日比谷公園
鳴 神 月
The June



 都心のビル群の背景には、昨日も今日も薄墨色の雲が切れ切れに掛かっている。明るいとも暗いとも言えないぼんやりとした景色。梅雨入り間近の空の配色は、個人の気分とは関係なく曖昧に澱んでいる。
 日本の六月は残念ながら鬱陶しい季節だ。
 そして来年の今頃は、それこそ毎朝そんな様子を見ながら、忙しなく通勤時間帯の町を歩いていることだろう、と征士は思った。
 その日彼は、霞ヶ関にある某所に挨拶に出向いていた。
 霞ヶ関と言えば、内閣府を始め省庁、官庁が集まる日本の機能的中心地だが、今の征士に取ってはそれ以上に重要な場所となった。何故ならそこに、来年から新卒で勤めることになった、某法律関係の事務所が存在するからだ。
 因みに法律と聞くと、弁護士等の職業が真っ先に思い付くものだが、彼の大学の専攻は法科ではない。法律と一口に言っても様々な種類がある。この早い時期、バブルが弾けた後の深刻な就職難の中にあって、彼に内定をくれたのは特許関連の事務所だった。
 あらゆる生産業、金融業等が大打撃を被り、その傷がまだ生々しい日本に於いて、権利商売と言うのは意外に開拓の余地がある業種だった。まあ大学入学時に、そこまで先を見据えて専攻を決めた訳ではないが、思いの外未来を見込める企業に採用されたのは、全く幸運だったと言えよう。
 今は何より嬉しい誕生日祝いだった。
 征士は昨日内定の連絡を貰い、今日はその企業に必要な書類を届けにやって来た。そして大まかに、一通り業務内容などの説明を受けると、もう九月から研修を兼ねて出社するよう伝えられた。
 大学では既に必要な単位は修得している、出社までの三ヶ月ほどの間は、業務に有益そうな知識でも仕入れておこうと、征士は洋々とした気分で帰路に着いていた。
 尚、霞ヶ関とは書いたが、特許法律事務所の正確な所在地は内幸町である。ビルの前の細い路地を出ると、目の前には日比谷公園が広がっていて、その一角にある日比谷公会堂からは、何かのコンサートでもあるのか、リハーサルの楽器の音が周囲に漏れ聞こえていた。
 勿論、日比谷公園には知られた野外音楽堂もある。有楽町に近い広場の方は、近場に勤める人々の憩いの場として知られているが、内幸町駅に近い側はそれとは少し趣が違うようだ。毎日毎日見る風景にしても、日々違った音が聞こえ、違った人のざわめきがあるのは飽きないかも知れない。そんな意味でもなかなか良い立地だ、と、征士は公園を横目に見ながら駅へ向かっていた。
 音。
 そう言えば、と征士はその時、一昨日の晩に当麻から電話があったことを思い出した。彼はその時風呂場に居て伸が出たが、後で連絡すると代弁してもらったままになっていた。昨日は内定の連絡を受け、慌ただしく大学や写真屋を回っていたからだ。
 ふと公園の中の電話ボックスに目が止まる。思うが早いか、征士は足早にそこへ向かうと、すぐ受話器を取って慣れた番号を押し始めた。
 暫く、呼び出し音が繰り返されていた。腕時計の針は午後三時を回っていたが、もしかしたらこの時間は家に居ないかも知れない。同じ四回生と言えども、大学生はそれぞれ違った事情を抱えているものだ。また夜になったらかけ直そうか、と考えていると、
『…はい、羽柴ですが』
 この時間にしては寝惚けたような声をして、彼は電話に出ていた。

