江ノ島
30代を
いじめないで
Don't Trust Anyone Over 30



 今年の三月十四日も、これまでと変わらぬ思い出になる筈だった。
 節目の年とは特に意識せず、落ち着いた祝杯を揚げるだけの予定だった。

 赤坂の某レストランにて、A5ランクの神戸牛、南房総から直送の鮑と伊勢海老、三種の高級グリルと共に、普段は飲まないベルエポックなど注文し、その場は如何にも大人のお祝いムードである。既にプレートの上は食べ終えた貝と海老の殻が残るのみで、伸はナイフフォークを端に揃えていた。
 残る、ペリエ・ジュエの緑のボトルに白熱灯の灯りが透け、描かれた白いアネモネが浮き立って見える。赤味掛かったオークのテーブルは重厚さを、ステンドグラスのようなボトルは、中世ヨーロッパの栄光を感じさせ、何らかのお祝いの雰囲気にはよく似合っていた。
 それを満足そうに眺める、伸は非常に上機嫌でニコニコしていた。
「美味しかったー」
 しかし去年の誕生日、あれほど三十代鬱になっていたのは何だったんだ、と言う様子でもある。
「やっぱり、身内の評判のいいお店は間違いないね〜♪」
「それは何より」
 勿論征士は、彼の心境の変化を責めはしない。それなりに意味ある今年の誕生日なので、暗く落ち込まれていてはやり難い。この一年の間、彼がどう心の整理をしたのか知れないが、新たな年を楽しめる気分に到れたなら、それ以上は無いと征士も思うだけだ。
 すると、食事を終えて充分満足そうなところに、
「ついでにこんな物も」
 征士は鞄から、封筒程度の小さな包みを出して、伸の目の前にすっと滑らせた。因みに本日は火曜日である為、征士は職場から直接ここにやって来た。休日ならもう少しそれらしい身なりで来るが、完全に会社員の出で立ちにビジネス鞄と言う、単なる日常的な姿なのは、本人もやや残念なところだった。伸が拒絶していた三十代の始まりを、どうせならもっと超現実的な演出で、印象強く塗り替えたかったのに、と。
 けれど気持良く酩酊している伸は、
「あれ?、ありがとう」
 征士の差し出した物を素直に受け取り、これまでの経過など深く考えていないようだった。その包装に印刷された店名を見ると、伸は中身が何であるか判ったようで、穏やかに、愛おしそうに頬に押し付けて言った。
「もしかして、僕が探してたの知ってた?。物はもういいって言ったのに」
 実は、伸はひと月ほど前から、良い万年筆を持ちたいと探していたのだ。彼の仕事は書類の作成が中心であり、基本的にはパソコンからのプリントだが、しばしば手書きで領収書等を書く際、どうもボールペンでは貧乏臭いな、などと思い始めていた。それだけ彼の経理事務の仕事も、順調であると言えるかも知れない。
 人前で文字を書くことも当然あろうから、彼は恐らく見た目にも拘っているだろう。それを加味して選んだつもりの征士は、
「一度限りの記念すべき三十回目の誕生日なので」
 と、故意に仰々しく言って笑った。否、その言葉は強ち嘘ではない。伸の神経質そうな細い指と、彼を表す水のイメージに合う物、その上高級感がある物を、征士も真面目に探して買い求めて来たので。
 そんな彼の努力を知ってか知らずか、伸は何処か夢心地のように相槌を打った。
「ふぅん?」
 意外に予想した以上の、幸福そうな態度を伸は見せるので、それで正しかったと征士もまた安堵した。今日は彼の為の日であるから、彼が幸福に感じるならそれで良かった。
 ところが、その時伸は思わぬ言葉を発した。
「あ、でも、零時きっかりに夜景を見るとかやめてよね」
 突然それまでの、与えられる幸福に微笑む様子を一変させて来た。
「…考えていなかった」
 征士は有りの侭のことを正直に伝えたが、急な相手の切り返しは些か腑に落ちなかった。何故なら、
「だが、本来そう言うことが好きだろう?」
