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嘆きの翼
#4
My Little Kingdom



 町の目抜き通り、賑わうはずの商店街が昼間より静かに感じられた。
 夕食時を前にそれも妙な様子だったが、まだ明るさの残る夕空には、モンハラードの町の中心から立ち昇る、長い煙の帯が白く棚引いていた。
『何だあれは?』
 午後五時半を少し回ったところ、当麻がそこへ向かう時間としては適当かも知れない。そして彼が広場に近付くに連れ、人の異常なざわめきが辺りに満ちて行った。集う人々の隙間からは炎の色が見えた。まさかこれだけの者が焚き火で暖を取るでもあるまい、この騒ぎは一体何なんだ?。と、当麻は嫌な予感に駆られて人混みを分け入る。
 そして漸く彼の視界が開けた時、中央広場には確かに焚き火と薪木の山があった。その他には、幾つか立てられている松明と油壺、急拵えのような木製の台がひとつ設置されている。一見それは演説にでも使われるように見えたが、当麻はすぐにその事情を呑み込むことになった。
『火刑台か!?』
 何故ならその焚き火の向こうに、一本の無垢の丸太と、周囲を役人に囲まれた王の白い服が見える。何が行われるかを想像するのは容易かった。
『こんな、魔女狩りみたいなことをまだやってるのか、ここでは!』
 そして当麻もまた覚っていた。今はまだ五時四十分頃の筈、議会が閉会して数分しか経っていない内に、もうこんな準備ができているとすれば、予め全てを決定していたとしか思えなかった。そう、沙汰を話し合う会議など見せかけのもの。大臣達は始めから、王宮側の言い分にも、国民の意見にも耳を傾けるつもりがないのだと。
 そしてふと思った、今どよめきを以って広場に集っている、モンハラードの住人達は何故声を上げないのかと。この国を長く治めて来た穏やかな王家と、大した罪もない王子が虐げられているのを、何故黙って見ているのだろう。それとも大臣達と同様に、皆が皆王家など絶えれば良いと思っているのか…?。途端、嫌な気分が喉元に込み上げて来た。
「あっ、すいません…」
 けれど、ふと隣の男と肩がぶつかった際、当麻はその向こうに見えた老婆の様子を知り、そうではないと安堵できた。彼女は硬く目を閉じ、曲った背中を尚丸めるようにして、頭巾の下に合わせた手を隠しながら、ずっと何かを呟き続けているのだ。恐らくそれは祈り。誰への祈りか、竜への祈りか、只管にそれを続けている力の無い民の姿。
 恐らく誰もがそうなのだ。
 聞いたように、王家の親族まで次々暗殺されるような情勢だ。大臣達の非情なやり方を恐れて、徐々に歯向かう者が減って行った様子が窺える。だからこんな馬鹿げた祭り上げさえ罷り通るのだろう。所謂恐怖政治と言うのは、歴史上では結局長くは続かないものだが、今ここに生活するモンハラードの市民には、目の前に突き付けられた死活問題だろう。
 だから誰も王宮の味方ができない。内心では議会に反感を持っていても、声を大にしてそれを訴えることができない。こんな小さな国では、どんな活動もすぐに見付かってしまう上に、近隣には援助を頼める第三者も存在しないのだ。
 伝説の飛竜の王国は、外界から切り離された孤高の王国。
 だからと言って、このまま黙って見ている訳にもいかない。
『他の奴らは何処だ?』
 当初の目的を思い出し、当麻は再び人混みを掻き分けて進んだ。

