四月馬鹿の人々
Poisson D'avryl
ポワッソン・ダヴリル



 この窓からは、麗らかな春の景色は見えないけれど、体の何処かでそれを感じ取っている。
 春は動、細胞レベルから沸き立つ季節だと。

「何か変な感じだ」
 その朝、いつものようにダイニングに立って、電気ポットのお湯の残量を確認した伸は、ダイニングテーブルに新聞を広げている、新しい同居人に一言そう言った。
 都内の密集地に建つ伸のマンションは、例に漏れずあまり日当たりには恵まれない。東側を高層ビルに塞がれている為、特に朝方は暗く、時期によっては冷え込みが厳しいのが難点だ。無論夏場は涼しい。太陽が昇り切ってしまえば、南西向きの間取りは日暮れまで明るい。都会の家は何処かしら長所短所があるものだから、これで随分マシな方だった。
 しかし、今朝のダイニングの様子は、何処か少し違って見えていた。そこに居るのが『光の戦士』だからだろうか?。
「柳生邸でも、朝はこんなものだっただろう」
 伸の言葉を聞いて、顔を上げた征士は穏やかな様子で返す。けれど彼もまた、口ではそう言いながら、何処となく畏まった空気を作り出していた。
 征士は昨日の午後にここに引越して来た。正確に言えば、引っ越し荷物と新調した家具類が先に到着して、本人と、挨拶の為に彼の母親が昨日やって来た。とにかく形だけでもきちんとしたい母君は、伸に対してきっちり頭を下げると、その日の内に帰って行った。その後、荷物の整理が夜まで続けられた為、昨日は生活らしい生活はしていなかった。バタバタと慌ただしい一日だった。
 そして今日になって、朝一番からがらっと変わった部屋の様子。いつも通りの朝を迎えたようでいて、別の次元にでも入り込んでしまったような…。
「う〜ん?、慣れない所為かな」
 伸は言われた通り、柳生邸での賑やかな朝を思い返してみるが、やはりそれとも違うと気付く。
「うわ…」
 そんな考え事をしていると、キッチンの出入り口に据えられた、ワゴンの角に足をぶつけて、その上のクリープの瓶やら茶筒やらが、景気良く一斉に倒れてしまった。
 伸にしては珍しい不注意。それを見て征士が、
「確かに落ち着かなそうだな」
 と言って苦笑いするのは、極自然なことではあったけれど。
 否、現在の状況を的確に表現する言葉はあった。けれど冗談にしても、多少言い出し難い言葉だった。何故ならこんな季節だ、とろけそうな発想をお互いに認めてしまうと、忽ち地面から足が離れてしまう気がした。
『新婚夫婦みたいだ、なんてことは言いたくないな』
 ふたりしてそう思っているのだから、言い換えれば我慢大会のようなものだった。浮き足立つ心情を押さえながら、平常心を装っている。故にふたりしてぎこちなかった。

 テーブルに並べられたカップはふたつ、お皿やカトラリーもふた組ずつ。勿論伸なら、そんな光景は既に見慣れたものだった。彼のマンションにはこれまでに、一部の仲間達や大学の友人が訪れて、食事をして行ったことも幾度かあった。学園祭の準備の為に、前日から数人が泊まり込んだ記憶もまだ新しい。そう言えば義兄が神奈川に出張に来て、泊まって行ったこともあった。
 それでも、それらと今とでは全く状況が違う。
 と、伸は引き続き思い出し事をしながら、フライパンの上のオムレツを半分にして、それぞれの、サラダの乗ったプレートに移していた。伸が朝食を用意する間、征士はダイニングに居て、先程伸が足をぶつけたワゴンに乗っている、コーヒーメーカーが止まるのを只管待っていた。朝の分担は伸が食事の支度、征士は飲み物を入れる、と言うことになったようだ。
 やはりこの点に於いてはどうしても、伸の労働が多くなってしまうが、まあ、伸本人が不満に思っていないのだから、どうでも良い事だった。
「それで、もう荷物は片付いたの?」