 と、征士だけでなく、仲間達の誰もが暗に感じていることである。伸は性格的には大人しいタイプだが、イベントやお祭り的な行事に加わり、高揚する雰囲気を楽しむのが好きな面がある。彼のひとつのストレス発散法でもある筈だった。しかし彼は、何故かこの場ではそれを否定するのだ。
「そうでもないよ」
「そうか?」
 理由を尋ねると、それはまあまあ判らなくもない話だった。
「大勢でわいわい騒ぐなら楽しいけどさ、カウントダウンとかそういうの」
「ああ、そう言われると…」
「別に三十才の誕生日なんて、ロマンティックでも何でもないしぃ」
 今夜はふたりだけのディナーなので、特に浮かれ騒ぐ気分ではないのだろう。だがそれだけでなく、語尾が些か投げ遺りに聞こえるのが、征士にはどうも気になった。
 ロマンティックでも何でもない。この年にして、男ふたりが斜向かいで食事をしている場面に、確かにそんな発想は生まれないかも知れない。けれど伸の感情は本当にその通りだろうか?。
 これまで何度も、何年も、複雑過ぎる彼の心理を分析して来たけれど、やはりどうも言葉通りではないようだと、征士は暫し相手の顔を観察している。
「・・・・・・・・」
 一見割り切っているようで、彼は何処かに不満を隠しているようにも見えた。要望があるなら、自身の誕生日と言う絶好の機会に、話さない手は無いと思うのだが…
 それは恐らく自ら言いたくない事なのだと、気付いてしまうと、自然に征士の口角がニヤリと上がっていた。意地悪をするつもりは無いが、暴いて見せようと言う悪戯心に火が着き、段々彼は面白くなって行った。
 すると征士の視線に気付き、
「何笑ってるんだよ?」
 伸は身を乗り出して相手の顔を覗き込む。普段はそんな仕種はしないので、酔っているからか、或いは征士の変化に気付いたかも知れない。けれど本人は平常を装いつつ、
「いや、何でもない」
「嘘、何でもないって顔じゃない。何か言え」
 と言われて、何やら名案を思い付いたように突然席を立った。
「では、今から何処かに出掛けようか」
 征士の表情からは、嫌な予感ではないのだが、如何にも裏がありそうな様子が見える。普段と違う景色を見に出掛けることは、無論記念日の行動として歓迎できるけれど、果たして安易に乗っていいものかどうか、その前に伸は店内の掛け時計に目を遣った。
「今からって、もう九時過ぎてるじゃないか?」
「湾岸を走りに行くか?」
「正気かい?。いや、その前に飲酒運転はいけません」
 征士にその意識は無かったが、ベルエポックの中身は2/3ほど、彼の胃袋に収まっている筈だ。酔っている相手に冷静な指摘を受け、彼はこう訂正して伸に伝えた。
「なら電車だ。夜桜見物はまだ時期が早いかもしれんな。あまり遠くに行きたくないのであれば、映画のレイトショーでも」
 言いながら征士はもう、椅子に掛けてあった襟巻を取り、まだ肌寒い弥生の夜へ出て行こうとしている。元よりふたりとも、場の思い付きで行動することは多々あるが、今夜は些か強引な誘いに伸は感じている。
「突然どうしたの?」
 今一度そう尋ねるも、
「別にどうしもしない。さっき言ったように、夜景を見るなど後のことは考えていなかったので、せめても」
「せめてものお詫び?。いいのにそんなこと」
 過去を考えても今更な言い種に思えた。近年の伸の誕生日とは大体、平日ならこうして奮発したディナーに行く程度だ。休日・祭日なら他の仲間達が集まり、朝から遊びに出掛ける年もあるが、今年は前者なので、その後の予定など本来ある筈もない。まあ恐らく三十周年記念の、特別な用意が無かったと征士は言いたいのだろうが、
「ぐだぐだ言っていると時間が勿体無いぞ?、不運なことに明日も明後日も平日だ」
 そう急かされると、確かに当面の間落ち着いて過ごせる間が無い、とも伸は思う。週末の土曜にはナスティが、節目の年だから今年はみんな集まりましょう、と、柳生邸への召集をかけている。それまでの数日間はふたりだけの思い出を、と考えても不自然ではない。
 言われると、そう、少し勿体無いかも知れない。
