態度を改める。
「何が何やら…」
 冷静さを保ってはいるが、そう呟いて溜め息を吐く征士は、秀の目にも酷く困っている様子が窺えたらしい。
「何があったんだか知らねぇが、ここだけの話なら聞いてやってもいいぜ?」
 否、始めから征士の話を聞くつもりで、ここに座った秀ではあるけれど。勝手に単独行動をしているようで、意外と細かいことにも気を回している秀。まだ本当に「これから」という時に、不穏の種は早く摘み取ってしまいたい。仲間が常に仲間で居られることを願う、秀の気持だった。
 それだから、征士は出来事の一部始終を大方話すことができた。一重に有り難い仲間の存在に感謝するべきだろう。
 ところが、話し終えて俯いていた顔を上げると、征士の目の前には、先程の自分同様に困った顔をして、頭を掻いている秀の姿が在るのだ。
「何か…、まずいことを言っただろうか、私は」
 と思わず付け加えてもみる。秀は頷きも、首を振りもしなかったが、その様子は明らかに『肯定』だった。
「えーと、あのなぁ…、言っとくけど、伸の前で『女の子』は禁句だぜ。あいつすっげーコンプレックス持ってんだ。見た目じゃなくって、性格とか、行動とかなぁ。女っぽく見られたり、自分のそーゆー所すっごく嫌がってるみたいだぜ?。…まあでもよ、伸も今更ンなこと怒ったって、しょーがねぇと思うけどなぁ」
 詳しく親切な秀の説明はしかし、征士には全くの初耳だったようだ。
 思えば初めて出会った時から、伸という存在はこの五人の中では特に、難解な人間性だと感じていた。それだけに征士は、純粋に彼の人となりを見詰めて来たつもりだった。余計な意図を持つことなく、ただ彼を理解したいと思っていた。そうしてこれまでの時間を過ごして来た筈なのに、己は一体伸の何を見ていたのだろう。他の仲間が気付くことすら知らない、と征士は己を腹立たしく思うしかなかった。
 
 けれど、知っていて腫れ物に触らないのと、気付く以前に考えもしないのと、どちらに非があると言うのだろう。知らないことは、罪なのだろうか。

 玄関のドアが音を立てて閉まった。見ると散歩から戻って来た遼が、静まり返るふたりの様子を心配顔で凝視していた。
「何かあったのか?」
 部屋に上がってそう問いかける彼に、秀はこれまでの話を説明して聞かせる。すると遼は、征士の幽かな期待も空しく、大袈裟に顔を顰めて見せた。つまり、遼もそれを知っていた訳だ。
「んー…、それ、早く謝っちまった方がいいぜ」
 彼もまた征士を責めることなく、親切に助言をしてくれたのはいいのだが。
 普段の尊厳に満ちた態度は何処へやら、立つ瀬が無いと感じるこの場に、当麻が不在なのがせめてもの幸いだった。「征士は意外に物を知らない」と、また笑い者にされる所だ。そう、本人もそれには気付いていたのだ。当たり前のことを見落とす癖が、自分にはあるのだということを。
 
 けれど、他の何かを代わりに見ていたのなら、それでも良いのではないか。



 遼には「早く」と言われた筈が、その日は既に夕方になってしまった。実は、二階に居ると思われていた伸が、その後何処かへ出かけてしまっていた。昼食時には戻って、買い物から帰ったナスティ、当麻と共にテーブルに着いていた。その時は、何も無かった風に装ってはいたけれど…。