 群集が一際大きなざわめきと奇声を上げ始める。場に何かの動きがあったことは感じられたが、人集りに埋もれる当麻の耳には、広場の中央で役人が話し出した、その内容が殆ど届かない程だった。否当麻がそうなのだから、多くの者がろく聞こえていなかっただろう。議会寄りと思われる集団が、民衆を煽って騒ぐ様だけは見て取れた。
 すると程なくして、広場に集まる五つの通りのそれぞれに、作りの立派な竜車が数台ずつ到着するのが見えた。その扉が開くと、中から大臣と思しき者達が次々に降りて来る。勿論だがこのイベントは、主催者が揃わなければ始められないだろう。彼等はこれ見よがしにきちんと正装をして、広場の壁面に沿って一列に並び始めた。まるでこれを、国の正式な行事と認めさせようとする態度だ、と当麻は思う。
 その時ふと、道の奥に停められていた一台の竜車から、降りて来た数人の中に、当麻は見覚えのある姿を発見した。咄嗟に彼はその傍へと寄ろうと人を分け進む。
 ところが、もう間もなく群集の外に出ると言う時、
「当麻!、来るなっ!」
 彼に気付いて牽制した秀の声が、瞬時にその動作を止めさせた。秀の発する必死の緊迫感が確かに伝わっていた。そこに見付けたふたりの様子を当麻は、暫し驚きの中で見詰めている。
「おまえ達しか残ってないんだ!、頼む!」
 そしてリョウがそう叫ぶと同時に、彼等の周囲に居た兵隊が当麻を目がけて飛び込んで来た。彼は慌ててそれを躱しながら、群集の中を縫うように逃げて行った。ここは逃げるしかなかった。別行動をしていた間に何が起こったのか、リョウと秀は議会側に捕らえられていのだ。この上自分まで掴まってしまえば、もう何の手も打てなくなるだろう。
 しかしこんな時に四人が二人になってしまうとは。
 当麻は知らないことだが、彼等ふたりは一度広場を離れた後、シンが置かれていた大臣宅の傍に潜んでいた。前途の通りシンが外に連れ出される時を狙って、彼を奪い返すつもりだったのだ。しかし段取りもろくにされていない、たったふたりの襲撃に屈する程の、柔な警備体制ではなかったようだ。普段は警備員を配置していない大臣宅としても、今は大事な主役を守る義務があったのだから。
 そうしてふたりは、国に対する謀反人として捕らえられ、手に縄をされて、この中央広場へと連れて来られたのだった。王の処刑の後には、同じように後を追わせるつもりかも知れない。そして見慣れぬ異邦人は皆その一味として、捕まれば同じ道を辿ることだろう。

 これで、助けなければならないものがふたつになってしまった。
 ただでさえ不利な立場に人数を半減させられて、もう何ができるとも判らなくなった。当麻は漸く広場を埋める人波を抜けて、目の前に現れた例の灌漑設備の裏に隠れた。暫く様子を見ていたが、付近に追っ手の気配は認められなかった。ひとまずそれで息を吐くと、ふと、設備の銅版の接合部分に、工具か何かで空けられた穴があるのを見付ける。
『まったく、下らないことをしてくれる』
 わざわざ証拠まで作って国民を納得させたと言う訳だ。否、あの時本当に現場を見ていた住民なら、これが誰の仕業かはすぐに判っただろう。でも彼らがそれに異を唱えられない事情はもう、解り過ぎる程解っていた。
 さてそれでどうする、と当麻はもう一度冷静に戻って考え始めた。もう自分と征士の他は誰も動けなくなっている。ある意味では自分も動けないと言って良い。それで何ができる?。否、ここには大臣達を良く思わない民衆も多く居る筈だ、ひとりでは何もできない彼等も、これだけ数が居る今なら動いてくれるかも知れない。この広場の中央で何らかの行動を起こし、王家を守る行為に人々が同調してくれればいい。
 混乱が起これば、少なくとも今日の処刑だけは免れる筈。征士が今ここに居るのか居ないのか、処刑が始まるまでに連絡を付けなければ…。
『何処に居るんだ、征士!』
 当麻は出て行けない身をもどかしく思い、又心中では焦る気持を必死に押さえていた。
『おまえが来なければ何もできない、おまえが守りたいものはみんな失われてしまうんだぞ!』
 今も生き続ける飛竜を見たいと言って、この国を目指していたのは征士だった。今思えば彼の一途な思いこそが、ここにアスールの三人を導いたようなものだ。彼が何かをしなくてはならない、彼がここに現れなければ何も状況は変えられない。
 そんな、定められた運命のようなものが、今の当麻には見えたような気がした。

