征士とコーヒー
Present
Who loves the world



 休日の昼時前、洗濯物をベランダに出し終えた伸が、思い出したように言った。
「今日出掛けるんじゃなかったっけ?」
 すると、リビングダイニングのソファに、すっかり馴染んで本を読んでいる征士は、ふと顔を上げて返した。
「ああ、止めた」
 彼は朝食を終えるとすぐ、日曜日の仕事である部屋の掃除を終えて、本来なら余らない筈の午前中の余暇に、読書を始めていた。そう、折角秋晴れの良い天気だと言うのに、彼の愉しみでもあった車の清掃作業が、すっかり抜けてしまった為だ。
 征士はつまり、見た目通りに暇な身である。以前から決まっていた予定を、今日になって取り下げる理由は解らなかった。ベランダから部屋へと戻って来て、伸は自然にその理由を尋ねていた。
「何でさ?」
「何でと言われても…、元々大した用ではないからだ。練習日以外の会合は、好きな者が集まって喋っているだけだからな」
 征士に入っていた予定とは、大学の剣道部で有志が集まる会合だった。特に剣道とも、大学行事とも関係のない集会で、発足当初は恐らく、部員の親交を深める目的だったものだ。物質的に貧しかった時代は、苦学生同志の助け合いも重要だっただろう。まあ、現代にあってはそうした切実な背景も無く、単に内外学生の交流の場となっていた。確かに征士の言う通り、特別重要な会ではないようだ。
「ふ〜ん、コンパか何かやるんじゃないの?」
 と返した、伸の予想も全く外れていなかった。
「それもあるし、そうでない時もある」
 やはり今日日の大学生に共通する、交流的団体行動と言えばコンパ、と言う発想は正しいようだ。事実として現在その会合は、ほぼコンパの為に開かれているようなものだ。予定や企画を話し合う日、決定後の準備をする日、実際に行われる日がある、と言う征士の説明だった。
 すると伸は、
「おやおや、どっちだったら行くんだい、征士君は」
 と、明らかに何かを勘繰るように返す。征士が嫌にあっさり欠席した理由は、会合の内容にあるのではないかと、伸は思っているらしい。けれど征士は、伸の興味津々な様子に対して、淡々と答えを繰り出すばかりだった。
「そう言う問題ではない、いずれにせよ大差はない」
「え〜、嘘っぽいなぁ〜?。君みたいな奴は何処のコンパに行っても、真ん中に居させてもらえる筈だろう?。お酒も飲めるし、良い事ずくめじゃないの?」
「良い事など…。意味無く騒がしい席は嫌いだ」
 どうやら伸が思う程征士は、コンパと言うイベントに良い印象を持っていないようだ。伸ならば何処へ出掛けても、それなりの楽しみを見出せる性格だが。
 無論、当時の大学生全てが、同じ生活行動をしていたとは言わない。バブル景気に沸く日本で、只管享楽的な大学生活を送る者が多い中、真摯に勉学に打ち込む者も存在しただろう。或いは世相に逆うスタイルを持って、大衆行動を嫌うひねくれ者も居ただろう。或いは、ほぼ男女の出会いを目的とする行事の為、居心地悪く感じた者も居ただろう。征士がどれに当て嵌まるかはともかく、関心のない者が居るのは不思議ではなかった。
 また彼自身が話す通り、不特定多数でガヤガヤ騒く酒宴より、内輪で親しい者と酒を酌み交わす方が、彼の好みには合っていた。情報を得ることには関心もあるが、下世話な世間話やタレントの噂等が、彼の欲しがる情報とも思えない。有益な話をしてくれそうな者に会う確率は、極めて低い場だった。そもそもそんな意識でコンパに参加する者は、殆ど居ないだろう。
 ただ、征士の基本的性質は別として、
「男で邪魔者扱いされないのは特権だよ?、君は優遇される立場だろ?」
 伸が口を尖らせて言うのは、征士の希望通りにさせておくには、存在が目立ち過ぎるとの指摘だった。否、伸でなくともそう考えるだろう。この資本主義社会、経済至上の世の中では、圧倒的な商品価値こそが物を言う。人目を惹く華やかな容姿を持つ彼に対して、周囲は嫌な扱いはしない筈だった。本人に関心が無くとも、看板となる征士に参加してもらいたい、そんな周囲の意向があって然りだ。