『何、もう内定貰ってんのか?』
 電話の冒頭に、ちょっとした挨拶を交え、征士は昨日から今日の出来事を話した。無論連絡が遅くなった理由を説明する為に。
「就職氷河期だと言うから、早めに就活を始めたがラッキーだった」
 だがそれが無闇な自慢話に聞こえたのか、或いは電話口から漂う、人の気も知らないお気楽そうな雰囲気が伝わったのか、当麻は多少不機嫌そうに返していた。
『いい御身分だなぁ…。そう言やおまえ、大学も高校も推薦じゃなかったか?』
「それは剣道のお陰だが」
 当麻の妙な態度を感じながらも、その理由は思い付けないでいる征士。
 そう実は、当麻の指摘通り征士はまともに受験をしたことがない。小学校だけは唯一入試らしいものがあったが、学力の良し悪しよりも、総合的な性質を見られるのが小学校入試である。家の躾が厳しかった彼には、「受験した」と意識する程の苦労はなかった。
 その後エスカレーターで中学へ、推薦で高校へ、更に推薦で大学へと来てしまった。そしてこの度の就職先も、相談した母校の教授の推薦先だった。勿論採用するかしないかは企業側が決めることだが、こうして振り返ってみると、征士は実に恵まれた道を歩いて来たようだ。
 ただ今回については、
「まあ専門職だからだろう、おまえだってその筈だが?」
 と考えていることを伝えた。確かに昨年、総合職で就職しようとしていた伸は、説明会等に幾度も足を運び、大変な状態だったのを征士は知っている。それに比べ専門職はまだ余裕があるだろう、と彼は思っていたのだが、当麻の返答は思わぬ愚痴だった。
『馬鹿言うな、教授だの研究者なんて掃いて捨てるほど居るんだ。俺は今もの凄く困ってるぞ、大学院に逃げても、オーバードクターで就職できる可能性は薄い、大学に残っても下手すりゃ四十までサラリーマン以下の薄給だ。堪らんよ』
 平和な世の中で高学歴者が増えたことの弊害。学問とは頭の冴えた人間には、何より面白いツールであり愉しみともなる。生産性を無視してそれにのめり込む者も、豊かな今の時代なら許されるだろう。それにより、大学が抱える人員は年々過剰気味になっている現状だ。
 予想外の話を聞いて、征士は他に何も思い付かず呟く。
「厳しいな」
『厳しいなんてもんじゃない、ただでさえ数学じゃ飯が食えないってのに』
 当麻は更に泣き言とも取れる文句を吐き捨てていた。
 判らないものだ。仲間達の中では誰より、諸方向への知識の広さを顕わしていた彼が、これから世に出ようと言う段になって頭を抱えている。逆に去年、三年制の専門学校を卒業した秀などは、既に忙しく働いていると言うのに。
「当麻ほどの頭脳を持ってしても、世の中は甘くないか」
 と半ば冗談のように、相手を宥めるつもりで征士は返したが、それが却って癇に触ったのか、当麻には思い掛けない言葉を聞かされていた。
『そうだ、世の中そんなに甘くない。苦労知らずのおぼっちゃまの征士には分からないだろ』
 まさか。
 江戸時代なら大名家のご威光も有利に働いただろうが、今は何ら有益と思える背景はない。親は企業家でも政治家でもないし、コネらしいものは何も持たない。地元の企業なら判らないが、八つ当たりもいいところだと征士は思う。
「失礼な、そんな優遇を受けた憶えはないぞ」
『いいや、おまえには何かと周囲が都合良く回ってる気がするよ、俺は』
「おい…」
 それでは、私自身は何もしていないと言うのか?。
 否、当麻も本気でそうは思っていないだろう。だが不思議とそう見える、何故かそんな気がすると言うだけでも、イメージ的に充分問題のように感じた。相手をよく知る仲間内でそう言われるなら、赤の他人には増々そう映っているかも知れない。これと言った苦労もせず、ただ「恵まれた人」と見られているとしたら、心外極まりない。
 勿論、鎧戦士としての活動は、一般社会では評価に繋がらないけれど。
 考える内に征士も、この話題には疑問を感じて来たので、
「それで?、用は何だ?、用件を言え」
 と、本来の電話の目的に話を切り替えたが、
『ああ…、…何だったかな。腹立ててたら忘れたな』
 結局大した用でもなかったようだ。
 わざわざ電話を掛けさせておいて、自分への不満をぶつけられるのは割に合わない。まして自分が悪いことでもない。何だか腑に落ちない気持で、征士は電話を切ることとなった。

「降って来たか…」
 その時、電話ボックスのガラスにポツリポツリと当っていた雨が、急に勢いを増して降り始めた。何とタイミングの悪いこと、天気予報では降らないと言っていたので、征士は傘を持っていなかった。
『何でも都合良く回って来ると?。そんな筈はない』
 こんなことなら駅に着いてから電話すれば良かった、と思いながら、雨の勢いが弱まるのを暫し待つことになった。
 しかし、ある程度待つ内に止んでくれればいいが、一時間も待つようなら強行するしかなかった。今日はこれからみどりの窓口で切符の手配をし、実家に連絡を取るなどの用を済ませた後、夜は高級料亭での夕食の待ち合わせをしている。
 それ以前に、ここで電話を掛けたい人が現れたら、嫌でも出て行くしかなくなるだろう。
「どうするかな…」
 残念ながら、こんな時に飛び込める喫茶店のような店も、この辺りにはごく僅かしかない。まだ土地の知識を持たない征士には、どうすることもできず留まるしかなかった。