 けれど時間は無情にも過ぎて行く。

 一度は落ち着いた群集が再び騒がしくなっていた。木を組んで作られた台の下には、用意された薪が小山のように積まれ、上から注がれた油がきらきらと、その表面に炎の影を映し出していた。今その台の横に、丸太の柱を立て終えたところだった。労働を済ませた警備兵達は、完成した火刑の場を確認するように一通り眺めて、またきびきびとした動作で退散して行った。
 もう間もなくその時が来ると、誰もが息を呑むようにそれを見詰めている。
 そして裁かれる者を囲んでいた役人達が動き出した。
「どーなってる、どーなってんだよっ!」
 今は処刑台のすぐ脇へと移動させられた、秀が青褪めながらそう口走っている。
「・・・・・・・・」
 リョウは最早言葉が出なかった。目もまともに開けていられない様子で、じっと己の口惜しさを噛み締めているように見えた。ふたり共、こんなに近い場所で見ているだけで、何もできないことをそれぞれに苦悩している。
 本当にもう何にもできないのだろうか。
 シンを真ん中に、迎えに来たのと同じ役人達が周囲を囲んだまま、ゆっくりとその一団は台の横まで歩いて来た。そして次にはシンを先頭に、一列になって壇上への階段を昇って行く。シンの様子は、窮地を前にして怒るでも取り乱すでもなく、まるで表情のない人形の様に、ただ大人しく役人達に従っているばかり。こんな時には、何と心の強い人物だと思えるではないか。
 世が世なら、こんな扱いを受けるべきではない人物なのに。
 しかし壇上では役人達の事務的な手の動きが、無抵抗なシンの体を速やかに丸太に縛り付けて行く。彼等には最早、この国に真に必要な『心』が見えないのか。他国との流通もない小国を、暴力で治めることに何の意味があると思う。国内の決まった資源を共有し、喜びも苦難も全て王家と国民が分け合うことが、このモンハラードの穏やかな歴史だったのだ。
 と、
「やめろー!、貴様ら何をしているのか、自分で解っているのかっ!!。正気でこの国を滅ぼすつもりかーっ!!」
 最後の足掻きとも取れる、リョウの叫びが辺りに谺した。
「そんなことをすれば、二度と雨竜も戻るまい!。裏切り者の役人共になど、雨竜でなくとも誰が恵みを与えるものか!!。みんな干涸びて滅びてしまえ…」
 しかしそれも言い終わらない内に、数人の兵士の暴行に拠って止められてしまった。ささやかな抵抗の末ぐったりと横になった彼を、秀はただ悲しそうな顔で見詰めていた。群集の中には、彼の言葉に心を痛めた者も居ただろうが、更に追い打ちを掛けるような怒声が次第に、彼等の周囲を取り巻いて行く。何故こんなことを言われなければならない、と言う程に。
「滅びるのはおまえ達だ!」
「もっと早くこうすれば良かったんだ!」
「王子は生け贄になればいい、王子が餌となるなら雨竜も来るかも知れない」
「来なければどうせみんな死ぬんだ!、何が悪い!」
 困窮と遣り場の無い怒り、長く続く生活上の苦しみから生まれた憎悪が、多くの人々の心を荒ませているのが判る。誰もが待つことに疲れ、押さえ付けられた環境にも苛立っているのだろう。だから彼等はもう、王家に関わる者の声を聞こうとはしない。焚き付けられた感情に揺さぶられる人々に、この悪い流れを止めることは望めない。だからシンは何も話さないのか…。
 秀が再び顔を上げる頃には、その場の準備がすっかり整えられ、役人達はそれぞれの持ち場に散って、その手には高々と松明を掲げていた。薪の山のすぐ横に居る役人が、ちらちらとシンの方を窺っているのが判る。恐らく処刑の火を焼べるのは彼なのだろう。シンは頭を下げ、既に死人の様に力無く肩を落としている。もう他の展開は想像できなかった。
 もうあと数分、数秒。否火が投じられた後でも、助ける方法が全く無い訳ではない。
 何も起こせないのか!?、と秀は残るふたりを呼ぶように念じた。
 ひとりの役人の、松明を持つ手がゆっくりと下ろされて行く。