 単に何処かへ出掛ける時間なら、この先まだ幾らでも作れるけれど、今年の三月十四日はあと三時間も無く終わってしまう。二十代から三十代になるなんて大した事じゃない、と考えつつ、何ら記憶に残らぬ日にしてしまうのも淋しい。
 それなら僕はどうしようか?。そこまで考えると伸は、小さくパンと膝を打ち立ち上がった。
「よしっ、じゃ行こう!」
「何処かご希望は?」
「う〜ん…、じゃ江ノ島!!」
「了解」
 やや押し切られた風でもあるが、伸もそれなりの納得を得た上、夜の赤坂から江ノ島へ向かうこととなった。自ら場所を指定しておきながら、考えてみるとこんな時間に、所謂下り電車で海へ出掛けたことはない。案外面白い夜の大移動になるかも、と、店を出る頃の彼は、街の光を足取り軽く歩き出していた。



 ふたりが食事していたレストランは、赤坂の正に中心と言える立地であった為、丸ノ内線、半蔵門線、銀座線、有楽町線、千代田線の五駅が使えたが、その中から最も早く到着しそうなのは、銀座線で新橋に出て、東海道線に乗り換え大船へ行くルートだ。大船から湘南モノレールに乗れば、たった二回の乗り換えで江ノ島に到着する。
 近場の海に幾度も通っている伸が、その最短ルートを思い出せない筈も無い。迷わず銀座線の赤坂見附に向かいながら、ふと、彼はまた別の記憶を思い出していた。そう言えば湘南モノレールは、昭和四十六年に全線開通したと何処かで聞いた。今年三十二才だから、僕らと同世代の電車なんだなぁと。
 それもまた、附随するひとつの思い出になるだろうか。地下鉄のホームに電車が入って来たのは、午後九時半になろうと言う時だった。ほぼ帰宅者ばかりの人混みに紛れ、伸は俄な愉悦を感じ始めていた。関連する事柄を皆拾い上げて行くと、世の中はパズルのように面白い。同じ時間を過ごして来た仲間が、そこかしこに存在する事実は面白いと思う。
 決して自分一人が取り残される訳でも、全てに追い越されて行く訳でもない。三十才の世界は確とここに存在しているのだと。
 地下鉄のドアが閉まり、唸りながら車両が動き出す頃には、沸き立つ気持のまま伸の口調は軽やかになっていた。
「って、勢いで電車乗っちゃったけど、今から江ノ島に行ったら帰って来れないよ?」
「朝イチで戻ればいい。始発に乗れば七時には家に着くだろう」
 都内と湘南方面は、大体一時間少々で行き来ができる。征士の言うプランは無論可能だが、まだ夜中は寒さが堪える三月だ。海辺でキャンプファイヤーと言う訳にも行かない。始発の出る午前五時頃まで、さて何処で何をして過ごせばいいだろう?。
 もし深夜営業の飲食店が開いていたとしても、
「いいけどさぁ、明日の朝、多分すっごい寝不足じゃない?」
 と、伸は主に征士の心配をした。何しろ仕事大好き人間となった彼なので、その妨げになっては申し訳ないと思う。例え一日でも、予め調整していた訳ではなさそうなので。
 ところが本人は全く寛大な言葉で返す。
「どうしようもなかったら欠勤する」
「いやいやいや、それはないな、君に限って」
 ただ、その程度の心づもりであることは、伸にも受け取れたようだった。何故、突然降って湧いた夜中の小旅行に、そんな決断をするのか伸には判らない。すると、
「そうかな?」
 ドア傍に並んで立つ征士が、凡そ公共の場では見せない距離に、悪戯めいた顔を近付けて言った。直後にコツンと額の骨の当たる微かな音がした。決して満員電車ではない。乗車率は七十パーセント程度で寧ろ空いて見える車内、他人にこんな戯れを見せている心理が判らない。
「…君、何か変だよ?」
「変?、そう、変かも知れないな?」
 高校生くらいの部活の集団が、稀にべったり寄り添い群れている光景を見るが、いい大人の男がじゃれている絵など、日常にそうそう見るものではないだろう。なので伸は声に出し、「変だ」と相手に尋ねるしかなった。実際征士の考えは判らなかったが、周囲の人の思考に迷惑しないようにと思う。仕事にお疲れのサラリーマン方には、余計な詮索や想像をしてほしくないものだ。
