色々あった後
摂氏37度のピクニック
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 茹だるように暑い夏だった。

 本来は比較的涼しい筈の山中湖畔も、例年に無い気温と湿度に見舞われていた。
 戦いの予感を前にした緊張感から、五人が解き放たれた後の最初の夏。しかし特に用事は無くとも、柳生邸には例年通りいつもの面々が顔を揃えていた。習慣とは不思議なもので、悪い性質の事でなければ、継続すること自体に安心感が生まれて来る。一定の決まったサイクルに生活することが、人間には最も良い状態だと現すように。
 それはまるで宗教のようだ。六日間は与えられた仕事をこなし、安息日には全ての活動を休み神の声を聞く。遠い過去から繰り返されて来た、最もスタンダードな暦の進行が即ち、現代人共通の宗教と言えるかも知れない。無論今は日曜と言えども、全ての活動が停止することはない世の中だが。
 更にその上には、十二ヶ月で一年、百年で一世紀と、何処の誰が定めたのか知らないが、切れ間無い流れに対する節目の時が存在する。またこの国には明確な四季もある。数多くの様々なサイクルが折り重なる、この日本と言う国は真に恵まれた土地ではないかと思う。習慣的な行動、滞りなく繰り返される年中行事が、人知れず全ての者に安心感を与えていると考えても、悪くはないだろう。
 そして今年も夏はやって来た。
 ここ数年、夏と言えばそれぞれ思い出深い季節ではあったが、今年はこれまでとは違う、迫り来るものへの恐れ、責任感から来る緊張、それらマイナスの習慣から切り離されて、心から生きている喜びを謳歌する夏になるだろう。誰もがそんな期待を胸に柳生邸へと集まって来た。
 否、そうなる筈だったのだが…
 予想だにしない苦悩が、今年も彼等の身に降り掛かろうとは。
「暑ちぃ〜〜〜」
 居間のソファに仰向けに寝転んだまま、ほぼその単語しか口にしない秀。
「暑い暑いって、言ったってしょーがねーだろ、暑いんだから…」
 遼は彼を振り向くでもなくそう答える。汗で滑る手に握られた小振りな団扇は、自分を扇ぐ為ではなく、暑さにすっかり伸びている白炎に風を送る為のものだった。
 夏生まれの遼でさえ、生気を抜かれたような虚ろな目をしていた。そして傍に寝そべる、彼の友の姿はまるで虎の敷物だった。あの雄々しく逞しい白炎が、今は動物園の檻で暮らす猛獣同様、怠惰で意の無い様子と変わりがなくなっている。些か痩せ細ってもいるようだが、それ以上に心配なのは、だらりと垂れた舌を見せる口から、聞こえる息使いが酷く荒いことだろう。
 異常な熱気、異常な状態。
 何故こんな事になったかと言えば、
「もう、困ったわね…」
 電話からダイニングへと戻りながら、ナスティは遣る瀬なく呟いた。
 前代未聞の出来事だった。この柳生邸全体の空調、つまりセントラルヒーティングの装置が壊れたのだ。まあ、設置年数から言えばいつ故障してもおかしくはなかった。年に一回業者が訪れる、定期点検は毎年受けていたものの、それで故障しないとの保障も無かった。また家屋自体が非常に頑丈な造りの為、装置の入換えや改築が容易にできない事情も、ナスティの頭を常に悩ませる問題だった。
 ただ、故障自体には納得できるのだが、誰もがまず思うのは「何故こんな時に」と言うこと。
 それ程にこの夏の暑さと言ったら。
「タイミング悪かったね、こんな時に壊れるなんて…」
 ダイニングの奥の壁に、埋め込まれている送風口のカバーを外して、中を覗いていた伸がそう声を掛ける。 力無い足取りで伸の横に戻ったナスティは、彼の気遣いに答えるように、
「片っ端から電話してみたけど、みんなお盆休みなのよ、修理屋さんは軒並みお休み!。こんな時だけは田舎住まいの不便を恨むわ、ホント。明日には純も来るって言うし…」
 と、思い当たる愚痴を零すしかなくなっていた。確かにこれが都市部の何処かなら、営業している店の一軒や二軒は見付かりそうなものだ。そして伸の言う通りこのタイミングは、彼女の心情からすれば悔し過ぎるものだった。