 もう駄目だ。

『もう駄目だ…!』
 と当麻が思い、暫く隠れていた場を出掛かったその時、通りを駆けて来る誰かの足音が、嫌によく耳に聞こえて来た。これ程群集の騒ぐ中その音だけが、何故だか彼の耳にはっきりと聞き取れたのだ。
 瞬時に、この機会を逃してはいけない、と思った。
 運命は科学的には説明できないものだ。だから振り向く前に当麻は叫んでいた。
「征士ーっ!、王が殺されちまうーっ!」
 最早誰も彼等に注目はしていなかった。火を放たれる直前の、火刑台に全ての意識が集中していたからだ。当麻のその声に反応したのは、呼ばれた本人と秀だけだった。そして漸く征士の目にも、目前に迫って来る様子が確と捉えられた。薪木の山の上に、丸太に括られた不遇の王子が立っている。いつか見たような醜い炎がそこに放たれ、再び彼を炎で包み込もうとしている。
『やっと、竜達の言葉が聞こえたと言うのに…!』
 一度謀略に拠って焼き払われた正義が、再び憎悪の中に呑み込まれようとしている。そんなことが、
『そんなことがあってはならないのだ!』
 征士は黒だかりの群衆の中の、白い衣を纏ったただ一点を見詰めて、走っていた。