 なので伸は、一般学生に紛れているだけの自分よりは、もう少し面白い現実を見ているように、征士の大学生活を解釈していたのだが。
「馬鹿な、何の特権だ。関心を持たれても嬉しくない人種に、しつこく話し掛けられてみろ、酒が不味くなるだけだぞ」
 と、結局征士は溜息混じりにそう返していた。看板には看板の悩みがある。コンパ自体に関心があるならまだ良いが、これでは一種の詐欺だ、とも征士は感じていたのだ。
 何故なら彼には、もう誰かを探す必要がないのだから。出会いを求めてやって来る者に対して、全く迷惑と受取っている状態は、幾ら何でも参加者に失礼だと思っていた。それでも先輩に頼まれれば、出掛けないこともなかったが、進んで参加しようと言った試しは無かった。伸はそうした事情を聞いていないので、あくまで予想で話していた訳だ。
 征士は不器用そうに見えて、当たり障りなく他人をあしらうのは上手い。特に思うところの無い人間には、それなりの付き合い方をする賢さがある。彼をそんな人物と知った上での伸の予想。
「じゃあコンパ以外の時は何なのさ?」
「そうだなぁ、大体は女子部との交流会のような、OBが来ていることもあるが」
 会合の性質については、伸の考え通りのものだったけれど、
「付き合い悪い奴って、陰で言われてるぞ?」
 再び愉快そうな口調に変えて伸が言うと、それまで些か顰めっ面に傾いていた征士が、不意に笑って見せた。
「フン、こんなに付き合いの良い人間は居まい」
 そう言って、その笑いが自嘲であることも説明してくれた。
「伸の予定はキャンセルだと聞いたら、行く気が失せた」
 先週の始め、伸のバイト先に急な需要があって、普段は出ていない日曜日の出勤を伸は頼まれていた。特に予定は入っていなかったので、すんなりそれを承諾していたのだが、今朝になって、休む筈だった元々のアルバイターが出られることになったと、電話で連絡があったのだ。その結果伸の今日一日は、久し振りにのんびりできる休日となった。
 またそれを知って、征士は自分の予定を取り下げたと言う。確かに、自ら言う通り付き合いのいいことだった。
「ハハハ…、馬鹿だなー」
 伸もまた笑っていた。人の価値観は様々だが、恐らく一生縁の切れない相手に付き合うなら、大学生で居られる短い時間を有意義に使う方が良い。伸はそう思うので、征士の選択は些か愚かにも感じたが、
「そう言って欲しかっただろう?」
 と、衒いもなく正面から言われると、感情的にはそうかも知れないと、伸は素直に認めることもできた。
 己はその他大勢ではない。常にそう語り掛けてくれる存在が、ひとりの人間としても、戦士としての価値をも確立した過程が在った。だから仲間達は特別だ。征士はその中でも特別だ。
 勿論そんな気持は軽々しく言わないけれど。
「ええ?、随分自意識過剰じゃないか」
「残念ながら、伸の考えそうなことは、すっかり分かってしまうもので」
「残念ながらはずれだよ、僕は『真似すんな』と思ってたのに」
「ハハハハハ」
 本音を言わなくとも、何が真実で何が嘘かは判っている。一度調子が出て来ると、会話はただただ愉しみに変わって行くだけだった。
 またそうして、取り留めない会話ばかりで休日を過ごすのも、考えようによっては有意義だった。気紛れに幕を操る、時間の秘密の上に存在していると知るなら、一秒先にはもう、会話もできない世界に居るかも知れないと、折に触れ考えるようになるだろう。
 人の一生には一秒たりとも無駄な時間は無いと言う。
「そっかー、君には大学より僕の方が大事だって訳だね」
「何を今更…」
 生きる愉しみとして続いていた会話を、征士が笑いながら返そうとした時だった。
「…何だろ?」
 キッチンの横に据えられた、オートロックのアラームが鳴り出していた。立っていた伸がそのまま、受話器を取りに行って相手の話を聞いた。すると、彼はすんなり開鍵キーを操作して、
「郵便局だった、休日配達だって」
 と征士に伝えた。途端にふたりの間の、闇雲な緊張感は掻き消えて行った。