 ところで、その日は六月九日金曜日だった。
 壁の良く見える場所、部長の席の真正面に掛けられたデジタル時計が、五時を表示すると同時にチャイムが鳴った。無論終業のチャイムだ。
 だからと言って学校のように、一斉に教科書を畳んだり、途端に席を立つ者が居る訳ではない。工場なら事情は違うだろうが、ホワイトカラーの職場では大概、誰もが切りの良い所まで仕事を片付けようと、ラストスパートをかける合図と言ったところ。
 だがその日、伸はチャイムの音を聞くやいなや、パタパタと機械的に広げていた書類を片付け始めた。この企業に正式に入社して二ヶ月少々、これまでの彼の勤務態度は大変評価の良いもので、所属する総務課の他の社員からも、快く受け入れられていた。きちんと挨拶ができ、誰にも愛想が良く、仕事にも真面目に打ち込んでいる。早く手順を覚える為に、自主的に居残りをする日もしばしばあった。
 しかし今日は、入社以来初めて個人的な理由で、素早く仕事を切り上げて帰る。理由は日付から想像できる通りのことだった。
 すると、いつもの彼らしからぬ様子を見て、
「あら、毛利君、随分忙しく片付けてるね?」
 隣の席の女子社員が声を掛けた。
 尚、総務などと言う部所は一般に女子社員が多数を占める。この一部上場企業でも例に漏れず、伸の周囲は幾つか年上の、或いはかなり年期の入った女子社員の声で溢れていた。まあ世の男の中には、そうした環境を羨ましく思う者も居るだろうが、実際に少数民族と化した男性の立場は限りなく微妙だ。
 殊に伸のような新入社員には。
「あ、今日はちょっと予定があるので定時に切り上げです。すみません」
 と隣の席に向けて、彼は当たり障りなく返したつもりだったが、比較的若い隣の女性はキラリと目を光らせて、
「何、何?、デートとか」
 テレビのワイドショーよろしく、プライベートに対する好奇心満々に返して来た。女性達は全般的に人当たりが優しく、ほぼ皆小奇麗にしているのは良いことだが、詮索好きな者が多く居る点だけは戴けなかった。
「いやちょっと買物に」
「んん?、もしかして彼女にプレゼント?」
「まあそんなとこです」
 別の理由を考えるのも面倒に感じる時、「その通り」だと相手の望むように返すのは、話を早く終わらせるひとつのセオリーだが。
 それがまさか、こんな事態になるとは伸には予想がつかなかった。
「じゃあ、一緒に行かない?、私達も帰り買物に行く予定だし」
『ええ?っ!?』
 隣の席の女子社員は、楽しそうに言いながら向かいの席に座る同僚を示す。するとそれに気付いて、もう少し年上の彼女も、
「あー!、丁度いいんじゃない?。女性の好みは女性に聞くのが一番ですよ?」
 と話を合わせていた。と言うより一緒になって、新入社員を弄って遊んでいるのだ。
「私達が相談に乗ってあげましょう!、何でも聞いて下さい?」
『そんなもんいらないっ、何でそんな無神経なんだよっ!?』
 隣から身を乗り出すようにして、押し付けがましくにっこり笑った先輩に対し、心の中では暴言を吐きつつも、何も言い返せない伸だった。否、一年もすれば普通に断れるようになるだろう。だが今はまだ、職場の人間関係に慣れ切っていない状態だ。先輩の提案を断り難いのは仕方がなかった。
「それでそれで?、誕生日のプレゼントか何か?」
 更に隣の女性は、なかなか勘の良い所を見せながら話し続けていた。
「まあ、そうですけど…」
『まずいよ?、困るよ?、何考えてんだよ?』
 するとそんな時、
「困ってるんじゃないの?、妙齢のお姉さん方にそう押し込まれちゃ」
 ワークデスクが並ぶ列の端、ひとり立派な机に向かいながら、今ひとつ影の薄い総務部長が助け船を出していた。因みに総勢十四人のこの部所に於いて、男性は部長と、もうひとり四十近い既婚者が居るだけだった。そんな中での伸の立場を気遣ってやらないと、とは思っているのだろうが、
「妙齢って何ですか、部長!」
「ああ、失敬…」
「セクハラですよ??」
 仕事自体は抜きにして、総務課の男性陣の権力は頗る弱い。結局本来の上司の苦言も、言葉遣いに噛み付かれて何にもならなかった。否、それでも言葉を選んだ方だと思うが…。
 すると、少しばかり空気が変わったのを察して、
「あ、もしかして何かマズい事情でもある?」
 と、隣の女子社員は今頃になって伸に尋ねた。当然そんな気を遣うつもりがあるなら、最初から人の買物に着いて来ようなどしない筈だ。恐らく十中八九断らない、或いは本当に「マズい事情」があるなら、是非ともそれを聞きたいと思っているに決まってる。と、手に取るように感じられる現在の状況。
 無性に悔しい。と伸は思う。
 けれどやっぱり断れないのだった。
「いや別に…」
 些か力なく笑って伸はそう返すばかりだった。さて、彼の大事な買物の結果はどうなるだろうか。
『適当な相槌打つんじゃなかったな…』
 もうしょうがない、予定とは違うが酒類かコーヒーなどの嗜好品、最悪でもお菓子か何かで納得してもらおうと、伸は頭をフル回転させながら、楽し気に帰り支度する先輩達を待っていた。
 最低でも自分が食べられる物なら無駄にならない、と思いながら。