 そして、
 振り返った当麻は信じられないものを見ていた。
 走って来る人間の姿が、手が、足が、見る見る変化をして、いつか図鑑の挿し絵で見た飛竜にそっくりになった。否それは正に飛竜だった。
 そして広場の群集の上を掠めるように、そのまま広場の向こうへと飛んで行ってしまった。
「…何だ?…」
「おいっ…、雨竜だぞ!」
 気付いた者が口々に話し始める。執行役人達もはたとその手を止めて、薄暗くなった空をキョロキョロと見回し始めている。間もなく、翼を広げた巨大な影がそこに戻って来ると、今度は集まる者達を威嚇するように、幾度も低空を薙ぎ払いながら飛んだ。
 処刑イベントはすっかり中断され、広場の人々の様子が見る見る変わって行った。もう王の処刑などどうでも良い、大切なのは何より飛竜の方だと言うように。それだけ、飛竜の存在が絶大な力を示すことを、現実を以って当麻は知ったけれど。
 壇上のシンも人々の声に顔を上げて、すぐ横を通り抜けて行く、懐かしい飛竜の姿をその目で捉えていた。そしてよく見ると、その背中には痛々しいような、大きな火傷の跡を背負っていた。
『やっぱり、死んでなかったんだ…』
 あの火事の後に、飛竜の親子は共に死んだと聞かされていたけれど、確かに死んだと知っていたのは親の方だけだった。その後知らぬ間に亡骸は片付けられ、倒れていた子供の飛竜がどうなったかは、誰も教えてくれなかった。否、誰も真相を知らなかったのかも知れない。
 きっと、その傷が癒えるまでの間、親の飛竜が何処かに隠してしまったんだろう。
 そしてシンには、何故これまで彼等が戻らなかったのかも、同時に理解することができた。もうこの飛竜は子供ではない。親の羽影に寄り添っている時期を過ぎて、ひとりでひとつの国を守れるものになったからだ。だからこうして自分の土地に戻って来たのだと。
 王家が続いて来たように、飛竜達の家系もまた続いて来たのだから。
 暫く威嚇を繰り返していた飛竜は、次にシンの括られた丸太の上に器用に掴まると、ギャアギャアとけたたましく鳴きながら、その嘴の先に電気を集め、松明を持つ周囲の役人の腕を焦がした。その一瞬で男の腕は爛れて下がる腐肉と化し、辺りには焼けた人肉の異様な臭いが漂う。人々は長く目にしなかった飛竜の力に、懐かしい畏怖の念を思い出し始めた。竜達はただの動物ではない、この世界を裁く力を持つ神なのだと。
 そして、恐怖に忽ち逃げ腰になった役人、兵隊、壁際に張り付いた大臣達の周囲に、次々と雷電の雨が降り注ぐ頃には、もうここで何が行われていたかも判らない、完全な混乱状態に広場は陥っていた。
 我に返って立ち尽くす群集の中から、
「王子を下ろさなければ、みんな殺されるぞ!」
 との声が上がる。誰もがこの状況を理解した様子が窺える。
 軍配はどちらに上がっただろうか?。
 否、雨竜はただ王子を守りたかっただけだ。子供の頃から友達だったのだから。
「よ、良かった…」
 リョウも仰向けに寝転んだまま、その奇跡的な光景を見詰めていた。シンの繋がれている丸太の上に今、長く待ち続けた飛竜の姿が在る。やはり竜達は正しい者の味方だと、昔も、今も尚変わらず信じられるではないか、と。そして民衆が恐る恐る丸太の立つ場所に近付くと、飛竜はその動きを確と捉えた後、そこを離れて空の高みへと昇って行った。
 今も尚信じられる。
 勇気ある人々の手に拠り、漸く地面へと下ろしてもらえたシンの元に、秀はすぐ様駆け寄って行った。まだ後ろ手に縛られたままだったが、見張りの兵士は姿を消した後だった。
「良かった!、良かったな、王様!。飛竜が来たじゃねぇかっ!」
 泣きながら笑っていた秀の真上。
 その飛竜は今、くるくると町の空を旋回していた。住民達の目には何とも懐かしい光景、モンハラードの空にはいつも、こうして飛竜が飛び回る様子が見られた筈だった。
 それから暫くすると、遠くの空から近付いて来る轟きの音、一瞬辺りを照らす稲光りの鬩ぎ合いが始まっていた。確かな予告。もうすぐここに雨が降る、この国に十年待ち続けた雨が降る予告だった。人々からは静かな歓喜が沸き始めた。
 倒れていたリョウを半ば背負うようにして、当麻がやっとシンを囲む輪の中へ合流する頃には、彼等の手や頬の上にポツリ、ポツリと雨粒が感じられるようになっていた。もう空は一面、厚く黒い雨雲にほぼ覆われてしまった。焚き火の明かりが無ければ、この広場はただの暗闇になっている筈だった。
「大雨になるぞー!」
 やがて誰ともない警告の声が響くと、茫然としていた者達も、喜びに踊る者達も、民衆は散り散りになって家路を急ぎ始めた。長く雨対策をしていなかった民家には、それぞれ思い当たる心配事があるのだろう。そして、結局誰が何をしようと、人間のすることに大した威力はないものだ、と、当麻はその様子を見て皮肉に笑った。
「…王宮に戻りましょう、陛下」
 リョウは精一杯の声を出してそう言った。
 激しい雨風、土砂の流れ、そんな自然の振舞いからは、誰も逃れることはできないのだから、人間は屋根の下に大人しく隠れなければ。
 いつも驕ってはいけない。神の恵みとは常に、何処の話でも吉凶両道に解釈するべきなのだ。