 強制的に集う理由が失われた後は、長期休暇以外にはそうそう、全ての面子が揃わなくなっている。だからこそナスティは、それが可能な時は最良の状態で、家族とも言える仲間達を迎えてあげたかったのだ。今は正にそんな時にも関わらず、何の相談も無しにクーラーは壊れてしまった。修理のできる店が皆休みに入っているのは、あまりにも痛い状況だった。
 最早ウンともスンとも言わない、壁の設備をじっと眺めるばかりのナスティと伸。堪え難い暑さの所為か、頭の回転も相当に鈍っているようだった。
 そこへふと通り掛かった当麻が、
「…妙に暑いと思ったら、何かツいてねぇな…」
 と欠伸混じりに呟いた。午前十一時、今先刻起きたばかりの彼は、冷蔵庫から牛乳だけを持ち出すと、未だ覚め切らない様子でそれを飲み干し始める。
「なんもやる気しね〜よ〜」
 すると当麻が降りて来たからなのか、秀は漸く他の言葉を発してみせたが、相変わらず体はぴくりとも動かさないでいた。今柳生邸の内部では、ナスティと伸の他は、大体皆そんな調子で暑さに萎れていた。蒸し器の中にでも居るような、この不快指数は容易に人を堕落させるようだ。これが嘗ての、人類を救った戦士達の姿なのかと…。
 ところがその直後、室内に戻って来た征士が開口一番に言った。
「そうして部屋の中でだらだらしているからだ!、不平を言う前に、自ら改善に動けば良いだろうが!。夏の暑さなど気の持ちようだ、だらけている者が目の前に居ると、増々鬱陶しくなる!」
 すると彼の苛立ちに相まって、高いトーンで室内に響き渡ったその声は、ほんの一瞬だが室内に涼を齎していた。但し言葉通りほんの一瞬だった。数秒経過する内に忽ち場の空気は元に戻っている。ただただ暑さを遣り過ごしているだけの虚脱状態…。
 尚、征士はセントラルヒーティング装置の、室外部分の状態を見に外へ出ていて、ナスティ、伸とは窓越しに遣り取りをしていた経過がある。人を怒鳴れるだけの資格はありそうだった。だが、
「はぁ…」
 結局その声に反応したのは秀だけで、しかもそんな調子だった。
「…理論的じゃない」
 また暫しの間を置いて、パックの牛乳を空にした当麻が、如何にも彼らしい調子で話し始めた。
「体がだるいのは、体内に熱が篭っている所為だ、気がどうこうなんて話じゃない。そしてこの状態で無理に運動すれば、体内温度は更に上昇する。汗をかくことでそれは発散されるが、この炎天下にこの湿度だ、下手をすると熱中症にもなるだろう。医学的に危険な条件が揃ってるんだ、仕方が無い面もある…」
 しかし、尤もらしい講釈にも征士は全く動じなかった。
「御託を言うな」
「何が御託だ、事実を言ったまでだ」
 当麻には征士が何故、強硬な態度で人の非を訴えるのか解らない。無論征士には明確な理由があるが、当麻の生活サイクルからは、多少気付き難いことだったかも知れない。そして征士は低い調子で言った。
「相変わらず口だけは達者だな当麻。貴様ら、ナスティが朝から右往左往していると言うのに、何もしていないではないか!。復旧に苦心する様子を見ても、方々に修理屋を探している間も」
 そう、彼が怒っているのは、ナスティに対する非協力的な態度についてだ。勿論この異常気象が一番の悪者だが、それを言っても始まらないのは誰にしても同じ。人間は苦しい時程本音が出ると言うが、こんな時こそ周囲に気を配れと彼は訴えているのだ。
 正に正当な理由だった。眉を吊り上げて怒るに充分な、決定的な理由をこの場にぶちまけてしまうと、フロアの隅から、
「そうだよ〜」
 と伸もボソッと同意してみせる。そして征士は更に続けた。
「秀はここで文句を垂れるばかり、当麻に至っては暑い暑いと言いながら、昼まで眠りこけていた。口を動かす前に態度を改めろと私は…」
 ところが、
「すっ、すまなかったっ!」
 その場で即座に謝って来たのは、取り敢えず怒りの対象に入っていない遼だった。まあ、彼の性格からは考えられる事態だったけれど。
「俺としたことが全然気が付かなかった!、俺は、自分の事しか考えられない大馬鹿者だ!」