 柳生邸の二階のテラスからは夕方の、零れ落ちそうに燃えている夕陽が、湖面をすっかり橙色に染めた景色を一望できる。先程から伸はそこに居て、小さく波打っている湖面の反射の様を、ひとり浮かない顔で眺めていた。
 伸にしても、今朝の出来事は本意とは言い難いものだったのだろう。自己の抑制も利かず、勝手に反射してしまう自分の心に腹を立てている。思うように生きられないことを恥じている。それは他の誰かと同じだけれど。
 そしてその様子を征士は、テラスへと出る廊下の、カーテンの影からずっと見ていたのだが、どう切り出していいものかと困り果て、出るに出られない状況を続けていた。
 これが秀や遼なら、己の恥を恐れず率直に謝るだろうが、せめて良い形をと考えてしまう。それが根本的な原因だと解った筈なのに、人は急には変われないからだ。本音を言わないことと、内面を明かさないことの、ただ繰り返しになってしまうとしても、未完成な彼らには未だ、その先に続く結果を予測することもできない。
「何してんだ」
 その時、吹き抜けの向こう廊下を通りかかった当麻が、らしくない様子の征士に声を掛けた。その声の大きさに慌てて、当麻には『静かに』と合図を送った征士だが、自分が呼ばれたと勘違いして振り返った伸は、そこに征士が居るのにも気付いてしまった。
 覚られてしまえば征士は、改めて『何処かへ行け』と、当麻には指示を出すしかなかったが、除け物にされていると思い込んだ彼は、面白くないと言う顔を露に、自分の部屋に下がって行った。どうも後味が悪いが、当麻なら後で話せば済むことだった。
「あ、かわいそー」
 その様子を見ていた伸が最初に言った言葉。さて、誰が一番可哀想かは明白だった。これで完全に出鼻を挫かれてしまった征士。しかし、
「でも、君も可哀想にね、叩かれるわ、非難されるわ、今日は踏んだり蹴ったりだ」
 そうして穏やかに列ねられた言葉は、決して厭味なものではなかった。何処か自信が無さそうに弱含んだ響きを持って、征士の耳には切なく届いていた。
 伸もまた、自分と同じ様に悔やんでいるのだと解る。言葉の意味を測るよりも、その音を聞く方が容易に真意を探れることがある。殊に彼のような人に対しては、かも知れない。
 そして伸は、
「さっきはごめん」
 さらりと謝っていた。うっかり先に謝られてしまった。
 考えれば考える程、思えば思う程遠ざかってしまうような、本来己はそう不器用な性格ではなかった筈だ、と征士は嘆くしかない。仕方なくこんなことを言う他なくなってしまった。
「…私は何も知らないし、何も分からない」
 それは伸が、彼にぶつけたことを反芻した台詞。嫌でも己の幼稚さに気付かされる、背伸びしているだけだと気付かされる、直視したくない事実だった。
 けれど伸は笑わなかった。
「いいんだ、君はそれで。僕だって詮索されるのは嫌いだ」

 征士の心は今、何処かの波の上に煽られる解決の糸口を探して、夕陽を映す水辺を漂っている。
 伸が何を思って人を誉めたのか知らない。それは心地良い言葉ではあったけれど、これで収められてしまっては格好が付かない。彼が出した答に反論したくない気持ちあった。もう争いたくはなかった。こんなに自分をも、相手をも打ちのめす思いをするなら、何も知ろうとしない方がいいとさえ思える。
 それは逃げではなく、諦めでもなく、人と言うものが、ただ瞬間瞬間に通じるだけの存在ならば、この世に不幸と呼ばれるものは無いと、思えるからだ。
 人はそうなれない。けれど私達はそうなれないだろうか。
 湖水からの反射の色が、伸と、テラスそのものを金色に包んでいる。征士がそこへ一歩踏み出すと、鮮やかな夕陽の剣が刺さる様に目に眩しい。その光が射して来る方向を、伸はまた熱心に見詰めていた。それ程までに、彼を惹き付けているものは何なのだろう。
「何を見ていた?」
 と征士が聞くと、それは思いも拠らないものだった。
「ん…、あの魔将達さ、何処に行っちゃったのかなって」
 既に征士に取っては、記憶の隅の方に追いやってしまった連中の話とは。何とも、不思議なことを考えているものだと、征士は少なからず驚いている。彼にはやはり、伸はよく解らない存在だった。
「あいつら、そんなに悪い奴じゃないのかもって、阿羅醐に取り込まれた時に思ったんだよ。僕らがこうして生きてるってことは、あいつらも何処かに居るんじゃないかな…」
「それを探していたのか?」
 伸は答えなかった。答えたくないのかも知れないし、答は無いのかも知れない。それはもうどうでも良いことだったけれど。
「…敵には情けを掛けるのに、味方にはこの仕打ち」
 征士は故意に気を引くようにそう言って、
「だから謝ったじゃないかー」
 と再び振り返った伸に、
「ああ、悪かったな」
 と、漸く自分も謝ることができた。

 誰に罪が在ったかなんて、気にすることはない。



「ナスティに、ひとつ提案があるのだ」
 その日の夕食を囲むテーブルで、征士は突然そんなことを言い出した。サラダボウルを抱えて立っていた彼女は、意外そうな面持ちで、
「提案?、そんな改まってどうしたの?」
 と征士に問い返す。すると、
「今の状態は言わば『合宿』だから、ひとりひとりが仕事の分担をした方が良い」
 他の三人がキョトンとしている中で、征士はすっかり、いつものマイペースに落ち着いていた。横の席に座る伸だけは、笑い出したい気持ちを押さえて、笑顔していた。









コメント/「おそうじ」を変換したら「襲う時」と出て来てびっくりしたよぉ〜(笑)。ことえりって本当にバカなんだけど、バカな子ほどかわいいって言うしなぁ。



BACK TO 先頭