 テーブルの上に全てが揃うと、食事の席に着きながら伸が尋ねた。同じマンションの中とは言え、別の部屋を居室にしている以上、勝手に様子を覗かないでおこうと、伸は一応のルールを考えていた。万事に踏み込み過ぎるのは良くないと、世間一般で言われているからだ。
「まあ大体は。今日は足りない物を買いに出る予定」
 伸の質問に対して、征士は普通の調子でそう答えたが、答えた後、正面に座る伸に顔を向けてハッとする。同時に伸も些かギョッとする。ほんの僅かだが、暫しの間時間が止まってしまった。
 柳生邸の大広間とは違う、テーブルの幅が狭い分相手が近いのは当然だった。否、外食でならこの近さはあり得るだろうが、普段の生活の中では初めての距離感だった。
 途端に、喉の奥から何かが出て来そうな感じがした。
「あそう、何?、どんな類の物?」
 それでも、伸はどうにか切り替えて会話を続けている。単に慣れないだけだと思えば、遣り過ごすことはできた。
「大物と言えるのは電気スタンドくらいだな、他はノートなど細かい物だ」
「じゃあ、そうだな、秋葉原にでも行ってみるかい?。こっから歩いて二十分くらいだし、この辺の道案内がてらにさ」
 すると伸の提案に、征士は素直に乗ることにしたようだ。
「そうしよう。何時ならいい」
 即座にそう返して伸の、この後の予定を尋ねていた。
 東京の主立った市街地と言えば、彼等がよく知る新宿の他、お洒落な町と言えば渋谷や原宿、青山、代官山方面、高級な町と言えば銀座、赤坂、六本木、田園調布など、文化的に面白い町なら池袋、下北沢、吉祥寺などが当時の代表的な町だが、それ以上に、全国的にイメージを知られていたのは、実は秋葉原かも知れない。
 恐らく彼等の親の世代から、今現在に至るまで『電気街』の側面を崩さず、続けて繁栄している町だからだろう。征士の目的に合う場所であり、それなりに関心もあるので、近いと知ればそこに行かない手はなかった。
「ん、この後ちょっと掃除するくらいだから、お昼前には出られるよ」
 伸の答えは簡単だったけれど、その表情から快く了解しているのが見て取れた。
「解った。それまで私も、部屋の掃除の続きをするとしよう」
「そう。いい心掛けだ」
 ところが、何となく続けられた会話の後、
「…何かよそよそしいな」
 多少笑い含んだ口調で征士が付け加える。すると伸も、
「そうだね」
 合わせた訳ではないのだが、ほぼ同様の様子で答えた。既にお互いが気付いている、生活環境の変化を妙に意識してしまって、本来の調子が狂っていることを。否、本来の自分を出せないでいるのかも知れない。薄紅色の風に乗って、何処へともなく舞い上がってしまいそうなので。
「わざとじゃないんだけど、何かペースが掴めないんだ」
 伸は現在の自分を説明したが、その割には楽しそうな口調だった。
「私はともかく、伸が普段通り生活できないのは問題だな」
 問題だと言いつつ、大して気になるようでもない征士だった。
「いや。そう言う訳でもないんだけど、何か変な感じなんだよ」
「フフフ」
 どの道、会話の内のある程度は上の空だ。黙っているのはおかしいから、適当な事でお茶を濁しているだけだった。だから何を話していようと構わなかった。心に次々現れて来る感情が、うっかり、無闇に表に出てしまわなければ良かった。
 今、感情に任せて動いたら、恐らく生活にならないと思うからだ。
 待ちに待った春だから。



 午前十一時過ぎ、マンションの地所を出ると征士は、開口一番に謝っていた。
「済まなかった、本当に申し訳ない」
 その日の天気は上々だった。マンションの薄ら寒い室内とは違い、春の陽気は露出している皮膚に、心地良い暖かさを感じさせていた。急に天候が悪くなった訳でもなく、急な用事で待たせた訳でもなく、征士が何を謝ったかと言えば、
「そんなに気にすることないだろ?、元々洗濯する予定だったんだし」