 日々、予測不能な何かの到来を恐れている。忘れていられるのはほんの一時。突然の呼び出し等には、ついつい構えてしまう癖も付いていた。どれ程悟りを開いた者であっても、釈迦が業(カルマ)の輪廻を恐れたように、未知なる存在こそ恐ろしいものだ。こんなに楽しく、幸福に暮らしていると、己の現実を知れば知る程心は怖じ気付いた。
 言いたいことは山程あった。何故これまでの活動だけでは足りないのか。何故他の者に委ねられないのか。対立を生み出す源が失われ、その為に尽力して来た戦士達は皆、全ての使役から解放された筈だった。今はただその残り香のような、微弱な力が感じられるだけで…。
 けれど、もう何を言っても仕方がないじゃないか。
「じゃあ僕は行って来るからね、すぐ帰るよ」
 伸は、それらの問いに区切りを付けるように言うと、バイクのガソリンを給油しに行くと言う、本日唯一の用事をこなしに歩き出していた。
「ああ」
 必然的に、郵便を受け取るのは征士の役目となった。差出人も、荷物にも思い当たる事は無かったが。

「何だ…?」
 郵便局員に手渡された簡素な封筒。その差出人は当麻だった。
「さして重要そうにも思えないが…」
 手にした感じからは、大した文字数は無さそうだと見当が付いた。そして征士は困惑する、当麻に何かを頼んだ憶えは無い。電話と言う手段がありながら、わざわざ面倒な方法を選んでいる。休日配達を指定した意味は全く判らなかった。
「木曜の消印か…。速達では早過ぎ、月曜では遅過ぎる、と言うことか?」
 もしも。
 理屈上の定義ならば、無意味の意味と言うものが存在できる。沙漠の中のひと粒の砂には、存在の意味は見出せないが、無数に存在することで逆説的に意味があると言える。つまり、当麻の行動は後の時点で、意味を生じさせるものかも知れない。
 何か、抗えない流れに支配されることに拠って。

「…どうしたんだい?」
 三十分程で伸がマンションに戻って来ると、玄関ドアを開けた途端に、受話器を握り締め、難しい顔で壁に寄り掛かっている征士が居た。自分が出て行った時の様子からは、明らかな変化が感じられた。征士は驚いている伸に、
「当麻が電話に出ないのだ」
 と状況を説明する。無論届いた郵便物について、本人に問い合わせようとしていた。
「日曜日なのに、爆睡してんのかな」
 郵便に関する話を知らない状態での、当麻に対する想像はそんなところだった。そろそろ時計が正午を回ると言う時間、伸の言う可能性は普段なら、大いに現実味のある予想だった。しかし、征士はひとつ気になる情報を得ていた。
「それで秀に聞いたのだが、昨日、一昨日も電話に出なかったらしい」
 何かを疑うような目で、征士は電話機に目を遣りながらそう言った。
 元鎧戦士五人が皆大学生となってから、秀は以前にも増して活動的になり、滅多に家に寄り付かなかった。が、今日は偶然在宅していた。丁度暇を持て余しているところへ、征士からの電話があったと言う。妙なタイミングの良さだが、秀はまた征士の懸念する状況を、そのまま話して聞かせていた。即ち当麻は、金曜日には既に居なかったと言うこと。
 当麻は秀とは対照的に、ほぼ毎日一定の時間帯は自身の住むアパートに居た。秀が掴まらないのは普通でも、その逆は無いに等しいと秀は言う。何故なら頻繁に連絡を入れていた秀には、当麻の予定が大方判っていたからだ。少なくとも、数日アパートを空ける用事があれば、その前に何かしら話している筈だった。
 そもそもその手の用事が極めて少ない、出無精な面を持つ当麻でもある。観光地の紅葉を眺めて歩くより、大学の観測機器でも弄っている方が、彼には余程楽しかっただろう。
「遠出とか…?、当麻にしちゃ珍しいね」
 と、伸が不思議そうな顔で続けると、征士は漸く電話を掛けた理由も話し始めた。
「珍しいさ。…嫌な予感がする」
「どう言うこと?」
「不可解な物を寄越した。…当麻のことだ、何かを知らせたかったに違いないが」
 封筒の中身は、たった一枚の便箋のみ。それにしたためられた用件も、「遼にある物を送ったので、見せてもらうように」、と言うだけのものだった。それ以外はろくに挨拶文さえ無かった。慌てて何かを伝えようと書いたのかも知れない。