 しかし伸のそんなさり気ない配慮に、気付いているのかいないのか、征士の次の行動に伸は思わず喉を詰めた。
「!?」
 自宅でも滅多に無いことだったが、征士は彼の右耳を噛んでいた。
『何すんだよっ!?、電車内は公共の場だ!』
『誰も見ていない』
『よくそんな嘘がっ、ほぼ帰宅ラッシュじゃないか!』
『訂正。誰も気にしてはいない』
 耳を押さえながら慌てる伸と、平然と素知らぬ様子の征士。小声で問答するふたりを確かに、他の乗客は気にしていないか、或いは見て見ぬ振りのようだ。まあこの際他人の存在はあまり関係が無い。伸に取って重要なのは、「出掛けよう」と言った時点からの征士の謎の行動である。
 レストランで待ち合わせ、食事をしている間は普段通りの彼だった、と思う。勿論特別な日として、朝から多少何かを意識していただろうが、これと言って隠し事や企みがある風ではなかった。そこは前の言葉通り、「考えていなかった」で間違いなさそうだが。
 但し今は違う。ふざけた遣り取りをしていながら、伸に向けられている征士の視線は、密かな愉しみを眺めるようでありながら、何処か憐憫の趣を感じさせた。しばしば、彼のそんな眼差しは見たことがあった。例えは悪いが、日本料理店の生簀に泳ぐ、魚の水中動作を面白く眺めながら、注文が入れば三枚に下ろされるんだな、と、先を見て哀れみを覚えるようなことだ。
 どうも判らない。今日の僕は何処かしら哀れだろうかと、伸は相手の様子を受け、自ら身を寄せるとその肩口で呟いた。
「ねえ、何なの?、実は何か計画してたの?」
 しかし征士の答は変わらなかった。
「だから逆だと言うのに。何も予定が無いから、何が出るか私にも判らない」
「えー…、怖いなぁ…」
 本人にも判らぬ行動とは確かに怖い、かも知れない。相手の性質を大体理解しているとしても、今起こりそうな事に心の準備をする余裕が無い。思わぬ言動から恥をかく目に遭うことを、プライドの高い伸は常に恐れている所がある。けれど本来、予想通りに生活が過ぎて行くのは、おかしな事ではないだろうか。
「昔はこんなこともよくあった」
 征士が言うと、その時は鈍い反応で、
「そうだっけ?」
 と伸は返した。昔とはさていつ頃の話だろう。僕らが出会った頃は、まだ誰もが実家に暮らしていて、家なり学校なりの制約の内に生きていた。今でさえ収入が無ければ生活が成り立たない。僕も君も否応無しに就労時間を削り取られ、それに合せて生活するしかない。ある社会に属する限り、社会の持つ規則性に縛られるのは当然のことだ。
 否、でも。確かに僕らは、酷く不確定な時を過ごした時期があったと、伸もそこで思い出した。
「うん、そうだね…。大学の頃は自由だったね、いつ何処に行くなんてろくに決めなかった。長期の旅行以外は」
 無論大学の講議や試験勉強など、時間的制約が全く無かった訳ではない。だがそれ以外の時間は、常に傍に居ようと思えばできる状態だった。征士が東京の大学に進学した時点から、同じ屋根の下に暮らすようになったので。
 そう、その三年間はどれ程自由で楽しかっただろう。保護者の手を離れたばかりの、中途半端な大人の生活は面白い事の連続だった。日々新たな出来事に出会う、日々知らなかった相手の一面を知る、新鮮な喜びをどれ程得られていただろう。いつの間にかそんなユートピアは消えてしまった。
「いつの間にか社会のサイクルに馴染んでしまったな」
「そうだね。…確かに昔は良かったと思うことはあるよ」
 社会人のひとりと認められることに、当時は希望しか抱かなかった。引き換えに何かを失うとは思わなかった。いつまでも子供で居たいなどとは、意外に思わなかった健康な僕ら…
 その結果、今の自分は幸福になっただろうか。理想とした生き方ができているだろうか。そう考えると伸には今ひとつ、過去の選択の良し悪しを判断できなかった。自由とは、大概の大人が犠牲にせざるを得ない要素であり、行動だけでなく思考も制約されるものだから、知らず知らず望まぬ変化をして来た、と言えるのは確かだった。