 簡単な家の掃除を終えた後、伸は自分の洗濯物と一緒に、昨日征士が脱衣所に置いた衣類を洗濯してしまった、その事実についてである。征士がそれに気付いたのは、出掛けようとマンションの建物を出て、部屋のベランダを見上げた時だった為、驚きも一入(ひとしお)だった。せめて部屋に居る時に気付けば良かったが、征士もまたせっせと自室の片付けをしていたので。
 ただ、伸は彼のそんな様子を見て、人の分まで洗濯する気になったので、これは卵が先か鶏が先かと言う話だ。伸の考えとして、恐らく征士は済まないと思うだろうから、それで己の配慮に対する釣り合いが取れる、だから洗濯しても良いと判断した。彼の性格や生活パターンは判っているから、何もかも事務的に分割しなくても良いだろう、と伸は考えている訳だ。
 無論赤の他人どころか、単なる友人でもない。
 そもそも柳生邸では、衣服や靴などは各自が洗っていたが、各部屋のシーツや枕カバー等は、ナスティと伸が全て洗っていたのだ。征士はそれを知っていたので、今更驚愕しなくとも良い筈だった。否、仲間達に対してでなく、自分のみに対してだからかも知れない。
「じゃあその分ランチでも奢ってよ」
「それでいいなら良いが…」
 結局伸はその程度の見返りしか求めないので、征士は余計に済まない気持になった。いつも、概ね伸はそんな風に人を切なくさせる存在だが。
「あ、でも…、秋葉方面はあんまりお店無いんだよな」
 ところで、話が纏まった後に伸はやや首を捻って、食事をする場所を考えていた。今でこそ秋葉原は大衆文化の一大拠点だが、当時は大小店鋪が犇めき合うばかりで、洒落っ気など全く無い町だった。飲食店と言えばスタンド系の狭い店か、如何にもむさ苦しい親父が集まりそうな冴えない食堂が、極少数存在するだけだった。
 しかも昼時に近付くと猛烈に混み出す。そこで昼食はやめた方が賢明だった。
「先に他の所に寄るか?」
「そうだね、駅の方回って行こうか。今ならまだお堀端の桜が綺麗だよ」
 ふたりはマンションから、一区画程秋葉原方面へ歩いていたが、そこで方向転換をして、御茶ノ水駅の方へ道を曲がった。
 それから伸は、駅周辺から四ッ谷方向に伸びる、江戸城の外堀の話を続けるつもりだったが、曲がった道の先に既に、大学構内から伸びた桜の巨木の、浮き雲の様な大きな房が見えていたので、余計な話は止めておいた。学校が多く在る町は、即ち桜の木が多い町だ。彼等に取って特別な感慨を与える木の花が、近辺に多く存在するのも悪くなかった。
 思い出す事は、喜ばしく幸福な記憶ばかりではない。それでも花の季節を愛しく思えるのは、桜に繋がる記憶こそが彼等の原点、彼等の結束と信頼の原点だからに他ならない。
 春は全ての始まり、桜は全ての始まりと終わり。
 ふと生に対する空しささえ思い出す。風に吹かれて、車の行き交う町中を花びらが舞う様は、正に死んだ肉体が奈落を彷徨うような、何とも言えない景色を作り出している。けれど、暗にそんな意識を持ちながらも、ふたりは適当な世間話や、町の詳細を話すばかりで通り過ぎた。安易に口に出せるような、軽々しい話題でもない。
 しかし十分も歩かない内に、今や満開状態の桜が連なるお堀端に出た。四ッ谷駅周辺程ではないが、流石にここの眺めは印象的だったろう。溢れんばかりの淡い花が幾重にも、暗い緑の水の上に重なって、周囲を一際明るくしているのだ。静かな悲愴感よりも、カーニバルの狂乱に近いものを感じさせていた。
 また、一般に言う見頃はやや過ぎた印象だが、『散り際が美しい』と称される花は、花弁が落ち始める頃の方が美しい、風情があるとも言えるだろう。征士は全く絶好の時期にやって来たものだ。都会の中の桜は意外にも、野山の桜より美しいと知ることもできる。日照の少ない町中の、養分濃度の低い土に咲く花は皆、儚気な外観を獲得して行くものだと。
 そうして、ふたりは行き交う人々と同様に、辺りの様子をちらちらと眺めながら、お堀に掛かる橋を渡って、JRの線路の向こう側へと移動して行った。