 彼は苦々しくそう言い放つと、バン!、と床に両手を着いて、いつものように悲嘆に暮れ始めていた。またその状態の時にはどんな言葉を掛けても、「特別扱いされている」「懐柔されている」と解釈するから厄介だった。本人が納得しなければ、例え真実を話しても、遼に取っての真実とは看做されないからだ。無論それが彼の誠実さの由縁でもある。
「あー、いや…」
 しかし畳み掛けるように捲し立てていた征士は、途端に困ってしまった。遼については明け方に騒ぎ出した時点では、事態を相談する輪に参加していた。その後はバテている白炎に水を掛けたり、氷嚢を作ってやったりと、これまでずっと世話をしていたのだから、ナスティの方に付いていなくとも許されるだろう。と、誰もが認知するところだった。それが唯一の真実だった。
 ところが現実は、無罪の筈の彼ひとりが猛省してしまっている…。
「まあまあ、そんなに落ち込まなくてもいいんだよ。みんなが普通にナスティを気遣ってたら、誰も嫌な思いしないだろ?」
 そこで遼への対応にはやや慣れている伸が、状況を打開しようとそんな事を言った。遼が悪いとは全く思っていないが、ここは彼の意思を肯定してしまう方が、話は進み易いと踏んだようだ。実際、誰もが普段通りの気遣いをしていたなら、征士が怒り出すこともなかったのだ。伸はそれが事実であると伝わるように、遼には真直ぐに向き直って、努めて真面目な態度を見せている。すると、
「…そうか、そうだな」
 伸の言葉に、一度は失敗しても「まだ挽回できる」と、遼は光明を見い出せたようだった。まず己の非を確認する、それが彼の納得の仕方だと誰もが気付き始めている。だから遼は信用されるリーダーだ。そして彼は元の状態に己を落ち着かせると、すぐにも、
「じゃあ、俺何をしたらいいんだ、ナスティ?」
 と、そんな言葉を繰り出していた。そのひた向きさも相変わらず、誰に比べようもなく偉大だった。
「あ、でも…どうしようかしら、これから大学に行ってみて、誰か修理のできる人を探そうと思ってるのよ」
 けれどナスティはその時、ハンガーポールに掛かっていたバッグを手に取って、如何にも出掛けようとしている様子だった。彼女なりに考えた最善策だが、但し空調設備の構造を熟知する者が、大学に存在するかどうかは判らない。その上ナスティが親しんでいる分野とは、違った場所での人探しになるだろう。成功確率は低い、正に藁にも縋る思いと言ったところだ。
 そんな状況が、遼に読み取れたかどうかは疑問だが、
「よし!、じゃあ俺も行く。ナスティが走り回ることなんかないぜ」
「そう、ありがとう遼。じゃあ行きましょう」
 即座にそう答えた遼に、ナスティは有り難く手伝ってもらうことにしたようだ。実際遼がナスティの役に立つかはともかく、それで上手く場が収まったのを見て、
「頼んだよ遼」
 と、伸も笑顔でふたりを送り出した。
 これは、もしかしたら。
 ナスティと共に大学へ行くのが一番得かも知れない。大学なら何処だろうと、エアコンは基本的な設備のひとつだ。単なる勉強ではない、重要な研究等に気候が邪魔をしてはいけないからだ。そう、そこへ行けば一時でもこの灼熱地獄から抜け出せる上、何か面白いものに遭遇する機会もあるだろう。遼がそれを狙ったとは思えないが、結果的に彼は当たりくじを引いたようだ。
 だが思い付いて、今更遼に便乗しようと言うのは、流石に気が引けた当麻と秀だった。
『どうしよう俺等…』
 後は何をすれば良いのやら…、と気まずく顔を見合わせていた。



 雲ひとつ無い明るい青空が、周囲180度を塗り潰しているようだった。
 伸の実家を訪ねた後、そのまま乗って来たレンタカーの白のCR−Xが、何処までも青い世界を真直ぐに切り裂いて行く。一昨日までは海風を受けていた車体も、昨日からは高原の澄んだ空気を感じているだろう。そこまで長い距離を走った訳ではないが、車の外の環境は劇的に変化している。地形と気候に富んだ、小さな島国に暮らす贅沢に、この国の住人は意外と気付いていない。