 それから、雨は一週間降り続いた。
 モンハラードの町では突然の豪雨に、雨漏り、浸水、住居の倒壊等の被害が次々に報告され、川の下流では大きな氾濫が起こっていた。正に十年分の雨が一挙に降ったような勢いだった。
 その前に、
 中央広場から王宮へと戻ったシンは、その玄関口で、顔触れがひとり足りないことに気付いた。アスールの客人達は常に三人で行動していた筈、リョウはともかく、何故誰も彼のことを言い出さないのだろう、とふと思った。
「もうひとりはどうしたの…?」
「えっ、えっとぉ…」
 シンはすぐ横に居た秀に尋ねたが、何故か彼は口籠りながら困っている。秀には遠目だったこともあり、自分の目で見たことは何なのか、自分でも理解に苦しんでいるようだ。広場の何処かから当麻が征士を呼ぶ声が聞こえ、その方向を探すと征士らしき人が、広場の向こうから走って来た…
 そして秀の代わりに当麻がそれを答えた。
「あいつが飛竜だったんです」
 三人がここに来て二日も経っていないが、当麻と言う人が、こんな時に真面目な顔をして冗談を言うとは、誰も思わなかった。
『やっぱそうなんかなー??』
 又当麻がそう言うなら、それが事実なんだろうと秀も思う。
「どう言うことだ…?」
 取り敢えず玄関口のベンチに寝かされていた、かなり酷いダメージを受けていたリョウだが、その話には流石に関心を示して聞きたがっていた。なので当麻は、信用してもらえるかどうか怪しいとも思えたが、走って来た征士の姿が徐々に飛竜へと変わって、そのまま飛んで行ってしまったこと、その様子を詳しく話して聞かせた。
 そして、
「俺は、アスールでは機械学者を目指していたんだ。だから超常現象なんてものは、これまで全く信じなかったんだが…。見てしまったからには認めるよりしょうがない」
 とも彼は言った。ある意味それは科学の敗北だ、と自嘲するような口調でもあった。否、科学理論を覆す面白い現実に出会えたのなら、それはそれで構わないことだったが。
 或いは、『伝説のモンハラード』だからこそ起こったのかも知れない。
「そういや、征士は変なこと言ってたよな。昔はこうじゃなかったとかってよ?」
 と秀が、もう昔にさえ感じられる今朝の会話を思い出す。過去のモンハラードを知っていた征士。そう、それも今となってみれば、大体説明が付くのではないだろうか?。
「だからここに来たがってたんだろ」
 当麻が当たり前のように答えた理由も、征士が本当の親を知らないこと、子供の頃からこの国に関心を持っていたこと、それらの話を総合して言えることだったからだ。科学的ではないが理論的ではある、と。
 そこまでを大人しく聞いていたリョウは、
「…人間と竜の間の子なんて、居るんだろうか…」
 まだ確信を得られない様子で、天井をぼんやり見詰めながら呟いている。まあ確かに、見た者と見ていない者との理解の差は、この場合天と地程にも違う筈だった。けれど、
「違うよ」
 と、何故か見ていないシンが答えていた。
 彼は彼なりに、嘗てこの国に居た飛竜と征士の繋がりを信じられたようだ。何故なら征士は何と言っていたか?。この国が変わってしまったのが悲しいと、戻せるものなら戻したいと言った。そんなことを一般の、ひとりの人間が普通に考えるだろうか?。その思いにそこまで苛まれるだろうか。
 瀕死の状態だった雨竜の子供。それをどうにか生かそうと、同時にこの国にはひとつの試練を与えようと、親の雨竜は考えたに違いない。そして子供はアスールに隠されていたのだ。ひとりの人間として。時が来ればここに帰って来ると知っていて。
 この世界の竜ならばそのくらいの芸当はできよう。
「…行こう」
 とシンは言って歩き出した。思い掛けないことに秀がキョトンとして尋ねる、
「えっ?、何処に?」
「彼を探しに行くんだよ、もし人間に戻ってたりしたら、こんな雨の中じゃ今度こそ本当に死んでしまうかも」
 するとシンは振り向いて笑っていた。確かにそうかも知れない、こんな事例はモンハラードにも未だ嘗て聞かない話だった。何が起こるかは誰にも予想できない、けれど後の幸福が運ばれて来る予感だけはある。だからとても大事だ、とシンは言葉にせずに言っているようだ。
「お、俺も…」
 しかし、シンに同調して体を起こそうとしたリョウには、
「おまえはいいから寝てろ!、俺達も行くんだからそんな心配ねぇだろ」
 と言って秀が宥めていた。もうひとりで頑張らなくてもいいと、言われたばかりだっただろう。 まずは彼等から、王宮を支えてくれる者は増えて行く筈だった。それこそが明るい兆しだ。
「それよりコートか何か貸してくれよな!」