「ここから真直ぐ、駅に沿った道はファーストフードとか、安くて簡単な食事ができる店が多いよ。昼時は忙しない会社員でいっぱい。ショーウィンドウもフレッシュマン向けって感じだね」
 駅の南側に出ると、伸はまずそんな説明をした。
「学生の町ではなかったか?」
「駅の周りはどっちかと言うと会社員が多いんだ。線路のこっちは千代田区だから企業も多くてさ」
 征士が聞いていた話とは、少しばかり違う印象の駅周辺。慣れた学生はこの辺りの店は利用しないと、伸は言いたいようだった。何故なら正午を境に、どの店も戦場のようにごった返すからだ。無論中には、財布の事情からここで食事をする学生も居る。まあ、今日はまだその学生がお休みとあって、町自体が比較的空いている印象だったが。
「あ…」
 するとその時、交差点の周囲をざっと見回した伸が、ショーウィンドウのひとつに目を止めて歩き出した。伸が歩き出したので、征士も疑問を持たずに着いて行くと、立ち止まった店の春らしいディスプレイには、淡い色調のプリントが綺麗な、春物のシャツが数点飾られていた。そこはカジュアルと紳士服の、中間くらいを展開している有名店だった。
 暫しの間それを眺めていると、伸は後ろに立っている征士に、
「いいと思わない?」
 と聞いた。彼が特に気に入って見ていたのは、薄いグレーの地に白とサーモンピンクの模様が、袖の先と裾の方にだけ入ったタイプで、女性が着る和服から発想したもののように思う。上にジャケットを着ると柄物とは判らない、隠れたお洒落系の商品であることも、伸の関心を惹いた理由だった。
「そうだな、今の時期に丁度良いのでは」
 確かに配色も生地の感じも、これから五月、六月辺りに着る服として提案されている、と、征士にはそんな印象を与えていた。しかし、何にでもすぐに関心を寄せる伸には、都会の商店街は些か目の毒だ、とも今更ながら思えていた。征士が聞かれた答えを熟考している内に、伸はさっさと店の中に入って行ってしまった。そして、
「おい…」
 十分程経過して、満面の笑みで戻って来た彼を見て、征士は絶句するしかなかった。否、正しくは伸の手に下げられた袋から、透けて見えた中身を見てのことだ。
 御丁寧に、花の形に作ったリボンを付けてもらったようだ。

「いいじゃないか、お祝いなんだから、素直に受け取ってくれ」
 窓際の席に着いて、注文を終えると伸は酷く上機嫌な様子で、向かいの席に座る征士に言った。
 伸が買物を済ませた後、ふたりはその並びにある洋菓子店の、三階にあるレストランに入った。普通の平日ならここも、昼時は並んで待つような状態になるが、その日はそこまでの混雑は見られなかった。尚、伸の上機嫌にはそれも理由に含まれる。彼はこの店のケーキがとても好きなのだ。
 つまり今日は、伸には何もかも首尾良く進む日のようだった。予め計画していた訳ではないが、自らこうしたいと考える事が次々に実現できていた。征士が引越して来たら何をしよう?、まず、近所の美味しい店に連れて行ってあげよう。周辺の面白い場所に出掛けよう、記念日にはお祝いをしよう、朝だけは欠かさず食事を作ってあげよう、忙しそうな時は家事を手伝ってやろう…
 伸が考えていた内容には、これと言って注目点も何も無い。ただ当たり前の生活をすることを、最大の楽しみとしていたに過ぎない。だから彼には罪が無い。
「と言うか…」
 しかし征士の方は複雑な心境だった。
「と言うか、何だよ?」
「私の予想としては、この先四年間は伸の世話になりっ放しだろうから、その他に贈り物を貰ったりすると、どうして良いか判らなくなる」
 今日に於いても既に、伸には多くの借りができてしまったようだ、と征士は考えている。否、伸の性格を大体把握した上で、同居などしたら恐らくこんな心境に陥ることも、予想はできていた征士だが。
 まさか最初の日から、こんなに気苦労が多いとは思わなかった、と言う話だ。
「はははっ、そんな事」