 そうか、だから僕は哀れなんだ。知らぬ間に不自由な大人が身に付き、不確定な未来を楽しむ気持を忘れてしまった。
 と、伸が穏やかに現状を理解した時、征士はそれをいきなり覆して来た。
「だがただの思い込みかも知れない」
「思い込み…?。どう言うこと?」
 心地良く揺られていた地下鉄が、丁度乗り換えの新橋に着く頃、伸ははたと目を開いて相手の顔を見た。先程から特に変化の無い征士の様子は、奇妙を通り越して些か無気味でもあった。後に何ら予定は無くとも、彼には某か確実な結果が見えているのではないか。だから彼自身は全く哀れに見えない。同じ立場から同じ世界を見ているのに、と、伸は更に不思議を思った。
 身の不自由は果たして思い込みだろうか?。
 仕事を愛する征士なら、確かに社会に拘束されているとは感じないだろう。
 その彼は単純に、どうすれば伸が心から感激してくれるか、考えていただけなのだが。



 南へと下り行く東海道線は、この時間でも平日は多数の乗客が見られるが、横浜を過ぎると途端に閑散とする。大船は横浜からごく近い駅だが、電車は海に並行して更に西へと、神奈川から静岡へ、中部へ、近畿へと繋がるレールを走り続ける。
 正に旅だ。実際の乗車時間は短かったとしても、東海道と言う名称には、そのイメージが強く定着していると思う。ワープではないが、日常と非日常を切り離す為の飛躍、英語の「トリップ」の意味に通ずる何かが、東海道線にはあるような気がする。
 そこから更に海へと向かうモノレール。世界は繋がっているのだけれど、旅は別の世界への入口でもある。何故人類は旅をしたがったのか、その理由は流れる車窓にいつも見えている。見知らぬ世界には見知らぬ幸福が、きっと存在するに違いないと、特に根拠も無く感じる心が存在するからだ。




 湘南江ノ島駅に到着したのは、午後十時四十五分。偶然切りの良い時間だった。
 もし、駅を出た瞬間から江ノ島を臨みたければ、小田急江ノ島線の片瀬江ノ島駅に行くべきだった。伸は過去に三度そのルートを使っており、有名な江ノ電の江ノ島駅にも幾度も降りている。実はモノレールを使うことは最も少なかった。何故なら海から最も遠い駅だからだ。
 けれどこの度は、早く着くことを優先しての珍しいアクセスだった。時刻が時刻なので、下手な乗り換えをする間、夜の海に触れる時間をロスしてしまうだろう。駅から海岸までも、歩くにはかなり距離がある為、駅前でタクシーを拾って行くことになる。
 こんな夜中に海岸へ向かうと言う、宿の予約も無い、如何にも他所者らしきふたりに、ドライバーの男性はやや変な顔をした。まあ犯罪めいた空気や、心中でもしそうな雰囲気には見えなかった筈だが、何らかの訳ありだろうと渋々了解してくれた。もう海の色など、闇に紛れ区別の付かない海岸へ向けて、ふたりの乗る車は走り出した。
 多少申し訳なくも感じる。理由はあって無きが如しだ。

 そうして彼等は、突如捻り出した目的地である、江ノ島海岸に到着した。征士がチラと見る、腕時計の針は十一時十分を過ぎていた。
 一大観光地の海岸とは言え、夜の満ち潮で砂浜はほぼ海水に沈み、僅かに歩ける程度の幅を残して、足元にすぐ暗い波が迫っている。江ノ島の細い道沿いの外灯、ヨットハーバーなどの灯りが視界にはあるが、海はただ墨のような液体を揺るがすばかりだ。
「流石に真っ暗だな」
 と、車を降りてすぐ征士は言ったが、例えこんな景色でも伸には有難いようだった。
「うーん、いい!、海の空気だ!」
 彼にはもしかしたら、常に明るい南洋の海でも見えるのだろうか。確かに水平線を遥かに通り越した、地球の裏側は昼間の光の世界だろうが。などと征士が考えていると、伸はそれとは違う彼なりの感覚を口にしていた。
「夜の海にはあらゆる物が溶けてる、死んだ魂も陽の光さえも。僕もいずれその一部になるんだ。見えなくても匂いや音を感じると、その呼び声に引き込まれそうになる」