 それから、暫く雨の中を散策した結果、征士は雨竜の泊の溶け出す霜の上に眠っていた。

 そして一週間後、雨の上がった王宮の庭は、世界が生まれ変わったような美しい晴れ間を見せていた。萎れていた草花が真直ぐに背を伸ばして、明るい緑の若葉を付け始めている。枯れていた樹木も古い葉を洗い落とし、本来の姿を回復する準備をしている。庭中の窪みや鉢の全てに、久しく見なかった水溜まりができて、枝から落ちる雫の音が切りなく鳴っている。
 決して珍しくはない雨上りの景色。しかし命に取って何より大切な時間の始まり。
 竜達が守っているこの世界の法則。
 瞼の上に光を感じた。窓の桟から落ちる雫の音が聞こえていた。
「…雨が降ったのか…?」
 征士が薄目を開けて、目の焦点を徐々に絞って行くと、そこには見慣れたふたりの顔があり、穏やかな様子で笑っているのが見えた。
「ああ」
「飛竜が来たんだぜ!」
 そうか、と征士は安心した様子で、再び眠りに就くように目を閉じてしまった。
「・・・・・・・・」
 ところが、
「それは本当か!?、おまえは見たのか!?」
 途端に跳ね起きて秀の服を掴んでいた。
「…み、見た」
「なっ、何たることだ、どうして私は寝ていたのだ!」
 そして征士は必死の形相で狼狽えているのだ。
「憶えてないのか?」
 そんなことがあるか、と些か疑いつつも当麻が尋ねると、征士は訝し気な当麻の態度を撥ね除けるような勢いで、
「憶えて?、憶えていたらこんなに悔しいものか!」
 と殆ど怒鳴って返した。まあ、彼に自覚がないのなら、憧れていた飛竜を自分だけが見られなかった事実は、大変苦いものだっただろうが。
『憶えてないんだ…』
 その声を聞き付けて、テラスから窓辺にやって来たシンもまた、征士は不思議な存在だと改めて思った。人の姿をしている時には、恐らく人の意識が支配しているのだろう。ならば飛竜である間は逆に、人間の意識を失っているのかも知れない。竜は他の動物とは違った生物なのだ、そうなってしまうのも特に不思議ではない。けれど同位の存在であるが故に、誰よりも竜達のことが解る人間ではないか?。
 この世界の竜のことをより多く、人間に伝えてくれるのではないだろうか。
『だから彼は大事だ。いや、ずっと昔から友達だったんだから』
「…前に話したけど、僕が子供の頃に仲良くしていた雨竜が戻って来たんだよ」
 シンは開けられた窓越しに、征士に向かってそう話した。その変わらず優しい声色を耳にすると、征士は腹の立つ思いを沈めて問い掛ける。
「それなら…、ここに居たらまた来るだろうか?」
「うん。君の好きなだけここに居るといいよ」
 雨竜は恐らくもう何処に行かないが、征士がそれを見られるかどうかは、ぼかして答えるしかなかった。否、いずれ他の雨竜なら見られるようになるだろう。この国に戻った飛竜に、彼に挨拶をしに来る者が、必ずやって来るようになる筈だった。