 と、笑った伸には大した事でなくとも、受け取った方は彼の好意に対して、何ができるかを常に考えなくてはならない。以前から借り分が多い立場だけに、征士には更なるプレッシャーだった。
「伸には『そんな事』でも、」
「あっ、それじゃあさ、『いちごのモンブラン』を追加するってのはどうだい?」
「・・・・・・・・」
 繰り返し「それでいいなら良い」と返すのが、愛情だろうか?。
 常に、こうしたシチュエーションを楽しんでもいるが、迷ってもいる征士だった。
 伸の方はもう、無言の了解を得たとばかりにいそいそと、テーブルの端に置かれたメニューを取って、『季節のデザート』の挟み込みを、こと楽しそうに眺め始めている。彼が言い出した『いちごのモンブラン』の他に、春らしい彩りのデザートは四品ほど紹介されていて、最終的にそれで良いのか、まだ少し決断を迷っているようだった。
 こうして純粋に何かを楽しんでいる、楽しみに待っている、そんな時の伸はいつも微笑ましかった。年長者に対して言うことではないが、征士はそんな様子を見る度に、己の乾いた感情が和むのを感じて来た。今もまた、自己の立場に悩み始めていたところだが、伸があまりにも、素のままに幸福そうな様子なので、いつしか征士は考えるのを止めていた。
 詰まるところ、伸が無理をせず幸福であるならば、自分は満足なのかも知れない、と半ば諦めるように征士は結論していた。花に群がる働き蜂のように、己は与えられる物を奪うだけの身だが、今は仕方がない…。
 ところでその時、花を想像した序でに、
『桜のチーズケーキ、とやらを注文しなかったか?』
 征士は前の注文内容を思い出す。そしてこう続けた。
「私は構わないのだが…、しかしふたつも注文して、食べられるのか?」
 疑問に思うのも当然だった。
 周囲が引く程大食漢の秀や、見た目に似合わず甘党の当麻ならまだしも、ランチセットの他にデザートふたつとは、あまり伸のイメージではない気がした。否、甘い菓子類が好きなのは周知の事実だが、大した量は食べないのが彼だった。すると、
「四月十五日までって書いてあるんだよ、今食べないと、多分次に食べる機会ないからさ」
 彼はその理由を、征士が納得できる程度に説明する。成程、この辺りの店は昼時は混んでいて、そう多くは来ないと言う話だった。しかも伸の通う大学は、御茶ノ水駅の周辺には無い。電車で幾つか移動した先だった。確かに、今にこだわるのは解らなくもなかった。
「期間限定か。まあ、伸がいいなら良い」
 結局、征士は繰り返していた。
「ここのケーキそんな甘くないし、小振りだから平気だよ」
 そして伸は恐らく、好きな音楽を繰り返し聞くように、自然にそれを受け入れているのだろう。

 桜の花と実の、塩漬けの入った桜色のチーズケーキは、塩気が効いていて征士の口にも合った。いちごのモンブランはスポンジに染みた、いちごリキュールの香りがとても良く、酸味があってさっぱりとしたケーキだった。
 十二分に満足して食事を終え、支払いを済ませると、ふたりは漸く本来の目的地へと動き出す。さて、春らしい服と甘いケーキの華やかさ、それらのイメージとは縁遠い、近くて遠い秋葉原へと向かう訳だが…。
 その前に、階段を使って一階へと降りると、そこは持ち帰り用のケーキが並んだ店鋪内だった。外へと出る通路沿いに、ショーケースが連なっているのは勿論、食事客へのアピールの為だろう。伸も通り序でに、並ぶ商品を眺め歩いていたが、満腹状態では流石に購買意欲をそそられなかった。
 そそられなかったのだが、そのショーケースにある物を見付けると、思わずその前に張り付いていた。食品見本はしばしば見かけるものの、本物が置いてあるのは珍しかったのだ。
「面白いな」
 伸が異常な関心を示したので、征士も自ずとその視線の先を覗き見る。そこには、征士には全く初めて遭遇するケーキが在って、自然に感想の言葉が出ていた。凡そケーキのモチーフとは思えない、魚の形をしたそれには、『ポワッソン・ダヴリル』と書かれた札があった。残念ながらまだ、第二外国語を習っていない征士には、何の事やら判らなかったが。