 以前から、大体知っていたことではあるが、伸の内にはあからさまな明暗がある。光の世界に属する、豊かで健全な南の島のイメージも海だが、陽の射さぬ深海の、黒く不毛な未開の底もまた海である。今の彼は後者に触れているようだと征士は知った。三月のまだ冷たい水底に。
「寒くないか?」
「うん、ちょっと寒い。まだ遊泳シーズンじゃないしね」
「寒いと言いつつ元気だな。そういう所は変わらない」
 海からの風が露な皮膚を傷む。髪や上着の襟が煩く頬に纏わり着いて来る。けれど伸はそんな感覚をも楽しんでいるようで、
「あはは、それは変わりようがない、海は僕の命の源だから」
 確かに本人の言葉通り生き生きとしていた。まあそれなら、無理矢理遠出した甲斐があると言うものだ。彼は更に饒舌に続けた。
「いや全ての命の源だね。そう言えば昔、柳生邸に居た頃さ、当麻にそんな理科の実験の話を聞いたね。海水に溶けた物質が雷に電気分解されて、アミノ酸が合成されるんだって。海はそれだけ多くの物を抱えられる、キャパシティのある場所なんだよ」
 それは伸の自己紹介のようにも、掲げる理想のようにも聞こえたが、どちらにせよ彼は海に触れる度、何らかの基本に戻る意識を持つのだろうと征士は感じた。何故ならその話は、彼等がまだとても純粋で幼かった頃の記憶だ。目先の悩みしか見えなかったふたりに、当麻は原始の地球の講議をしてくれた。
 そうして鎧戦士達は、それぞれが掛け替えの無い存在と理解して来たが、果たして、鎧と言う物が無くなった今はどうなったのか?、と、征士は彼なりの想像で話し掛ける。
「地球が誕生したのは、四十六億年前だと聞いた」
「うん?」
 腕時計を見ながら、気の遠くなる時間を征士は意識している、のだろうか。次に彼が続けた話には、彼らしい適切なユーモアがあった。
「その内のたった三十年だ、伸が海と共に生きて来たのは」
「何が言いたいの?」
「海から見れば、まだ産まれたばかりの子供のようだと」
「あ、あっははは…!」
 その比較はさすがに伸も笑うしかない。仲間内で常に一足先に年を取ることに、毎度複雑な思いをして来た彼だが、端から見れば塵に等しい差だとは頷ける。
「まあそうなんだけどさ!。何だよ、早く言ってよ。大した意味も無い講釈を垂れて恥ずかしいだろ」
 そして命に含まれる全ての感情を、受け止めてくれるだろう海に向け、彼は迷惑にならない程度の大声で叫んだ。
「ああ!、僕はそうだよ、大した事は何も知らない子供同然だよ!。海は深く広く偉大だなぁ!」
 午後十一時三十六分頃。もうすぐ誕生日が過ぎてしまう夜となり、彼は漸く正直な言葉を口にできたのではないか。征士の例えのように、たった三十年では心は思うようにならぬものだ。理想に近付けない破れかぶれな気持を彼は、海になら素直に話せるのかも知れない。人の社会の中では、落ち着いた大人のひとりに数えられるが、自己の意識はとてもそんなものではないと。
 あまりに未熟で、不安定で、嘆かわしく感じる三十回目の誕生日。
 その時伸の耳に突然、淡々とカウントダウンを始める声が聞こえた。
「5、4、3…」
「ん?」
 振り返ると、その影は既に目の前に在り、蝙蝠の翼が覆い包むように身の自由を奪った。
「…!?」
 十一時三十七分。何が起こったかは伸の唇に触れた人が、数秒後に離れた時初めて知ることとなる。
「やあ、生後一日目の伸君、おめでとう」
 何食わぬ顔で征士は言うが、当然伸は眉間に皺を寄せた。
「こういうのはいらないって言わなかったっけ!?」
 話したのはほんの数時間前のこと、健忘症でもなければ忘れる筈も無い。けれど怒って見せる伸に対し、征士はその時のように、声にせず再び笑い出した。
「・・・・・・・・」
 だから、彼が思い付いたのはこれだと伸にも判った。十一時三十七分は過去にも幾度か、カウントダウンをしたことのある伸の出生時間だ。チラチラ時計を見ていたのはその為だったのかと。
「わざとだ!、わざとやってるんだな?。何で!」