「さっき届いた郵便?」
「ああ。何故郵便なのか、今日を指定した理由も分からん」
 そして伸が尋ねる度、征士は正に困り果てる様子を見せていた。
 これは何かのシグナルに違いない。示された意味を見付け出さなければならない。宛て名であった征士はそんな義務感に、己の現状を苛まれているようだった。勿論己に、仲間達に、ともすれば世界の全てに関わる事だと、知れているから悩んでいた。
 否、当麻は慌ててはいなかったのかも知れない。彼自身は確かに、日曜日に在宅している確率が高かった。手紙が到着した後に確実に、詳しい説明をするつもりだったのかも知れない。だが、征士と伸については、日曜は不在の日も多かった。計算して今日到着するよう指定したとは、やはり考え難い。指定した日に受け取るかどうかはギャンブルだろう。
 当麻が何を考えているのか解らない。
 指定郵便にするからには、それ相当の意味がある筈だ。内容の重要性は認められるものの、今日でなくてはならない理由が判らない。電話を諦めた後の、征士の頭には幾つかの映像とキーワードが、堂々巡りを続けている。戦士としての勘が鈍って、大事な何かを見抜けなくなっているとしたら、この場合は不幸と考えるしかなかった。
 本当なら、そんな力はすっかり失って、用済みの人間に戻れた方が幸福だったが。
 けれども、
「だったらさ、遼と秀に連絡してみんなで集まろうよ。君ひとり考えててもしょうがない、三人寄れば文殊の智恵と言うだろ」
 伸は至って気楽な調子で、征士の様子を見兼ねるように言った。無論伸にもこの事態が、重大な何かである可能性は理解できた。だが、伸の答えはこうだ。
「それが正しい順序だろ?」
 何かが起こっている。動かし様のない過去の事実がある限り、その結果は必ず訪れるだろう。事の意味を知ることは重要だが、先に知ろうと後に知ろうと、結果は同じ可能性もある。否、恐らく同じ結果に行き着くと予想できる、今はそんな時期に来ていると思えた。
 だから、先立って苦悩する必要はない。皆が揃った時に同じ認識が得られれば良い。ひとりで無駄に先走るな、と、伸は言いたかったようだ。誰かひとりが取られたなら、どの道一蓮托生なのだから。過去もそうであったように、何れ一ケ所に集結させられる力がある限り。
 仕方がないじゃないか。
「そうだな、そうしよう」
 すると征士も、それが最善策であることと、伸の意思を受けて承諾していた。
 つい先日まで死の恐怖にも似た、予感と不安に揺れていた伸が、そう言えばここ数日は妙に穏やかだった。まるで古い姿を脱ぎ捨てて、脱皮した蝶のように明るく楽しげだった。
 伸と言う人はいつも、漠然と何かに悩みながら生きているが、一度決断すれば、膨大なエネルギーを以って破壊を起こす。過去の己、過去の価値観、過去の幸福な記憶、必要とあらば何でも手放せる意の力は、彼独特の思考回路から生まれ来るものだ。つまり、伸はもう決めてしまったのだろう。何処へ連れて行かれるとしても、残したものを振り返らないと。
 そして征士もそうしようと思うだろう。何故なら付き合いのいい彼なのだ。何が起こったとしても、後で笑えればいいと考え始めている。
「あ、そうだ。明日バイト先定休日なんだ。遼はここまで来るの大変だし、秀もお店だったら東横線で来れば楽だから、マスターに頼んでみようかな」
 立ち話を終えて、部屋の奥へと歩き出した伸が、今度は遼に電話を掛けようとしていた征士に言った。伸のバイト先は渋谷に在る。神奈川方面から来る者には、確かに在り難い配慮だろう。
「いいのか?」
「まあ大丈夫でしょう。僕はすっごく気に入られてる、優秀なバイトだからさ」
 伸の発言は冗談のようにも聞こえたが、嘘ではなかった。務め始めて一年半が経過していたが、出勤状況に問題無し、清潔であり接客態度も良し、食品を扱う手際も良しとなれば、受けが良いのは当然だった。まあ、伸の厭味のない人物像や、品のある性質から考えれば、トルーパーの中では最も社会に馴染むタイプだろう。しかし、当たり前に思えることを何故か、