「フランスのお菓子だよ、季節ものなんだ。…うーん、注文商品なのか」
 名前の意味は判らなかったけれど、ただ、伸にはよく似合う食べ物なのは判った。そして彼の口振りは、もし注文生産でないなら、買って帰る意思があるようだった。なので、
「どうせなら注文して行ったらどうだ、何日後にできるのか知らないが」
「そうだけど…」
 征士はそう助言したが、意外にも伸は曇った返事をする。彼の心配事は、聞いてみれば当たり前の話だった。
「一ホールひとりで食べられるかなぁ。ケーキと違ってそんなに甘くないし、パイだから重くないんだけど…?」
 住人がふたりになったとは言え、恐らく征士は殆ど食べないだろう。伸の言う通り、スポンジ生地やチーズクリームのケーキに比べ、相当軽いお菓子ではある。並んだ苺の下にカスタードクリームがあるだけで、しつこい甘さも感じないだろう。但し、パイの美味しさは長持ちしないのがネックだ。
 どうしたら美味しい内に消費できるか、伸は暫くの間考え倦ねていた。今現在、近くに居る仲間は少ない。秀は今入学準備で忙しい為、ここまで呼ぶことは無理だろう。当麻は神田に引越して来る予定だが、まだ十日も先の話だった。柳生邸は流石に近いとは言えない、大学の友人も多くは里帰りしている。
 欲しいのは山々だが、困った。
「明後日で良いのか?」
 すると、声を掛けられた先を見て、征士が既に財布を手に持っているのを知った。伸がショーケースの前で蹲っている間に、征士は店員に話を付けていたようだ。伸は全く気付かないでいた。余程考え込んでいたのだろう。
「何でさっさと頼んでんの!?」
 と慌てて理由を聞くと、
「私が気に入ったからだ。全く伸に誂えたようだろう」
 征士は珍しくニコっと笑って言った。
「そうかも知れないけどさー」
 確かに、このケーキを絵的に考えると、魚の腹が苺で満腹になったような感じだ。まるで現状の伸を表しているように、征士には思えただろう。そして何とも楽し気だ。
 征士は知らないことだが、このケーキはそもそもエイプリルフールを表したもので、モデルとなった鯖が、餌をガツガツ食べる様子から、『愚かな魚』と言われるようになり、また四月の麗らかな陽気は人を惑わせること、フランス語の鯖には『誘拐者』の意味もあることから、『四月の魚』と言う名称が生まれたのだ。楽し気であって当然、誰もが無邪気に嘘をつき騙し合う、明るい年始の象徴である。
 そう、そんな遊び心も人間には必要だろう。実用のみで色気の無い一生を送るなど、彼等には考えられるだろうか?。
「恐らく先刻の伸も、私に似合うだろうと思って、突然お祝いをくれたのだろう?」
 征士が言うと、伸は前の己の行動を思い返して、拒否できなくなってしまった。
「まあ、そうなんだけどね…」
 結局全てが、出来心であり遊び心である。
 いつも愉しみを探しているだけで、代償など鼻から求めていない。
 それが彼等の習慣、だから君は甘受すべきだ。折しも季節は春なのだから。
「お相子と言うことにしてくれ」
 そう返して、顔を覗き込んだ征士を見て伸は、
「ハハ…」
 少しばかりはにかむような仕種で笑った。この結果は自分が発端で、それ以前からの経過があって、いつのどんな時も、相手を楽しませることばかり考えて来た、と気付いたからだった。
 一体どれだけ僕らは、僕らのことばかり考えているのだろう、と。
 そしてもうひとつ、
『今少し判った気がする。今朝から、何か変だと思ったら…』



「なにも、私に合わせなくても良かろう」
 秋葉原からの帰り道、ビル群の陰に夕陽が隠れようとする頃、ふたりはマンションへの帰路に着いていた。征士の予定していた買物は、大型電器店に入るとすぐに解決していた。単純な照明器具など迷う程のこともない。そしてその後は、趣くままに町の様子を見て歩こうと、伸は考えていた。新製品や目新しい物には事欠かない場所である。