 車は光と影のモザイクに装飾された、林道へと入って行った。音の無い微風が枝葉を揺らして、モザイク模様に絶えず変化を与えている。その隙間から漏れる陽光の眩しさは、何処か懐かしい記憶の輝きを思わせた。小さな子供の頃は帽子も被らずに、食事をする間も惜しんで外を走り回っていた。暑さが辛いなんて思ったことはなかった。もうそんな、生命力に溢れた時代は過ぎてしまったんだなぁ、と回想する。
 そうしながら、見慣れた景色が段々と遠ざかって行くと、伸は通り過ぎた過去を名残惜しむように、後ろの窓を振り返って言った。
「置いて来ちゃったけど、大丈夫かな〜…」
「死にはしない」
 ナスティと遼が出掛けてしまった後は、特にする事もなかったので、征士と伸は涼を求めに出掛けることにした。征士が借りて来た車があったので、これまでのように、本数の少ないバスや電車を待つ不便は解消された。今は行きたい時に、行きたい所へ自力で行けるようになった訳だ。
 けれど他のメンバーを置いて、勝手な相談で出て来たことには、どうにも後ろめたさが残る伸だった。
「そりゃ死ぬようなことはないけど、でもこういう時って、何かとんでもない事やらかしそうなんだよね。あいつらだけ残すと心配だよ。僕らだって逃げて来たんだし、今頃恨み言言ってるに決まってるし」
 と、彼は結局己の自由より、残して来た仲間の立場を思っているようだった。
 つい先程まで、何もしないふたりに不満たらたらだったにも関わらず、だ。遼もそうだが、伸もまた当初から変わっていない。否、以前より増々仲間に対する気遣いが、行動、言動に現れ易くなっているのでは、とも感じられた。どちらにしても最早周知の性質だから、全て胸に納めておかなくてもよくなった、そんな状況の変化の所為だろう。
 伸に取ってはストレスにならなくて良いけれど。
「さあ、あの様子では、暴れる気力も無さそうに見えたが」
 ハンドルを握る征士は前方を見据えたまま、淡々とした口調でそう返す。
「そうかなぁ…。ホントは遼はあのままで良かった、当麻と秀がこの後ナスティの手伝いをするのが正しかった。そう思わない?、僕が思った成り行きと違っちゃったんだよ。遼が納得してくれるだけで良かったのに、ナスティの出掛けるタイミングがさ…。あれじゃ、口を挟んだのが悪かったと思えるよ…」
 対して伸はそんな風に、こだわる一点から視線を外せないでいた。まるで当麻と秀の不運は、自分の落ち度だとでも言うように。
 すると、
「悪いと言うなら、」
 伸が使った言葉を引き継いで征士は続けた。恐らく悪いと言うなら、他の者達への心配以上に考えてほしい事がある、とでも彼は言いたかったのだろう。
「過ぎた話はもう止めないか」
 そして征士の率直な意思表示に、気付かない伸でもなかった。
 と言うより、こんなに明瞭な態度を取る征士は珍しかった。単調な話し口調は、まず話題に興味が向かない証拠だ。適当に相槌を打つこともなく、早々に話題の転換を求めるのは、それだけ征士が不満に感じている意味だった。
 過去にも色んな場面があったけど、何で今頃になって嫉妬心を露にするの?。と伸は一度は思うが、それだけではないことにも何となく気付いている。過ぎた事をいつまでも考えるのは悪い癖だ、それは時に拠り精神衛生上の問題となると知って、征士は敢えて不興を示すのかも知れない。如何に遺恨を残す過去があったとしても、己は今に生きているのだと。
「…だって暇なんだ、君の運転は安心だから、僕は何もする事がない」
 征士の真意は判らなかったけれど、伸がそんな言葉を返すと、
「それは失敗した、考える暇が無ければ伸は幸福なのだな」
 それまで仏頂面をしていた征士が、初めて笑い声になった。
 まあ、伸には解り切ったようなことだが、征士の根は至極単純なので、こんな場面では馬鹿馬鹿しくも感じてしまう。誉められて嬉しい時は喜ぶ、怒りを感じれば怒る。ただ、少なくとも感情的に歪んだ所が無いからこそ、己を見る時の尺度になる人物だった。いつもそうだった。
 だから数有る星の中から君を選んで見ていた。
「そうだねぇ、退屈は敵だね。早く着かないかな〜…」