 東京は夜の八時。フォーシーズンズ椿山荘にある料亭の一室。
 伸の奢りで設けた、その場に間に合うように彼は帰って来たけれど。明日は秀が予約した居酒屋に仲間達が集まるので、今日はふたりだけで外食、そのスケジュールは予定通りになったけれど。
 和懐石の個室にて、給仕の女性が下がった後、伸が渋い顔をしながら差し出した物を見て、目を丸くしながら征士は言った。
「これはまた…、激しく見当違いだな」
 某有名百貨店の見慣れた包装紙と、中の可愛らしい箱を開いてみると、そこには小さなパールの付いたピンキーリングがあった。やはり伸の主張は通らなかったようだ。
「最悪だよ!。着いて来られてしょうがないから、お酒か何かにしようと思ったのに、6月生まれだからパールがどうとかって、勝手に押し付けられたんだっ!」
 ああせめて口に入るものだったらと、あれほど天に祈ったのに、お値段的にも痛い出費となって伸にはさんざんだったようだ。今思えばもう最初から、花屋にでも行けば良かったと後悔ばかりが頭を過る。
「全く何なんだよ!、いくら先輩だからって、人のこといちいち干渉しないでほしいよ!」
 と、彼の怒りと嘆きは最高潮に達していた。また同時に伸の職場が与えるストレスも窺える。大方見た目の可愛らしさに騙され、ちょっかいを出されまくっているのだろうと。恐らくその内、爆発して周囲が驚く様子が目に浮かぶようだった。そして征士は笑うしかなくなっていた。
「クックッ…、ハッハッハ…」
「ああ?もう、ナスティにでも送ってあげるよ、ホントに…」
 取り敢えず、社会人となっての恩返しの意味で、贈れる相手が居るだけマシではあったが。
 そう、今日は征士の誕生日と内定祝いのみならず、社会人となった伸の初めての特別な夜だった。まあまだそれが板に付いた自覚がある訳でもないが、自ら働いて得た報酬の使い道を以前より、真面目に考えるようになったところだった。
 我を忘れて騒ぐのも良いが、その予定は別にあるのだし、機会にかこつけて大人らしい時間の過ごし方を考えたかった。都心の中の静かな日本庭園、ライトアップされた樹木や枯山水を窓に見ながら、落ち着いた流れの中で会話を愉しみ、杯を酌み交わそうと思っていたのに…。
 それが何故こんなことになったんだ、と伸の気持は収まらないままだった。すると征士が、
「正直すぎたな」
 と、まだ可笑しさを押さえられない様子で言った。
「は?」
「『世話になった人へのお礼』だとか、幾らでも言い様はあっただろう」
 正直、と言う言葉に伸は一瞬思考を止めた。何故ならこの失敗は、伸が適当な嘘を吐いたのが原因だからだ。いい加減なことを言って、却って立場を悪くするようなことは二度と御免だ、などと反省していた中で正直とはこれ如何に。
 けれど彼は、征士の言った意味にもすぐ気付くことができた。
『もしかして彼女へのプレゼント?』と聞かれ、そうした存在が居ることを隠したい気持はなかった。例え相手が男だったとしても、否定したい気持は働かなかった。確かに征士の言うように、知人へのお礼でも、父の日のプレゼントでも、そこまで面倒なく誤魔化せる話はできたのに。
 意外に自分はそこにこだわっている、と伸は感じる。
「まあ、ね…」
 否、声を大にして言えないことだからこそ、心の内で常に確認しているのかも知れない。自分の気持がいつも、誰の方に向いているのかを。
 と、己の不思議な思い違いを考えていた伸は、何処か含みのある様子で見ている征士に気付く。
 その途端、
「それはもういいから!。君は今日はどうしてたの?。何かいいことあった?」
 征士が読心していたとも思えないが、気恥ずかしくなって、伸は話の流れを故意に壊すように騒いだ。と言うか、自分が恥ずかしい目に遭う為にこの場を設けた訳じゃない。征士のお祝いをする為じゃないか、と彼は俄に明るい話題を探し始める。
 けれど征士の今日一日は、
「いや、当麻には当られるわ、雨に降られるわ、特に良い日でもなかったな」
 との返事だった。そう、下手な話をして噛み付かれる、まだ二度しか着ていないスーツは泥撥ねで汚れる、事実あまり良い日ではなかった今年の征士の誕生日。
 軽く溜息を聞かせる彼の様子を見ると、結局伸もしんみりした気分になり、
「それでこれじゃがっかり倍増だね」
 と、勘違いのプレゼントを眺めながら呟いた。
 ところが、何故か征士はそこでにこりと表情を変えて言った。
「いや、それで良いんだ」
「えぇ?」
 そして、それまで俯き加減にしていた姿勢を正すと、身振り手振りを加え、正に演技を見せるように征士は続けた。
「私は恵まれた身の上であるが故、下々の不平不満を受け止めて生きねばならぬ」
 何言ってんの??。
 と伸は瞬間的に思ったけれど、解らなくもない、征士の言わんとしていることが、彼なりの悩みであることは解らなくない、と次には感じ取っていた。
 つまり帳尻合わせと言う訳だ。本人の言う通り、否、本人はそうは思っていないだろうが、征士と言う立場は色々と羨ましく感じる面がある。単純に容姿や人格、能力、家柄等を考えても、あらゆる世代のあらゆる人に受ける要素を持っている、と言えると思う。世の中にそうした人間は確かに存在する。
 だがそんな人々も、何の努力もせずに今の立場を得ている訳じゃない。酷い苦労をすることなく、無意識に優遇されてしまう面は確かにあるだろうけれど…。
 と考えると、征士のした時代劇のお殿様のような演技は、全くそのもののように見えて来るではないか。
「君には似合い過ぎるよ、その台詞」
 伸は裏のない様子で笑った。
「そう思うか…?」
 そして、伸がそう思うなら当麻の言ったことも、言い掛かりではなかったことを征士は覚る。
 もしかしたら本当に周囲の人々が、良家のおぼっちゃま的な気風を感じ取り、何かと計らってしまうのかも知れないと思った。自分をそうと評価したことはないが、他人がどう見ているかは判らないものだ。与り知らぬ内に担ぎ上げられ、自然に組みする者と敵対する者が現れ、常に周りに執りなされている状態なのかも知れないと。
 学生の内は気付かなかったが、社会の中では、何とお目出たく悩ましい身の上だろう。