 が、そう考え通りには行かないものだ。征士が伸に問い掛けたのは、「自分に合わせて買物をしなくても良い」との意味もあるが、更にもうひとつの意味を含んでいた。
「いーや。そう言う訳じゃなくて、前からあのカーテンは変えたかったんだ。モノトーンに纏まり過ぎると寒々しくてさ」
 実は、伸は全く予定に無かった、リビングと征士の部屋のカーテンを新調してしまった。彼はこれまで部屋の全体を、黒、グレー系を基調にしたモノトーンに揃えていたが、グレーで揃っていたカーテンの一部を突然、若草色のような地に変えると言い出していた。つまりそれが征士に取って、「合わせなくて良い」と言う事情だった。
 まあ今更言っても、既に注文した後なのだ。インテリアショップの前を通るべきではなかった。
「寒々しいとは…、大して気にならなかったが」
 そして征士は伸の言う理由が、今ひとつ呑み込めないでいた。
「僕がそう思うんだからいいんだよ、僕のマンションだ」
「それもそうだが」
 無論その意味では、伸が自宅をどう改装しようと勝手である。征士が口を出す権利は無いし、本人にそのつもりも無かった。だがどうしても、「本当にそれで良いのか?」「後悔しないか?」と、訊ねたくなってしまう。それ程に伸の行動は唐突だったのだ。
 未だ思いを残すように、歯切れの悪い征士の態度を見て、伸は故意に強い調子で言った。
「何か文句があるかい?」
 そう言って、「ある」と返されることはまず無かったからだ。けれど、
「無駄使いが多過ぎるな」
 と、征士は恐らく、本当に言いたい言葉を返していた。
 表向きの懸案である、カーテンの色など些細な問題に過ぎなかった。それより、思い付くままに買物をし過ぎだと、征士は心配しているのだ。金額的にも、決して安いと言える値段ではない物に、今日は随分手を付けている気がする。仕送り学生の身分から考えると、分不相応としか言えない。楽しいかどうか以上に、気が大きくなり過ぎている気がする…。
 ところが征士の思いを余所に、伸は思い切り反論していた。
「あっ、人のこと言えるのか?、まだ車も無いのにウーファーだけ買ったくせに」
 そう言われることも、無論判っていて征士は心配している。
「だから、私も含めて、」
 何故こんな風になってしまうかと言えば、
「浮かれ過ぎていないか?」
 と、征士は今の自分達の行動を分析した。でなければ伸の言う通り、まだ車を買う予定も無いのに、車に積む物を先に買ったりはしないだろう、と思った。
「フハハハ…」
 やや遅れて、伸が些か抜けたような声で笑い出す。恐らくくどくど解説しなくとも、伸にも充分思い当たる事だったのだろう。
 気付いている、否、気付いてしまった。東京の町の賑やかさの所為でも、他の誰かの所為でもない。征士と伸だけの世界とは、こんなに甘美で破天荒なのだと。常に春の気に住まうが如く、何処へとも知らず、思うままに好きな方へと舞い上がる…。
「恐い恐い」
「そうだねぇ、恐いねぇ…」
 一頻り笑うと、次には自嘲のような言葉が出ていた。
 けれど、これから先もずっとこんな風に、一気に昇華しては省みるような自分達で居たい、と暗に感じていた。その方が、平坦に生きるより楽しいだろうから。
 それから、彼等の人生には少なくとも、あと三人の他者が必ず絡んで来るので、そこまで道を踏み外すことはないだろうと、安心してもいられた。
 これが運命だとしたら、何と幸福な境遇だろうか。
 お互いに口には出さなかったけれど。



 地に足の着かないまま、今日一日が過ぎて行った気がした。
 今日から始まった新しい生活。何れは新鮮味も無くなってしまうだろうが、まだ当分はこんな状態かも知れない。明日は、明後日は、一体どんな出来事が待っているだろうと、予め考えてしまうのも惜しい程、起こる事を楽しみにしている自分が居る。