 何故僕の意思に逆らうんだ?、と、通常あり得ないような贈り物を貰った、伸には訳の判らない混沌が訪れる。それは沸々と沸き上がり、ぐるぐると螺旋を描き、ふわふわ浮いたような奇妙な感覚だ。それに任せ彼の腕は相手の服に掴み掛かった。けれど何とも形容し難いその感覚を、征士は見抜いているようでもあった。
「だから思い込みだと言っただろう」
「何がっ」
 じっとして居られない、暴れる体から繰り出された左手が偶然、征士の右耳の辺りを打った。
「いてっ」
 その声に、まさか自分が暴力を奮うとは思わなかった、伸は慌てて身動きを止める。はたと、何をしているのか我に返り、先程から強く主張する鼓動がより早くなった。抱き止めている征士には、彼のそんな状況が逐一伝わっているだろう。焦り、混乱し、体には冷や汗が吹き出し、呆然とすることは誰でも稀に経験することだが。
 実は、それで正解だった。征士は自ら引き出した伸の、有りの侭の感情表現を見て満足だったのだ。彼はただ、不自由で可哀想な伸の心を見て言った。
「三十なんて年を気にし過ぎている、伸は何も変わっていないと今よく判った」
 すると今はその通りだと、何故だか言葉が素直に入って来た。心底無関心であるなら氷のように冷えているだろう。思わず手を挙げてしまう程に、己の心は逸っていると伸も自ら認めた。そして征士も既に知っている、必死で何処かに固定しようとしながら、常に不定形で捉え所の無い彼のことを。
「…ごめん…」
 と謝りながら、まだ無闇に騒いでいる心を伸は、確かにこれが自分だと認識する。その喧噪が何処から生まれて来るかと言えば、征士は的確に答えることができた。
「本当は嬉しいのだろう?」

 そうだよ、僕は子供のように何でも嬉しい。皆がケーキを囲んでお祝してくれるのも、プレゼントを持って集まってくれるのも、あらゆるサプライズイベントも、僕は心の何処かで爆発的に喜んでいる。記念日に特別な事をして過ごすのも好き、大事な人に贈り物を選ぶのも好き。お祝いの食事をあれこれ考えるのも楽しい、年末のカウントダウンの人混みに紛れ、密かに触れ合うのも楽しくて仕方がない。
 写真を撮るのも好きだ。ふたりの思い出の品を、いつもこっそり持ち歩いていたりする。俗な趣味だと感じつつ、店頭に飾られたペアアクセサリー等を見る度、目に見える印を欲しがってしまう。望む気持は無いのに結婚式が羨ましい。誰にも認められる絆があることを、誰かに知ってもらいたくて仕方がない時がある。
 他人の評価や社会的地位など気にせず、自由に生きたいと常に何処かで思っている。生活の為にあくせく働きたくなんかない。いつもいつも傍にくっ付いて居たい。何も考えずそうできる時間がほしい。幾度も恋しさや愛しさを確かめたい。朝から晩まで好きなだけ、自堕落に肌を重ねる夢を見ている。
 日々身の回りに起こる、恋愛の愉しみの全てが嬉しく楽しくて心が踊る。最高の快楽を貪欲に取り込もうといつも探している。君が与えてくれる率直な愛情を、もっと素直に受け、喜びはしゃいでいられる人生を送りたい。子供の頃に感じた、未熟な好意の無節操なときめきを、いつまでも手放さず守って居たい。
 最も正直な僕の気持だ。
 でもこれが、三十才にもなる大人の意識だなんて、全く馬鹿みたいじゃないか。

 結局、本心は言葉にできないけれど、伸は征士の腕を取り、身を預けるように凭れて言った。
「明日は休もう。ね」
 余計な言葉を連ねなくとも既に知っている。夜の闇に隠された彼の表情は、征士には正しく思い描けている筈だ。何故なら、彼は最も伸の本質を見詰めて来たのだから。



 ピ

 ピピ、ピピピピピピピピ…
「ひっ!?」
 聞き慣れないアラーム音に思わず身を縮めた。開かれた目にもまた、見慣れぬ部屋の壁や天井が広がっている。けれどすぐ、視界の横から見慣れた腕が伸びて来て、そのアラーム音を止めた。
「済まん、今日どうしても大事な仕事を、思い出した」
 と征士は言った。