 更にその後の話。
 アスールからやって来た三人は皆、特にすぐ帰りたいとは言わなかった。シンの計らいで彼等は、王家の特別な家臣として働くことになった。
 秀はリョウと共に近衛の兵士に、当麻は本人の希望で、町の整備を監督する技術指導官になった。まずはどうにかして温泉を掘り当てて、例の温水暖房を改良するつもりだった。この国には必要最低限と思えるものさえ、未だ揃っていない現状を彼は見て来た。手を施せそうな題材は山程あるので、休む暇もない程忙しくなるだろう。
「いいのかよ〜」
 との秀の問いには、
「俺は合理主義者だが、無責任な男じゃないんだ。ここはもう安心だと納得して帰りたい」
 と答えていた。まだ若い彼等には、そのくらいの時間は充分に残されているだろう。又『伝説の国』で何かを成し得たとすれば、それが最大のお土産になるだろうから。
 そして、征士はアスールの歴史や文化を伝える、外国特使の立場になった。と言っても実はシンの遊び相手のようなものだ。何故なら、王宮には元の家臣や使用人が戻り始めて、毎日決まった時間帯に勉強会等を開く以外に、彼には大してする事もなかった。又シンは何処へでも彼を連れ歩くので、事情をよく知らない者には側近のように思われている程だ。
 シンならば恐らく、子供の頃と同じようにしているだけだろうが、征士はこの状態に戸惑うばかりだった。何故自分はこんな風に親し気に、特別扱いをされているのかと。
 別段嫌な気はしていなかったが。そして彼には一生その理由は解らないかも知れない。
 何故この国と、正統な血を引く王を守りたいと思うのかも。

「君は雨竜の泊によく行くね、何が気に入ったの?」
「ああ。あそこは本当に神の場所だと思う、世界中の竜達の声が聞こえるのだ」

 伝説の国モンハラードに、もうひとつの伝説が加わった。









コメント)大体予定通りに書けてホッとした、と言うところです。しかしリクをくれたどむさんにはどうだったのでしょうっ、不安ですっ、これを征伸と言っていいものやら、のまま終わってしまいましたし(笑)。でもいかにもカップル〜みたいなものより、この程度の方がお好きかな?とも思いましたが。
何となくファンタジーになっていれば幸いです。あ、ところで私、書き始める前に自分で疑問に思ったんです、これじゃ征士の代で直系の飛竜が絶えるのか?、と。話には出て来ないとしても、それをクリアにしないと気持悪かったので、そうだ!、シンが卵を産むことにしよう!、と勝手に納得して書き始めました(笑)。それでもいいですか皆さま…?。
それにしても、電気を操る飛竜を征士にした時点で、なんてハマってるんだこの話!と、自分で笑えました。元々あったネタを改造した話だけど、元ネタよりずっと良くできたような気がしてます。尚、元の話と同じなのは学生が潜水艇を作って、伝説の国を探しに行くと言う出だしと、伸がそこの王子だ、と言う部分だけなんですけどね。いやホント、竜の世界は思い付きで書いた割にすっごく楽しく書けました。良かったです。


この話を読んで「何処かで見たな?」と思った方へ
(2011.7.17の日記より)
一昨日の夜になっちゃいますが、「ゲド戦記」の放送を見てびっくり!。
自分が書いた「嘆きの翼」と言う話とネタが同じ(苦笑)。
話自体は全然違うけど、オチがそっくりで驚きました?。偶然似たような話を作ってしまうことはあるもんですね!。
私は、原作者のル=グインの本は、一番有名な「闇の左手」は読んだけど、ハイファンタジー(竜、剣、魔法などがメインのファンタジー)にはあまり興味がなくて、「ゲド戦記」は読んでないんですよー。
だから放送を観たんだけど、内容を知ってたら流石に同じネタの話は書かなかったわ(^ ^;。
ちなみにこれまで読んだファンタジー小説と言うと、ミヒャエル・エンデの一部、アン・マキャフリーの一部、「指輪物語」の最初の方、日本の作家の本少々と言う程度。
ホントに数を読んでないので、知らずに書いてしまうことの怖さをちょっと知った感じ…。
いや、怖さより楽しさが勝るかも。ル=グイン先生と同じネタを考えてしまった、と言う事実が。



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