 助手席のシートに座り直すと、伸はもう振り返ることはなかった。フロントガラスに映る木々のトンネルの先に、再び開けるであろう青い世界を見詰め続けていた。遮る物の無い夏の空、抜けるような晴れ間を飛んで行く白い車は、外から眺めれば、日を巡る翼車が滑走する様にも見えるだろうか。降りて見なければ判らないけれど、それはきっと爽快な眺めだろう。
 などと、何でもない事を思い浮かべながら。



 そうして、空調の効かない柳生邸から、一時避難をしに出掛けたふたりだったが。

「…どうしてこんなことに…」
「さあな」
 その二時間後には、更に予想外の事態に至っていた。彼等は富士五湖周辺の、観光設備がそれなりに集まる町へとやって来て、車を停めて少しばかり遅い昼食の席に着いた。その間窓を眺めていると、やや雲が出て来て風が吹いているのが判った。のんびり歩く程度なら、そこまで辛い暑さではないだろうと考え、ふたりは河口湖畔を散歩しに出て行く。
 目測通り、外はそれなりに強い風が吹いていて、下手な屋内に居るよりずっと心地が良かった。柳生邸からは近場と言えるので、特に目新しいものがある訳でもないが、これは思いの外素晴しい夏のピクニックだ、と彼等は思った。その時はそう思っていた。
 だがそもそも、雲が出て来たのはどんな状況だったのか。山の天気は変わり易い、積乱雲は夕立ちを降らせる、それらの常識も霞んでしまう程、柳生邸の暑さは凶悪だったのだろうか…。
「いや分かってるんだ、僕が悪かった」
 今ふたりは、車を停めている町のモーテルに居る。何故かと言えば、雨に滴る状態で車に乗るのは、レンタカーと言う都合上不味かったのだ。それも程度の問題で、髪や服が湿ったくらいなら問題にはならなかった。伸が調子に乗ってどんどん町から離れてしまったことで、戻る間にどうにもならない状態になった、と言う訳だ。又運悪くこの町には、お土産品のTシャツ程度しか衣類を売る店も無かった。
 だから彼は自分が悪いと話す。ただ征士のことだから、そのまま受け取りはしないだろう。
「誰が悪いとは思わん、天気に文句を言っても仕方がない、結果的に今涼しいのも確かだ」
 と、伸の予想を外れない返事が、征士の口からは聞かれた。ただ、部屋は寒過ぎる程に空調が効いている。正直なところ、ビジネスホテルにあるタイプの薄手のローブでは、ある程度服が乾くまでの代わりとしては、風邪を引きそうに思えていた。その状況で言う言葉にしては、
「お優しいことだよ」
 と伸は評するしかなかった。
「伸が『退屈は敵だ』と言うから、この成り行きで丁度良いのでは?」
 すると征士は本当に、心底彼の非を考えていないらしく、むしろ二転三転する状況を楽しんでいる、とでも言うように笑っているのだ。まあ、征士はよくそんな風に、故意に場当たり的な行動をして楽しむ傾向がある。それを知っている伸が、彼の心境を疑うこともなかったけれど。
「うーん…そうかな…」
 納得できないのは伸ばかりだった。まるで先程の遼のようだと、彼が思い付くのに時間は掛からなかった。納得できないのは、自分だけで済む話ではないからだ。大事に思う誰かが存在するから、これで良かったのかと何度も考えてしまう。悪いなら悪いと言ってくれた方が、心が落ち着くことは確かにあるのだと。
 しかし征士は言わなかった。
「それに、私には都合が良いしな」
「んー?」
 悪いとは言わない代わりに、彼は状況を良いように取るのがお得意だった。自責の念からか大人しい、伸の肩口に顎を預けるようにして、征士は伸の様子を窺い始めている。
「ちょ…っと、さ」
 濡れ髪に戯れる指が耳を掠める、肩に伸し掛かる重みが僅かずつ場所を変えている。わざとやってるな、と気付かない筈もない。そうして少しずつ侵食するように誘いを掛けて来ることも、伸は既に知っていたけれど。
「暑い時にわざわざ、余計暑くなるようなことしないでくれない…」
「今は寒いくらいだ」
 そう言われると返す言葉も無い、この状況を作った自分が悪いと思う外になかった。否、不思議にもそれで気持の整理がついていた、それなりに自分は悪かったと納得できたので。