 だが、伸や親しい仲間達が、気を遣わずにいてくれるならそれでも構わない。
 征士の思考は結局そこに落ち着けたようだった。
 誰も皆、注目されたい時もあれば、砂粒のように浜に埋もれていたい時もあるのだから。

「あーあ、また降って来そうだ」
 征士の面白発言から、今はもう詰まらないことを考えるのは止めた伸が、窓の外の濡れた中庭を眺めて言った。隅々まで手の入った日本庭園の、青々とした牡丹や紅葉の葉の合間に、やや色褪せたツツジや紫陽花の花が、夜間照明に照らされ艶やかに光っていた。
 そこに一筋、夜空を切り裂く稲妻が映る。
 その一瞬の電光を見ては、傘を用意したり洗濯物を取り込んだり、野の動物達は怯え隠れたりするものだけれど。
 それ程光は、生物の行動に影響する要素なのかも知れない。と伸は思った。









コメント)お判りの通り、前の小説(早花咲月)から三ヶ月後の話です。前の話もほぼコメディでしたが、今回も楽しい流れを心掛けながら書きました♪。
 ところで前半の方で、当麻が就職に文句を言ってる部分がありますが、あれは実際そう言う状況なんだと、知人から聞いた話です。余程お金のある家の人でないと、おちおち大学に残れないと言う。現代は秀才君もなかなか希望の仕事に就けなくて大変ですね(^ ^;。



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