 確かに征士の言った通り、浮かれ過ぎているだろう。
 さあ、でも、勝手に心が動くのをどうしたら止められるんだい?。
 伸は寝仕度をして自室に戻ると、洗い髪にドライヤーを当てながら、無意味な自問自答を繰り返していた。夜になるとマンション内の温度は、西日に暖められた空気が緩やかに下がって、暑くも寒くもない適温へ変化して行く。しかしドライヤーの所為なのか、伸は頬が火照って暑いくらいに感じていた。
 否、当然考え事をしていた所為もあるだろう。伸は些か興奮状態だった。
 ところで彼は、眠る前にはメインの照明を点けないようにしている。眠り易い状態にする為だが、彼の部屋に最近になって置かれた、アクアリウムランプのターコイズの海の色が、殊に気に入ってしまったからだ。緩やかに回っている魚の群れに囲まれて、伸はいつも眠りの前のひと時を過ごす。それもまたひとつの至福の時間だった。
 さて、髪は充分に乾いた。ドライヤーを止めて、そろそろベッドに入ろうと思った、その時、
「…黙って入って来るなよ、空き巣かと思うじゃないか!」
 床に座っていた体を、起こそうと傾けた途端に肩が何かに触れた。知らぬ間に隣に征士が座っていたのだ。
 ドライヤーに掻き消されて、他の物音が聞こえなかった、アクアリウムの効果で人影が見え難かった、そんな状況が瞬時に考えられた。しかしまあ、それ以前に征士の方が、細心の注意を払って侵入したので、突然現れたように見えるのは当然。思い起こせば、征士は昔からこうした遊びが好きだった。
 けれど、空き巣と評されたのは、少々面白くなかったようだ。
「では何と言えば良い」
「…ん〜…?」
 征士の問いに、伸は暫し頭を巡らせてみたが、丁度良い言葉は意外に無いものだと気付く。「入ります」などと言うのは畏まり過ぎている。「入る」だけでは一方的な感じだ。「入って良いか」といちいち聞かせるのもどうだろう。「もしもし」とは普通言わない。ノックだけでは事務的だ、等々、次々に思い付いているのだけれど。
 すると、名案の出ない伸を見兼ねて征士は言った。
「『夜這いに来ました』」
 勿論それに賛成はしないだろうが、あまりに判り易い答えだったので、笑いだけは取れた。
「返事に困るよ…。『はいどうぞ』って返すのか?」
「答えなくて良い、何も言わないなら返事は判っているのだ」
 征士はそして、自ら『答えなくて良い』と言った通りに、はにかみ笑う唇を塞いでいた。
 目を閉じても感じられる、周囲を巡る鈍い光の動き。愚かな魚達は飽きもせず回遊している。聞こえない筈の彼等のざわめきが、不思議と耳に聞こえて来るようだった。
『ねえ君達、愚と楽は同じだと思わないかい?』



『何に慣れないのかと思ったら、全ての答がすぐに返って来るからだ』
 それがいつも傍に居ることだと、伸は思った。

 水辺に遠くの波動を探す昔も、それなりに懐かしいけれど、今は花盛りの春だ。









コメント)いやぁ。今頃何故こんなムニャムニャな話を書いているかと言うと、この辺りの話を書いた頃、アイシールドのサイトを始めたので、この手の話を楽しんで書くのがきつかったんですわ。これともう一本(六月予定)、なんつーかラブラブ系統な話があったりします。
 そんな訳なので、原作基準シリーズを続けて読んだ方の中には、「同居を始めた辺りの話が何故無いの?」と、疑問に思った人もいると思います。こういうカプものはその辺がお楽しみな筈なのに(笑)、とか。同時に、「折角同居を始めたのに、何てストイックなふたりだろう」、と思った方も居るかも。スミマセンでした、実はそんなことはないです(^ ^;。ハハハ…。
 ところで御茶ノ水のケーキ屋さん、実際に時期にはポワッソンダヴリルを売ってました(注文で)。




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