「そうだけどさー…、んー…」
 だから、一応気の無い素振りを演じながら、受け入れていた。どうせ征士は本当の意味で嫌な事はしない、と、全て承知の上だった。
 部屋の温度に馴染んだ冷ややかな指が、同じ冷たい皮膚の表面をなぞる。通り過ぎた跡に仄かな灯を残しながら、徐々に全身の血流を急き立てて行く。やがて己の心音が耳に届く頃には、空調が何度に設定されているかなど気にならなくなるだろう。好きなように触れさせながら、伸はふと思った。
 世界が寒いから人は戯れるのか?。
「いや違う…かな…」
「何が違うって…?」
 一度思ったことをすぐに否定したのは、去年の夏の記憶からだった。先進国は少子化に悩んでいるが、後進国はむしろ人口過多に悩んでいる。殊にあの、強烈な太陽の降り注ぐ大陸では…
『考えてみれば、何で人は暑い夏にわざわざ恋を探すんだろう』
 暑い日は嫌いだったか?。暑さは鬱陶しいだろうか?。
 否、憶えている。僕らがもっと純粋に生きようとしていた、幼い頃は照り付ける太陽こそ希望だった。日射しに単純に応える植物の様子を見ては、自分も育っていることを喜んでいた。個として生まれた後も、母の胎内の温度に似た外界を喜んでいたのだ。
 きっと誰もがそんな昔を憶えている。
 だから、須らく人は熱くなることを好む。
 その結論は切りの無い吐息に飲まれてしまったが。



「…少し分かった気がする」
 再び外気を肌寒く感じ始めた頃、事の後に来るどうしようもない倦怠感に微睡みながら、伸は最初にそんな事を言った。
「何のことだ」
 いつもそうであるように、まだ動き出さない伸に付き合って、傍に寄り添っている征士は尋ねる。
「生物に最適な環境についてさ」
 そして伸の答は当然、征士に予想できない内容だった。一瞬狐に摘まれたような顔をして、けれど征士はすぐに穏やかな笑いに変えていた。何を考えているのやら、伸の嗜好が面白かったこともあるが、彼にはもうひとつ興味深く感じた事がある。
「何だ、まだ昼の続きを考えているかと思えば…」
 そう、伸のことだから、未だ柳生邸に置いて来た者達への未練を思って、考え続けていてもおかしくはない。征士は普通にそう考えていたのだ。だが、
「・・・・・・・・」
 伸は最早それを忘れていた。指摘されれば忽ち心に、忘れていた事への呵責が現れても来た。誰もが幸せであるよう考えているつもりで、自分は結局普通の人並みに薄情だと、思わざるを得なくなった。否、思考を止めさせる出来事に遭遇すれば、人間である以上、誰だとしても責められはしないだろうが。
 生物が生物である限りの宿命。
 環境から来るものを受取らざるを得ない宿命。
 暑い夏だからこそ出会った、今日は未練と煽動に彩られた熱い一日だった。
「まあ、悪者が必要なら、みんな私が悪いと言うことにしておけば良い」
「…そうする」
 確かに、悪くはなくとも君の所為だ。
 と、伸の気持が納まってくれれば、征士はそれで満足だった。

 ところで彼等も、大学に出掛けたナスティと遼も、その時柳生邸で何が起こっていたか知る由も無かった。当麻と秀は今、屋外の空調設備をすっかり部品にばらして、頭を抱えているところだった…。









コメント)はぁぁぁ…、随分長く掛かっちゃったけど、やっと終りました(- -;。8月中に書き始めたのに、閃きが悪くてちっとも進まない小説だったのです。でも涼しくなってからはそれなりに書けました。やっぱり作中の題材通りで、暑い時期は考え事をするのに向かないですね(^ ^;。なかなか発表できなかったのも、そんな季節柄の事情からです。
さてこの後は漸く、原作基準シリーズの続きを書くことになりますが、実はまだ抜けている作品があるので、まあそれなりの時期に補足して行くつもりです。補足作品は前後の時間帯をちょっとだけ確認すると、読み易いかと思います、これも。




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