「フ〜ン…」
 不愉快そうに返した征士が、何を思ったかは判らなかった。
「わーい、焼きもち焼きー」
「…そう言うことか…?」
 ただ、何処に居ても未知なる事実は、次々生じて行くと気付いた。
 人類の未来が掛かる一大事であろうと、個人の痴情沙汰であろうと、結局不安が尽きない世界が在るばかりだ。ならば何処に居ても同じかも知れない。征士がそう結論するのに時間は掛からなかった。
 何処に居ても、苦と楽の混在する君の居る限りは。

「明日の十時集合で大丈夫だって」
 改めて伸が秀の家に連絡を取ると、伸の提案通り、定休日のバイト先に集まることで合意した。征士は再度確認の為に、もう一度当麻に電話を掛けていたが、受話器が取られる気配は感じられないままだった。
「そうか」
 ただ、先程まで思考が止まっていた状態から、一歩前に進んだ現段階には、征士も満足している。何故他の仲間に相談しようと言う考えが、すぐに思い浮かばなかったのかは、今になって自分でよく判っていた。
 言わずもがな、最初から個人プレーの多い性質でもある。傍に誰も居ない状況で、本来の欠点が顔を覗かせたこともあるだろう。しかし誰の手も借りず、問題が明るみに出る前に、なんとか解決しようと心が動いたのは、彼が最も大事にしている者の為だ。
 常に、心を脅かす不安な存在は、ここから遠ざけておかねばならなかった。
 小さなコミュニティを慈しむ者が居るから、その外側を守る必要があった。
 君がいつも平和に暮らせるように。
 ところが、その配慮を受ける当人は、もうそんな心配の先を進んでいたようだった。当麻から送られて来た封筒の中身に、手を触れもせず、只管に明日の集合を待っているのだ。全ては明日のお楽しみだとでも言うように、伸は明るい口調で話し出していた。
「そう言えば、僕がお店で入れたコーヒー飲んだことないだろ?。前、ちょっと寄った時は、マスターが入れてくれたもんな」
「…そう言えばそうだな」
 征士が同居を始めて以来、共に出掛けることは多くあったけれど、渋谷にはあまり用が無かったのかも知れない。気付けばそのたった一度しか、伸のバイト先には出向かなかった。だから、ちょっとした『心残り』が伸にはあった。
「じゃあ明日までのお楽しみだね。君は知らないだろうけど、僕は次期店長に推薦される程の腕前なんだぞ?」
 そう、それは征士に、皆に自分の腕を披露することだった。伸はさも自信ありげに胸を張ると、征士の顔の前に人指し指を示して見せる。丁度コーヒーメーカーから注いだコーヒーの、カップを持ってソファに戻ろうとしていた征士は、
「クックックッ…」
 そんな伸の様子に思わず笑っていた。
「冗談だと思ってんの?」
「いいや、あまりにも想像に易くてな」
 今はこんな事態だと言うのに、こんな会話をして、普通に笑っている状況は不思議に思えたけれど。否、何事も開き直ればこんなものかも知れないと、征士は思い直した。本当は何事も、笑って遣り過ごせない事はないのかも知れない。
 本来の人間は強い。本来の君は誰よりも強い。
「そうだろう?」
 征士の返事を受けて、伸はにっこりと作り笑いをして言った。
「僕はそんな人生でいいと思うよ、接客業は嫌いじゃないし、商業科にも通ってるし」
 自らを『大したものじゃない』と言える人間程、実は大きな存在なのだと、彼は知っているだろうか。少なくとも征士は、いつもいつも思っていた。



 くすんだ街路樹の枝葉を抜ける風が吹く。
 道玄坂を登り切る前の、道の途中にある喫茶店のドアには、『CLOSED』の札が朝から掛けられていた。そのガラス入りのドアからは、無人のレジと暗い階段しか判らない。都会の込み入った一帯では、京の町家のような、鰻の寝床式店鋪も珍しくない。しかしその構造のお陰で、集まった面々は外を気にせず話し合える。場を提供してくれた店のマスターには、充分な感謝を伝えたいところだった。
「当麻は行方不明なのか…」
 しかし、席に付いて最初にそう切り出した遼を始め、集う仲間達の表情は固かった。久しく忘れていた天災がまた、突然頭上に振って来たような出来事は、店の空気を否応なく沈んだ色に変えていた。