 普段の規則的な生活サイクルには無い、淫靡な鈍さとけだるさの朝。前髪を掻き揚げながら彼は、どうしても戻らねばならぬ世界へ移動しようとしていた。常に、いつも、一見機械的に見える彼だが、その美しく抑制された人格の中に、誰より根深い欲を隠し持つと伸は知っている。
 無論、命は欲が無ければ輝けない。だから彼はそれでいいけれど、恐らく今日が休日なら良かったと、残心に惹かれる意識は同じだと思う。互いに心の形は違うと判るが、重なる感情を信じられるからこそ、伸は大人しく状況に従いもする。
 ベッドサイドに浮き出した、液晶の文字は午前七時六分だった。そしてふと、
「いいけど、え、こんな時間じゃ」
 伸はその異常に気付いた。確か昨日は、始発で戻れば朝七時には自宅に着く、と話していた筈だ。今居る場所が判らない程悪酔いはしていない。ここはまだ江ノ島だと知り、はて、どうするつもりなのか尋ねようとすると、パウダールームから先に征士が簡潔に答えた。
「直行する」
「…え〜〜〜…」
 伸の声は微かだったが、大袈裟なリアクションより真実味があった。何故ならまず伸が考えたのは、日常的に身なりには気を使う征士が、本当にこのまま出社するつもりなのかと。余程の事情が無い限り考えられない事で、素直に事態を驚嘆している。
 けれど、考えようによっては余程の事情だったかも知れない。丸一年解けなかったわだかまりが解消され、一生に一度の夜を迎えた伸は、本来の寄る辺なく漂う幸福感を取り戻した。三十年目にして、透明に澄み切った体にはただ恋が残った。一種の感動があった。そんな経過を慌ただしく駆け抜けてまうのは淋しかった。だから征士の優先順位を狂わせたのだろう。
 影響し合うのが生命だとしても、罪なことだと伸は溜め息する。
 そしてそう思うなら、自ら贖いに動かなくてはと体を起こした。まだ少し頭はぼんやりしているが、毎朝見ている光景を思い返すのは簡単だった。彼はすぐにドア横のクローゼットに目を遣り、適当に、ボタンも掛けぬまま服を羽織ると、軽やかにベッドを飛び出した。
 
 シャワーの音が途絶え、部屋に出て来た征士に、
「何とかアイロンだけ。会社で変な顔されんじゃない?」
 それなりに綺麗に仕上がったシャツを渡しながら、伸はやや困ったような顔を見せた。結婚している奥様ではないのだから、征士の印象が彼の印象に直結することもない。特段責任を感じることはないのに、と、征士は彼の細やかな優しさをほんの少し悲しむ。
 ほんの少し悲しんで、後腐れなく今日を始めなければ。征士は受け取ったシャツに腕を通しながら、新たな日に相応しい言葉を考えていた。彼の考えることは大体に於いて、前進的なものだと誰もが知るところだが、今朝もまた、彼は掟破りな文言と共に前を向く。
「たまには後朝の雰囲気を漂わせてもいいだろう、世間的にはただの独身男なのだ」
「ふ…、クッククク…、それもそうだね…」
 そう相手が笑ってくれれば幸いだった。

 思えば大学時代はしばしばそんな事もあった。前日と全く同じ格好をしていると、昨日何処かに泊まって来た?、と必ず誰かに問い掛けられる。その度笑ってはぐらかすことが幾度かあった。だがそんな時も、秘密が漏れるのを恐れつつ楽しかった。否、微妙に秘密を感じさせるのが楽しいのかも知れない。恐らく今もそんな気持だった。
 確かに何も変わっていない。
 親の世代を思うと、こんな三十才は情けないと恥じ入りながら、やっぱり伸は嬉しかったのだ。今年も楽しい誕生日が巡って来たことを。









コメント)そこまで長くはないのに、えらい時間がかかってしまった。近年少し軽くなったとは言え、やはり花粉症(の薬)の影響は強いであります(× ×)
んーでも、特別な誕生日らしい話にはなったしまあ満足。ただ思いっきり性描写を飛ばしてすいませんw。適当に想像しといて下さい。あと、憶えてる方もいるかも知れないけど、当麻の語った理科の実験の話は「光合成の夏」のやつですわ。



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