「昨日征士から電話もらって、気になったんで当麻の知り合いに聞いてみたんだ。そしたら金曜土曜と大学に来てねぇって言うしな」
 続けて秀は昨日の後日談を語っていた。無論今朝ここに来る前にも、彼は当麻のアパートに電話を掛けていたが、状況は何ひとつ変わっていないようだ。つまりそれはもう、決定的な事実となったことを表していた。彼等が一度手を染めた、長い戦いの道程が再び始まっている、もうその最初の段階を過ぎたと言う証だった。
 そして一度黙り込む。遼と秀は顔を見合わせることもなく、テーブルの木目の上にじっと視線を落としている。再開が再び苦々しいものになってしまった、遣り切れない感情を噛み締めて、次の言葉をなかなか発することができないでいた。
 するとどうだろう。そんなふたりの横で、手際良くサイフォンを扱う伸は、何と生き生きしていたことか。表情こそ場の雰囲気に合わせていたが、彼の仕種は今にも鼻歌が聞こえて来そうだった。カウンターに並べられたカップに、今入れたばかりのコーヒーを注ぐと、周囲には挽きたて独特の香ばしい香りが、湯気と共に漂い始める。そうして全てのカップが満たされると、
「はい、みんな。伸様のスペシャルブレンドだよ」
 伸は終始丁寧に、且つ速やかな所作で用意した、恐らく最後のおもてなしを皆に勧めた。征士でさえここには、今日を含めて二度しか来ていないのだから、最初で最後になるだろう、との伸の予想は間違いではない。また、だからこそ伸は、穏やかな様子でその場に立っていた。
 誰が次に選ばれるかは判らないが、その時は藻掻き苦しむより、自然な感情で先へ向かいたいものだ。誰もがそうであれば尚良いだろう、と。
「…贈り物だ」
「ん?」
 遼の横に着いて、一口、征士がコーヒーを口にした後に言った、密かな呟きを伸は聞き逃さなかった。ふと征士の方を振り返ると、彼は酷く静かな表情で目を閉じていた。閉じていながら、瞼の内側に映る何かを見ていると、伸には解釈できる様子だった。
 征士にはその時漸く判った事がある。
 当麻を衝き動かした何かは、意外に慈悲深い存在だと言うこと。
 何故なら今日、ここで伸が初めて入れてくれたコーヒーを飲む、当麻から遼に渡された情報が初めて明らかになる。この重大な日に至るまでの、時間的猶予を己に与えてくれたのだ。当麻の謎掛けが到着した昨日は、計算された日ではなかったのだろう。運命は何かの意向に拠って変化する、だからこれは優しさの結果に違いなかった。戦士達を呼び続ける何かの優しさだ。
 最初で最後の贈り物をありがとう。
 優しい運命をありがとう。と、未知なる存在に向けて、征士は胸の内に繰り返していた。

 この集まりが解散すると、大学に向かう途中の伸が、また姿を消してしまうことになるが、先の事を恐れなくて良いと知ってしまった以上、ただ時の過ぎるのを待つばかりだった。



終(Message#2以降に続く)





コメント)と言う訳で、「Message」のvol.1と2の間の裏話でした。しかし外伝もそうなんですが、「Message」も唐突に出て来た新しい要素が、物凄く消化しにくい作品ですよね(^ ^;。なので外伝同様、ちょっとOVAの話とは違う(OVAの通りに逐一なぞっていない)部分もあります。御了解くださいませ。
で、伸はきっと、直前になると開き直って逆に明るいだろう、と言うところを書いたんですが(笑)、もうひとつ私が注目していたのは、この後vol.4の征士が、妙に悟りを開いちゃってる様子なんです。例の予言本を読んでから、随分考えたようではあるけど、すずなぎに対するあの寛容さは何なんだろうと、私も色々考えました。それでこの話にも、後の征士の心境を示唆する部分を入れました。まあ結果的には、それなりに全体がまとまってくれて良かった、と言う後書きですが(苦笑)。
尚、タイトルは高橋幸宏さんのアルバム「Saravah!」の曲からです。




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